1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #21 ブッダの言葉を東洋哲学と..
2022-07-06 27:23

#21 ブッダの言葉を東洋哲学として味わう

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


【内容】ブッダが語った話/四諦説/スッタニパータ/真理への執着はNG/毒矢の話/サイの角の話/言葉の重心/受け手の姿勢/東洋哲学の土台/次のテーマはナーガールジュナ(龍樹)/空を知る意義/


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(BGM)
はい、それ鉄大寺を今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も引き続きブッダの話ということなんですけれども、
この前までブッダの出自だったりとか、ブッダの伝説的な話とか色々聞いてきましたけれども、
ついにやっとブッダの東洋哲学的な話、多分今回ブッダは最終回になると思うんですけども、
最終回でやっとそのあたりの哲学的な話をちゃんと聞けるのかなというところで、
今日もよろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
そうですね、言ってくれた通り、やっと今日ね、本当にお伝えしたかったのは、
ブッダが実際に何を説いたのかというか、話していたのかというところを伝えていこうと思うんだけれども、
逆に言うと、具体的な仏教の教えとして、こういう説があるとか、いわゆる演技説がどうとか、
優位識がどうとか、優位識とかはブッダより全然後の時代なんだけど、
そういうのはあんまり組み込まずにいこうかなと思ってます。
あくまでブッダその人が言った言葉ってこと。
そうだね。
ただその前提として、前回もブッダがいろんな若い頃は、すごい華やかなというか、いわゆる王族としての生活をしていたところに、
いろんな苦しみというのを知って出家したみたいな話をしたけれども、やっぱりすごく今回取り上げるスッタニパータっていう本があって、
これが結構古い仏教の中でも最古に一通りであろうっていう本なんだけれども、
その中でやっぱりブッダがいろんなことを話してるんだけれども、特に力が栄えてるというか、そういうふうに僕は感じるのか、
いわゆる人間存在と苦しみの関係みたいなことをすごく解いていきますと。
もっと言うと、どうしたら苦しみ、それこそ老いもそうだし、病気とかもそうだけれども、そういうのから逃れられるんだろうっていうことを考えたときに、
結構この辺りは哲学っぽいんだけど、やっぱり分解では解像度を上げていくんだよね。
そこは適当にじゃなくて、ちゃんと自分なりの能力を組み立てながら苦しみとは何か、それから逃れるためにはないか、みたいな感じで組み立てるんだ。
そういうこと。だってさ、苦しい、よし、酒飲んで忘れようとかって、残らないじゃん、2500年も。
そこがね、いわゆる普通の人と、ブッダと呼ばれるような、すごい人との違いなんだけれども、何を考えるかっていうと、
これも4つで、いわゆる死体説、4つの、漢字で言うと4つの諦めるの説で、死体説っていう、別に何かを諦めてるわけじゃないんだけど、
03:00
って言われるのがあるんですけど、まず1つ目が苦しみとは何か、2つ目が苦しみの原因とは何か、
で、苦しみのない理想の境地とはどんなものか、そこに至るための修行とは何か、っていう4つを説くのね。
おー、すごい、めちゃくちゃなんか、あれだね、わかりやすいプレゼンみたいな感じだね。
そうそうそう、そうなの、現在地があってギャップが、理想と現実があってギャップがあってそこを埋めるみたいな。
そうね、そもそもその苦しみとは何かを定義して、それがなぜ生じるのか、みたいなのがすごいね。
だからすごくロジカルというか、順を追っていくと、わかるわかるってなるのもやっぱり仏教のおもしろさとか、ブッダの話のおもしろさ。
それがスッタニパータっていうふうに、そういうふうな形で書かれてるのかな。
実は書かれ方としてはそこまで論理的ではなくて、語ったこととか伝えることみたいになっていくので、
