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2023-08-01 41:02

vol.014「私たちは何について話をしたのだろうか?」❶ 康太郎雑技団チャンネル

今回は、初登場のまっさんと、女々しいシリーズで初登板いただいたsyuさんとの対談。ジェンダーについて話を♪からスタートして、着地点なくあちこちもりあがった会。あちこちいったのはCOTAの責任です♪

サマリー

本日のゲストはマッサンさんです。彼は違和感、ダイバーシティ&インクルージョン、夫婦別姓の話、日本の企業文化、アメリカとの比較、戸籍の制度などについて話しています。また、彼は枠に収まることや属性ラベリング、線引きの必要性、身体的な差、心の部分に関する話もしています。彼は近所のコミュニティの衰退や個人主義の増加について議論し、コミュニティ結成の重要性を考察しています。彼はまた、自己紹介や所属のない状態でコミュニケーションを取ることができるコミュニティの心理的安全性についても言及しています。彼は話しながら、コミュニティの存在意義やリスペクトについても探っていきます。私たちの話題は広がっていきます。

ゲストマッサンの違和感
平泉達也
はい、みなさんこんにちは、こんばんは。 康太郎雑技団チャンネルです。
このチャンネルは、作るをテーマに空間と時間をともにした仲間がそれぞれが持つ 発行させた技を多用を通して、さらに次の作るを実現する番組です。
本日もよろしくお願いします。本日のゲストはですね、 初登場マッサンです。よろしくお願いします。
まっさん
よろしくお願いします。
平泉達也
そして、久々になるのかなと思いますが、シュウさんよろしくお願いします。
yu
シュウです。よろしくお願いします。
平泉達也
よろしくお願いします。
今回はですね、前回シュウさんとエリさんが、
お尺の話とか、ジェンダーの話とか、これってみたいな形でお話をしたことがあったと思うんですけれど、
その時にマッサンがですね、かなり勢いよく、弾みよく、反応していただいたというようなところがあって、
前回どちらかというと、女性目線から話を聞いたような感じにもなったので、
今回は康太含めマッサンに来てもらい、それをシュウさんにも入ってもらい、
また3人でちょっと違う目線で、このあたりのテーマ話ができたら面白いのかなというふうに思いまして、
アレンジさせてもらいまして、よろしくお願いします。
まっさん
よろしくお願いします。
平泉達也
ということで何もここからは決まってないんですけれど、
最近その、もやもやしたことありますか?違和感感じたことありますか?っていうところから、
このジェンダーじゃないんですけれど、男女というようなところの部分で、
違和感を感じたことのエピソードを、めちゃくちゃオープン質問で聞いてみたいなと思うんですけれども、
マッサンいかがですか?
まっさん
そうですね、僕がそのダイバーシティ&インクルージョンをメインに、
ポッドキャストにしたりするので、直近感じたというよりかは、昔から感じている違和感として、
まっさん
僕は主に見えているのは日本の企業文化なんですけど、日本の企業文化において、
うまくダイバーシティ&インクルージョンの価値を使いこなしてないなっていうのが、違和感としてあります。
結構ダイバーシティ&インクルージョンの話って、コンプラとして捉えられている気がしてて、コンプライアンスとして、
何やっちゃいけない?これやっちゃいけない?っていうルールが想起されている気がするんですけど、
本来はダイバーシティ&インクルージョンって強みになると思ってるんですね。
ですけど今はコンプラとして、束縛するものとしてしか与えられてないっていうのがもったいないなと思うし、
じゃあそれ使いこなす時どうやったらいいの?っていうのが、おそらく多くの人が
分かんないとかって話になってるんじゃないかな。すごく具体的に言うと、例えば男性の上司がいたとして、女性のチームの人を誘うっていう時に、
本来はコミュニケーションの遺憾として飲み会とか誘っていいと思うんですけど、それを怖がっているし、結構いろんな例があるんじゃないかなと思ってて、
でも一方でやっぱりその飲み会た時に、例えばですけど、アイスブレイク仕様として、
彼氏のみたいな話はNGなんだよとかっていう、そのあたりの、女性がこういうふうに思うんだよっていうことさえわかってればいいのになぁみたいなものは、
発信されてないよなって思ったりしています。
ダイバーシティ&インクルージョンに関する話
