TanaRadioの開始とテーマ紹介
昨日の夜にMOSTパターン・ランゲージの会のミーティングがありましたが、その会が始まる前の雑談の中で、TanaRadioの更新が早すぎてついていけないという声をいただきました。
確かにほぼ毎日のように配信していますので、ちょっと早すぎるかなと自分でも思うんですが。
しかし、私は熱しやすく冷めやすいというたちなので、ここでスローダウンするとそのまま消えてしまいそうな気がしまして、
鉄は熱いうちに打てではないですけれども、やれるところまでちょっとやってみたいなというふうに思っています。
飽きやすい性格でもありますので、またいずれスローダウンするか、あるいはやめてしまうかということも考えられますが、
ちょっと今のところはこのペースで進めてみたいなというふうに思っています。
ということで、TanaRadio第11回始めたいと思います。
今回のテーマは、「学びに強制力は必要か?」ということでちょっとお話をしてみたいと思います。
私はこのTanaRadioで、梅田望夫さんと誰かの対談を本にしたもの、これを取り上げてきました。
前々回、第9回は齋藤孝さんと梅田望夫さんの『私塾のすすめ』という本で、これは2008年に出版されたちくま新書です。
それから前回、第10回は梅田望夫さんと茂木健一郎さんの対談を本にしたもので、『フューチャリスト宣言』というタイトルの本が2007年に出版されているんですが、これを紹介しました。
そしてもう一冊、梅田望夫さんと誰かが対談した本があるんですけれども、その対談相手は飯吉透先生です。
『ウェブで学ぶ』、副題が「オープンエデュケーションと地の革命」というタイトルの本で、ちくま新書から2010年に出版されています。
今日はこの本を基にして、学びに強制は必要かということについて考えてみたいと思います。
オープンエデュケーションの概念と現状
この本で取り上げられているのはオープンエデュケーションなんですね。
その典型は大学の講義をオープンにする、MITが行ったことで広がったオープンコースウェア、OCWというものがありますけれども、
そういったこれまで大学に入らなければ受けることのできなかったような高度な授業が、ただで公開されるということは画期的なことだと考えられました。
そしてこれによって誰でもやる気さえあれば、いろんなことが勉強できる、そういう素晴らしい新しい教育の可能性というものが開かれると期待されたわけです。
梅田さんはウェブの可能性を強く感じ、ウェブを使って個人が自分を高め、社会で活躍できるようになる、そういうあり方を、あるいは生き方と言ってもいいでしょうか、これを提唱していたわけです。
それでその考え方と共鳴するような方と対談を重ね、本にして発表してきたわけですけれども、このオープンエディケーションもまさにそういう梅田さんの考え方とマッチするということで、飯吉先生が選ばれ、こういった本になったわけですよね。
オープンエディケーション、日本では未だにそんなによく知られているわけではないと思うんですけれども、一部では非常に期待を持たれた考え方でしたが、実際にオープンエディケーション的なものはどんどんウェブ上に増えていったと思うんですけれども、
しかし学校教育を変えるほどのインパクトがあったかというと、どうもそうは思えないんですね。やっぱり小中高大とどの段階を見てもですね、基本的に今の学校教育はウェブをそんなにうまく活用できていない。
コロナ禍でだいぶ進んだとは思います。けれども、またコロナが沈静化した後ですね、元に戻ってしまったようなところもありまして、せっかくいいチャンスだったんですけれども、活かしきれていないなというふうに私は残念に思っています。
前回ですね、大学はもう終わっているのかということで、大学教育の問題、私がそこに不満を感じる点についていろいろお話ししました。
そのことを、なんで今の大学はだめなのかということの理由がまだはっきりと表現できていなかったように思うんですが、そのことが今回のこの梅田さんと飯吉先生の本を読むことによって少し明らかになったかなというふうに思っています。
で、それがですね、学びと強制力の話なんですね。
というのも、オープンエディケーションというのはとても良いものなんですけれども、これはそれがあるならば誰でもちゃんと素晴らしい学びが実現できるのかというと、決してそうではない。
だからこそ、これはそんなに広まっていないのだろうと思うんです。
教材がウェブ上にオープンになればそれだけでみんながどんどん進んでそれを使って学ぶということが実現できればですね、もう学校など必要ないということにまでなると思うんですが、しかしそれができないために、いまだに学びといえば学校に行かなければいけないと考える人が多いわけですよね。
どうしてなんだろうかということで、そのことを考える上で重要だと思われる箇所がありますので、そこの部分をちょっと紹介してみたいと思います。
この対談の中で梅田さんがですね、そのオープンエディケーションについてこんなふうに言っています。
