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社長に聞くin WizBiz
本日の社長に聞くin WizBizは、ハッピーテラス株式会社代表取締役 上竹志様でいらっしゃいます。まずは経歴の方をご紹介させていただきます。
1971年、教育者のご両親にお生まれになっていらっしゃいます。高校2年生時、小学院でアメリカへ留学。
城地大学文学部教育学卒業。多摩大学院でMBAを取得され、清沙大学大学院で教育学修士を取得されていらっしゃいます。
大学在学所に創業し、アルファグループ株式会社を代表との社長として、JASAC上場へ導いていらっしゃる上場企業の社長様でいらっしゃいます。
そして今現在は、ハッピーテラス株式会社を2014年創業し、代表取締役員ご承認されていらっしゃいます、上社長様でいらっしゃいます。本日はよろしくお願いいたします。
上社長はこの9月20日配信予定なんですが、20日誕生日だそうでございまして、おいくつになられましたでしょうか。
はい、50になります。おめでとうございます。おり返しです。
最初のご質問なんですが、ご出身はどちらでいらっしゃいますか。
出身は千葉県の小学校で船橋市ですね。
なるほど。船橋の小学校時代なんて何か思い出とかございますでしょうか。
小学校の思い出はですね、経営者に多いと思うんですけど、結構機関棒というか落ち着きがない子でしたね。今でも落ち着きがあまりないんですけども。
僕は発達障害という障害を持った人たちの支援をしてるんですけど、その中にADHDっていうのがありまして、日本語に出すと注意欠陥とか注意欠乗多動性障害なんて訳されるんですけども、
簡単に言うと同じところに座ってられないような子でして、だいたい前の女の子にちょっかい出すとか、隣の友達と喧嘩始めるとか、先生の授業最後まで聞こえないとか、
僕の場合結構ひどくて、先生が黒板書いてる間に教室抜け出して隣の教室行っちゃうような子でして、なので特別席っていう席を作られてまして、
特別席って言っても席の一番前ではなくて、先生の横に席をつけてもらって、授業参加の時だけ一番前に戻されるっていうような子供でしたね。
それは原因なのかどうかわからないですけども、結構いじめられたいですとかね。いじめられてる要因も当時は僕よくわからなかったんですけども、いじめられた経験とかあったような子でしたかね。
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なるほど。中学校時代はどんなお子さんでらっしゃったんですか。
ちょっと大きく自分の中で変化があったのは、結構小学校の間いじめられたこともあって、自己肯定感結構低くてですね。
中学でたまたま転校というか、ちょうど小学校6年生が終わって、中学の時に東京の江戸川区っていうところに転校しまして、公立の中学なんですけども。
小学校の時は全然勉強もできなくてですね、勉強しようという気もあんまりなくてですね。
ただ中学1年生になると、転校生って一番また1から再スタートできるじゃないですか。
過去のことを1回リセットして、また1からやり直せるっていうことで、今でも覚えてるんですけど、小学校6年生の春休みですね。
もう1回勉強全部やり直してですね。
小学校3年生くらいからかな、割り算ぐらいから分かんなくなってたので、それぐらいからもう1回勉強し直して。
中学校1年生の時には漢字も全部やり直して、新たな姿で中学に行くと。
なので小学校の船橋の時は上っていうのは、すごい僕ちょっと太っちょのところもあって、当時では肥満ですかね。
ちょっと太っちょだったりとか、あいつ昔いじめられてたよなーとか、勉強も全然できねえなーっていうようなイメージだったんですけど、
おそらく中学で出会った僕はですね、体重も小学校の時から10キロ以上として痩せてですね。
勉強も最初の中間試験で結構いい点数をすごい努力して取りましてですね。
細くなったので運動もすごいできるようになって、新たな自分で中学っていうのをですね、過ごせた。
結構中学は良い思い出が多いかなっていうふうにも新たな自分で思いますね。
中学行く前にそれだけ努力されたのは何か、やっぱりお父さんもお母さんもそういうふうに教育されたからそうなったんですか。
父と母の影響ではなくて、コンプレックス持って生きてたので、いじめられてるっていうのって結構ずっと背負って生きるじゃないですか。
大体地元の小学校の人たちは地元の中学校行って、過去の嫌だと思いでも大体引きずらなきゃいけない中で、
なんか自分の中で新たな転換期っていうのを自分で何か察知をしてですね、この波にちょっと乗りたいなっていうような、
過去をもう一度一回消してもう一回やりたいななんて思ってスタートを、小学校になりにしたんだと思います。
