00:07
たべものラジオ
たべものの世界を探求するたべものラジオの掛茶料理むとう、むとう卓郎です。
むとう太郎です。
このラジオは、少し変わった経歴の料理人兄弟が、食べ物の知られざる世界をちょっと変わった視点から学んでいくラジオ番組です。
はい、ということで今回は
はい、新宿です。
新宿。
東京というかですね、江戸という町は
江戸という町は
今日江戸時代の話しますから
はい。
江戸という町は、なんとも安直な地名があちこちにあるわけです。
安直な地名。
はい。新宿なんてのはね、僕の中では最たるものですね。
そうなの?
だって新宿ですよ。
新宿ですよと、そんな考えたことないけど。
高速鉄道ありますよね。
はいはい。
幹線とかありますよね。
幹線。
それが新しいのできたら新幹線っていうね。
お〜新幹線ってそうなの?
そう、新しい幹線ってことでしょ。
あー確かにね、言われてみればね。
で、東名高速道路。
新しいのできましたよね。
できたね。
新東名。
確かに。
これ次できたらどうすんのってやつね。
あー困るよねだいぶね。
同じノリでつけられた地名が
今都庁のあるとこですよ。
都庁のあるとこ?
はい。新宿。
あー都庁って新宿なんだ。
マジか。
もう考えながら東京に行ったことがないね。
あーそうですか。東京都庁は新宿にありますよ。
あーそうなんだ。
まあ、土地感がないのでしょうがないと思いますが。
新宿という地名はですね、読んで字のごとく新しい宿場なんですよ。
新しい宿場。
宿場があるということは、つなわち街道があるってことですね。
街道。
5街道。聞いたことあります?
5街道?5つの街道ってこと?
そういうことです。
聞いたことがある?
何街道ありますか?
あーなんだっけ、東京から出てるよね回って。
そうですね。
東北のほうと北陸。
北陸行かないけど。
上のほうって感じ。
上のほうね地図のね。
あと東海道とね。
東海道は知っとかないと。
それはわかる。
地元静岡らでね。
東海道、甲州海道、中専道、日光海道、欧州海道という感じですね。
新宿は何街道が通っているかというと、甲州海道ですね。
新宿駅南口の前を通っているのが甲州海道ですもんね。
これも一応ずっとまっすぐ行くと、甲府に行くわけですよ。
03:00
甲府の甲か。
そうです、甲州。
甲州に行く道ということですね。
で、五海道の出発点、一番目の宿というか起点ですね。
これどこかわかりますよね。
どこ?
これは有名ですよ。
日本橋。
正解よかった。
よかった。
そんなに自信なさげに。
だいたい間違えるからさ。
日本橋をスタートして、例えば東海道だったら次が品川の宿ですよとか。
というふうに行くわけですね。
で、この五海道整備されたらもう本当、幕府ができた頃にはもうすぐだいたい整備され始めてるんですけど、
甲州海道の日本橋を出て次の宿場町は何だったかというと、もともとは高井戸だったんですよ。
高井戸。
ただね、高井戸ちょっと遠いんだよ。
だいたいね、海道沿いの宿場町っていうのは、特に江戸近郊はですね、
基本的には2里前後であると。
2里前後。
2里っていうのは1里2里の距離です。
里ってやつか。
里ってやつですね。1里がだいたい4キロ弱なんで、2里って言ったら8キロくらいかなっていう。
それが基本の間隔なんですけど、日本橋から高井戸までは4里あるんですよ。
4里。
ちょっと遠い。
1里ってちょっと距離の話なんだけど、これすごく合理的な距離単位で、正確には3.9272727キロメートルとかなんだけどね。
3.9。
微妙じゃない。
微妙だね。
今のメートル法で見るとすごく微妙に見えるんだけど、この1里の基準がだいたい人間が1時間で歩く距離だねっていう基準なんですよ。
そういうことね。時速4キロくらいってこと?
