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はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回はアスカナラ時代というところで見てきたんですけれども、
うちらが知っている、いわゆるその歴史上の日本の始まりみたいな感じで、
しかもそれがね、結構こう、日本にとってはすごい転換期だったんですよね。
その辺がすごい面白かった、なんか全然知らなかった。
意外と教科書だけだとそこまでやらないとか、そんなインパクトがある時代じゃない。
なんかやっぱ平安時代の方がちょっと手厚い感じがあるじゃない。
その手前の一時代とかって思ったんだけど、やっぱり僕も全然知られてるから違ったなっていう印象なんですけど、
前回はちょっと異星者というか天皇みたいな話をしたんで、
天皇のお膝元である平城郷だよね、都で、
人々がどんな風に暮らしたの?それとも働いたの?みたいなところを見ていきたいなと思ってるんですよ。
そのものはやっぱりないというか、あんまり出てこないんだけど、
当時の暮らしぶりとか、そんな風に働いてるというところを見ることで、
きっとこんな感じだったんだろうなと思っていると、今の我々とそんなに変わらないと思っていることとかね。
そういうのがあるんで、その辺をぜひ一緒に見ていこうと思っているんですけど、
ここで最初いきなり問題なんですけど、平城郷、今の奈良にあるんですけど、
当時どのぐらいの人が住んでたと思われるでしょうか?という質問で。
前回、当時の日本で500万人って言ってたよね?
言ってました。
そこの首都だから、広さもわかんないな。200万人ぐらい?
多いな。広さはだいたい5キロ四方ぐらいで、わかりにくいんだけど、ディズニーランド49個分だって。
じゃあ50万人ぐらいかな。
なるほどね。実はって話なんですけど、これも明確に何人というものがあるわけじゃないんだけど、
一応推定としては7から10万人ぐらいで言われてますよ。
50万とかよりは全然少ないね。
全国500万から考えると、そんなにめちゃくちゃ一極集中みたいな感じでもないんだ。
そうそうそう。確かに結構いろんな人が住んでたよって話のようなんだけど、
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10万ってどのぐらいって言わせることをあんまりご存知じゃない方もいると思うんですけど、
花巻市とか、森岡、花巻空港は花巻市とか、北上市とかがだいたい10万人前後ぐらいなんですよね。
ふーん。
ふーんって言って、住んでたでしょ。
住んでた住んでた。森岡で30万人だね。
そうね。森岡30万ぐらいなんで、そのぐらいの都市というか地方の市ぐらいの規模感。
ただ広さ的には全然狭いので、いわゆる人口密度だけを考えると今の大阪ぐらい、結構賑わったんじゃないかって言われてるんですよね。
あーなるほど。広さで考えるとね。
そうそう広さで考えると。
なるほどなるほど。
そんな感じの都会。当然当時は日本一の都会なわけなんですけど、
当然働くって言っても、いわゆるいろんな職人、家を直しますとか、馬とか動物育てますとか世話しますとかそういう人ももちろんいれば、警戒みたいな人もいて、
いろんな仕事もあるし、当然前回仏教って話をしたと思うんですけど、僧侶みたいな人も住んでるわけなんですよね。
もちろんいろんな人がいるんだけれども、今回取り上げたいなと思っているのが、いわゆる平城京、もっと言うと天皇が住んでる平城宮っていう宮殿っていうか建物の中で見預かりをする役人の人たちを取り上げていきましょうと。
もちろんプライの高い低いというのが同じ役人とか貴族みたいなところでもあって、
