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2022-03-06 25:27

「人を生かす共同体の信仰」2022年3月6日(日)メッセージ

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東京ぶどうの木教会 2022年3月6日(日)主日礼拝のメッセージです。 牧師:アブラハム黄

マルコ2:1-5 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

00:00
今日は 人を生かす共同体の信仰という体をもってメッセージを分かち合いたいと思います。
先週私たちは、礼儀的な戦いの素晴らしい人物であるエリアの信仰について分かち合いました。
エリアは神様に対する熱情を持って働きながら疲れ果てているその状態でした。
そのエリアに神様は慰めてくださり、食べ物を与えてくださり、新しい力を与えてくださいながら
これからはこのように礼儀的な戦いをしなさいと言われたんですけど、それが弟子たちを立ててその弟子のティムを通して働きなさいと言われたんです。
一人で頑張ることも本当に素晴らしいことです。しかし神様は一人で頑張ることもいいけど、これからはこのように働きなさいと言われました。
なぜそうされるんでしょうか。それはサタンとサタンの家来はティムで組織的に働くからです。
悪魔はサタンはティムのティムで組織で働くのに、私たちは一人で戦うことができますか。
一匹の狼のような働きは信仰ではあまり良くないんです。
ですからエリアはその見言葉通りアラームの王を立て、イスラエルの王を立て、そしてエリシャを立てました。
それでティムで働くときにイジェベルを諸断することができ、アハブ王を悔い改めさせることができました。
今日は同じ脈絡で、新約時代を過ごしている私たちがどのようにすれば教会を建て、神徒たちを生かしていくことができるか、それを分かっちゃいたいんですけど、同じです。
私たちも弟子を立て、ティムで働かなければいけませんけど、それをよく教えてくださる大事な聖書が今日のマルコの2章の1節からの言葉です。
今日のマルコ2章の見言葉を通して、共同体の大事さ、また共同体の信仰の大事さについて分かち合いたいと思います。
まずはじめにマルコ2章の解読について申し上げたいと思います。
イエス様はカファルナウムに来られたんですけど、その噂が広まって大勢の人々が集まりました。
どれほどの大勢の人が集まったのか、人が家の中に入る隙間もないほどだったということです。
03:02
その時、中部の人を4人のお友達が運んできたと言います。
ここで中部の病気ということはどんなことでしょう。その症状は何でしょう。
その症状は体が麻痺の状態になることです。
心と考え、指摘能力は問題は全くありませんけど、体が麻痺になって動くことができません。
ですから人の助けがなければ何もできない人になってしまったんです。
本当に気の毒だと思いませんか。なぜこのようになったのか。
聖書は相互的にこのように言われます。ヨハネ・チュッシュ・チュッセチです。
盗人が来るのは盗んだり、ほふったり、滅ぼしたりするためにほかならない。
私が来たのは羊が命を受けるため、しかし豊かに受けるためである。
ここで盗人というものは悪魔を意味します。
皆さん、悪魔は私たちの良いものすべてを奪われていきます。
健康も奪われていきます。財産も奪われていきます。
幸せも命もまた信仰も恵みも祝福も全部奪われていきます。
この人には健康に問題が来ました。そして中風の病気になってしまったんですけど、
なぜこのようなことがあるのか。なぜ悪魔がこのように盗人が盗んでいくのか。
そのきっかけになったのは第一弱音の三書八説、罪を犯す者は悪魔に直します。
悪魔の肌らきがあります。悪魔の肌らきを滅ぼすためにこそ神の子イエスキリストが来られたということです。
ローマ書二章九説には、すべての悪を行う者には苦しみと悩みが下り、罪と悪それが原因です。
先週私の友達、天官のやっている友達、幻で蛇がくるくる巻いてあったということを申し上げました。
皆さんこの蛇という肌らきは悪霊の肌らきです。悪霊の肌らきは罪と過ち、悪によって来ます。
マルコ二書の中風の人が病気になったその原因も罪だったんです。
イエス様はこのように証言しますね。マルコ二書五説、