まっさん
なるほど。
平泉達也
ありがとうございます。
一旦、 シュウさんの最近の違和感を聞かせてもらえればなと思うんですけども、いかがですか。
yu
最近の違和感は、そうですね、前回のメメシエの回とかに散々今まで感じてた違和感を
打ち負けてしまった反省はあるのですが、 最近はどうですかね、あんまりそういう、例えば飲み会とかで嫌な思いをする
みたいなのはだいぶ減ったかなとは思いますね。
そうですね、ちょっと、ちょっと、ちょっと遡りますけど、数年前に結婚して、
苗字を変えるっていう時に、かなりまあ世間でも、選択肢夫婦別姓の話とかが盛り上がっている中で、
自分は、自分が苗字を変えたんですけど、それはちょっとかっこいい苗字になれそうだったので、
全然、そこに対して変えることは、平凡な苗字からちょっとかっこいい苗字になるぐらいの感じだったんで、
自分が変える、この性に変えること自体に全く抵抗はなかったんですけど、
でも変えることに抵抗はない一方で、会社では通称利用を、
旧姓のまましていたりとか、そういう時にこう、何ですかね、自分のアイデンティティがもう2つあるみたいな、
そういう生活を今2年ぐらいずっと続けているので、それはそれで、私は変えることに違和感はなかったので良かったんですけど、
たぶんかっこいい苗字じゃなかったら、なんで私が変えなあかんねんって思ってたとは思うんですよね。
たぶん。
平泉達也
いいですね。
yu
なので、そういうのはやっぱり、何ですかね、変えたい人は変えたらいいし、
変えたくない人は変えたくなかったら、変えなくてもいいしとかっていうふうに、選べるようになったらいいのになあ、
みたいなのは、自分はもうなんか過ぎ去ったことみたいになっちゃってはいるんですけど、まだ私がそう考えてた時から、
平泉達也
進んでいるというか、時間は経っているのにまだ全然変わる、なんか変わりそうな感じが見えないなあみたいな、そんなのを感じてたりしますね。
ありがとうございます。なんか2人の話を聞いてと思ったのは、
すごくこう、両極端に社会が動いているなというか、昔はこう普通に気軽に
飲み会とか行こうぜ、みたいな感じだったのに、なんかある瞬間からそれ言っちゃダメだよね、みたいな感じで線をビャーって引いて、
右か左か白か黒か、みたいな感じになっているような気がするんですよね。
だからその僕らが泡犬って言ってるぐらいの泡さが全くなくって、
yu
確かに。
平泉達也
なんでこうなっちゃってるんだろうなって思ったりとかするんですよね。
まっさん
いやーほんとそうっすね、それほんとそうだな。
さっきのシューさんの選択的夫婦別姓の話を思い出したんですけど、
これ聞いた話なんでちょっとファクトかどうかわかんないんですけど、アメリカって結婚した後に、
夫婦で1個のアカウント、銀行口座の口座作れるらしいんですよね。
でも日本それできないじゃないですか。っていうような、
ちゃんと個人と個人の夫婦関係において、両方の権利を守るっていうのが結構システム的に実装されているっていうのが、
アメリカの良さでもあるような、さすが個人主義の国だなと思う一方で、
夫婦別姓に反対している人たちも僕いるんじゃないかなと思った時に、
たぶんそこには、これは別に僕が反対ですとかって言ってるわけじゃなくて、ただの想像を言うんですけど、
平泉達也
日本ってやっぱり家っていう文化の思想があるじゃないですか。
まっさん
僕思うんですけど、誰か初めましての人に会う時に、いきなり名前言うんじゃなくて、
どこどこの組織の○○ですって言うじゃないですか。
こうじゃないんですよね。
どこの家に入ってますか、みたいな。
そういう思想がある気がしてて、
結構家というか、どこの村ですか、みたいなのが強いと思うんですよね。
家に入るっていうのって、結構無意識レベルでインプリされてる気がしてて、
そういうのも反対というか、全員が賛成しないのに、
理由、起因してるんじゃないかなと思ったりもします。
平泉達也
何が言いたいかって、結構根が深い歴史、文化があるんだろうなって。
確かに。
経済、経済成長的なとこもあるし、
昔からの歴史的な背景みたいなところがあるような気がしますよね。
線引きについての考察
yu
そういう話、いつも日本の戸籍がどう、みたいな話にいつも展開していくんですけど、
戸籍の制度ができたのも、そんなに昔じゃないよ、みたいな。
平泉達也
そういうので、いつもぐるぐる回って、平行線っていう印象がありますよね。
yu
ちょっと話が戻りますが、
小田さんもやもやしたこと、最近もやもやしたことはありましたか?
