1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #259 ストイック過ぎてドン引..
2024-10-20 59:05

#259 ストイック過ぎてドン引き。ストア派の哲学を極めた先は賢者かロボットか?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も引き続きストア派ということで、今回はどんな内容でいくんでしょうか?
はい、今回は倫理学というところで、前回はストア派の認識論みたいなちょっと固めの話をしたんですけど、
ストア派のある種、賢者というか、その知恵を身につけていくと、
宇宙もだし、人とか動物も、あるいは人の魂も含めて、全部理性的な構築物なんですよと。
なので、ストア派的な賢者っていうのは、すべてを理性で捉えることができるんですよっていうふうな話をしたと思うんですよね。
ああ、はいはい。だからある意味そのストア派の世界観の土台みたいなところの話ですね。
そうそうそうそう。そうですそうです。
今回はその土台っていうのを前提にするときに、じゃあどんな生き方をストアしていくのかと。
これまでされてきた通り、ストア派ってリオゲネスを遡ってスクラテスに至るみたいなときに、
やっぱりスクラテスから続くよく生きる善ですね。
善とは何かみたいな話がある中で、それをよく生きるとは何かっていうことに向き合ったのがストア派っていうのもあるわけなんですよね。
なので、宇宙とはこうだとか、論理的にこうだとかだけじゃなくて、
ある種その考え方とか土台の下に、我々はどう生きるべきかっていうことも、すごくいろんな積み重ねがあるわけなんですよと。
そもそも哲学っていうと、どうしても前回やったような啓示枠的なというか、
人間とは切り離されて、世界とはどうなるべきかとか。
あるいは人間がどう生きるかというところが、ある種様々な問題で、そもそも人間とは何かみたいな問題の方が答えることが多いと思うんですけど。
確かに確かに。前回の認識とは何かみたいなさ、
リンゴからふわっと空気中を漂ってくるものをキャッチして、それを魂が産むみたいなさ。
そこをイメージだよね、なんかね。
それだけじゃなくて、ちゃんとその世界観の中でどう生きるべきかとか、どう生きるのが良いのかっていうことまで繋がってるのが、
ストア派の特徴でもあるわけなんですよね。
あー、そっか。確かにね、そこは、
なんとなく哲学って聞いたときのイメージとは違うね、確かにね。
03:06
どう生きるかまで。そこそこ人生哲学とかさ、
○○哲学とかってつかないといかないような領域な感じするもんね。
確かにね、確かにね。
前回ね、ストア派を取り上げたときも割と人生哲学的なというか、
どんなふうにね、僕らの人生に活かせるかっていうようなところを結構中心にお話ししてきたんですけれども、
逆にもうこのストア派のことを抑えしようというところで、
今回ですね、ここに一人のですね、完全なストア派の賢者さん、
何人さんでもいいんだけど、ストアさんがいるとしましょうと。
もしも目の前にストアさんがいましたらということですね。
で、ストア派の賢者の人はどんなふうに成長してね、世の中で生きているんでしょうかと。
なるほど、架空のね、創始者のゼノンとかじゃなくて、架空のね。
ゼノンから始まって、ストア派ってね、500年とかの積み重ねがあるんで、
その中で発展していったものもあるんですよ。
なので、それぞれゼノンはこういったとか、別の人はこういったとかも言えるんだけど、
そうやっていくと本当にもうすぐ大変なことになっていくんで、
ストア派の倫理学っていうものがまるっと見たときに、
どんな生き方の人がそこに登場するんですかみたいな、
そういう架空の人物をそうそう思ってみませんかってことですね。
なるほど、OKです。
そのストア派を完全にインストールした人がどういうふうに生きていくのかっていうね、考えに行っていくのかと。
もちろんね、これもただ妄想空想ですってわけじゃなくて、
実はですね、名前聞いたことあるかな。
ヒケロっていう人がいるんですけど、この人は紀元前1世紀ぐらいなんで、
ゼノンとかは200年ぐらい後の人なんですけど、
この人がね、本が残ってて、善と悪、良いと悪いの究極についてっていう本を出してるらしくて、
この中で、ストア派的に成長するとはどういうことかとか、
ある種人間の発達段階みたいな、そういうものを5段階で書いてるらしいんですよね。
へー、なんか面白そう、本当に。
そうそう。なので、そういうストアさんがね、
これもちょっと前回お伝えしたんですけど、生まれた瞬間から別に賢者なわけじゃないんですよね、人間って。
最初は魂がまだ磨かれてない中から磨いていくっていうふうな発想がある中で、
このある種生まれたストアさんがどう成長して5段階目に至るのかみたいな。
06:06
そんな話をストーリー的に今日はお伝えしたいなと思ってますっていう感じですね。
おー、いいね。わかりやすそう。
ちょっと考えました。
これね、何かの本そのままじゃなくて、早くわかりやすく説明してくれてるって感じ?
