新年、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
BUILD UP LOCAL、番組ラビゲーターの常田幸永です。
この番組は、30年のスポーツ界でのキャリアを経て、現在は地域金融機関に勤務している私が、
ゲストの皆様とともに、スポーツを通じて街を豊かにしようという番組です。
さて、今月のマンスリーゲストは、特定非営利活動法人日本オリンピアンズ協会の会長で、
元アーティスティックスイミング日本代表の小谷実可子さんにお越しいただきました。
小谷さん、どうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
初回は、小谷会長ご自身のことを、いろいろとお聞きしたいと思うのですが、
小谷さんといえば、アーティスティックスイミング界のレジェンドということで、
そしてソウルオリンピック同メダリストということですが、
またオリンピアンズ協会の会長とは別に、いろいろな要職を務められていますよね。
これっていくつあるんですか、今。
今、新しいものが始まったり終わったりというところではあるんですが、
10プラスアルファぐらい。
スポーツ界のいわゆる役職ですね。
大学の非常勤とか、シンクロチームのコーチとか、そういうことは抜きにして、
スポーツ界の役職で、JOCだったり、もちろん日本オリンピアンズ協会OAJだったり、
アジアオリンピック協議会OCだったり、国際オリンピック協会IOCだったり、
3文字が多いんですけれども、国内外を含めると10以上の役職を務めています。
すごいですよね。
今日は日本オリンピアンズ協会の会長というお立場で、
こちらにいらっしゃっておりますけれども、
時間とかタスクとかのマネジメント、この辺って結構大変なんじゃないですか。
大変ですね。
大変ですけれども、コロナの後から会議もリモートでできるように
なりましたよね。
それがあるから、なんとかやりきれているなと。
また今、マスターズの方にアスリートとして挑戦しているんですが、
その分、そういう役職や仕事以外に、
スイッチでトレーニングする時間がすごく増えたんですね。
移動がさらに多くなったので、移動の途中で車の中でオンラインに入ったりとか、
あるいは、もう夕べも本当に遅くまで寝ようと思ったらメールがババババンと入ったので、
寝れなくなっちゃうんですけれども、なるべく翌日にやり残さないように。
その日のうちにできる明日のこと、明後日の準備、しあさっての準備できることは、
その日のうちに終わらせて、次の日を楽に迎えるっていう人生をずっとここのところ生きているので、
だいぶ慣れてきましたね。
とはいえ、そのマネジメント力って相当すごいですよね。
速さと集中力だけは自信あります。
でも周りが大変なんですよ。
私がそのスピードでババババンって話を振ったりとか、お願いをしたり、
これよろしくねとか、これ返信は?ってやると、私のスピードでなかなか返事が返ってこないことが多いんですね。
それがでもだんだん急いでもらうようになると、前は私は早く投げるけれども、
戻ってくるのにタイムラグがあって時間があったことで、私がふーって一泊できていたのが、
周りの人もだんだん早くなってきてくれたおかげで、ポンと振るとポンと返ってくるので、
日々なんかもポンポンポンポンとやり取りが10弾のように飛び交っていて、
そうやってエネルギッシュに仕事をサポートしてくれるスタッフもたくさん周りにいるので、
力が続く限り、ポジションに必要としてくれる人がいる限り、できることは頑張っていきたいなと思っています。
なるほど、そうですか。ありがとうございます。
さっそく、先ほど冒頭にお伝えしましたけれども、小谷会長はアスリートなんですけれども、
競技自体どんなことがきっかけで、いつごろ始められたのか、その辺ちょっとお聞きしてもよろしいですか。
一番最初は9歳ですね。健康のために通っていた水泳教室、普通に泳ぐ水泳教室の先生の旦那様が、
日本に実はシンクロナイゾスイーミング、今はアーティスティックスイーミングと呼ぶんですけれども、
当時のシンクロを日本に取り入れた方、いわゆる創始者の方の奥様の水泳教室に私が通っていました。
そうなんですか。
その教室ではリズム水泳とか、いわゆる日本泳法のような、ただの泳ぎではない、いろんな泳ぎ方を教えてくださったんですけど、
多分その音楽に合わせて泳いでいる私の泳ぎぶりを見て、9歳の時にあなたちょっとシンクロに向いているからやってごらんなさいって勧めていただいて、
お手本の通り技に挑戦してみたら、結構上手にあっという間にいろんな技が身について、そこまでできるんだったら大会に出てみましょうって言って、
初めて出た全国のエージュグループ大会、10歳以下の部で、いきなり出て優勝しちゃったんです。
それで自信をつけて、自分はこれ才能あるかもしれないと思って、その後中学校から選手生活を始めました。
そうなんですね。ということは9歳から競技を始められて、当時全国大会もあったんですか?