そういうことです。
2里って言ったらだいたい2時間で次の宿場町があって、一息休憩ができるよっていう感じだし、天摩星ってあるじゃないですか。
天摩星。
荷物を運ぶのにね。人足と馬でもって荷物を積み替え積み替えしてリレー形式で物を運んでくるんですよ。
いわゆる駅伝ってやつですよね。
これをやるのに、馬とか人足っていうのは宿場町が負担してたんです。
特に公議ですね。幕府の命令とかでやってるようなものっていうのは、宿場町の人が負担をして馬を用意しなきゃいけない。人足も用意しなきゃいけない。
そうなの?
そうなんです。
遠いと大変じゃないですか。
大変だね。
だから間に欲しいよねってことになるんですよ。
で、日本橋と高江戸の真ん中に新しい宿場町を作ったんで、新宿と。
そういうこと?
そういうことなんですよ。
遠すぎただけ?
遠すぎたっていうのが一つの要因だって言われてますね。
できたのが1699年なんで、幕府できてから100年近く経った後なんですけどね。
高江戸の人たちからも日本橋側の人たちからも、天馬町からもね、負担がでかいんで何とかしてほしいっていうのもあったんですね。
06:11
そしたら浅草の商人がね、5人ぐらいが名乗りを挙げて、俺たちが作る。俺たちにやらせろって言うんだ。
浅草の商人なんだ。
そう、商人たちがね。
で、ちょうどこの新宿のこの辺りがいいんじゃねえかって。
これを幕府に申請するわけですよ。俺たちにやらせてくれって。
そしたら条件が付けられて、まあわかりましたと。それでもやりますって言って、5600両を幕府に上納する。
5600両。
どのぐらいだろうね。1両20万円ぐらいで計算しても結構長くて、億単位だよね日本円、今の金額にしても。
そうだね。
これを幕府に払うから俺たちにやらせてくれって。
へえ、なんでそこまでしてやったんかね。
そう、これがね、実はこの後の新宿の波乱万丈のドラマにつながっていくんだけど。
波乱万丈なんかあった。
この後ちょっと言うんだけど、新宿という宿場町は一回廃止されるんだよ。
廃止されるとかあんの?
あったんだよ実際に。
その廃止されたきっかけを作ったのも、そしてこの新宿という宿場町を新しく作ったのも同じ人たち、この浅草の商人。
ああ、そうなんだ。
宿場町を作ってほしいという両サイドの高井戸と日本橋の思いはあったんだけど、
それに駆けつけて新宿を開いたこの浅草の商人たちには別の思惑があった。
別の思惑?
儲かる。
まあそうだろうね。何となく予想はついたよ。
なんで儲かるかっていうとですね、繁華街作ってそこでエンタメビジネスやろうと。
宿場町が増えるってそういうことだもんね。
この人たち浅草の人たちじゃないですか。浅草には戦争時があって、
人が娯楽を求めてそこにお祭りとか縁日を求めてやってくるし、すぐ近くには吉原がある。
吉原、この近くなんだっけ?
浅草から歩いたらどのくらいだろうね、現代人の足で15分20分くらいなのかな、くらいのところにあるんでね。
そのビジネスモデルを新宿に搭載しようとするんですよ。
そのビジネスモデル?
そう、エンタメモデルをね。
で、やるんですけど、吉原を作ったことによって江戸の市中で優格みたいな女郎がいるようなところ、
そういうのは吉原以外はダメよっていうことになってたんですよ。
だから他の地域の宿場町とかは飯盛女っていうのを置くんですよ。
飯盛女?
