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社長に聞くin WizBiz
本日の社長に聞くin WizBizは、株式会社サンワカンパニー代表取締役社長 山根太郎様でいらっしゃいます。
当初、マザーズ上場企業の社長様でいらっしゃいます。
まずは、経歴の方をご紹介させていただきます。
1983年、奈良県奈良市生まれ、関西学院大学経済学部を卒業後、
2008年、伊東中小寺株式会社繊維カンパニーにご入社。
上海駐在などを経て、2014年4月に株式会社サンワカンパニーに入社し、
同年6月には代表取締役社長にご就任されていらっしゃいます。
上場企業の社長様でいらっしゃいます。
山根様、よろしくお願い申し上げます。
よろしくお願いします。
まず最初のご質問なんですが、ご出身が奈良ということで、小学校・中学校時代はどんなお子さんでいらっしゃいましたか?
そうですね。これ奈良って言うと、いつも僕、奈良じゃないんだけどなと思っちゃうんですけど、
たまたま母方の実家が奈良にその時あって、
要するに里親出産で奈良で生まれたというだけで、
翌週には兵庫県に引っ越してますんで、
うまい兵庫県育ちって言ってほしいなとは思っているんですけど、
幼少期ってすごい僕の場合は暗かったですね。
実は川崎病という原因不明の、川崎先生というお医者さんが発見した病気だから、
川崎病という病気の後遺症で、100メートル以上走ってはいけない、
ドクターストップがかかっていて走ってはいけないという制限がかけられた子どもだったんで、
体もちっちゃくて、すごい自分自身がなくてという、そういうタイプの子どもでしたね。
静かに過ごしていたってこんな感じのイメージ?
そうでもないですね。逆に言うと100メートル以内であればいいんでしょうということで、
短距離であったりとか、短い距離のスポーツとか色々なところ遊びに行ったりするのは好きだったんですけど、
最後の最後はやっぱりマラソンとか水泳は見学ってなると、
ちょっとなんかあいつ体弱いらしいでみたいな感じで言われて、
それはコンプレックスでしたね。
兵庫はどちらでいらっしゃったんですか?
兵庫県の天ヶ崎で幼少期を過ごして、ちょっと柄が悪いということで、
教育環境を変えるという親の方針で宝塚市の方に一個して。
宝塚だと高級住宅街という感じですかね。
カーセンな住宅街なんで、そんなにヤンキーの方もいないし、
父親母親としてもそのコンプレックスがあって、
そのコンプレックスの向かう方向先を間違うとやっぱりグレたりするっていうのは分かってたと思うんで、
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そういうことが起こり得ない環境に引っ越したと。
中学時代は何かこういうのを過ごしたかった思いでございますでしょうか?
中国時代は意外だと思われるんですけど、僕は病気の後遺症があったんで、
いわゆる数研部、英研部みたいなところに入って、
当時ビジュアルベーシックっていうプログラミングの言語があったんですけど、
それで2Dの平面のロールプレイングゲームを作るみたいなことをやってました。
IT企業の社長様らしい逸話なんですけども、
結構プログラミングがお好きでいらっしゃったとか?
当時は好きだったんですよ。
続きがあるんですけど、結局中学3年の時に、
病気のリスク、命を失うリスクを追ってでもスポーツがしたいっていう風に親に言って、
テニスを始めてからは一切プログラミングを逆にやらなくなったんで、
あの時もちょっとやった方が良かったなと思いますね、今こんな時代になったら。
いわゆるこの社長にくるゆみずるで言ったりすると、
IT企業の上場企業の社長さんみんな小学校時代とか中学校時代とか高校時代に
プログラミングみなさんやってらっしゃったんで、
もしかしたらIT企業の上場企業の社長様だったかも。
山田社長様は違うかもしれませんね。
そうですね。
高校は標語ですか?
標語です。中高大と一貫校行きましたんで。
あ、そうですか。
感性学院大学の附属校みたいな。
はい、そうです。
高校時代はどんな思い出がございますか?
高校時代はね、ほんとテニスしかしなかったですね。
やっぱりそれまで運動を制限されてたんで、
制限されてた分どこまででもやっていいんだってなるとですね、
人が嫌がるようなトレーニングもやったらあかんって言われたことなんで、
あんまり苦じゃなくできるんで、
だいたい自転車通学だったんで、朝5時くらいに起きて6時にはコート行って、
で、8時半の修行まで一人でずっとサーブ打つか、
もしくは朝連来た友達と打つかして、
で、授業中に体力を回復して寝てですね。
で、3時から6時までクラブ活動、
で、6時から7時までジム行って、
7時から10時までテニススクールでまたテニスっていうのを
365日中360日くらいやってたんで、
それしかしてなかったですね。
じゃあ相当上手かったんじゃないですか?
