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2022-03-13 26:40

「信仰の結果 、 不信仰の結果」2022年3月13日(日)メッセージ

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東京ぶどうの木教会 2022年3月13日(日)主日礼拝のメッセージです。 牧師:アブラハム黄

民数記0 共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。2.イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。3.どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。」4.そして、互いに言い合った。「さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう。」5.モーセとアロンは、イスラエルの人々の共同体の全会衆の前でひれ伏していた。6.土地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、衣を引き裂き、7.イスラエルの人々の共同体全体に訴えた。「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。8.もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。9.ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」10.しかし、共同体全体は、彼らを石で打ち殺せと言った。主の栄光はそのとき、臨在の幕屋でイスラエルの人々すべてに現れた。

00:00
今日は信仰の結果、また不信仰の結果について メッセージを分かち合いたいと思います。
3月は信仰について分かち合いましょう。 信仰とは信じることです。
信仰がなぜ信じることなのか。 信仰は目には見えないですが、存在しておられる神様と
神様の約束を信じることだからです。 目に見えるこの世のことを信じることは信仰ではありません。
信仰の一番大きな問題は、目に見えることによる妨げです。 霊的な戦いは、目に見えない神様と目に見えるこの世との戦いです。
ですから霊的な戦いは、信仰があるとき勝ち抜くことができます。 神様は霊です。
神様は体を持っておられません。 なぜなら、神様は宇宙よりもっと大きなお方です。
ですから、体を持っては存在することができないからです。 信仰は目には見えないのですが、存在しておられる神様を信じて、
神の計画を信じて、その神様との関係の中で、神様と共に歩むことです。 また、神の道路者として神様が願っておられることを成し遂げられ、
神様を喜ばせることです。 この時、神様は栄光を受けられます。
人間の第一の目的、言葉を変えれば、人間としてこの世で一番うまく生きる人生は、 神の栄光のために生きる人生です。
私たちは、この全世界を運営しておられる神様を知って、 神の栄光のために行かなければなりません。
このためには信仰が必要なんです。 信仰は目には見えないのですが、存在しておられる神様を信じることですけど、
目に見えない神様は、大きな計画を持っておられます。 神の計画は何ですか?
ヨワネ3書16節、神はその一人子をお与えになったほどに、 両愛された一人子を信じる者が、一人も滅びないで永遠の命を得るためであるということです。
03:01
神様の大きな計画は、全世界、全人類を救おうという救いの計画です。
神様は私たちを愛しておられて、私たちを救おうとします。 生かそうとします。
生かすという意味は、罪と死からの救い、病からの癒し、 失われたすべてを回復してくださるなど、私たちを幸せにしてくださることを願っておられます。
私たちがなぜすべてを失ってしまったのか、 その理由は、罪と過ちのゆえです。
神様は、血の流しがなければ罪の許しがないという法律を立法で定めておいたので、 その法を守るために、旧約聖書は数多く罪がない動物を殺して血を流しながら、人々を罪と過ちから許してきておられました。
最後の時、神約は、一人子イエス様を十字架の殺され、 十字架の致死をによって全人類の罪を解決しておられます。
また、救いの計画を成し遂げるために、旧約聖書ではイスラエル民を、 新約聖書ではキリスト社を選ばれ、彼らを通して救いの御業を伝えるようにしておられます。
皆さん、神様のすべての恵みは、目的があります。
罪によって地獄に行くしかない私たちを、 神様が恵みによって救われたのには、良い目的がありました。
エピソード2章8節から10節が、それを私たちに教えてくださいます。
エピソード2章8節、事実、あなた方は恵みにより、信仰によって救われました。
この事は、自らの力によるものではない、神の賜物です。
実説は、なぜなら私たちは、神に作られたものであり、 しかも、神が前もって準備してくださった良い技のために、 キリスト・イエスにおいて作られたからです。
私たちは、その良い技を行って歩むのです、と言います。
救われた私たちは、それを良くして、 それをうまく担っていくことが大事です。
ここで良い技、良い技のために私たちを前もって救われたと言われるのですが、 良い技は何ですか?