まあ、頑張ってるって感じだよね。
わかりやすくかは。
もちろんキケロの5段階の話はもちろんあるんだけど、
ストアさんというものを想定しようというのは、それが面白いんじゃないかなと思って。
わかりました。
生まれる前の話、生まれる前っていうか、そもそものストアさんの前提なんですけど、
ストア派には一つの行動原理があるんですよ。
これが、前にもお伝えしたような、自然に従って生きるっていう言葉なんですけど、
この自然っていうのは、いわゆる神とかロゴスっていう、
僕らが普段見る山とか木とかじゃなくて、宇宙の法則みたいな。
前回の、全部理性的なものでできていますよっていう前提で、理性的な法則そのものみたいな。
それを自然って言ってるんだけれども、
そういう風な理性的な宇宙の法則、それに従っているよう合体している生き方がいいんだよっていう風な前提があるんですよね。
なので、すごいわかりやすく言うと、自然に従って生きていることは良いし、それに反していることは悪いみたいな、
そういう風な価値基準っていうものをストアさんは常に持ってるわけなんですよね。
そこで善悪が、ちゃんと判断基準が明確にあると。
悪なんだね、それに従ってないことはね。
従ってないことは全て悪ですと。
もっと言うと、その法則に合致していることを選び取るっていうのは価値があるし、
逆に言うと価値があることだからそれを選ぶっていう風な行動を取るんですよと。
逆に言うと、その法則に反しているものは悪なので、
それは退けるとか遠ざけるっていう風な行動が生まれるっていう風な背景があるんだよね。
それイコールよく生きるということだという話ね。
そうなんです、そうなんです。
実際に現代の発達心理学とかでも似たような話があって、
赤ちゃんってどんなふうに感情が豊かになっていきますかっていうと、
ちょっと古いかもしれないけど、最初はかいと不快、心良いと心強くないみたいな、
そういうものがまず分かれていて、そこから好きとか愛情とか、
09:00
そういうものが細かく分かれていくっていうぐらい話があるんですよね。
なるほどなるほど。まずは大まかにって話なんだね。
大まかに、うんちしちゃったら心地よくないから泣くとか、
かいてもらったらすっきりして喜ぶみたいな、そういうところから始まってるっていうらしいんだけど、
そこにも近いというか、ストア派はめちゃめちゃ先取りしてるなみたいな感じを思うんですけど。
2000年くらい前。
そうそう。なのでそういう意味で言うと、このストア派の賢者としてなるべく生まれたこのストアさんがいたときに、
そのストアさんも生まれたときからそういう行動原理というか、
そういうふうに生きていきますよっていうふうな人ですっていうのをちょっと聞いていただければと思っています。
はいはい、わかりました。
という感じですね。
じゃあ今この瞬間、この瞬間がわかんないけど、ストア派が生まれましたというときに、
めちゃめちゃ生まれた瞬間から賢いかとか、賢者として額にそういう印がありましたかって言うと、そんなことは別にないです。
天上天下唯我独尊と言いながら生まれてくる。
7歩歩きましたみたいな、そんなことはないんですよと。
なんだけど、聞けるのを第一段階、5段階のうちの第一段階で温めると、
この第一段階っていうのは、自らを保存するっていうことが大事だよっていうフェーズらしいんだよね。
自らを保存する。
これは人間だけじゃなくて、他の動物とか植物も同じだとされてるんですけれども、
いつも生き物って本能的にというか衝動的に自分が生きることを選びますよね。
あるいは死んでしまうような状況があったら避けますよねっていうふうなことを考えます。
もちろん大きくなってから、いわゆる自殺をするとかっていうのは置いといて、
子供とか赤ちゃんのうちに行くと危険なものがあったら手を引っ込めるとか、反射的なものを含めて行動するよね。
つまりこの第一段階っていうのは、そういうふうに生きるっていうことを求めて死ぬことを避けるっていうのが、
この自然に従ったある種理性的な行動だっていうふうに言えるんじゃないかっていうんだよね。
なんか前回のスター派で言う理性的というかさ、いろんな物事を理性的に捉えていくみたいな、まさにそんな感じがするね。