じゃあ割と社長様らしく、上場企業の社長様らしく、自立していらっしゃるお子さんでいらっしゃるというか、そんな感じでいらっしゃるんですか。
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そうですね、自立したかもしれないですね。自立というか意思は強かったかもしれないですね。
でも結構その時の経験と大きくて、この歳になると皆さん、過去の自分の未来のプランニングを立てるように過去に戻ったりするようなやつあると思うんです、ライフプラン作るのに。
その時の僕の経験則で、とにかく本気でやったら成果は出るってこととか、あとは今いる環境にコンフタブルというか感じなくなったりとか、
あとは何か違和感を感じ始めたら、とにかく新しい世界にチャレンジしてみるとか、そういったことが初めて経験できた、
経験した、成功体験だと思ってますね。これからどんどん結構そういう成功体験を積み重ねるような人生を送っていくんですけども。
なるほど、ありがとうございます。高校は東京都内の高校でいらっしゃるんですか。
そうですね、高校の私立新学校に行ったんですけど、受験して行ったんですけども、そういった高校が非常に厳しい。
高校が、校則がすごい厳しい高校で、今こそダイバーシティだなんて言葉が出てきて、髪の毛の色が違うのは、
なぜ黒じゃないといけないのかとかね、髪の毛の色が長さが違うのは個性でいいじゃないかって議論がありますけど、出てきてますけども、
当時は僕男子校で、もともとは軍隊の養成所だった学校かなんかだったので、ものすごい厳しくてですね、
当然髪の毛は何センチとかあったりとかですね、服装も漆黒だったりとかあったんですけど、
僕はたまたま子供の頃から母親の仕事の関係で結構海外に行ってたことが多くて、
あと、
いとこも海外に、親戚のいとこも海外に住んでたりして、そこに会いに行ったりして、そうすると海外の学校の友達と遊んだりとか、
そうすると全然日本と違って、いわゆる髪の毛の色なんて、みんな違うし当たり前に、肌の色も違いますしね、
あとはそのいわゆる個性ですよね、最近は言われてますけども、
当時はその個性を全部消すような高校で、それに対して僕が違和感を感じまして、
それも小学校の時の経験にもひも付くんですけど、違和感を感じたらその場所に行っちゃいかんみたいな、
場所を変えればまた新しい世界があるということで、高校2年の時に、1年の終わりにはもう辞めるって決めてましたね、
辞めてアメリカ行くっていうのを決めて、アメリカにカリフォルニアなんですけど、留学しまして、
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向こうの高校を卒業してくるという感じですかね、本当に同じ高校生なんですけど、
全く場所を変えるとルールが全く違って、例えば高校ってアメリカの公立だったんですけど、
授業中ガム噛んでる人もいたりとか帽子かぶったりですとか、嫌だったら出てっちゃうやつもいるし、
遅刻してくるやつもいっぱいいるし、その代わり自己責任ですっていうような、それが僕非常に肌にあったというか、
そういうような高校生でしたかね、なんで高校は日本だと1年と2ヶ月ぐらいかな、
アメリカ1年間で卒業したって、スキップしたので1年間、2年とちょっとで高校卒業したっていうのが高校時代ですかね。
じゃあ、日本の高校は中退というかそんな感じで、アメリカの高校をご卒業なさっていると、そんな感じでいらっしゃいますかね。
そうですね。
アメリカの高校時代の思い出とか何かございませんでしょうか。
高校ね、まず一番最初にさっきお話したんですけど、僕高校時代かなり赤かったんですよね。
それはヤンチャだったというわけでは全然なくて、僕は高校生でみんなが右って左きたがる人で、
それが原因で先生に怒られたりしたんですけど、アメリカに髪の毛そのまま行ったらですね、
お前日本人ならなんで赤なんだって言われるわけですよ。
日本人は黒だろうと。逆に赤だと目立たないんですよね。
なのでやっぱり黒に戻して、黒の方が目立つんですよ。お前真っ黒でいいなあみたいな感じで。
あと日本で流行ってる服を着てたんですけど、当時は渋谷かじやで渋谷かじっていうのがあったんです。
着てたんですけど、向こう行くとダサいんですよね。
で、その時にファッションとかコミュニティの流行りっていうのは、そのコミュニティの正解であって、
場所を変えると全く違ったルールもそうだし、カルチャーもそうだし、があるんだってことを、
高校生の時に気づいたのはすごい大きかったですよね。
なので常に僕が生き生きと生きれるとか、コンフォータブルであるとか、
楽しく生きれるような場所を常に探してるっていうことはすごい勉強になりましたね。
なるほど、ありがとうございます。
アメリカの高校を卒業後、東京、日本に戻られる感じですか?
