浅草の名物食べ物
たべものの世界を探求する、たべものラジオの掛茶料理むとう、むとうたくろうです。
むとうたろうです。
このラジオは、少し変わった経歴の料理人兄弟が、食べ物の知られざる世界を、ちょっと変わった視点から学んでいくラジオ番組です。
はい、ということで今回は、浅草っすね。
浅草。
はい。
浅草ね。
浅草はね、食べ物の歴史をたどっていくと、まあいっぱいある。
あ、そうなんだ。
ほんとにいっぱいありますよ。
へ〜。
浅草名物というかね、歴史のあるもので言ったら何思い浮かびますか?
歴史のあるもの?
うん。
わからない。芋洋館ぐらいしか思うじゃん。
はい、芋洋館ね。
はいはい。
浅草芋洋館。これ船場さんが有名ですかね。
うん。
あとは、お土産物といえば。
あ〜人形焼き。
人形焼き。
うん。
それから。
それから?
はい。
他に何かあったっけ?
ありますよ。
ほう。
雷おこしね。
あ〜雷おこし。
東京土産といえば、昭和の時代の人は雷おこしですから。
はいはいはい。
圧倒的にね。
あ〜そうかそうか。
で、もう今はあまり知られていないとか忘れられてるかもしれないですけど、浅草といえば海苔ですよね。
海苔?
うん。
海苔なの?
浅草海苔。
ほう。
今でも浅草海苔売ってる老舗のメーカーさんありますよね。
へ〜そうなんだ。
中見瀬通りからちょっと横に入ったあたりにね、看板出てると思いますが。
ほうほう。なんか浅草はいつも飲みに寄ったぐらいしか来てない。
そうか。
まあ浅草の西の方に行くとまた飲み物に楽しいお店がいっぱいありますからね。
うん。
ビールケースひっくり返してね、その上に板を置いたようなところに座って。
はいはい。
ああいうところもありますね。
ああいうところもあるね。
面白い街ですよ。
浅草の食べ物屋さんっていうのはものすごく多くて、
これ聞きながら歩いてる人はもう右を向いても左を向いても何かしら食べ物売ってる店が必ず目に入ると。
ああはいはいはい。
いうようなとこですよね。
浅草のエンタメスポット
もう繁華街というか縁日が毎日あるんだなみたいな場所ですよね。
田舎者が行くとびっくらこくとこですよ。
確かに。
今日は何からお祭りですか。毎日こうでございます。土日になるとさらに倍増いたします。
土日ってすごかったもんね。
すごい場所でございますよ。
あのにぎわいはですね、現代、令和の時代に始まった話ではないんですよ。
ああそうなんだ。
平成の時代も昭和の時代もずっとにぎわってるんですが。
大正に行っても明治に行ってもまだにぎわってる。
どこまで遡ったらにぎわわなくなるかっていうと、
江戸時代より前くらいになるとちょっと人口が少ないんでね。そこまででもないと。
ああそうか。江戸ができる前ね。
江戸幕府ができて以降はもう浅草といえば人気のエンタメスポットなわけですよ。
はいはい。
これはもう戦争時がもう江戸の街中にあるお寺の中でも完全なる別格なんですね。
別格。
大きなとこだと上野の関栄寺とかね、芝蔵城寺とかっていうのが徳川家の母大寺として有名ですけれども、大きいですね。
ただ歴史の長さでいきますと浅草寺っていうのはもうそこから遡ること1000年くらい前からありますんで。
そんな前から。
ものすごい古いんですよ。平安鎌倉とかその辺なんじゃなかったかな。ちょっと記憶うま覚えですけど。
そういう時代からあるところなんですね。
めっちゃ古いね。
あんまり認識がない方も多いと思うんですが、浅草といえば大根というのもあるんですけどね。
浅草といえば大根。
あのですね、戦争時の中にこれ松山の商店様のお祭りがあってね、大根祭りっていうのがあるんですよ。
大根祭り。
松山商店の大根祭り。これいつやんだっけな。年に1回あるはずですよ。
何月何日かってのは僕よく知らないんですけど。ここで大根祭りという謎のお祭りがあるんですね。
