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ボイスドラマで学ぶ日本の歴史。ナビゲーターを務めます熊谷 陽子です。
この番組は、日本の歴史の時々で、命を削りながらも懸命に生きてきた人物にスポットを当てて、ボイスドラマとして再現いたしました。
このプロローグでは、本編をより楽しんでいただくために、物語の時代背景、登場人物、またその時に起きた事件などを簡単にご紹介するエピソードです。
歴史について詳しい方は、いきなり本編からお聞きいただいても楽しめる作品ではございますが、それも含めて簡単におさらいしたいなと思われましたら、ぜひこのプロローグから聞いてください。
それでは早速、シーズン3のエピソードをご紹介していきましょう。
今回取り上げる内容は、千利休と三人の天下人です。千利休ってお茶の人っていうイメージがありますよね。
私も表千家の茶道を習得しておりまして、利休百種という千利休の教えを和歌にしたものがあるんですけれども、そういったものをお勉強させていただいたりしておりました。
印象に残っているのは、
習いつつ、見てこそ習え、習わずに、よしよし言うわ、愚かなりけり。
まずはチャレンジしてみましょうよっていうような内容だと思うんですが、こういった心の在り方とかもてなし方なんかをですね、学んだりするわけですけれども。
実はこの千利休はですね、そういった優雅なマナー教室の先生なわけではなくてですね、戦国時代の真っ只中を駆け抜けた人ですから、文化人として茶道を体制したということよりも、
実際は今回ご紹介する3人の天下人と深く関わり、政治面での活躍が強い人物だったんです。
ではその3人の天下人とは一体誰なのでしょうか。
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天下人というとですね、3人セットになっているというと、小田信長、豊臣秀吉、徳川家康と来るかと思うのですが、今回ご紹介する天下人は小田信長と豊臣秀吉はご紹介します。
そして信長よりも以前に京都を中心とした紀内、今の近畿地方ですね、この紀内を全域初めて制圧した大名がいるんです。
近年、研究者たちが戦国時代の最初の天下人は実はこの人ではないかと注目を集めているその人の名は三好長吉。
今回はこの三好長吉、小田信長、豊臣秀吉、この3人の天下人になります。
そして千利休、この利休という名前はいわゆる豪という、今でいう芸名みたいなものですね。
ですので本名があるんです。本名は田中芳郎と言います。
結構普通な名前ですね。普通な名前だったんですけれども、この芳郎は1522年に大阪堺の魚どん屋の子供として生まれました。
いわゆるお茶の道については17歳の頃から始めたという記録があるんですが、基本的には堺の商人として繁盛を過ごしております。
後に出家して千聡益と名乗るようになります。
この当時の堺という町はですね、また非常に特殊な町でして、
中国、その時は民国ですね、中国とは言わず民国ですね、とか琉球、あとヨーロッパ、南蛮諸国との貿易の中継拠点として国内外の、それはそれは多くの商人たちが行き交う町だったようなんです。
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戦国の世にありながら町として非常に栄えていまして、この堺の商人たちによる自治で成り立っているという特別な地域だったんですね。
その堺の繁栄に目をつけたのが阿波の国、今の徳島県ですね、この大名であった三好家でした。
三好家の当主三好本長は室町幕府の官礼細川家の内紛に乗じて細川家の細川春本と手を組んで堺を支配します。
この三好本長が今回の一人目の天下人として紹介する三好長吉のお父さんにあたる人物なんです。
なかなか歴史の教科書で紹介されることがない三好長吉ですが、生まれは1522年、なんと琉球と同じ年の生まれだったんですね。
長吉の幼少期の名前は仙熊と言います。
父本長がこの堺を支配した時に一緒に堺に移り住んでくるんですね。
これが千利休、田中義郎と三好長吉、仙熊の運命的な出会いのきっかけになるんです。
吉郎と仙熊は堺にある臨済宗大徳寺派のお寺、南宗庵の大臨相当のもとで共に禅を学び平穏な日々を過ごします。
しかし世は戦国。
父三好本長が堺において力を持ちすぎたために手を組んでいたはずの細川春本に疎まれて、計略によって自害しなければならない状況に追い込まれてしまうんです。
この時、吉郎と仙熊はまだ十歳なんですね。
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窮地に追いやられた仙熊は仕方なく阿波の国に逃げ帰って、吉郎との一時の別れを余儀なくされてしまいます。
ですが、ここからの三好長よしの巻き返しが凄まじいんです。
十二歳で幻復後、細川春本と和解をします。
しかも春本の下心になりつつ力をつけていって、最後にはその春本、さらには時の将軍足利義輝をも抑えて京都を中心に、機内全域を支柱に収めるまで大躍進いたします。
そして何を隠そう、この大躍進の支えになったのが、筑波の友、千利休、田中吉郎と堺の商人たちだったんです。
三好長よしは1564年、四十三歳で病死しますが、
利休はその後、織田信長、豊臣秀吉に茶道、これはお茶に頭って書くんですね。
簡単に言ってしまえば、お茶会のホスト役として使える人ですね。
まあこれになっていきます。
この茶道という役職っていうのは、どれぐらい重要な位だったかと言いますと、豊臣政権時のナンバー2と言われた秀吉の弟、秀永が新しく参加に入った部署、まあ新人部署と言うんでしょうか。
まあこういった人たちに対して矜持する時にですね、公のことは私に、うちうちのことは利休に相談せよと言われたくらい絶大な地位にいたということなんです。
しかしそんな利休も茶人としても政治人としても絶頂にあった1591年、主君秀吉から切腹を命じられます。
武士でもない利休が切腹をするということは異例中の異例でありまして、またなぜ利休が秀吉から切腹を命じられたのかは、今も理由ははっきりと実はわかってないんですね。
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しかし今回私たちは、この理由を三好永吉と利休の関係が影響しているという大胆な仮説を立ててですね、挑むことにしました。
この利休と三人の天下人との関係はどのようなもので、どのような繋がりがあったのか。
幼馴染の三好永吉のみならず、なぜ信長や秀吉までもが利休を重宝したのか。
そして利休はなぜ秀吉に切腹を命じられたのか。
このあたり本作ならではの解釈も加えながらお話を展開していきます。
千利休という人物が、歴史的見地からは単なる茶人というだけではなく、深く安土桃山時代の政治に関わっていたということをご紹介できたらなぁと思っております。
ボイスドラマで学ぶ日本の歴史 シーズン3 千利休と天下人たち どうぞ最後までお楽しみください。
千利休と天下人たち 第一話 少年利休
その日は大荒れで、京都では氷が降ったといいます。
天正十九年、千五百九十一年、二月二十八日。
千利休は樹洛邸敷地内にある官邸にて切腹して果てました。
甘迫秀吉の激励に触れ、死を賜ったというのです。
人生七十、力一つ。
我が此の封剣、所仏共に殺す。
ひっさぐる、我が恵愚卒の一つたち。
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今この時ぞ、天に投げ討つ。
これは結毛といって、禅僧が末期に残す自生の句です。
千利休こと、千僧益は、臨済宗大徳寺に起家していたのです。
この時代、名前に僧の字がつく場合、大抵はこの大徳寺から授けられたものでした。
利休と並んで茶の湯の、天下三僧賞と称えられる、
芋居僧宮、津田僧宮もまた、大徳寺より僧の字をいただいており、
禅と茶は茶禅一味といって密接な関係があったのです。
ちなみに大徳寺は、織田信長の墓所でもあります。
さて、利休の時世はおおよそこんな意味でしょうか。
人生七十年、今も力はみなぎっている。
私の宝であるこの剣には、祖霊や仏さえも殺してしまう威力がある。
この身につけた人たちを、今こそ天に向けて投げ放とう。
茶の湯の道を武士道にたとえて読んだのでしょうか。
だとしたら、己の磨いてきた茶道をもってして、天下に訴えたい何かがあったのでしょうか。
なぜ利休が秀吉から死を賜ったのか、その理由は今もはっきりとはわかっていません。
豊臣家内部で利休の政治的な発言力が大きくなり、政敵に落とし入れられたとか、
あるいはそれこそ、大督寺の山門に設置した利休の木造が無礼であるとか、
いろいろと言われていますが、これまでこれだという決め手がありませんでした。
しかし近年、その謎を埋めるミッシングリンクが少しずつ見つかっているのです。
そしてその新たなリンクとは、信長以前の天下人として脚光を浴びつつある、
三好永吉と利休との関係なのです。
千利休と三好永吉は、共に1522年に生まれています。
世界に目を向けると、マルコポーロの艦隊が世界一周を成し遂げた大航海時代の真っ新中です。
この時代、日本もこの世界の潮流の中にあり、
グローバルな視点を持てるかどうかが、天下人たる資格であったと言えるかもしれません。
ともあれ、利休と三好永吉は共に、大督寺の高僧である大輪総統が、
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港町堺に開いた南州庵といういおりに参禅していました。
お互いを少年の頃から見知っているとも考えられます。
とはいえ、利休は戸戸屋という小さな魚どん屋の後取り息子で、
長吉はというと、今をときめく堺幕府の実験を握る三好一族の着なんですから、身分が違います。
けれども堺という町は当時、武士や商人といった身分の違いを超えた価値観、
ダイバシティにあふれる自由都市でしたので、
幼い二人が生まれや育ちを超えた友情を育んだ可能性は大いに考えられるのです。
あ、吉郎、またずるして切り上げたな。ちゃんと数えろよ。
もうええやろ、千駒。百も二百も平行いてたら臭くて叶わへんわ。
父様のへは臭い。
さて吉郎、誰のへが臭いじゃと?
相当様、いや、ではなく千駒です。
違います。吉郎がまたずるをして百を五十で切り上げたのです。
吉郎、千駒、二人とも罰として、もう千の間そこに座っておれ。
相当様、足がしみれてしまいました。千を三百にまかりませんか?
さすがはととや千家の跡取りだけあって、吉郎、そなたの利心まことにあっぱれじゃがな。
たまには秋内も休みにして、この大輪相当の言うとおり、禅の味をたっぷりと味おうてみよ。
禅の味をたっぷりと味おうてみよ。
利を休めると書いて利休という名の命名者はいくつかの説がありますが、この大輪相当がつけた相性起源説が有力です。
相当様、禅とは備えにうまいもんですか?
さて、まだ二人は味おうたことがなかったか。
座禅が終わると、大輪相当は八歳の吉郎と千熊、すなわちのちの利休と三好長吉に薄茶をふるまいました。
けっこうなお手前です。
四国阿波の国が本拠地である三好一族は文化芸術にも造形が深く、幼い千熊にも多少のたしなみがあります。
しかし、吉郎にはまだ早かったようで。
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うっ、にっか!
茶禅一味というてな。茶と禅とは同じ味、すなわち同じ道だという宣達の教え。
えぇっ!
ホッホッホッホッホッホッ、吉郎を見ていると、なぜか我が祖師である一丘宗淳様を思い浮かべる。
ずいぶんと堅破りなお方だったと聞かされたが、なぜか憎めぬお人柄だったそうじゃ。
あの、足利義満様に仕えられたという一丘様ですか?
さよう、私も実際には追うたことはないが、我が大徳寺の宣達じゃ。
では、今日から私は吉郎を利休と呼びましょう。
俺が利休やったら、千熊の弟は休んでばっかりやから、実休やな。フフフフフフ。
日本でお茶が庶民の間にも広まったのは室町時代と言われています。
しかしそれは和美茶ではなく、会所に集って掛けごとに競じる陶茶が主流でした。
戦う茶、陶茶とは茶の銘柄を当てる遊びで、風紀が乱れると幕府が禁じるほど大流行しました。
そんな中、大徳寺などの禅寺を中心に和美茶の様式が整えられ、
茶禅一味の風雅が徐々に解かれるようになっていきました。
A65年、1532年6月、大事件が起きました。
自由を謳歌する町堺を、十万人とも言われる一行一揆が取り囲んだのです。
いわゆる天文の錯乱です。
この頃、一行一揆は時に暴徒と化し、町を破壊し略奪を働きました。
南無阿弥陀仏と唱えるだけで必ず成仏できると信じる人々が、
集団催眠にでもかかったように死を恐れることなく、破壊行為を繰り返すのです。
堺の町衆たちは恐ろしさのあまりパニックを起こして逃げ惑いました。
戦駒、見えるか?
ああ、何だあれは?
李宮と戦駒は町外れの矢倉に登っていました。
一揆との様子を知るためです。
子供の骸骨や戦で殺されたんやろうか。
骸骨を抱いた女を戦闘に、ものすごい数の人の群れが、太鼓の音に合わせて近づいてくるのでした。
あれは釣り餌だ。
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え?
衆との怒りを誘い、群衆を操るための道具だ。
この一揆、誰かが裏で操っている。
そういえば、一行一揆は北下衆と対立している。
そして、堺幕府は北下衆や。
誰かが堺幕府を狙って、一揆と煽っているのか。
あの怒り狂った人たちが堺の町へ流れ込んできたら、とんでもないことになるぞ。
それだけは避けなければ。
アニュー!
ジッキュー、どうした?
なに?
戦駒、そこ右!
次左!
もっと右!
次左!
もっと早く走れ!
リキュー!
戦駒!
こっちが近道や!
戦駒とリキューは堺幕府のある北下衆ケンポン寺へと急ぎました。
弟ジッキューの知らせによると、
まもなく戦駒の父、三好本永と一族家臣八十名ほどが辞人するというのです。
これは!
父上!父上!
父上!
二人が駆けつけたとき、
戦駒の父、三好本永はすでに腹に刀を突き立てていました。
戦駒!
この恨み、必ず頼んだぞ!
父上!