旧約束時代には、世の中で数多く民族がいました。
06:04
その中で神様が、特別にイスラエル民を選ばれ、 救われ、恵みを施したのですが、そこには目的がありました。
これが、シチュエジプト中級書、5節、6節です。
今、もし私の声を聞き従い、私の契約を守るならば、 あなたたちは、全ての民の間にあって、私の宝物となる。
世界は全て、私のものである。
あなたたちは、私にとって、最始の王国、 聖なる国民となる。
これが、イスラエル人々が語るべき言葉である、と言います。
また、新約の時代、世の中で、地球の中で、 数多くの人がいるのですが、
みんなが、罪によって地獄に行くしかない中で、 私たちを選ばれ、恵みを施したのには、目的がありました。
これを、第1ペトロ、2章、9節に教えてくださいます。
しかし、あなた方は、選ばれた民、王の系統を引く最始、 聖なる国民、神のものとなった民です。
それは、あなた方を、暗闇の中から驚くべき、 光の中へと招き入れてくださった方の、力ある技を、 あなた方が、広く伝えるためなのです、と言います。
ここで、王の系統を引く最始、という意味は、 地による、贖いの礼拝を通して、
人々を救って、癒して、回復させて、 神様に導く役割をする人を、最始朝と言います。
救われた私たちは、みんな、万人最始朝の役割をしなければいけません。
これをするために、私たちを救われ、 神の民、神の犬性を受けられた、 神の子供としての、犬性を受けられました。
救われたのに、それを知らなくて、 そこにふさわしい働きをしなければ、
私たちは、自分の存在意味と目的、 自分のアイデンティティを知らないまま、過ごしていることでしょう。
神の御業は、神の子供が伝えなければ、 誰が伝えますか?
未信者が、それをやりますか?
じゃあ、ここで一番大事なのは、私たちの信仰です。
私たちが、信仰によって、神様の驚くほどの、 救いの計画を受け入れ、
それをビジョンとして、使命を担うことより、 もっと大事な人生はありませんけど、
ところが、私たちは、今、この世が忙しくて、 食べて生きるのに精一杯で、
09:05
その使命を失って、この世のことばかり考えて生きるなら、 私たちの人生はどうなるんでしょう?
じゃあ、ここで、信仰によって、神の身胸を受け入れ、 使命人として生きるのか、
この世の現実を、もっと深刻に考えて、 生活人として生きるのか、
生活の目的が問われるところであります。
じゃあ、それと関連して、 私たちに大きな教訓を与えてくださる事例があります。
これが、民数記14章のカデス・バルネアの知見です。
救いに対して、一番分かりやすく見せてくださるのが、 シュッチ・エジプトの事件です。
イスラエル民は、エジプトで救われて、 そして、アレロに出て、そこで訓練され、
カナンという意味は、天国を例えることですね。
天国であるカナンに入る、救いの計画を成し遂げるために、
神様が、シュッチ・エジプト指定1年目に、 カナンの入り口であるカデス・バルネアまで行きました。
神様は、イスラエル民に、神明記1章8節に、 「美を、私は、あなたたちに、この土地を与える。
あなたたちは、行って、シュガ、センジョ、 アブラム、イサク、ヤクブに、
彼らとその子孫たちに、与えると誓われた土地を取りなさい。」と言います。
ところが、カナンに入る前、偵察させてくださいと言います。
そして、十二部族で一人ずつ、十二人を選んで、 40日間、カナンの地方を偵察するようにしました。
ところが、40日間偵察して戻ってきた、 彼らの報告が、各々違うんです。
ヨーシワとカレプは、 「入りましょう。占領しましょう。」と言いますけど、
残りの十人は、「不可能です。入ってはいけません。 入ったら、私たちを全滅させますよ。入ってはいけません。」と言います。
私は、民数記14章の1節から3節を読みながら、かっかりしました。
イスラエル人たちは、何を願っているのか、ということです。
カナンに入りたいんですか、そうじゃなければ、 エジプトの生活がもっと良かったと思うのか、ということです。
神様がカナンに導こうとする時には、 ハレルヤとしてついてきたのに、
カナンに入る時、少し難しさがあったら、 「やめましょう。エジプトがもっと良かった。」と言うんです。
12:04
その人たちの目的は何でしょうか。
皆さん、アブラモン遺作、役部、戦場の時から、 長く長く約束され、数多くの印を通して語ってくださった神様。
アブラモンに示された約束の地、カナンに入って、 カナンにイスラエル人たちを導くために、
猛瀬を通して、驚くほどの超自然的な奇跡を通して、 シュチェイプトさせ、カナンまで導いてくださり、
カナンに入って、神の国イスラエルを建てて、 全世界に神様が生きておられることを示され、
全世界を救おうとしておられるんですけど、
このためにエジプトからカナンまで、 今まで導いておられたのに、
長い間の夢の実現を目の前にして、 偵察して戻ってきてからは、
不可能だと、入りたくないと、 戻っていきましょうと言います。
皆さん、何が不可能だということですか?
では、今までエジプトから出て、 あれを経って、カナンまで来るのには、
自分の力でやってたんですか?
神様の力に委ねてやってきたのではありませんか?
自分の力と全く関係なく、 神様の超自然的な働きで、今まで来たのに、
今からでも、神様を信仰によって委ねて、 進み出るべきではありませんか?
信仰によって委ねるなら、 神様がすべてやってくださるでしょう。
何が不可能ということですか?
