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社長に聞く、in WizBiz
本日の社長に聞くin WizBizは、ヒューマン・アソシエイツ・ホールディングス株式会社代表取締役社長の渡邉昭彦様でいらっしゃいます。
まずは、経歴をご紹介させていただきます。
1979年、日本長期信用銀行にご入行。その後、日本工業銀行に移られ、そしてセブンイレブン・ジャパン楽天証券とご入所されていらっしゃいます。
その後、現当社のヒューマン・アソシエイツ株式会社にご入社。その年の9月には社長になられ、そして2018年4月、東証マザーズに上場されている上場企業の社長様でいらっしゃいます。渡邉社長様、本日はよろしくお願い申し上げます。
はい、こちらこそよろしくお願いします。
最初のご質問で、ご出身は東京でいらっしゃいますか?
東京の世田谷の、あまりご存じない方も多いかなと思うんですけれども、奥沢というところでございます。
小学校、中学校時代はどんな思い出がございますか?
そうですね、私はちょうどあれですよね、年代的にはざまだったのが、すごく生徒数の少ない時代でしてね。
小学校、中学校とも地元の奥沢小学校、奥沢中学校ってことだったんですけど、あれですかね、小学校なんて2クラスしかないし、そのメンバーがほとんど中学校まで行くんで、幼稚園も一緒の人も結構いるんでですね。
地元の狭い中で10年とか以上付き合ってるから、お互いに全員の家族っていうか知ってるっていう状況ですかね。
ですから変な話だけど、誰の家のどこに何があってどうなってるかとか、あそこのスマが破けてるとか、そこまで知ってるぐらいの非常に親密なんで、東京ではあったけれども非常に素朴な小中学校ですかね。
マリンもそれこそ田んぼとかですね、畑、田んぼはなかったかな、畑はいっぱいありましたし、遊びに行くのも多摩川がまだ釣りができてね、水泳もできたような時代だったんで、非常に東京でありながら田舎ののんびりした小中学校の生活を送ったかなっていうふうに思ってますね。
今でいうと奥沢というと高級住宅街で十賀丘とか田園町府の間といいますか、その辺ですので、なんとなくおぼっちゃまなのかなっていう感じがするんですが、そうでもないんですか。
西原 そうでもないっていうか、全くそんなことはないかなと思うんですけれども、たまたま父というか祖父の代からですね、奥沢に来てるんですけれども、祖父がそのとき、あの近くだと奥沢と十賀丘とそれから田園町府のどこにしようかなって言って、十賀丘ぐらいを選んだりとかいろいろ人生を重ねてたと思うんだけど、奥沢を選びましてですね、当時は一番それなりには発展してたらしいんですけれども、いうことなんで。
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まああれですよね、山手の下町って感じの風情であるってことで言えば、まあ決しておぼっちゃまでもなんでもないということだと思います。
西原 それでよろしいですか。高校も東京の方の高校でいらっしゃいますか。
西原 そうですね、都立の青山高校っていうとこなんですけれども、受験、小学校から中学校とか受験する人もまあまあそこそこいないこともなかったんですけど、我々のときはやっぱり効率をずっと上がっていくということで、自動的にっていうんですかね。
当然、区立の小学校と区立の中学校で行きましたんで、高校は都立ということで青山高校に入りました。
西原 今、たまたまオフィスが一昨年ですか、引っ越して、私が決めたわけじゃないんですけれども、まさに青山に本社移転しましてですね、高校外縁のすぐそばなんですけどね。
数十年ぶり、四十年ぶりか四十五年ぶりぐらいですかね、ふるさとに帰ったなっていう感じで今、生活を、まあ仕事を中心ですけどね、やってるって感じです。
西原 青山というと学区的にと私も一緒なんですが、東山青山ですんで、2番目には頭のいい、いっぱいいい大学に行くような頭のいい方が揃う高校という感じなんですが、高校時代の思い出なんていうのはどんな思いでございますでしょうか。
西原 確かに学区としてはね、割とレベルの高いと言われてた高校なんですけど、非常にリベラルな高校でしてね。
私がいたときはもう終わってましたけど、それこそご記憶にあるか、学生紛争が盛んなとき、高校で唯一生徒が逮捕された高校で非常にリベラル。
ですから、服装も私服ですし、さすがに遅刻したりすると怒られますけれども、教学ですしね、それから周りが大山とか表参道だし、本当にこんなに自由な高校と学校があっていいのかなというぐらいの雰囲気、興奮のとこでした。
ですから、そういう意味では非常に楽しかったですね。
西原 そうですか。大学は都内の大学でいらっしゃいますか。
西原 大学はそういうリベラルなとこだったんですけど、運がよく東大に入りまして、周りからは驚かれたというか、なんでお前みたいな感じだったんですけど。
