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2019-01-20 44:50

2019/01/20:ヨハネの福音書講解説教(49)奪い去られることのない喜び

2019/01/20 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 16*12-24

00:00
皆さん、おはようございます。今日は、あいにく雨だったり、また、風邪やですね、インフルエンザが流行っているようですけれども、無事、守られて礼拝できますことを、衆に感謝いたします。
それでは、メッセージの前に、この方と挨拶しましょうか。おはようございます。それでは、一言お祈りいたします。
あなた方にも、今は悲しみがあるが、私はもう一度、あなた方に会います。
そうすれば、あなた方の心は喜びに満たされます。そして、その喜びを、あなた方から奪い去るものはありません。
アーメン。
主よ、感謝いたします。本当にそうです。何者も、誰も、神様が下さった、神様から来る喜びを、私たちから奪い去るものはありません。
その信仰に立って、今日の一日も、また、今月も、この一年も、いや、主にお会いするその日まで、その信仰に福祉を持って、固く立って、その真理をしっかり握って歩めるように、神様お導きください。
今日も、集まっている一人一人の上に、神様の御声をしお聞かせて下さって、その御言葉に応答し、また、協賛美し、生きる者として祝福して下さい。神様が満たして下さる命と光に満たされますように。
どうぞ、我ら一人一人を、この肉は少々衰えて弱っていても、しかし、私たちの霊は魂は日に日に強められ、生き生きと死を生きられるように、神様祝福して下さい。感謝して、イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
03:00
それが壊れたので、蛍光灯を変えるかと思ったら、2つ変えるよりはLEDを変えたほうが安かったので、変えたんですね。そしたら、これじゃなくて、ボタンに変わるわけなんですよ。
でも、6年間ずっとあそこに入ったら、これを引っ張るのが習慣になって、癖になっていたんです。でですね、不思議なことだと思ってですね、変えたのに行ってですね、こういう引っ張る音するんですよ。
それが、なんと、3日4日も続いている自分を見て、ある意味で、ぼっとしまいました。
癖というもの、習慣というものは、身についていて無意識中に人は行動を起こしてしまう。
例えば、悪口ではないんですけれども、朝、私、だいたい5時から5時ごろに来て、パークヒルズを通って、そこに来るんですね、早朝のときに。
だいたい35分から40分のうちに、パークヒルズのあそこを通っていくと、週に2、3回、すれ違う女の子がいるんです。
社会人だと思いますけれども、毎朝走っていきます。それを見ると、たぶん事情があるでしょうけれども、毎朝、しかも4、5年ずつですよ。
毎朝2、3回会うたびに走っていくんです。会社がどういうか知れませんけれども。
たぶん、歩きながら、それも朝早く5分、10分、早く起きるのが大変だなと思いますけれども、癖という習慣というものは、我らについているわけなんです。
例えば皆さん、礼拝する習慣、祈る習慣、御言葉を読んでそれを黙想する習慣が身についていらっしゃるんでしょうか。
あるいはですね、うちのマンションですね。またそれも朝の話ですけれども、早朝に行くときに、マンションは午後5時30分頃、エレベーターにおいて、マンションの玄関先が出るんですね。
そしたら、毎朝5時半頃、新聞を取るに行くおじいちゃんがいるんです。毎朝5時30分に新聞が来るから、それを取るに行くんですよ。
そしたら、あれくらい熱意に、朝5時半起きて、新聞を取る人もいるんだなと思ってですね、我々は、あの新聞を読む熱意ほどね、主を愛せる、祈る、清聖に取り組む熱意は私たちにあってほしいなと、私は思ったわけです。
でも、今日もね、このように神様によって守られて、信仰があるいは見護が守られて、主の前に集まってですね、礼拝できることは本当に素晴らしい神様の恵みだと思います。