松地山商店。
はい、ですね。
松地の山の商店。
商店に関しては神様のお名前なんでね、仏様か、のお名前なので、その信仰に関しては別でググるなりなんなりしていただければよいしということにして、
気になるのはこの松地山なんですよ。
松地山。
これ面白い字書きますよね。ウェイトの松にミルクのチチですよ。
急に英語きたね。
他には思いつかなかったんだ。
松ね。
チチを松ってどういうことやねん。
ちょっとよくわかんないね。
よくわかんないですね。どうもねこれあて字っぽいですよ。
あて字なんだ。
もともと古い時代の文献では松地山っていうのは真実の真。
あと土ですね。土曜日の土。
真実の土の山と書くそうです。
というのもですね、徳川家康が江戸にやってくるのは1590年ですか。
それ以前の古地図を見るとですね、この浅草界隈というのは本当にその名の通り湿地帯なんですよ。
その名の通りっていうのは川辺でね。
川辺っていうのは山の方から川が砂、土砂を運んできますから。
この両サイドというのが砂地になってサラサラと溜まっていくと。
それが今の浅草辺りなんですけれども。
今の浅草寺とかあるあの辺りは松地山といって小高いちょっとした丘みたいになってたんですよね。もともとね。
今でもその起伏は地図で見るとはっきり出てますが、ここはもともと陸なんですよ。
浅草の由来と名物
ここから少し何メートルか下がったところがいわゆる川岸のサラサラした緩い土壌なわけですよ。
そこに浅い草が生えてるもんだから浅草って言うんですよ。
川へ行くとあるじゃないですか。足がモサモサと生えてるところ。
そこが今の浅草なんですね。
この浅草寺のあるあたりとかこの松地山商店のあるところは真実の土がある。
つまりもともとちゃんとした土のあるところですよということなんですね。
なんでここでね大根祭りというものがあるのかというのを調べてみたところ、
こうだという断言してる文献というのは今の時点で見つけられてはいないんですが、
平安時代とか鎌倉時代そのくらいに余れた本とかをパラパラ読んでいくとですね、
おほねという発音としては大根ですけどね。もともと大根のことを大根って呼んでたんですよね。
その漢字で書いて大きい根っこで書いて、いつの間にかに音読みされて大根という名称になっちゃったんですけど、
この大根というのは清める力がある植物だというふうに考えられてたんですね。
そうなんだ。
よく大根役者って言うじゃないですか。なんで大根役者っていうか聞いたことあります?
どこかで聞いたくらいしか覚えてない。
大根食べとけば食当たりしないんですよ。毒素を中和して消化を助けてくれるという効能があるんで、
当たらない役者って意味なんですよね。
当たらない役者。
そう、食べ物に当たらないっていう効能を持ってる大根。これに引っ掛けて当たらない役者。つまり三流の役者ってことですよ。
ヒットすれば当たるわけですから。当たらないっていう意味で大根を当てて大根役者と言葉遊びをしたわけですね。
じゃあ当たる人は何か毒に当たるのかな?
そういうことか。
どこか知らないけど。
そうなのか?
知らないけど。逆を言うだろうね。
不遇の鬼門役者とか。危ねえな。
危ないですね。
それは危ねえな。まあいいですけど、そういう毒を中和してくれるということから清めるという意識になったみたいですね、どうやらね。
清めるほうがのことだね。
他の地域の、例えば東北のほうとか九州のほうとかを見ていっても、大根を使って何かしらの儀式をやって、その境内なりを清らかにする。そういった行為はあるそうなので、おそらくそういったことから始まったんじゃないかなと思いますね。面白いですよね。
そうだね、大根ね。
またすごいなと思うのが、ちゃんと松値山だからできるっていうね。
松値山だからできる?