平泉達也
僕ですか?
今日を迎えるにあたってとか、この前のえりさんとしゅうさんの話を色々と聞いている中で、
改めてちょっと気づいたっていうところで言うと、
そもそも線を引くっていうところがおかしいかなって思ってたんですけど、
僕らはそれで過ごしてきたっていうところもあるような気がするんですよ。
小学校、小学校じゃないな、もっと言ったら保育園、幼稚園からして、
男の子、女の子っていう線を引かれてきてるじゃないですか。
で、その男の子っていうフィールドに入った時に、
なんかこう、ねばならないっていうのがすごいあるなっていうふうに思ってて、
今日に向けてもちょっと色々と本を読んだりとかする中で、
なんか、個人というよりはその線を引かれた右か左かの中での、
このまま雑な整理っていうふうに言ったかもしれないんですけど、
そのカテゴリーでちょっとまとめられちゃってるから、
やっぱり、さっきの話にもちょっと来ちゃうのかもしれないですけど、
個人がというよりは、国がとかがまとめやすいようにただまとめるだけの、
線引きにしかなってないみたいなところの、
そっちの方が都合いいみたいなところの話があったりとかするのかなっていうふうに思ったりとかして、
完全にもやもやしてるので答えはないんですけど、
はめられてる感じがすごい感じているっていうところももやもやしてますよね。
枠にはめようみたいな。
それでまさにその効率性を求めている今の世の中を、
ちょっと象徴しているのかなと思ったりはしますよね。
まっさん
めちゃくちゃいいな、面白い。
yu
さっきの村とか、どこどこの家族とかも枠といったら枠ですし、
今の属性ラベリングみたいなところも枠ですし、
そこに対しての今までの当たり前の感覚もありつつ、
なんかそこに違和感を感じつつある私たちみたいな。
平泉達也
一方で多分その枠に収まることによって、
安心だよねって思わされてるっていう感じもあるような気がするんですよ。
属性に、ラベリングにはまることによって、
お前は安全だ、みたいな。
そういうふうに思わされてるっていう、
呪縛とか洗脳みたいなのもあるような気がしますよね。
まっさん
なんか今のコウタさんの話で思い出したんですけど、
ちょっと前に新宿のどっかの新しいビルのトイレは当たり前になってませんでしたっけ?
男女ってやめたみたいな。
それあかんだろうみたいな、なってませんでしたっけ?
