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こんにちは、プロ社畜とサイコパスの部屋にようこそ。ここは、プロ社畜とサイコパスの2人が皆様からお寄せいただいた仕事や人間関係など、様々なお悩みについて語る部屋です。
こんにちは、野山の太です。
こんにちは、上水裕樹です。
こんにちは、アシスタントのマサです。本日もよろしくお願いします。
お願いしまーす。
お願いしまーす。
今回は、前回に引き続き、muroさんにお越しいただいております。
ようこそ。
よろしくお願いします。
お願いしまーす。
お願いしまーす。
今日は、私のまた持ち込み案件をさせていただきたいと思ってまして、
muroさんと上水さんが、それぞれのポッドキャストとかゲストで呼ばれて話しているポッドキャストを聞いている中で、
愛っていうことについて語っているやつがあるんですよね。
愛とは、相手をコミュニケーション可能な他者とみなすっていうふうにおっしゃっていて、
最初多分、クラブハウスでmuroさんがこの愛の定義について説明していて、
他の人はなんかポカーンとしてたんだけど、上水さんだけすごくわかって共感して、
上水さんもその後、その定義がしっくりきて、それ以降、愛というもの、そのように考えているみたいなことを語っていらっしゃったと思うんですよ。
で、私はあのポカーン側の人間なので、ちょっとどういうことなんだろうなーっていうのを、なんか3年ぐらい聞きたいなーって思いながら、
今に至っているので、ちょっとこの機会を利用してお話を聞きたいなーっていうふうに思っております。
はい。muroさん覚えてますか?
はい。覚えてますよ。
愛の定義は今のであってますよね。
あー、はいはいはいはい。
えーと、前提としてコミュニケーションがすごい難しいみたいなことがあるっていうことですよね、きっと。
そうですね、前提としてコミュニケーションというのが原則的には不可能であるということを言っていて、
他者っていうのの定義というか、ニュアンスっていうのが哲学的には、なんていうかな、理解不可能なものみたいなのがあると思うんですよね。
相手が何を考えているかっていうのは、想像しかできないので、
原理的には全く同じ理解にたどり着けないとか、そういうイメージでいいですか?
そうそう、えーと、なんていうのかな。
そうですね、まず他者というのは、自分ではないものとしてあるっていうことで、
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なので、共通の理解基盤っていうのを原則的に持たない人たちだと思うんですよ。
脳が別だし。
脳が別だし。
で、人間の場合は、それをある種のコミュニケーションによって脳を連結するというか、考えというものを伝え合っているんだけれども、
そのコミュニケーションの方法っていうのは、自分の考えていることを100%バーみたいな相手に伝える方法はないので、
ボディランゲージを使うにせよ、他のシグナルを使うにせよ、言語を使うにせよ、全く全てが伝わるみたいなことはないわけですよね。
そうですね。
100%伝わるみたいなことはない。
そうですね。
まあ、ある程度しか相手には伝わらないんだけれども、でも、自分の考えとか自分の意思みたいなものを誰かに伝えようと思う。
で、その伝えようと思うときに、その人は自分を理解してくれるかもしれないっていう。
あるいは、その相手を僕は理解できるかもしれないという可能性にかけていくみたいなのが愛ですよねっていう話をしました。
うん。なんだろうな。疑問に思ったのが、ある程度伝わるっていうことを、なんかコミュニケーションって言ってるような気がするんですよね。
一般的な用法においてはね。
一般的に。
で、不可能だ、原理的に不可能だっていうときは、それより一段厳しいハードルを設けてるような気がするんですよね。
えーとね、それは、例えば、たぶん今のぞんぞさんがおっしゃったようなことは、誰のどういう言葉を出したら適当なのかわかんないけど、
例えば、ヘーゲルが世界精神という言葉を出しているけれども、ヘーゲルの用法における世界精神という言葉をどれくらい理解したかみたいな話っていうのは、