さて、今日の16章も、ヨハネの文書の13章から17章は、家様の一週間の受難中の中で、木曜日の話なんですね。いわゆるね、最後の晩餐と言われるあの日のことなんです。
06:17
熱意様が私たちにいろんなことを話されたこと、その御言葉を、この人ヨハネは、これをね、とても詳しくそれを書き残しました。
まあ、6つの福音書がありますよね。マサイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、6つの福音書がありますけれども、福音書が記録された時期はそれぞれ違うんですね。一番早かったのがマルコの福音書です。
そして、7、8年あるいは10年後、ルカの福音書。その後、マサイの福音書。一番遅く約80、90年代に書かれたのが、このヨハネの福音書なんです。
きっとですね、おそらくヨハネは、精霊の感動によって、このあの最後の晩餐のあの時のイエス様のお話を、既にその時あった3つの福音書にはそんなに詳しが書かれていなかったでしょうね。
だから、神の霊によってヨハネは、その時にイエス様が話された精霊の話、あるいは自分たちのね、あの17歳のイエス様が弟子たちのために祈るね、そのお祈りが書かれていたりするんです。
その中で今日は、奪い去られることのない喜びということを、今日の御言葉から共にお聞きしたいと思います。
まず16節をですね、もう一度一緒に読みたいと思います。16節。
ご一緒に。
しばらくするとあなた方はもはや私を見なくなります。しかしまたしばらくすると私を見ます。アーメン。
イエス様が精霊の御霊の話をして、ちょっと突然の感はありますけれども、しばらくすると私は去るからあなた方は私を見なくなるよ。
でもまたしばらくしたらまた私を見ますよとね、お話をしました。
このお話を聞いて弟子たちの中では、いわゆるざわめきというか困惑というか、それが起きてですね、論じ合っていたんですよ。
17節を見たら、そこで弟子たちのうちのある者は互いに言った。
しばらくするとあなた方は私を見なくなる。しかしまたしばらくすると私を見る。また私は月の下に行くからだと主が言われるのは、一体どういうことなんでしょう。どういう意味なの。わからない。
09:09
ね、お互いに話し合っていたんです。イエス様が自分たちを置いて遠くに行ってしまうんだろうか。
そんな予感がね、彼らの心の中に広がっていたんです。
他の副印象、マサイ・マルコ・ルカの副印象を読みますとね、イエス様はすでにもうあからさまに従事家の受難について語っておられました。
この話を聞いてですね、きっと弟子たちはもう信じたくなかったでしょうね。
でも、まあ確かに危険がどんどんどんどん迫ってきているって弟子たちは感じていたんじゃないかと思います。
それによってはですね、お互いに不安を感じながら話し合うからなんですよ。
いや、本当にイエス様は死んでしまうんだろうか。
いやでも、しばらくすると私を見るようにとおっしゃったんじゃない。どういう意味なの。
不安と混乱がさらに広がっていたんでしょうね。きっと私たちが弟子だったら同じ感情になったと思うんですよ。
でも、そこにイエス様もおられたわけですから、20節をご覧ください。
19節ですね、19節。イエスは彼らが質問したがっていることを知って彼らに言われた。
しばらくするとあなた方は私を見なくなる。しかし、またしばらくすると私を見ると私が言ったことについて互いに論じ合っているのですか。とおっしゃって。
そしてその後の20節一緒に読みたいと思います。20節。
まことに、まことに、あなた方に告げます。あなた方は泣き、嘆き、悲しむが、与は喜ぶのです。あなた方は悲しむが、しかしあなた方の悲しみは喜びに変わります。
不安を感じて混乱を感じて話し合っている彼らにどういう意味なのか論じ合っているんですか。
まことに、まことに、あなた方に告げますというは簡単に言ってはっきりと言っておきますという意味ですね。はっきりと言っておきます。
私が勝ったらあなた方は泣き、嘆き、悲しむでしょう。で、与は喜ぶのです。
