はい、アートテラー・とにのそろそろ美術の話を。この番組は、私アートテラー・とにがアートに関わる方をゲストにお迎えして、トークを繰り広げるポッドキャスト番組です。
本日は、板橋区立美術館館長松岡希代子さんをゲストにトークをしていきたいと思います。
こんにちは。
どうもよろしく。
お願いします。
こっちから振る前に、改めてよろしくお願いいたします。
こちらこそ。
はい、よろしくお願いいたします。
板橋区立美術館は、エピソード25、26で広中佐徳学芸員さんに出演いただきました。
まだ未視聴の方は、ぜひご視聴ください。
ということで、満を持して板橋区立美術館から2人目の登場ということで、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
いや、でももう長いですもんね、松岡さんと。僕も。
そう、だけど、今朝考えたんだけど、とにさんと座って会話するの初めて。
え、でも長時間結構。
いつも立ってるとか、なんかそんな感じ。
面と向かっては、こう向かい合って、ちゃんとじっくりはないのかもしれないですね。
でも本当に不思議なもので、ありがたい話で板橋区立美術館さんに来て、取材というか展覧会を見させてもらって、その後にその学芸室に行くと、なぜか立ち話がずっと始まりますよね。
そう。というか、ここの館自体の構造が、ちょっとした大きいうちぐらいの規模感でやってるから、来たお客さんはみんな会っちゃうみたいな。
そっかそっか。で、だいたい立ち話しを30分とか1時間とか平気でしてますもんね。
立ち話ししてる間を、人が通り抜けてすいませんとか言いながら、いろんな人たちが出たり入ったりするっていう。
本当そんな感じですよね。
そう。
だから今日改めてちゃんといろんな話を聞けたらと思う。
いやいや、別にもう私話すことなくて、トニーさんも日本中の美術館展覧会見て回ってるから、トニーさんも全然トニーさんの方が詳しい。
そんなことはない。そんなことはないですし。
いやでも、だからやっぱり今回のテーマとしてやっていきたいなと思うのが、
前回広中さんに出演いただいたときには、板橋区立美術館の柱ですよね。
の一つとしてシュルレアリズムがあるという話で、日本のシュルレアリズムの話をしていただいたんですけど、
もうあと二つあるんですよね。江戸美術とそれからもう一つが絵本。
この絵本部門というかのスペシャリストとして松岡さんですし、
この番組で絵本のことを取り上げるのは実は初めてなんですよ。
え!?
5年間やってきて、すみません。リアルな驚きが出たかもしれませんが、そうなんです。
なんと初めてでして、そのあたりを今回はいろいろとお聞きできたらなと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
ちなみにこの番組プロデューサーの家族でも絵本展、たぶんそのあと話出るかもしれない。
タラブックスっていうインドの出版会社の絵本展は来たって言ってましたよ。
ありがとうございます。
そんなのも含めてなんですけれども、そもそもこの板橋区立美術館、
今勝手に僕が説明してしまいましたが、この絵本っていうのをコレクションというか柱にしていくきっかけみたいなのはあったんですか、板橋さん。
そうですね。ここの美術館は1979年にオープンした美術館なんですね。
東京23区ありますけれども、区立美術館として最初にできた美術館。
だから世田谷美術館さんとか練馬区さんよりも先ってことですね。
そうなんです。板橋の次に小棟美術館が。
渋谷区立小棟。
みなさん立派な美術館でやっておられるんですけど、板橋の美術館はなぜか一番最初にできてしまいまして。
なぜかできて。
それはこの東京の街がどういう風に発展してきたかというところとも結構関わっていて、板橋といえば高島平団地っていうのがあります。
マンモス団地ですね。
マンモス団地、1970年代に大きな街が一つできたという。
団地ができたときに板橋区には昔から住んでいる人たちもいるし、団地ができたことによってニューカマーも来るという。
そういう人たちが集えるような文化的に交流できるような場所を作ったらいいんじゃないってアイデアができまして、その一つの流れでこの美術館ができたんです。
そういうことなんですね。でも高島平からもうちょっと離れていって、この場所になった理由はあるんですか?
空いてた?