西原 都立の青山から東大だと本当に都立の青山で1位か2位かぐらいの頭の良さでいらっしゃるんですか。
西原 でもね、私の頃は割とまだ結構どうかな、40人ぐらい入ってたんですよ。
西原 そうですか。
西原 だからそこそこだったかな。別にそんなに1位とか2位とか立派な成績じゃないし、そういう生活をしてましたんで、中より上かぐらいとかそんなもんじゃなかったですかね。
西原 東大の頃は何か思い出とかこんな風に過ごしたとかございますでしょうか。
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西原 東大のときは経済学部に入ったんですけどね。ご存知か東大って文科1類2類3類って分1分2分3っていうことで、経済学部は分2ってとこなんですけどね。
西原 高校のときに剣道部に入ってまして、結構高校で剣道って特に後派ですから大変だったんでですね、大学遊んでやろうと思って、経済学部だった、そういう学科だったこともあるんであんまり授業出なくてもOKだったんで。
大学はもちろん行ってましたけど、ほぼ朝から晩まで当然ながらジャンソーに入って、朝どうですかね11時ぐらいに行って終電までやってたから12時間ぐらいマージュやってた生活、全くの本当に地ざらくな生活でした。
西原 卒業後は聴銀ということで官僚になろうとかそういうことは思わなかったんですか。
西原 私奥さんってさっき言ったんだけど、隣のうちの奥さんのおじさんだから、おじさんかおじさんだったかおいだったか忘れちゃったけど、私が大学4年の夏休みに家の庭で、ちっちゃい庭でしたけどぐらぐらしてたら、隣のおばさんがですね、あんた就職どうするのって言うんで、いやまあ特段考えてないんだけどって言ったら、
西原 いや私のおじさんかおいかな、聴銀という銀行に勤めて結構偉くなっている人がいるんで、一度会ってみたらとかって言われて、あそうですかね、あまり聞いたことのない名前の銀行だなと思ったんだけど、夏休みで暇だったし、
あの頃はちょうど会社訪問って10月1日解禁だったんで、まあ確かに8月9月だとね、どっか行くとこ決めなきゃいかないなと思ってて、それでそのおじさんに会って、非常になかなか魅力的な人でね、
大外国は何やってるのかと聞かれて、フランス語ですとか言ったら、カミューの違法人だなとか言って、お嬢でいいとかフランス語をしゃべり始めて、一発で痺れてしまいまして、それで聴銀に入ったんですかね。
その方は、実はその後、もう亡くなられましたけど、最終的には盗撮りまでになられましたので、なかなか縁があったのかなと今にして思うところはあります。
なるほど、すごい話ですが、お若い方多分、リスナーの皆さん、聴銀って知らないと思いますが、当時聴銀っていうと東大の方とか、悪くて一橋大学ぐらいしか入らないぐらい素晴らしい銀行が聴銀ですので、お若い方ご存じないと思いますが、一応ご説明しておきます。
聴銀時代の思い出なんていうのは何かございますでしょうか。
そうですね、銀行なんでね、結局20年ぐらい勤めたのかな、2,3年にいろんなところ回るんですけれども、大きく言うと2つかが、1つは銀行って結構あの頃はですね、若いうちに官庁に出向するっていうことがありましてね、私は今の経産省、だから当時の通産省に出向しましてね、
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結局3年ぐらいいたんですが、あのあれですかね、あの頃は通常残業所って言われてたんですけれども、ブラックどころじゃないですよね。朝はね、
10時ぐらいなんですけれども、感覚的に言うと夜の10時ぐらいから仕事が始まる感じで、そっから2時とか3時ぐらいまで、一般的には国会対応が多いんですけどね、
そういう生活をどうだろう、平日は当然ながら土曜日も入るから年300日ぐらいですかね、そういう生活を3年間しまして、
こういう突き抜けたすごい世界で、役人の人って今でこそいろいろ言われるけど、やっぱりめちゃくちゃ当時、特に通産省の役人ってめちゃくちゃ優秀でしてね、
銀行にもそれくらいの人たちがいたけど、ちょっと桁が違う優秀さなんですよね。その突き抜けて優秀な人たちと、まあ1日20時間ぐらい、それはいすいかな、
16、17時間、3年間仕事できたっていうのは非常に強烈な印象だし、まあそういう人たちとは今も付き合ってて、
非常にそういう面でのいい経験をしてもらったかなっていうのが銀行ですかね。もう一つはね、30歳ぐらいの時かな、いわゆる国際金融部っていうとこ行きましてね、
私、アジア補正に担当だったんで、アジア補正に担当っていうのはですね、いい面と悪い面があって、
まあいい面はね、近くって飛行機で行きますけど、便利で時差がないって言うんだけど、時差がないってことはですね、日中電話で話さなきゃいけないんですよね。