あなた方は悲しむが、しかしここから大事ですよ。しかしあなた方の悲しみは必ず喜びに変わりますよとおっしゃってくれました。
12:11
ここでイエス様が語られた泣き、悲しむという言葉は、簡単に言ってお葬式で亡くなられた方のために泣くという意味の言葉なんです。
普通に悲しいなという言葉とちょっと違います。
で、私はわかりました。イエス様の話が。え?そしたらイエス様がやはり亡くなるんだ。それでは私は悲しむんだとそにそにイエス様はおっしゃっていると彼らはわかったんですね。
イエス様は自分が殺されることになることをここでもう一度はっきりと語っておられました。
イエス様が死んでしまったら、弟子たちは悲しむことになると。
でもイエス様はそれに続いて、あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わりますよ。
そしてその悲しみがね、喜びに変わるその様を出産に例えてこう言われました。
21節から出産。
女が子を産む時には、その時が来たので苦しみます。
確かにそうですね。おなかが大きくなって、痛みもあるわけなんです。
しかし子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
ここに遥さんがいるんだけれど、多分ね、お母さんはどこにいらっしゃいますか。
お母さんがいない。
ひろこさんはね、その苦しみを忘れているんじゃないですか。
だいたいお母さんの皆さんはそうじゃないでしょうか。
彼らが悲しむとしても、それは海の苦しみと同じだということ。
海の苦しみの先には喜びがあると。
同じように、弟子たちの悲しみの先にも喜びがありますよ。
いや、その悲しみがあるからこそ、その先に大きな喜びもありますよ、という話なんです。
その次、その話を続いて語られた御言葉、22節が今日の一番大事なところです。
ご一緒にお読みしたいと思います。22節、声を合わせて。
あなた方にも今は悲しみがあるが、私はもう一度あなた方に会います。
15:00
そうすれば、あなた方の心は喜びに満たされます。
そして、その喜びをあなた方から奪い去るものはありません。
あはめ。
皆さん、この御言葉をよくご覧ください。
今は悲しみがさすがにあると。
その悲しみのあるあなた方に、私はもう一度あなた方に会いますよ。
あなた方は私にもう一度会えますよ。
永遠に去っていくわけじゃないですよ。
そしたら、あなた方の心はそこまで悲しみにふけていたんだけれども、
その悲しみは喜びに変わって、そして喜びに満たされますよ。
そしてその喜びは一瞬、一時的な喜びではない。
その喜びを奪い去るものはない。
だから、ずっと続くよという話なんですね。
このヨハネノ福音書は、このイエス様の言葉が実際に実現されたことを伝えています。
この直後にですね、いわゆる最後の晩餐の木曜日のあの夜のお話が終わって、
そして十八章の一節をちょっと見てみましょうかね。
十八章の一節をご覧ください。
左目にあると思いますけれども、ここに書かれているんですよ。
一節。イエスはこれらのことを話し終えられると。
だからね、最後の晩餐のあの時のお話がずっと十三章から続いていますけれども、
その話が終わると、弟子たちと共にケレーロンの川筋の向こうの川に出て行かれた。
そこに園があって、イエスは弟子たちと一緒にそこに入られた。
そこで何が起きたんでしょうか。
そしてイスカリオとユダがローマの弟子たちと一緒に来て、イエス様を捕まえるところなんです。
そしてその後どうなんでしょうか。
イエス様は裁判にかけられました。
そして持ちで打たれました。
そして十字架にかけられました。
そしてイスは十字架の上で息絶えて死なれました。
見なくなるという御言葉がその通りに上司されました。
18:04
そして弟子たちは深い悲しみに沈んでいたんですね。
だからふるさとに戻ったり、怯えて戸を閉めてみんな集まっていたりですね。
本当に悲しみに沈みました。
しかしそれで終わりですか。
そうではないんですね。
しかしそれから三日後、週の初めの日、主日、この日曜日、弟子たちが集まっているあの家によみがえれたイエス様が現れたんです。