上級、中級、下級というふうに分けたときに、上級貴族みたいな人、それこそ僕らが想像する広い邸宅を持ってて、
召使いもいっぱいいて、いわゆるザ貴族みたいな人たちっていうのは、実は法律というか、3人とは決まってて、これが100人ぐらいなんだって。
10万分の100だから、割合的に言うと0.1%ぐらいか。でもやっぱ少ないよね。
それ以下の中級役人という人が650人で、その下の下級役人、いわゆる平社員的な人でいくと、それが1万人ぐらいいたんだって。
平社員多いな。
やっぱり都で働く宮塚家ですとか、役人ですとかって言うと、聞こえはいいんだけれども、かなり義務で、結構逃げ出しちゃうとか、そういう人も多かったんだって。
だから1万人って、この部分だね、たぶんめっちゃ強いのは。
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補填みたいな。
やっぱり、いわゆる役人とはいえ、中級役人になると、平城郷の端っこのほうの小さいお家。
一応ね、お家とか食べ物が与えられるって意味では、当然その日暮らしの農民とかではいいのかもしれないけど、やっぱりつらい生活だったことが変わりなかったよっていう話で残ってるんだよね。
へー、なるほど。税金で食べてるけれども、仕事はもちろんつらいよっていう話だね。
そうそうそう。そうなんです。
どんなふうに1日を過ごしてたんですかっていう話なんだけれども、
当時ね、いわゆる出勤退勤っていうのがもちろんあるわけですよ。
平城郷天皇さんのとこに行って帰ってくるようになるんだけど、
これがね、だいたいその夜明けとともに出勤するのが基本だったんだって。
そう、だと夏とか5時ぐらいなんですよ。
5時に平城郷におはようございますって行くんだけど、
さっき言った通り、下級役人は平城郷の隅っこにお家があるわけよ。
ほうほうほう。
だいたい3から4キロぐらい距離があるわけよね。
はー、はーはーはー。
4キロ歩こうと思ったら1時間かかるじゃん、普通に今考えても。
そうだね、ほうほうほう。
なので、4時には家を出なきゃいけないんですよ。
わー、結構なあれだね、中勤時間。
そう、だから超朝方。
で、4時には家を出て1時間かけて行って、5時には登庁するみたいな感じなんですよね。
ほうほうほう。
で、いつ仕事が終わるのっていうと、一応なんかね、
基本的には午前中が仕事みたいな感じだったらしいんだけど、
実質日没までっていうふうな話で。
実質、なにそれ。
実質。
サービス残業多すぎじゃない?
そうそう、ほんとそうなんだよ。
だから、労働条件とか求人表見たら、5時から12時までって書いてるんだけど、
でも実質17時までやんけみたいな。
サービス残業5時間やんけみたいな世界で働いてましたよと。
なのでまあまあざっくり言うと12時間労働だよね。
で、かつ基本的には収録勤務。
で、どんなふうに働くかっていうと、
5日間働いて1日休むっていうのを繰り返したんだって。
なるほど。
なので週7日っていうことじゃなくて、
もう5日働いて1日休む、5日働いて1日休むみたいな。
そういうふうなサイクルで。
5日間?
そう、5日間。
はいはいはいはい。
そうそうそう、っていうふうなサイクルで働いていましたよと。
うんうんうん。
っていう感じだったよね。
うん。
09:00
で、しかもね、これちょっとびっくりしたんだけど、
なんかね、給与あるじゃない。
うん。
給与はなんと年2回なんですよ。
わーはいはいはい。
少余とかじゃなくて給与が年2回。
で、かつその年間で120日以上働いてないと支払われませんみたいな。
うんうんうんうん。
そういうふうには結構ね、決まりが明確にあったんだって。
へー、なかなか厳しそうだね。