いや、それはね、やっぱり中学校3年生から始めたんで、
やっぱりその英才教育のスポーツだったんで、
やっぱり全国大会には行けず、全国大会に行けないんだったら
こんだけやって、毎日朝から晩までこんだけやって、
全国大会にも行けないんだったら辞めろって言われて、
大学は勉強に専念しろって親に言われて、
で、まあ、じゃあ辞めないといけないなと思ってたんですよね。
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なるほど。で、大学は関西学院大学、そのまま行われてる感じですが、
他に行こうともあまり思われなかった感じじゃないですか?
そうですね。そもそも親がこの子にいわゆる
肩にはまった受験勉強っていうのは絶対に向かないと。
だから小学校の間にやらせておいて、大学までついてるところの方が
いいっていうのが親の判断だったみたいなんで、
僕もあんまり受験する気なかったですし、
あともう一つ話続きがあって、高校3年生の時に最後の思い出に
どんだけお前が世界的に見たらしょぼいテニスプレーヤーか知るために
一回世界大会に出てこいって言われて、フロリダに遠征行ったんですね。
ほんと前代未聞ですよ。国内で全国大会に出れないやつが
海外のジュニアの大会に出るっていうのはもう前代未聞だったんですけど、
なんとそこで準決勝まで行ってですね、で、なんかもう親も
なんかベースボールと野球の違いがあるように
低級とテニスも違うんかもしれんみたいな、ちょっとああいう発想になってですね。
で、そのまま大学でも海外回ったらみたいな話になって、
実は大学時代は水野さんにテスター契約してもらって海外ずっと遠征してたんですよね。
じゃあやっぱり面白さだったんじゃないですか。
まあまあまあ、人並み以上には結局できましたね。
じゃあ大学時代もテニス中心の生活でいらっしゃったんですか。
はい、27歳で引退するまでは。
じゃあプロだったんですか。
まあセミプロっていう感じですかね。お金はもらってなかったですけど。
じゃあちょっと大学時代の思い出を聞こうと思います。
ちょっともうお聞きしましたが、大学時代の思い出っていうのはやっぱりテニスでいらっしゃいますかね。
そうですね、まあ大学時代の思い出っていうのはテニスというよりか、
まあやっぱりその自分の青春時代真血を注いできたもので挫折をするっていう経験が
たぶん一番の経験と思い出で、
21歳の時にテニスを諦めるきっかけが2つあってですね。
1つは当時僕が20歳ぐらいで、11歳か12歳の西堀圭とやったんですよね。
でもギリギリ勝ったと。
西堀はそんな馬鹿な。
だからやっぱり小学校5年生とやって、大学2年生の心身ともにピークの自分がやって、
小学校5年生の天才とどっこいどっこいなんだってなったら、
これこの後の人生捧げるのはちょっとリスク高いよねって思ったのが1つと、
その直後の海外遠征で世界500ぐらいの選手に0-6-0-6で10分ぐらいで負けたんですよね。
これがフェデラーなら私も世界500位の無名の選手で、
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その選手も次の次ぐらいでポロッと負けてるんですよ。
これは無理だなと思ってニュージーランドの遠征から帰ってきて、
しばらく全く何も手につかず、半年ぐらい次、今まで人生を捧げてきたものが急になくなったんで、
次何しようかなっていうのがいわゆる燃え尽き症候群ですよね。
何も手につかない状態っていうのが大学の3年生ぐらいですかね。
なるほどね。そうするとその後就職活動という感じのスケジュールだと思うんですけど、
就職活動は一生懸命やろうみたいな感じで出られちゃったんですか?
そうです。結局テニスの何が好きだったのかっていうのを要素分解していったんですよ。
そしたらまず一人でできるってこと。
これだから朝5時に行って夜10時までやるっていうのに付き合ってくれる人はなかなかいなかったんですけど、
一人でもできたと。これが自分に向いてたよねっていう部分と、
もう一つは資格がなくても海外遠征で1年に20カ国ぐらい述べ転選できたっていう、
いろんなところに行っていろんな人に会っていろんなものを食べていろんなものを経験するっていうのが
すごい好きだったなっていうのが分かったんで、
じゃあこれができる仕事に就こうと思ったときに総合省舎だなと思ったんですよ。
今の経歴でテニスばっかりしかしてなかったのに、
超難関の人気の総合省舎に就職するのは無理だというので、
親に頼み込んで留学させてくれというので留学したのがイタリアのフィレンツェの大学だった。
フィレンツェの大学の3年生のときからですか、4年生のときから留学は?