そしてイエス様が悲しみが喜びに変わりますよとおっしゃった御言葉は通りにありました。
ちょっと見てみましょう。
ユハネの二十章の二十節見てみましょう。
二十章の二十節。
大事ですよ。
イエス様が悲しみが喜びに変わるよとおっしゃったんだけど、果たしてどうなったんでしょうか。
二十章の二十節を一緒に読みますね。
こう言ってイエスはその手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。アメン。
どうでしょうか皆さん。
また会いますが悲しみが喜びに変わると。
この十六章においてね、木曜日の夜にイエス様が言われて、
そしてね、日曜日の多分夕方だと思いますけれども、主を見て喜んだと。
イエス様が言われた通りになりました。
皆さん真理というものはどうでしょうか。
もし私たちが今悲しみの中にあっても、あるいは苦しみの中にあっても、困難の中にあっても、
イエス様が悲しむことはない。
私を見て喜びなさい。
あなたの悲しみは苦しみには喜びに変わりますよとね、おっしゃったら、
そうだ、そうしてくださるんだ。
信じて、先取りして歩むこと。生きること。
それが信仰なんです。
確かにイエス様が十字架にかけられて亡くなって、
ね、三日間彼らは世に残された。
しかしイエス様がよみがえられた後、四十日空を焦点、天に変えられるんですね。
そしたら確かに私たちはこの世に残るわけなんです。
そして彼らに待っているのは何でしょうか。
21:01
白暗いなんです。苦しみなんです。
イエス様が言われた通りであります。
実際に彼らの大部分はどうでしょうか。
ヘテロンもローマでね、伝承によれば十字架に逆さまで準拠されたと言われています。
あの疑ったトマスはインドに行って準拠されたと伝承に伝われています。
十二の弟子はみんな準拠されたと言われています。
でも肉の命は絶えても、それでも奪われない喜びがあるよという話なんです。
これは永遠の喜びです。神から来る喜びです。
単なる久しぶりに出会って、いや久しぶりだな、十年ぶりだねとかね、それもいい喜びでしょうけど、そんな喜びではない。
今日の十六章の二十二節をもう一度皆さんご覧ください。
あなた方にも今は悲しみがあるが、私はもう一度あなた方に会います。
そうすればあなた方の心は喜びに致させます。
そしてその喜びをあなた方から奪い去るものはありません。
あなた方は悲しむと主は言われました。
その悲しみは先に述べましたように、家様が死なれてしまうことによる悲しみ、家様を失う悲しみ、いわゆる喪失の悲しみでしょう。
本当にね、弟子たちは耐えきれない悲しみだったと思うんですが、でもそれはただ愛する人を失ったそれだけではないと思います。
なぜなら、彼ら弟子たちにとって家様はどんな存在だったのでしょう。
それはね、家様こそ彼らの拠り所であって、彼らの未来であって、希望であって、もう全てだったんです、家様がね。
あの弟子たちはそんなに家様を失うわけない。
あるいはね、彼らが家様とね、電動して対比をしている時に、よくよくですね、誰が一番偉いのか、ヨハネが偉いか、ペテルが偉いか、コブが偉いか、もうね、それでね、争っていた。
ある意味で情けないね、そういう弟子だったんです。
24:00
ところが、家様が死なれた時、もはやそこには誰が一番偉いか、と言って争う人はいなくなったんでしょう。当然のことなんですよ。
ね、かげばば、そもそもこの世に生きることの意味そのものを失ってしまったんですから。
弟子たちは、家様が死なれた時、ある意味で彼らもまた死んだのです。
残っているのはただ屍、生きる屍として余生を送るしかないんです、実は。
全てを失って生きる屍になっただけなら、まだいいかもしれない。
彼らには、とてつもなく重い、いわゆる罪責が、罪になる責任が強い残っているわけなんです。
もちろん彼らは、家様がピラトの判定で裁判されて、持ち討たれた時にどうしましたとか、みんな家様を見捨てて逃げてしまったんです。
そこにいなかったんですよ。
誰もね、あの家様代わりに私を持ち討って、私を十字架に仕切ってくださいという弟子は一人もいない。