男女で分けようぜみたいな。
多分それってやっぱり完全に一緒にしちゃうと、
やっぱりその危険性みたいなのが、女性にとって危険性があるみたいな。
ちょっと女性にとってって言い過ぎですけど、
があるからだと思うんで、
やっぱり一定の線を引くっていうのは、
さっきコウタさん言ってたその安全性にもなると思うし、
線を引くっていうことを考えだすと、
パターンが無限に多分あるんで、
どっかで引かないと社会が回らないっていう状況は多分あると思うんですよね。
だから引かないといけないんだけどっていうね。
yu
なんかその身体的な話とか体力の差とか、
そういう、例えばスポーツも男女全部一緒でいいのかってなったら、
ちゃんとその体力筋肉の付け方が違うとか、
そういう身体的なところの差っていうのが、
必ずあるので、そこは何かの一定のルールだったりとかを元に線を引かないと、
逆におかしくなっていってしまうみたいな部分は確かにあるのかもしれないですね。
そういう線引きも大事でありつつ、
本来線引きすべきではない、
例えば心の部分だったり考えであったりとか、
なんかそういうところまで線を引いてしまっているので、
居心地の悪さとかがあるんですが、
それを何ですかね、多分線を引くべきところとそうじゃないところがごっちゃになっているので、
いやそれは線を取っ払った方がいいって言ったら、
じゃあここもなくていいんですかとかになっていくし、
それでこういろんな問題が複層的になって、
どこが論点かわからなくなっているっていうこと自体が問題なのか気にしますね。
まっさん
本当そうですね、人によってあれだからな、
特に境界線にいるような人たちはそこに何で線があるのかっていうのを気にするから、
多分複層的になりますよね。
僕はエクイティの考え方が重要だと思っていて、
イコーリティVSエクイティってよく言うんですけど、
イコーリティは例えば野球場行った時に席取れなくて一番後ろでしたって時に、
大人は立ってで見れるんですけど子供は見れないんですよね、
てかもう見えない、バーよりも自分の身長が低いからみたいな、
それがイコーリティなんですよね。
成果が得られるのはあなた次第。
立ってるところはもうみんな同じみたいなんですけど、
エクイティの場合はそのアウトカム、
その成果に対してみんなが同じポジションにいるかって話なんで、
子供に対してはちゃんと箱を用意してあげるというか、乗れる箱を用意してあげるっていう、
なんで目線が同じになるよねっていう話なんですけど、
そこが重要な気がしてて、
近所コミュニティの衰退
まっさん
線引くのはいいんですけど、そのエクイティの思想をちゃんと持ってあげるっていうのが重要な気がするんですけど、
日本はものすごくイコーリティを大事にしてると思うんですよね。
これ僕あのすっごいよく引用するんですけど、
あのオランダにいるかいらっしゃったか忘れたそのホフステイドっていう博士が、
IBMに行った時に研究した内容があって、
日本ってむちゃくちゃその成功主義というか男性性の国になってて、
その成功した人をあがめるっていう文化、
だからその失敗してる人はあなたのせいですって思いがちであるっていうのを、
よく引用するんですけど、イコーリティなんですよね。
発想が。
だからなんかエクイティにならないっていうのがその問題で、
なんでその線引きしちゃった時にマイノリティの方がどうしても苦しむ構造があるっていう。
yu
わかります。すごいよくわかります。
平泉達也
最近私ちょうど同僚との飲み会でその話をしてました。
yu
どんな話してんねんみたいな。
まっさん
めっちゃ真面目な飲み会。
yu
野球場の話あるじゃないですか。
有名なイラストあるじゃないですか。
それを飲み会終わりにその同僚に送って、
こういうイラストがあってねみたいな解説を、
飲み会の帰りにまでするっていうぐらい熱く話をしたんですけど。
平泉達也
へーすげー。
yu
やっぱりそこは試合が見れてる人が、
何もしなくて見れてるわけじゃなくて、
でも頑張ったからこそ見えてるんだっていう、
やっぱり自負がすごくあるから、
人がそうやって2段の箱を積んで見てることに対して、
やっぱり受け入れが高かったりとかするんだろうなっていうのを、
その話をしながらもすっごい感じたので、
難しいけど、私もその本当にいろんな、
なんていうんですかね、
クエティの考え方でいろいろと考えると、
もっと優しくなれるというか、
なれるんじゃないかなって、
そういう考えがみんな持てたらいいのかなっていうのは、
ずっと考えてますね。
平泉達也
面白い。
まっさん
最近、友達と話してて、
確かになって思ったのが、
僕の友達が飲んでて突然、