子よ、あなたの罪は許されると言いました。イエス様がその人の病気の原因が罪だということを言われたんです。
これが霊的な問題でした。 じゃあ皆さん霊的な問題はどのように解決することができますか。
06:02
人々は病院に行ったり薬に頼って解決しようとします。
気の毒だと思って癒す可能性があるように見えるところは全部探し回っていきます。
そうしても解決できませんでした。なぜ、霊的な問題だから、罪によって来た問題だからです。
それだってすべての病が全部罪から来たのか、そうではありませんけど、
ではこの人はどんな罪を犯したのか、それは聖書に書いてありません。私はわかりませんけど、
彼は溺れる者は藁をもつかむ、このような心情でイエス様の噂を聞いてイエス様の前に進み出てきました。
ところがイエス様に出会うためには何が必要ですか。信仰が必要です。
まずイエス様に出てくるところには邪魔があります。妨げがあります。
マルコ2章2節には大勢の人が集まって、戸口のあたりまで隙間もないほど詰まっていたので、
ここでイエス様に出会うときに邪魔はあります。何ですか。人が邪魔になるんです。人が。
信仰生活にいろいろな妨げがあるんですけど、信仰に入るときも妨げがあり、また次に信仰の成長の各段階、段階別に妨げがあります。
覚悟しなければいけません。乗り越えなければいけません。その妨げを乗り越えるためには信仰が必要なんです。
またイエス様は、ご自分の前に進み出てくる人たちに一つだけを見てみます。要求します。これが信仰です。
サムエル上の16章7節を見ますと、「しかし主はサムエルに言われた、
用心や背の高さに目を向けるな。私は人間が見るようには見ない。
人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。
主は心によって見るということは、その心、信仰、その動機、それを神様が見ておられるということです。
彼たちはイエス様のところに来たとき、人々に阻まれてイエス様のところに行くことができない。
だからその人たちは珍しい行動をとったんですけど、屋根に登ってそれを剥がして穴を開けて、
イエス様がおられるそのあたりの穴を開けて、そして病気の人を吊り下ろしたんです。
人々は彼たちの行動だけ見て、無礼だと思ってたんですけど、
09:04
イエス様は彼たちの行動を見てませんでした。彼らの心を見ました。
心で信仰を見て、中部の人を癒してくださったんです。
彼たちの行動の裏には驚くほどの信仰がありました。
イエス様が見られたその信仰はどんな信仰だったんでしょうか。
まず、この人を必ず癒さなければいけないという、カラディア古書6節にあるでしょう。
愛によって働く信仰です。 哀れに思う信仰です。
皆さん、愛をもって働く信仰、哀れに思うこの心は神様の心なんです。
事実この人たちは神様の心をもって人を助けようとしてたんです。
神様は喜ばれるでしょう。
また、イエス様に出会ったら必ず治るんだという信仰がありました。
イエス様にこの人をとにかく出会わせていくなら、
イエス様はこの人を必ず助けて、生かして、癒してくださるんだという信仰。
そのような信仰がなかったら、他人の家を壊しながら無謀な働きをするはずがないでしょう。
また、私が見るのにもっと大事なのは方法論まで一つだったということです。
同じ心で持つこの謙遜な信仰だと言いましょうか。
人々が大勢いて、どうしてもイエス様がおられるところまで行くことができない。
みんなが自分が先に癒されたいと思って大騒ぎなんです。
隙間もありませんでした。
では皆さんどうしますか。
私が痛いのではないから、次回来よう、まあいいんじゃないかと言うかもしれません。
また他の人が屋根を剥がして、それでなんとか穴を開けて、なんとか方法がないかなと言う時に、
そんなこと言うんじゃないよ、私の家じゃないから。
自己主張しない謙遜だと言いましょうか。
みんながその方法を受け入れて、同じようにそれを行動で映されたんです。
これ驚きではありませんか。
4人の中で一人でも反対したらいけないことでしょう。
皆さん、方法論まで一つになることは非常に難しいです。
しかし彼たちはその人を生かすことさえできるなら何でもしようという心で一つになっていました。
屋根を剥がす、穴を開けよう、そしてその時に彼たちはそうしようと、そして働いたんです。
自己中心的な私たちは自分の考え、自分の観点があるから、これはできないんです。
12:06