ある程度、もしかしたら3割理解している人、6割理解している人、9割理解している人みたいな分け方がもしかしたら可能なのかもしれないんですけど、
この話を僕が思いついたときに何のことを考えていたかっていうと、
はい。
ガンジーとヘレンケラーのことを考えていたんですよ。
うーん。
で、えーと、イギリス人にとって、大英帝国にとってインド、イギリス人にとってのインド人、大英帝国にとってのインドっていうのは、
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理解する必要のないかつ理解しないで良い他者。
理解する必要がなくまた理解できない他者として存在しており、
インド人にとってのイギリス人はまたそのように存在していたんだけれども、
まあここに権力の差があるので、インド人っていうのはイギリス人にとって、まあなんていうかな、
非常にこう、植民、非支配関係にあったわけですよね。
はい。
で、だけれどもガンジーがやったことっていうのは、
いや、彼らだって我々の言っていることを理解できるはずだ、
として話しかけるということをガンジーはやった。
と僕は理解しているんですよ。
うん。
で、えーと、それがすごかったのは、
基本的にはこのようなある民族とある民族、ある国とある国の支配、非支配構造があるときに、
えーと、コミュニケーションの可能性を、
えー、なんていうかな、排除して戦うという、
武力闘争に行くということになりがちなんだけれども、
それをしない、相手は私たちと話し合いが可能なのだと思うっていうことを彼はしたんだと。
うんうん。
で、もう一つのヘレン・ケラーの話っていうのは、
そのヘレン・ケラーが、まあ目も聞こえない、目も見えない、
えー、ということで、まあ口が聞けないという話のときに、
えーと、その子供に言葉を教えようとするっていうのは、
いつかこの人はコミュニケーションが自分と可能になるんだという信念がないとできないことだと思うんですよね。
うん。
つまり、コミュニケーションの不可能さっていうのは、
大英帝国とインド、ヘレン・ケラーとアンサリバンのような、
全くコミュニケーションが不可能だとみんなが思われているみたいな、
みんなが思っているみたいな状態に、
それを乗り越えようとするときに現れるっていう話を僕は考えていたんですよね。
で、それはさっきのヘーゲルの世界精神において、
その進捗度のように理解度があるっていうような話とはまた別に、
その瞬間、相手を理解するっていうのが、
ゼロイチで現れるんじゃないかなと思っていて、
つまり、ヘレン・ケラーにおけるウォーターのような、
ガンジで言えばイギリスの警察署長がガンジに会いに来るみたいな感じで、
それは100%とか割合ではなく、ゼロイチで現れる。
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相手が突然理解可能な他者として、
理解可能なというかコミュニケーションの可能性がある他者として突然現れる。
突然変わるっていう。
それはヘレン・ケラーにとってアンサリバンがそうだし、
アンサリバンにとってヘレン・ケラーがそうだった。
イギリス人にとってインド人がそうだし、
インド人にとってイギリス人がそうだったって、
双方向に起きるんだけど、
っていうことを僕は考えてました。
なるほど。
うん。
可か不可か、デジタルというかバイナリーというかで突然切り替わったりするっていう。
そうそうそうそう。
理解しました。
で、そうだな。
何がよく分かってなかったのかがちょっと分かった気がするんですけど、
その愛っていうものを割とこう日常的な、
その恋愛とか家族愛とか、
そういうものをイメージして聞いてたんですけど、
うんうん。
よりなんというかな、そもそも
理解をしようとも思わない、
しえるとも、しうるとも思えない人たちと
コミュニケーションを取れるかもしれないみたいに、
もうなんかすごく周辺的というか限界的というか、
そういうケースにおいての話に限ったものっていうふうに解析ですか?
それとも日常的なものも含めてっていうことですか?
日常的なものも含まれる?