生きる子供、赤ちゃんの行動すら理性的に捉えましょうみたいな。
本当にね、その第一段階がここだって話なんだね。
僕のからするとそれで全然理性じゃなくて本能なんだけど、第一段階の存在からするとそれは十分理性的な行動だよっていうふうな話なんだよね。
12:01
まあだってね、全部理性でできるんだもんね、この世界はね。
そうそう、この世界は。
なのでそうなると、いわゆる食べ物とかもそうだし、あったかい住み方とか、あるいは親の愛情とかもそうかもしれないけれども、
そういうものを選び取ることで赤ちゃんないし、動物とかも含めて生き物っていうのは自分を保存していくんでしょうと。
植物だったらもしかしたら水とか太陽の光とかかもしれないけど。
そういうことを求めることである種生きていくことができます。
なので、生まれたからにはまず生きるっていう本能的な衝動があるよね。
それに従うってことが価値だよねっていうふうなのがこの第一段階ですっていう話なんだよね。
さっそく第二段階。ちょっと成長したストアさんなんですけど、動植物であればこの第一段階だけでいいんですよ。
やっぱり人間なんで、もっと理性って磨かれていくストアっていうふうになっていくと、理性の力もどんどん強くなっていきますよ。
そうすると、ストア派的には理性が発達するとどうなるかっていうと、より広い範囲のことに対して親しみを感じるようになるよねっていうふうに言ってるんだよね。
さっきの第一段階だと、食べ物とか親の愛情っていうぐらいだったんだけれども、
第二段階、ちょっと年齢とか書いてあげるんだけど、例えば3から5歳ぐらいになると、
いわゆる美しいものとか、あるいは病気は嫌で元気なほうがいいとか、
あるいは楽しいことを求めてつまんないことを避けるとか、そういうことが出てきますよと。
どんどんいろんな選び取るリストみたいなものがあったときに、そこにいろんなものが加わってくるんだよね。
なるほどなるほど。さっきハヤトさんが言った、快と不快みたいな話を言うと、
その快不快がより具体的になっていくってことは、それだけの内容が。
具体的になるし、広がっていくような、第一段階だと本当に自分の半径数メートルぐらいだったものが、
やっぱりそれがもっと広がっていって、いわゆる僕の公園に遊びに行きたいとかになったときに、
そんなことを思い出したんだみたいな、そんなイメージだよね。
友達と遊ぶと楽しいとか、そういうとこも含めてね。
逆に言うと、反対、つまんないことは嫌だとかっていうのは選び取らないリストに入っていって、
選び取るリスト、選び取らないリストっていうのがどんどん増えていきます。
15:00
この段階になると、いわゆる楽しいことを選ぶとか、
そういう美しいものに価値を生み出すとかっていうところは、ある種自然に従っていて、
逆につまんないことを避けるっていうのも、それで自然に従っていますよ。
逆に言うと、たとえば1キロお腹が空いてるからといって、腐った食べ物を食べちゃうよとか、
たとえば、子供なのではないかもしれないけどお小遣いをもらったときに、
全財産を使っておはじき1個済むとかっていうのは、
さすがにどんなにそれをやりたいって言っても、ちょっと理性的じゃないよねみたいな。
それっていうのは、たとえば、いくらお腹が空いてますというときに、
第一段階だったらまず空腹を満たそうでOKなわけなんだけど、
第二段階だったときに、ちょっと腐った食べ物でも食べますとか、
友達が持ってる食べ物を奪いますとか、
そういうのはやっぱり理性的ではないんだよね。
自分の空腹を満たすっていうところはいいんだけど、
良くないものを身体に取り入れるとか、友達との友情を壊すっていうのは、
天秤にかけたときにやっちゃダメだよねというか、
理性的、自然に従ってないよねっていうふうにある種判断になっていきます。
なるほど。
っていうふうな感じで、第一段階から第二段階になると、
第一段階の価値っていうものはなくなるわけじゃないんだけど、
ある種そこに加わって、お腹が空いて身体したいんだけど、
でも友情も大事だよねとか、
お腹空いてるんだけど、やっぱり健康を損なうようなことはダメだよねとか、