空いてた。
ここは元々後ろが赤塚城市っていって。
お城があったと。
そうですね。中世の山城。立派なお城ではなくて、お城があったところで。
それであとはここはお堀があったりとかしていて、あまり開発されていなかったんですよね。
そういう意味でも文化的な施設を作って、この赤塚地域を少し活性化させよう。芸術と文化の森構想っていう、そういうものができまして。
昔から住んでいる人と新しく来た人たちが集って、郷土のことを勉強したりするための郷土資料館だったりとか、あと美術館ですとか、そういうものを作っていこうっていう流れがあって。
ちょうどその時の口長さんが、小美術のコレクター。
口長さんのコレクションが。
それはともかくとしてですね、口長さん自体がアートに興味があったんですよ。
好きだったんですか。
好きだったんです。
いろんなところの美術館見に行ったりなんかして。
もちろん上野の博物館とか立派だけど、ああいうのは板橋くんにはできないなって言った時に、小さい美術館見る機会があって。
こういう美術館だったら板橋でもできるかもっていうひらめきがあったものではないかと私は思って。
推測。
推測。
かっこ推測。
っていうのは、ここの美術館ができた時のどうしてできたのかっていうのを、2年前くらいに議会の議事録ですとか、当時の新聞とかでばーっと調べたことがある。
そしたらちょっとそれに近いような、完全なフィクションではないですけど、多少脚色はしておりますが。
で、その区長さんだった人が、お、これは板橋くんは小さい美術館作ったらいいかもしれない。
で、そこで自分が好きな小美術とか、あとは町の人が描いた絵とか飾ったりする美術館作ったらいいなってひらめいて。
それでチャチャっとできたのがこの美術館。
チャチャっと。そんなに簡単にできたわけじゃないと思います。
でもその時の、じゃあ母体美術館できますって言った時に、ただやっぱり箱があってもコレクションがないと進んでいかないじゃないですか。
コレクションゼロからスタートしたんです。
え、じゃあ1979年にオープンした時にはコレクションはどう?
ゼロ。
だから今でいう東京都美術館さんもゼロではないけれども、企画展をやる会場みたいな感じでできたってことですか?
最初は本当にその美術館ってどういうものかっていうイメージもほとんどなくて、
なんかとにかくちょっと飾ったりする場所が欲しいなって感じで作ったんじゃないかと思うんです。
それでここの間、2019年に改装をしてますけれども、
改装する前のことを知ってる人は、入ると大きなロビーがあって、それでロビーに大きな窓があって、
外の緑が見えて、左手にはケースがある小美術飾れる部屋があって、
右手はパネルしかない部屋があって。
そうだったんです、最初は。
それはなぜかというと、区民の人たちが行こうためには大きなロビーが必要。
大きなロビーで緑見ながらみんな行こうって。
左側の部屋に行くと展示ケース、壁付けのケースがある。
そこに掛け軸とか、お宝並べて。
で、左側の部屋はいっぱい飾れるアナーキボードみたいなのがあって、
区民文化祭みたいなものをずっとやるっていう。
その目的のために作ったので、まさに目的にぴったり合わせて、
行えるロビー、お宝飾る小美術のコーナー、
それから区民文化祭でいっぱい展示できる壁面っていう、
その3つのスペースを作ったんです。
どうやってそこからコレクション、今の体制に変わっていくんですか?
そこにはですね、安村俊信というとんでもない人がいまして、
私の先輩ですけど、ここの館の館長をやって、今はいろいろなところで。
今は聖火堂さんでも館長だったり。
そうですね、派手なシャツを着て、いろいろ媒体に出て。
僕もいろいろとお世話になっている方でございますが。
でも最初は、僕が知っている時には、
もう館長を辞められた後に、僕がこの美術館に来るようになったんですけど、
最初は当然館長として入っているわけではないんですか?
いや、20代です。
学芸員としての安村さんの話から。
安村さんは東京都23区初の学芸員。
そうなんですか。
他の都美術館とかはあったけど、
区の職員として、学芸員第1号でした。
そう考えるとすごい人ですね。
それで、安村さん、美術館を作ったら学芸員という人がいるっていうのは、
法律とかにも書いてあるので、博物館法とかにも書いてあるので、
学芸員が必要だと。
で、学芸員ってどうしたらいいのって。
専門試験をやって取るんだっていう風になったんだけど、
でもどうしたらいいか分からないってことで、
とりあえず安村さんの場合は。
ああ、そういうことなんですか。
そうなんですよ。
それで安村さんが来て、
で、ここの館を作っていった。
オープンするのはほぼ直前に。
それを当時20代の学芸員さんがやってたってことですか。
そうです。
安村さんは日本美術の方じゃないですか、今。
安村さんがやって、コレクションも頑張って増やしていって、
日本美術っていうのは何かわかったんですけど。
今回の漢字のテーマ、絵本はどうな。
なぜ絵本に。
本当にコレクションもゼロだし、
高発の美術館で何やって生き残ったらいいか分からない。
しかもその区の方が、
古美術のお宝展と国民文化祭っていうイメージで、
全部予算取りしてたっていうところに、
はい。
全然先にボローニャ展があって、
ボローニャ展をずっとチクチクチクチクやっていて、
ブックフェアの人たちとも交流するようになって、
ブックフェアなので本がいっぱい集まるんですよね。
その集まった本をいろんなところに寄贈するっていうのを、
ボローニャのブックフェアはやっていて、
その寄贈があるって話を私が聞いてきて、
あ、だったらその本をもらって、板橋のちょっとしたブックフェアみたいなのをやったら面白いかもしれないと思って、
当時の商工課っていうところに私が話を持って行ったんですよ。
そしたら、いいかもしれないってことになって、
それでボローニャから本をもらって、
本を並べてやるブックフェア的なイベントをやるってことが始まった。
なんで私が商工課に持って行ったかというと、板橋は印刷産業なんです。
もともと作ってた絵本自体はどうですか?