松値じゃないと大根育たないわけですよ。
まあまあまあ塩は混ざった、なんか浅草みたいなね。新地帯じゃ無理だよね。
なかなかね、水びしゃびしゃなところで水耕栽培ではなかなか当時育たないでしょうから。
まあ海水だからね。
あとね、一応ここ隅田川かな、当時イルマ川って言いましたけど。
ああ川か。
川ではあるんですけどね。ただまあ、あんな足が生い茂りなところで大根が育つかというとそんなことないと思いますので、松値山でなければ当時は厳しかったんでしょうね。
まあまあそうなんだね。
まあそういったことが由来にあるのかなっていうのは、ちょっとこの辺は僕の妄想入ってますけどね。そういった浅草の名物も隠れたところにあるはあったですね。
じゃあついでにいろいろと川にちなんで名物が生まれていった背景っていうのをちょっと話していきましょうかね。芋洋館。
芋洋館。
もう100年くらい経つのかな。芋洋館が浅草で有名になったのは船輪さんがすごく有名ですけど明治35年と。これあのホームページに載ってますね。
なんでこの芋が洋館になっていくのかというね。
浅草行った時に食べたけどさ、よくわかってないからね。有名だっていうので食べたけど。
これね、船輪さんのヤグワにもかかってくるのかなって僕家庭想像してるんですけど、洋館ってね、昔は現代人が想像するものずっと高級品なんですよ。
高級品。
これサザエさんのね古いのとか読むとわかるんですけど、洋館ってむちゃくちゃ高級品の扱いなんですね。
そうなんだ。
昭和の初期なんか全然高級品。
昭和の初期で?
うん。それでも高級品。なんなら僕が子供の頃まだその感覚ありましたもん。
そのぐらい洋館って高級品でね、庶民が簡単にいつでも食べられるかというわけじゃなかったんですね。
で、そのあんこ、高級品だったあんこの代わりに甘いもの何かねえかなってことでね。
探してたところ栗に匹敵する、もしくは栗よりうまいと歌われたさつまいもというのがね、ヒットするわけですよ。
そこでさつまいもが登場する。
そうね。別名八里藩とかね、十三里とか呼ばれたダジャレで呼ばれたね、甘いお芋、さつまいもでございます。
で、このさつまいもの産地というのがこの目の前を流れる墨田川の遥か上流、今の埼玉県あたりですよ。
埼玉県あたり。
で、たくさん作られてたんですって。でね、目の前墨田川じゃないですか。
だから、お手軽で甘くておいしいさつまいもを船で簡単に運べるわけですよ。
まあそうか、上流から下流に運ぶだけだもんね。
そういうことなんですね。で、さつまいもっていうのは、あんことかと比べれば無限に製造できるようなところがありますから。
まあ確かに、砂糖がいるからね、あんこちゃんと。
で、これをうまく使えないかなっていうので出てきたのがこの芋洋館。
そういうことね。
ちゃんとルーツがあるんですよ。で、正確にちゃんと読んでないからわかんないですけど、もしかしたらこの船場産の矢号も
船で運ばれてきたところとかね、そういうところから繋がってくるのかななんて勝手に想像してしまうわけですよね。
まあそうやってみるとそうやって見えるよね。
見えてくるよね。ちょっとよくわかんないですけど、なんとなくそんな気もするかな。
というところですかね。
まああとはあちこちに見つけられるのは蕎麦屋さんね。
蕎麦屋。ここでも蕎麦屋。
蕎麦屋さんだって門前といえば蕎麦でしょうよ。
お寺の前の飲食店と商店
ああそっか、お寺の前ね。
もう日本全国どこ探したってだいたいその大きいお寺の前、門前っていうのはだいたい蕎麦屋さんとね、豆腐屋さんとかね、岩盲屋さんとかこの辺も定番なんですよ。
どれをとってもお寺の中で食べられていた精進のものなんですよね。
そんな話あったね。
麺としての蕎麦も、何ならうどんもそうなんですけど、豆腐とかっていうのはお寺から広まっていった食文化なので、
必然それを下請けとして作る人たちがいて、それが門前にできて、今度それを食べに来る参景客がいて、お土産になっていくと。
まあそういった流れですよね。
加工場が先だね。代理というか代わりに作る人たちが周りに、お寺の周りに工場を作って収めていたけど、そのうち直販を始めるという。
そんな感じですよね。
小売かな。
同じような理由でいくと参景客狙いでお茶屋さんができて、茶店があって、お茶を飲むところでついでにお酒も出すようになったりとか、