で、早速実際にスッタニパータでどんなふうに喋ってるかっていうのを見ていただきたいんだけれども、
結構長くなっちゃうので、ちょっと僕が今日ピックアップしてきたのが、いわゆる冒頭させた通り、
仏教とかブッダが出家した時代って、いろんなバラモン教の人たちとかがいる中でいろんな説がいっぱい出てきてましたと。
はいはい、そのブッダだけじゃなくて、他の人も自分なりのバラモン教からちょっと抜け出たような、
自分なりの思想みたいなものを求めていた時代って感じなのかな。
そういうこと、そういうこと。で、それぞれが自分の考えだとか、これが真理だみたいなことを言っているという状態に対して、
ブッダが結構ちょっと批判的に喋ってる言葉があるんで、ちょっといくつか読んでみるね。
ここからがその本の内容なんだけど、世の学者たちは命名の見解、それぞれの説とかに固執して、
互いに異なった習見、いわゆる妄想とか誤った考え方、執着だね、その意見に執着していて、
自分は真理への熟達者であると称して様々に論じてますと。
彼らは自分の語るように言ってることを知る人は真理を知っていて、それを非難する人はまだ不完全な人であるみたいに言ってるじゃんと。
で、ブッダは彼らはこのように異なった、その執着した意見っていうのを持って論争していて、論的は愚か者であって真理に達した人ではないっていう。
で、これらの人々はみんな自分こそ真理に達した人であるって言うんだけど、果たしてこれらのうちの人でどの説が真実なんであろうかみたいな問いを立てますと。
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おー、ブッダはそういうふうに問いを問うてると、まずその時代を問うてるんだね。
へー。
なるほど。ちょっとあれだね、ソクラテスの時代と重なりそうな気もするよね。いろんな哲学者がいろんな説を唱えてて、あなたたちは本当に知ってるんですか?みたいなのを勝手に重ねちゃう。
そうそう。でも多分ね、やっぱりそういう時代背景とかそういう雰囲気がなんとなく感じられると思うんだけど。
で、結局それともいろんな話が続くんだけど、要は真理って当然一つのもの。その一つしかない唯一のものが真理って言われるわけだから、代理のものは存在しないよねと。
そうだね、みんなが真理を問うててその内容が違ったとしたら誰かが間違ってるってことになるんですよね。
そうそう。かつ、その真理を知った人は争うことがないよねって言いますと。なぜなら別に他の人のことをけなして自分こそが真理だって言う必要がない。本当に真理ってものを知っているなら。
だから彼らはそれぞれ異なった真理を褒めたたいて争っているから、そうやって自分の説に固執している人っていうのは本当は真理を知らない人なんだよ、みたいなことを言いますと。
で、世の中にはいろんな真理が存在してるんじゃなくて、ただそれが永久のものだって想像してるだけだ。要はそれが本当真理だって思ってるだけ。
だからそれ自体が誤った見方とか、その執着とか、あるいはちょっと傲慢さ?みたいなものなんだよと。
なので他の人の説を愚かであるとか、不条の教え、要は清らかではない教えって言うんだったら、その時点でその人は自分の意見に固執している、本当は真理を知らない人であるって言います。
(ヤンヤン)おー、すげー、これ2500年前くらいに本人が言ってたであろうって言葉だもんね。
(深井)そうそう。 (ヤンヤン)わー、何も言えないよね。何も反論できないのかこれ。
(深井)そうなんだよね。みたいなことを言います。だから結構ブッダ自身は、仏教っていうものすら、一つの教えというか真理の教えなんだけれども、別にじゃあ仏教が一番正しいみたいなことを言うことはないし。
(ヤンヤン)あー、そうなんだ。そういう風な話をして、だから自分が正しいっていう風には持っていかないんだ。
(深井)持っていかない。ただそうだよねっていう風に言って、そうですねってなるっていう。だってもしブッダがそう言って、だからあの人たちは間違っていて、仏教の私の言葉だけは正しいんだって言ったら、そうやって自分の考えで固執しちゃってるから。