三好一族は次々と切腹して果てました。
堺幕府要人たちの首と引き換えに、
町の安全を保障するという一向一揆側からの要求を呑んだ結果でした。
堺を戦火から守るため、三好一族は反抗せず、辞人を選んだのです。
これにより、堺工房足利義津名を擁立した堺幕府は崩壊したのです。
戦駒が完破したように、この十万の一向一揆は操られたものでした。
実は堺幕府側の官令職であるはずの細川春本が、
主君である堺工房足利義津名を見限り、
さらには力を持ちすぎた部下である三好本永を追い落とすための計り事だったのです。
細川春本は、主君と部下を落とし入れるために、
一向一揆集団の発家集団に対する憎しみを煽ったのです。
それがあの女が抱いていた子供の骸骨でした。
実に卑劣な手口です。
一体誰がこんなことを…許さない…
戦駒…
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吉郎は、戦駒にかける言葉が見つかりませんでした。
ただ真っ青に地の毛のひいた、
戦駒の震えるまつげを見つめることしかできません。
まつげの先に、次々と大粒の涙があふれては落ちてゆきます。
戦駒!
総統様!
父が…我が一族が…
本長様や皆の御以外を、私がしかと引き受けた。
そなたは一刻も早く堺から脱出するのじゃ。
三好の残党狩りが始まる前に…
港に、三好の本国アーマーであたりを通してくるから、
戦駒はおは…
急げ!
生け!すまん!
戦駒…きっとまた会おう…
ありがとう!
こうして堺州の起点により、三好戦駒は危機一髪、堺を離れたのでした。
本国阿波の国で体制を整え直した戦駒は、
若干十二歳で厳復し、再び機内に戻って、
戦国武将三好長吉として名乗りを挙げました。
そして八苦の連勝を重ね、
1542年太平寺の戦いで、
ついに父本長を落とし入れた敵の一人である
日沢長政を打ち果たしました。
ただし、それを成し遂げるため、
三好長吉は最大の敵である
細川春本の家来となる道を選んだのでした。
戦駒…いや三好長吉様の仇、
細川春本は子供の骸骨を使って味方を落とし得るような卑劣感や。
もち銃への仇を討つという対岸上司のためとはいえ、
長吉様が毎日そんな奴に頭を下げて耐えているかと思うと、
切なくて心が張り裂けそうや。
その間に理久はというと、
和美茶の師匠である武之女王に指示し、
大徳寺より千双益という名をもらい、
本格的に茶の湯の道を歩み出したのでした。
それに先立ち、理久は頭を低発した僧侶となり、
師匠に求道者としての覚悟を示したと伝わっています。
千利休と天下人たち 第2話 三好長吉
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天文11年、1542年頃。
理久は最初の結婚をしています。
妻の出場は定かにわかっていませんが、
三好長吉の妹ではないかという俗説があります。
それに従えば、理久と長吉はこれで義兄弟となったのです。
理久、結婚おめでとう。妹を頼む。
長吉様、旧敵木沢長政討ち取り、おめでとうございます。
おう。これで理久も三好の一員だな。
一度阿波の国に遊びに来てくれ。
兄上、よろしくお願いします。
この陽極、高佐後は、大阪湾を挟んで、
互いに対岸のパートナーを思う、
愛宵の松をたたえる能楽ですが、
これこそまさに、理久と長吉の心情のようでした。
よかったな、理久。夢中になれるものが見つかって。
しかし、あのイラチの吉郎が提発するほど熱中するとはな。
茶の湯とはそんなに面白いものか。
長吉様、理久はお前様に茶をひとあん信じたいと思い、
それでわび茶を始めたのです。
俺に?
堺が一向一気に取り囲まれたあの日から、
お前様は和田内のためだけに生きている。
お辛くはありませんか?
辛くないといえば嘘になる。
だが、亡きご父上の無念を思うと、
今も心が煮えたぎる。
俺は必ず、仇を討つ。
ただ、書物を読む暇がないのが一番つらいかな。
仇討ちがすべて終わったら、
俺は歌を読み、書を読んで暮らすよ。
それを楽しみに今は耐えておる。
千駒らしい。
三吉長吉は文武領土で知られた武将でした。
特に煉瓦を好み、多くの歌を記憶するために、
あの工房大使空海も習得したという
「虚空像具文字法」という記憶術の荒行に励んでいたと伝わっています。
ああ、思えば南州庵での年少の頃が、
我が人生で一番楽しい思い出だった。
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必ずや、仇討ちの対岸成就をお祈り申し上げます。
しかし、天文15年、1546年、
24歳になった三吉長吉は、堺に滞在中、
再び細川晴本の関係にはまり、大軍の敵勢に取り囲まれました。
それまで細川晴本は、政敵を片付ける汚れ仕事を長吉に押し付けていましたが、
長吉が力をつけすぎたとみるや、あだ打ちを恐れて罠を仕掛けたのです。
長吉にわずかな手勢のみで堺の警備につかせ、
その数倍の敵に堺を襲わせたのでした。
長吉の父、三吉本永を自陣に追い込んだ、あの卑劣なやり口と同じでした。
この時、堺のエゴー集が天皇寺屋に集い、長吉を挟んで対応を協議しました。
李旧はまだエゴー集のメンバーではありませんでしたが、長吉に呼ばれ参加しました。
長吉殿、堺の町を戦場にするわけにはいかん。何としても和睦してもらうねば。
今堺を包囲する細川宇宙の軍勢は二万、対するこちらはせいぜい二千。
大統の和睦とは参らないでしょう。
どういう意味です?
身のしろ金が必要ともされるか。いかおうとじゃ。
さよう。まず、税に千丸ほどは要求してくるでしょう。
税に千丸とは、今のお金で数千万円ほどです。
エゴー集の皆様、どうかその税に、戸戸屋を肩に、この倉益にお貸しください。
その程度なら、この今井だけでも払えぬ額ではない。がしかし。
座を仕切っていた今井曹丘は、言葉を切ってまじまじと長吉を見ました。
今の三好長吉殿に、その値打ちがあるかどうかだ。
そもそも、こたびの戦、細川寛礼家での内紛が原因と見受けられるが、
細川宇治綱様と細川晴本様のいずれに正義があるのでしょう。
いや、我ら堺衆はいずれにつくべきなのか。
大名より大きいと言われた天皇寺屋の後取りで、
一番若い津田宗牛が、素直な疑問を口にしました。
お見受けすると長吉殿は、そのどちらからも斬られてしまおうというような。
宇治綱様の軍随にとっては憎き敵の大将。
晴本様側から見れば、ようずみの憎まれ役。
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そんな。
そのようなお方に、果たして戦桓の値打ちがあるかどうか、だが。
曹丘様、それは言い過ぎです。
良いのだ、李九。
曹丘殿の言う通り、この長吉、ボロ布のように晴本様から捨てられたのよ。
我が命など、もはや何の価値もない。
それより今は、堺の町を守らねば。
どうぞこの三好長吉の首を、敵に差し出して下され。
長吉様、
すると、それまで黙っていた天皇子や津田壮達が口を開きました。
三好長吉殿は、お父上、本長様と同じ道を選ばれるというのだな。
十三年前、十万の一戸一騎に取り囲まれた父と我が一族は、堺の町を守り、
抵抗せずに自陣を選びました。
私は父の仇を討つために、憎き敵である細川春本の家臣に甘んじてなりましたが、
二度までもその関係にはまり、再び堺の町を危機に落とし入れたこと、
申し訳のせいだ。
長吉殿、そのお言葉が聞きたかったのじゃ。
そもそも、阿波三好家と堺は相寄りの舛添。
二人は、相寄りの舛添の仲間として、
二人は、二十年の歴史について、
二十年の歴史について、
二十年の歴史について、
そもそも、阿波三好家と堺は相寄りの舛添。
二つで一つの共同体じゃ。
お父上が一族八十名の命と引き換えに、この堺を守られた御恩を、
天皇陛下総達、決して忘れはせん。
また一度ならず二度までも、
堺を戦火に巻き込まんとする細川春本様の拘束なやり口、
もう我慢がならん。
総達様。
相益、そなたに税人を預けましょう。
敵との和睦交渉をなさい。
ありがとうございます。
それはそうと、長吉殿はなぜこの相益を李宮と呼ばれるのか?
幼き頃、南州寺の大林総統がお付けになられたあだ名でございます。
面白い名じゃ。
李宮殿、税には必ず返してもらうぞ。
精進なされよ。
はい。
天皇陛下総達は、長吉の父、本永の時代から三好一族とともに、
北家州と連携して瀬戸内の海上物流を掌握していました。
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後年、織田信長が総達の息子である宗牛に異常なまでの幸遇でもてなすのも、
この海上物流ネットワークが欲しかったからでした。
しかし、この事件で長吉を助けたのは、
どうも李宮ではないかと想像させる間接的な記録があります。
李宮はこの年の日記に、
財をなくし、祖父の七回寄放用ができず、泣きながら墓を掃除したと記しているのです。
親友を救うため、家業を売り払ったのではないでしょうか。
一方、境を無事脱出した三好長吉は、
ついに仇である主君細川晴本との決別を受け、
細川晴本との決戦を前に三好長吉は、李宮の茶室を訪ねました。
おー、これが李宮の考案したにじり口か。
なるほど、刀を外さねば通れぬな。
長吉様、どうぞ中へ。
おー、中は二畳だな。
これは何とも、互いの胸の鼓動さえも聞こえそうな近さだな。
本当に。三好様の心にまで手が届きそうです。
李宮。
はい。
ありがとう。この通りだ。
もったいない。お手を挙げください。
ところで李宮。
小石を算する土地は、国内に少ないと聞いております。
では、民国はどうだ。
天皇寺屋さんか、今井曽宮様であればご存知かと。
その天皇寺屋が、種ヶ島の鉄砲を堺の刀かじらに複製させたものを、
百丁ばかり購入したが、今井曽宮様は、
種ヶ島の鉄砲を堺の刀かじらに複製させたものを、
百丁ばかり購入したが、日縄が足りんのだ。
日縄がなければ、鉄砲はただの鉄の筒よ。
そして日縄には、家に練り込む小石が必要だとわかった。
李宮。これからの戦は鉄砲だ。
今から小石を扱えば、借りた税にの利息分くらいにはなるかもしれん。
戦後に鉄砲が伝来した1543年から、
この5年ほどの間に堺の商人たちはこれをコピーして、
商品として戦国大名たちに売り始めていました。
実は、長吉の敵細川晴本も鉄砲を購入しています。
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では、長吉様はついに天下鳥を狙われると。
俺は天下鳥に興味はない。
父の仇を討ちたいだけだ。
それでは日縄が売れませんな。
李宮はいつになったら儲かるものか。
お茶が入りました。
うん。ちょうだいする。
うまい。茶膳一味か。
身良し長吉。この味、生涯忘れぬ。
長吉様。
いよいよ誠の仇。細川晴本と一戦交える。最後になるやもしれぬ。
身良し長吉様は天下人の器です。
さてな。しかしこの茶室はいいな。人の表も裏も見える。
はい。そのように失礼しました。
天文十八年。1549年。
江口の戦いで身良し長吉は鉄砲隊を編成。
敵八百名を打ち取って大勝利を収めました。
織田信長が長篠の戦いで鉄砲隊を組織した四半世紀も前のことでした。
さらに長吉は宿敵細川晴本と将軍足利義春、義てる親子を京都から追い払い、
翌天文十九年、ついに身良し政権を受立しました。
身良し政権の特徴は身良し自らが正位大将軍などの高いくらいにつくことなく、
足利将軍家を滅ぼさずかといってその威光を傘にするのでもなく、
全く自立した武家による行政を実現したところでした。
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圧倒的な権力による金正的中央集権支配ではなく、
封建的な国衆の総意に基づく中世の連合政権であったのかもしれません。
また、その支配した地域は5基内に限定されていましたので、
身良し長吉が最初の天下人だと言えるかどうかは、これからの研究を待たねばなりません。
かともかく、応仁の乱以降続いた戦乱は一旦収束したかに思えました。
ところが…
何!?身良し様が襲われただと!?
そ、それで御用隊は!?
天文20年、1551年。
身良し長吉は二度に渡って暗殺者より命を狙われました。
身良し長吉は当初、細川寛礼家や足利将軍家に代わって自分が天下を取る意図を持っていなかったのです。
長吉はひたすら父の仇を討ちたかっただけでしたが、
儒教的な衆衆の教えを大切にする人でもありました。
そのため、敵が何度も息を吹き返しては、襲ってきたのです。
戦乗球と天下人たち、第3話
松永久秀
天文20年、1551年。
身良し長吉は二度に渡って暗殺者に襲われました。
ひたすら仇を討つために戦ってきた長吉でしたが、
いつの間にか己が権力者となり命を狙われる側となっていたのです。
幸い長吉は軽傷を負っただけで済みましたが、
戦で以来、警備も厳しくなり、
李宮にとっても長吉は雲の上の存在となってゆきました。
孔子2年、1556年。
長吉は父本永の二十五回起奉仰を大徳寺で盛大に取り行いました。
四季には堺から江郷州も散列しました。
李宮もこの機会に長吉の顔を久しぶりに見ようと京都まで出かけました。
法事の合間をはかり、李宮は奥座敷の長吉に挨拶しました。
長吉様。
おお、李宮。わざわざすまん。
これで身良しの僧侶としてのお役目を立派に果たされましたな。
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お父上も喜んでおられるでしょう。
ああ、やっと解放される。
これからは歌を読み、書を読んで過ごすぞ。
さて、天下人としてのお役目はどうなされます。
着難、長吉もすでに十五歳じゃ。
その年にはわしはもう志郎を持っておった。
それにわしには頼もしき三人の弟たちがある。
みな、吉沖を盛り立ててうまくやってくれるであろう。
三吉長吉には阿波と河内の国を治める三吉実宮、
淡路水軍を統率する熱木冬康、
佐渚蘇豪氏を継いだ蘇豪一政の三人の弟がいます。
中でも時系の実宮はやはり大臣総統に支持した茶人であり、
剣豪塚原牧伝直伝の神刀流の達人でした。
また実宮は村田塾皇のこなすの茶入れや、
天下無双の名物といわれる三日月の茶壺を所有しており、
理宮の弟子である山上宗治は実宮を武士にして好き者だと表しています。
理宮、そなたに頼みたい仕事がある。
どのような?