おつまみを出すようになっていって、だんだん定食屋みたいになっていくんですよね。一前飯屋みたいなのが出てくると。
そうやって見るとお寺の周りって元々飲食店みたいなところとか観光地多いよね。
そうですね。それこそ浅草の門前っていうのは元々金龍山の目の前なんかですと奈良茶飯ね。
奈良茶飯。
日本の定食の元祖と呼ばれる奈良茶飯っていうのがあるんですよ。現代は川崎の宿場町が有名になっているんですね。
これ東海道五十三次とか東海道十日雑居でも描かれているのでそれが有名で、今町おこしもそれを盛り上げようって川崎の人たちも動いてますが、
それって元々浅草の方が先なんですよね。っていう庶民の食べ物として奈良茶飯みたいなのが出てきて、
ここに定食屋さんみたいなのがだんだん出てくると。そうすると飲食店街ができるわけじゃないですか。
どんどん繁華街となっていきますし、戦争時もお祭りがあったりするんでそこにまた出店が出たりとかして、
それがだんだん定着していって今の中店みたいな形に定着していくというのが一つのメインストリームの大きな歴史の流れなんですよ。
芝居小屋と洋食屋の出店
そうなんだ。
ここにさらにいろんな要素がどんどん放り込まれていくわけ。
いろんな要素が。
元々日本橋にあったものが移転してやってくる場所なんですよ。なぜか。
なんでかは知らないんですけど、例えば浅草から北西の方に行ったところですかね。
元々江戸時代まで、大正時代まであった吉原の遊郭がありました。これ徒歩で行ける県内ですね。
この遊郭である吉原があったのは元々日本橋の方ですからね。
ここから移転をして浅草のすぐ脇の方にやってくると。
これがまた一大テーマパーク、今でいう東京ディズニーランドみたいな華やかな場所であり陰のある場所なんですけど、
とにかく人が集まる場所なんですよ。
浅草寺と吉原という二つの巨大な人の集まるところができれば、よりお客さんを相手にする商売が広がってくると。
浅草のりっていうのも実は紙すき、和紙を作るところでのりを作るとかそういうところも始まってくるんですけど、
そもそもこの和紙も吉原でたくさん紙を使うから作らなきゃいけないし、
戸市再生を行う町が浅草だったから、その技術を使って浅草のりっていうのは生まれる。つまり板のりですよね。
それまでは岩のりとかね、ただ乾燥させただけののりだったんですよ。
これは和紙の技術を使って、私たちがよく知っている一枚ののり、板状のり。
これを発明した場所、発祥の地というのが実は浅草なんですよね。
ああ、そうだっけね。その話あったんだ。
ありましたよね。これ蕎麦のシリーズ本編でお話をしているところですね。
紙すきの機械みたいな技術で板のりができるっていうのがね、結構衝撃だったよね。
面白いですよね。
あれめっちゃおもろかったね。
板のり、今のりを見ていただくとツヤツヤした面とザラザラした面とありますよね。
ああ、あるね。
どっちが表でどっちが裏かと。
これよくトレビアである話ですけど、ザラザラした面が表なんですよね。
ああ、そうなんだ。
だってあれ紙作るときと同じ工程なので、上側がザラザラしてるんですよ。
裏側はザラみたいな巣の子みたいな巻き巣みたいなやつに乗ってるわけですから、裏ツヤツヤしてるわけですね。
なので、ぱっと見ツヤツヤしたほうが表に見えますけど、実はのりの表はザラザラしたほうみたいな。
作るときの表側って言ったらザラザラしたほうね。
そういうことなんですね。
これで今ちょっと話、ご覧できましたね。
戦争時が集客施設ですよ、一つ。
もう一つ、界隈に吉原ができましたよ。
ここにさらに芝居小屋がやってくるんですよ。
芝居小屋。
これはね、それこそ日本橋とか神谷町とかね、
あっちのほうにいくつか芝居小屋があったりとか、上野のほうに寄せ立ったりがあってね。
そういうところは園芸ですから。
当時の江戸の庶民たちは芝居っていうのは、なんて言ってるんでしょうね。
今インターネットもなければラジオもテレビもない、新聞も今のように発行されてるわけでもなければ、
本も限られてるという状態で、メディアの中の最高峰が芝居とか歌舞伎とか寄せ立ったりするわけですよね。
これが天邦の改革でもって浅草にやってくるんですね。
天邦の改革でもって浅草にやってくる?