(ヤンヤン)うん、うん。その自分が言ったことを、まあブーメランって話なんですよ、こそね。自分言ったじゃんみたいなね。矛盾してるもんね。はいはい。
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(深井)矛盾しちゃってるんで、あらゆるこだわりとか、見たこと学んだこと、考えたこととかはこだわらないし、戒律とか道徳とかっていうことも、本当はこだわっちゃいけないんだ、ぐらいに徹底しますと。
(ヤンヤン)うーん、なるほどね。安っぽいけど無知のうちみたいなね、無理やりちょっとね、今知っている哲学、たとえみたいなのを当てはめてるっていうの。
(深井)うん、まあそうそう。でも本当そうで、でもこれが、いわゆるただ考えた人とか、ただ普通に人が生きてた人が言うのと、やっぱり6年間なら6年間、いろんな苦行をして、
自分自身こんだけ考えた、やった、やり切ったっていう人が、いやこだわらないんだよっていうのって、やっぱり説得力というか、言葉の重みって違うなって思うんだよね。
(ヤンヤン)まあそうだね、だし、もともとの執事もやっぱりちょっと特殊だしね、前回ちょっとめっちゃ興奮したけど。
(深井)そうそうそう、やっぱりね、王様として生まれてっていう、だからそういう王様として生まれたみたいなものにももちろんこだわらないっていうのもあるし、だからそういう言葉をね、ちょっと取り上げただけでも、どう?今のなんか聞いて。
(ヤンヤン)やっぱりそうだね、これがこのレベルの言葉がずっと並んでるって考えると、すごいね、一人名言集みたいな感じがするし、あとなんか、せっかくなんか最初に死体説だっけか、4つのアキラメの説、その順次に苦しみとは何か、その原因とは何か、でなんだっけ。
(深井)理想の境地、苦しみのない状態とはどういうものか、そこに至るための修行とはどうか。
(ヤンヤン)そうだね、そうだそうだ、うたり近所はどうすんの?みたいなところまで含めてみたいな話があったんだけど、なんかそれぞれにピッタリの話とかってあったりするの?せっかくだから。
(深井)ある、あるけど、長くなるし、また死体説だけじゃなくて発症度っていう、要はそれを補うところまで触れないと多分ちゃんと伝わらないと思うので。
(ヤンヤン)じゃあさっきの死体説を教えて、それで苦しみとは何かわかって、それに対する解決策もわかるだろうから、みたいな、教えてくださいとかって、やっぱり言うと、うたりにはなんだこいつ、みたいな、わかってないやつだな、みたいなふうに思われて、ちょっと足りられちゃうのかな、こんな教えてくんは帰れ、みたいな。
(深井)そうそう、それでね、教えてみたいな人に対してこんなふうに言ったよって、まさにお話があるんだけど、多分ちょっと後の話なんだけど、なんかブッダはいろんなことを答えるんだけれども、答えないとか、あえてかわすっていうことも結構するのね。
(ヤンヤン)例えば、あるブッダの弟子がブッダに尋ねましたと、如来だから仏のなった人、要はその輪廻を越えても下達した人がもし死んだとしたらその後ってどうなるんですかっていうのを聞いたのね。
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(深井)要は、人間は死んだらまた輪廻をして生まれてくる、生まれ変わるとかって言うけど、じゃあ仏になってさらに死んだらどうなるの、みたいなことを聞きますと。 (ヤンヤン)あー、そっか、その輪廻から下達したからその先はあるの、みたいな話か。
(深井)で、それにブッダは特に答えないのね。その代わりに、毒矢の例えっていうちょっと有名な例えがあって、それを話すんだけど、ある人が毒矢で射られて、毒が体に回ろうとしてますと。
で、みんな驚いて、やばい助けなきゃって抜こうとするんだけど、そのいられた人が、ちょっと待って待って、この矢ってどっから飛んできたんだろう、矢を撃ったのって男かな女かな、この毒の成分ってなんだろう、とかって言って、それが分かったらじゃあ抜こうって調べてるうちに死んじゃったんだよね、みたいな話をしますと。
つまり、まだ僕らは人間で仏にも慣れてないとか、なろうとしてないのに、仏になったらとか、なった後にその死はとかって考えてるのって意味あるの?って。