絵本というか、大きな突販の工場がありまして、
今ちょっと工場がつい先日なくなっちゃったんですけども、
その突販があるっていうことで、製版だったり、あとは製本だったり、
印刷に関わる小さい工場とか、大きな工場もありますけど、
もう集積してて、東京でも有数の印刷産業がある場所だったんです。
なるほど、なるほど。
それを私が知って、これは商工課で何かやるかもしれないと思って話を持って行って、
それでブックフェアから本が集まるようになって、
それがずっとずっと集まってきて、ものすごい量になっちゃって、
今の中央図書館ですね。
最近できました。
ボローニャ絵本館というのがあるんですけども、素晴らしいコレクションになってます。
そう考えると、ボロ儲けどころの話じゃなくなりましたね。
本当に街が変わったぐらいになったんですね、ボローニャ展を入れてから。
ちなみにコレクションとしては、本は今図書館が持っていることになっていますが、
板橋区立美術館としては、コレクションとしてはどういうものを持っていることになるんですか?
絵本関連のコレクションは、実はまだ持っていないんです。
タケイタケオという日本で動画というものを作った人が、実は板橋区の時話題に住んでいて、
動画はあれですね、動く方じゃなくて、わらべの動画。
タケイタケオの本のコレクションというのは持っているんですけれども、
いわゆる絵本関係のコレクションというのはまだ持っていなくて、
それもスタートしようということになって、近々発表します。
おー、皆さんそれは楽しみにしておく。
それで毎年、ボローニア国際絵本原画展、大体夏頃に1ヶ月半ぐらいですか、やりますけれども、
それとは別に、最初にチラッと言ったように、タラブックス、インドの、
だから絵本に関する展覧会もやってはいますよね。
そうですね。
これはいつぐらいから始まったんですか?
それはですね、1996年のレオレオニ展からです。
今回にこれが繋がってきますね。96年。
それもですね、ボローニアが舞台なんですけど、
ボローニアのブックフェアって、いろんな情報が集まってきて、いろんな人たちがやってくる、
4日間の見本市なんですね。
そこでやられるコンクールが、ボローニア国際本原画展ということでやってるんですけれども、
それ以外にも、講演会があったりとかイベントがあったり、
小さい展覧会、大きな展覧会、たくさんあって、
そういうものに私たちずっと参加していた。
そういうのを見ている中で、
ふと日本での展覧会と外国のキュレーターとコラボして、
企画をエクスチェンジしたら面白いかなというアイディアが私の中に生まれまして、
それでボローニアのブックフェアの事務局長、当時のフランチェスカ・フェラーリっていう、
私に大変お世話になった方なんですけど、
フランチェスカに、
いやなんか展覧会作って交換行したらどうかと思うんだけど。
そうしたら誰か紹介してくれない?ってフランチェスカに言ったんですよ。
作家をってことですか?
作家じゃなくてキュレーターを。
企画のエクスチェンジですね。
どっかの美術館でやってる企画を東京でもやり、
板橋でやった展覧会を別のローマだとかイタリアの美術館とかでやったらどうかなと思って。
そしてフランチェスカに誰か紹介してって言ったら、
それだったらパオラ・バッサーリがいいわよって言って、
それでパオラ・バッサーリっていうキュレーターを紹介してくれたんですよ。
それはイタリアの方?
イタリアのローマの人。その場ですぐ電話してくれて。
パオラ・バッサーリって私も名前知ってたんです。
結構面白い本の原画展をいろんなところでやってて、私展覧会は見てたんですよ。
ただ本人には会ったことなくて、
ローマ市がやってるパラ・エクスポっていう大きい美術館があるんですが、
そこの学芸員だっていうことで、パオラに電話してくれて。
すぐ数日後に私ローマに行って、パオラに会った話を聞いたんです。
ちょっと企画のエクスチェンジしたくて。
イナイナイバーのセガを安藤店にやろうと思ってたんです。
セガを安藤店にやるから、そちらでやったのを交換しないって。
そしたらパオラが、私たち今レオン・リオンニの展覧会考えてるのよって言うんですよ。
ものすごくイタリアンアクセントでレオン・リオンニとかって。
正しい発音はそうなんですか?
