ロシア語でモストとは
先日、新聞を見てましたらば、広告にですね、MOCTという文字が見えまして、目を引きました。
大文字でMOCTと書いてあり、Oの中にカタカナでモストというふうに書いてあります。
副題は、「『ソ連』を伝えたモスクワ放送の日本人」ということで、青島顕さんという方が書いた本で、集英社から出版された本のようです。
このMOCTというのはロシア語で橋とか架け橋という意味だそうです。
これは面白いなと思いました。
私たちのMOSTコミュニティ、私たちの場合はMOSTですけれども、発音としてはモストでして、架け橋という意味があるということなので、
これは私たちフェロー、MOSTフェローがですね、様々な交流をするための架け橋となるコミュニティなのかなという、そういう新しい解釈もできるかなというふうに思いました。
ということで、TanaRadio第14回始めたいと思います。
今回はですね、学級という無力化システムというテーマでお話をしてみたいと思います。
つい最近ですね、昨日ですね、手に入れた本なんですけれども、
柳治男さんという方が書いた『〈学級〉の歴史学』、副題は「自明視された空間を疑う」というタイトルの本で、
講談社選書メチエから2005年に出た本です。
ずいぶん前に出た本なんですが、私はこの本を全く知りませんでした。
ネットでたまたまこの本の情報を得まして、興味を持って入手したんですけれども、
読み始めたらですね、とても面白くて、2日間で読み終わってしまいました。
この本を読んでですね、私がこのラジオを始める動機ともなった私のモヤモヤがですね、かなりクリアになったのではないかなというふうに思うんです。
そのことをちょっと今日はお話してみたいと思います。
まず、このラジオの第6回の配信で、私は私の授業でですね、せっかく質問の時間を設けているのに、
学生が全く質問してこないというのが、とても残念だという話をしました。
これは何か理由があるのではないかなというふうに感じたわけですけれども、
その時はよくわからないままでした。
しかし、この本を読んでみましたらば、その理由となるですね、事柄が書かれていましたので、
ちょっとそれをですね、読んで紹介したいと思います。
「学級」という無力化システム
この本のですね、小見出しで、「長期にわたる無力化の産物」という、そういう見出しがついたセクションの部分です。
「自分で選んだり決定したりすることができないことは、逆に見れば、指示通りにしか動かないことを意味する。
『指示待ち人間』という、消極的な行動しか取り得ない若者の増加は、このような学級制に埋没した生活と深く関わっているだろう。
自分の意思で選択し、自分の意思で決定することを止めてしまい、
完全に他人が定めたレールの上に乗っただけの生活を長年継続してきた若者に、
積極的な行動を求めるのがそもそも無理であろう。
あるいはまた、マニュアル通りにしか動かないといくら非難しても、
長期にわたって足を踏み外すことを固く禁じられてきた者には、所詮無理な注文であろう。
そのような人間に、いくら自主的とか主体的という言葉を持ち出しても、何の効用もないであろう」。
このように書かれています。
ここでですね、この本は学級というものですね、
これがとても大きな問題をはらんでいるという、そういう指摘をしている本なんですけれども、
その学級の中で長年学んできた、そういう大学生ですね。
小中高と12年間もそういう環境にいた学生は、学級システムの中で無力化されてしまっていて、
主体的に動くことなどできなくなっている、そういう話になっています。
ここでいう学級制というのは何なのか、少し説明しますと、
それはあるクラスにそれなりの大勢の生徒、学生が集められて、
そこで一人の教員が同じことを一斉に教える、そういうやり方です。
しかも教える内容はカリキュラムによってあらかじめ決められており、
また時間割によっていつ何を学ぶかということも決められている。
つまり、そこに参加する子どもたちの決定権というものは、ほとんど何もないということですね。
選択科目というものがあれば、そこで多少選択の余地はあるかもしれませんが、
小中高、特に小中ですとほとんどないでしょうし、高校でもそれは制限されています。
大学はかなり多くなりますけれども、それでも理工系の場合はかなり必修科目が多くて、
選択の余地はやはり少ないと言えますね。
ですから、やはりこの学級制という、あらかじめ決められた環境の中でそれに合わせて学んでいかなければいけない、
そういう環境の中でずっと自分をシステムに合わせるということを強いられてきた学生が、
いきなり自発的、主体的、自由に何かやるようにと言ってもなかなか難しいということで、
そういう説明を聞きますと、そうだろうなというふうに納得してしまうわけです。
それから、これは学生についてのことなんですけれども、
これはそういったシステムの中で教える教員にとっても非常に問題があるものだというふうにこの本では書かれています。
私が日々感じる不自由さ、これの原因は何なのか、はっきり言語化できないでもやもやしていましたが、
そのことについてもこの学級制という概念を持ち出すことによりまして、非常にクリアに理解できるようになりました。
この本の中で、教師の不自由さについて説明している部分、これを読んで紹介したいと思います。
ちょっと途中からなんですけれども、このように始まります。
「しかしどのように不可視化されようと、学校で提供される多くのサービスも、事前制御された学級を通じて提供されている。
教師は決められた内容を、決められた時間と場所で、決められたとおりに教えるという職務を遂行すればよい。
この点では、他のチェーン・システムの労働者と違いはない。
教師の自己決定権は大幅に制約されているのである。
上部機関によって決定された教育内容を教えねばならないという職務を背負っているのみならず、『学級』という限定された場で教えなければならない。
学級制というパッケージ以外の教授活動を、教師は選ぶことはできない。
教師にはその職務遂行上、大きな枠がはめられている」。このように書かれています。
まさに私もこの枠の中で教えるということを強いられているため、非常に息苦しい感じがしていたんだなというふうに思うんですね。
何とかその枠を緩めようということで、それなりの工夫はしてきたんですが、やはり限界があります。
来年度はオンライン授業をすることができるようになったので、また多少は枠が広がったかもしれませんが、でも全体的な構造は全く変わっていないわけですね。
ですので、今のこの学級システム、学校システムに合わせる限りは、この息苦しさというものはどうしようもないものだということがわかります。
ということで、この本を読んで感じたことは、このシステムの中にいる限りできることは限られている。
だから、このシステムに合わせて最善のことをするしかないのだなと。
それ以上のことをしようとしても難しいということでしょうか。
もし何かできるとすれば、このシステムから外れる、学級というシステムから逃れて、全く別の学びの場を求めるしかないのかなと思うようになりました。
ということで、今日は「学級」という無力化システム、これは学生と教員両方の無力化なんですけれども、そういうことについて柳さんの本を紹介しながら話してみました。
それではこれで終わりにします。