まあでもしっかりしてるよね、なんか思ったより。
うん、そうだね。
うん。
で、まあそんな感じなので、
もちろん朝は遅い、朝早いので、
朝で終わらせても勤まらない仕事だし、
しかも遅刻するとね、本当に門が閉まっちゃって。
へー。
晴れないんだって。
ほうほうほうほう。
そうすると、その日一日働けませんみたいな。
お給料減っちゃいますみたいな感じで。
へー。
そうそうそう、過ごしたりとか。
あとね、一応評価、年次評価とかもあって。
うん。
で、いっぱい、上の上から下の下まで9段階。
上中下みたいな。
上下下。
そういう評価があって、それでいい評価だと簡易が上がるし、
悪い評価だと下がるみたいな。
へー。
まあ結構そういうものがあるんで、
まあ結構その辺はね、なんか1300年経った今ではあんま変わんないなというか。
うんうんうん。
そういう評価制度ってむしろちゃんとあったんだねみたいな感じなんですよね。
まあこの辺は中国から輸入とか、当時の韓国とか、さっき言った、クダラとか。
そういうところから輸入してたのかな、こういうシステム。
あ、でもそうだね。
その簡易みたいなものは多分そうだね。
うん。
うん。
まあそこをね、ある種習って作ってたんだけど。
じゃあね、こういうふうな過ごし方、朝5時くらいから働いてみたいな人たちなんだけど。
うん。
ほとんどね、してみるとこの旧約林ってどんな人たちかっていうと、
基本的には単身国みたいな感じで平常居に住んでるんですよ。
へー。ほうほうほう。
なので実感は京都とか大阪とかっていうのならの近くにあるんだけど、
うん。
まあそこからはそのなんだろうな、
まあ宮津海で本当に朝から晩まで働くから帰れないじゃないですか。
うん。
ある種しゃあなし平常居に住んでますっていう感じだったよね。
ああ、そうなんだ。
地元から出てきて、場所を借りてみたいな感じの。
まあ支給されるのかもしれないけどね、その地元をつけば。
そうなんだよね。
うん。
だからなんとなくこれは僕のイメージなんだけど、
なんか平常居ってある種きらびやかなところで、
まあそこに住んでる人たちはなんかハイステータスだみたいなさ、
うん。
そういう感覚もあったんだけど、なんか全然実態は違う。
うん。
うん、なんか早く帰りたい、なんか地元の奥さんとか子供にあげたいみたいなさ。
ああ、はいはいはい。
そこは単身でいいんだもんね。
そうそうそう、そういう感じだったらしいんですよと。
12:00
うん。
で、ちょっと前回触れたんだけど、
まあその後で当然5日働いて1日休むとかと、
当時当然徒歩とかあっても馬ぐらいなんで、
うん。
まあ京都ならからね、京都とか大阪に帰れないわけですよ。
うん。
なので、いわゆる休暇を願いでいる、有給くださいみたいな感じがあって、
それが木刊として残っている。
ほうほうほう。
この木刊に書いてある内容とかを研究対象にした論文があって、
へー。
そう、そのタイトルが平城郷と家との王冠、いぴきにおける漢字、
まあ役人の意識みたいな、
そういうズバリのタイトルの論文があったんですよね。
へー。
そうそうそう。
へー。
それがもう今回の話でお問い合わせになってるんだけど、
本当ね、やっぱこういうの見ると研究者ってやっぱ本当にすごいなって思うよね。
ほうほうほう。
何でも、何でもっていうかね、そういろんなことをやっぱ研究してる人のおかげで、
なんかいろんな知識がね、やっぱこう生まれてるんだなって思うんですけど。
うん。
うん。で、まあそれでちょっとその論文の中にも見ていくと、
うん。
どんな理由でね、じゃあ有給願い出てるのかっていうと、
結構ね、現代と変わんないような、ちょっと体調崩しちゃってるとか、
家族がね、体調不良でとかっていうのもあれば、