これね、本当にただの言い訳なんですけど、旗子旅館ね。
あと茶屋って言ってるけど、ご飯食べたりお茶飲んだりするところ。
09:02
で、ここにご飯を持ってくれる中井さんみたいな人ね。
っていう体で女性をたくさん雇ってる。
この人たちが夜のサービスもするみたいな。
もちろん別料金で2階にお部屋があってみたいな。
宿場手付けを結構あちこちでやってたんですね。
特に街道沿いはずっと大きい宿場町だいたい置いてるんですよ。
で、新宿にそれを置くんですよ。
新宿に置くの? そう。
そしたら1699年に新しい宿場町作るじゃないですか。
そっから10年20年経たない頃にはもう50軒の旗子屋ができてるんですね。
50軒、やっぱ儲かるんだねこういうのってね。
人がわーっと集まってくる。
旅の目的とかじゃなくて、ほんと界隈の人足とか職人さんとか商人たちがわーっと遊びに来ちゃう。
めちゃくちゃ儲かるんですよ。
ただ、本来ダメなわけですよ。
本来宿場町に遊女を置くことは禁止されてるんです。
吉原があるから。
で、それでもまあまあお目こぼしがあったわけですよ。
ところが八大将軍出ました。
暴れん坊将軍、徳川義務の時代ですね。
徳川義務ね。
強法の改革が起こります。
強法の改革聞いたことあるな。
ザクッと言うと贅沢禁止ねってやつね。
あーはいはいはい。
あったじゃないですか。
贅沢禁止あったね。
ここで取り締まりがグッと厳しくなるんですよ。
で、江戸から10里以内の宿場町は
1軒あたり置いていい飯盛り女は2人まで。
へー40キロ圏内ってこと?
そういうことですね。
へー結構広い範囲にダメなんだね。
この範囲は吉原が特権を持ってるんで影響があるから
そういう遊女を置いちゃダメよ。
で、それに近い活動をしてるってのはわかってるんで
飯盛り女がそういう人だってのは。
だから1軒あたり2人までだよってやるんですよ。
まあでもそこは2人まではオッケーな。
一応ね。
一応。
で、そこからさらに取り締まりが厳しくなって
また潜りでやるやつがいんだよ。
まあまあまあそんな簡単にはやめないね。
そう。で、幕府がガッチリ取り締まりをやって
ついに1718年ですね。
さっき畑号が52軒あったよっていうデータの出た年ですよ。
なんで52軒がはっきりわかったかっていうと
この年に新宿が廃止されるからなんです。
へえ、じゃあ20年で廃止されたの?
はい。取り締まりでね。
取り締まりによって。
で、畑号屋の2階部分全部撤去しろと。
撤去?また難しいこと言うね。
取っちゃったらしいよ本当に。
へえ、すご。
で、2階部分が宿だからさ、泊まるとこじゃない?
宿屋の機能を失うわけですよ。
まあまあそうだろうね。
町は残ってるんだけど、もう宿場町としての機能はゼロ。
テーマ制度もなし。はい、しろ!みたいな感じ。
12:00
もはや無意味だね。
無意味。
でね、これなんでこんなことを知ってるかっていうと、
実はこの畑号屋に飯盛り女がいるのが当たり前の土地っていうのが、
例えば板橋とかね。
板橋。
これは公衆街道ではない別の、どこだっけな板橋だから中銭堂か。
あっちの方に行く街道の宿場町とか、
あと東海道だったら品川宿とかね。
ああいうところにはだいたい飯盛り女っていうのが追いかれていたんですよ。
これなんでかっていうと近すぎて宿泊客がほとんどいない。
近すぎるパターンあるんだね。
近すぎるからもう一つ二つ先まで行けちゃうじゃん。
まあ行けるね。だって今でも品川から東京の新幹線の駅めっちゃ近いもんね。
そうなんですよ。
だから行きの人も帰りの人も品川宿とか新宿の宿って飛ばされやすいんですよね。
まあご飯は食べるけど止まんないよねみたいな。
確かにね。
利益上がんないでしょ。だから宿場を維持するために、
電話制の認測の負担をちゃんとこなすためには利益上げなきゃいけないんですから。
そのための設け口としてこういった友情を置くようなことをしなきゃいけなかったっていう裏事情があるんです。
ああそうなんだ。
そうなんですよね。
なんでこんな話してるかっていうとこの新しい宿場町を作るときにもともと町がないわけじゃなかったんで
いろんな旗元の家があったりとかね。あとは大名家の江戸屋敷があったりとかするんで
ここをちょっとどいていただいて。
どくの?