3年、4年と、4年、5年と留学したかな。
フィレンツェの大学のほうにご留学された。そのときの思い出とかございますか、イタリアで。
いろいろありますね。やっぱり文化の違い、時間に対する感覚の違い、
アジア人に対する差別、いわゆる南のほうに行くとチーナ、チーナって中国人を区別するような言葉なんですけども、
言いながら石を投げられたりとか、後は実は引退したって言いながらも、
友達のテニス選手がお前がいるんだったらイタリアの試合に出るから応援に来てよって言われて、
行って、急遽ダブルス組んでくれないかって言われて、ダブルス組んで出たっていう経験があったんですけど、
日本人の僕たちだけオフィシャルホテルの部屋がなかったりとか、
すごいよくしてくれたイタリア人の人とか、ホームステー先のおばあちゃんとか、いい思い出もいっぱいあるんですけど、
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留学時代にした経験で一番今身についているというか、いわゆる多様性を受け入れていく中で役に立っている経験は、
自分がマイノリティになったことがあるということですよね。
なるほど。なかなかリスナーの皆さんも深い話で。
深い話なんですけど。
そういうご経験が。
フィレンテから戻ってきたのは、大学5年に当たるぐらいのときに戻られて、その後就職活動ですか?
その後就職活動ですね。
就職活動は、勝者狙って勝者ばっかり受けられて、そんな感じでいらっしゃるんですか?
まだ若くて学生だったんで、やっぱり電通も内定取ったけどみたいなことを言いたくて、
一応広告代理店とか外資とか、モテそうなところっていうのは一通り受けたんですけど、
最終的には伊藤中の内定をもらった段階で就職活動は全部やめたと。
なるほど。
新卒採用ですか?中途採用ですか?
もちろん新卒です。一回も卒業してなかったんで。
伊藤中少女の繊維カンパニー、繊維カンパニーというと伝統的な伊藤中少女、
例えば繊維の分野が一番伝統ですので、そこに入られたのはやっぱり母優集団がいらっしゃったからとか、
そういう理由で配属が決められたって、そんな感じでいらっしゃるんですか?
いや、当時伊藤中少女は最初に入りたい部署を選んで受けるっていうのができたんで、
僕は伊藤中だったら繊維、三菱だったらプラント、三井だったら鉄工とかっていって、
やっぱりそこの会社の一番の部署で働きたいと思ってたんで、伊藤中の場合は繊維で出させてもらった。
なるほど。で、AS部門でちゃんとご入社で受けられるってことですか?
やっぱり母優集団でいらっしゃったのかなと思ったんで、そんなことないですか?
いや、僕も今逆に採用する立場になるじゃないですか。
たまにツイッターとかインスタのDMで、私はこんな日本社のことが好きなのになぜ不採用になったか理由だけでも教えてほしいっていうメールが来たりするんですよ。
その人たちにいつも言うんですけど、本当に入りたいと思って、それに伴った行動をしたかなと。
社長に一回でも会わせてくれて、社長室に来てたら変わったかもしれないし、
それと一緒で、当時僕は入りたいっていう会社の社員さんにめちゃめちゃ数あったんですよね。
いわゆるOB訪問。
OB訪問の数すごいあったんですよ。
それだけでも入りたいっていう意志は向こうに伝わるじゃないですか。
経歴的にも面白かったと思うんですね。
テニスで海外遠征してて、イタリア語と英語をしゃべれるみたいな。
商社マン向きだと思うんですよ。体育会系で英語者とイタリア語をしゃべれるみたいな。
もちろんそれがあったにせよ、僕の優秀だった人、賢かった人っていうのはたぶんいっぱいいると思うんですけど、
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彼らより入る、入社するっていうことに対しての、いわゆるアプローチの仕方が圧倒的に違ったというだけかなと思います。
たぶんリサの中でも学生さんも聞いていただいてると思いますので、今のお話は大変参考になります。
だから入りたいから社長室に毎回来られても困るんですけど。
大事事例で。
サーバーカンペに会う方が来られるかもしれません。
毎回社長に会わせてくれって来ても困るんですけど。
なるほど。ありがとうございます。
伊藤知事当時は上海に駐在されていらっしゃるということで、上海はご自身でお手を挙げになられたんですか?
違うんですよ。1年目の時に部の物流経費を全部一本にまとめて、物流経費を削減するというプロジェクトを勝手にやって、勝手にやったら評価していただいて、
同期最速で駐在が決まったぞって言われて、
僕がいた部署はミラノ、パリ、ロンドン、ニューヨーク、上海しかなかったんですよ。あと香港か。
で、どこでもいいけど上海と香港だけは嫌やなと思ってたんですよね。
そうしたら上海やったと。
でも2010年の上海って言うとちょうどグッと伸びている中国の時?