(ヤンヤン)なかなか強烈だね、だけどその通りだね、ほんと。 (深井)そんな質問してる暇あるの?みたいなことを、たぶんちゃんと分からせようとして、こういう例え話をするのね。
(ヤンヤン)ほんと謝るしかないな、すみませんでした。修行励みます。 (深井)そうそう。
それは、自分が使えるとか仏になるとか、要はその道に近づくっていうのと関係ない問い、ケロンっていう戯れの論みたいなことがあるんだけど、例えば他にもいくつかあると言われて、それこそ時間は無限なのか有限なのかとか、私は存在しているのか存在していないのかとか、そういういろんな質問とか疑問って浮かぶと思うんだけど、
それって意味あるの?っていうのを普通に言うんだよね。まあ普通に言うというか、それにちゃんと返してあげるんだよね。 (ヤンヤン)へー、そっか。そこはある意味単なる思考ゲームみたいなのだったりとか、考えることを楽しむみたいな、そこにそっちに行くなよみたいな、あくまで俺たちは生きてる人間なんだからみたいな、そこにはこう、仏陀の吟味観というか、そういうのはちょっと含まれてそうで、それもまた興味深い感じするね。
だいぶ含まれてて、だからこそ多分、仏教は宗教になったし、実践とか生活に根付くものになったんだと思うんだよね。 (深井)はいはい、そっかそっか。そこはある程度仏陀は意図してたんだね。ちゃんと人々を苦しみから救うっていう先の主体説みたいな話で。そこと関係ないじゃんっていう。
だからそれは、頭とか知識だけでやっぱり難しくって、ちゃんと行動とか活動と紐づいてなきゃいけないっていうのはすごく大事にしてたと思う。
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(ヤンヤン)なるほどね。ちょっと怒り方というか、その仕掛け方も宣伝してるね。お前みたいな素人が何聞いてんじゃいみたいな話じゃなくて、黙って手を動かせやとか言われるんじゃなくて、いや、毒やの話なんだけどさみたいな。なんも言えないよね。
(深井)そうなんだよね。もちろんね、これはちょっと後の話だから、ある程度は編集されてるものだと思うけれども、でもこれもストーリーとしてすごくわかりやすいじゃない。
(ヤンヤン)そうだね。 (深井)そう。みたいなことがあるんで、仏陀っていうのはやっぱり真摯に向き合ったし、悟りを得るとか苦しみを解決するっていうところに、かなりフォーカスしてた人だなっていうのはすごく言えるなと思ってます。
(ヤンヤン)はいはい、なるほど。すみませんでした。なんか近道しようとして。 (深井)そうそう。すごくそれは大事だなと思うんだけど。やっぱりそういう、なんだろうな、とにかく悟りを得るんだったら、やっぱりそこに集中すべきだし、そのためにはこだわらない。
自分が学んだこととか、これが真理だと思ったことにすらこだわらないみたいなことっていうのは結構、僕はその仏陀の特教えの真摯じゃないかなと思うんだけど、同じくスッタニパータっていう本の中に、サイの角っていう比喩があるのね。
どういうことかっていうと、サイの角って、鹿とかみたいにぐにゃぐにゃも曲がってないし、象みたいに牙みたいに複数本あるわけじゃない。要は一本すくっと真っ直ぐ立ってるみたいなものと思うんだけど、そんな感じで、サイの角のようにただ一人歩めみたいな言葉を、
40個ぐらい並べて、サイの角のように歩めっていうのをめちゃめちゃ繰り返してるところがあるんだけど、例えば一個取り上げると、さっきのいろんな論争してる人がいるよねみたいな話に近いような感じで、
例えば愛争う哲学的見解を超えて、悟りに至る決定に達して満ちわれている人が、我が知恵が生じた、もはや他の人に指導される必要がないと知って、サイの角のようにただ一人歩めみたいな言葉がありますと。
(岡田)なるほど、具体的な解釈みたいなものを40個ぐらいババーッと教えてくれてると。 (深井)結局、人と交わるとか、世の中にふわふわ漂うんじゃなくて、サイの角のように真っ直ぐ自分というのを確立して、堂々と歩きなさいよというようなことを言っていると。
例えば、集会、人との交わりを楽しむ人っていうのは、いわゆる下達に至るべき理由がないと。太陽の末裔っていわゆるブッダ王族としてのブッダの言葉を心がけて、サイの角のようにただ一人歩めみたいなことを言っていて。