ちょっと待って、レオン・リオンニ?
それって青君とキロちゃんのレオンニ?って聞いたら、
そうそう青君とキロちゃんの。
えーそうなんだ。
私はレオンニがイタリアの人だと知らなかった。
イタリアの人じゃないんですよ。だけどトスカーナに住んでた半分くらい。
それでパオラ・バスアリーはアンドレア・ラフという2人の企画で、レオンの展覧会をやろうと思って。
一緒にやる人を探してたって言うんですよ。
もう即頂きで。
それでそれは面白い、やるやるってなって。
それで日本に帰って、大急ぎでやれる会場を探して。
企画を一緒にやってくれるところを探して、準備して。
次の年にレオンニさんのところに、トスカーナのアトリエに行って。
作品調査して、その年の11月にレオンニ展をやったんです。
もうこの場所でやったってことですね。
それがこれです、レオンニ展。
レオンニ展の当時の図録が目の前にありますけれども。
名前だけ聞いてもしかしてピンとこない方もいるかもしれないですが。
今一つ出た青くんと黄色ちゃんっていう、絵本で抽象表現で物語を表すっていう画期的なことをやった絵本作家で。
パスポートはアメリカのパスポートを持っている人で。
皆さん一番よく知っているのはスイミー。
僕もそれですね、教科書でスイミーで覚えた人。
あとフレデリックとかね。
ネズミのやつですね。
ネズミのフレデリックとか、ああいう絵本をたくさん描いた人なんですね。
でもこの人はオランダ生まれの方で、ユダヤ圏の方なので亡命してアメリカに行ったアメリカンパスポートになって。
奥様はイタリア人だったりとか、若い頃イタリアで暮らしてたこともあって、
イタリアのトスカーナの美しいところとニューヨークのオーチを半々ぐらい渡り鳥のように行ったり来たりして暮らされた方で、
1910年生まれで、1999年にイタリアで亡くなりました。
でもこの96年展覧会行った時には、ご本人全然いらっしゃった人をお会いしてるってことなんですね。
その時っていうのは、最初に始まる前にボロボロと僕は言ってましたけど、
最近ちょうど僕がたまたまアトレに行ったら、アトレでレオレオニーの造作物があって、
レオレオニー、今用意してもいただいてるんですけど、スイミーのチロルチョコが出たりとかグミが出たりとか、
今レオレオニーが結構当たり前になってるというかですけど、
この96年の時にはちなみにどういう、一般の方ももちろん知ってる感じだったんですか?
皆さん知ってたと思います。やはり絵本としてはすごく有名。
もう当時から人気で。
人気の方でありましたので、レオレオニーというのは人が来ない忌々しい美術館なんですけど、
最終日は1日で2000人以上来ても大変なことになったっていう、ちょっと伝説的な展覧会になりました。
このレオレオニー展の時にはちなみにどういうものが展示されたんですか?
この時もですね、レオニーさんという人は、実はもともとは画家であり、グラフィックデザイナーであり、
アートディレクターであり、彫刻もやりっていう幅広い活動をしている人で、
ほぼリタイアしてから絵本を手掛けたという方なんですね。
なのでこの展覧会ではレオニーさんの絵画、彫刻、いわゆるファインアートと絵本の表現をつなぎ合わせて展示するという、
絵本とファインアートを両方見せるという形の展覧会でした。
要するに絵本の原画だけじゃなくて、芸術家としてのレオさんを取り上げた展覧会。
あとはグラフィックデザイナーとしてのレオニーですとか、絵画のレオニーですとか、彫刻ですとか、写真も撮りましたし、
そういったものを彼の全画業というか、全業績というようなものを見せつつ、
でもそういうものが全て絵本に集約されて表現されているという、モザイクなんかもあるしね。
本当だ、本当だ。
そういうような展覧会としてやりました。
ちなみにスイミーとかそういうのも原画もしていたんですか?