そうです。8%成長を維持している最後の2年くらいですかね。
非常に面白かったんじゃないかなと思うんですが。
おっしゃる通り結果的には、いわゆるミラノパリみたいに情報を取ってきて日本に送るという部署ではなくて、
お前みたいな奴はそこの大地で自分たちで商売を作って稼ぐっていう中国とか香港みたいな駐在地の方があっているという上司の判断で上海にしてもらったと。
なるほど。じゃあ上海でも独自にいろんなものを作り上げていっている感じの2年間って感じでしたんですかね。
そうですね。最初の1年はお金出していただいて上海交通大学に合格留学しただけなんで、ただ大学生をやっていたと。
何か思い出とかございますか、上海で。
一番の思い出は、駐在先の直属の日本人上司と馬がなくて、半年間くらいそこの部署に2人しか日本人いないのに半年間くらい口を聞かなかったっていう。
嘆くの果てに何か挨拶もできへんであったら、お前は俺の部下でも社員でもないと。
俺の部署のパソコンとデスク使うなって言われて会議室にポーンと放り込まれてっていうことがありましたね。
その時はその通りしたかったんですか。
そうですね。それをもってパワハラやって訴えて上司変えてもらいましたけど。
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そういうところで社会不適合者なんですよ。
そもそも商売の家計に生まれて、全部父親が自分で仕決定してきているのを見てますんで。
そう思うと、なんでこんな尊敬できない奴、言うこと聞かなあかんねやみたいな。
社長様らしい社長様って言うことだと思うんですけども。
3分コンサルティング。みずみずが社長の悩みを解決。
本日の3分コンサルティングはH3、繊維産業だそうです。繊維関係の卸しをやっております。
コロナの影響もあり経営が厳しくなっております。
社内の若手メンバー中心に直販の企画を立て、ディテール向けのバッグなど自社商品を数点完成させました。
早速会社のホームページに掲載しましたがほとんど売れていません。
商品開発メンバーからは専用のサイトを作りたいとか楽天に出展してみてはいいかどうかといった意見が出てきます。
展示会にも出展しましたが手応えが今一つだったようです。
ウェブ製作会社からの提案も受けました。ただどうにもこれだという決定題に勝て合算を出さずにいます。
社内に詳しい人間がいない場合のウェブ反則についてご教授いただきたくお願いいたします。
これは皆さん悩まれると思いますが、ウェブの知識を社長自らがつけていく意外ないと思います。
私もアパレル関連のコンサルティングをしていたことがありますが、アパレル関連は自社ECサイトをいつか持たないといけないと思います。
プラス楽天とかAmazonとかYahoo!ショッピングとかいろんなところに出してくださるを得ない部分があるんじゃないかなと思います。
そういう意味では社内でウェブの専門家を育てるしかない。
専門家を育てると言っても勝手に育つわけじゃないので、そういう意味では社長自らがまずは勉強する。
何ならLPぐらいだったらワードプレスで作れるぐらいまでいく。
かつ、SEO対策なんかを勉強してある程度わかっている状態まで持ってくる。
これがまず最初でしょうね。
今だったらYouTubeとかでいろんなセミナー無料で見れると思いますので、
SEO対策だったら3本とか5本とか10本とか、
ウェブの作り方とかだったらそれも3本とか5本とか見ていただいて勉強していくとか重要なんじゃないかと思います。
かつその後、社長様がそういうことを詳しい状態でウェブの専門家を社内に入れ、
もしくは社内から育て、そしてどんどこチャレンジさせながら、
そこはもう研究開発者、新規児童だと思ってお金を少し捨てるぐらいの覚悟で投資をしていく。
そんなことが必要なんじゃないでしょうか。
でないと、もう今は第4次産業革命中ですし、コロナで全員がIT化してしまいましたね。
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ネット化してしまいましたので、支給でやらなきゃいけない。
もしスピードが遅れたら、もしかすると生き残りも厳しいかもしれない。
そんな時代でございます。
で、ウェブの政策は当たり前、ECサイトの政策も当たり前、そこでSEO対策で勝っていくことも当たり前ぐらいで、
チャレンジしないと厳しいんじゃないですか。
もしそういうのがやっぱり難しいんだということであれば、諦めて卸しだけでだんだん縮小していくというのを選ばれることも、
それもそれで道だと思います。
LINEでは新しい、全く違う方面に出てくることも道だと思います。
それぐらい世の中が大変厳しく、ネットをやっていない企業の生き残りはないというぐらいのところまで、
第4次産業革命がやってきてしまいましたので、ちょっと腹をくくって、ネットビジネス、ウェブ反則等々を徹底的に考えていっていただけたらいいんじゃないかと思います。
悩ましい問題だし、多くの方がこのことで悩んでいると思いますが、
ちょっと諦めていただいて、腹をくくってネットビジネスに参入してみてはどうかと思います。
もしよろしければ何なりとご相談のりますので、それこそZoomでつないで何なりと相談のりますので、何なりとおっしゃっていただければと思います。
本日の3分コンサルティングはここまで。また来週。
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの生光社長、生光経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、私どもウィズビズが運営するウェブサイト、経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、皆様の会社経営に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長肉インウィズではここまで。また来週。