今、韓国の教会は、いつも韓国ばかり言ってごめんなさい、私は韓国の教会しかわからないもんだから、
韓国の教会はほとんど長老教会です。
皆さん、世界的に見たら長老教会は非常に小さな教団です。
しかし、韓国は一番多いんですけど、その韓国の長老教会の中で教派がどのぐらいあるか知ってますか。
私がインターネットで調べてみたら、300校くらいの教派で分かれているということです。
長老教会が300校くらいにバラバラになっているということです。
なぜこのようにバラバラになっているのでしょうか。
方法論が間違えたからです。方法論がお互いに異なったからです。
ですから一つにならないで分裂されています。気の毒ではありませんか。
4人の人が屋根を剥がそうと言ったのを、その時、警察に捕まえたらどうしようとするのか、ダメよ、ダメよと言いませんでした。
必ず生かしなければいけない。イエス様に出会うなら治るという驚くほどの信仰によって、そうしよう、心一つにして行動に移されたんです。
イエス様は彼らの信仰を見られて、こよ、あなたの罪は許されると言われました。
ここで皆さん、病と罪との関係、すべての病はみんな罪によってくるんですか。
いいえ、そうではありません。しかし一般的に聖書では、病と罪を同じ概念で使うほど深い関連性があると言います。
イエス様は彼らの信仰を見られ、中部の人を罪を許しながら、彼らの病気も癒してくださいました。
これをもってイエス様は、ご自分は罪を許す権威を持っていらっしゃる神様だということを示してくださり、
また病気も癒される、癒しの牽制者であることを表してくださいました。
その人たちは信仰によって、罪を癒してくださる、また罪を許してくださる、また癒しの牽制者であるイエス様に出会うことができたんです。
驚くほどではありませんか。4人のお友達は信じたんですけど、その場に行った宗教主導者たちは、この次の聖書を読んでみますと、信じませんでした。
宗教主導者たちは、聖書的な知識ということはすごい人だったんですけど、信じなかったから彼らはイエス様から何にも得ることはできませんでした。
15:07
聖書に対する数多くの知識がどんな用があるんですか。信じないなら何の意味もありません。
救い、癒し、祝福、恵み、信じなければ神様から得ることは何にもないんです。
イエス様がいつも言われる、あなたの信仰通りになりますように、あなたの信仰があなたを救った信仰が大事です。
皆さん、イエス様がどんなことまで、どこまで可能だと信じますか。皆さんが信じるくらいすべてが可能になります。信仰通りやってくださいます。
不可能がないお方です。 今日特に強調したいのは、共同体の信仰です。
共同体の信仰という時に、マッタイの18章、18節から20節が非常に大事な聖書です。ぜひ覚えていただきたいと思います。
はっきり言っておく、あなた方が地上で繋ぐことは天上でも繋がれ、あなた方が地上で解くことは天上でも解かれる、あなた方共同体です。
またはっきり言っておく、どんな願い事であれ、あなた方のうち二人が共同体です。
地上で心一つにして求めるなら、私の天の父はそれを叶えてくださる。
二人また三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。
神様の働きは共同体の働きです。神様は神様の存在そのものが三味一体、共同体で存在しておられます。
ですから共同体が心一つにして働くなら、神様が非常に喜ばれます。
ところが共同体に信仰を願っておられます。そうするとき、悪魔との礼儀的な戦いに勝ち、そして人を生かすことができるんです。
イエス様は彼らの信仰を見ておられ、罪を許してくださったんですけど、それで病気が癒されました。
信仰は罪の許しを与えてくださり、病気の癒しも与えてくださいます。
この御言葉が私たちに与えてくださる意味があります。今私たちには解決しなければいけない問題がたくさんあります。
個人的に、家庭的に、教会的に、また今はコロナによって危機の事態です。
18:02
どれほど多い問題、心配が私たちの中で、教会の中でありますか。
この問題をどのように解決しますか。これは共同体の信仰で解決します。
友のために自分を犠牲し、同じ心で助けることができる信徒が4人がいるなら、
今私たちの教会に4人の人が、このような信仰を持っている4人の人がいるなら、
私たちの教会の中、そして私たちの周りに愛する方々、また愛する日本の大勢の人々を