私、留学経験とか海外経験の中って丸止めでいきなりそういうとこ行っちゃったんで、まあそれは英語では苦労したなと。
で、周り結構留学帰りの人間とか多かったんで、そういう人間は大体アメリカとかヨーロッパ担当するんだけど、私は時差がないアジア担当なんでですね、どうしても日中電話しなきゃいけないんで、
まあ、何ですかね、恥をし飲んで電話をしたかな。英語の勉強しなきゃいけないって言うんで、まあ語学学校とか通えばよかったんだけど、全然時間なかったんで、あれですかね、今でも覚えてるけど、まだまだ当時はビデオですかね、ビデオを借りてきて洋画を見て、見てるとつい字幕を読んじゃうから、
字幕のところにねガムテープ貼ってね、結構あのヒアリングして読学で苦労して勉強したっていうのが記憶。ただまあアジアだったんで、あの30年前のアジアっていうのはね、あの中国もまだ対外解放してない頃で、
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シャンハイの皆さん想像するかな、シャンハイの空港にあの建築機みたいのができてたんだけど、ベニヤで作ってるような、そんなような時代ですかね。
あとインドも行きましたけど、インドなんかもう本当にあのビルなんか高層ビルなんかもうあるわけないし、本当にアジアのその発展する国々の人たちに資金をその融資するっていう仕事をして、まあ
それふうに言えばそういう国の発展に資質なのかなって、今にして思うとね、当時は全然思わなかったけれど、思ったんで、まあいろんな経験をさせてもらったなっていうのは銀行の生活かなと思います。
【佐藤】長銀さんのご出身だし、グローバルなお話で、なるほどっていう感じでございますけども、長銀その後辞められて工銀に移られてらっしゃるんです。日本工業銀行工銀に移られてらっしゃるんです。こちら何かの理由はございましたでしょうか。
【長銀】まあそこはある意味社会人としてのですね、私の転換点だし、まあそういうことで今日に至るというと偉い言い方だけど、今日になるのかなと思うんだけれども、長銀がですね、国有化ってことなんですけど実質破綻しまして、でちょうどその時私人事部にいましてね、
金融庁っていうのができつつあるときだったんですけど、毎日大変な生活を送っている中4年、だから最後あれかな、長銀の人事部に4年いたのかな、それからその後企画っていうところに移って、でそこでちょうど国有化して破綻してっていうような感じになったんですかね。
で、まあそれこそそこも最後の2年間ぐらいは1日16、7時間は働いたかなと思うんだけど、まあいわゆるその受け先が決まって、スポンサーが決まって、次のエキズイットが決まってっていうところで、まあ一段落したかなと思ってたときに、たまたまあの工銀の役員の方が長銀に副当取で来ておられて、その方が工銀に戻られて、
長銀はそのときちょっと外資が入ったってこともあってですね、なんとなくまあこう私なりの抵抗感みたいなもあって、それでまあじゃあもう1回日本の金融、純粋なね日本の金融界でやってみたいなってことで、工銀に移ったというのが経緯です。
なるほど。工銀でも人事部とか企画部とか。
えっとね、工銀はね、営業にまいりましてですね、フロントの仕事を結局3年半ぐらいあったのかなです。
ただまあ工銀、長銀って似てるんだけど、やっぱり工銀はさらに重工長代に強い会社で、銀行で、で特にその中でも最もハードっていうかトラディショナルな鉄工会社とか重工会社とか、そういうところを担当させていただきましてね、
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銀行との取引も何十年とやってメイン銀行としてやってるんで、すごく取引の厚みがあって、まあ改めてその日本の金融と産業界の深さみたいなものを感じた、その面でもすごく有意義なっていうんですかね、経験をさせてもらったなと思ってます。
ですからまあ、工銀についてはそういうフロントの仕事を3年半ですかね、やったという経験です。
なるほど、ありがとうございます。で、その後ちょっと変わってましたよ、セブレブンに、コンビニのセブレブンですよね。
そうです、そうですよ。
ちょっと銀行からセブレブンってちょっとハテナな感じなんですが、割とそういうルートってあるもんなんですか。
いや、まああの全くとは言わないけど、ほとんどなかったと思うんですけどね。
工銀はその後水穂になって、なんとなく水穂になってくるとカルチャーが少し違うかなと思い回る中で、知り合いがですね、セブン銀行の役をやってる人がいましてね。
で、セブンイレブンがなかなか、もちろんバリバリのいい会社だったんですけど、スタッフで人事とか企画をできる人がいないんで、やってみないかっていうお声がかかって、
まあ銀行も飽きたって言うとあれですけどね、見先変えてなかなか面白そうだなと思うんで、周りからなんでみたいな感じもあったんだけれど、チャレンジって意味でセブンイレブンに移った次第です。
