1. ストーリーとしての思想哲学【思想染色】
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2024-06-16 08:15

#74 レヴィ=ストローㇲ4 生ぬるい多様性

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ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。
今回でレヴィストロース編の最終回になります。
最後は文化人類学の観点から、多様性という概念がいかに難しいかを話します。
多様性って言葉がありますよね。
社会一般における理解としては、みんな違ってみんないいみたいな意味合いで受け取られているようです。
もしくはビジネスにおいては、多様性こそがイノベーションの源泉たり得るから、いろいろな視点が得られるから、倫理的にそれが良いというだけではなくて、実際的な利益ももたらすよね、こういうことがよく話されます。
こういった一般的な多様性という概念の理解は、文化人類学的観点からすれば、はっきり言って生ぬるいです。
じゃあ生ぬるくない本物の多様性とは何なんだよっていう話です。
文化人類学では未開社会や先住民族の文化というものを極めてフェアに扱います。
間違っても欧米に比べて劣っているとか遅れているなんてことは言わないし、彼らの文化に対して価値判断を下しません。
ジャッジしないということですね。
日本人がイメージしやすい未開社会や先住民族っていうと、マサイ族とかクビナガ族とか、あとはポリネシアやミクロネシアの少数民族もイメージできますかね。
彼らは彼ら固有の文化を有しています。
で、シンプルな問いなんですが、先進国は彼らの文化に介入するべきだと思いますか?
先住民族って、先進国の国民からしたら遅れた環境で暮らしているわけですけど、国連とかG7が介入して、遅れた文明を根絶して、欧米文化に染め上げるべきだと思いますか?
この問いに賛成する人はほぼゼロだろうと思います。
未開社会には彼ら固有の文化があるわけで、彼らだって共同体に誇りや倫理を持っているし、尊厳ある社会を運営しています。
だから先進国が介入することは、未開社会の人々の尊厳を蹂躙することになるし、その手の同化政策は植民地主義的ですらあります。
植民地主義っていうのは、いわゆるコロニアリズム、帝国主義の帝国がやる尊厳の蹂躙としてめちゃくちゃ批判される行いです。
ここまでは意見が割れることがないだろうから簡単です。
じゃあ次は、先住民族がなんかすごい女性差別的な固有の文化を有していたらどうでしょうか?
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よくあるのが割礼とかね。
もうこの時点で結構半々くらいに割れるんじゃないですかね。
SDGsに照らして、差別のない世界を作るために、そこは先進国が介入して良いって考える人と、
いやあくまで先住民族固有の文化だから、先進国が介入するのは植民地主義的だよと考える人が、もうこの時点で割れると思います。
要はSDGsと多様性ってコンフリクトし得る概念なんですよ。
ここを認識してですね、別にどっち側に立ってもいいんですよ。
どっちが優れているという話じゃなくて倫理学のイシューなわけですが、
正義というものがあるとして、多様性は正義と対立し得るという認識が必要です。
SDGsのような、これを正義と言っていいかちょっとわからないけど、便宜的に正義とします。
SDGsのような正義とパラレルな関係になり得るって、ものすごくシリアスな概念なんですよ、多様性というのは。
ふわっとした優しい概念ではなく、世界をパラレルに捉える複雑かつ深刻な観念なわけです。
世界というのは、一方向的に進化しているわけではなく、360度、自由を無人に進化の枝葉を伸ばしています。
先進諸国のように太い枝を伸ばしているグループもあれば、先住民族のように先進国とは別の方向に細い枝を伸ばしているグループもあります。
文化人類学的には、どっちが優れているというのはありません。
ただ、そうあるというふうに受け入れるのが多様性の需要です。
結構嫌なことを言うようですけど、もう一歩踏み込んでみます。
未開社会をあるがままに受け入れるというのは、たぶんほとんどの人ができるんですよ。
だって物理的に遠いところにあるし、関係ないですから。
それに、なんかすごい武力を持っているわけでもありませんから、長距離弾道ミサイルとかを持っているわけじゃないから、
先進国の脅威足りえないから、優しくあるがまま受け入れることがほとんどの人にできると思います。
一歩踏み込むというのは、じゃあ逆に、物理的に距離が近くて、若干の脅威足り得る場合はどうかって話です。
明らかに有害な場合は、法律に基づいて排除してもいいんですよ。
それが法治国家ですから、適切なデュープロセスに基づく排除は、国民の権利の範囲内だと思います。
では、法律には違反していないが、不愉快な文化というのをどう扱うか、これが最も難しい問題ということになります。
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例えば、東京生まれ東京育ちの都会っ子からしたら、地方とか田舎の文化を受け入れがたいと感じることがあるかもしれません。
何かすごく因失に感じるとか不愉快に感じるという、こういうことって実際、価値観の相違としてあり得ると思います。
でも、なぜそれがあるかっていうと、もしかしたらそれは、進歩的な価値観を持つ人からしたら、遅れた非進歩的な価値観に見えているかもしれません。
でも、なぜその非進歩的な価値観がまだあるのかっていうと、これまで見てきた未開社会にロジックや合理性があるのと同じです。
先進国と未開社会っていう、これほどの強烈なコントラストがないから、直感的につかみづらくなっているとは思うんですけど、構造は一緒ですね。
今の例えだったら、都会と田舎っていうものの対立であったら、そこの都会と田舎っていうものの間にあるコントラストは、そこまで強烈ではないけど、
逆にだからこそ、距離が近いだけに都会の進歩的な文化に染め上げてしまうことがやろうと思えばできてしまいそうだし、距離が近い分、心情的に介入したくなってしまうというのはあると思います。
この構造を把握すると、何か自分が不愉快に感じる文化というのがあったとしても、それに本当に介入してよいのかというふうに捉えることができるから、
そうすると、多様性という概念を本当に解像度高く捉えることができるんじゃないかと思います。
という結構重たい問いを投げかけて、レビストロースの回はここまでです。
また次回もよろしくお願いします。
08:15

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