もう本当にわずかですね。年に1回エージュグループがあって、日本選手権とかやっていたと思うんですけど、
今考えるとそんなにまだメジャーな競技ではなかったので、大会に出ていた人も少なく、競技会もプールサイドでレコードで曲をかけたりしてたので、
子供が走ると音が飛んじゃったりとかっていう話も聞きましたけれども、いわゆるマイナー競技であったので、年齢別とはいえ全国大会で優勝できたというのも、
そのマイナー競技だからこそだったのかなとは思います。
でも当時の私はそんなことを思っていないでしょう。私は日本一だと思って自信をつけました。
プールサイドでレコードが飛ぶっていうのは面白いですね。
その後9歳競技を始められて、中学、高校、高校はハイスクールの方はアメリカの方にも行かれたっていうことは聞いておりますけれども、高みを目指してということなんですかね?
もちろんそうですね。当時は世界でアメリカがリードしていましたので、より高いレベルの指導を求めるとともに、私は東京に住んでいて東京シンクロクラブというクラブに通っていたんですけれども、そこはホームプールがなくて、
本当に先生方が手弁当で一般のプールをみんなでプール代を払って、そこに何十人も入って練習をするのが当たり前の環境だったんですね。
でもアメリカは話を聞くとシンクロ専用のプールが町のあちこちにあるって聞いて、もっと強くなるためにはもっと練習しなきゃ、もっと高いレベルに行かなきゃと思って、15歳の時にアメリカ行きを決意しました。
やはり日本もその練習の環境とアメリカの環境は大きく違いますね。
練習環境も違いますし、教え方も当時まだ日本では褒めて伸ばすというのがまだ流行っていないところだったんですね。
なのでアメリカに行ってすごくレベルの高い人たちの中に混ざって自分の演技を見せた時に、まずワオミカコって素晴らしい、あなたのように素晴らしい日本人のシンクロスイマがいるなんて知らなかったわよっていうところから始まるので、苦しいんですよシンクロの練習って息も止めますし。
でもやっぱりやってもやってもまず褒めてくれるので、練習が楽しくって仕方がないっていう、この環境はある、レベルの高い人が周りにいる、それを育てたコーチが目の前にいる、そしてその人が自分を褒めてくれる、そういう日々は楽しくて仕方がなかったです。
選手の能力を伸ばす、伸ばし方がやっぱり違ってたってことですかね。
はい。ミッキーって呼ばれてたんですけど、ミッキー素晴らしいねって言ってもらうことで、やっぱり嬉しいもんですよね。自分からどんどんどんどん練習するようになってましたね。
なるほどですか。分かりました。ありがとうございます。
初めてふっと自分が描いていた夢のオリンピックにいるんだ私っていうことに初めて気がついたわけです。
そしたらもうなんかむしゃぶるいがして嬉しくて、どっかでナディアコマネージも私のことテレビで見てたりするかなと思いながら、すごく幸せな騎士としての開会式の行進をさせていただきました。
騎士も務められて競技の方はソロとデュエットとともに銅メダルという輝かしい成績を残されるわけなんですけども、緊張の中でプレッシャーも当然あったかと思いますけど、どうでしたか?
なかったんです実は。
プレッシャーなし?