そこまでもできない。もうみんなね、ペテルは死にません、死にません、死にません。三度もね、否めました。
彼らが見捨てた家様が十字架にかけられて、死んでいったわけなんです。
だから彼らは、家様を見捨てた人間として生きていかなくてはならなかったんです。
家様を否めた人間として生きていかなくてはならなかったんです。
だから生きていても死んだのです、弟子たちは。
自分の罪を知った人間として生きていくしかない。
家様はそれをわかっておられたんですね。
それであなたたちは、私を見捨てたから、否めたから、それであなた方は悲しむことだろう。
ですから、その悲しみというものは、三にね、何かを失ってしまった、そんな悲しみではないんです。
そうでなくて、この自分という存在を悲しむ悲しみ。
人間が負う最も深い悲しみ。
その悲しみが喜びに変わるとしては言われたんです。
それは、単なる再開によってできるものではない。
27:02
彼らの悲しみが喜びに変えられると。
でも皆さん考えてみましょう。
もし私たちが誰かを、イエス様を見捨てて、知りますか?知りません。
みんな逃げて、で、イエス様が亡くなられて、夢があれば帰ってきて、再開したら、
嬉しいでしょうけれど、心にね、すごいね、罪悪感と言いましょうかね、そういったものがあるかもしれない。
いや、もう申し訳ないな、応援しようができないとね、そう思うかもしれません。
なぜなら、自分が裏切って、見捨てて、否んで、見殺しにしてしまった人と、
仮に再開できたとしても、その再開は喜びになるのは、本当に難しいと思うんです。
なぜなら、イエス様が教えてくださるんです。
イエス様の復活は、弟子たちにとって、単なる再開以上の出来事だった。大事件だったんです。
それは何でしょうか?
それは、弟子たちにとって、イエス様との再開は、許しだったんです。神の許しそのものだったんです。
あの日、主の始めの主の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちも殺されるんじゃないかとね、
みんな恐れて、部屋に駆けかけて、閉じこもって、震えていたんです。
その弟子たちに復活されたイエス様が現れて、何となったんでしょうか?
最初に読みますね。ヨハネの福音書二十章十九節を一緒に読みたいと思います。
その日、すなわち主の始めの日の夕方のことであった。
弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて、戸が閉めてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。
彼らはね、自分はイエス様を裏切った、見捨てしてしまった、見殺しにしてしまった、死なないといないんだ、そんなつらい思いを抱えていたに違いないと思うんです。
心の中にはそういう恐れ、また外はね、ユダヤ人を恐れる、死ぬことに対する恐れがあった彼ら。平安がない、喜びがない、悲しみばかりである、つらいつらい思いしかない。
30:09
そんな華麗なところにイエス様が現れて、何と言われましたか。最初の言葉が、平安があなた方にありますようにとおっしゃっていた。
イエス様がね、そこに来られて、お前らはここにいたのか、出てろ。
わしを見せないと三回も、ユダヤの子、出て行け。そうおっしゃったわけではないんです。
実は断罪されて呪われても仕方ない彼らなんです。そんな彼らに対してイエス様は、平安があなた方にありますようにと言ってくださいました。
そして一言も責めることなく、あなた方に平安があるようにと言ってくださいました。
そしてこのヨホネは、自分の話ではなく、イエス様とペテロが出会った話でヨホネの復印書を責めています。
そこにもイエス様がペテロを責めている話はあります。
皆さん、この方が私たちの人、イエス・キリストなんです。
恐れを抱えて、罪意識を抱えて、自分はダメなんだ、イエス様を裏切ってしまった。
三年も一緒にいたのに、いつも誰が偉いのか争いばっかりしていた、本当に愚かな私たちなのに。