理宮、もっとそばに寄れ。
俺とお前の間で遠慮は無用。
寄らぬのならこちらから参るぞ。
長吉は理宮の横にあぐらを書きました。
理宮、次の天下人を探し出してほしい。
は?
そなたが工夫した和美茶を持ってして、天下人の資質を抱いた人物を見極めるのだ。
それはなかなか楽しそうなお役目ですが、
人物を見極めてどういたします?
その男に、我が三好の宝を譲る。
三好の宝?三好の宝とは一体?
三好の宝とは…
長吉が理宮に耳打ちしたその時、
誰かが隣室で怒鳴る声がしました。
はあ!このうつけ者!
総統様!
これは総統様、いかがなされました?
あのうつけが勝手に御神廟を開いて、
新君ゆきなが様の黄金像をあのように…
久秀!
それは我が曹操府、三好ゆきなが公の像になるぞ!
はあ!返せ!
久秀、一体何をしておった?
これは新君がお宿りになるにふさわしき純金かどうかを調べようと思いまして。
純金であろうとなかろうと、御神君の見姿をかたどった者じゃ!無礼者!
51:05
申し訳ございません。
総統様、どうかお許しください。
これは我が家臣でござる。
三好様の家臣にしては、お見かけしない顔だが…
李宮、ちょうどよい。
そなたに会わせたいと思っていたのだ。
これは我が家臣の松永久秀。
弟十九に劣らぬ好き者でな。
好き者だろうが何だろうが、うつけはうつけじゃ。
万の敵に取り囲まれるのは怖くはありませんが、
大臣総統の一括には久しぶりに冷汗が出ました。
どうかお許しください。
苔来襲はきちんとしつけられよ、千駒殿。
肝に命じます。総統様。
殿、申し訳ございません。
との申し訳ございません、苔来。
それで久秀、そなたの目利きの結果は?
順度の高い黄金のようではございませんが、
名ある策ではございません。
作用か。
作用であったか。
李宮はこの松永久秀を好きになれませんでした。
久秀のような好き者が巷に増えたのは知っていましたが、
なぜかうすら寂しい気持になりました。
そして久秀の肩に手を置いて愉快そうに笑う長吉が少し憎らしかったのです。
実は松永男女久秀に対する評価は割れています。
長吉と弟実急の仲を裂き、長吉の着難、吉沖を毒殺し、
さらには弟、綾木冬康無本の残言を長吉に囁いて冬康を説服に追い込み、
遂には孤独になった長吉をも大事にさせた、三好家滅亡の張本人であるという説。
一方で、無能な足利将軍吉寺を謀殺し、東大事大仏に火を放った悪役ではあるけれども、
最後まで三好家に筋を通した忠臣で、信長に処申された平雲の窯と共に、
壮絶な爆死を遂げた好き者の中の好き者であるとする説。
果たしてどちらが本当の姿だったのでしょうか。
A67年、1564年8月。三好長吉は何も語らないまま病死しました。
李久は苦悩するともに何もしてやれなかった自分自身を責め続けました。
54:06
李久、三好の宝を頼んだぞ。
千駒、三好の宝とは一体何だ。
さらばだ、李久。
待て、千駒。せめて茶を一服されていかれよ。千駒。
気がつくと李久は茶碗を抱え、路頭に立ち尽くしていました。
それからは商売にも身が入らず、生活は荒れました。
長吉の門が開け切らぬ翌A68年正月。
李久は奈良多聞城で開かれた松永久秀の茶会に招かれました。
この時、久秀は朝廷より壇上大の役職を頂戴し、三好家の実質ナンバーワンとなっていました。
壇上大は今で言うと公安院長のようなものでしょうか。
中国では壇上大の役職を頂戴し、
久秀はわずか数年の間に壇上大様と威風されるほどの権力者となっていたのです。
差し詰め、中途採用から代表取締役に上り詰めた下国城の典型でしょうか。
水は渦橋さんの間。
水は渦橋さんの間。
水は渦橋さんの間。
この筑紋夏に入れた茶は別木。
今日は特別な冷やさかい。
総益、聞いておるか。
古天明平雲の立てる音に聞き入っておりました。
さよ、この音色が心地よい。
古天明平雲。
後に織田信長が欲しがったと言われている茶窯の名機です。
しかし、和美茶はもう古い。
茶も人もこれからどんどん新しくなる。
新しくならねばならん。
どうだ、総益。わしについて来ぬか。
長吉様を失い、私は道に迷うております。
わしも同じじゃ、まだ信じられん。
しかし、歩みを止めるわけにもまいらん。
沖内は統一したと言え、東には武田や織田が、
西には毛利や長策部が隙あれば、
あのうつけの将軍を担ぎ、天下を狙わんと蠢いておる。
57:00
足利義輝様のことでございますか。
さよ、長吉様は甘かった。
何度も何度も義輝親子を許しては裏切られん。
きっちりとどめを刺しておけばよいものを。
三吉長吉は足利義輝義輝親子が、
三吉追悼の方向を上げるたびに抑え込み、
なぜかとどめは刺さずに、これを許していました。
足利将軍は源氏の統領。
長吉様はその血筋を重んじて。
それそれ、それが古いと言うておるのだ。
源氏だの平氏だの、そんなものに何の値打ちがある。
さて。
ふん、よい。いずれ担ぐ見越しもなくなるであろう。
この数ヶ月後、将軍義輝は、
久秀の息子らの手によって殺害されました。
久秀本人の関与を疑う説もあります。
福郎のように応しいと書いて共有と読みます。
総体、松永男女久秀を語るとき、
よく用いられる収辞です。
総体様、聞くまいとも思っていたのですが。
何だ、申してみよう。
足利冬康様ゴム本のことは、
誠の話だったのですか。
長吉の弟、足利冬康は、
無本を企んだという理由で、
長吉から説服を命じられました。
冬康自陣の後に、長吉はこれを悔やみ、
心を病んだと言われています。
つまり、李旧の質問は遠曲に、
久秀の懺悔を問いただしたものでした。
わからん。世間では、
わしの懺悔ということになっておるが、
逆にわしが教えてほしいくらいだ。
皆が気づいたときには、冬康様は、
すでに井森山城で腹を召されていたのだ。
長吉様に命じられてな。
長吉様はほとんどお一人でなさった。
千駒、この男の言葉、嘘でもないようだが、
天下人の器でもないようだ。
松永久秀はこの後、
三吉三人衆と呼ばれる家臣団と対立し、
三吉家を追われ、
足利義輝の弟である義明を担いで
上落した武将の家来となります。
それが、織田信長でした。
A611年、
1568年、
三吉三人衆を撃破した織田信長は、
足利将軍義明を奉じて上落しました。
が、すぐには洛中に入らず、
1:00:01
三吉の城内本拠地であった
芥川山城に入城したのです。
信長は、自身が三吉長吉の後継者である
三吉三人衆に、
自身が三吉長吉の後継者であると
天下に示したかったのです。
これを聞いた利休は、
織田信長という武将に会ってみたくなりました。
芥川山城は、大阪と京都の間、
今の高槻市の山中にあります。
大阪から船で淀川を遡れば、
3時間ほどの距離でしょうか。
長吉様、次の天下人を探す仕事、
この利休が引き受けた。
しかし、芥川山の麓に着いた利休は驚きました。
城に向かう道中に、人々がびっしりと列をなしているのです。
みな新しい天下人に我先に挨拶に伺おうというのでした。
興ざめした利休は、長吉が最後の居城とした
飯森山城に向かいました。
淀川を挟んで芥川山とは対岸に位置しています。
やれ、助かった。
いい風が吹く。ここはいい見晴らしじゃ。
大阪から堺、そして淡路までが一望できる。
千駒がこの地に隠居したがったわけだ。
西に傾いた日が、大阪湾を銀色に染めています。
長吉様。
その時、銀色の海を背負うように馬に乗った武将が現れました。
数名の家来を引き連れて大将の遺言があります。
さて、この城は今は空城のはずじゃが。
その大将は海に向かって叫びました。
見惜しい長吉様。
この織田信長、貴公の御意志を継ぎ、天下を治めてみせまする。
なんと、あれが織田信長。
と、一騎の武将が利休を見とがめて近づいてきました。
お坊、この辺りの縁者の者か。
お、この辺りの縁者の者か。
これは堺の商人で、千双益と申します。
本日は亡き、見惜しい長吉様の見たまを慰めんと思い、参りました。
その武将は、大将のもとに一旦戻ると、賢まって再び利休の方へやってきました。
双益殿、我が都の織田信長様が茶を一服所望されておる。
1:03:04
利休は思いがけず、信長を野立でもてなすことになりました。
双益、この信長の耳にも、そなたの武勇は届いておる。
今井曹丘から聞かされてな。
今井様から私の武勇、でございますか。
若かりし頃、見惜し長吉公の身代金一千丸を肩代わりしたそうだ。
さてその金、返してもろたか。
弟、見惜し実宮様より、受講の茶碗と引き換えに。
それでは茶碗分損しておる。
堺の商人らしくもない。
私と長吉様は、筑波の友ゆえ。
ほう?
共に堺、南州寺に参禅しておりました。
小一矢でございます。
うん、茶全一味か。すがすがしい。
ありがたきお言葉。
秀吉、そなたも飲め。
はは、ありがたき幸せ。
ん、ん、にがっ。
小一矢を一気に飲むやつがあるか。
実はな、双益。
わしも堺州に金を出してほしいのだ。
先般、今井曹丘に夜戦二万丸を用意しろと命じたのだが、
曹丘め、口を辺野次に曲げて帰りよった。
何か聞いておるか。
私は江郷州ではござりませんゆえ。はっきりとは。
夜戦とは軍費に当てる税金のようなものですが、
二万丸の税には、今の価値では数十億から数百億円になります。
恐れながら上様にはその税に、どうお使いになられますでしょうか。
ちやんじゃ、まずは一皇一騎、さらには北家州門ならぞい。
これらを治めずして天下統一とは言えぬ。
一皇一騎と州門間の争いには、長吉様も手こずりました。
神仏に帰えすることは好き好きじゃと、わしは思うがな。
神仏を盾に利を貪る教団州門には無しずが走る。
御意。
李旧は信長に好感を抱きました。
そしてもう少しこの若者を知りたいとも思いました。
曹丘、江郷州ではないのは好都合だ。
そなた、わしに仕える気はないか。
ちょうど茶道が欲しかったのだ。
ありがたきお言葉ながら、
1:06:02
もし、堺が税にの支払いを断ったときは、いかがなさるおつもりでしょうか。
町を燃やし、皆殺しにする。
と、曹丘には言うておいた。
本当に?
いい。
何かよ、曹丘。
いい。
わしとて、三好長吉公が愛された堺の町を燃やしたくはない。
ここで偶然、そなたにおたのも、
もしや長吉公の導きかと思うたから、腹割って話している。
この信長、天下人となったのはいいが、
どんどんと増えるカシナに分け与えるべき治療がもうないのだ。
なかなかの器量だ。
長吉様もそう思われますか。
上様、茶の名器ならば、千冠二千冠程度のものは、ザラにござりまする。
世に隠れた名器名物を借り集め、これらを治療の代わりとされてはいかがでございましょう。
名物狩りか。
面白い。秀吉、早速に手返せよ。
はは。
宗益、堺のことを、そなたに任せだ。
御意にござりまする。
上々だ。秀吉、宗益、見よ。海が金色に輝いておる。
わしが長吉公を敬愛するのは、皇が単に機内を統一されたゆえではないぞ。
長吉公は瀬戸内の海上攻撃を支配し、
さらにあの海の向うに、民国や馬田連国をしかと見ていたのだ。
よい。
今日ここ飯森山に来て、それがようわかった。
ここに来てよかった。
こうして李宮は信長の茶道となったのでした。
千利宮と天下人たち
第四話
織田信長
織田信長、A611年、1568年、
足利将軍吉明を奉じて上落した織田信長は、
堺の町に夜戦二万元を用意するように命じました。
今の数十億から数百億円になる大金です。
信長などただの田舎大名ではないか。
三好の敵ではあるまい。
いや、もはや三好の時代ではないのだ。
大金が三好から織田に代わるだけよ。
堺の町は、対織田の朱仙派と和平派に分かれました。
朱仙派は野刀屋や弁屋などの古くからの江郷衆が中心で、
旧勢力である三好の復活をいまだに信じています。
1:09:04
一方の和平派の中心は、
いち早く織田に取り入り、半ば家臣となった信仰の今井宗久です。
そして問題は、最大勢力の天皇寺や津田宗久がどう出るかでした。
李久は堺に戻ると、宗久をお茶に招きました。
しかし、李久さんには驚かされてばかりだ。
今をときめく信長様にお会いできるとは。
まさに長吉様のお導きです。
信長様がそれほど長吉公を敬愛されていたとは。
それに驚いたのは、三好の本文が瀬戸内の海上公益にあると看破されたことです。
それこそがまさに三好と堺の繁栄の礎。
そして、我が天皇寺はの最も得意とするところなのです。
李久や北九州に末路を持つ北家州の営業力と、
三好水軍による瀬戸内の海運力によって国際公益ネットワークにアクセスできる、
それが堺の最大の武器であり、信長が本当に欲しかったものでした。
事実、種ヶ島に伝来した鉄砲は、このルートをたどっていち早く堺に運ばれ、
三好長吉の機内統一を果たしたのでした。
織田信長は飽きないがわかる。新しい武家だ。
宗牛様もそう思われますか。
しかし困ったことが一つ。
我が天皇寺は石山本願寺と代々のお付き合いがござる。
もし信長様が本願寺の首都である一皇一貴とことを構えるおつもりならば、
天皇寺は表立ってはお力添え致しかねる。
それでも結局、堺は夜戦未満元を支払いました。
しかし宗牛様は、
やがて信長は朱門との争いの泥沼にはまり込んでいきました。
1570年から始まった石山本願寺との石山合戦は、
実に十一年間にもわたって続き、
信長はその間も比叡山天台北家州と、
一皇一貴との戦争が始まりました。
この続き、信長はその間も比叡山天台北家州と、
日蓮北家州の争いに巻き込まれ、
長島や越前の一皇一貴にも苦しめられました。
ただ、これらはすべて宗教上の問題が直接の原因では必ずしもありませんでした。
位置や功益の既得権を保ちたい朱門側と、
1:12:02
落市落座など仏流ネットワークの改革を目指したい異性者との、
当然のごとくの対立だったのです。
そして信長にはこれらを打ち破る腕力と財力の源があったのです。
それが国際功益都市、高井だったのです。
総議、総議はまだか。
まもなくこの岐阜城にご到着されることと存じます。
晩時、ぬかりはないか。
風呂、茶、ご食事、すべて整いましてございます。
よし。
ランジャ隊はどうした?