スイミーって実は原画がないんです。
そうなんですか。
いわゆる絵本になった原画は行方不明になっていて、
あれの原画の後からちょっと原画っぽく作ったものがスルバキアの美術館に所蔵されているんですけれども、
よく見ると原画じゃないんです。
絵本とはちょっと違くなっている。
有名な青君と黄色ちゃん、それも実は原画がないんです。
そうなんですか。
なんで有名なのの原画がないという、ちょっとやや苦しいところはあるんですけれども、
レオニーさんのそれ以外のものが来ましたね。
ペチェッティーノですとかね。
この伝説の展覧会が96年に行われて、
今日配信11月9日ですけど、
2024年11月9日からまたレオ・レオニー展が再び始まるということですね。
本当ですよね。再びというか見たびなんですよ。
見たび、なるほど。
そうですね、僕が前見た手の中にもありますね。
2020年に誰も知らないレオ・レオニー展っていう。
あったあった。
もうなんというタイトルでしょうっていう。
誰も知らない、別にレオ・レオニーのことにかかっているわけじゃないですよね。
誰も知らない人っていうことじゃなくて、
レオ・レオニーの知られていない部分にスポッと当たった展覧会ってことですよね。
そうですね。
2020年は。
それはなぜ誰も知らないになったかというと、
2018年からですね、みんなのレオ・レオニー展っていうのをやりまして、
これはレオニーの絵本原画を中心とした展覧会を企画してほしいということを、
朝日新聞さんから頼まれまして、
それで、私ともう一人の森泉あやみという相棒と2人で企画をしたんですけれども、
私たち企画するからには板橋の美術館でも展覧会できないと、
ちょっと動きが取れないっていうことを言いまして、
このみんなのレオ・レオニー展は東京会場がもう決まってたんですね。
これはどちらでやったんでした?
ソンポジャパンでした。
ソンポ美術館でやってましたね。
それでも記録的に入ったんですけれども、
ソンポでやられるんで板橋ではちょっとできないということで、
そしたら一回作品を動かして、
みんなのレオ・レオニー展では絵本原画を中心に、
板橋ではまた違う形の展覧会を組みましょうっていうアイディアが出まして、
それで板橋オンリーで誰も知らないレオ・レオニー展っていうのをやったんですよ。
その時はどちらかというとグラフィック的なものが多くて、
広告とか…
絵本原画もありましたけど、グラフィックとか絵画とか彫刻とかそういったもの、
全体像を見せるっていう同じものなんですけど、
なんでまたこれやったかというと、
レオ・レオニーさんが1999年にお亡くなりになりまして、
それでアトリエにあったものを美術品倉庫、フィリエンチェンの方にある、
そこにご遺族が全部移動したんです。
そこにガーッとエアキャップにくるまれて、大量の作品が置いてありまして、
それを全部調査してもいいって言われました。
最初の96年のレオニー展の時は調査させてもらったんですけど、
まだレオも元気でしたし、
やっぱり作家がいるといいよって言われても、そんなに全部できないじゃないですか。
人の目の前でね、確かに。
そうは言いながらも引き出しガラガラ開けたりしたんですけれども、
やっぱり作家の意向とか聞きながら、
こっちの方がいいですか、みたいな。
多少それがありますよね。
それで展覧会をやったんですけど、
2019年にやったレオニー展の時は、
もうやりたい放題というか、調査し放題で、
フィリエンチェンのちょっと離れたところにある美術品倉庫に通いまして、
もうすごい遠いんですけれども、
何度通ったこと。
そこにですか。
そこにです。
で、もうとにかく隅から隅までチェックを。
全部見ました。
もう全部開けて、良さそうなもの、使えるもの、見たことないものもいっぱいあって、
やっぱり作家が出したくないものとか、出せなかったものとかもあるじゃないですか。
そういうものも全部見て調査して、
その中から私たちが知らなかったレオニーさんというものを見せようということで、
誰も知らないレオレオニー展。
2019年に起こった。
コロナの最中。
コロナになってないじゃないですか、2019年だったら。
この後になっちゃう。
ごめんなさい。
みんなのレオレオニー展は2018年から2年間。
コロナで沖縄の会場はオープンして3日4日で閉まっちゃいました。
誰も知らないは2020年で、まだコロナです。
まだコロナでやるかどうか、会期もいろいろ揺れ動いたんですけど、
他の区でやる予定だったものが全部コロナで流れて、
意外に開いちゃったんで会期長くやったんですよ。
そうでしたね。
10月ぐらいから1月ぐらいまでやったんだっけな、ちょっと忘れちゃった。
10月24日から1月11日まで誰も知らないレオレオニー展。
予約制だったんです。
そうですね、当時。
でもここからあれなんですけど、もうここで誰も知らないレオレオニーもやって、
裏まで出し尽くしたら、もうやることないんじゃないかと思いきや、
今日から始まると何をやるんですか?となると思うんですけど。
それタイトルよく見てほしいんですけど。
レオレオニーと仲間たちって書いてあります。
ここで仲間たちがついたんですね。
そうなんです。
というのはレオレオニーさんのアトリエにあったものを調べてみると、
結構いろんな作家のものを持ってたんです。
コレクションだったんですか?