うん。
地元の祭祀、いわゆるお祭りに参加するために帰らせてくださいみたいな。
うん。
まあ結構多いよってふうに書かれてるんですよね。
多いよ。
そうそう。
例えばその法事でね、大阪に帰りたいから10日間休みをくださいみたいな申請とか。
うん。
で、それに対して当時の仕事、まあこれももちろん全部がそうじゃないんだけど、
いわゆる社協では、中国から入ってきたお経を書き写すみたいな仕事があったらしくって。
うんうんうん。
それがちゃんと終わったらいいよみたいなふうにメモされてるみたいな、そういうものが残ったりするよね。
なるほどね。コメントもついてる。
そうそう。ついてる。うん。
仕事がちゃんと終わったらいいですよみたいな。
うんうんうん。
っていう感じなんで、まあ勝手に休むわけでもないけど、
でも別になんかめちゃめちゃ厳しく休みを取り締まってるとかでもないっていうふうな感じだったらしいです。
うんうんうん。
で、まあ10日も休めるなんていいなとか思うんだけど、
さっき言われたようにほぼ移動でやっぱりなくなっちゃうと思うんで、
ゆっくり帰るっていうよりはもう本当に頑張って帰って、
さっとそのね、役目というか用事を済ましてまたさっと帰ってくるみたいな。
まあそんな感じなんですよね。
へー。
なんかこの辺もね、心情の都合のため、家族の都合のためみたいなさ。
そうそうそうそう。
嘘っぽい嘘というかさ、こう書いときゃいいだろうみたいなのも多そうだよね。
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実際どうなんだろうね。
実際あのね、そこが面白くて、結構来るのが面白いんだけど、
原来は有給の時は特に理由聞いちゃダメみたいなさ。
それは権利だから。
そうだよね。
職場、雰囲気によってはさ、子供の運動会だからとかっていうようなところもあるけど、
基本聞いちゃダメなんだよね。自由なんだよね。
自由です。
もちろんね、仕事の都合というか、繁忙期とかでめちゃめちゃ繁忙期で休まれたら困るっていうときに、
会社から有給取らないでってことはできるんだけど。
時期変更権だよね。
そう、時期変更権。そうですそうです。
基本的にはどんな理由でもいいんだけど、
この時代はある程度理由の妥当性は求められたのと思うんだけど、
いろいろ見ていくと、やっぱりけびを使ってるじゃん、こいつみたいな話とか。
そういうのやっぱりあるんだね。明らかにおかしいだろみたいなのが。
明らかにあるし、あとね、これがめっちゃ面白いんだけど、
その休みを取るじゃん。取った後に帰ってこない。
要は出勤拒否みたいな人が結構いたらしいんだよね。
ほうほうほうほう。
でも地元帰っちゃったらやっぱり地元いいなみたいになって。
うんうんうん。
働くのやんじゃんみたいな。
うんうんうん。
飲んで帰っていけませんっていう人がいますと。
それまでわかるのが、さっきの有給くださいっていう方じゃなくて、
出社しなさい、要は身宿屋ちゃんと来なさいっていう飯ぶみっていう、
めすっていわば召喚の章ね。
召集礼状の章。
そうそうそうそう。召集。
うんうんうん。
まさに召集礼状が結構出てるんですよ。
物々しいけどね、
何してんの、来なさいよっていう手紙みたいなの来ちゃう。
そうそうそう。来ちゃう。
例えば仕事中に結構いなくなっちゃったみたいな人もいるんだけど、
そういう人を呼び出す飯ぶみっていうのが出されると、
まさに召喚師、そういう人を呼ぶための使い。
そういう人の仕事は当時郵便なんてないからさ。
ほうほうほうほう。
そういう召喚師と派遣されて、
礼状出たんで来てくださいっていう風に連れ戻そうとしますみたいな。
わー、じゃあ本当に礼状って言っても差し支えないぐらいのやつなの?