すいません開けてくださいって。
開けてくださいっていうのは浅草商人じゃないんだから。幕府が言うんだから。
幕府が言うのね。
まあまあそれぞれ作るとなったらね。
幕府の命令で作るってことになってるからね。
どいてくださいって言ったらはーって言ってどくわけですよ。
で、そのどういった家々がほとんど旗元の屋敷なんだけど
一個でかい屋敷があってさ。それが内藤家のお屋敷なんです。
内藤家。
はい。今の長野県の品野の国に高藤藩っていう藩があるんですね。
ここねちっちゃい藩なんだけど結構有名人排出してるんで興味ある方は調べてもらうといいんですけど
この内藤家のお屋敷が今の新宿のところにあるんですよ。
あったんです。かすめていくんです。
だから敷地の一部をガツッと取ってそこを改造の宿場町に変えていくんですけど
そういうことをするから新宿という宿場町はもともと内藤新宿って言われてたんですよ。
内藤新宿?名前ついちゃったね。
だからね普通に考えたら新宿じゃないのここは。
本当は新宿ではない。
品川宿とかそういう命名規則で言ったら内藤宿なんだよね。
ニューが入ってんの。新内藤って言うと何が新だかわかんなくなっちゃうじゃん。
わかんないね。
新しい内藤さんだとよくわかんないことになっちゃうから新しい宿ってことで内藤新宿ってことになるわけだよね。
15:05
この内藤消えちゃったからなんだかわかんない名前になっちゃったのが今の新宿なわけですよ。
確かになんだかわからんねそうするとね。
こうやって何回も聞いてるとなんだこれってなりません。
なんだこれだね。
だから冒頭に言った僕にとって一番わけのわからない地名が新宿だよっていう話ですよ。
内藤が結構重要な役割占めてるもんね。
そうなんですよね。この内藤家の土地を通ってましたと。
内藤家はすったもんだって細かいことは省いていきますけど復活させようという動きはこの後ずっとあるんですよ。
そうなんだ。
まずね次の高井堂の人たちとか日本橋の天満町の人たちが本当に天満制度の負担がでかいから勘弁してくれっていう話をするわけだよ。
だしその浅草の商人たちもわずか20年しかやってないんでちょっと勘弁してください。待ってくださいって復活させてくださいみたいなことやるわけだよね。
まあ5600連も払ってるしね。
払ってるから。まあ多分回収してるんだろうけどね。
確かにね。
何回も幕府に対してやらせてくれやらせてくれっていういろんな条件を出しながら請願するんだけど基本的には却下です。
風紀上の問題でね。どうせまたあれやるんだろお前ら。
めちゃくちゃ信用されてないな。
だって一回やらかしてるからね。
まあね盛大にね。
盛大にやらかしてるんで。ただそんな困難してる間に他の宿場町もみんな財政なんで崩れていくんですよね。
へえそうなんだ。
さっき言った品川とか板橋とか千住とかいわゆる二つ目の宿場町。
ああそうなんだ。
さっき言った理由でまず収入がないでしょ。宿泊が少ないから。
で人の往来が激しくなってどんどんどんどん街道が元気になっていくんですよ。とにかくたくさん人は通ると。
で雇用の通行料も増加する。産金交代で人が通りますとかね。
そうするとまた店舗制の人馬の負担がもっとでかくなるわけですよ。
ああそっちが増えるんだね。
収入は上がってこないわ。負担だけ増えていくわっていうので。
もう品川も板橋も千住もうわもう苦しいわっていうことになるんですよ。
でとうとう幕府がそりゃもうさすがに無理だろということになって規制緩和するんですね。
へえ。
どこを規制緩和するかっていうと飯盛り女の人数の規制緩和するんです。
そっちなの?