「素晴らしい可能性を秘めた試みだと思うし、一部のやる気のある学生にとっては最高の環境かもしれませんが、より全体ということを考えると、やはりオープンエディケーションにも何らかの形で『強制のシステム』がうまくデザインされることが必要になるのではないでしょうか。
独学のいいところは『強制のシステム』がないことですが、同時にそこがいちばん弱いところだとも思うのですよ。人間は弱いですから」というふうに、このようにですね、梅田さんは言っています。
ここではですね、強制のシステムというものがないとオープンエディケーションの教材があってもみんな学べないということなんですね。
学校というのがある種の強制のシステムなので、学校では何とか学びが進んでいるという話だと思うんですが。
しかしそれに対して飯吉先生はこのようにおっしゃっています。
「では、その『強制のシステム』としての学校が実際に機能しているかというと、たとえばアメリカの場合、高校生の三割ぐらいはドロップアウトして卒業できないことが、大きな社会問題になっています。
つまり、学校の『強制力』が効かなくなっている。
学校という教育システムは、『工業化社会のニーズ』に応えられる人たちを育てるには最適なものとして、これまで機能してきたのでしょう。
その中で、主として大学で高等教育を受けた人たちが『知識社会を構築するための原動力』となってきた、と考えられているのだと思います。
しかし、実はそうやって作られてきた知識社会が成熟するにしたがって、大学も含めたこれまでの『学校』という教育システムが、『そのような社会に生きる人たちの多様なニーズ』に応えられなくなってきている。
新たな学びの意義と動機付け
一九七〇年代にオーストリアの思想家、イヴァン・イリイチは、『学校制度によって束縛された学びを自由に解放すべきだ』とする『脱学校論 (deschooling)』を唱えましたが、
二一世紀に入り、このような主張がにわかに現実味を増してきた気がします」
と、このようにおっしゃっています。
つまり、学校という強制のシステムによって、何とか生徒、学生を学びに仕向けてきた、そういうことがもううまく機能しなくなってきた。
これは、高校だけではなくて、今や大学においてもそういう部分があるのではないでしょうか。
ですので、ましてやこのオープンエディケーションにおいては、そういった強制がないわけですから、ますますうまくいかないということになるのだと思うんですけれども。
しかし、私はその強制のシステム自体がうまくいっていないということ、このことを直視しないで未だに続けているということが非常に大きな問題だと思うんですね。
大学はもう終わっているという考え方、その理由として学生を強制的に勉強させる試験やレポート、成績評価、こういったものがナンセンスという考え方はですね、やっぱりもう学びというのは強制によって実現するものではないという、そういう考え方へと移らなければならないのではないかと、
思うんですね。
このオープンエディケーションの可能性というものを考えたときは、この強制というものがきかないだけに、その問題が非常にクリアに出てくるような気がするんです。
それで、じゃあどうすればいいのかということなんですけれども、そのことについてですね、このウェブで学ぶという対談の中で、お二方、あまり十分な回答を出してくれているようには思えないんですが、
でも、飯吉先生はこのような発言をしていらっしゃいます。ちょっと紹介します。
「しかし、教育、特に二一世紀の教育は、そのようなごく少数の人たちだけを相手にするわけにはいきません。
その一方で、既存の『学校』という教育システムの強制力が機能しにくくなっているという現実を考え合わせると、オープンエディケーションが普及していく中で、より多くの人たちが望む教育を受け、確実に新たな知識や能力を習得するために、
「一体どのような新たな『強制力』が必要となり、またそこにどのような新たな『教えと学び』の可能性が開けてくるのか」を考えるのはとても重要だと思います」。
このようにおっしゃっています。
この今引用したところに、「新たな『強制力』が必要となり」ってあるんですけれども、その強制力に鍵かっこがついているんですね。
これが重要な意味を持っているのではないかと思います。
つまりこれはもう普通の私たちが考えるような意味での強制力ではない、何か別の強制力ですね。
それはもう強制力という言葉はふさわしくないんじゃないかとも思うんですが、何らかの力が必要だということなんですけれども。
これは何なのでしょうか。
私は今のところこう考えています。
それはですね、好奇心とか、あるいは楽しさ、学ぶ楽しさ、そういうことなのではないでしょうか。
もう誰かから強制されて学ぶのではなくて、自分の中から起こってくる、そういう力によって学ぶということでしか、もう学びというものは意味をなさなくなってきている。
そういう時代に入ってきているのではないかなというふうに思うんですね。
このことについてもう少し話したいことはあるんですが、それはまたの機会にしたいと思います。
それではまた。