ここで問われるのが、信仰の問題です。
信仰があるかないかの問題です。
明確に分かれた、2人と10人の報告。
その報告を聞いたイスラル人たちは、
みんな泣きながら、
私たち結局、
入ってはいけない。
神様が与えてくださると言っても、 私たちは入りたくない。
エジプトに戻ろうとします。
非常に神様と、神の国と、神の御業に無関心で、
自己中心的に、
自分に楽なことばかり考えるイスラル人。
これを深刻な不信仰。
神を無視して、神を拒否する民です。
神様は信仰がないイスラルを、
民粹14章12節には、
私は彼らを、
意気込みで打ち、
彼らを捨て、
モーセ、あなたを通して、
別の巨大な国を建てたいと言います。
15:01
その時、モーセが、
牧師の心で、
取りなしの祈りをします。
民粹14章13節から19節まで、
長く長く、
神様にそうしてはいけませんと、
取りなしの祈りをします。
その時、神様は、
モーセの祈りに応えてくださって、
民を許してくださったのですが、
皆さん、
取りなしの祈りが、
どれほど大事でしょうか。
3番目です。
神様の約束があるとしても、
神様が約束されたことを、
得るためには、
信仰がなければいけません。
その不信仰の結果と、
信仰の結果が、
どのように書いてありますか。
神様は、
モーセの祈りを聞いてくださって、
イスラエル民の、
罪は許してくださったのですが、
22節、23節を見ますと、
神様を無視した、
イスラエル人たちは、
決して、
約束の地を見ることができないであろう、
と言われました。
ここで、
不信仰の結果は、どうなったのか。
停殺した1日を、
1年として、
40日停殺したことを、
40年間、
アレノで、
彼たちは生活するようになります。
もともと、
1年で、
カナンに入るようになっていたのですが、
カナンで入ることができなく、
アレノで、
40年間生活しなければいけない理由は、
不信仰のゆえです。
結局、
彼らは、
カナンに入ることができませんでした。
また、神様の使命から、
除外されてしまいました。
神様は、
彼らを使いませんでした。
信仰がない人は、
神様が使うことはできません。
では、40年間、
アレノで何をするんですか。
彼らが存在する理由は、
死のことを待つだけです。
アレノを、
くろくろ回りながら、
彼たちはアレノで、みんな死ぬようになります。
血と蜜が流れる。
カナンには、
入ることができないんです。
神様は、
彼らをアレノで滅亡され、
アレノで生まれた、
第二世代を連れて、
入りたいと言われます。
そうしながら、
あなたたちは、
もう再びアレノに入れなさいと言って、
アレノに連れて行きます。
結局、
一年の間に、
一年目に入るようになっていたカナンは、
入ることができなく、
死ぬときまで、
アレノで、
くろくろ回ることだけでした。
皆さん、不信仰の対価は、
こんなに悲惨です。
しかし、
信仰によって報告した、
ヨウシュアとカレプは、
どうだったんですか?
彼らは、神の御業に、
18:00
立派に用いられました。
そして、
彼らたちの子孫たちは、
ししそんそん、
ヨウシュアは、
亡生に引き受ける、
この後継者として、
リーダーとして、
イスラエル人のリーダーとして、
神の栄光と、
孤輪際の中で、
カナン西浴戦争で、
持ち入られました。
彼は、亡生のように、
数多くの奇跡を体験しながら、
ヨルダン川を渡り、
エリコ城を破り、
戦争の勝利を、
経験しました。
彼は、また、世の中で、
誰もできなかったことがあるんですけど、
ヨウシュア書10章13節に、
見てますと、
希望のために戦いがありました。
敵を滅ぼすのに、
時間が足りなかったんです。
その時、ヨウシュアは、
何を信じたのか?
太陽をその場で、
とどまれ!
火をとどまれ!
月をとどまれ!と言いました。
皆さん、私たちが、
太陽をとどまらせることは、できますか?
月をとどまらせることは、できますか?
できました!
