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今日は、「心を開け悟らせてくださるイエス様」という対応をもって メッセージを分かち合いたいと思います。
私たちの信仰は、イエス様の忠実化と復活を信じることです。 忠実化を背負われたイエス様だけ信じるんじゃなくて、復活されたイエス様も信じます。
忠実化の福音は、イエス様がこの世に来られて 私たちをあがなおうために忠実化で死んでくださったことです。
イエス様は忠実化で血を流すことによって、私たちの罪・過ちが許され、救われ、 また神の子供になり、私たちは天国に行くものになったということを信じることです。
ここでまた復活の福音ということもあります。 イエス様が忠実化でかけられ、死んで終わったのではなく、3日目に復活されたということです。
イエス様が復活されることによって、私たちの罪の許しが確かだということを教えてくださるし、 イエス様は罪がない神様だったということを分かるし、
罪の勢力を持っている悪魔を滅ぼしたということを教えてくださるし、 またイエス様を復活されたように私たちも復活するということを教えてくださる大事なことが復活の福音です。
私たちがイエス様を信じる、何を信じるんですかといったときに、 このような忠実化と復活を通して私たちを完全に救われることができたイエスキリストを信じることです。
ですから私たちはイエス様は私の救い主、私の主人ですということを告白することは大事です。
しかし実際は当時のイエス様の弟子たちさえもイエス様の忠実化と復活を受けるのにはうまくできませんでした。
じゃあ皆さん忠実化は信じますけど復活は信じられない。 もしそのような人がいるならその信仰はこれは正しい信仰だと思われますか。
これは本当に難しい信仰です。 だから信仰の中身を見ていますと、あなたはどこまで信じているのか、何を信じているのか、これが私たちは本当にうまくよく考えていかなければいけないことです。
そのために復活されたイエス様が何をされたのか、それをルッカーの24章でよく書かれてあるので、 この部分を一生に考えていきたいと思います。
ルッカーの23章24章はイエス様が忠実化にかけられて死んでくださったんですけど、その次の日が安息日だから。
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安息日に忠実化に人がかけられて死んでいることはよくないから、 だから急いで急いで忠実化からイエス様の遺体を下ろし、そしてお墓に葬られたんです。
そこに有馬隊の人ヨセブとニコデムがいい役割をしたということがヨアネの福音書に書かれてあるでしょう。
それで安息日が過ぎました。 安息日が過ぎることをずっと待っていた人がいました。
それがイエス様についていた女性たちがそうでした。 彼女たちは安息日の後、朝早いうちにイエス様のお墓に走っていきました。
その理由はイエス様の葬儀が急いで急いで忠実化からこの遺体を連れ戻し、 そしてイエス様をあるお墓に収められたから、
遺体に香料を塗ることができなかったんです。 だからそれをやらなきゃ、それをやらなきゃと思いながら女性たちは安息日が過ぎることをずっと待っていました。
これを見ていますと、この女性たちのイエス様に対する愛と信仰、大変素晴らしいですね。
ところがお墓についてみたら、お墓をすーっと塞いでいた大きな石があるんですけど、それがすでに転がされていた。
それで中に入ってみたらイエス様の遺体が見えなくなり、いなくなりました。 イエス様の遺体がいなくなった、イエス様がいなくなった。
どうしようと思っているその時に、 輝かしい衣を着ている二人の人が立って、その人が教えてくれた。
その方たちは、イエス様の復活のニュースを伝えるために来られた天使たちでした。
彼らたちはこう言います。 二人は言った。なぜ生きておられる方を死者の中に探すのか。
あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。 また借りられておられる時、お話しされたことを思い出して出しなさい。
人の子は必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっていると言ったのではないか。
ここから見てますと、イエス様の十字架の復活はイエス様がすでに弟子たちに教えてくださったことでした。
またイエス様のお墓が空になっているのは、イエス様が復活されたからです。
私たちが死ぬということはなぜ死ぬんですか。 罪の結果なんです。罪の結果で死にます。
だから私たちが蘇られる、復活するということは、罪の問題が解決できなければ、この死の問題も解決できません。