そっちなの。
だから宿屋に一軒につき二人とかって言ってたじゃん。じゃなくてこの宿場町全体で何人ってことにしましょうと。
通行料もあるから。で品川は特に東海道で通行料多いですから。
この品川の宿場町で500人オッケーです。板橋と千住はちょっと少ないんで150オッケーです。
18:01
これ一宿あたりで割ると一宿あたり十何人とかになってくるわけですね。
全然これで採算あってきますねみたいな感じなんですよね。
ちなみにこれをこの方向に舵を切ったのがあの田沼おきつぐなんですよ。
田沼おきつぐ。まさかだな。
この田沼おきつぐっていう人は消費拡大政策を打つ人なんだよね。
だからこの田沼おきつぐ時代、法力から天命までかなぐらいの期間ですけど、
この時期が江戸時代二百数十年の中でもピカイチにバブルな時代なんですよね。
その時代を作った田沼おきつぐがもう裏で実機を握りつつあった頃なので、
このぐらいの規制緩和してちょっとビジネス盛り上げようぜっていうので規制緩和されました。
このタイミングでまた新宿の人たちが、俺たちもよろしくって言って申請出すんだよ。
ちゃっかりだね。
ねんぐとは別に毎年150何両とか浄納金入れるんで、頼みますって言ったらやむなし。
新宿の宿町全体で150人までよしとしようっていうことで、ここがどんどん繁華街になっていくっていう。
そっから繁華街なの?新宿。
それが今や都庁が立つような場所なわけですよ。
東京でも一二を争うようなビジネス街になってるわけですからね。
意外と短いんだね、まだね。
そうなんです。だからあの辺りが繁華街があって夜の街がちゃんとあるっていうのは、
この時代からの流れを組んでるとも言えますよね。
食べ物ラジオなのにここまで全然食べ物の話してないじゃないですか。
来るんですこれから。
こっからだ。そんな尺ないぞもう。
ないか。内藤唐辛子。
内藤唐辛子。
内藤出てきましたね。
なんか唐辛子に内藤くっついてるけど。
内藤新宿じゃなくて今度はね、内藤唐辛子です。
内藤家のお屋敷が新宿にありましたね。
江戸時代のお屋敷、大名お屋敷ですね。江戸屋敷ってやつ。
江戸屋敷。
内藤 江戸の何て言うんだろう、三勤交代でお殿様が泊まる場所。別荘です言ったら。
ちょっと豪華なんですね。
内藤 江戸始中にたくさん何とかの国何々の神何々とかっていうのがいっぱい江地図に出てくるんですけど。
ああなんか古地図見たらすごい広さの土地あったね。屋敷でさ。
もう2つ3つの町が全部飲み込まれるぐらいでかい土地持ってたりするじゃないですか。
内藤 あったね。
内藤家も名物なんでね言ってもね。結構でかいんですけど。
当時のこういう大名江戸屋敷では野菜っていうのは買うものじゃないんですよ基本的に。
野菜は買うものではない?
自分で作るものなんですって。
そうなの?
でかいから。
21:00
土地がね。
土地が。屋敷でかいし言っても大名だからお金もあるんで。
人足たくさん雇ってますから。
そもそも雇ってしまうんだ。
そう。屋敷の使用人がたくさんいるんで金財の農家さんとかも中に呼び込んで働かして。
で、屋敷内の敷地の中で畑で野菜を作ると。
それを自給自足するんですよ。
自給自足っちゃそうだね。
まあスケールのでかい自給自足をするわけです。
街の中に住んでるからそれはどうなんだってなっちゃったけど。
スケールがね。敷地内だってさ。
例えば僕らがいるような静岡県掛川市の田舎の一家の農家さんが持ってる畑より多分でかい。
まあそうだろうね。
余裕ででかい。
四角の一辺が何キロとかだったもんね。
まあね。屋敷全体で行くとね。大きいとかとそうなりますね。
広がったよね。
そういうところの中なんで普通に野菜が作れちゃうんですよね。
で、自給自足で自家消費するだけじゃなくて余るじゃないですか。
余る。
余るから売るんですよ。
余るから売るの?