どれほどたくさん救い、癒すことができるでしょうか。
皆さん一人やるのは難しいんです。今私川口に引っ越しに行きました。
いやー牧師なんで周りの方になんとか転倒しようしたいなぁ。
皆さんそれが口からなかなか出てこないんですね。
一人は難しいです。しかし4人がいるなら、優しくありませんか。
じゃあこのような見言葉が聖書にあります。弱音の中号書13節です。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛がない。
共同体が一人の人のために、自分の命を捨てるほど愛して助けようとするなら、
これ以上の愛がない。神様はどれほど喜ばれるでしょうか。
私は九州で仏会する時に隣の教会で聞いた話です。
九州のある方が自分の娘さんが学校の友達とともに川に遊びに行ったそうです。
そして水に溺れたお友達を救うために、自分の娘さんが水に溺れて亡くなりました。
ご両親は亡くなった娘のゆえにすごく落胆していったんですけど、
ある日同じ学校の女子学生が訪ねてきて、弱音の中号書13節、友のために自分の命を捨てること、
これ以上愛がありません。これ以上神様を喜ばれることはありません、という見言葉を書いてくださったんですけど、
その両親はその見言葉ですごく感銘を受けて、そしてイエス・キリストを信じたそうです。
そしてその後、教会を熱心に使える方になったんですけど、
その方たちが今、九州のコクラキリスト教会にリーダーとして奉仕しておられる方です。
21:05
友達を救うために自分の命を捨てる、これよりもっと大きな愛がないと聖書は言われるんですけど、
私たちが一人の人を救うために、自分を犠牲して心を尽くして奉仕するなら、
神様が見られるのにこれ以上の愛がないと言われます。
皆さんこれが第二の今しめ、隣人を愛することを全うすることであり、
またこれは神様が一番願っておられることだから、第一今しめを守ることでもなるのです。
神様は一人の人を救うために、その4人の兄弟たちが苦労したことをどれほど喜ばれたのか、
罪の許しだけではなく、癒しの恵みもあふれるほど与えてくださったんです。
皆さん、私はここで皆さんに一つ申し上げたいことがあります。
中部の人が癒されたのは、中部の人の信仰ではなく、
4人のお友達の信仰によって、中部の人が罪が許され、病気が癒されたということです。
中部の人に信仰があったのか、聖書は書いておりません。
なぜ書いておりませんか、関係ないということです。
4人の友達の信仰によって、中部の人は救われ、癒されることができるんだということです。
それを考えると、相手の信仰があるかないか関係なく、
私たちの信仰、私たちが信仰によって一つになって使えることさえできるなら、
神様は私たちの信仰を見られ、私たちの周りに信じていない大勢の方々を救ってくださり、
癒してくださるんだということを考えるときに、
共同体の信仰による神の恵みがどれほど幅広く与えられるのか、感謝です。
これが皆さん、人を生かす共同体の信仰です。
今年、私たちはこのように共同体の信仰、これがもっともっと強くなれるように、
私たち一人一人が自分の声を出すんじゃなくて、共同体が心一つにして信仰を持って、
一人一人、また一つの問題、また一つの問題を抱えている方たちを愛して、
助けたい、生かしたい、救いたい、癒したい、その心さえあれば、
24:02
その方たちは必ず助けてもらい、癒してもらい、救われるようなことができるでしょう。
共同体の信仰で強い私たちの教会になりたいです。
ぜひとも皆さん、このことを考えながら、共同体の信仰の大事さを持って、
日本を救う、周りの方々を救う、私たちの教会になれればと思います。
よろしくお願いします。
お祈り出します。
神様、今、日本と全世界はオミクロン、カブー、コロナの感染によって苦労しています。
また、国際的には戦争によって非常に難しい状況であります。
今の時期、イエス様の救い、イエス様の癒し、イエス様の助けが必要です。
このイエス様の恵みを、神様、私たちをどうして全世界に伝えたいと思っておられるのではありませんか。
主よ、私たちを使わせてください。
私たちの教会を使わせてください。
イエス様の愛を表す私たちにならせてください。
イエス様の皆を通してお祈り出します。
アーメン、アーメン。
25:27

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