上様のお袖の内の白木箱に。
で、あるか。
天正二年、1574年。
織田信長は岐阜城に天皇子や津田宗宮を招きもてなしました。
信長自らがご飯のおかわりを給し、竹の尺までしたと言われています。
さらにランジャ隊というのは信長が用意したスペシャルプレゼントでした。
これは奈良商倉飲魚物の貴重な鉱木で、
信長はこれを足利八代将軍吉政以来初めて切り取って所持していたのですが、
そのうちの一袋ずつを宗宮と利宮にあげてしまったのです。
天皇子やに敵に回られると、軍事、経済の両面で行き詰まってしまうからでした。
それほど天皇子やは力を持っていたのです。
しかし天皇子やは一方で、反織田勢力とのパイプも繋いだままだったのです。
それが三好長吉の叔父、三好安永でした。
安永は長年老いである長吉の参謀を務めてきましたが、
長吉亡き後は三好三人衆と組んだり、
あるいは織田家を飛び出した松永壇上と組んだりしながら、
ずっと反信長を通してきた癖ものです。
ただし阿波の国三好本家に隠然たる力を持ち、
天皇子やとは三好長吉と同じくらいの力を持っていたのです。
同じほどに深い付き合いなのでした。
その年、石山本願寺が再び信長に反旗をひり返すと、
三好安永もこれに好応して反信長の動きを見せましたが、
逆に信長に責められて降伏しました。
そして安永は堺州を通して信長に強順の意図を伝えてきました。
裏で天皇子やが動いていたのでしょう。
1:15:01
六、天章三年。
信長は三好安永を京都商国寺まで召し出しました。
信長はその場に李宮も同席させました。
これは三好将冠殿。
信長様にはご機嫌うるわしゅう。
安永は定発した宗教で、岩が柵と書いて将冠という宝名を名乗っていました。
茶人としてもこの時代、李宮ら三好将の先輩格にあたる存在だったのです。
信長とは敵味方で初対面のはずでしたが、
かねてより将冠殿にお尋ねしたききがあって呼びつけ申した。
その前に、持参したるこの名物三日月を信長様に納め願いたく。
何?三日月とな。
まことか。
宗益、これへ持て。
かしこまりました。
これはあの李宮か。
おお、久しいの。
将冠様、ご無事で何よりでございます。
うん、そなたもな。
長吉の叔父である将冠と李宮は顔なじみです。
宗益、開けてみせよ。
宗益、どうじゃ。
間違いございません。
これは河内の戦の折に、高雄城にて六つに割れ、
それをこの李宮が十九様よりお預かりし、継いだものでございます。
天下無双の名物、宗益、
宗益、
宗益、
宗益、
宗益、
宗益、
三日月の茶壺にございます。
この李宮が継いだ三日月の茶壺は、
その値打ち一万元とも言われたそうですが、
本能寺のへんで消失しました。
何という巡り合わせか。
またしても長吉公の御縁か。
はあ。
長吉様、やはり三吉の宝は信長様へという意味なのでしょうか。
して、上様には、この昌願にお尋ねになりたい義徒は。
他でもない。
長吉公のことじゃ。
長吉公は、若干十一で厳復された後、
本願寺一皇域との難しい交渉を見事にまとめられておる。
あれは火災であった昌願殿の力が大きかったとお見受けするが。
千君は若干十一。
ただし本願寺の少女様もその時十九に荒らせられましたゆえ、
互いに腹を割るのに時がかからなかったのです。
私めは三吉と周文の長いお付き合いを、
1:18:01
若いお二人に説いて差し上げただけでござる。
それよ。
そなた、賢女にもそれを悟してくれるか。
と申しますと、
この信長は、長吉公の正当な継承者だと。
石山本願寺の敵ではないのだと。
家臣どもも石山との終わりなき合戦にはうんざりしておるのじゃ。
これには控えていた信長の家臣一同が驚きました。
信長は、
昨日まで本願寺と一緒に反抗していた敵の大将に、
くだらないことを知らずに、
首をはねるかと思いきや、
その本願寺との交渉をまとめると言っているのです。
将軍、苦しゅうない。
いる者は何でも。
あ、そうじゃ、この三吉にでもお申し付けよ。
確かに将軍様なら、賢女様を説得できるだろう。
しかし、あの明智様のお顔を見ればわかるが、
家臣の皆様にとっては、面白くはないことじゃ。
明智光秀は、比叡山の焼き討ちや、
越前一皇一騎の殲滅戦など、
最も精算な戦地を転戦させられていました。
しかも三吉家は、光秀の前の主君である、
足利将軍家とは因縁の間柄です。
面白いわけがありません。
さらに自体は、光秀氏は、
三吉家にとっては、
もっと面白くなくなっていきました。
まんまと信長の家臣となった三吉将元康永は、
一度は石山本願寺との講和に成功するのですが、
再び破綻。
というか、将元にまとめる気など、
はなからなかったのかもしれません。
天章四年。
ついに明智光秀らが、
本願寺との戦に直接出動します。
天皇寺の戦いと言われるこの戦で、
将元は早々に、
敵全逃亡を決め込み、
光秀は危うく死にかけるのです。
ところがなんと、
信長自らが救援に駆けつけ、
家楽も勝利します。
勝つには勝ったのですが、
信長が足に鉄砲の弾を受け、
軽傷を負い、
光秀は過労で寝込んでしまいます。
それほど激しい戦闘でした。
さらに、光秀が土佐の国国首である、
長足部元近とまとめあげた四国支配の計画が、
三吉将元の復権とともに保護になってしまったのです。
信長は一度は光秀を窓口として、
長足部元近に四国を与えると約束しておきながら、
天章十年、将元と三難の信長に、
1:21:04
阿波と佐渡を与えてしまったのです。
おまけに信長を三吉家の養子に出し、
長足部元近を制伐するとまで言い出す始末です。
三吉将元安永に振り回された明智光秀は困り果てました。
ところでここからは想像ですが、
信長の生元美意気にはこんな理由があったのかもしれません。
天章十年、1582年元日、
李宮は安土城天守閣の信長のもとに、
三賀に訪れていました。
そこは信長の天章師僧を壁画にした黄金の間でした。
一面の金箔の上に、
マンダラや千人の棲む桃源郷が描かれ、天与が待っています。
李宮は和美茶とは対極にある、その美しさに圧倒されました。
これが黄金の国ジパングじゃ。
バテレンは日の元のことをそう呼ぶらしい。
作用でございますか。
ところで先ほど三好将官が参ってな。
わしに三好の宝を献上すると申すのじゃ。
三好の宝?
そなたが工夫した和美茶を持ってして、
天下人の資質を抱いた人物を見極めるのだ。
その男に我が三好の宝を譲る。
さて、三好の宝とは一体。
わしがそれを尋ねておるのだ。
そなた、長吉公から何か聞いておらんのか。
いいえ、何も。ただ。
ただなんじゃ。申してみよ。
長吉公は、天下を取るに不賛しき人物に、
三好の宝を譲ると仰せに、
それがどんなものかは、ついに知る機会がござりませんでしたが。
なんと、長吉公が死かとそう申されたのか。
はい。
では松岡の話。
あながち、ただのホラではないかもしれるな。
実はな、松岡が申すには、
阿波の国の三好の里に兵家の隠れ里があり、
あの安徳帝がお隠れになっていたという伝説があるそうだ。
そして鶴木山という山に、
三種の神器の一つである、草薙の宝剣が埋められているという。
それは、誠に元旦らしくおめでたいお話でございまするが、
いかにも松岡様らしく。
1:24:00
はっはっは、宗益、そなたもそう思うか。
しかしな、実はわしの先祖にも似たような話があるのじゃ。
それによると織田家は兵家であるという。
そして越前鶴木神社というところに、
佐能の御事の御霊が宿る宝剣が伝わっておる。
幼い頃、父上から本物じゃと教えられ、
わしは今もそう信じておる。
阿波の国の宝剣も、
松岡はともかく長吉公が信じておられたのなら、
是非にもきちんと調べてみたい。
そなた、すまぬが阿波まで行ってきてはくれぬか。
かしこまりました。
ことしは甘博医科、
田上大臣、左右大臣、内大臣を招いて茶会を開く。
かりにその宝剣が偽物であったとしても、
おもしろき余興になるかもしれん。
佐能は宗益に頼む。
はっはっは。
その春、信長は長吉公に会いに行った。
その春、信長は朝廷より、
田上大臣か、甘博か、
正位大将軍のどれかを選ぶよう遂任されました。
それに先立ち、
信長は扇町天皇に上位を要求したのです。
もしかすると、
信長は皇室と隕石関係を持ち、
平の広森のようになりたかったのかもしれません。
かくして李宮は、
三好長吉の故郷である四国阿波の国に向かいました。
まだ長吉が元気な頃、
弟実宮の茶会に招かれて以来でした。
長吉様、三好の宝とは、
誠にその宝剣のことでしょうか。
どうか李宮をお導きくださいませ。
李宮は三好一族の省水城から吉野川をさかのぼり、
深い谷を下り、
険しい山を登って、
その隠れ里に着いたのでした。
来たか李宮。
将軍様。
ここから先は聖域蔵、
立ち入るにあたっては約束がある。
何でございましょう。
これから先で見聞きしたことを、
決して後悔ならぬ。
もし金を破れば、
天罰が下ると覚悟せよ。
李宮は三好一族の省水城から吉野川をさかのぼり、
1:27:04
深い谷を下り、
険しい山を登って、
その隠れ里に着いたのでした。
徳島県三好市の居屋という里に、
今も兵士の隠れ里伝説が残っています。
壇の裏で入水した安徳天皇は、
実は身代わりで、
居屋の隠れ里に借り御所されていたという言い伝えです。
居屋で合流した三好将軍靖長は、
天皇李宮を兵家に連れて、
靖長は天皇李宮を兵家の隠れ里の奥にある
古い屋代に案内しました。
そこには御神宝である
草薙の剣を入れてあったという箱だけがありました。
箱の中には剣はなく、
置き手紙が残されていました。
李宮、そなたにじゃ。
これは、長吉様か。
間違いない。
それは長吉の顔じゃ。
李宮、
ここまで来たということは、
天下人を見つけたようだな。
そなたの目利きであれば間違いあるまい。
約束通り、
その男に三好の宝を譲ろうと思う。
だが、三好の宝とは宝剣のことではない。
そんなものはないのだ。
三好の宝とは、
千利宮、
そなたのことだ。
長吉様…
それそれ、急げ!
草薙、
すごい数の船ですな。
おお、
九岐の鉄鋼船まで来ておるわ。
家康様、
家康様、
これはすべて、
信長様三難、信長様ご出陣による、
調査壁制圧の船でございます。
では四国攻めは信長様が、
それで明智様はどうされた。
京都では大変お世話になったが、
上様より中国攻めを申し付けられたと、
聞いております。
明智が橋場の応援にか。
光秀殿は上様よりご布教を買われてしもうたようだな。
この家康も気を付けねば。
1:30:02
天章十年、
1582年、
五月末。
天皇寺や宗宮は、
織田信長の命により、
堺で徳川家康一行をもてなしました。
堺の港には、
ちょうど四国攻めの大群があふれていました。
信長は家康に、
わざわざそれを見せつけるため、
堺に立ち寄らせたと思われます。
何?
信長様が御上落?
まことか。
着いた地に、本能寺にて、
漢伯様ら重たった皇家を招き、
茶会を開かれるとか。
皇家を招くか。
で、佐藤は宗宮。
そなたか。
せん、宗益を。
せん、宗益が申し付かってございます。
史実では、
この茶会の佐藤はわかっていません。
また本能寺の変の時、
千利休は堺にいたという説もあります。
妙だな。
皇家相手であれば、
価格からして天皇寺やが
佐藤を務めるのが筋であろう。
信長様は、
皇家よりも、
家康様がお大事なのです。
世事を申すな。
上様急な御上落といい何か奇妙な。
茶会の使客は誰だ。
この得、
崎久様と伺っております。
この得様ならば安心だが。
実は、家康様、
これをどう思われます。
二十八日に、
跡子神社の煉瓦会で、
明智光秀様が読まれた北句だそうです。
時は今、
雨が下しるさつきかな。
まさか。
やはり、
そう思われますか。
時は、
明智の家柄である時史。
雨が下しるとは、
天下しる。
すなわち、
明智が今天下しると読めます。
ちなみに、
今まさに制伐されようとしている
長祖壁元地下の聖室も、
時史です。
もし、
誰かが皇家との茶会を餌に、
信長様をおびき出し、
明智様にゴム本をそそのかしているとすれば、
信長様は、
今、
わずかな手勢のみ。
そなたなぜ手勢のことまで知っておる。
本能寺は北家宗でございますゆえ、
この天能寺屋とは、
強い絆がございます。
こうしてはおられん。
家康様、
どちらへ。
知れたこと、
上様にお知らせに参るのじゃ。
1:33:00
お待ちくださいませ、家康様。
何だ。
その誰かとは、
この天能寺屋かもしれませんぞ。
何?