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もしイエス様が復活されなかったとしたら、私たちの罪が本当に許されたのか、また私たちが天国に本当に行くのか、本当にこれはわからなくなります。
しかしイエス様が復活されたと言った時に、イエス様は罪の問題が解決できたということはわかります。
イエス様の復活はいつか私たちも復活するであろうということを教えてくださる。
イエス様が死ぬことはすべての人のために死ぬこと。 イエス様が蘇られたのはすべての人のために蘇られたんです。
ですから私たちはイエス様の復活を見るときに、いつか私は死にますけど、死んだ後私たちは蘇られることも私たちは信じることができるんです。
もし私はもう長く生きられないかもしれません。しかし死にます。死んだ私が死んで終わりなのか。いえ、復活するようになっています。
いつ復活しますか。それはイエス様が再臨なさるとき、私たちは復活します。
再臨なさったときにお墓に今収まられていた、眠りついていたこの人たちが全部起き上がり、
イエス様のように二度も死なない復活の体を持って永遠に生きるようになります。
ですから今私たちの状態はすでに行われたイエス様の復活、また私たちも死んでいつか復活する私たちの間で住んでいます。
この間は悪魔も働くしイエス様も働きます。悪魔は今死の力を持っているから、それで私たちはいつも治めて苦しめて悩ませて悲しませていろいろなことをやります。
この時私たちが覚えるべきことは、今はサタンの勢力は働いているだけじゃなくて復活のイエス様の力、命も働くのだと
これを分かってから私たちはどのように行動するべきなのか考えなきゃいけません。
そのために天主たちは今日何を言ってくれたんですか。どうして生きておられる方を死者の中から探すのか。
じゃあここ大事です。今皆さんはイエス様を礼拝します。イエス様は死んで終わったんですか、生きておられるんですか。
どんな方を今礼拝しますか。 死んで終わった方を礼拝する、それを記念するためにはいいかもしれないけど、それはどんな意味があるんですか。
イエス様は生きておられるから、生きておられる方を私たちは礼拝します。 だからたとえ死の力に負けて、
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心配、悩み、悲しみ、苦しみ、絶望の中にいたとしても私たちはイエス様を信じて、
死んだじゃなくて生きておられるイエス様を礼拝する、イエス様を賛美する、礼拝様に祈る、イエス様を思い出して、イエス様を褒めたてる生活をする時に、
今もイエス様から復活の力、命が私たちに注がれて、死の力の中から私たちはそれを乗り越えることができるし、
勝利することができるし、その素晴らしい働きが私たちはできる。 それは何を通してですか。礼拝を通してです。
だから主日礼拝がどれほど大事なのか。 ある先生は、礼拝成功、人生成功、礼拝失敗、人生失敗、
そうです。真心を持ってイエス様を求める時、イエス様が必ずそこに来てくださるし、私たちの復活の力を与えてくださる時に、
サタンの力が全部消えてしまいます。 なくなってしまいます。
だから信仰を持っている私たちは、イエス様によって勝利の人生を生きるようにと、イエス様はいつも願っておられます。
ところがイエス様は復活されました。 しかし誰も復活を信じていない。復活もわからない。
事実は当時も弟子たちが信じていませんでした。 女たちはもう枯らなっているお墓を見て、また天使の話を聞きました。
ああ復活されたのだと思って、それを弟子たちに言ってイエス様復活されましたよって言ったら、
弟子たちは何を考えたんでしょう? 人たちはその話を戯言のように思われたので、
夫人たちを信じなかった。 ただペテロだけは本当と思いながらお墓に行ってみたんですけど、
やはりお墓の中が空になっていた。どうしようと思っただけでした。
イエス様は天使たちの証言もあり、 空になっているお墓も見てましたけど、
復活を信じることは優しくありませんでした。 なぜなら人間はいつも常識的に思っています。
死んだら終わりだ。死んだらもう生き返ることはできない。 また今死んで生き返っている人は見たこともないということです。
ですから大勢のキリスト社たちはイエス様の教えをよく学びます。 十字架も信じます。
しかし復活を信じない人たちが大勢います。 信じられないから何をするのか、
朝早く行ったからお墓が間違えたんじゃない? また弟子たちがイエス様の死体を盗んで他のところに置いて行って、