日本の古き良き文化はどこに行ったんだって言い始めたんですよ。
なになにって、
なんだそれはって聞いたら、
昔は、例えばご近所さんとぶつぶつ交換をして助け合いしてたし、
なんだかその高齢者をすごくこう、
なんていうんですか、おもんぱかるというか、
大事にしていたよねとナチュラルに。
ところが最近は、
高齢者に対して、
ちょっと存在に扱うみたいなのもよく見られるし、
日本の古き良き文化はどこ行っちゃったんだろうねっていうのを見てて、
結構僕それ深いなって思ったんですよ。
昔は、
結構助け合うっていう文化をナチュラルに持ってたんじゃないっけって思ったんですよね。
ところが最近はすごくこう、
お互いドライというか、
ドライになるから助け合いもしないし、
それで成功主義というか、
成功している人こそ正義みたいな話になっていくと、
どんどんどんどんそこを乖離していくよねって思って。
なんかもうちょい、
もともと持っていた美徳を思い出すというか、
っていうのは一つのアプローチとしてはあるんじゃないかなっていうのは、
所属のないコミュニケーション
まっさん
友達の話を聞いて思ったんですよね。
yu
なんかめっちゃ思いますね。
なんかその、
子ども働きで子育てが忙しくてとか、
っていう問題がやっぱり、
周りではすごく、
なんていうんですかね、
平泉達也
すごいそういう問題がもうかなり蔓延している中で、
yu
保育園に預けるにもいろいろ大変だったりとか、
そういう何かのサービスを利用するのにアクセスしづらかったりとかする中で、
地域にすごい信頼できるおばちゃん一人いたら、
そこに預けて、
ちょっとごめんね、見といてって言って預けて、
働きに出るなり、
できたら全部解決するのに。
そういう場所がみんなアクセスしやすいところで、
それぞれの助け合いだったりとか、
なんですかね、
そういうプラットフォームを介さずとも、
地域の中で信頼ができる人を見つけるっていうのが、
一番高いお金を払わなくても、
その人にダイレクトに、
例えば仲介手数料を取らずに、
その人にダイレクトにお礼をお支払いすればなりだったりするので、
そういうコミュニティみたいなところが、
実はすごい喫緊の問題を解決することなのではないか、
そんなすごい考えますね。
まっさん
そうですね。
いや、ほんとそう思います。
これ何で聞いたんだったかな。
古典ラジオだったかもしれないですけど、
違ったらごめんなさいなんですけど、
そもそも人間って、
一人が一人を育てるっていうことをしてこなかったっていうのを聞いたことがあって、
そもそもホモサピエンスの人は、
複数人で育ててきたから、
yu
今やってることが実は無理ゲーっていうのを聞いたことがあって、
まっさん
だからシュウさんの言ってた、
近所に本当に信頼できるおばちゃんがいるっていうのを、
すごく纏いているというか、
真理な気がするんですよね。
コミュニティを作るというか、
一人で育てるっていうことを、
ちょっともう限界来てるんじゃないかっていう。
平泉達也
まさにその各家族が進んで、
どんどん添えになっていってみたいな感じで、
ともすればそういうふうに手を差し伸べること自体が、
かっこ悪いみたいな感じの雰囲気は、
今あるような気がしていて、
電車で人がちょっと横に疲れてたりとか倒れてたり、
倒れてることはないけど、
ちょっと苦しそうにしているところに手を差し伸べると、
周りを見るとみんな携帯を見ているみたいな、
ちょっと微妙な光景があったりとか、
まっさん
そういうのが最近すごい多いなと思ったりはしますよね。
思います思います。
平泉達也
ちょっと不思議な感じにはなっている気がする。
手を差し伸べればいいのにって。
多分みんな携帯見ながらチラッチラッとこっちを見てるっていう姿勢も感じるし。
そういう息苦しさとは言わないけど、
なんか不自由さみたいなところがすごい感じてるし。
お互いが手を差し伸べ、
そのおばちゃんが一人いるっていうのは、
どっかでもそんな話が僕もなっていて。
そういうコミュニティができると、
そのおばちゃんも生き生きするし、
手を差し伸べてもらった方も生き生きするし、
すごく巡るというか、循環するような気がするんだけど、
コミュニティの心理的安全性
平泉達也
それをやること自体がどうなのみたいな感じの、
今の世の中になっている気がするなと思うんですけどね。
yu
昔はもしかしたら全くの他人同士じゃなくて、
例えば家族が多かったり、
親族も近くにいたりとか、
そういう雰囲気だったから結構オープンで、
家を行き来したりとか、
コミュニティが横ずつ広がっていったりっていうのが
自然だったかもしれないですね。