家康様は、
このまま信長様の天下を望みか。
何だと。
おなし。
それとも絶対に、
絶好の機会とお考えになりませんか。
その誰かとは、
もちろん、
この天能寺屋ではござらん。
この港を埋め尽くす、
戦団の大半は、
この天能寺屋の沙海。
今、
信長様を失えば、
王尊するのは、
日を見るより明らかでござる。
ですが、
飽きないとは長い目で見ることも大切。
信長様の天下がよいのか。
徳川家康様の天下がよいのか。
その頃、
四国阿波の国より戻った千利休は、
ようやく本能寺に到着していました。
宗益、
戻ったか。
で、守備は。
上様、
剣は見つかりませんでした。
何も出なかったか。
ただ、この手紙が、
里の矢印に、
これは、
長吉公から、
そなた宛ではないか。
うん。
美しいの。
ではない。
将冠に一杯食わされたのよ。
かもしれません。
だが、それもよかろう。
もともと将冠のコラバナシが始まりじゃ。
長吉公、
三好の宝、
三好の宝、
三好の宝、
しかと長代捕まつった。
千利休、
一日の茶会頼んだぞ。
主客は、
小野江貞久様である。
はあ。
天正元年、
1582年、
六月一日、
織田信長は、
本能寺で茶会を開きました。
主客の小野江貞久は、
この時、
多条大臣を辞したばかりでした。
信長にその地位を譲るためだったと言われています。
信長と朝廷の間で、
官位をめぐる確実があったことを想像させる事実です。
信長が皇室と隕石関係を持ち、
平の清盛のようになることを望んでいたとすると、
小野江貞久はおそらく、
信長にとって、
良い相談相手でした。
趣味の高借りが同じで、
敵味方として争ったこともあり、
1:36:02
互いの器量を分かり合った仲だったのです。
何より貞久は、
あの三好将冠安永も投げ出した石山本願寺と
織田との講和を成立させ、
信長から絶大な信頼を得ていました。
茶会の後、主演となり、
最後に小野江貞久だけが居残って、
信長、貞久、利休の三人でまた和尾茶となりました。
面白い。兵家の隠れ里か。
なかなかよくできた話であろう。
で、その宝剣とやら出てきたのか。
利休、長吉公の手紙を見せてやれ。
利休は懐に大切にしまった手紙を取り出しました。
俺は、
手紙を広げた貞久は、真顔になりました。
三好の宝とは、
千利休、
そなたのことだ。
なんという思いやりか。
長吉公の優しさが胸に響く。
ありがとうございます、貞久様。
利休、和尾茶は、
ありがとうございます、貞久様。
利休、
わしも若い頃、このような手紙を頂いたことがある。
ほう?
聞き捨てならんな。
相手は?
上杉謙信子、信虎様よ。
あの頃は正虎と名乗られておったが、
美しい武将であった。
また始まった。
次にこの御人が言う言葉は、
謙信公が生きておられれば、
信長など敵ではない、だぞ。
そのとおり。
小野栄貞久は、
一時期上杉謙信と同盟を結び、
共に戦場で戦った盟友でした。
貞久は久下でありながら、
武家の心を持つ文武両道の人だったのです。
貞久、すまなかったな。大切にしろ。
そう言って貞久は、
貞久に長吉の手紙を返しました。
さて信長様、わしはそろそろ。
おや?眠られてしもうたか。
連戦の疲れからか、
久しぶりに気心を許したのか、
信長は軽い寝息を立ててしまいました。
まるでがんぜない赤子のような、
小野栄貞久は、
しばらく信長の顔を見つめていました。
信長よ、
茎はひっそくし腐っている。
このわしも含めてな。
1:39:01
貴公の言うとおり、
官博や大将大臣になったところで、
それは変わらんかもしれん。
だが正位大将軍とは武家の当領ぞ。
そなたが足利に代わって幕府を開くというのであれば、
帝による御神聖を望む我ら久家の改革派にとって、
むずかしい相手となる。
そのとき、
信長の頬に光るものが伝ったのを、
利休は見逃しませんでした。
森乱丸がそっと来て、
信長に羽織をかぶせました。
いとませる。
さらばな信長。
いずれすぐ会おう。
路地まで見送りに出た利休に、
足利は振り返りました。
利休、今夜はわしに付き合え。
この絵足利を本能寺の変の黒幕だとする説があります。
もしそうだとしたら、
それはとても悲しい真実です。
信長と足利とは、
互いの美学を認め合う仲だったのですから、
友を敵に討った裏切りもありません。
実際、秀吉はずっと足利を疑っていたようです。
客観的な事実として、
足利は足利将軍家にも近く、
反三好でした。
信長が三好将冠靖長を徴用したことが、
明智光秀同様に、
足利の心を変えた可能性はあります。
ある日、
信長がどこかの時点で、
織田幕府を開くと決心したのだとしたら、
やはり足利とは相入れなかったでしょう。
それを反信長勢力にうまく利用されただけかもしれません。
この絵帝に招かれた利休は、
足利と語り明かしました。
なるほど。
長吉公とは近い仲間だ。
利休は仲間のためなら死ねるか。
さてどうでしょう。
これは足利様はどうなさいました。
足利さんの瞳から、
ぽろぽろと涙がこぼれ落ちているようです。
その瞳から、
三好将冠の涙がこぼれ落ちているようです。
三好将冠の涙がこぼれ落ちているようです。
三好将冠の涙がこぼれ落ちているようです。
足利さんの瞳から、
ぽろぽろと涙がこぼれ落ちています。
世人は、
織田信長をして残忍な武将であると素知り得るが、
違う。
信長は幼き頃より、
骨肉の争いに苛まれ、
天下大平を最も願うとる男なのだ。
先ほど、上様の目にも光るものがございました。
1:42:01
信長は、
我が裏切りにも気づいておったのかもしれん。
裏切り?
わしは友を裏切った。
李旧、本能寺へ急げ。
まだ間に合うかもしれん。
それは、もしや、ごめん。
李旧は夜明けの町を本能寺へと駆け出しました。
上様!
武装した兵士がすでに町のつじつじを塞いでいます。
李旧はその旗印を確認しました。
あれは、水色貴郷の旗印。
明智光秀の無本であったか。
その時、本能寺の方角に火の手が上がり、
初夏の知らんできた空を赤く染めたのです。
信長様!
本能寺は焼け落ちました。
織田信長の遺体は、
明智光秀らがいくら探しても見つけられなかったそうです。
跡形もなく燃えてしまったのでしょうか。
千利旧がこの前日、
茎を招いた李旧が、
本能寺を見つけました。
李旧は、
千利旧がこの前日、
茎を招いた茶会の茶道を務めたという記録は残っていません。
社会で天王寺や宗宮と一緒に、
家康をもてなしていたとも諸説ありますが、
ここでは京都にいたという説で話を進めていきたいと思います。
李旧は本能寺周辺を悄然とさまよっていました。
本能寺は、
まだ明智軍が取り囲み、近寄ることができません。
上様、信長様。
その時、馬上から呼び止める声がしました。
宗益様、宗益様ではございませんか。
な、何奴じゃ。
お見それか。茶屋志郎二郎に御座いまする。
おお、これは茶屋様か。
茶屋志郎二郎は、京都の裕福な御副将で、
この後、徳川家康の聖将としての仕上がった人物です。
李旧とは茶会で何度か顔を合わせていたかもしれません。
上様が、信長様が。
信長様は、討ち死にされたとのこと。
御無念に御座いまする。
何と。
拙者、これより境まで馬走らせ、この旧をお知らせ申す。
1:45:05
境へ。
宗益様、ここは危なうございます。
明智の者に見つかれば、命さえ取られるやもしれません。
どうぞ、この馬に。
茶屋志郎二郎は、配下の者の馬に李旧を乗せると、
明智勢の囲みをすり抜け、一目散に京都を後にしました。
取れ、取れ、取れ。
茶屋志郎二郎は南へと早崖にかけて、
昼前には河内の国の居森山付近に差し掛かりました。
あの三好長吉の居城であった居森山城のある場所です。
家康はここで茶屋志郎二郎と出くわし、
本能寺の変を知らされたことになっている。
これをただの偶然と捉えればそれだけですが、
家康が坂井周や三好家と共にことの成り行きを見守っており、
場合によっては二次的なリアクションを取る構えを見せていた、
とも考えられなくはありません。
居森山は大和川水系の水路と、
京や大和へ抜ける街道が交わる交通の要です。
京都に駆けつけるにも伊勢方面に逃げるにしても、
絶好のポジションなのです。
ちなみにこの時、居森山のある河内の国国首には、
あの三好将官安永が復権していました。
家康様、明智光秀無本にございます。
明智光秀無本にございます。
四郎二郎、大義である。
おお、これは総益ではないか。
馬柄降り立つ李宮に家康が声を掛けました。
家康様、無念でございます。
それで上様は?信長様はいかがした?
李宮は首を振りました。
そうか。
この時、家康は京都知恩院まで行って、
腹を切り信長に順次ようとしたと伝わっています。
しかし家来の本田忠勝に、
仇討ちすることこそ忠義と諭され、
京には向かわず大和へ抜けて、
南初である伊賀越を観光したのです。
もちろん同行する家臣の手前、
逃げるという選択の前に、
自ら藩を示す必要があったのでしょうが、
家康が極めて忠義の武将であったことを示すエピソードです。
家康様、おやめください。
どけ、李宮。死んで上様にお詫びするのじゃ。
家康様は信長様の死を無駄になさろうつもりか。
何?
1:48:00
信長様は戦乱を沈め、
天下太平のよう実現されるために命を尽くされたのです。
このまま無本人、明智光秀の天下となって、
果たしてそれが実現されましょうや。
親が子を喰らい、子が親を襲う畜生の世に逆戻りではございませんか。
おのれ、生意気な。
李宮、これでいいか。
日が大阪湾を銀色に輝かせています。
今から十四年前、
私は信長様とここで初めてお会いいたしました。
我が友、三好長吉様の御霊を慰めんと思い、
登山すると、
偶然にも信長様も長吉様を忍ばれていらしたのです。
その時信長様は、天下を治めると、
まさにここで長吉様に誓われたのです。
はい、わかった。
宗益、
そなたの申す通りじゃ。
皆の者、
無本人明智光秀に天下を取らせるのは無門の恥ぞ。
見事お父上の仇を討ち、
天下をまとめられた三好長吉公に我らもならわん。
長吉公は、
一旦は阿波の国に惹かれたと聞く。
我らもここは何としても生き抜いて、
信長様の御霊をお晴らし申すぞ。
家康は大和から伊賀を越えて伊勢へ抜け、
そこから海路で三河に戻りました。
神宮伊賀越と呼ばれています。
六月五日、
明智光秀は、厚地城に入り銀を持ち出すと、
九日に再び京都に入り、
区下や町衆の出迎えを受け、
戦勝パレードをしています。
そしてその後、
光秀は朝廷、
京都御山、
大徳寺と吉田金実に銀を献上しています。
朝廷の区下たちと御山の僧侶たちは、
ついたちの茶会に来賓していたと思われます。
また、
大徳寺は大規模な茶会を開く手助けをしています。
また、
大徳寺は大規模な茶会を開く手助けをしたのでしょうか。
この日の茶道に、
僧侶や僧牛ら、
堺衆の名前がないところを見ると、
大徳寺の衆都が、
茶事を進行していたとも考えられます。
そして吉田金実に直使として、
朝廷と明智を結んでいました。
どうやら役者は揃っていたようです。
1:51:01
しかし、
明智光秀は天下人とはなれませんでした。
橋場秀吉が異常な速さで、
中国から戻ってきたのです。
6月4日に、
日中の国高松の
毛利寺本と和儀を結んだ秀吉は、
2万以上の兵を引き連れ、
即座に反転。
6月13日までのわずか10日間で、
実に230キロ以上を攻軍して、
京都山城の国山崎まで戻ってきたのでした。
世に言う中国大返しです。
天章10年6月13日、
明智光秀軍1万5千と
橋場秀吉軍2万が山崎で激突しました。
天皇団の戦いです。
結果は秀吉の大勝利でした。
明智光秀は敗走中、
落武者狩りの土民に殺されたと言われています。
秀吉は戦勝後も山崎に留まり、
京都に睨みを聞かせながら、
天下を伺っていました。
その間の慰みと
サロン活動の場とするために、
李旧を呼んで茶室を作らせました。
確かな李旧作の茶室として唯一現存する
大安です。
その屋根は霧妻作り小寺吹きで、
地下窓があります。
二畳だけの内部は角に廊を切り、
室床という床の間を持ち、
いわゆる隙屋作りの原点と言われています。
草彦、私と初めて会った時のこと覚えてるやか?
あれは信長様ご存知ですか?