そうね、辛さ、愚かさを感じていた彼らにイエス様は、平安があなた方にありますようにと祝福してくださったんですね。
そしてイエス様は彼らにこの手と脇腹をお見せになりました。
手には釘の跡、脇腹には槍の跡があったでしょう。
それは確かに十字架にかけられたイエス様だったんです。
私たちの罪のために死なれたイエス様でした。
私たちの罪が許されるために代わりに死んでくださったイエス様でした。
命を捨てるほどに愛してくださったイエス様でした。
そのお方が復活をなさったんです。
だから私たちが喜んだのは単に再会できたからではない。
それはもちろんありますけれども、ただそれだけではない。
33:00
なぜでしょうか。イエス様に出会って平安がありますようにという、そのあの一言葉に神の許しがあったからでしょう。
それからそこまで抱えていた不安や恐れ、つらさ、悲しみ、罪悪感、そういったものが吹っ飛ばされて喜びに変えられたんです。
イエス様は変えてくださった。
皆さんそうなんです。
イエス様にお会いすれば、主にお会いすれば、どんなに重い罪を負った悲しみであっても喜びに変わる。
そしてその許しの愛に応えて生きていきたいんです。
それが信仰の許された人としてイエス様と共にある喜びなんです。
許された人として神と共に生きていく喜びなんです。
だからその以降からですね、使徒の働きを見てもですね、ペテルを見て、ヨハネを見ても、あるいはヤコブを見てもですね、
ずっと舌を向いてね、だいたい皆さん今も舌を向いていらっしゃいますけどね、舌を向いていくわけではないんですよ。
舌を伏せていなくていいんです。舌を向いていなくていいんです。恐れなくていいんです。罪悪は持たなくていいんです。
あの小石を見たらアダムとエバがね、食べてはいけない善悪を知る木の実を食べて、園の木の間に隠れていたんですよね。
あんな風に神様に顔を背けている必要もないんです。顔を上げることができる。
イエス様はそうしてくださったんです。
イエス様がまっすぐに父なる神を見上げて、信頼の交わりの中に生きられたように、私たちもその許しの愛の中に許されて、顔を上げて、恐れないで、
感謝して、喜びの中に、その中に自分のすべてを置いて生きることができるようにしてください。それは神の愛、許しの愛なんです。
皆さん、実はこれこそイエス様が望むツリータンの私たちの生き方なんです。
イエス様を信じていてもずっと下ばかり向いていく人、信じていても自分自身を責めてばかりいる人、いたりするんですよね。
36:14
イエス様が願うのは平安がありますようにとおっしゃって、そして今日の十六書の二十二節の御言葉のように、
あなた方の心は喜びに満たされて、そしてその喜びをあなた方から奪い去るものはないとおっしゃった通りに、喜びに満たされて、
私から神の愛を奪い去るものはないんだとね、確信して、イエス様がそう生きてほしいと私たちに言われるんです。
神との交わりから来る喜びを、何者も奪うことはできない喜びを、それを持って生きる。
あるいは誰も神を奪うことはできないからです。だから神の愛から私たちを引き離すことはできないとね、ローマ書でパウロも笑っているんです。
それは最終的な死さえもその喜びを奪うことはできない。
だからステパノもパウロもペテルもみんな喜びのうちに、自分の命を死のために投げたわけなんですよね。
ところがここでイエス様のお話は私は終わっていないんです。
その後二十三節、二十四節の大事な御言葉があります。ちょっとご覧ください。
二十三節私は読みますね。
その日にはあなた方はもはや私に何も尋ねません。まことにまことにあなた方に告げます。
あなた方が好きに求めることは何でも好きは、私の名によってそれをあなた方におあたりになります。
二十四節御言葉を読みましょうね。
あなた方は今まで何も私の名によって求めたことはありません。
求めなさい。そうすれば受けるのです。
それはあなた方の喜びが満ち満ちたものとなるためです。
アーメン。
皆さんどうでしょうか。
神様と共にある喜びを私たちがこの世において本当に深く豊かに味わいすることができる具体的な場面は祈りのときなんです。
39:05