そういうことが考えられるようになってくるとか、
そういう判断ができるようになるという話で、
この段階というものを捉えています。
はいはい、なるほど。この理性的にできている世界をどんどん知っていくというか、
把握していくというところね。
聞けろによると、この段階というのはさっき言ったような小さい子どもに結構相応しいフェーズでして、
これも書いてるらしいんだけど、
大人は子どもに対してどう接するかみたいな話があったときに、
子どもって選び取るリストとかがあったときに、
それに入れたり外したりしながら、
何が自分にとって親しみがあるのか、
何を選ぶべきかというところを判断している状態だというふうに言うんだよね。
なので、あんまり細かく、
例えば汚いものを触ったときに、
そんな汚いものを触っちゃいけませんってピシャって言うんじゃなくて、
一回触ったときにこれを取り入れるか取り入れないかということを、
子どもは今判断してそれを学んでいるわけだから、
そういうことをちゃんと見守ってあげましょうというか、
18:04
それがある種理性を磨くことになるんだよみたいな、
そういうことまである種、
具体的には言いたいんだけれども、
相当受け取れるようなことを書き残しておりますというふうな感じらしいんだよね。
すごいね、さっきの善と悪のうんたらいについてみたいな、
本の中でそれが述べられてる。
そうです。
めちゃくちゃすごいね。
子どもの教育みたいなところにすでに触れているって感じなのかな?
たぶんあると思う。
第一段階、生まれた時から始めてるってことは、
そこからどうやってストア派的な人を育てるかってこともテーマになってるだろうから。
すごいね。
子どもに全部教育すればいいじゃんって思いそうじゃん。
大人が知ってる理性について、
全部詰め込めばいいじゃんって思うけど、
ちゃんと自分で判断してるところを邪魔すんなみたいな思ってさ、
全然今でも言われてることになる。
子どもに興味をそぐなみたいな。
すごく現実的というか、
それこそ頭だけで考えてないで、
ちゃんと人を見ながら考えたんだなって思うんだけどね。
子どもって同じものでも、
今日は興味あるけど明日は興味ないとかって全然あるじゃないですか。
そうね。
そういうのも全然OK。
それも含めて、第二段階だけでは自然に従って生きてるんだぜっていう感じなんだよね。
たぶん今日の主人公であるストアさんも、
たぶんいろんな失敗とかをしながら、
善と悪とか、価値があるものとかないものっていうのを学んでいるはずなんだよね。
っていうような過ごし方をしてるんですけど、
さっき何喜山さんが言ってくれたような話なんだけども、
ここで補足で、
選び取るリストがありますって話をしたじゃない。
兄貴がそれを大人から押し付けて、
このリストのものを選びなさいっていうこともできるんじゃないかって言ってたんだけども、
実はこのリストの中には、
決まったものを全部先に書き込んでおくとか、
世界の全部の出来事を入れ込むっていう風になってないらしいんですよ。
そうなんだ。
どういうことかっていうと、
これ実際の例ではないんだけれども、
例えばこのストアさんの人がいたときに、
例えば牛乳が好きか嫌いかとか、
あるいは挨拶をするときに、
お辞儀をするのがいいのか、
手を挙げる方がいいのかみたいなことって、
それって、
ある種の善悪とか自然とは関係なく、
社会のこととか、
個人の好き嫌いに関わることなので、
それ別に宇宙の理性とはあんまり関係ないんですよね。
21:03
なるほど。
人間の共同体におけるルールみたいなものは、
ちょっと理性とはまた違うところに存在してるってイメージなんだね。
そうなんです。
なので、世の中の全て善と悪で分けるんじゃなくて、
無差別というか、
善でも悪でもないっていうことは結構あるんだよね。
なるほど。監修だったりね。
そうです。
善悪というかあくまでも自然に従って生きるっていうのは、
こういう原理原則に照らしたときに、
それは受け取るか遠ざけるかっていう判断をする話なので、
別に、
俺は絶対ご辞儀をしたくありませんとかっていうふうに思う必要はないというか。
すごいね。
あとは逆もしかにね、