コレクション、ヴェンシャーのものとか。
ヴェンシャー、アメリカの船の画家と言われる。
あとはアトリエとかにも、モランディの作品があったりとか。
ジョルジョ・モランディですか?
あとはクレーを持ってたりとか。
すごい美術品を持ってたんです。
アーティストとしてすごく影響を受けた有名な作家の作品とかが、
家族が持ってたものがあって。
そういう彼の幼い時の美術体験ですとか、
あとは仲間として1930年代にミライ派の活動をしているんですけれども、
その時に一緒に活動をしていたブルーノ・ムナーリですとか、
スタイン・バウですとか、
アメリカに行ってから憧れたサンディ・カルダーですとか、
そういう人たちとの関係が面白いという気づきがありまして、
それでニューヨークにあるアーカイブを調べたら、
お手紙とかいっぱい出てきたんです。
ただコレクションしてるとかじゃなくて、交流してるってことですか?
交流していたんですけど、その交流も面白くて、
レオーニーさんはヨーロッパで育った人なんですけれども、
亡命してアメリカでアートディレクターになって、
アメリカの広告界にヨーロッパの作家たちの作品をいっぱい紹介してるんですよ。
例えばブルーノ・ムナーリなんかはイタリアの人ですけれども、
ムナーリがアメリカで活動するときは結構助けてるんです。
逆にレオさんがいなかったら、知られてなかったかもしれない。
そこまでは言いませんけれども、モマで展覧会やったりとか、
あとレオが持ってた自分のスペースでムナーリ展覧会やったりもしていますし、
あとは雑誌の企画で、有名なホークとかあるじゃないですか。
ホークのいろんな手のような形になっててみたいな。
あれなんかはレオの雑誌のための企画で、ムナーリさんとレオがニューヨークのレストランで
喋りながら、新しい雑誌作るんで、イタリアっぽい企画なんか考えてよってレオが言って、
ムナーリが、そうだね、ちょっと考えてみるよって言って、
ホークの絵をいっぱい描いてレオのところに送ってきて、それを雑誌に掲載した。
そしたらそれはムナーリさんすごい喜んで、雑誌掲載されたって友達から話聞いたんだけど、
まだ僕のところに届いてないんで早く雑誌送ってよとかって手紙書いてるんですよ。
見本紙送ってくれってやつですね。
見本紙送ってくれって。
その後に、何ヶ月後かに、海から帰ってきたら見本紙が送られてきて、すごい嬉しいよってレオに手紙書いてて、
その雑誌に載ってるの見て、自分も本当のホークを30本買って、火で炙って、ペンチで曲げてみて、
面白いオブジェができたよって書いてるんですよ。
本当に友達ぐらいの感覚での交流ですね。
友達っていうか同じ時期に、年も3歳しか違わないので、1930年代の未来派の時に展覧会一緒に参加したりしていて、
あとセラミックを一緒に作っていて、その時にセラミック作ってる工房なんかでも一緒になったんじゃないかなっていうのが今回の調査でいろいろ見えてきている。
今回は展覧会ではそういうところにスポットを当てて、展示としてはそういうものも展示されるんですか?例えば手紙とかも。
します。
その交流の証になるようなもの、あとはクリスマスカードとかも送ってるんですよ。凝ったクリスマスカードをムナアリさんが。
ブルーのムナアリからレオさんに送ったクリスマスカード。
私たちはレオのアーカイブしか調査していないので、ブルーのムナアリのところにも送ってるはずなんですよ。
お互いに交換するじゃない?年賀状とかと同じで。だけどそっちはわかんない。
ブルーのムナアリから来たものはレオのところにお手紙とか、あとはカードとか来てるんですよ。
ブルーのムナアリだけじゃないけど、いろんな方と交流してたっていうのが、今回の展覧会でよくわかる?