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ああ復活されたと言っているんじゃない? といろいろな説が実は神学の学びをしてみたらわかります。
ところが皆さん、復活を信じることができなければその信仰は正しくありません。 その信仰を持って皆さんは私は救われたと言えるでしょうか。
ここで何がもっと必要なのか、そのために今日の聖書では 閻魔王に下っていく二人の弟子に何が行われているのかを記録しています。
安息日が過ぎて次の日の朝、もうイエス様復活されました。 こんな素晴らしい復活が行われたその日に
教会から荷物を積んで家に帰りたい、 ふるさとに戻りたいと思って、教会を捨てて家に戻っていく、
ふるさとに戻っていく二人の人がいました。 あそこにクリオーパーという人と他の弟子です。
彼たちはもうイエス様をついて行っても何もなかった。 結局私たちが今虚しいことを今まで追求していたんじゃないかと。
もう悲しみと絶望、落胆の中でふるさとに戻っていく二人の人がいました。
二人がふるさとに戻る、閻魔王に戻っていくところで お互いに何を知っているのか。
イエス様はなぜ忠実家で死んだんでしょう。 復活したという話だけどそれは本当なのか。
それでまたこれから私たちはどう生きればいいんだろう。 イエス様について行ったら何かあると思ってついて行ったのに、
イエス様が死んでしまって、これから私たちは今周りが全部反対者、今迫害する人ばっかりいるんですけど、
そのところに戻って行って私たちはこれからどう生きればいいんだろうか。 心配、悩み、落胆しかありませんでした。
その人たちと誰かが一緒に歩いてくださいました。
15節、16節にこう言っています。 話し合い、論じ合っているとイエスご自身が近づいてきて一緒に歩き始められた。
しかし二人の目が遮られているので二人はイエスだと分からなかった。
イエス様が来られて一緒に歩いていくんですけど彼たちは目が暗くなっていて、イエス様が隣に一緒に歩くんだと分からなかった。
なぜ彼たちはイエス様が来ておられるのに、もちろんイエス様は神霊な体を持って来られたから、
少し自分たちを見るのに違うかもしれないけど、どうしてイエス様だと分からなかったんでしょう。
彼たちの心に不信心があるから。 復活すると言ったらいつもこんなことありえないよ。
これが科学的に、理性的に、これがあり得る話なのか。 人間は死んだら終わりだ、復活するとなんとかないよ。
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そのような価値観、考え方によって目が暗くなっていったので、イエス様が隣にいても分からない。
その人にイエス様は質問します。 歩きながらやりとりしているその話は何のことですか。
イエス様は私がイエスだと言わないで、とにかく彼たちの状況を聞いています。
なぜなら彼たちは今何を悩んでいるのか、彼たちはイエス様だと分からない理由は何なのか、
その心の中でどんな不信心が湧いているのか、イエス様はそれをまず明らかにしていたからです。
そしたら彼らはこう言います。
イエスという方がイスラエルの歴史上でこんなに素晴らしい方はいなかった。 素晴らしい神の下人だったよ。
その方こそローマを倒して私たちを救ってくれると信じた。
しかしその方は死刑判決を受けて十字架にかけられて死んでしまったよ。
その時に私たちの希望、私たちのすべてはもう消えてしまったように見えたよ。
それから誰かが復活したと言うんだけど、そんなことあり得るはずがないんじゃないか、
と思いながら彼たちは落胆し続けながら帰っていた。
皆さん、私たちも度々人生で過ごしながら、
皆さん、人に一番大事なのは信仰と希望と愛と言うんですけど、希望なんですよ。
希望がなければ生きる力がなくなってしまいます。希望が必要なんです。
だからイエス様に希望をかけてついていたでしょう。
でもこの希望が消えてしまいました。
切磋に切磋に願ってこれさえできればこれから何か何かあり、
ああ私の人生もなんとかできるんじゃないかと思ったのにそれがダメになった。
正反対にもっともっと悪くなったとしたら、皆さんどう思いますか。
人間に一番怖いのは挫折、落胆そのものなんです。
それがある時にもう私みたいに人間はこの世にふさわしくないかなと思いながら、
どこか消えていきたい、誰もわからないところに私は逃げていきたいと思うようになるでしょう。
じゃあその時にどれほど寂しく孤独感を感じるんでしょうか。
その時みんなうまくそれを乗り越える敵がいないから、
何か自分はね、何かいろいろ悪いことをしてしまう場合もあるでしょう。
しかし皆さんぜひ思ってください。
私たちが一番悩んでいる時に、私一人だけですか、孤独ですか、いいえ、