小城楽の折、河内の国の居森山城でございました。
あの時のこと、私はよう思い出す。
居森山から見た大坂、堺、海を挟んで淡路まで、
美しかったの。
本当に。
あんな上機嫌で嬉しそうな上様は、
めったににゃ。
信長様、もう一度お会いしてよ。
はい。
実はな草彦、
わしは天下が落ち着いたら、
大坂石山本願寺の跡地にでっけえ城を築き、
日の下の鏡にしようと思おうとののや。
わしは大坂から天下を司る。
秀吉様ならばあるいは、
1:54:01
いえ、必ずできますでしょう。
そして、帝をお茶にお招きしたいのじゃ。
いや、もちろん、わしが宮中に出向いてもよい。
それは恐れ大きこと。
百姓の稼がりには無理だと思うすか?
聞こえよ!
いや、そうかしこまるな草彦。
どいつもこいつもかしこまるが、
腹ん中はわかったもんじゃ。
お宮にまでかしこまられたら、
わしは己を見失う。
そう思って、この大案を作ってもろうたげん。
清洲での会議で、
わしは織田家の正当な後継者とはなったが、
まだまだ安心できん。
近いところでは伊勢やら越前、
そのうち九州も落ち着かせにゃーならん。
しかし、武士同士の争いの間に、
茎に足を引っ張られるのも不安なことじゃ。
そこでじゃ、なるだけ早いうちに
味方とお会いしたいのじゃ。
これは弱りましたな。
そうか、やっぱりな。
秀吉様、そうではございません。
秀吉様は武家の統領である。
信長様の後継者。
帝にお会いする資格に不足はございません。
ですが難題は和尾茶そのものでございます。
どういうことだ?
そもそも和尾茶は、
和尾錆の心をたっとぶことはご存知の通り、
古びた道具にも、
味わいや美しさを見出す境地にございます。
さよう、それは知っておる。
しかるに、
味方は神でおわします。
神道では、
常若といい、
神は新しきに宿ると申します。
すなわち、
和尾や錆をけがれとして嫌うものではないかと、
推察いたします。
何と?
離宮は後に離宮好みと呼ばれる、
和尾茶の古びた道具や、
茶室の和尾しい佇まいそのものが、
神道において、
晴れではなく、
家に分類されるのではないかと危惧しているのでした。
もっといえば、
和尾茶は久下のクラシックに対する、
武家や商人のロックだったのです。
しかし、
もし一度でも味方から、
家として拒否されたなら、
和尾茶そのものの崩壊を招きかねません。
はい、わかった。
だが、草彦、
この難題、
そなたの知恵で解決せよ。
できなければ、
今後茶会を開くことは、
まかりならん。
途方に暮れて、
1:57:07
大徳寺にある、
三好長吉と織田信長の墓を参った離宮は、
その帰り道、
隣の南蛮寺から流れてくる、
三陛下に耳を傾けました。
離宮はキリシタンではありませんでした。
だが、弟子の多くがキリシタンでした。
また、三好長吉の家臣にも
多くのキリシタンがいたと言われています。
織田信長もキリシタンには寛容で、
橋場秀吉も、
1587年に、
バテレン追放令を出すまでは、
柔軟な対応を見せていました。
これが黄金の国ジパングじゃ。
バテレンは日の素のことをそう呼ぶらしい。
黄金の国ジパング。
天皇山の戦いの後、
厚地城天守閣は火災に遭い、
消失してしまいました。
離宮は、
あの黄金の魔を再現できないだろうかと考えていました。
それは、涅槃であり、
桃源郷であり、
キリシタンが説くところの天国です。
信長が望んだ世界でした。
天国、
桃源郷、
黄金の国ジパング、
そうだ、
これだ!
天守13年、
1585年10月、
秀吉は、
漢白就任を記念して、
金中茶会を開き、
扇町天皇にお茶を献じました。
この時、離宮は天皇より、
正式な小児号として、
離宮を賜り、
秀吉の補佐を務めました。
そして、
離宮はこの時、
道具はすべて新調したものを使い、
晴れを演出しました。
さらにその3ヶ月後、
天守14年の正月に、
再び金中茶会を開き、
今度は金梨に、
組立式の黄金の茶室を持ち込んだのです。
それは、
和美茶に常和菓子草を持ち込んだ
画期的なものであり、
黄金の安土桃山文化の
唇を切るものでした。
この黄金の茶室に関して、
離宮の製作であることを
裏付ける確証はありません。
丹なる秀吉の金ピカ好みと
やよする説もありますが、
この時代の日本を表すのに
ぴったりの色だと感じます。
まさに、
黄金の国ジパングです。
2:00:01
しかし、
この秀吉と離宮の密月に
影を差す事態が起きました。
天守14年、
1586年、
豊臣秀吉は、
石田三成を堺の大官に任命し、
堀を埋め始めたので、
戦の離宮と天下人たち
第7話
離宮切腹
天守14年、
1586年、
豊臣秀吉は、
石田三成を堺の大官に任命し、
堀を埋め始めました。
堺の町を拡張し、
大阪とのアクセスを便利にするという
名目でしたが、
自由都市堺の象徴である官房を埋め、
徐々にその独立性を奪おうという
狡猾な手口です。
その頃、離宮はというと、
堺の鉄砲火事町で
楽茶湾の作成にふけていました。
離宮は、
己の和美茶の完成に
邁進していたのです。
それは、ともすれば周囲には
傲慢で偏屈な姿勢にも移りました。
離宮様、
やはりこちらでしたか。
これは、宗牛様。
また黒ですか。
しかし黒は、
秀吉様が意味嫌われている色だと
伺っておりますが、
離宮は黒が一番好きなのです。
離宮様らしいが、
秀吉様には
赤をお見せなさいませ。
さて、天皇寺家様自ら
このようなところにまでお越しになり、
何かございましたか。
実は、石田三成様より
またこのような勝手な通達が届き、
江郷衆一同、難儀しております。
つきましては、
秀長様にお取り継ぎ願いたく
参上いたしました。
この頃、離宮は秀吉の弟、
秀長から絶大な信頼を得て、
茶事のことだけでなく、
内政や政策にも関わっていました。
しかしそれは、
境や弟子の大名たちからの取り継ぎ依頼がほとんどで、
離宮自ら臨んで関わったのではありませんでした。
三成には確かに、
堺の堀を埋めようと申し付けた。
言訳。
離宮。
どうせ堺衆に泣き疲れたのであろうが、
いちいち秀長に言い付けるな。
2:03:01
そなたと三成の板挟みとなって、
秀長の身が持たん。
ご一夜でございます。
また黒楽じゃがんか。
ふざけるな。
殿下、いかがなさいました。
出しゃばれな。
先進。
黒は金色と最も相性良き色にございます。
殿下の黄金の茶室には黒…
離宮。
己だけが茶の意を極めていると思うなよ。
恐れ入りませる。
そなたが黄金の茶室を考案するにあたって、
亡き信長様の安土城を手本にしたことはわかっておる。
しかしな、
この寒白秀吉の目指す茶とは、
あのような極楽での幸福ではなく、
この世での私服じゃ。
この世での私服でございます。
おおよ。
今、この世を楽しまんでどうする?
歓喜じゃ。
宴じゃ。
重楽じゃ。
わからんか?
なら、それがいかなるものか。
そなたにも教えちゃろう。
天章十五年、
千五百八十七年、
九月、
秀吉は、
京都呪楽廷を完成させ入場。
敷地内に離宮の官廷も用意しました。
そして同十月、
秀吉は北の天満宮にて、
お茶を愛好する者ならば、
身分や国籍の差別なく参加できる大茶会、
北の大茶の湯を開きました。
それは、秀吉流の茶の湯天国、
あるいはお茶のテーマパークとでも言いましょうか、
短髪自らが企画、出演までしてみせた一大イベントでした。
秀吉は、まず持ち込んだ黄金の茶室に、
宗益、宗旧、宗牛の三宗章をはじめ、
スキシャ大名やクゲたちを並べ、
自ら茶道として茶を立ててみせました。
その後、一般の参加者にも茶を振る舞い、
そして午後からは、
他の参加者の茶席も見て回ったと言います。
茶会は一日だけで、
千人近い人を集めたと言われています。
みおりきゅう、みんなが笑顔じゃ。
老若男女、既成の差別なく、
茶が好きならば誰もが楽しめる。
これじゃ、これなのじゃ。
わしが目指す茶のあるべき姿じゃ。
だが、これはただの始まりにすぎん。
これから新築した地楽邸に、
クゲや大名をどんどん招け、
さらに喜びにあふれた、
2:06:00
かんぱくの茶を披露するぞ。
りきゅう、それがわしの茶だ。
地楽の茶ぞ。
この、
ひでよしとりきゅうの茶の湯に対する思いの相違が、
やがて、
りきゅうの切腹を招いたのではないか、
という説があります。
確かにそうだったのかもしれません。
ですが、
ひでよしとりきゅうが
直接いがみあったというよりは、
むしろ誰かがその溝をひろげ、
火に油を注いだのではないでしょうか。
少しばかり想像をひろげてみましょう。
ある日、
地楽邸の、
りきゅうの官邸に、
石田三成が突然たずねてきました。
りきゅうは茶をたて、
三成をもてなしました。
りきゅうさま、
おたずねしたきことがございます。
はい。
三好の宝のゆくえをごぞんじか。
そのはなし、
どこから。
かんぱく殿下よりうちうちに、
三好の宝をさがせと。
殿下が?
先日、三好将冠さまが、
荒野さんよりおみえになり、
殿下に三好のかくれざとにつたわる
宝剣伝説をおはなしになられたところ、
むしんにおもしろがられ、
ついにはその宝剣をさがしてこいと
わたしにおめいじになりました。
三好将冠安永は、
本能寺の返ののち、
記録上ゆくえがさだかではありません。
一説では、
陽子である秀吉の老い
秀次に家徳をゆずり、
出家して、
荒野さんに入山したともいわれています。
その宝剣のことでございましたら、
さがすには及びません。
かつて信長さまも
おなじようにごきょうみをいだかれ、
この李宮にさがしてくるよう
おめいじになられましたが、
なにもございませんでした。
なにもなかったというあかしは?
李宮は、
たいせつにしまってあった
三好長吉からのてがみをとりだして、
みつなりにみせました。
なるほど。
ところが将冠さまのおっしゃることには、
宝剣はあるのだと、
じぶんがかくしたのだというのです。
将冠さまらしい。
しかしそのてがみのひつせきは、
まちがいなく長吉公のものでございます。
さようか。
ではこのてがみ、
しょうことして殿下におみせするがよろしいか。
そ、それは…。
なにか不都合でも?
いえ、けっこうでございます。
そのよくあさ、
秀吉が李宮の茶室におなりになりました。
石田三成も同席です。
李宮、
みずくさいではないか。
なぜこの長吉公よりのてがみ、
2:09:01
いままでわしにみせんかった。
長吉公とは、
筑波のともでございましたゆえ、
かんぱく殿下におみせするよう…。
信長公にはみせたのであろう。
これをみせて宝剣はなかった。
三好のたからはわたくしでございますと
申したのであろう。
そのような…。
ではなぜ殿下にその宝剣の話をしなかった。
そなたもしや、
三好将軍とたくらんで
宝をわたくししたのではあるまいな。
まさか、
これまで殿下にお話ししなかったのは、
このような伝承伝説のたぐいで
おこころをわずらわせるにおよどした。
ではなぜ信長公には話したのだ。
殿下…。
申してみよ。
三好長吉公が生前、
わたしに天下人をさがしられました。
わたしに天下人をさがし出せと
お命じになられたのです。
天下をおさめる器に
三好の宝をゆずると。
なんと…。
ですが、
その宝とはなんなのか
おたずねする前に
長吉公は泣くなられました。
この手紙を見た信長公は
ただ笑っておられました。
さようであったか。
殿下、
この三好、
今の話聞きづてなりませんぬ。
三好は今、
信長公を天下人とは認めたものの
甘伯殿下を天下人とは認めず
宝剣の話は打ち明けず
また長吉公の手紙も見せなかったと
この三好目には聞こえ…。
せよ、三好!
わしが三好と話せぬんじゃ!
はっ!