そうですね、しかもその作品が目の前にその図録の見せていただいてます。
モディリアニとかピカソを見てて。
絵を見てやってるじゃなくて、実物を見てやってるんです。
そうそう、壁に掛かってんのをおじさんと一緒に、レオあの絵は誰の絵かなみたいな。
どんな遊びなんすか。それはこんな人が生まれますわみたいな話ですね。
そのおじさんのコレクションっていうのは2000年にクリスティーズで売りたてになったという。
その図録がこれなんですけど、もう有名な作品ばっかりです。これ見ると。
マグリッド。
これおじさんの肖像画マグリッドが書いてある。
本当だ。
アルプだとか、ピカソがあるしね。
ルノワールもありますね。
すごいコレクションなんですよ。
レオは一人っ子で、家の周りにあんまり同世代のお友達がいなかったらしいんですね。
だから子供の時のレオの仲間はおじさんの持ってたシャガールの絵とか。
おじさんたちの絵が彼にとっての子供の時の仲間たち。
だから今回の展覧会ではレオのおじさんのコレクションというものをかなり調査して、
これはおじさんで、こっちは大おじさんのコレクションですね。
大おじさんのアムステルダム一律美術館に。
大おじさんですね。ココシカとか持ってた。
でもこのおじさん同士は母方と父方だから別に仲が良かったとか。
別に連絡が良いって話は聞いてないですね。
それぞれにどっちにも血筋も両方ブレンドされてるし。
そうですね。お父さんはダイヤモンドの仕事をして。
ユダヤ系の方はアムステルダムダイヤモンド産業が盛んでいたのでダイヤモンドの仕事をされて、
その後ビジネスマン会計士になって、いろんな会社の幹部として仕事をされていて。
お母さんはオランダの方なんですけれども、オペラ歌手。
へー。そんなのもう芸術はあるわ。金銭感覚もちゃんと育ってるわね。すごいですね。
そうなんです。
私たち今回3回目で、その前の2回はレオ・レオーニという作家と作家の作品にフォーカスして見てたんですけれども、
でも3回目なので、この作家がどうしてそういう風になったのかとか、
レオというものがどういう風に文化史の中で影響を与えていったのかっていうようなことを見てみたいなと思って、
レオ・レオーニと仲間たちということで、その影響を受けたおじさんたちのコレクションのことですとか、
一緒にお仕事をしたスタイン・バーグですとか、ベン・シャーンとか、ブルー・ノムナーリ。
そしてレオにとっては憧れのサンディ・カルダーという、そういう作家とのやりとりなんかを展覧会の中に入れていくっていう。
そういう作家の作品も来たりはするんですか?
はい、部分的に来ています。
カルダーはさすがに作品はないんですけれども、レオがカルダーの作品を何点も持っていまして、
そうなんですね。
そうなんです。それは持ってくることができないものですけれども、写真で紹介しています。
レオに所蔵のカルダーコレクションということで。
それはどこにあるんですか?
もう売ってしまったものと、息子さんのところにあるのではないかと思われているものとあります。
巨大な鉄の彫刻を持っていました。
カルダー、これカルダーとすごい仲良しで。
モビルで有名なアレクサンダー・カルダーですけれども。
物としてはカルダーから来た絵描きとかカードといったものしかカルダー関係はないんですけれども、
これは私が撮った写真ですけど、レオにさんのトスカーナのお家にカルダーの彫刻。
これはレオさんの自宅?
はい、トスカーナのお家です。
自宅にマイカルダーがこんなにでかいものが庭に置かれていたんですか?
3メートルぐらいあるかな?
これも昔のお家の写真です。
リビングにもモビルが飾ってある。
リビングにもモビルが。これレオギター弾いてますけど、これもトスカーナのお家ですね。
私はこれも見たことがあります。
これはカルダーの初期のモビルで木製でできているモビルで大変貴重なものだったんです。
これは今どこにあるのかわからないんですけど。
展覧会ではこういう資料として?
写真でお見せするしかないんですけれども、こういう感じですね。
いろんなものが展示されますけど、松岡さん的にぜひこれを見てほしいという展示物はあったりしますか?
ブルーノモナリから来たクリスマスカードもお勧めでしたけども。
そうですね。1点と言われるとレオのものですかね。
実は板橋クリス美術館は前回の展覧会をやった後に、レオ日記から長い交流の証ということで、72点の作品の寄贈を受けています。
レオに作品を?
はい、レオに作品を。
最初にコレクションはあまりないと言っていたけど。
絵本原画ではないです。レオの絵画や彫刻やグラフィックデザインの仕事を寄贈を受けておりまして、その中の平行植物の幻想の庭という彫刻があるんですけど。
平行植物というのは絵本で?
書籍で作ったレオが、まったく嘘の植物っぽいようなものを、
さも本当にあるかのように。
さも本当にあるかのように書いた学術書の体で出した本がありまして、
そこからそれと同じテーマで油絵ですとか彫刻ですとか版画ですとか、たくさん作っているんですね。
それの集大成なのが、この幻想の庭という彫刻が。
これはブロンズですかね。
ブロンズ彫刻ですね。
本当に架空の植物がたくさん床から生えているような。
そうです、ランドスケープです。風景になっていて。
これは板橋くる実美術館がご寄贈を受けたものなんですが、今回もこれを展示します。
これは一つレオの世界。
展覧会でも僕も拝見したことあるんですけど、結構でかい作品ですよね。
大きいです。これ大きさ書いてない?