そこには必ず私たちの救い主が来ておられます。
これが大事だとこれを信じてください。
私を助ける人誰もいなく、私は世の中で私一人だけだと、
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だから私は生きる希望もなくなって私はダメじゃないかと思っているその時、
絶対皆さんお一人だけじゃないということを信じてください。
そこには目には見えないけど、イエス様が来ておられます。
そして私たちの嘆き、私たちの心の中での恨み、
それを全部聞いてくださり、それを理解して同情してくださる方がイエス様です。
このイエス様が今私の隣におられるんだということを、
知っている人と知らない人は全然この後が違います。
回復はイエス様が共におられるんだということを信じること、聖書を読んでみてください。
あなた一人だけではない、私があなたと共にいる、どこに行ってもあなたを助ける、
信じなさい、信じなさい、聖書を言っているんじゃありませんか。
そしてイエス様は彼らたちをどう助けてくださるのか、25節、26節にあります。
そこでイエス様が言われた、物分かりが悪く、心が鈍く、
預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
メーシアがこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。
ここで何が問題かと言いますと、メーシアを待っているんですけど、
イエス様がメーシアだと思っているんですけど、このメーシアに対する価値観が間違えた。
当時のイスラエル人たちは、イエス様は栄光の中に来られて、栄光輝き働きをして、
そしてイスラエルを救ってくださる、栄光のキリストだと思ったんです。
でも栄光のキリストになるはずなのに、このキリストが十字架で死んでしまった。
ああ、これは違うんじゃないかと思って、彼らたちは衝撃を受けたんです。
このような価値観を持っている限り、その人たちにいくら聖書のこと、イエス様のことを教えて、復活のことを言っても、
彼らたちは戯言のように聞こえるでしょう。
私たちも同じです。
もう私たち伝道しやすいとするために、イエス様信じてください。イエス様が死んだらあなたの祝福されるよ。
あなたのすべてがうまく解決できるよ。イエス様信じればいい、信じればいい、祈ればいいと言います。
しかし、イエス様が信じているのに難しいことが起こりました。苦難が起こりました。
挫折がありました。したらどうなりますか?つまずいてしまいます。
皆さん、私たちが信じるイエス様は十字架の後復活です。
苦難の後に祝福と栄光に入ることです。
ですから、信仰の中で苦難があったり、いろんな苦しみがあるんだとしても、
それは大きな意味があり、私の信仰をうまくしてくださるための神様のテスト、またいろいろな試みです。
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それを乗り越えるときに復活があり、それを乗り越えるときに祝福があるんです。
ただ祝福じゃなくて、苦難をどうして栄光に入ることがキリスト教なので。
イエス様はこの弟子たちの価値観を正しくするために、具体的に何をされるのか、これは27節にあります。
そして、孟聖とすべての預言者たちから始めて、聖書全体にわたり、
ご自身について書かれている部分を説明された。
弟子たちの価値観、間違えた価値観を正しくするために、まずイエス様はされたのは聖書の学びでした。
聖書全体を通して、ここで神様が何と言われたのか、イエスキリストが救い主だということを、
聖書全体を通してどのように説明しているのかを、詳しく教えてくださった。
この聖書を解き明かしてくださるときに、弟子たちの心はどうなったのか、32節です。
二人は道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださるとき、私たちの心が燃えていたのではないか、
イエス様の御言葉を語られるときに聖霊様が働きました。
それで、イエス弟子たちは、この御言葉を通して心がますます開かれるようになり、礼儀的に悟るようになりました。
それをエルサレムからエンマオに下ってくるこの道のりで、ずっと聖書のことを教えたから、
彼たちはイエス様のお話に夢中になって、夢中になって、聖書を勉強するところで、エンマオに着いたんです。
イエス様、ここで止まってください。イエス様、この道をもっと行こうとするから、
イエス様、ここで一緒に止まりましょう。一緒に止まりましょう。
イエス様、一緒に止まりながら、また何をされるのか?