そうですね、卒業旅行でニューヨークに行ったんですけど、友達とかと。
自信がある人とかだったら、俺はアメリカで成功しようとか思うかもしれないですけど、
背も僕の方が小さいし、勉強やったって頭いい人いっぱいいるし、
スポーツやっても、バスケットとかスラムダンクでできちゃうわけですよ、高校生で。
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野球やったって肩はいいし、この国には俺は勝てないなって思って。
この国で何やっても通用しないし、もっと言うと、先ほど言ったみたいに、
人間ってその人の持つ能力も大事ですけど、どこで戦うかって結構大事で、
だと思ってて、僕は多分アメリカで戦うと天端にやられちゃうなと思って、
日本に逃げ返ったっていうのが正直なところですよね。
この大学で勝負するよりも、日本にもう一回戻って、言葉で判例がないところでもう一回勝負してみたいなと思ったってことですかね。
ありがとうございます。上智大学にご進学されてらっしゃるんですけども、
上智大学を選ばれたのは英語ができるとか、そういう理由とかがあられたんですか?
一応分析しまして、英語の点数が高かったところとか、あとは論文が得意だったら論文があるところとか、
一生懸命分析して、受かりやすいところを選んで、上智大学っていうと結構いいところに入ったんだねって言われるんですけど、
いいですよね。大学って受かったところしか名前出ないで、落ちたところ出てこないじゃないですか。
その裏には何十倍も多い数の大学落ちてますんで、たまたま取ってもらったっていう。
英語の点数が良かったから取ってもらったっていうのが要因だと思います。
そうですか。謙虚でいらっしゃるんで、そういうふうにご謙遜されてらっしゃるんだと思います。
思うでしょ。一生15敗?14敗?なんかそんな感じでしたね。
そうですか。ありがとうございます。大学生時代の思い出とか、覚えてることがございませんでしたか?
大学は、当時バブルの残りがみたいなのがまだあって、いわゆるテニスサークルとか入るのが、いわゆる大学生みたいなメディアの視界で思ってて、
入ったんですけど、やっぱりなんか、上から物を言われるのが嫌だったんでしょうね。
怠けだったのかもしれないですね。最初のコンパみたいので、先輩から飲めって言われてですね。
ちょっと反抗しちゃいまして、いられなくなっちゃって。
この人たちより僕がやった方が楽しく集まりが作れるなと思ってですね。
自分でそういうサークルみたいなのを作り始めまして。
序章大学の学生って、今は違うかもしれないですけど、非常に保守的というか内向的な人が多くて、
下上がりもほとんどいないし、推薦の人も多くて、帰国指示は他のキャンパスだったので、
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外の人たちとつながりたいなということで、いろんな人と付き合うサークルみたいなのを始めて。
商売みたいなのをやりたいな、この仕組み使うと商売みたいなのができるなと思って。
イベントやったり、旅行やったり、集めて。
その頃から起業したいと思い始めたので、大学4年生までにお金を貯めるぞということで、
ほとんど学校にも行かず、サークルとかバイトとか、そんなことをやっている大学生でしたね。
なるほど。ありがとうございます。大学院は社会人の時に2つ行ってらっしゃる感じになるんですよね。
そうですよね。大学院、あと2つ出ているのは、勉強が好きなわけでは全然なくて、
最初のMBAを取りたいと思ったのは、大学4年生の時に最初の会社を作っていますので、
そこからは都市空間で分からない中、とにかく一生懸命やっていたんですけど、
皆さんも、経営者の方はそうだと思うんですけど、ちゃんと経営学というものを学んでいない自分というのが、
どこか自分でコンプレックスもあったし、あと頭にコンサルティングとか外資系なんて言われると、
ちょっとビビっちゃう自分がいて、横文字くると、なんかよく分からない時もあって、
ファイナンスなんて言われた瞬間にドキッとしちゃう自分がいて、そんなの嫌だなと思って、
大学34年生の時ですかね、田坂博士という先生がいるんですけど、
田坂博士の塾というか、田坂塾というのがありまして、多摩台に。
多摩台に入るとそこで勉強を受けられるので、行こうということで、
多摩台というところに夜間ですね、夜間で行きました、2年間。
一通りビジネスフレームワークみたいなのは勉強して、
頭の良さそうな経営企画室みたいなところで働いている人たちといろいろ喋って、
同じ人間なんだってことに気づいて、でもやっぱり頭いいんだなこの人たちっていう。
それまでは前の会社23歳の時に作って、10年で上場したので32歳で上場して、
ほぼ周りはKちゃんの友達ばっかりで、人間的に偏りますよね。
それが一番だと思ってましたし、ただ全然そんなことなくて、