宝剣の話はすべて創作ですが
成長著しい石田三好は
秀吉と三好の間に
割り込んできただろうことは
想像に堅くありません。
そして天章十八年、
1590年、
事件は起こりました。
三好の皇帝である山上宗治が
秀吉の命令で斬殺されたのです。
小田原北条寺攻めの最中、
敵が立ち上がって
三好の手紙を見せると
三好の手紙が
三好の手紙を見せると
三好の手紙が
三好の手紙が
敵方に内通しているのではないかと
疑われてしまったのでした。
山上宗治は
三好以上に潔癖な気性で
たびたび秀吉を怒らせては
出奔していました。
しかも今回は
敵方の小田原北条寺に
仕えていたというのです。
当然スパイの容疑がかけられました。
しかし宗治は一度
三好より直接秀吉への取りなしで
逃げられました。
そして
三好より直接秀吉への取りなしで
許されたはずでした。
ところがその後
再び秀吉の激霖に触れ
耳と鼻をそがれ
首をはねられたというのです。
秀吉の気性をよく知る誰かが
2:12:00
その耳元で
懺悔を吐いたとしか
考えられません。
転生19年1月
転生19年1月
秀吉が最も信頼し
秀吉が最も信頼し
利休の後ろ盾でもあった
豊臣秀長が病に倒れると
石田三成ら若手側近による
利休追い落としが
あからさまとなりました。
その日
利休は石田三成に呼び出され
呪縛帝に登場すると
不意に三成らに
取り囲まれました。
利休
その方
大徳寺三門の金毛閣に自身の
目造りの
大徳寺三門の金毛閣に自身の
目造を置き去ること
そういないか
三門鬼神の霊にと
大徳寺が作ってくれたものです。
それが何
届き者
石田を這いたその方の目造の下を
感覚殿下が奥ぐりになられると思うとか
それは
黙れ黙れ
たかが茶道の分際で
象徴華々しき奴じゃ
そこへ直れ
何をなさいます
大徳寺に座らせました
これが
大徳寺の利休像事件です
大徳寺は
利休ら三宗招や
堺の町と太い絆があることは
すでに述べましたが
織田信長の墓所でもあり
秀吉もよく通う場所でありました
その入口の三門に
石田を這いた利休像が置かれたことが
問題視されたのです
その後
利休は堺の下から
従来
利休は堺の支度に
戚居を命じられ
一旦京都を離れました
その間
秀吉は沈黙したままでした
木造の剣だけではなく
よほど腹に据えかねる
何かがあったとしか思えません
事態は利休の生死に及びました
前田利家をはじめ
多くの大名たちが
序命を嘆願しましたが
秀吉の怒りは収まらず
秀吉の怒りは収まらなかったといいます
深夜
堺の利休邸に
江郷衆や弟子らが
ひそかに集いました
弟子といっても
みな大名クラスです
税にで解決できんのか
今や甘博殿下は
日本一の金持ちよ
税にには興味あるまい
芋井宗久と
茶屋志郎二郎です
では
名物はどうじゃ
三日漬けは今誰が持ちよる
本能寺で焼けました
ええ
他にはないか
そうじゃ
宗久様
三好にはもう
お宝はございませんか
2:15:01
さて三好の宝か
何があったか
最初の天下人たる
三好長吉様
ご秘蔵のお宝などあれば
甘博殿下のご機嫌も
知れませんな
それにしても三好様
一体何を甘博殿下に
申し上げたのじゃ
何をすれば
このようなご歓喜を
頂戴できるのか
三好は懐にしまった
長吉の手紙を取り出して
一堂に見せました
三好の宝とは
千利休
そなたの
これは
三好の宝で
一堂は絶句しました
このような立派な箱掛けを見たのは
初めてだったのです
武将なら誰もが敬愛する
天下人三好長吉の直室で
三好の宝は
千利休である
と書いてあるのです
利休こそが
まさに生きた天下の宝なのでした
これを
甘博様に
お見せになられたのか
なるほど
な
甘博様は
嫉妬されているのだ
嫉妬でございますか
利休様と
長吉皇の美しい情愛に
天下一の宝となった
利休様に
嫉妬されたのだ
それなら
謝ればよろしかろう
謝ってお許しを
いや
利休という宝に傷がつく
さよ
長吉皇が箱掛けし
信長皇が箱をつけた宝に
傷がついてしまう
甘博の権威の前に
膝つくか
それとも
それとも
金無垢の宝として
散るか
そんな
この利休もそう思います
甘博殿下に謝れば
それで済むことかもしれません
がしかし
これは利休の詫び茶を
後の世まで問う
絶好の機会だと思うのです
利休めは
都閣下宝のものぞかし
感傷状になると思えば
やはり残言で駄財布に流された
天満宮菅原の三田猫に自分をたとえた
千利休の辞世です
利休は覚悟の上で
レジェンドとなる道を選んだのでした
ちなみにこの後
2:18:02
堺は大坂夏之陣で徳川側に味方したとされ
1615年
豊臣の家臣である
王の春種の手で焼き討ちされました
その後
多くの堺商人が家康の手によって
江戸に移り住んだと言われています
天章19年
1591年
2月28日
千利休は
呪楽廷にて説服して果てました
去年
70歳
人生七十
力一つ
我が子の封剣
素物共に殺す
ひっさぐる
我が江戸族の
一つたち
今この時ぞ
天に投げ打つ
ボイスドラマで学ぶ
日本の歴史
シーズン3
千利休と天下人たち
いかがでしたでしょうか
茶道を大成させたと言われている
千利休
千利休は
千利休
しかし
その生涯は
文化人としてよりも
天下人たちとの関わりの中で
戦国の世の時世に
影響を与えた人物
として
描かれたところが非常に
印象的でしたよね
特に
同じ都市に生まれて
同じ堺の町で育って
南州庵の大林総統の下で
共に学んだ
三好長吉との出会いは
その後の利休の人生を
決定づけるもので
あったんではないかなと
思います
戦国大名の着男と
魚どん屋の息子
はこの身分の差
時代が違っていたら
全く交わることのなかった
二人でしたが
莫大な経済力を持った堺という都市に
三好家が目をつけて
そこにたまたま利休がいたという偶然が
2:21:03
二人を引き合わせて
そして
抜群の政治力と
軍事的才能を兼ね備えた
三好長吉が
天下人に上り詰める中をですね
利休は商人という立場で
助けたこと
まさに運命としか言いようがない
エピソードですよね
三好長吉亡きあと
利休が織田信長や
豊臣秀吉に重宝されたというのも
邪気に価値を持たせて
褒美にするというやり方に
利休の目利きが役立ったから
ですとか
莫大な経済力を持つ堺との縁が深かったから
という
政権的な見方もありますけれども
何より
この最初の天下人
三好長吉との付き合いを経て
利休自身が天下人になる人間が
何を求めているのか
こういったところを理解していたというのが
一番大きかったのではないかなと思います
本作では
それを大胆にも
三好家の宝が利休であるという
三好長吉のお気にあげとして取り扱ったのが
何ともロマンを感じさせる設定でした
利休の最後の時世の国
仏や祖先をも凌駕する封建を
天に放つと言い放っています
この封建というのは
この流れからすると
天下人に認められた利休自身のことだったのかな
と思ってしまうのですが
まあちょっと私の行き過ぎた解釈でしょうか
さてこの辺りもですね
次回いつものようにエピローグ回として
私ナビゲーターの熊谷陽子が
シーズン3
千利休と天下人たちを書き起こしてくださった
2:24:01
本シリーズの演出家でもある作家
岡田康史さんに
今回の物語についてインタビューをしてきましたので
そちらを公開します
どうぞお楽しみに
皆さんこんにちは
ボイスドラマで学ぶ日本の歴史
ナビゲーターの熊谷陽子です
3人の天下人
三好永吉
織田信長
豊臣秀吉
この3人の天下人
この3人とともに戦国時代を駆け抜けた千利休こと
千壮益の物語
シーズン3
千利休と天下人たち
いかがでしたでしょうか
まだお聞きになっていないという方は
ぜひ本編もお聞きいただければと思います
さて今回はそのシーズン3
千利休と天下人たちの脚本も手掛け
このボイスドラマで学ぶ日本の歴史の演出もされていらっしゃいます
岡田康史さんにスタジオにお越しいただきました
岡田さんよろしくお願いいたします
初めまして岡田康史です
よろしくお願いいたします
岡田さんですね
まずはちょっと岡田さん自身のことをお聞きしたいと思うのですが
よろしいでしょうか
ありがとうございます
このボイスドラマで学ぶ日本の歴史を
前作で演出も行っていただいたということですけれども
今回は脚本もされているのですが
今回今どういった経緯で
日本の歴史の演出をされるということになったか
お聞かせいただけますでしょうか
これまでテレビドラマを中心にですね
演出をプロデュースをやってまいりました
今自分の作品をドラマ化することを準備しておりまして
自作の小説を書いたんですけれども
時猫というファンタジーノベルなんですが
それを2018年にボイスドラマ化しまして
そのことをプロデューサーの富山さんにお話ししたらですね
ぜひ歴史ドラマをやってみませんかというお誘いをいただきまして
今回参加させていただくということになりました
なるほど 多岐にわたっていろいろご活躍されているということで
素晴らしいですね
今回はこのリキューの作品に取り組まれたということですけれども
ドラマの中で語り尽くせなかった歴史の小話なども
2:27:00
今日はいろいろお聞かせいただければと思いますので
よろしくお願いいたします
よろしくお願いします
では早速なんですが
順番に質問をさせていただきます
今回の千利休ですね
岡田さんが脚本を手掛けるということになったわけですが
この千利休に対して何か特別な思い出というのは
おありでしょうか
千利休というよりは
私大阪の堺市出身なんですね
じゃあ利休と同居ですね
同居なんです
なのに全然利休のことを知らなかったんですね
お茶のおじいちゃんというぐらいのことしか知らなかったんですけれども
ドラマでですね
安倍政明のドラマをやったことが
本苗寺という作品を手掛けたことがあるんですけれども
安倍政明もお母さんが堺の出身で
そうなんですね
利休とは非常に縁があって
呪楽廷にあった利休の官邸は
安倍政明の清明神社の今あるところにあったと言われているんですね
そうなんですね
一条戻り橋のそばなんですけれども
それで何となく利休は気にしていたんですけれども
ちょっと巨大すぎてですね
存在がわからない掴めない人なんですね
富山プロデューサーからお誘いいただいたときに
調べてみようということでですね
資料に当たってみたんですけれども
50代ぐらいまでは何をしていたのかさっぱりわからないと
そうですよね
もう千利休というとおじいちゃんっていうイメージ
生まれた時からおじいちゃんなわけじゃないのに
千利休はもうすでにおじいちゃんというイメージ
すごい強いですよね
私は演出家という職業柄
資料をもとにですね
人物をプロファイリングしていくんですけれども
千利休に関しては
なんでそういう生き方をチョイスしたのかという
事実と動機がですね
符号していかないんです
プロファイリングできないんですよ
なるほど
なんかミシングリンク
巨大なミシングリンクがこの人にはあるんだなと思って
どんどん興味を持って調べ始めたというのが
実際のところです
なるほどね
今回ですね
私初めて出会った歴史的人物
三好永吉
これ確か私歴史好きなんですけれども
学校では習ってないですね
このですね
ミステリアスな前半生の
この三好永吉
ひも解くことによって
今回ですね
2:30:00
ちょっとうっすらと
私の妄想がですね
若い頃の利休が
ムクムクと私の中で生まれたって感じなんですけれども
この辺ですね
三好永吉と千利休の関係性とか
結構歴史的な史実として残っているものとか
あるのかなと思うんですけれども
この辺は
歴史的な史実としてはですね
研究者の方はいらっしゃるんですね
提供大学の今谷明先生など
多くの歴史学者がですね
早くから二人の関係性には着目されているんですけれども
歴史的な事実としてはですね
利休と三好永吉のお墓なんですけれども
京都の大徳寺と南州寺に
二人とも二箇所お墓があるんですね
しかもその
大徳寺の方も南州寺の方も
二人のお墓が並んでいるかのように立っているんです
どちらのお寺もですか
一箇所だと単なる偶然ということなんですけど
二箇所あると
ですのでやはり二人は
ただならない関係であったのかなと
三好永吉と
幼少期千久間ですよね
千久間と利休
これはですね子供の頃
同じ学びというか
同級生って言うんですかね今で言うとね
そういう間柄だったっていうことでしょうか
これは
歴史的事実とは言えないんですけれども
かなりそうではないかという創作でございます
なぜそういう創作をしたかというと
二人とも1500年代の
同じ時期に堺にいました
千利休は徒徒屋という
干し魚の倉庫業を営む
商人の息子
三好永吉は
堺幕府の重鎮の跡取りであると
二人は共に南州庵というですね
禅寺ですね
この禅寺の中に
三好永吉の
父親が
禅を習っていたんですね
同じ時期に二人がそこに通っていたという
証拠はないんですけれども
先ほども申しました通り
その二人のお墓の並び具合と
見ていると
やはりこの二人は
幼い頃から
共に相手を見知っていた
年齢が
年齢が
ともに相手を見知っていた
ではないだろうか
いやもっと言うと
筑波の友だったのではないだろうかという
想像のもとに
今回ドラマを広げてみました
歴史学者の研究によると
千利休が三好氏家の
政省としてのし上がっていった
堺という町が三好氏家の営業部であったというのが
2:33:05
歴史学の最前線だという風に
いうことですね
堺という町は
商人の町として
今でも歴史を受け継いで
そういった文化が根付いていると認識しているんですけれども
堺幕府という表現がありますけれども
商人の町堺だと
すごいイメージ的にあれなんですけど
堺幕府と言われると
当時の堺って一体どういう町だったのかな
という風に思っちゃうんですけれども
よく自由都市ですとか
東洋のベニスですとか
言われているんですけれども
読んで字のごとく堺は境界という意味なんですね
節川地泉の3つの国が隣接する境界に
堺を巡らしまして
ある種独立国家のような存在として
周囲にその存在を認めさせていたと
その養人房として三好家がいたという構図になっていたわけですね
なんでそんなことが堺にできたかというと
その天然の良好ですね
今もうコンビナントになってしまいましたけれども
その天然の良好と
それから大和川水系の海雲ですね
大和川は今
奈良盆地の方から大阪と堺の間を通っていますけれども
かつては大阪市内の方に流れていたんですね
ですのでこれを利用すると大阪市内から京都の入り口まで
あっという間に水路を使って移動できたと
そういう物流の拠点であったということが
堺に物資が集まり金銀財宝が集まったという条件が揃っていたんだと思います
なるほどそういう地乗りというかそういうものですね
堺っていう町は当然経済力的にも
格段に他の地域と違うということですよね
そうですねそういう地乗りがあったので
いわゆる官豪貿易ですね日民貿易やあるいは南洋から
さらにはヨーロッパから物資が持ち込まれてですね
それを取り扱う金銀が堺に集中したと