本当そうそうそうそう。
来る来る来る。
で、なんかそれ残ってるのが実際26人ぐらいを一気に呼び出したやつがあって、
26人中何人は生徒の手続きで休んでるけど、
3人はきっと住んでるから早く連れてきなさいみたいな。
はいはいはい。
そうそうそう。で、当時はやっぱり必ず連れ戻せるわけじゃないんだよね。
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まあそうだよね。
うん、なんかまだちょっと病気が長引いちゃってとか、
それちょっと用事が終わんなくってみたいな気持ちで、
いろいろ言われて、じゃあわかった、
じゃあそういう風に伝えとくからまたちゃんと来てねみたいな。
ははは。
でもなんか2週間経っても来ませんみたいな。
そういうケースも結構あったみたいで、
当時の労働環境っていうか、
まあぶっちゃけ別にめちゃめちゃ勤労欲が高いわけでもないから、
この補給役員の仕立ちって。
そういう風にまあずるい休みじゃないけど、今で言ったらあれかな、
もうなんかスマホの電源切って電車乗っちゃいましたみたいな。
うん、それこれが当時もあったんだよねっていうぐらいの話なんですよね。
はいはい、全然あったんだね。
そうそうそうそう。
だからこそあれだね、給与も年間120日以上来ないとダメだよっていう、
ちょうどいいとこあったんだもんね、その辺が。
そうです、そのぐらいはちゃんと360回、まあ3日に1回来ればいいよみたいなね。
うん、ぐらいはね、せめて来てよっていう。
そうそうそうそう。
そういう意味で1万人っていうのもあったのかもしれないね。
その1万人のうち何人がそう稼働してんのって言ったの。
バイトのシフトじゃないけどね、1万人のうちどういう風なシフトって。
安倍しようみたいなね。
タイミーさんじゃないけどさ、ちょっと今シフト開いちゃったからこっち来てよみたいなさ。
うんうんうん。
っていうのもあったんだろうなと思うんだよね。
だからやっぱりどうしても平城郷とか平安郷とかって、都とかって言うときらびやかな世界で貴族がねっていう話が、
やっぱりやりがちなんだけど、いわゆるこの下級役人とかの話を聞くと、
なんかあんま変わんねえなみたいな、僕らとというかね、たぶんその労働者と。
やっぱりそのだけの仕事もあったってことなんだろうね、正木の社長がね。
そうそうそうそう。
なんかそういう資料もあったけど、今回そこまでたどれなかったんだけど、
こういう風な感じで義務だったんだとか、
こんだけ大変だったんだってことはやっぱり資料とかも、それぞれ研究もあるみたいなんだよね。
論文になるぐらいだもんね。
そうそうそうそう。
もう1時間ぐらいじゃ語れないよね、そんなの。
語れない語れない。
そうなんです。
というかね、話で働いたんだけど、ここでもう一回その平城郷全体ちょっと目を向け直すというか戻すと、
やっぱりその当時の平城郷は日本随一の都なので、大阪とか京都という働きに来てる人だけじゃなくて、
いわゆるこの勢力を治めに来る東北とか九州の人とか、そういう人がいっぱい来たらしいんですよね。
ああ、ちゃんと地方豪族というか、ちゃんとその辺の首根っこを掴んでたというか、ちゃんと支配力というか影響力はあったんだね。
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あったんですあったんです。
やっぱり海外の繋がりでいうと、中国とか三国の使者みたいな人もやっぱり平城郷にやってくるので、
そういった意味では国際移植豊かというか、そういう感じでいろんな人たちが出入りしたし、
やっぱり舞とか音楽とかサイコロみたいな文化とか、いわゆる遊戯みたいなものもちゃんと発展したという意味では、
結構きらびやかな時代であることは間違いないんだよね。
一方で、さっき言った通り、沖路四方に10万人とかっていうと大阪みたいな密度なわけで、
そうすると当然ゴミの問題とか、あとは衛生でトイレの問題とかもあるんで、
やっぱり衛生状態が悪いし、疫病とかがめっちゃ流行るみたいな。
電線病が流行っちゃったから、今日9人休みますわみたいな。そういうものとかも残ってるらしくて、やべえやべえどうしようみたいな。
そういう意味では、やっぱり今の時代って全然考え方とか文化が違うんだけど、
やっぱり暮らし方とか、仕事に対する取り組み方とか、人が集まったらそういう問題が起きるっていうふうなこととかも含めて、
そんなに変わんないよっていう感覚もしてくるんだよね。