大学院で知り合ったメンバーっていうのは非常に優秀なんだけれども、
違った道を選んでる人たちで、Kちゃんほとんど少ないんですよね。
超大手ですし、それですごい学んだことも多かったかな、幅が広くなったかな。
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それが1回目のNBA取ったときの大学院ですね。
あと、45?46?3年くらい前にまた1つ出て、
それは今の事業をスタートして、これは障害者福祉っていう分野なんですけど、
その中の中で僕ら発達障害って障害を持っている人たちのサポートをやってて、
でも発達障害のサポートをやるっていうのは、僕ここの分野をすごい勉強したわけではないので、
いわゆる福祉の人たちと話すと、また言ってることがよくわからないんですよ。
初めて出るような言葉が飛び交ってて、これは偽物だってバレるなと思ってですね、
ちょっとこれだと本気で勉強しなきゃいかんなということで、
1回どっぷり大学院か何かで、いわゆるそこで研究室の人たちと話をすれば、
結構きついけど、頭には入れられるだろうと。
ただ通うわけにいかないので、今の授業立ち上げって2年目か3年目だったので、
なので通信で行けるところを探してですね、
政策大学、大学院っていうのがあるっていうのを聞いて、そこに行ったって感じですかね。
なんか非常に今までの話を聞いたと非常に何でも勉強熱心というか、
熱心何でもとことんやるタイプでらっしゃるというふうにお見受けしたんですが、そんな感じでらっしゃいますか。
一つのことをそのうらやましいなと思うのは、本も容量よくパッパッパって読める人っているじゃないですか。
僕は性格的に1ページ目から最後のページまでちゃんとじっくり読んでないと理解できない人でして、
ただそういう僕が個性とか特性の中で、小学校の時の経験ですよね。
そういうふうに自分はバカなんだと思ってたけれども、やるって決めて頑張れば、
それなりに成果が出るっていう自分の中のパターンというか方程式みたいなのを持ったので、
必要だなと思った時はとにかく自分が納得するまでは頑張ろうというふうには決めてますかね。
本日の3分コンサルティングはD株式会社様です。
住宅リフォーム業で千葉県の方ですね。
当社は千葉県の田舎の市で住宅リフォームの授業を営んでおります。
当社の方針は主に屋根の塗装工事、ウォール展開や住宅全体のリフォーム提案ですが、
高齢者の多い地域なので訪問販売を目にしております。
しかし新型コロナウイルスの感染症の影響で訪問営業を取り巻く環境は激減しました。
顧客や取引先の企業活動の変化により、これまで常識としていた訪問営業のルールやセオリーが崩れ始めました。
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訪問営業の重要なミッションは、お客様と対面して課題をフィラリングし自社製品を提案することです。
しかし感染リスクを懸念して、できるだけ人と人との接触を控えたいお客様が増えており、
営業スタイルを別の手段に移行しなくてはならなくなってきました。
時代がかったと言われればそれまでですが、訪問営業において訪問をゼロにすることは現実的ではありません。
オンラインの商談やメール・電話を交えた営業活動、
ウェブサイトで商材のプロモーション資料を載せたり、オンライン展示会に出展したり、様々な方法が考えられますが、
高齢者の多い地域ではオンライン商談で事前にアポイントを取ることはまれです。
そうでなくても時間を確保してもらうには何かしらの故障発生や今後の対策を課題にしている方くらいです。
そのため、どうしてもいわゆる飛び込み営業で対面して、直接建物の課題を明示しなくてはお客様のニーズに沿い切れず、受注に至らない商売なのです。
実際に訪問して面会してお客様の課題を解決するが訪問営業のミッションであり、田舎らなでは最大の存在価値であることは今後も絡まないと感じています。
対象営業を拡大することも視野に入れましたが、検討した結果マンパワーと協業を足すにはペンディングしました。
オンラインを活用した営業活動と適切なタイミングで訪問するオフラインの営業活動を上手にバランスを取りながら受注するための良い策・良い手法がありましたら、ご教示いただけますでしょうか。
大変長い文章でしっかりした方で多分優秀な社長さんだったと思うんですが、私ですね、実はこの収録をしている時ちょうどつい先月、父が亡くなりまして、母はずっと入院している最中に亡くなりまして、
その前の1年間は救急車さんから呼び、2人で4回入院、こんな感じで、昨年の10月から私が介護で実家に戻り、父と母の世話をするということをやっていました。
そこで感じ方がすっごいいっぱいあるんですけれども、老人は大変ですね。本当にインターネットで何かをやるということはできません。