食事。食事の交わりの場を作られました。
それで三受説に、一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
皆さん、この場面、どこか見たんじゃありませんか?
イエス様は先ほど、最後の晩餐のときに行われた。
また、イエス様はいつも弟子たちと一緒に食事をするときに、いつもこのようなことを行ったでしょう。
今まで弟子たちは、そこに慣れていました。
イエス様はいつも、それをようなことを持って弟子たちをもてなしてくださったからです。
しかし、十字架に死んだ後には、もうイエス様は二度も会えないんじゃないかと思ったんですけど、
彼たちはイエス様のなさることを見て、これはイエス様じゃないかと思われるような心が生じたんです。
二度も会えないと思ったイエス様が、そこに現れたんです。
24:00
三十一節に見ますと、すると二人の目が開け、イエスだと分かった。
弟子たちは、もう自分たちをみなしごのように捨てて、もう残して、離れてしまったんじゃないか。
また、イエス様は死で、もうイエス様は終わったんじゃないかと思ったそのイエス様が、再び来られて、そして弟子たちと共にやってくださることを見たんです。
復活されたイエス様に出会ったんです。
さあ、ここで皆さん、悲しみと絶望感に陥って、もう見ることができなかった弟子たちの礼儀的な目が、どのようにして彼たちの目が開かれたんですか。
イエス様はそのためになさったのは二つです。
一つは聖書の学び、もう一つは交わりです。
食卓の交わり、もうパンがあるのかないのか関係なく、一緒に食卓の交わりにつかれた。
さあ、ここから私たちもこれから一人一人の方にイエス様を説明するとき、また聖書の中で素晴らしい救いの御業を説明するときに、私たちに何が必要ですか。
この二つが必要です。
聖書を解き明かす学びと、もう一つは交わりのこと。
私は聖書の学びをするとき、昔、聖書勉強会をたくさんやりましたね。
私はそのときに、いつも聖書を。
私が初めに聖書を学ぶときに、皆さん、私のその感激。
私の大学院のときに立ったんですけど、聖書の学び、マンツーマンの勉強会をするんですけど、聖書を教えてくださる。
教会で、説教では聞こえなかった。
しかし、聖書の勉強会を通してそれを学ぶときに、そこを学んで、私の家から家に戻ってくるときに、私は暗くなっているこの空を見ながら、私はいつも祈りました。
神様、この勉強会を私が死ぬまで、いつも続けるようにさせてください。
なぜ、聖書の奥にある深いこの奥義、秘密を悟るようになって、
ただ、聖書を読むだけじゃなくて、聖書の背景にあるいろいろなことを通して、その意味を考えてみると、
当時、私は想像もできなかったその祝福、悟りが私に与えられたので、
私はこれを喜び、これは皆さん、私の命のようなものです。
いえいえ、いつもいつもそれをやり続けたいと思っている祈りを神様にずっと祈りました。
神様、この聖書勉強会を私はいつもいつも、死ぬまで続けるようにさせてください。
私はその祈りは、もう本当に初めの初心者のレベルだったから、これを真面目に拡大した。
また皆さん、私たちは聖書を勉強するとしたら、この後、召喚、お互いに交わりをするでしょう。
27:05
お祈り、お祈り、今日の聖書を通して何を悟ったのか考えるときに、この方の話を聞いたら、
ああ、私はそんな経験をしていなかったのに、この方はこんな経験をされたんだ。
他の方を聞いて、その方を聞いて、それで、いやあ、これを通して神様がこんなに立派な働き、
私だけじゃなくて、各々各人に神様が直接働かれて、その方の人生をこのように変えてくださるんだ。
皆さん、それを悟るときに、この心の中がどれほど大きくなって、胸がいっぱいになって、
神様によってもう恵みに満たされ、愛に満たされ、希望に満たされることを考えたことはありませんか。
ただご飯をたくさん食べることと全く違う、私の礼儀が豊かに満たされることを感じたことはありませんか。