売るの。で、そもそも内藤新宿ってのは内藤家の敷地をカットしてるぐらいだから
確実に街道沿いなわけですよね。
まあそれそうだね。
でそこに青森市場を建ててですね。で、そこから野菜を売るわけです普通に。
商売しちゃってるね。
商売するんです。そしたら、なんか知んないですけど、唐辛子とかぼちゃがむちゃくちゃ評判になっちゃって。
唐辛子とかぼちゃ?
めちゃくちゃ人気になるんですよ。特に唐辛子。
特に唐辛子?
内藤の唐辛子は、内藤様の唐辛子はうまいな。
へえ。
この評判が江戸市中全体にずっと東西南北に広がっていくんですよね。
ああそうなんだ。
これはすげえぞっていうことになって、じゃあオラにもよかったら種を分けてもらえませんかねみたいなことになって、近在の農家さんたちも内藤唐辛子を作るようになって。
ついには新宿の名産品内藤唐辛子っていうね。
へえ。かなり作ったんだね。
はい。地場産品ができるんですよ。
新宿の地場産品が唐辛子?
そうなんです。
これはもう少し後の時代かな、なるんですけど、江戸時代に七味唐辛子というのが発明されますね。
はいはい。
これはどっちかというと皇居を挟んで反対が東側の方ですけど、野原掘りっていうのがあって。
野原掘り聞いたね。
ここは薬屋さんとかお医者さんが集まるような町なんですよ。
野原っていうのはもともと漢方薬をゴリゴリゴリゴリするような器具のことを言ってますからね。
その野原掘りで七味唐辛子っていうのが漢方の文脈から生まれてきて調味料として一大人気になって一世不備するわけですけど、
この七味唐辛子の売り言葉、ありますね。こういうのが入ってます、ああいうのが入ってますって調子よく喋るわけじゃないですか。
その中のセリフの一つに入れますのは江戸は内藤新宿八草が焼き唐辛子みたいなのが入ってる。
24:01
へえ、それだけ知名度があるってことなんだ。
そうなんです。
だから初期の江戸の七味唐辛子に入ってる唐辛子は内藤唐辛子がナンバーワンみたいな感じですね。
そんな感じなんだね。
そうなんです。今ね、内藤唐辛子復刻プロジェクトっていうのをやって復活してますけど。
復活してるんだ。そうなんだね。
これでね、あとこの唐辛子の話でね、僕一つふと思いついたことがあるんですけど、
新宿っていうのは甲州街道のほかにもう一つ御街道以外の街道が通ってるんですよね。
御街道以外の街道。
青梅街道ね、今で言うとね。
青梅街道。
昔は成木街道って言ったんですけど、現代では青梅街道ですね。
ああ、そうなんだ。
この青梅街道っていうのは三鷹とか吉祥寺とかあっちの方に抜けて最終的には青梅市に行くやつですね。
ここはもう完全に武蔵野大地の上ですわ。
青梅市が武蔵野大地の上。
中野から向こうから完全に大地の上なんですけど、武蔵野大地の方っていうのは一部水田もやったんですけどね、同時。
どちらかというと畑作に向いていると。
畑作に向いている。
水田よりも畑の方が向いている。水田あまり向いてない。
水田に向いてない。
水が少ないからね。
大地の上だからか。
小麦だとか大麦だとか蕎麦だとか、そういった畑作に向く穀物が植えられてたわけですね。
それらが青梅街道を通って街の方に運ばれてくると、どうしても板橋に出るか中野に出るか、中野を越えて新宿に来るか、こういうルートがあるわけですよ。
板橋に1700年代中頃ぐらいになると小名谷っていうのが立ったりとか、中野とか新宿にも小名谷っていうのが出てくるんですね。
これ面白いことに、小海道じゃない青梅街道の方の宿場町で行くと、新宿の次が中野なんですけど、ここ1里も離れてない、1里も離れてない、半里ぐらいしか離れてないから2キロぐらいしか距離ないんですよね。
近いってこと?