うん。
なぜかというと、
日常に存在する他人っていうのは、
基本的にアンサリバンに対するヘレンキラーのように現れているはずだから。
うんうん。
コミュニケーションの不可能な存在として。
で、その人がコミュニケーションが可能であるとみなして話しかけることでしか関係って始まらないから。
なんかあらかじめ可能だな前提で話しかけてるような気もするんですけど。
そうですね。でも、
原理的には確かに、
そもそも脳がお互い別だから同じ、
全く同じ考えには至れないよねみたいな前提はもちろんあるにせよ。
普段のいわゆるコミュニケーションってそこをほぼ意識することなく日常的に行われているような気がして、
その時に、
あんまり愛っていうことを基本的には意識しなさそうだなって思ったんです。
その限界的な事例において、
コミュニケーション不可って思ってた人を、
可に持っていく、
変換する力として愛がありそうだなっていうのを理解したんですけど、
日常においてはあんまりイメージがつかないなっていう感じですね。
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実際にはそれをやっているんだけれども、
ないしは実際に事実上それをやっているんだけれども、
分かっていないので、
危機が起きた時に揉めるんじゃないかなと思ってます。
つまり、コミュニケーションがある程度不可能であるという前提があり、
それでもコミュニケーションの可能性に欠けるんだという前提がないと、
そのコミュニケーションがあらかじめ可能であり、
私はコミュニケーションをするのだという態度だと、
いざ相互理解が不可能になった時に、
みんなクライシス状態になるわけじゃないですか。
相手が悪いとか自分が悪いとか状況が悪いとか言い始めるだけれども、
でもそこの状態でこそ実は我々は頑張らなければいけないし、
そこで頑張るということは、
その日常的な意味で相手にコミュニケーションをし続けるっていう、
相手をコミュニケーション可能な人と思い続けるっていうことの、
実は延長線上にあるんじゃないかなと僕は思っているってことです。
そうですね。
大丈夫ですか?
シャチコパス史上、
最も沈黙がちな回じゃないですか。大丈夫ですか?
こんなにバイブス上がってこない回で大丈夫ですか?
こういう番組なんで大丈夫ですよ。
全然大丈夫です。
その危機的な状況みたいな、
相互不信とか、
そもそも言葉が通じないみたいな例とか、
そこから我々が通常、
日常的にコミュニケーションをしている状態に近づけに行くときに、
愛が必要、みたいなことは。
愛が必要だし、日常生活においては、
コミュニケーション可能だと相手を思い続けているから、
またそれも愛と僕は感じる。
だからそれは本人たちが分かっていないから、
それは愛ではないというふうに僕は排除するわけではなくて、
コミュニケーションは前提的に可能なものであり、
相手をコミュニケーション可能な人として話し続けるっていうのは、
それはそれで愛なんだけれども。
ちょっとどこでつまずいてたのかがよく分かってきましたね。
あの、一般的な
愛、
なんだろうな、恋愛とかの、
とか親子愛とか兄弟愛とか、
まあ割と広い意味で言う愛でも、
拾いきれない概念だなって思ってたんですね、
この説明を聞いたとき。
で、それはなぜなら、
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普段そのようにコミュニケーション不可だって思っているところから
肝に持っていくっていうことを
愛だと思ってないっていうのもあるし、
その愛、そのコミュニケーションが継続している状態を維持するみたいなところに、
そのなんだろうな、背景というか、
ベースとして愛があるんだみたいなふうに、
全く思ってないから、
それを成り立たせている前提の基盤みたいなものが、
愛と呼ばれることに違和感があったっていう、
そんな感じです。
僕は多分それを聞いて、スッと入ってきた理由が、
多分全人類のことをコミュニケーション不可能だと思ってる、
みたいなのがベースにあって、
そのときに、
だからもう分かり合えないし、
もういいやってなりがちな自分が、
そこで分かり合えるかもしれない、
ここまではいけるかもしれないと信じて、