書いてないです。でも結構のサイズの作品が、これも今回出る。
出ます。これはぜひ見ていただきたいなというふうに思います。
でもすごいですね。レオさん展覧会をきっかけにして、板橋に作品が寄贈されるレベルまでの関係性になっているということですよね。
はい、おかげさまで。
それは板橋さんによく僕がちょいちょい来るので、またレオ・レオニーかぐらいに思っていたところはあったんですけど、世界的に見てもすごいことですよね。
そうですね。
こんな世界的な絵本作家の作品がここにあるということですよね。
実はレオ・レオニーさんのアメリカでの展覧会というのは、去年初めてですね。
レオニーさん亡くなってから、絵本原画とそれ以外のファインアートと両方合わせた展覧会というものが行われました。
去年、ようやくアメリカで行われたんですか。
そうですね。
パスポートはアメリカなのに、基礎なのに。
そうなんです。
これがノーマンロックウェル美術館という。
イラストレーターで有名な方ですね。
有名なアメリカの国民的イラストレーターと言われるノーマンロックウェル美術館というのがありまして、そこでレオ・レオニー展が初めて行われて、これは立派な図録ができました。
研究で言うと、やっぱり日本が一番進んでいるかもしれません。
それは、ちなみに最後に今さら聞くのあれですけど、レオさんと96年展覧会にお会いした時の、レオさんと実際に会った時はどんな感じの方でしたか。
私が会った時は、もちろんだいぶお年ではあったんですけれども、日本から来たよっていうのを一緒に行った人が言ってくれたら、すごい嬉しそうに、
ああ、日本か。
僕は、あなたが生まれる前の日本を知ってるよ。
来たことあるんですか、レオさん。
あります。
1954年が最初の来日なんで、まさに私が生まれる前の日本を知っていて。
それで日本の文化ですとか風物、すごく興味を持っていて、3回来日したことがあったので。
松岡聖吾さんと対談もしています。
そうなんですか。
それは間の本という間の間ですね。
工作者から本も出ていて、松岡聖吾とレオ・レオニーの対談という、もちろん絶版ですけれども、
そういう日本というものとのご縁は結構あった方なので、私が日本から来たというだけで喜んでいました。
でもね、すごくお話がたくさんある方で、
私が行く前に紹介してくれたパオラ・バッサリに、レオってどんな人なのって聞いたら、
お話がいっぱい入っている人なのよって言われて、それでまさにそうだった。
会った後に一緒に町のレストランまで車で行って、ご飯を食べに行ったんですね。
歩いていたら下にゴミが落ちて、
杖をついて歩いているんですけど、杖で落ちていたタバコのケースみたいなものだと思うんですけど、
それが水溜りみたいなところに落ちていて、ちょっとライオンの顔みたいに見えたんですよ。
見えたんですね、そのゴミの形が。
そしたらそれを杖でこうやって出してきて、それでワオワオとか言って、来ないんですよ。
みんなが引き返してきて、レオのところに来るのを待ってるんですよね。
ワオワオとか言って、レオなのねみたいな感じ。
ギャグというお茶目な部分もある。
それでレストランに行ったら、ご飯を食べた後にデザートを食べようってことになって、
そしたらお店の人がレオはレオのスペシャルでしょとか言われて、
じゃあスペシャルでお願いしますとか言ったら、
アイスクリームにちょっとネズミちゃんの顔が描いてあるみたいな。
向こうが描いて持ってくるんですか?
そうそう。レオスペシャルです。
そういうかわいいのが結構。
だからもう町の人の中でも有名というか。
小さな町なんですけど、そういうのを喜んだりとかして。
でもなんかそう聞くと本当に僕らが子供の時にレオレオニの絵本で読んだ世界観そのままの人なんだなっていうのは今聞いて思いました。
でもものすごく教養の深い、いろんな人たちとイタリア、アメリカ、ヨーロッパを代表するような文化人の人たちと交流のあるそういう人でしたね。
例えばセーターとかもミッソーニとか友達で。
ミッソーニって誰ですか?
ミッソーニってファッションブランドで、ミッソーニのセーターとかって結構有名です。
ああそうなんですね。その人との交流があったんですね。
ミッソーニのセーターとかみんなミッソーニのセーターとか来てるし。
へー。
そうそう。オリベッティの社長さんとかみんな知り合いだし。
タイプライターで有名な。
そういう交流は広かったですね。
芸術家だけの交流じゃなくて、そっちも交流してたけどっていうことですね。
今回の展覧会、そろそろ前半のお時間がやってきましたので、改めてぜひ告知をいいですか、最後に。
はい。
この交流がわかる展覧会ということでございます。松岡さんよろしくお願いします。