だからやっぱり、あくまでも、これは宗教的な話になるけれども、例えばキリスト教だとキリストという神がいて、人間がちょっとしたというか、教えを受けて、上下の関係ってあると思うんだけど、あくまでもブッダと仏教を学ぼうとする人は対等なんだよね。
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福井:なるほどね。対等なんだ。でも今の話を聞いて面白いと思ったのは、一応太陽の末裔の言葉を心がけて、これってちょっと太陽の末裔っていうのがブッダのことで、いわゆる王族ってことって今話したよね。
一応そこは権威、王様が言うんだから、多分これは人によるんだろうけどね。相手が同じ王族だったらこんな言葉は使わないだろうし、いわゆる当時の教育レベルだったり教養レベルみたいなものを考えたときに、
例えば一般農民とか、もうちょっとした改造とかってあったとすれば、そういう人たちに心から納得させるっていう言葉を選ぶとすると、人によってはこういう太陽の末裔みたいな言葉を選んだときもあるみたいな、そういう感じなのかな。
これもね、ブッダ持ち上げすぎ説があるかもしれないけど、その対等さみたいなものも、あんまそこを深掘りするのは野望かもしれないけどね。
そこはあんまり、あんまりあってないと思った方がいいと思っていて、なぜかっていうとブッダの言葉を真に受けろとは言ってないんだよね。
あくまでも心がける、なので、仏教の中に、松明、要は灯火みたいな考え方があるんだけど、真っ暗な中、あちこちさまようっていうのはすごく危険だし無駄が多いじゃない。
でも仏の言葉とか、仏教の経典の言葉を松明、自分の中の灯火として、その光を頼りに自分で歩んでいこうみたいな考え方があるのね。
だからあくまでもブッダの言葉っていうのは、自分がそれを頼りにする松明とか灯火であって、それ、ブッダの言葉自体がたどり着くべき道ではないんだよね。伝わる?
なるほど、そっかそっか。うん、わかるわかる。今のでいうと、さっき太陽の末裔、つまり私ブッダの言葉を心がけてっていうのの重心がどこにあるのかっていうと、あくまでこの太陽の末裔が言った、そっちじゃなくて、私が今こうやって君に話しているこの言葉っていうものを松明として、
私が何者かとかどうでもいいから、この言葉にもし感銘したとしたら、その言葉を頼りにそれを松明としてそっちの方向に頑張って一人でというか、感銘ながら歩んでいくというような重心のかけ方みたいな話だろうかな。
多分それが人によって、相手によって伝わる、さっきの毒屋の話とかもそうだけど、本当、多分最初の方にハヤットが言ってくれたと思うけど、かなりその、もうワンオーワンのコンサルぐらいの感じで、
21:01
人によって多分言い方だったり伝え方だったり、人によっては多分さっきの毒屋の話したり、ある程度理解している人にはもっと直接的に言いたりとかしてたとすると、
多分めちゃくちゃ相手によって言葉、一番伝わる言葉を選んでやってるんで、それをちゃんと重心をそっちにかけてっていう風に捉えると、すごく納得がすごいした。
だからやっぱりその、面白いのはやっぱり、西洋哲学とかはわりとロジックがしっかり知ってるとかしようとするので、特に近代とか現代に近づけば近づくほど、ある程度誰が読んでもそうだよねっていう頭の理解ができるんだけど、
やっぱり仏教は、読み手とか受け手がちゃんと開いてないと、要は正しい理解っていうのは仏陀の側じゃなくて、自分の側にあるから、
結局自分をちゃんと開いてないと、なんかこんなのどっかで聞いたことあるよとか、こんなの誰でも言えんじゃねえかみたいなことにも捉えられてしまう。
そういう言葉って難しいし、やっぱりその当時の時代というか、何を言おうとしてこの言葉を言ったのかっていうのはやっぱり理解しないと、本当の意味とか文脈がやっぱり理解できないよねっていう。
そこもそうだね、なんか今回仏陀の最終回にして、東洋哲学的な話が今初めて聞いてるけれども、ここにてやっと西洋哲学の求めるというか、その方向、
たぶん同じように真理みたいなものを追求するとした時の、ちょっとこの手段的な部分のちょっとした差みたいなのが見えてきたような気もする。