当時のセブンイレブン、セブン銀行なんて特にセブン銀行なんか立ち上げたばっかりぐらいじゃないでしょうかね。
そうですね、セブン銀行もある準備室の段階だったですかね。セブンイレブンで私はね、銀行の最後人事にいたんで、セブンイレブンでは最初、結局何年いたのかな。
4年、5年ぐらいいたのかな。最初が人事で、その後半企画だったんですけれども、あれですよね。
行って一番驚いたのは、2つあってね、1つはオフィスなんですけれども、蛍光灯から紐が下がってるっていうのは1つですね。
それからもう1つはですね、オフィスっていうか机がですね、全員廊下向いてるんですよ。
言い換えると全員窓側にお城向けてて、全員廊下側に向かってる机。だから部長が一番窓側にいて、そこから部下の背中を見る順番で課長、係長、正確にはタイトル違うけど担当みたいになってて、その2つには驚きましたね。
なんでかってことだと思うんだけれども、蛍光灯はですね、昼休みとかに消すんですよ。
なぜかとお分かりのとおり、電気代がもったいないと。
本当にでも蛍光灯って消したりつけたりすると電気代の節約になるのがギリギリな人しないんだけれども、気持ちの問題でしょうかね。それが1つですね。
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それから、なんで全員が窓側にお尻を向けて、廊下側に顔を向けてるかってことなんだけど、スタッフ部門でもですね、結構お客さんが来るんですよね。
お客さんって廊下通るじゃないですか。どうお客さんにですね、好利用としてお客さんにお尻を向けられるかってことなんですよ。
ですから、まあね、小堂堂作業にですね、企業カルチャーっていうのかな、立派なことだと思いますよね。そこまで徹底できるのはね。
すごくその面では入った瞬間、これはすごいと、本当にカルチャーショックを受けているのを今でも覚えています。
やっぱり伊藤洋介殿、伊藤明洋会長のご方針なんですかね。それとも鈴木先生、鈴木敏生さん。
元は伊藤さんかもしれないですけれども、基本的には鈴木会長ですかね。
鈴木会長ってのはすごい人だなと思うし、今でも僕はすごいなと思ってるんですけれども、今どうなってるのかな。
当時はFC会議って言って、毎週火曜日の朝だったですかね、全国からいわゆるスーパーバイザーを集めて、半日ぐらい会議っていうかミーティングやるんですよ、全国。
だから数千名集まるんですけどね。最初に鈴木会長が30分とか1時間ぐらい、1時間は話さないかな、30分ぐらい話すんですよ。
何がすごいかっていうと、毎週やるんですけれど、毎週同じことしか言わないんですよ。
それでも言葉って不思議ですよね。ボキャブラリーの問題じゃないんだなってよく分かったけど、気持ちの問題だったりよくあったけど、毎週同じことしか言わないんだけど、毎週なるほどとみんなうなるわけですね。
だからやはり、もちろんカリスマ性だけじゃないんだけれども、彼はやっぱり素晴らしい経営者。
それから特に基本的には順風満帆で来てる会社だけど、私も辞めた後も聞きましたけど、時折やはりちょっと厳しい時があるんだけど、
そういう時っていうのは鈴木さんの変わらぬ一言っていうのが軸となって会社がブレないっていうんですかね。
残念なことにいろんな経緯で辞められちゃったけど、やっぱり私が知る限り圧倒的に素晴らしい経営者だと思いますね。
私はお聞きしてる分で伝え聞きなんかあったかどうかなんですが、スーパーバイザー毎月1回は今も集まってて、長いと3日間東京に絶対泊まりで来なきゃいけなくて、全員絶対集められて、3日間研修と会議等で。
正月の1日も集まる。
1日は全員集まるんですよ。全員じゃないかな今。私も出ましたけど。
1日は管理職は必ず出てるんですけどね。そのお店とかフロントの状況を把握しろということで。
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2日に幹部の会議があって、そこでレポートをするみたいなことだったですかね。
ですから、セブンイレブンにとっては31日も1日もなくて、365日ってことかな。
小売だったからしょうがないんですけど、新入社員、今はだいぶ変わったと思うんだけれども、新入社員の笑い話ってのがあってね。
大学の同期で卒業して1年目ですかね、夜飲みに行ったと。金曜日の夜だったのかな。
セブンの社員がね、いや俺さ、今週末連休なんだって嬉しそうに言ったって話なんですよね。
周りがね、そうか月曜日とか休んで3連休かとか言ったら、いやいや土日両方休めるって言ったってこと。
というぐらいやっぱりすごいですよ。
すごい会社でいらっしゃいますね。
すごいと思います。
3分コンサルティング。みずみずが社長の悩みを解決。
本日の3分コンサルティングはTさん、ホームページ制作、インターネット広告制作会社10名、社員数10名の東京都の社長さんです。