全くの他人同士が昔からすごい仲良かったわけではないかもしれないですね。
家がそれぞれ住む場所が違ったり、
ポツンとその地域で暮らしていくってなって、
交流がなくて、
交流がないどころか警戒心まで抱いてみたいな。
まっさん
そうなんですよね。
平泉達也
本当、交流がないどころか警戒心ですよね。
まっさん
僕の生まれ育ったところって、
結構田舎の方なんで、
平泉達也
近所図形がむちゃくちゃ多かったんですよ。
まっさん
隣のおばちゃんが僕の成長過程をよく知っているみたいな。
これ結構賛否両論あって、
例えばある人は、
地域の噂話がむちゃくちゃ面倒くさい、ゴシップ話が。
その近所図形がスーパー面倒くさいっていう人もいれば、
多分交流できるから、
それ自体がコミュニティだから、
それで助かるっていう人もいると思うんですけど、
人付き合いが面倒くさいから、
もうシャットアウトしようぜっていうので都会に出ていくっていう人もいる。
平泉達也
そういうのもいるですもんね。
まっさん
だから東京は、
全然近所付き合いがないっていう意味では、
こんだけ人がいるのにものすごく気迫な、
僕の友達はすごく人工的な人間関係っていう表現してました。
えー。
平泉達也
僕の知り合いが、
まっさん
人は一人で生きていけない、
平泉達也
だからこそそういうコミュニティを作るんだ、みたいな人はいるんですよ。
最後は一人じゃないですか、と。
先立たれたりしたりして。
やっぱりそういう一人になった人たちを、
救おうっていう使命感でやってる人もいて、
ちょっとそのお手伝いもしてたりするんですけど、
そういう人たちが、
わけ隔てなく手を取り合う社会ができたら面白いなと思って、
僕はちょっと手伝ったりはしてるんですよね。
一方でそういうのってどうなの?みたいな風に見られてる感もあったりして。
まっさん
そこの、
平泉達也
話がちょっとあちこちいっちゃってあれですけど、
人と人とのつながりって、
やっぱりどうなっていくんだろうなっていうのが、
興味の一つでありますね。
yu
でもなんか、何でしたっけ、最初その、
どこどこ所属の何々ですって、
ご自己紹介、みんな自然にしますよねって話をしてて、
フライヤーのウックキャンプとかは、
割とそういうバックボーンとか関係なしに始めましてで、
私これが好きなんですっていう、
これがなんと心地いいことかって。
まっさん
そうなんですよね。
本当にそう思います。
平泉達也
これまっさん語りますよ。
yu
まっさん語るから。
弱い文脈の。
それってなんか、
自分が所属場所があるから、
出れてるのかなっていう気もしてて、
本当にどこにも所属してなかったら、
私ってこんなの普通に入れるかなとか、
もっと不安に思ったりしてないかなとか思うかもしれないですね。
帰る場所というか、
どこかに一応はまってはいいって、
今でもそれを取っ払って出てきてますっていうのが、
やっぱり楽しい気はするので、
どこも帰る場所がないってなった時に、
私この環境を楽しめてるかなっていうのは、
ちょっと不安はありますね。
まっさんはそういうバックボーンをあんまり気にせず、
しゃべれるのが楽しいという感じですか。
まっさん
でもしゅうさんに言われたら確かにそうかもしれないですね。
所属しているところがあるから、
その所属を取っ払って、
完全に自分の名前だけで、
その会話ができるコミュニティが気持ちいいというか、
安心できると思えるのかもしれないですけど、
そもそもそうですね、
その所属している何か母体がなかったら、
例えば所属だけじゃなくても、
こういう仕事をしてます、
〇〇です、こういう仕事をしています、
みたいなことも、
このフライヤーのコミュニティでは言わないじゃないですか、
仕事とか会社みたいな、
結構強い文脈の集団を言わない、
そのコミュニティの心理的安全性の高さというのは、
思いますね。
しゅうさんと同じことを言っているかもしれないですね。
平泉達也
僕らは残念ながら、
そういう所属で自己紹介をすることに、
慣れ切ってここまで来ている中で、
例えば学校はここです、
卒業代はここです、
勤め先はここです、
そうですね。
来ている中で、今回みたいなところはめちゃくちゃ衝撃で、
それ言われたところで、は?みたいな、
は?とは言わないけど、
そこで表現しても別にここのコミュニティは、
そこまで価値はないというか、
付箋のちょっとしたラベルぐらいの感じで、
でも本当にみんなが見ているのはあなた自身です、
みたいなところが、
阿波県含め、
フライヤーのキャンプは強いのかなと思ったりとかは、
今2人の話を聞いていて、
思ったりしましたけどね。
まっさん
なんか面白くないですか?