一歩、踏み込むこともあれば、
とどまることもあれば、
排除しない姿勢というか、
その他者を、
こんなことも分からない奴はダメだな、
じゃなくて、なぜこれが伝わらないのかってことを、
一歩、相手の視点で考えてみようとか、
これが分かり合えるかもしれないという可能性に欠けていく、
そのスタンス、愛だなってすごいしっくりきたみたいなところがあったんで、
確かに前提のところが、
分かり合えるよねとかが前提だと、
ちょっとなんか違う、
しっくりこない奴かもしれないですよね。
分かり合えないな、人間って思ってたから、
めっちゃしっくりきたみたいなところがありましたね。
私が疑問に思ってた前提をもうちょっとお話しすると、
分かり合えないと私も思ってるんですよ。
完全に分かり合えることはないっていう前提は共有してたんですけど、
それが解決可能なものだとそもそも思ってない。
分かり合えない状態も含めて、
コミュニケーションが行われてるっていうふうに理解してたんですよ。
そうですね。
だから、コミュニケーションしてるじゃんって、
分かり合えないけどコミュニケーションはしてるじゃんって思ってたんですよ。
でもコミュニケーション可能なのなら、
もう一歩分かり合える、
コミュニケーション可能って言葉があれだな、
もう一歩分かり合える存在とみなすかみなさないかみたいなのがありますよね、
なんて言ったらいいんだろうな、
コミュニケーション可能から、
私の語感ではコミュニケーション可能っていうところから、
分かり合えるみたいな感覚に至る、
もう一歩ハードルの高い、
コミュニケーションが成功したみたいなイメージで捉えると、
理解しやすかったなって、
今の説明を聞いて思いました。
なので、これを聞いてる人は何の話をしてるんだってなってるかもしれません。
だいぶ、私の理解の前提、
どこで食い違ってたのかが、
すごく分かりましたっていう感じですね。
まささんがすごい顔してる。
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いやもう全然何を言ってるかが分からなかったです。
コミュニケーション可能じゃないなって思った。
いや可能じゃなかった。
あれがなかったんじゃないですかね。
わかりません。
ちょっと分かり合えなかったなって。
分かり合えなかったか。残念。
分かり合えると思いましょう。
コミュニケーションを続けていくことが大切。
確かに見直すことが大事だからね。
そうそうできてるかできてないかっていうと、
能力であるとか結果ではなくて、
その過程に意味があるというか、スタンスに意味があるというかね。
そう思うことが愛ってことですよね。
思い続けるっていうか、
歩み寄っていく姿勢ってことですか。
歩み寄る。
歩み寄るもまたちょっとなんか議論が必要な言葉だね。
原理的には不可能っていう前提があり、
とはいえ分かり合えた感が出てくるコミュニケーションもあり、
そういう完全に分かり合うみたいなことはできないんだけど、
分かり合えた感を感じられるコミュニケーションっていうのは存在する。
それを実現できるために頑張ろうって思うのが愛なんだろうみたいな、
そういう段階を分けるとありやすかったなって思いました。
逆もでもあるんですか。
なんか別に愛を出そうとか思ってなくても、
すでに成立してると感じられて、
可能と見なせるなと思って愛をこの人に感じてるってこともあり得るから、
うまくいかないからもう一歩頑張ろうって言って見なそうとする意思の愛もあれば、
状態としてすでに成立していると感じられるから、
この人はこの歴代の可能な他者だと見なすことができるっていう意味で
愛が持てるってのもあるから、2つの愛だったりしますね。
言ってしまえば本人が感じてるかどうか、あんまり関係なさそうな定義ですね。
我々がそのように考えるっていう感じ。
最初この話を聞いたときに、
普段人と話が合わないから、
たまに話がすごく合う人に出会えたら、
その人のことめっちゃ好きってなるみたいなことかなって一瞬思ったんです。
それも入るのかなとは思うんですけど、
想定してたよりスケールがでっかい話。
より全面的に該当する、
一般的に該当するレベルの話をしてるんだなって分かります。
でしょ?