それを通して私たちは、神は私と共におられる。神は私の人生を導いておられる。
いつまでもいつまでも神様は私を助けてくださるし、私たちは決して見捨てることはない。
その確信が私たちに与えられるんです。
このように私たちは復活されて、今も生きておられるイエス様を、
見事な聖書の学びを通して、また神徒たちの交わりを通して、
そのイエス様に常に会って、その力、恵みを豊かにいただかなければ、
私たちの力だけでは、世の中どう生きるべきでしょうか。
神様の恵みなければ、神様の助けなければ、神様の豊かな愛がなければ、
私たちの人生は一体何でしょう。
私たちはその命と愛とこの力が必要だから、
私たちはいつも教会に来ているし、聖書の学びをしているし、
祈りの場にいつも神様を求めるんじゃありませんか。
じゃあ、復活されたイエス様に出会った弟子たちはどのように変わったのか。
33節にあります。
二人はイエルサリムからエンマ王に着きました。
エンマ王に一日中歩いてイエス様と交わりしながら、
エンマ王に着いたところ、どれほど疲れるんでしょう。
またその道が通り、日が暮れるようになりました。
ところがイエス様に出会ってから、
彼らはこの来た道、一日中歩いて来た道を戻っていきます。
夜なのにその道を戻っていきます。
なぜ?復活されたイエス様に出会ったこの喜びを、
早く教会の方たちに伝えなきゃと思ったでしょう。
だから彼らは夜通し歩いて、イエルサリムに戻っていきます。
それでイエルサリムに行って、この人たちに自分の証、
30:00
イエス様が生きられたよ、蘇られたよ、イエス様に出会いましたよ、
イエス様が恋をやりましたよ、弟子たちに伝えました。
先ほどまでは、二人の弟子は悲しみと絶望感、
教会か何か、使命か何か全部捨てて、
私はふるさとに行くよと言って、もう家に戻って行ったところだったんです。
しかし今は、二人が喜びと希望と確信が、
その心の中で満たされて、教会に戻っていきました。
みなさん、これが復活されたイエス様に出会った、
この人たちの素晴らしい変化なんです。
事実、今日の本文で紹介された、エンマオに行く二人の弟子は、
クリオパーと言っていても、名前を聞いたこともない。
もう一人の名前は聖書に書いてもありません。
この弟子二人の存在は、弟子たちの中でそんなに有名な方ではありませんでした。
人たちの中にも入ることができませんでした。
しかしイエス様に対しては、この二人は大切な大切な存在として、
イエス様はこの人たちを一日中助けられたんです。
イエス様は彼らを、あなたじゃ信仰がないから教会を捨てて家に帰ろうとしたから、
これからあなたたちはもうダメだよ。
信仰がこのぐらい信仰だったら、私はあなたたちは会いたくない。
イエス様はこの二人の弟子を見捨てたりはしませんでした。
イエス様はむしろこの人と一日中、
40日この世の中で滞在して昇天されたんです。
40日の中で一日をその人と二人を救うために、
イエス様は時間を費やしたということを考えてみてください。
イエス様は落胆してお家に戻っていく人たちに近くに来てくださり、
一日中友にしてくださり、
詳しく詳しくその人たちの疑問を全部解決してくださり、
その人たちに確信を与えてくださった。
イエス様は復活されて昇天まで40日間、
このように一人、また一人のところに訪ねていって、
性格的な交わりを通して復活の進行を植えてくださったんです。
そのように回復された弟子たちが一人、また一人、
マルコの家のアッパールームで集まりました。
そこで祈る間にリバイバルが来て、
精霊に満たされて、その人たちによって初代業界が建てられたんです。
今日、二人の弟子が目が開け、
復活されたイエス様に出会ったこのきっかけは、
聖書の学びと信徒たちの交わりでした。
33:03
皆さん、復活されて生きておられるイエス様は、
今も私たちの隣におられます。
霊としておられます。
このイエス様、どのように出会いますか?