すごくいろんな方が注目してくださって、シンクロって84年のロスオリンピックから正式種目に入って、ソウルはその次の大会だったわけですよね。
ロスオリンピックで先輩の元吉美和子さん、木村紗友子さんという方がソロとデュエット2つメダルを獲得されて、当時は日本代表で女子の種目でメダルを取る、そして複数のメダルを取るというのはすごく珍しいことだったので、ロスの後に先輩方の偉業のおかげで、わお日本の女性で複数メダルを取れる種目があるんだ。
ということですごく我々のソウルオリンピック代表に注目が集まって、それのおかげでそれまではずっとマイナーだった関係者しかいないような日本国内の大会にも一般の観客やメディアがわっと押し寄せるようになって、ソウルオリンピックの時ももちろん起床させていただいたのもあるんですけれども、それもあってすごく多くの方が注目をしてくださっていた。
これはマイナー競技出身の我々にとっては本当に嬉しく幸せなことで、こんなに多くの人が注目して応援してくださっているんだから、メダルを取っていいところを見せなきゃ、応援で応えなきゃというエネルギーになりましたし、そこに不安とかプレッシャーがなかったのは先ほど言った通り、世界中の誰にも負けないぐらいの練習がこなせてきた。
プラスそれを存分に見せるための体型維持も、あの食べることとの戦いに勝ち切ったから取れないわけがないという状態だったのがソウルオリンピック。
なるほど。あれだけの8時間水の中にいて、あれだけの過酷な練習に耐えて、その背景があって自信となったという形なんですね。すごいなあ、本当にすごい。本当に銅メダル、私も見てましたよ。
ありがとうございます。
あの衝撃感動は本当に今でも覚えてますね。やっぱり美しいんですよ。
ありがとうございます。ちょうどオリンピックにもっと女性をっていう流れが始まった時で、なので女性の華やかさとかが見せやすい種目がオリンピックに入ってきた時代でもありましたよね。
なるほど、わかりました。ありがとうございます。アスリートはいつか引退をするということになるわけですけども、小谷さんの場合は引退後、スポーツコメンテーターだとかメディアのお仕事もね、いろいろとたくさんされてたと思うんですけども、これはもう自分からやりたいっていう意図があったんでしょうかね。
いろいろお仕事をいただけたのは幸せだと思うんですけれども、実はその4年後のバルセロナオリンピックも私一応代表としては行っていたんですね。しかし最後補欠となってしまって、泳ぐチャンスがないまま選手人生を終えたんですけれども、この時にソウルの時のように300%の自信が私にはなくて、
一度補欠ではなくて決勝でコタンに泳がせるかもって言われた時があったんですけれども、その時に自分の中で私が泳いでいいのかな、私が泳いだらもっといい点数出るかなって思った自分がいたんです。
結果としてやはりオリンピックで決勝の当日にやはり補欠ってなった時に、自分の中では悔しかったですけれども納得がいったというか、私が泳いでいいのかななんていうことが心の中にあるアスリートが泳げないのがオリンピックなんだ。オリンピックの神様ってやっぱり見てるんだなっていうオリンピックの厳しさをこのバルセロナで知ったわけですね。
だからこそその分ソウルの時の自分への価値というか喜びも増えたんですけれども、でもバルセロナの時にちょっと金が残っている自分が泳げなかったっていうことが非常に私にとっては大きくて、でもそういう厳しい舞台だからこそ世界のアスリートがそこを目指すし、100%の人じゃないとそこで演技とか競技をすることができないってそれがオリンピックの意義であり魅力なんだな、だから見てる人が心を震わせるんだろうなっていうことを学んだのがバルセロナだったんですね。
なのでいろんなその役職とかに関してはもうとにかくこのオリンピックの価値、世界のアスリートがやっぱり最高の舞台として目指すオリンピックの価値を輝きを曇らせないためのお手伝いをしなければいけないなっていう思いで国内オリンピック委員会とか国際オリンピック委員会とかいろんな声のかかるものはできるものはすべてお受けしましたし、プラス15年間の競技人生の中ですごく特殊な演技をしたことがあって。
もう泳いでる時に点数とか順位は関係なくそこに行って大好きなシンクロやってることが幸せでたまらないっていうなんかこう人としてのちょっとこう特別なゾーンに入ったような演技できたことがあったんですけど、その時に結果として10点満点が出て優勝したりしてすごくなんかこう私にとっては特別な体験だったので、世界中のいろんなアスリートに会ってスポーツを通してそういう経験をどれぐらいの人がしてるのかなっていうことにすごく興味があって。
世界のアスリートに会える機会のある世界陸上のリポーターでしたり、世界水泳の会社とかも含めていろんなスポーツの大会のコミュニテーターとかリポーターをさせていただけたのはそういう目的というか目標もあってでしたけれども、非常に楽しい経験させていただきました。
ソウルの喜びとバルセロナの悔しさっていうんでしょうかね。そういった両を対局したそういった気持ちが混ざり合う中で、いろんなご経験の中でそういう競技の伝え方をしているっていう。本当にそこもまた素晴らしいことですよね。
ありがとうございます。悔しい思いで終わったオリンピックの後は本当に何のために自分は生きていったらいいんだろうって落ち込みましたけれども、なんか今こうしてオリンピアンズ協会という会長の立場にもありますけれども、やっぱりオリンピックで勝つ人がいる、何千倍も負ける人たちがいるわけで、すべてがみんなオリンピアンなわけですけど。