そういうことである種独立国家のような存在として
商人たちが繁栄を築いていったという
なるほどねそして小田信長は
2:36:00
秋内がわかる武将という言葉が印象的でとても耳に残っているんですけれども
この当時の戦国武将と秋内っていうのは
どういう関係どれぐらい深い関係があったんだろうかなっていう風に考えるんですかどうでしょうか
そこがまさに革新的なご質問だと思うんですね
戦国の歴史というとですね皆さん武家の聖水師のように捉えがちじゃないですか
大河ドラマとかでも川中島の戦いだとか
長篠の合戦とかそういう武家の聖水師として戦国を捉えるんですけれども
実はですねこの戦国時代というのは中世的な封建制度から
貨幣経済あるいは物流革命によって近世へと移行していく過程の
旧体制側と新体制側の戦いなんですね
そう捉えると主役となるのは武士というよりは商人であったり
もっと言うと農民だったりするんですね
今回はその商人の主役として堺を取り上げまして
農民の方は一騎という形で取り上げて
その2つがぶつかり合う堺を挟んで商人たちと
一騎軍が10万の一騎軍が退治するというシーンから今回物語を始めてみようと
そして本能寺の辺ですがこの辺はさまざまな説もあって
わからないところがたくさんあるというのも認識しておりますけれども
今回この本作の中では天能寺や僧牛
この絵咲久このあたりが黒幕というような形で
ほのめかしている場面もありますけれども
岡田さん個人としての見解は
こうだったら面白いなと思うところは
どのように本能寺の辺を見ていらっしゃるかというところを
お聞かせいただけたらと思います
あくまで想像の域を超えません
もちろんです
個人的には明智光秀は単なる実行犯だと思っています
光秀の動機としては本編でも少し語りました
四国支配をめぐる三好一族との角質ですね
それが光秀の動機というか引き金を引いたんだろうなというふうには思います
じゃあ光秀をそそのかしたのは誰かということなんですけれども
本編の中ではこの絵咲久ではなかろうかというふうに描いています
それはなぜかというと信長をおびき出せるポジションにいたということですね
2:39:02
本能寺に茶会を開くので本能寺に来なさいよと
わずかな手勢だけで信長をおびき出すことができたのが
友人でもあった小野絵咲久ではないだろうかなと
なるほど
彼の動機としてはやはり朝廷側の人間ですので小野絵咲久は
打城大臣であった人ですので朝廷と信長との距離感ですね
信長がどの方向へ行こうとしてたのかというのは
史実的にも謎なんですけれども
織田幕府を開くのかあるいは間白になるのか
いずれにしろそことの距離感が信長と朝廷の間でそこがあったのではないかなと
ですので小野絵咲久がプロットを書いて
光秀が実行したというのが真相ではないかというのが
織田の勝手な説です
あとですね徳川家康なんですけれども
本能寺の時に飯森山にいたんですね
これは私は偶然だとはとても思えないですね
その事前に明智の動きを察していた
堺州あるいは三好一族と連動してですね
飯森山に陣を張っていたんだろうなと思います
結局は逃げるんですけどね
水が越えで逃げるんですけれども
飯森山というのは先ほど言いました
大和川水系の水路の水路とそれから交通の要所でもあるんですね
大和も見渡せますし大阪平野も見渡せると
それから北側には京都の入り口も見渡すことができるという
まさに天下の見渡せる場所なんです
ですのでそこにポジショニングしていたのは偶然ではないですね
もうすでに考えてここにいようと家康は決めていた
家康が黒幕だった時に
家康は決めていた
家康が黒幕だとは思いませんけれども
家康は知ってたんではなかろうかと思います
家康がわざわざ堺まで行って
それで飯森山に戻ってきているんですね
信長がですね
茶道
お茶の頭と書いて茶道ですね
茶道として離宮を採用するわけじゃないですか
こういった信長とか秀吉にその後
結がれていくわけですけれども
いわゆる茶道ってお茶会のホストみたいな感じじゃないですか
今で言ったら漢字みたいな感じですかね
そうですね
そういうことをお願いする
一回の堺の商人にお願いするわけじゃないですか
2:42:00
このすごい大天下人がですよ
それってどうしてなんでしょう
なんでこんなに離宮って重宝されたのかな
何が他の人と違うのかなっていうのをすごい感じるんですけれども
はい
信長は離宮が欲しかったというよりはですね
堺のおそらくナンバーワンである天王寺屋が欲しかったんだと思うんですね
離宮は当初江郷州にも入ってなかったですし
戸戸屋さんというポシ魚の倉庫業を制御として行ってたんですけれども
これもそんなに小さくはないんですけれども
天王寺屋は資産2兆円
今の金で2兆円と言われるぐらいですから
当時の国家屋さんの100年分ぐらい資産を持っているわけですよね
しかも当時流通を支配していたんですね
北欠州流通経路
そういうものを天王寺屋は抑えていた
三好とのパイプも非常に強い
一甲州とも付き合いがあるということで
天王寺屋を抑えるということが
莫大な経済力それから実質的な軍事支配につながっていくわけですね
信長はどうしても天王寺屋を身内に引き込みたかったんですね
天王寺屋総牛を岐阜城に招いたときに
自分でお釈迦までしてご飯のおかわりまで寄贈
あり得ないですよね
今の僕らの知っているタイガドラマ的な時代劇観で捉えると
えーって思うんだけども
そうではなくて
商人というのはこの時代そこまで力を持っていたんですね
そうなんですね
商人の地位って下の方っていうイメージがあったんですけども
全然違うんですね
全然違うと思うんです
だから僕も調べてみて目から鱗だったんですけども
武家が武力によって領地を広げていくということよりも
貨幣経済ビジネスによって人々を従わせていくという
パワーの方がこの時代は強いんですね
なるほど
どうしても信長はそのパワーが欲しかったので
天王寺屋を駆動するために利休の助けを必要としたという
そういうポジションだったんじゃないかな
もう現代のビジネスマン的なビジネス感みたいな感じですね
まさにそうだと思いますね
すごいですね
私も幼少の頃から表仙家の茶道を親しんできたんですけれども
いろいろ千利休の利休百種というのを稽古のときに学んで
利休が表なしの心とかそういうものをすごく基本となっているものがあって
2:45:07
床沼の花とかも薔薇とか百合とかではなくて野に咲く花
ワビサビっていうんですかね
そういうものを非常にいろいろ学ばせていただいたんですけれども
派手派手な天下人たちはやっぱりそういうところに惹かれるのかなとか
私も勝手に思ったりとかしてるんですけれども
まあですねこの利休はそうやって派手さもなく
商人でありながらこういう武将たちにすごく重宝に使われて
最後はなぜか武士でもないのに切腹という死に方がなぜなんだろうというところが
いろいろ言われてますけれども岡田さん的な見地はどういったところなんでしょうか
切腹ですか
まずその利休が武士でないのに切腹したという点につきましてはですね
確かに珍しいケースではあると思うんですが
利休は扇町天皇から利休という孤児号を頂戴しているんです
これは正式に財家でありながら仏法に旗揚げしているという正式な身分ですので
切腹ということもあり得たのではないだろうかと思います
そういうことですね
これが江戸時代であれば法制度として切腹
武士以外の人間が切腹するというのはなかったと思うんですけれども
そういう法整備される以前の話ですので
利休の切腹は別に不思議ではないというか
そうなんですね
何で利休は武士でもないのにって言われている場面とか
すごいいっぱい見てきたような気がしたんですけど
そんなに珍しいことではないと
そうですね
名誉の死を選んだということは切腹という形に関しては不思議ではないんですけれども
じゃあなぜ名誉の死を選ばなければならなかったというのが不思議なんですね
そうですね
あれですよね
銅像でしたっけ
舌を通った後
秀吉が侮辱されたみたいなのがあったとか
単なるちょっとした行き違いみたいな感じに思うんですけど私は
大きな原因として挙げられているのが
大徳寺の山門に利休像を
しかも切腹を吐いた利休像を設置してしまった
これ利休が設置したんじゃなくて
大徳寺が山門を起診してもらったお礼に
山門を起診してくれた利休の像を置いたんですけれども
大徳寺は小田信長の母書でもありますので
2:48:04
秀吉もその舌を通るということで
因縁をつけてきたわけですね
ドラマの中では因縁をつけてきた相手は石田三成というふうにしてますけれども
もしかすると秀吉本人だったのかもしれません
ただそのことだけでですね
言ってみれば豊臣株式会社の副社長ですよ
秀長という副社長がいますから
その次ぐらいですかねナンバー3ぐらいのポジションにいる人間を
いきなり切腹させるかとこれは非常に謎です
ですので相当その恐怖があったんだろうなと思うんですね
秀吉自身が
秀吉自身なのかあるいは秀吉の側近として
のし上がってきた三成田の
いわゆる武行派閥なのかがわからないですけれども
利休に対する恐怖
それはなぜかというとやはり三吉とのコネクションですね
物流それから経済
実質台所を握っているわけですね
ですので味方であるうちはいいんだけれども
堺という勢力がいつひっくり返るかわからない
敵に回った時に本当に恐ろしい人たちだという
恐怖があったんじゃないですかね
そういうことか
三吉と利休の関係といいますか
三吉一族と堺の関係は
例えばですね
例えばあんまり良くないかもしれないんですけれども
マフィアの口座のストラってあるじゃないですか
血の千切りを結ぶ
そういう千切りで結ばれた
固い絆で結ばれてるんだけれども
裏切りは許さない
逆にね
そういうある種同盟だったんではないか
それに対する
三吉側の恐怖というか
一旦は三吉将冠とかどんどん取り込んでいくんですけど
取り込んでも異物のままなんですね
取り込めないんですよ
なるほど
ですので
三吉は三吉将冠に
秘劣群を養死に出すんですけれども
その養死に出した秘劣群を
利休が死んだ後に
切腹に追い込んでいくわけですね
そうなったんだ
ですので三吉的なもの
そういうものに対する恐怖というのが
三吉側にあったんじゃないでしょうか
最後にですね
お聞きしたいんですけども
利休の自生の句ですね
2:51:02
人生七十利き生きとつ
我がこの法権
粗物共に殺す
これ自生の句でしょうか
はい
ゆいげと言われていますね
ゆいげ
禅寺の皇相が
自分の死後に残す言葉を
陰文帳で残したものを
ゆいげと呼んでいるそうです
そうですよね
利休って
利休は大徳寺に起家していましたので
そうですよね
70歳にしてですね
力みなぎる
法権は祖先や仏も殺すほど
その人たちを
天に投げ放つというのは
和美茶を極めた人
失踪な和美茶の人とは思えないような
豪傑な印象を持つんですけれども
岡田さん個人としての見方は
どう思われますでしょうか
このゆいげの言葉の中にあります
法権
法権という言葉から広げまして
平家の隠れ座という
法権探しのエピソードを
思いついたわけなんですけれども
非常にお坊さんらしくない
そうですよね
あらあらしいと言いますか
何か訴えたいという
意図を持った言葉ですね
どんな意図があったと思われます?
岡田さんは
難しいですね
これは
これは難しい
これは難しいです
これは正直分からない
でもやっぱり岡田さんも思いますよね
すごいあらあらしいというか
いやおっしゃる通り
李旧のキャラに合わないですよね
そうですよね
わびさびをたっ飛ぶ芸術家としても
あるいは仏法に帰る
禅寺のお坊様としても
豊臣株式会社のナンバー3としてもですね
キャラが合わない印象があります
そうですよね
何か言うほどのことを
言わないと
何か言うほどのことを抱えていたんだろう
というふうに感じます
そうですね
きっと李旧はたくさんの思いを抱えたまま
それをベールに包んで人生を終えて
こうして後世の私たちを楽しませてくれているような気がするんですけれども
このですね私も戦国時代大好きなんですけれども
今回初めて出会った三好 長吉 三好家
これですね
本能寺の編においては
明智と三好の関係
豊臣政権の時のナンバー3であった
李旧と三好
この辺がさまざまな鍵を握っているのではないかというところが
2:54:04
とってももう今私の妄想がムクムクとですね
盛り上がってきて
なんだ戦国を理解するには
今まで全く知らなかった三好 長吉を知らなければいけないんじゃないか
っていうのでも早く入って三好 長吉調べたいっていうぐらいのですね
今思いでおりますけれども
いかがでしょうかこの三好 長吉についてですね
もうちょっと締めていただければと思うんですけれども
そうですね三好 長吉をもって最初の天下人とは
必ずしも言えないと思うんですね
彼が統一したのは五旗内
それと自分の本国である阿波の国なんですけれども
他は全くノータッチだったんです
当時その天下をという言葉を五旗内を指したというようなことを
おっしゃる方もいるんですけれども
ちょっとそれは奇弁であって
五旗内を統一した武将という言い方が正しいのかなと思います
ただ三好 長吉という人がいなければ
おそらく小田信長や豊臣秀吉も
違った形になったであろうということは想像に固くないですね
そうですね
信長はどうもやはり長吉に対して非常なリスペクトを抱いていたようです
ですので三好 長吉が新しい戦国を理解していく上での
新しいミッシングリンクになっていくのではないかなというふうに感じています
そうですね
ぜひ大河ドラマでやってほしいですね
そうですね 大河ドラマ三好 長吉でやればいいじゃないですかね
やってほしいですね
誰に言えばいいんだろう
みんなで言っていきましょう
はい 今日は本当に盛りだくさんに
たくさんのお話長い時間お聞かせいただきまして
ありがとうございました
最後にですね
岡田さんから最近のご活動やリスナーに向けて
一言ございましたらお願いいたします
はい ちょうど今ですね
シーズン4の編集を絶賛やっておりまして
シーズン4はですね
はい
素材が中心倉ですね
そうなんですね
声優さん10人で打ち入りをやるかっていう
できるのか
できるのかということですが
もうすでに収録は終わっておりまして
編集作業に入っております
素晴らしいですね 中心倉ですね
またググッと時代が戻ってまいります
わかりました
じゃあこのシーズン4ですね
皆さまぜひお楽しみにお待ちいただきまして
今回ですね シーズン3
千利休と天下人たち
一度お聞きになった方も
もう一度このエピローグをお聞きいただいた後にですね
振り返ってもう一度聞いていただけたらと思います
2:57:00
ありがとうございました
それではボイスドラマで学ぶ日本の歴史
次回シーズン4も
配信準備着々と進んでおりますので
お楽しみに
今回は岡田さんお話ありがとうございました
どうもありがとうございます失礼します