そうだね、ぜひぜひ。
感想回とかでちょっと話せればと思うけど。
みたいな感じでね、今日はその仏陀のマスッタニパータっていう本をちょっと、本当にごくごく一部だけれども、取り上げてちょっと話してみていただいたんだけれども、
やっぱりこのソクラテスと一緒で、なんとなく無知の知とか、そういう言葉で知るのと、実際リュシスみたいに、ソクラテスはこういうふうに問答したよとか、
こんなふうに問いかけながら話を広げていったよみたいなことと、同じように仏陀もこんなことを話してたよとか、
あるいは仏になってその後死んだらどうなるのっていうのには、独りの例えを用いて答えたよみたいな、
そんなことを知るだけでもすごく膨らんでいくというか、なんか面白い部分が伝わるんじゃないかなっていうのを思ってて。
本当それ感じたね。今回なんか仏教の話じゃないんだ、仏陀の喋った言葉なんだっていう、そこの違いすらもちょっと分からなかったけど、
こうやって聞くと、めっちゃやっぱり、まどないだったりとか、そこに通ずるんだなって。
それを感じてもらえたら本当によかったなっていうところで。
私のタイプは本当読みやすい本で、いわなみから出てるんだけど、もしこれ持っていただいたらぜひ読んでくれたら、
24:02
聞いてる方もツイートっていただけたら嬉しいなと思います。絶対多分図書館とかにあると思うんで。買っても高くないし。
という感じでした。
次回、仏陀の話をしてきたところの感想回と、またちょっとこれは予告になるんだけれども、仏陀の次はどうしようかなって、
やっぱり改めて思ってたんだけれども、前もちょっと言ったかもしれないけれども、いわゆる仏陀のまた死後さらに500年ぐらい経った後に、
仏陀もまたいろいろ分裂していきますと、兄貴が言ってくれたその小乗仏教とか大乗仏教、その大乗仏教の考え方の基本を作ったと言われるナーガールジュナ、リュージュっていう人がいるんだけれども、
その人が説いている空の考え方っていうのをちょっと学びに行きたい。ちょっとこれは難易度上がると思ってるんだけれども、
でもそれが理解できるというか、ちょっと感じられると、多分その後の西洋哲学とか、もしかしたらそもそもキリスト教の神とは何かとか、
そういうことも結構同じレイヤーで考えられるようになるんじゃないかなって改めて思ったんだね。
なるほど。それこそ今後西洋哲学みたいなものを古代から離れて近代とかに向かっていく、近代と古代をつなぐ間の暗黒時代としてのキリスト教みたいな、
そういうその時の哲学みたいなのがあった時に、やっぱりそもそも哲学、ラジオではあるけれども、そういったキリスト教だったり、そこと結びついた哲学っていうのは、
多分今後のテーマにはなってくるっていうことなのかな。
どこまでいっても、神という言葉で表現される、いわゆる真理、そこでイディアみたいなものとか、この世界の背後にある確実なものとか働きとかってあるよね、みたいなことが結構哲学の根底にあったりするから、
それが「なくね?」って言ってる空を知ることは結構面白いんだよね。
そこがあるってしてるとことないっていうとこの比較が、ちょっとできるようになるかなみたいな。
わかるかは妙拙。
だいぶ分かりやすいというか、僕なりに理解したことを持っていきたいとは思ってるんだけれども、それを得ながら、この鉄ラジオっていうのもさらに第二ステージというか古代っていうのを経て、さらに近代というか、より時代を現代に近づけていくみたいなことができたら、それはとても楽しいなと思ってます。
古代西洋とこの東洋の土台をある程度理解したつもりになるというか、ちょっと固めて、そこからまたいろんなことが広がっていくっていうのはすごく楽しそうな気もするし。
という感じで、仏陀会というか、一旦今日はその仏陀の言葉をお伝えさせていただきましたということで、また次回、兄貴もいろんなことを感じたと思うから、またちょっと感想を聞かせてもらえればと思います。
27:08
また次回、よろしくお願いします。
はい、お疲れ様でした。ありがとうございました。
♪~
27:23

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