僕はこのコミュニティという言葉って、
まあまあ最近出てきた言葉だと思っているんですよ。
僕、前職の会社が結構コミュニティがでかいんで、
割と結構早い段階でコミュニティという言葉を知った気がするんですけど、
やっぱりコミュニティも輸入している感があるんですよ、
僕の中では。
コミュニティビジネスとかって。
コミュニティのサービスとか、
ミートアップとか、
ワークショップとかを募って開催するアプリとかも、
コミュニティの存在意義とリスペクト
まっさん
海外の方がもちろん早かったし、
日本初のコミュニティのアプリって、
あんまり聞いたことなくって、
コンパスももともと海外だった気がするし、
輸入している気がするんですけど、
でも一方、日本ってもともとグラ文化だったし、
コミュニティってもともとあったよなって思って。
でも、
僕数年前にコミュニティ、コミュニティって周りの人に
コミュニティって何?ってよく言われたんですよね。
それ面白いなと思って、
結構昔から村っていう、
どこかの貴族意識っていうのは強い民族だった気がするんだけど、
こうやって都会に出てきていると、
平泉達也
コミュニティっていうのは途端になくなっているっていうのが面白いなと思って。
面白いね。
面白い。
まっさん
しかもそんなに多くなくないですか、
コミュニティに所属している人って。
平泉達也
多くないです。
僕の中では多くない。
ですよね。
まっさん
僕は逆に異常って言われている。
僕もそうです。
そんなことやってるんだって言われます。
yu
そうですよね。
読書会みたいな。
まっさん
そうそう。
そうなんですよ。
そう。
だからそれがすごい物語ってますよね。
気白さをというか。
yu
そこの中であわけんがいいなって思うのが、
コミュニティってみんなやっぱり何かしらの共通点があったりして、
居心地が良かったりとか、
自分の考えでそうだよねっていう風に共感し合えたりとか、
触発し合えたりっていうのがいいと思うんですけど、
ちょっと一歩間違えると、
そこで喋ってるだけで満足してしまう、
このコミュニティにもなってしまいがちだと思ってて、
いいよね、やっぱこういう考え方がいいよねって言うだけみたいな。
気分が高まったり、
結談力、
団結力が高まったりするけれども、
その場で高まっただけで、
多少モチベーションがアップした状態で仕事にまた臨めるとかはあるかもしれないけど、
コミュニティ外のところに対しての影響力をすごく与えられているかというと、
そうじゃないみたいな、
そういう風に終わってしまうケースって多々あるのではないかと思う中で、
和犬は何かを作り出すっていうことで、
形にしているっていう形を生み出しているっていうところが、
喋って居心地いいからいいよねって言ってるだけじゃないっていうのが、
いいなって思ってます。
まっさん
めっちゃいいですね。
今のしゅうさんの話聞いてて、
この前和犬の桃さんと話してる中で、
このコミュニティの存在意義みたいな話になってたんですよ。
それ何でかっていうと、
コミュニティメンバー自身というか、
コミュニティメンバーの中でも特に活動している人にとっては、
活動できること自体が価値なので何も気にしなくていいですけど、
ちょっと恐れ入ってみましたとか、
そこまで活動していないメンバーに対して、
コミュニティの価値って何なんだろうっていうのが、
僕が分からなくなったんで、
桃さんと問答してもらったんですね。
その中で見えてきたのが、
この和犬って最初は別に自分たちが作り手じゃなかった、
いわば素人みたいな人たちが、
集まりました、作って楽しいと思えた、
それを作って発信していこうとしているっていう、
このコミュニティがあるっていうこと自体が、