天邦の改革っていうのはね、歴史の教科書に出てくる水野忠国がやった江戸時代最後の改革ですね。
水野忠国やったな。
基金があって国全体が厳しい状態になったので、贅沢は禁止じゃ!っていうことになるわけですよね。
それでもって出版業界も大変なことになって、土屋十三郎なんかもね、手鎖の刑所せられるとか、歌舞伎もやっちゃダメだと、なんなら芝居小屋取り潰すぞと。
っていうか、落語の要請なんか完全に潰されたとかしてますからね。
ああ、そうなんだ。
もう僕にとっては敵ですよ。落語好きとしては。
落語ファンの敵だね。
さすがに潰すのは何だからってことで、救いの手が差し述べられてですね、浅草に園芸ホールを移してくると。
ああ、そうなんだ。
そこで頑張って老中水野忠国に交渉してですね、幕府側の人間でありながら、庶民の楽しみを救い上げてくれたのが、あの有名な東山の金さんね。
東山の金さん。
時代劇で有名になってますよね。あれ何で時代劇をやっているかというと、歌舞伎などの芝居の演目で東山の金さんが演じられるようになったから、その後昭和の時代でも平成の時代でも東山の金さんっていうのはドラマ化されるわけですよ。
ほうほう。
ではなぜ歌舞伎で東山の金さんが取り上げられるようになったのか。それは伝法の改革で思いっきり粛清された時に東山の金さんが歌舞伎という園芸そのものを救ってくれた。その心ゆきに感じた歌舞伎の人たちが東山の金さんを演目にして後世に伝えようとするわけですね。
はあ。
というのがあって、今浅草にはいろんな園芸ホールとかありますよね。お笑いの世界でも東京の芸人さんたら浅草が聖地みたいになってるわけじゃないですか。その端子はこの伝法の改革の時のいろんな芸事が浅草にどんとやってきたことから始まるんですよね。
そうなんだね。
そこから明治大正昭和といろんな芸人さんたちがここから出てくる。もちろんピンクの街も出てくる。吉原近いしね。いう感じになってて、その後昭和で戦争があったりなんやかんやしてずっとその雰囲気が残り続けていたので、今あの状態の裏町がね、芸ごとを見に来て楽しむお客さんのためのお店っていうのがいろんな形を変えながら現代に繋がってる。
そうなんだ。
へえ。
こういう場所だからこそ、例えば明治から昭和初期にかけてその文明開化の時に、いわゆる洋食、西洋料理が入ってきた時に洋食屋さんもやっぱ浅草にポンポンポンポンと出てくるし。
ああ確かにあったね。
豚カツ屋さんとかね。豚カツってのはもともと洋食ですから当たり前なんですけど、現代ではもう完全に和の洋装してますけど、あれは洋食ですね。カレー屋さんみたいなところとか、ビーフシチューだとか、そういうのが浅草のところにバーッと出てくる。
ああだからなんかそういった洋食の老舗が浅草にいっぱいあるんで。
浅草の文化的な背景
浅草にいっぱいあるんですね。バーみたいなものが出てきたりとかね。戦後の話ですけど。キャバレーみたいなのが出てきたりとか。そういう感じになってくるわけですね。
もうねすさまじく僕の中で今はしょりまくってるんですけど、一個一個やったらもう止まんないんでこれ。
尺が収まんない。
収まんない。もう2時間でも3時間でも多分浅草喋ってられるから。今日珍しく台本ゼロで喋ってますからね。
書き出すと多分終わんなくなっちゃうから。
そうなんです。もう調べて年号とか確定させるのは諦めましたんでね。
結構浅草あるね。
ちょっと今脳内ナレッジとわからないところwikiでちょちょっと見たくらいですけど、気になるポイントいっぱいありますんでね。ぜひぜひいろいろ見てください。