うちの国ではお辞儀をすることが絶対ですっていうのはあるんだけども、
それは理性の話じゃなくて、
ルールの話だからっていうふうに、
そこはフラットにというか、
ちゃんとお辞儀をすることこそが、
理性的に最高でよく生きることであるとは言わないんだよね。
ならない。
分けて考えられてるんだ。
そうです。
すごいね。
やっぱり流言するだけでも言って、
コスモポリタンじゃないけれども、
特定の慣習とか風習とかってこうやって考えようっていう、
そういうふうなものがこういうところにも出てるんだよね。
めっちゃすごいね。
だから手を挙げる国があって、
お辞儀をする国があったときに、
ストア派的に言うと、
どちらもこれに関しては心を込めて挨拶であるっていうふうな共通点というか、
それについては理性的な振る舞いだけれども、
一個一個の個別の行動とか振る舞いの違いについては、
慣習であるみたいな。
そうそうそうそう。
そういうふうにちゃんと捉えてるってことだよね。
そうですそうです。
すごい。
すごいな。
それめっちゃ丁寧な感じするでしょ。
するする。
そういうとこなので、
ある種やっぱり押し付けちゃダメっていうのは逆に、
決まったものを押し付けるんじゃなくて、
やっぱり学んでいくものなんだっていうのはまさにそこなんだけど、
いわゆる第三段階なんですけど、
ここまでくるとある種の僕らが言うと理性的な振る舞いとか、
ちょっと大人っぽい感じになっていきますよと。
第二段階はどっちかっていうと感情的なこととか、
なんとなく好きとか嫌いっていうものが強かったんですけど、
第三段階になってくると理性的に価値を感じるものを選ぶみたいな、
そういうことをする段階になりますよというふうに言われています。
実際に挙げられている例としては、
例えば祖国を敬うとかね。
これさっき、国の風習とかは関係ないとは言ったんだけど、
24:04
自分が所属している国に対する愛国心的なものとか親しみっていうものがあるよね。
あとは健康っていう意味で言うと、
例えば体を動かす、散歩をして体を動かすことはいいよねとか。
あとは状況に応じるんだけれども、
ある種自分の財産っていうものを犠牲にしても誰かを救うとか。
そういうことって、例えば第二段階までで、
健康がいいけどでも体を動かすのは嫌だとか、
あるいは自分のものは自分だけのものにしたいとかっていう、
そういう感情的なものがあったときに、
でもそれを超えてでも運動をするとか、
それを超えてでも誰かを助けるとか、
それが善だっていうことに至ると、
そういうことを理性で判断できるようになりますよっていう話をしてるんだよね。
この例は実際にキケノが挙げてる例の。
そうそうそう。
散歩しなさいとか。
散歩しなさいとか状況に応じては財産、寄付とかしてもいいでしょっていう感じだよね。
なんか面白いね。
これを別に誰かのためにしなさいとかっていうことじゃなくて、
根本には自分の親しみがあるものに惹かれるというか、
第一段階で事故を保存したい、
要は生きるっていうのは自分を保存することだって話をしたと思うんですけど、
事故のレベルって読むのが、いわゆる本能的な自分だけじゃなくて、
理性のレベルで広がることで、
いわゆる祖国とか、その共同体の誰かとか、
そういうところにある種事故は広がっていきますよねっていう話なんだよね。
なので、事故を保存するっていう原理原則は同じなんだけど、
赤ちゃんの頃は本当に自分しか見えないってことが、
第三段階くらいまで来ると広がっていって、
ちゃんと自分の財産減るけど、国として豊かになるんだったら、
それはある種投げ打てでもやりましょうとか。
そういう行為に価値があるし、
理性的に考えたらそれが自然に従ってる行為だよねっていう風になってきて、
ここにきてストアさんっていうのは自分のためじゃなくて、
世のため、人のためというか、
それも含めて自分のためなんだけど、
そういう風に働くようになっていきますっていう話なんだよね。
なるほどなるほど。
一見するとコスモポリタン的な振る舞いとは違う感じもするけれども、
必ずしもそうというわけじゃないよね。
普通、何だろうな。
要は事故保存っていうことを考えたときに、
