1. 導入(イントロダクション)
1988年、世界中の劇場を熱狂の渦に巻き込んだ映画『カクテル』。若きトム・クルーズが眩しい笑顔でカクテルシェーカーを宙に躍らせ、フレア・バーテンディングの華やかなパフォーマンスとともに恋と成功を掴み取る——。多くの人々にとって本作は、80年代ハリウッドを象徴するポップで爽快な青春成功ストーリーとして記憶されているはずです。
しかし、その煌びやかなスクリーンの向こう側に、全く別の顔をした「もうひとつの『カクテル』」が存在することをご存知でしょうか。
眩しいグラスの底に溜まっていたのは、泥と吐瀉物、コカインと都会の虚無に塗れたマンハッタンのヘドロでした。原作小説のページを開くとそこに広がっているのは、映画の明るいパブリックイメージを粉々に砕く、極めて暗く、毒々しく、シニカルな「人生詰んだ男」の真実なのです。
原作となる小説『カクテル』(ヘイウッド・グールド著、1984年刊/芝山幹郎訳、文春文庫、1989年刊)の主人公ブライアン・フラナガンは、映画で見せた野心に満ちた爽やかな青年とは根本から異なります。
物語に登場するフラナガンは、38歳前後の境界性アルコール依存症(アル中手前)の中年男。自称・作家志望で、端正な容姿だけを武器に無数の一夜限りの関係を重ねてきましたが、人間としてはすでに人生の底をつきかけています。
かつて70年代前半のソーホー(名前すら存在しないほどヒップな店)でプロのバーテンダーとしてピークを迎えた彼は、映画の端役で「女優に何度も吐かれる役」を演じたことすらある落魄の身。物語は、年配のユダヤ系アメリカ人女性とのギゴロ(ヒモ)的な関係が破綻し、プライドも金も失ったどん底の地点から静かに動き出します。
ここで押さえておきたいのは、作品の持つ時間軸です。著者グールドは1969年から1981年にかけてニューヨークの現場でバーテンダーを務めており、自身が70年代に味わった泥臭い現場体験をベースに、バブル経済へと突き進む1980年代半ばの都市風景を描き出しました。
映画版がトム・クルーズのスター性を前面に押し出し、若者の成長物語へと改変したのに対し、原作の真骨頂は「ロマンチックな挫折感」と冷徹な「シニカルな観察眼」にあります。辛辣なウィットで都会を解剖しながらも、自らの挫折の苦みから逃れられない男の暗い道筋こそが、本作の真の魅力なのです。
映画と原作の間にあるのは、輝く成功ストーリーと絶望が底流するシニカルな物語という圧倒的な乖離です。しかし、この映画化における最大の皮肉であり衝撃の事実、それは原作の持つ毒を抜き、爽やかなハッピーエンドへ書き換えた映画脚本家こそが、原作者であるヘイウッド・グールド本人だったという点にあります。
「グールドは1969〜1981年にニューヨークでバーテンダーを経験。主人公は自身を含む複数の人物を合成した存在」
著者は、自身の血肉が通った半自伝的でシニカルな傑作を、映画ビジネスの巨大な波の中で自ら解体してみせました。主人公を観客から愛される好青年へと「去勢」し、物語全体をポップな成功劇へと仕立て直したのです。
80年代ハリウッドの好景気と商業主義の熱狂の中で、文学的なリアリズムがいかに「ハッピーエンド」という商品へと消費されていったか。原作者自らが自作をハリウッド流に去勢せざるを得なかったこの顛末は、映画ビジネスのリアルな悲喜劇を雄弁に物語っています。
物語の影の主役であり、フラナガンの師であり親友、そして宿敵でもあるのが、55歳前後の放浪者ダグ・コグリンです。
コグリンは、欲望とうごめく虚無の街を生き抜くための冷笑的な哲学「コグリンの法則」を語り、バーテンダー業を「客を支配し操る演劇」と定義します。
なかでも**「労働者は hustle(金儲け・いかさま)しない。 hustler は働かない」**という冷徹な名言は、1980年代の強欲な資本主義と都会人が抱える虚無感を象徴するキーフレーズとして読者の胸を刺します。しかし、そんな虚無の哲学者コグリンも、新婚早々に若い美貌の花嫁とともに死亡(殺人/自殺)するという悲劇的かつ衝撃的な最期を迎えます。
この師の惨烈な死という衝撃に苛まれたフラナガンは、哀しみと狂気のトラウマに追われるように、夜のマンハッタンの更なる深みへと落ちていきます。
- テーマバー「ビーチヘッド」の狂騒: ファイア・アイランドにあるこの店は、ゲイの装飾家が軍隊の「本当の男」を悪意たっぷりにパロディ化した第二次世界大戦風の異空間。ゲイのオーナーと地元住民の紛争の混乱に乗じ、フラナガンは売上金をくすねて逃亡します。
- 「オールド・シーメンズ・ホーム」の熱狂と崩壊: ブルックリン橋近くの薄汚い酒場で「愛すべきニヒリスト」役を演じたところ、店は突如ニューヨークで最もホットなサロンへと変貌。しかし、華やぎの裏でコカイン中毒のオーナーや金曜夜の流血の乱闘により、店は急速に廃墟化していきます。
- 酒場から覗く都市の変質: 高級イーストサイドの有名人バーからトライベッカの最新流行店まで渡り歩く中で、酒やドラッグ、盗みだけでなく、「酒飲みの客層の変化からアッパー・ウェストサイドのジェントリフィケーション(高級化)を捉える」という、都市文学としての解像度の高すぎる鋭い社会観察が展開されます。
「本物の愛か hustle か、どちらが先に来るか」を追い求めながらもどちらも掴めないフラナガンは、コグリンの幻影に憑依されたまま、最終的には富裕で狂った若い女性との「真に不幸な結婚」をシニカルに選択することになります。
映画の影に隠れがちな原作小説ですが、日本における文学的評価は極めて高く、カルチャー感度の高い読者の間で語り継がれてきました。
作家の村上龍は著書『すべての男は消耗品である』第2巻のなかで本作を高く評価。また、翻訳を手掛けた芝山幹郎は訳者あとがきにおいて、本作を「20世紀末をいろどる高級娯楽小説」と喝采を送っています。酒やドラッグ、悪態、殴り合い、そしてセックスの描写において、芝山氏の冴え渡る名訳が文学的快感を加速させています。
批評的に見れば、原書の後半におけるストーリー展開には一部反復や停滞が指摘されることも事実です。しかし、本作の本質は整然とした筋立ての美しさにあるのではなく、叩きつけるような文章の疾走感と、都市観察に込められた「毒」そのものを味わうことにあります。ストーリーの破綻すらも、狂騒の街のグルーヴとして昇華されているのです。
これほどまでに力強い傑作でありながら、現在は再版されておらず、古書市場でも入手困難な「幻の作品」となっています。
ヘイウッド・グールドの『カクテル』は、単なるヒット映画の原作という枠組みを遥かに超え、酒場という硝子体を通して都会と人間の変質を冷酷に映し出した、80年代都市文学の隠れた金字塔です。
スクリーンの向こうでトム・クルーズが魅せた甘く華やかな成功物語の陰に、これほどまでに毒と挫折、そして深い切なさに満ちた真実の物語が眠っていた事実は、映画史の知られざる裏側と言えるでしょう。
ポップにデコレーションされた成功ストーリーの底に漂う、甘く苦い真実の毒——あなたも一度、そのグラスを煽ってみたくはありませんか?
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