結構新しい試みなのではないかと思い始めて。
プロフェッショナルのアート集団とか当然いたしかるべきですけど、
素人がいきなり集まって作って発信するってなかなかないじゃないですか。
知らないだけかもしれないんですけど、
僕は少なくとも知らなくて、
しかもそれによって幸福度が高まっているっていうのって、
発信することの意義って結構えげつないんじゃないかなって思ってたんですけど、
今の秀さんの話に僕はすごく接続性を感じてて、
何かやることによって気持ちよくなるだけじゃなくて、
作って発信することが素敵ですよねっていうのは、
僕、今日言ってたダイバーシティのインクルージョンみたいな話にも
つながってくるかなって思うんですね。
このコミュニティにいると、
僕はジェンダー関係なくすごくみんな盛り上がっているし、
お互いをリスペクトして発動できている気がしていて、
このあり方を発信するのは、
とても意義のジェンダーの観点から、
ダイバーシティのインクルージョンの観点からも
素敵なことなんじゃないかって思い始めました。
yu
作るものが一緒じゃないっていうのもいいなと思ってて、
平泉達也
他と違うなと思ってて、
yu
何か素人だけれども、こういうワークショップでこんなものを作りましょう
はきっとたぶんいっぱいあるんですけど、
自分で作るものを見つけてきて、
それぞれ作るものもそれぞれ違って、
っていうことも他のコミュニティとかあるものとは違うなって
今の話を聞きながら思ってました。
まっさん
そうですね、めちゃくちゃそうだな。
多分リスペクトしてるんですよね、デフォルトで。
デフォルト、N対Lで全員がリスペクトしているっていうのが
前提条件としてあるから、こういう状況に、いい状況になってる気がしてて。
ダイバーシティアのインクルージョン
まっさん
日頃生活してて、否定語って多くありません?
それじゃあできないんですが、とか、
仕事ミーティングしてて、必ず逆説語で終わるんですよ。
なんとかなんですが。
最後まで言ってくれよみたいな。
いや、最後まで言ってくれよみたいなこと言うよ。
平泉達也
最初、いや、いや、それは、いや、それは、いや、
まっさん
そうなんですよ。
そうそう、それをね、肯定語に変えるだけでだいぶ僕変わると思うんですけど。
平泉達也
社会全体がね。
まっさん
社会全体が、だからリスペクトもあるし、そうじゃないですか。
肯定するところから始まるみたいな。
そうだから、この込み合わけは、その肯定ってか、相手をリスペクトしているから、
ジェンダー関係なくダイバーシティアのインプレッションがあるんじゃないかなって。
yu
思います。
じゃあ河田さん。
ごめんなさい、河田さんのさっきの話を遮ってしまったので。
平泉達也
ちょっと何を言うか忘れてしまいました。
まっさん
ごめんなさい、僕が一人盛り上がったから。
yu
全然OK、全然OK。
まっさん
消し飛ばしてしまったかもしれない。
平泉達也
思いついた、すぐ忘れちゃうから。
まっさん
わかる、わかる、わかります。
平泉達也
ということで、ちょっとそろそろ、もう40分ぐらい喋ってるんですけど、
おそらく。
yu
なんか思わぬ帰着点でしたね。
平泉達也
スタートどこでしたっけみたいな。
yu
もやもや、最近のもやもやのところからいろんなところに行きましたが。
平泉達也
じゃあちょっとこの次を話すかどうかはこの後ミーティングして決めたいと思いますので、
今日は一旦こんな感じで終了したいかなというふうに思います。
強引な締め切りで。
まっさん
とんでもない。
どうもありがとうございました。
yu
ありがとうございました。
41:02

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