ディオディネスほど自由奔放になる必要もなくて、
自分が生まれた国で普通に健康に元気に生きていくってことを考えると、
27:05
自分が生まれた家だったりとか国とものに対して、
素直に貢献することで、
いいことありますっていう意味では自然なこととも言えるよねっていう話だよね。
そうですそうです。
この段階とは違うかもしれないけれども、
もしそれが事故保存に反する、
家を大事にするとか、
同じ国の友達を大事にすることが反するのであれば、
逆に言うとそれは離れなさいよっていうのも、
この理性を持って判断しなさいよっていう話なんだね。
そうですそうです。
例えば、分かんない、これは本には出てない例だけど、
自分の国が何かすごい悪いことをして、
国を滅ぼそうとしてたときに、
それが本当に理性に照らして良くないことだと思ったら、
それをちゃんと避難するとか、そこから離れるとかってことが大事だってなるだろうし、
そこもちゃんと自分で判断しなさいねっていう感じなんだよね。
はいはいはい。
この時点では第三段階まで来たんですけれども、
この時点では成長したストアさんっていうのは、
よく生きるっていうのを実現してますかっていうところを考えてみたいんですよね。
例えば運動をして健康に気を使ってるとか、
周囲の人を助けてる、自分のお金を助けてるっていうときに、
普通に考えれば、すごい善人じゃみたいな感じだと思うんですよ。
素敵な人だと思うんだけれども、
ただストア派的には、表面的にはそうかもしれないけれども、
本質的にはまだこの人は、このストアさんは、
よく生きるまで至ってないっていうふうに考えるんですよね。
ほうほう、そうね。
これ何かっていうと、やっぱり手段と目的みたいな話が出てきて、
例えば世のため人のために働いていますとしても、
それが例えば何かその国で縁起になってやろうみたいな、
名声を得るためにやってやろうとか、
あるいはすごい悪の人で、一回信頼を得て、
後で裏切って、すごい財産奪ってやろうみたいな。
そういうことを思ってるとしたら、
それは完全によく生きるとは言えないよねっていうようなことを考えるんだよね。
まあ、そりゃそうだね。
ここで重要なのは、名声を得るとか裏切るっていう、
それ自体が悪だっていうことは実は言ってなくて、
それじゃなくて、もっと、
例えば人のためになるとかっていうことを、
もっと本質的な善、これを双波的には得っていうんだけれども、
それを目的として行動してることは全て善なんだけど、
30:01
そこを目指しない行動は悪だっていうふうな、
そういうふうなロジックで動いてるんですよね。
ここで伝わるかな。
さっきの話で言うと、
例えば、両親、家を大事にするとか、
そこを敬うことっていうのが、
ある意味コスモポリタン的なフラットな感覚と
矛盾する部分があるかもねっていう話をしたけれども、
実はそうでもない部分もあるよねという話があったと思うんだけど、
それに近いかなと思って、
よく生きようとした結果、コスモポリタン的になることもあるだろうし、
よく生きようとした結果、両親を大事にするとそこを敬うこともあるだろうし、
よく生きようとした結果、そこが裏切ることになる。
そこが出ていくことになるっていうパターンがあるわけで、
そうすると、例えば名声を得ることとか、
名声からむしろ離れることとか、
それを非難することとか、ある意味、
単純に名声に対するカウンターだからいいとかも言えなくて、
その根本の行動原理とか、
自分の理解だよね、こそが重要であって、
行動を控えめじゃ全く判断できないからね、みたいな意味でっていう感じかな。
ちょっといつも通り長くなっちゃったけど。
いやいやでも、アニファー言ってくれた通りで、
やっぱりスタッフの構造原理ってあくまでも自然に従って生きるので、
一般的に善になることをしようとか、善人でありましょうではないんだよね。
逆もしかすると、一般的な悪も違うかもしれないって話だね。
そうそうそうそう。
例えば、これはちょっとお話とかであれですけど、
誰かを裏切った時に、本当は裏切りっていうのは、
世界を救うために必要な裏切りでしたってなった時に、
裏切りって、善とも悪ともユナイトかって話ってあるじゃない。