浅草って普段観光場所ぐらいしか見てなかったもん。
あってましたもん。観光地で。
観光地なんだけどそんなに深いと思わなかった。そんな色んな文化的な背景を抱えていると思わなかった。
そうなんですよね。だから面白いなと思うのがお寺として歴史が古い場所。もちろん江戸よりも京都の方が古いわけじゃないですか。
お寺もたくさんありますし、奈良なんかもっと古くからありますよね。
なんですけど観光地としての寺院という意味では浅草を超えるところはないんじゃないですかね。
今こうやって聞くとそうだと思えるよね。
皆さんちゃんとお参りをするんですけど、お参りをしたついでに遊んで帰るみたいな歴史はたぶん浅草寺が河切りになったんじゃないのかな。
これは江戸の庶民という人たちがいなければいけないし、江戸時代に入って武士や貴族じゃない一般庶民たちが遊べるような環境ができないと成立しないので、
そういった意味ではやっぱり浅草寺界隈というのはスタート地点に数えてもいいんじゃないかなという気がしますね。
日本における一帯テーマパークの初だね。
そうだね。街丸ごとだからね。
丸ごとだねこうやって聞くとね。
面白いでしょ。
面白いね。その中で経済圏ができるレベルでデカいもんね。
そうなんです。
そんな感じなんだね浅草ってね。そうやって見たことなかったわ。
これどこまで採用されるかわからないですけどカットしてもいいよ。深川の話もしてるじゃないですか僕。門前中町とかね。
深川の話したね。
僕東京に住んでる時一人でよく行くいわゆる一人街歩きをよくやったんですよ東京に住んでる間。
でスタート地点を門前中町にしてそこから何時間かかりますよテクテクのんびり街をぶらぶら見物しながら歩いて浅草で最後一杯やって帰るっていうのが定番のパターンでね。
そんなパターンあるの。
でしょ漁師町の下町から始まってですよ。その辺の地ビールのお店でさリンビール買ってコロッケかなんかを片手にね肉屋さんのコロッケを買ってつまみながらテクテク歩くわけですよ。
でいろんなものを見物して町のおっちゃんたちに話を聞きながらだんだんと浅草に近づいていくと。で浅草のいくつか店入ってまた一杯やって帰る。いいですよこれ。
これ深川の時の話ししなきゃいけなかったんじゃないの。
これ逆パターンもいけるから。どっちでもいいから。
逆パターンもね。
逆もいけるね。
じゃあ今お聞きの皆さんはここから門前中町に向かって歩いていただいて。
浅草のエンタメ観光地
そういうところですね。門前中町界隈のいわゆる船着き場の界隈。ちょっと裏道の方にいっぱいまたいい店ありますから。そこで最後閉めてもらってもいいと思いますし。
ああ。
どっちも昼も夜も楽しい町だから。
また時間があれば僕らも歩きながら収録をね。そのルートを通りながらしていきたいね。
長いぞ。
3時間までなら頑張れる。
3時間。いや僕いつも10時にだいたい駅降りるとかしてたんですよね。で4時とか3時くらいから最終地点で飲み始めるんで。
5時間か。
ぐらいは。かかるというかかけてのんびりのんびりですよ。間お昼ご飯月島で食べたりとかね。そんな感じでしたけど当時。
へえ。そうやって東京歩いたことないな。
意外と面白いですよ。
そうなんだ。
当時はね僕もここまで江戸時代の歴史だとか食文化の背景とかっていうのを今ほど知ってるわけじゃなかったですけど、それでも楽しかったんで、これ分かって歩いたらもっと楽しいと思う。
じゃあいつかぶらり旅として。
いいねいいっすね。
やってみるかい?