新退院さんはじめまして、Tと申します。新型コロナウイルス感染症対策で弊社も一部テレワークを導入しました。
素晴らしいですね。いずれは全社テレワーク体制に移行しようかと検討を進めています。
フルリモートを導入するにあたって、今から乗り越えるべき問題は多数ありますが、やはりコミュニケーションとマネージメントが一番の課題であると考えています。
ウィズニス様では、リモート時のマネージメントやコミュニケーションはどういうふうに取り組んでいらっしゃいますか。
またリモートワークで直面した課題などありましたら、その対応方法も含め、ぜひお聞きしたいです。よろしくお願いいたします。ということでいらっしゃいます。
弊社のこの番組で何回もお話ししますが、もともと在宅勤務のメンバーがいて、今も2人ぐらいいまして、その在宅勤務のメンバーの頃になってから、毎日画面上は会っているんですけども、正直リハルで会ったの、何ヶ月前だろうぐらい会ってないですね。
年1回か2回来るかが来ないかぐらいに今なってしまいましたね。もともとは月1回ぐらいは来てたんですけどね。
それを私訪問してると会わないですか。2、3ヶ月に1回しか会わないのが、半年に1回か1年に1回しか会わない感じ。
でもそれでじゃあ何か問題あるかと。全く問題ありませんね。だからコミュニケーションとマネジメントとおっしゃる感覚が、うちの会社は割と少ないかもしれないですね。
何でそうなっているかというと、もともと成果主義でやってますから、毎月毎月全社員の達成率が全部出るようになるんですね。
それを毎月毎月全社員に報告するような形になってますので、それで給与の査定の部分もありますので、そう考えてきますと、目標がちゃんと定められているかどうか。
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個人ごとチームごとですね。そうするとそれに合わせてマネジメントしたりすればいいので、そんなに問題は起こらない。さらにそのコミュニケーションはちゃんと会議があって、
指導する時間がありますので、私が指導する場合、上司が指導する場合、それぞれありますし、逆に悩んでるんだったらその話を組み取る仕組みを作っておりません。
そういう意味ではコミュニケーションもある程度取れてますし、かつさらに今はですね、朝礼を中礼、昼礼に変えまして、毎日毎日全社員つなげて、ある意味画面上ですけども、
お会いはしてるというか、社員たちとお会いしてて、私の講話だったりとかしてますので、また社員がしゃべる機会がありますので、そういう意味ではですね、コミュニケーションとマネジメントに問題が起こっていることはありません。
まずは成果主義というか人事評価制度、それがきっちりできているのか、それぞれ個人目標があってやるべきことが決まっている、その目標に向かって何をすべきかという、何を考えるべきなのかというのが決まっているかどうかというのは一つ目だと思いますし、
それが決まっていれば、あとは課題が出てくれば、指導すればいいし、アドバイスすればいいし、課題が出てこなかったら課題が出るように仕向けて、課題が明確になるように仕向ければいいだけの話でございますので、
コミュニケーションの方もそれほど困らないと思います。もちろんプライベートの課題に関してちょっとだけ相談するのが遅れているケースも非常に多いので、その点だけはちょっと大丈夫かなと思うときございますが、
とはいえそういうのも、もしあれだったらZoomとかオンラインとかでつないでプライベートの悩みも個別に載ってあげれば特に問題ないのではないかなと私自身は思っていますので、そこまで気にしなくてもいいんじゃないかなと思います。
つまり人事消化制度とある意味指導したり会議をしたりしていく仕組みができていただいていれば特に問題ないというのが私の答えでございます。
本日の3分コンサルティングはここまで。また来週。
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり誠にありがとうございました。この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
その内容はすべてテキスト化いたしまして、私どもウィズビズが運営するウェブサイト、経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、皆様の会社経に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、サイトの方にもさせていただいています。
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ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長に行くインウィズではここまで。また来週。