私たちは聖書の学び、
信仰の交わりを通して、私たちもイエス様に出会うことができます。
それで、私たちはこのイエス様に深く深く出会いましょう。
そして、私たちはイエス様が今も生きておられる、
今も生きておられること、
これを私たちの周りの方々に、そのイエス様に伝えましょう。
そうしたら、この一人一人もまた復活されたイエス様に出会って、
人生が変わったり、人格が変わったり、素晴らしい人が変わるでしょう。
その人たちの心の中でイエス様がおられ、
その人に天国のような素晴らしいことをいつも満たしてくださるのではありませんか。
それで、人は変わっていきます。
私たちが復活の証人になったら、周りの人がちょっと変わっていきます。
今、私たちは何を信じているのか。
生きておられるイエス様を信じているのか、
死んでしまったイエス様を信じているのか。
私の信仰によって誰が変わったのか。
それをイエスキリスト、生きておられるイエスキリストを出会って、
それを伝える人によって周りが変わっていきます。
信仰は素晴らしいものです。
信仰は勝利です。
イエス様の復活が私の復活であり、
信仰は永遠の命、天国を私たちにくださることです。
この素晴らしい信仰を持っている私たち、
これからこの信仰を通して大勢の方たちが救われるように、
これから私たちも力を入れていきましょう。
私はこのメッセージを金曜日の鳥梨の祈り会で、
まずは分かち合ったことでした。
しかし、それで終わったらいけないかなと思いまして、
今日もう一度、私は皆さんに伝えるところであります。
イエス様、復活されたイエス様に出会うことが信仰なので、
その復活されたイエス様に出会うために、
私たち必要なことは何か。
もちろん聖書の学びも大事だけど、
神徒たちの交わり、この時間も大事だなと思いながら、
私たち今は教会の事情、いろいろな限りがありまして、
礼拝して、交わりもうまくできないところに帰ってしまうような、
本当に残念な部分がたくさんあります。
どうかどうかこれから、
信仰の学びと神徒たちの交わりを、
なんとかこの小さなスペースの中で、
何か行われることができないかなと思いながら、
36:00
今日のメッセージを通して、私たちの知恵を作りたいと思います。
じゃあお祈りいたします。
イエス様は十字架と復活の後、
四十日間地上に滞在しながら、
復活の確かさを見せてくださり、
神の国についてお話しされ、
許されも離れないで、上から来られる聖霊様に待ちなさいと言われました。
主よ、
今私たちには、生きておられるイエス様の復活の信仰が必要です。
死んでしまった、これで終わりじゃなくて、
生きておられるイエス様を通した生きた信仰、
勝利の信仰が必要です。
また、聖霊のリバイバルが必要です。
私たちのところに来てください。
そして一人一人の心の中で、
生きておられるイエス様を伝えてください。
助けてください。
そして、みんなが勝利の信仰、力を受けて、
生きている復活の命をもって、
毎日過ごすことができるように助けてください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。
アーメン。