行きたいなあ。楽しいところいっぱいありますから。
本当にね。東京意外と僕知らないから。
東京と思ってもいいんですけど、僕の頭の中は透けて見えるんですよ半分江戸が。
江戸がね。
江戸と東京をレイヤー重ねて透けた地図を2枚重ねたようなイメージで歩いてるとより楽しいですね。
なんだっけさっき見つけた地図。名前なんだっけ。
アプリでありますね。大江戸混雑巡りっていうアプリが出てますので。
大江戸混雑巡り。
今昔巡りですね。
のアプリをダウンロードしてそれ見ながら歩くのも楽しいんじゃないかなと思います。
これね。昔の地図と現代の地図を重ねてね。見ることができるというアプリですね。
旧東京の歴史と文化
これがね当時あったらもっと楽しかったね。僕はこれを脳内でやりながら歩いてましたから。
今便利だねアプリがあるから。
本当ですよ。
現在地はしっかりわかります。
いいなここまでしゃべったらもう浅草話したから上野とかね向島とかね蔵前とかもうめっちゃ話せる。両国とかもめっちゃもろい。
そうなんだ。名前しか知らんからな。俺降り立ったぐらいしか記憶ないからね。
ちなみにですね浅草ですよね現在地。浅草から西の方角を見ていただくとそこに何が見えるのか。
何が見えるのか。
もちろんビルが見えるんですよ。現代人の目には。
現代人の目には。
1600年代1700年代にイメージをタイムトリップしていただくと木造の建物が見えるんですけど道の隙間から上野のお山が見えるんですね。
上野のお山?
上野公園。上野駅のところ。駅って見ればわかるんですけど丘になってますよね。すごく高い位置にあるんです。
これが本当の地面ですよ。もともとの。
そういうこと?
そういうことです。その中でも低いところの中で小高い丘になってるのが松地山ね。
本当の高いところが上野公園があるってことです。大地になってるんで。
そうなんだ。一段下がってるんだね。
そうなんです。上野は逆に高いところにある。そういう頑丈なところだからこそ重要なお寺が建てられてる。
でもそうですよ。上野公園もそうだし、今の皇居などのところもそうですね。皇居は当時本当海の際なんですけど。
今の東京駅とか与楽町の辺りなんかもほぼほぼ海ですから。ギリギリのところですから。あれは武蔵の大地の東の果てなんですよ。
大地の果てなんだ。
ギリギリ端っこなんですよ。それの一つ北の出っ張りのところが上野公園ね。いうような地形ですね。
そういう感じだったんだね。
もともと。
ここから先長くなりそうだね。またこの後も何か皆さんが聞きたい場所があれば、
食べ物ラジオの本編の方のリンクをクリックしていただいて、そちらからメッセージを送りいただいても構いませんし、
またツイッターXからでもそういったコメントをお待ちしておりますので、もしリクエストがありましたらご連絡いただければと思います。
また本編の方でもこういった話のもっとディープなところをシリーズでお話をさせていただいておりますので、
もしご興味が来ましたらそちらもぜひお聞きいただければと思います。
ということで今回はこの辺で終わりたいと思います。ありがとうございました。
ありがとうございました。