御子なるジェス様がその働きをしたときのように父に願い、そして父が答えてくださって神の栄光が現れる。
ジェス様はその喜びを弟子たちも私たちも味わって欲しかった。
いや、今もそう保存でおられるんです。
だからジェス様が求めなさい。そうすれば受けるのです。
そしてあなた方の喜びが満ち満ちたものとなりますよということなんです。
もちろんそれは祈って何かが与えられた。与えられたから喜ぶ。いややった。そんな喜びじゃないんです。
自分が神に愛されていて、自分の罪は許されていて、そして自分は神の愛の中にとどまっていること。
それを祈りの場面において私たちは確認することができる。知ることができる。味わうことができるということなんです。
だから私たちは、ああ許された。よかった。それで終わりじゃなく、その許された感謝の気持ちをもって深く実際の生活の中で祈りの場に入って、そこでさらに豊かな恵みを味わうことなんです。
だから一番最初に私たちが父さんと言いましたように、祈りの中間を持つことは大事なんです。
前ほどですね、これは必ず完成したがりたいなと思っていることがありまして、少しですね、私、翻訳している、個人的に勝手な翻訳ですね、翻訳している本があります。
これは日本語の本が昔出版されました、今は絶版されて出ていない、ある黒石の素晴らしい先生が、夕べの祈りという本を1960年代に書かれた本ですけど、それが日本語にはないんですね。
それで去年の秋に父さんにいたときにあの本を読んでみたら、一日こういう祈る一本が書かれているんです。
それも素晴らしい祈りが書かれていて、それで私が祈るより習慣を持ってほしいなと思ってですね、日本語の本を売っていたらそれをプレゼントすればいいのかなと思ったんだけど、売ってないので、
勝手にですね、英語と韓国語を見ながら今翻訳しているんです。365日のうちにまだまだ進んでいないんだけど、一日少しですね、翻訳していますけれども、
いつかそれを全部ね、完成できたら、それをプレゼントしようかな、あるいは売るかな、売ることはないでしょうね。
42:08
そういうふうに思ってですね、その願いは、私は母子として、こういう素晴らしい祈りができるそういう信者であってほしいなと思ってなんですよ。
さあ、祈りましょう。少しでも1分も5分も祈れない。何を祈ったらいいのか分からない。心では祈りたいでしょうね。何を祈るのか分からない。
あるいはね、十分に祈れる方々もいられるでしょうけれどもね、そういうふうな願いを今少しずつ実践していますので、いつかできるんじゃないでしょうかね。
皆さんお楽しみにください。言いますのでこれを必ずしないといけない。だからあえて今皆さんにお話ししたわけなんです。表明をしました。自分もそれを実質必ずするために。
イエス様は弟子たちに、その神の愛による許しの恵みに満たされ続けるために、私とこの祈りの交わりの中にいてほしい。そして求めなさい。祈りなさいと教えてくださりました。
イエス様の皆によって祈る祈りにおいて、私たちは喜びで満たされました。
この世から得た喜びは人によって奪われるかもしれませんが、イエス様が与えてくださった喜び、神と共にある喜び、この世においては祈ることによって与えられる喜びです。
それを奪われることはありません。なぜなら人はすべての自由を奪われていても祈ることはできるからなんです。
そしてその喜びは永遠のものです。死を乗り越える喜びです。やがて永遠の憎みにおいて、そのすべてを味わうことになる前味の喜びが祈り、主との交わりの中のある恵みであります。
メッセージを終わりましょう。最後に二十二節をもう一度皆で一緒に読んで、メッセージを終わりにしたいと思います。
二十二節、ご一緒に。
あなた方も今は悲しみがあるが、私はもう一度あなた方に会います。そうすればあなた方の心は喜びに満たされます。
そしてその喜びをあなた方から奪い去るものはありません。アーメン、ハレリヤ、この言葉を信じて歩んでいきましょう。お祈りします。
44:50

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