父は珍しいタイプで、パソコンで最後のシヌマギアまでホームを発注して買っていましたが、母はもう一切できません。
かつですね、ちょっと認知症入り始めますとね、電話もかけられます。
ですから公電が来て、それのお礼を電話するんで、サトル、私サトルと言いますか、サトル、電話かけてくれって、私がかけて入って渡すんですね。こんな感じ。
ですからですね、訪問販売、有効だと思います。
うちの父は東京生まれ、東京育ちで、私もそうですが、東京でしたが、千葉県の田舎の方ということであれば、いいんじゃないでしょうか、オンラインそこまでしなくても。
うちの家でも未だにチラシが入ります。すごいチラシいっぱい入ります。たぶん一番入るのはバイセルさんの買取ですね。
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これはそういう意味は分かりません。収穫というのがありまして、いわゆるどんどこものを捨てかけて、その時に捨てるぐらいだったら売れたら売ろうということで。
うちの父のところにいろんなものが出てきます。古いお金とかね、将棋盤とかね、それ今売ろうとしています。
なのでやっぱりチラシなんですよね。プラスね、新聞撮ってました、うちの父は。母が戻ってきたときに、入院先から戻ったときに、新聞撮りたいって言われたときに、僕は反対したんですけど、
父はいいよ、撮れって言って、新聞撮る。そのうち新聞見てた父はね、これ欲しいなって言って、新聞の中に入ってた宣伝っていうか広告ですね。
それに電話してですね、産毛を切れるみたいなやつを買ったんです。やったらね、いまいちできなくて失敗だ、捨ててくれって言われて、もったいないことをしたなって、そんな感じなんです。
でも彼らはそんな感じなんですね。だから未だに新聞折り込みチラシも新聞広告も効くんです。そしてポスティングも効く。そして電話ですよ。
そう考えたら訪問販売中心でいいんじゃないでしょうか。もちろんオンラインも充実させたほうがいい。若い方もいらっしゃると思いますし、インターネットのほうがいい方もいらっしゃる。
だからズームとかオンライン面談も用意する。一方でホームページもちゃんと用意する。動画での英語なんかもできるようにYouTubeもする。
でも訪問販売、訪問営業、そして電話営業、テレマ営業、そしてポスティングなどのチラシ営業は中心にしていくということは、
逆にご老人たちからすると非常に喜ばれるんじゃないかなと思います。
未だに50代60代の方々、本当にびっくりすることなんですが、LINEもやらないで電話かけてくる人います。びっくり。
FacebookやらないとかTwitterやらないとか、私の会社からすると信じられないですが、非常に多いです。40代でもいるんじゃないかな。
そんな感じですので、ある程度インターネットは用意するものの、リアル側をちゃんときちっと組んでやっていって、結果的に受信を取ることの方が重要だと思います。
ですので、本社のやっていることは間違っているとは思えませんので、ぜひその方向で考えてください。
もちろんインターネットは必要な部分もありますので、ホームページの充実やSO対策や動画を撮ったりとか、オンラインでの面談とかも用意する。
電話での面談も用意する。それは用意した方がいいと思いますが、それも用意しつつリアルを中心にやっていっていただくことをお勧めしたいと思います。
諦めずに、この分野は逆に地方は残ってくると思いますので、東京はちょっと違うかもしれませんが、地方は残ってくると思いますので、
ぜひそちらの方向でお考えいただけたらいいんじゃないかなと思います。
本日の3分コンサルティングはここまで。また来週。
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり誠にありがとうございました。
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この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの生光社長、生光経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、私どもウィズビズが運営するウェブサイト、
KAノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく、文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆様の会社経営に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索でKAノートスペース社長インタビューと入力いただき、
KAノートのサイトをご覧になっていただければと思っております。
本日の社長に聞くインウィズビズはここまで。また来週。