だからやっぱり歴史的には前回みたいに天皇が変わったとか、
初めて日本っていう国の名前ができて中国に認めさせたみたいな、そういう大きなことがどうしても残るんだけど、
こういう役人、しかも下級役人で1万人くらいの人たちの生活があって見ていくと、
やっぱりすごく素朴、意外とやっぱり共感できるなとか、
わかるみたいな感覚もあるんじゃないかなっていうふうなことが、ちょっと今日お伝えしたかったところなんですよね。
なるほど。だから一方で、東北とか地方に行くと、農業だけやってて年号を収めますよっていうのも全然あったってことなんだろうね。
そうですそうです。
だからこういう役員とかがさ、こっちの都会の仕事に就かれて、たまに戻ったらやっぱりうちの農業もありだなとかって思っちゃうみたいな、
そういうのも全然よりリアルにあったってことなんだろうね。
そうそうそう、そうですそうです。そういう感覚が当時もあったんだね。
ただあれなのかな、いわゆるそういう閉城京で役人やる下級とは家みたいなのってある程度の家柄だったりするのかな、
遠くから来るとかっていうのは。
そこは正直ちょっと分かりきらなくて、誰がそこに連れてかれたのか。
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ただ単純に近くて行けるから、そういう人を募って連れてきましたっていう感じなのか。
家柄って言ったら一万人でみんながみんないい家柄なわけではないとは思うから。
そこからの家柄って考えると、そこからは別に一万人のうちめっちゃ頑張った人が中級に上がれるとかそういう感じでもないんだろうね。
中級ぐらいなら行けるのかもしれないけど、やっぱり上位貴族っていうのは、
それこそ、昔からの有力な一族とかどこぞの豪族みたいな話したから。
なんとか経営でね。
そうそうそう。そこは全然家柄があったみたいなんだよね。
ただやっぱり今後その後でいくと、こういった人たちから武士の階級が出てきてとか、
手の上に近づいてくる人が増えてとか、商業で身を起こしてって人が増えてくるのは、
平城京というのは平安京以降の話なんだけど、間違いないので。
やっぱり都会にいる方がチャンスがあるっていうのは、それもそれで今と昔も変わらんみたいな感じではあるんだよね。
いつの時代の話聞いてんだろうっていうのはわかんなくなっちゃうね。
ああ、そうね。
悠久願ってね、仕事終わったらいいよとかってなって、先週やったぞとかって人がめっちゃ言ってたんですけど。
本当そんな感じ?
だからやっぱりそういう意味では結構ね、地続きっていうか、やっぱり今の日本のなんだろうな、
そこから想像できる部分もこの時代にはあるし、逆にそれより前の時代だと、
同じ日本って言っても正直分からん、残ってないっていうのを含めて分からんみたいな。
結構そういうふうな時代の変化がこの時にあったんだよっていうふうな感じなんだよね。
大奈良時代とかさ、今回2回にわたって話してるときは、この辺、そんなことがあったんだとかってあった?
だから早く言った通りだよね。なんとなくたまりけってるとかさ、和歌読んでるみたいなさ。
そっちじゃん、習うのというかイメージ。
そうね、イメージ。
おじゃる丸の世界じゃん。平安京とか。
そうね、確かに確かに。
だからそこの視点の違いというかね、見る、聞く方も違いでこんなに違うんだっていう面白さがあったね。
あくまでも改めて調べると、当然なんだけど、平城京、5キロ四方の時に、都に住んでると言っても5キロ離れたらさ、結構遠いじゃん、5キロって。
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だからやっぱりね、同じなんだろうな、同じというか、すごい漠然と捉えたなって思うよね、都に住んでる役人みたいなものを。
やっぱりこういうリアルにやっていくと、食事一つとってもさ、別にね、疾走、県役、県役とは言わないけれども、別にね、高校生も食べてるわけでもないし。
やっぱりそういう生活をしてることで、きっとやっぱり当時の人って言うても、いろんな悩みがあったんだろうなとかさ、
特にやっぱり早く地元帰って子供と遊びたいとか思ったんだろうなとかさ、そういうことを思うとすごい勝手に共感できちゃうよね。
みたいな感じでね、本当にこう一個一個紐解いていくと、やっぱり知らないことだらけだよね、本当に。
ああ、そうね。特にしかも日本か。海外とかとそういう話があったりとかするけど、いざ日本でね。
さっきのリアルな有給休暇の取り方とかさ。