めちゃくちゃ近いんですよ。
だからもうある種、新宿と言っても差し支えないぐらいの距離なんですよね。宿場町がもう1キロぐらいあるんで、もう半分ぐらい行っちゃってますからね。
出たらもうもうちょっと行ったらすぐ中野ですみたいなとこなんで、ここで水車が成分っていうのが発達していくんですね。
水車の力で粉を作る?
そういうことですね。
粉をひくか?
粉をひく。それで一つ有名になったのが淀橋の水車成分。
淀橋?
淀橋って川にかかってる普通の橋ね。
淀橋の橋はあそこ橋だね。
橋。あれ新宿と中野の間にあるかかってる橋なんだけど、川の手前が新宿で川の向こうが中野っていうところですね。
本当に境目。
境目。その中野側の方に小屋があって、それで水車小屋の水車の力を使って粉を作って、この粉を江戸の中の麺屋さんとかに卸していく感じなんですね。
27:07
だから小麦粉と蕎麦が有名なんですよ。
小麦粉と蕎麦が有名。
蕎麦の元になる蕎麦粉がやはり新宿あたりで作られていて、その蕎麦に入れる唐辛子も新宿が名産だということになるわけじゃないですか。
蕎麦と唐辛子が新宿の名産。
この蕎麦粉を売って歩く人たち、粉にしたら誰も取りに来てくれるわけじゃないですから当時は。
これを工事町の方に持って行ったりとかしてね。
で、販売も持って粉をほぼに売り歩くわけですよ。
当時の江戸っていうのはあちこちに蕎麦屋があるような時代ですからね。
アホほど蕎麦屋だらけなんです。
その話あったね、蕎麦の回。
現代のラーメンを超える勢いで蕎麦屋ですから。
この流通にもしかしたら唐辛子乗せられるんじゃないかなっていうね。
妄想ですよ僕の。
なんとなくありそうじゃない。
ありそうだね。
そういうことをちょっと想像しながら、流通と街の成り立ちというのを考えていくと色々と食文化につながって面白いなと思った次第です。
ああ、そうなんだ。
作ってたのは新宿の方で作ったんだね、蕎麦も。
蕎麦の実の方はもっともっと遠く。
遠くね。
青梅街道沿いとか五州街道沿いのどっかなんですけど、いろんなところにあるんですよ。
それを売ろうと思ったら街に持ってこなきゃいけないんで。
その終着点が青梅街道の場合は起点が新宿なんで中野新宿あたりにギュッと集まるんですよね。
この辺に全部集まって製粉されて、そこからさらに売りに行かれるってこと?
そういうことですね。
そういうことね。
そういう感じになってるんですよね。
ちなみにこの与田橋の水車小屋が幕末に大爆発したとこっすねこれ。
ちょっと細かいこと今回は言わないですけど、気になる方は食べ物ラジオ本編のそばのシリーズを聞いていただくと喋ってますんで。
あれめっちゃおもろかったね。
ペリーが来たときにね、なぜか水車小屋がドガーって大爆発するとね。
まあね、ペリーと水車小屋でピンとくる人はいるのかな?
いるかな?どうだろうな。
今知ってるからね。
もうそろそろ尺が越えてきるんで、それ語ってる暇ないんですけど。
まあね、10分くらいだったかもう30分だね。
そうですか。
じゃあ今回はこの辺にしておきますかね。
食べ物ラジオの本編では今お聞きいただいたような内容のもっとディープな世界を配信しております。
ご興味ありましたらぜひお聞きいただければと思います。
じゃあ今回はこれで終わります。ありがとうございました。
ペリー ありがとうございました。