すごい定義思いついたと思ったんですよ。
そうだと思うよ。
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全人類に適応できるやつだと思いますよ。
割と世界平和系だと思いますよ。
ただ、それを人が愛と呼んでくれるかは分からないですね。
まあ、その可能性を信じて生きていきます。
伝われ!
これが定義であるということが伝わるように、
コミュニケーションしていく。
多分全体のところの方が難しいんだと思うんですよね。
そもそも分かり合えない、どこまで言っても
100分分かり合うことなんて無理だよね。
みんな思ってるかもしれないけど、
原理的に分かり合うことは不可能だよね、
みたいな前提に立つことが
結構しっくり来ない人が多い気がする。
コミュニケーション概念と可能っていうところの
原理的に不可能だって言ってる上で、
可能って言ってるのがどういうことなんだっていう話。
どういう事態を可能ってみなっつんだっていうのが
ちょっと分かりにくいかもしれないですね。
これすごく難しいのは、
コミュニケーションと可能と他者とみなすっていう
全ての単語が難しいから。
みんな思い思いのことを想像する。
そうそうそうそう。
だから僕がこの話をして、
あんまり伝わらなかったなって思う時っていうのは、
愛ってコミュニケーションってことなんですねって、
話し合えばいいってことですねっていう反応をされたら、
あ、伝わってねえなって思うんですよ。
それはコミュニケーションの不可能性が伝わってないし、
他者っていうものが自分とは全く別の存在として
この世に存在するっていう。
で、僕たちはそれをどうすることもできない
っていう感覚が伝わってない。
僕たちはその人たちがもうこの世に存在しているということを受け入れ、
コミュニケーションできると
みなさないといけないっていうことですよね。
だって原理的には不可能なんだから、
実際にはできないわけで、
それをみなそうとしないといけないっていう話ですよね。
それでもなお達ですよね。
無理だけれども、それでもなお。
実は不可能なんだけど、そっちの方に近づいていこうとすることをしないといけないっていう意味ですかね。
ぐるぐるぐるぐる回るだけかもしれないんだけど、
どこまで行っても地平線しか見えてこないかもしれないんだけど、
とりあえず進んでみる、みたいな。
つけると、たどり着けると思ってやってみるみたいな。
進んでみるみたいな。
そうだと思います。
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ありがとうございます。
じゃあ、まささんの愛の話を聞きましょうか。
やっぱ難しいなってずっと思ってました。
そうだね。
はい。
リスナーともそうなの。
私の趣味に付き合わせてしまってすいません。
リスナーの皆さんもすいません。
いい会員ありましたね。
適当なこと言ってんな。
そうなんだよな。
そういう伝わらなくていいことは案外伝わっちゃうんだよな。
すごくいい会になったと思うので。
はい。
ぜひまた、もろさんにも来ていただきたいですね。
そうですね。
また呼んでください。
僕がまた呼ばれるためにシャチコパスのリスナーの皆さんは
シャチコパスに応援のメッセージくださいね。
次はハッピーなお便りを用意してお待ちしたいですね。
お便り相談でハッピーなお便りってなんだよな。
そうですね。
犬も好きなんです。猫も好きなんです。みたいなのがいいな。
どっちをもふもふしたらいいと思いますか。みたいなのがいいな。
確かに。
犬とは猫とは、もふもふしたらいいな。
猫も猫も好きなんです。
猫が好きなんです。
ということです 犬とは猫とはモフモフとは
みたいな話になりますか とはみたいな話ですね
両方モフモフしたらいいんじゃない ですかって話をします
ということでゲストで室さん 来ていただきましたありがとうございました
ありがとうございました ありがとうございました
ありがとうございました この番組では皆様からのお
便りをお待ちしております 仕事 恋愛家族のお悩みなど何でも大
歓迎です また番組内のエピソード に対してソリューションをご提案
していただけるとうれしいです それぞれの専用フォームからご
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コンサートでポストしてください それではまた次回お会いしましょう
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