ヨウシュアは、やってくださいました。
神様が、
丸一日間、
全宇宙を止めさせて、
ヨウシュアの、
この働きを、助けてくださったんです。
ヨウシュアは、
神様との親しい間取りの中で、
神の栄光の中で、
過ごしました。
また、カレブは、
カナン西浴戦争で、
一番難しく、
産地に過ごしている、
巨人、アナクシソンを、
倒すようにさせ、
彼が属している、ユダヤ部族は、
後になって、
ダビデの系統になり、
ししそんそん、
王の家門になります。
王の系統になります。
また、ヨウシュアで来られる、
イエス様が、ユダヤの
家門を通して来られる、
祝福の上、
祝福を得ることができました。
今、イスラエルビットの中で、
残っている、
ユダヤ人、ユダヤ部族、
だから、今、イスラエルビット人たちを、
ユダヤ人と言われるんですけど、
カレブの部族だけが、
残されています。
皆さん、私たちが、
みんな信じるんだ、と言うんですけど、
神様にもちられる、
また、神の栄光に、
栄光に参加するか、
できないかは、
信仰があるのか、
信仰がないのかに、
書かれてあります。
カデスパルネアの事件が、
今の私たちに、
くださる意味は、何なのか、と。
今、私たちには、
どんな信仰を、
試されているんですか。
私たちには、
今、最後の時の、
神様が私たちに、
祝福とリバイバル、
21:00
大収穫のビジョンがあります。
新しい葡萄酒は、
新しい皮袋に入れるべきだ、
と言われた、
リバイバルが、
今、最後の時に来ます。
そのリバイバルの力で、
地の果てにまで、
大収穫を行うことになりますけど、
その身業に、
もちられるか、
もちられないか、
それが、私たちが信仰あるのか、
信仰がないのか、
そこに問われています。
マタイの24章14節、
そして、
御国のこの福音は、
あらゆるための証として、
全世界に述べ伝えられる、
それから終わりが来る、と言います。
全世界に、
福音が述べ伝えられているんですけど、
はじめ、
イエルサリムから始まって、
ショアジア、ヨーロッパ、
アメリカ、そしてアジア、
そして中国、
そしてイエルサリムから始まって、
イエルサリムに戻っていくなら、
もう終わりが来るんですけど、
今、福音はどこまで
言っているのでしょうか。
神様は、人類救いの計画のために、
はじめから計画され、
イエス様を通して、
完成され、
地の果てにまで、
明かしすることを、
イスラル人とキリストシャーに、
頼んでおられるんですけど、
信仰によって、
その御業に用いられるのか、
そうじゃなければ、
その大きな計画を無視して、
私は、
うまく食べて、うまく生きることだけ、
考えて、
神の大きな計画って、
私は関係ないだろうと。
皆さん、これが、
ヨーシュア・カレブと、
中部族のリーダーたちが、
異なったことでした。
今も、神様は、
同じように、
私たちに聞いておられるんです。
世の中を見て、
あなたは、
私の全世界を救う計画が、
できると思うのか、
それができないと思うのか、
その御業に、
あなた自身が参加するのか、
そうじゃなければ、
それを無視して、
私の生活ばかりするのか、
これを、
今、カデス・パルネアの事件を通して、
知っていることなんです。
最後のリバイバル、
大収穫は、
偉大な働きです。
大きな霊的な戦いがあり、
そこには、
大きな代価の支払いがあると、
教えてもらいました。
そのために、
信仰によって、
神様を見上げ、
準備していくのか、
そうじゃなければ、
現実と状況ばかり見て、
どう思っているのか、ということです。
神様が私たちを救われた理由、
また、
恵みを施してくださる理由は、
神様の良い
業のためです。
願わくは、
24:00
神の国、
神の栄光のために、
最後まで、
信仰によって、
祈って、準備していく、
私たちになりましょう。
そうするなら、
神の国と神の気を求めなさい。
そうすれば、
全てを加えて与えられる、
と約束したように、
私たちは、
神の国、神の栄光のために生きるなら、
食べて生きること、
子どもの問題、
家庭の問題、
コロナの問題、
災いの問題、
全て神様が解決してくださることを、
信じます。
皆さん、
私たちは生活するために、
この世に来たのではありません。
使命があるから来ました。
また、
神様が救われた目的、
今も恵みを与えてくださる、
目的があります。
それは、
良き業のためです。
それを忘れてはいけません。
ただ、
生活が目的であるなら、
皆さんは世界、
世の中しか見えないでしょう。
そうするなら、
信仰はできません。
私たちの目的が、
神様を喜ばせ、
神の栄光のために生きたいと思っているとき、
神が見えるし、
信仰がきます。
私たちのキリスト社に、
一番大事なのは、
信仰です。
私たちが信仰によって、
神の栄光のために生きるなら、
神様は、
信仰によって生きた、
信仰のために、
全てを加えてくださり、
私たちの子孫たちに、
意義を与えてくださり、
私たちの人生を、
永遠に祝福される人生と、
してくださるでしょう。
皆さん、
信仰が大事です。
信仰によって満たされますように、
3月はこの信仰を、
またもう一度、
またまた、
私たちは強めていきましょう。
神様、
今日は信仰によって分かち合いました。
私たちが信仰によって、
神様を見て、
神様の世界経営を見て、
神様の救いの計画を見て、
私たちに与えてくださった、
ビジョンと使命を、
うまく担っていく、
私たちになってあげるように、
そして、
永遠に祝福される、
私たちにならせてください。
イエス様の皆を通して、
お祈りいたします。
アーメン。アーメン。
26:40

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