そうなんです。なのでね、この辺にとってもね、やっぱりこう、日本を知るというか、我々のルートを知るとかだったときに、
結構ね、もちろんね、平城京とかだらじゃいってことは、皆さんたぶん聞いたことあると思うんですけど、
その時代の人がどんなふうに暮らしていたのかとかさ、どんな街並みだったのかとかって、やっぱりね、知れば知るほどすごくイメージが膨らむ部分もあると思うので。
なんかね、今日は本当にそういうところを中心にお伝えしたし、あと次回はね、平安から鎌倉ぐらいを広く取りやすいかなと思ってるんだけど、
そこも、自分で平安でいくとさ、空海とかは結構寝やすと思うんですけど、
まず仏教的だとか空海の思想とかね、どんなふうに暮らしていたのかというところは、ある程度お伝えしたかなと思うんで、
ちょっと広く、平安というのがどんな時代だったのかとか、こういう平城京から平安京に移すときに何が変わったのかというところをお伝えしていく中で、
また日本の歴史、思想ってやっぱり歴史になっちゃってるんだけど、大まかに掴んでいくっていうのをぜひやりたいなと思ってます。
ぜひぜひ。だし、もうしょうがないもんね。だって、日本における例えばヤージニア・バルキアは誰だとかさ、ないんだもんね。
鎌倉時代のヤージニア・バルキアがいるかみたいな話で。
そうね。それこそ空海とか最中になるよね。
逆にそっちは一旦やったから、一旦いいかなと思って、前もちょっと言ったけど、その先の武士みたいな話、戦国時代の武士ってどんな生き方だとか、
考え方したのかみたいな話とかはちょっと面白いかなと思ってて。
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そのぐらいやったら、ちょっと江戸とか行っても面白いかなと思ったんだけど、あんまり日本の歴史をずっとやってもあれなんで、
ちょっと先取りだけど、日本の哲学ってところにいたときに絶対名前が出てくる西崎太郎さんっていう人がいるんですけど、
この人は明治なので、本当に1800年、1900年とかに活躍した人ではあるんですけど、
逆に言うとこの人が日本の哲学のトップって言ったら絶対名前が上がる人みたいな感じなので、
この人のテーマを取り上げて、日本の哲学とか、どんなふうに始まったのかみたいな、
そういう話をするというところまでで、日本の思想というか、そういうものを一通り見ちゃうねみたいな感じに今回しようかなと思ってます。
西崎太郎さんは、今回見ようとしてるというか、見てきた日本人とは何かっていうのを考えたっていうよりは、
西洋哲学を日本で初めてやった人みたいな、どういう感じなの?雰囲気によると。
雰囲気は本当そんな感じ。西洋の哲学ってものを受けて、日本人が日本語で、いわゆる日本の哲学ができるのかっていう、
そういうことを考えてきたんだよね。
その意味がわからんな。日本の哲学ってなんだろうって。
めちゃめちゃ難しい問題。
まだ日本人は見えてきてないからね。雰囲気は見えてきてない。
見えてきてないね。思ってると、日本には哲学がなかったみたいな話もあるわけなんだよね。
それは西洋が哲学ってものが入ってきたときに、
西洋が入った哲学ってものを日本人が日本語でできるのかっていう、
そういうものがあって、そこに取り組んだというか、向き合った人っていう感じなんだよね。
その言葉だけはわかるけど、その営みの難しさだったりとか、なんでそんなことをっていうのは、
たぶんありそうな感じがするよね。匂いがする。危ない匂いがする。
日本語で哲学をするの、日本語とかさ。そういえば確かに意識したような。
そういうところがきれいになってきたね、兄貴もね。
なので、とりあえずお前ら、だいぶ時代は先に進んじゃったんだけど、
まずは平安、鎌倉、あとは次の戦国くらいの日本の歴史というのを掴んで見ていって、
日本の歴史の流れっていうものを、もうちょっと楽しんでみていきましょうっていう感じね。
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ありがたいです。ざっくりこうやって見てもらうと、残りやすいかな、自分みたいに忘れやすくてもね。
その時代時代の話を聞いても繋がらなかったりとか、さっきの最長空間いつだっけっていう話になっちゃうから。
わかりました。では次回ですね、平安から鎌倉時代くらいというところで引き続き見ていきたいと思います。
では次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。