ああ、まあそうだね。今の話だけだと裏切んないよって思うけど、
まあそうだね、あるよね。
もしそういう格闘を述べた時に、
でも普通派的には、もし何かもっと大きな善のためとか、
もっと言うと徳を実現するために、目の前のある人を仮に裏切らなきゃいけないとか、
あるいは祖国を裏切らなきゃいけないとしたら、それは善なんだよね。
なんか今、ハヤトがちょっともっと大きな善みたいな話をしたけれども、
そういう表現だと何となく、より自分への得が、利益が大きい方に受け入れられるかもしれないけども、
33:07
そうじゃなくて、ストーハ的な世界観における理性的な振る舞いっていう、
善とは何かっていう意味での、より善に近い方でっていう感じだよね。
もっと言葉を言うと、宇宙の理性に従っている行動ならば、
仮に裏切ろうが、名声を得ようが、それは善ですと。
反論基準がそこなんだよね。
自分にとってとか、国にとってとか、相手にとってじゃなくて、
そのストーハ的な、もう絶対的な基準っていう意味での、
理性だったり宇宙だったり、神っていうもの。
そこに照らし合わせて、より善度が高い方に従って持ちなさいという話だよね。
そうです。
天秤はそれだと。
天秤はそれ。
もっと言うと、第5段階の先取りなんだけど、
前回の認識論でもおっしゃった通り、宇宙の理性っていうのは全部繋がってますって話をしたと思うんですよね。
あったね。
そう。そういう体系っていうのがあって、それこそが真理だって話をしたんだけれども、
その宇宙の理性全体と調和した生き方であれば全部が善ですと、ストーハ的には。
でも調和してなかったら、その調和が乱れていたら、それは悪ですっていうふうな、そういう基準できるんだよね。
そっかそっか。ありがとう、ありがとう。
そうだよね。一個一個の現象に対して、善かどうかって、
そういうストーハの物差しを当てはめるんじゃなくて、
あらゆるものが繋がった時代の今の世界の現れとして、調和取れてますかっていう話じゃん。
そうそうそうそう。だから、調和が取れた結果裏切ったは、もう何でもいいってか別に、
ストーハ的にはもう万々歳なのよ、別に。
だし、裏切るとは言わないんだね。調和取れてますっていう話で。
現象としては裏切りなんだけど、別にそれはOKって感じで。
でもね、判断基準がそこにあるから、
やっぱり、いわゆる一般的に人を助けるのは良いことだよねとかってこととは全然違う基準で生きてるってことが伝わったと思うんですよね、今ここで。
モラルとか倫理とは何かって話がちょっと今由来できてるね。
僕らが普段思う倫理とはやっぱり違うと思うんだけど、
例えばこのストアさんがいたとして、
本当にこういうストーハ的な行動原理、宇宙の理性に従って生きるってなると、どんなことが起きますかっていう話なんだけど、
これちょっと本に書いてあったんだけれども、これは聞けろの本というよりは解説の本として書いてたんだけど、
36:06
例えばある家が火事になりました。
その中に子供が取り残されているとするじゃないですか。
そしたら多分ストア派のこの賢者であるストアさんっていうのは、
子供を火事の家から助け出すためにあらゆる手段をきっと講じるんですよと。
なぜならやっぱり仲間、同じ地域に暮らす子供を助けるということは明らかに彼の自然とか宇宙的な理性の前に合致するんですよねと。
なのであらゆることをやるんだけど、
例えば子供が助かればハッピーエンドなんだけど、
仮に残念ながらどんなに手を尽くしても助からなかったとしますよねと。
っていうときにストアさんはどう考えるかっていうと、こんな思考になりますっていう感じなんだけど、
精一杯自分は行動したと。宇宙の理性に従って行動したんだけど、
それでも助けなかったらそれはしょうがないと。
残念に思うことも後悔することも一つもないんだっていうふうにストアさんは考えるんですよね。
何だかっていうと結果とか事象はしょうがないというか、
それは自分が何かそこに対して手を尽くしたんだったらそれ以上やるべきことはないっていう感じなんだよね。
だからこそ、さっき言ったように宇宙にとっては調和。
要はその子供が亡くなるっていうことが宇宙の調和としては正しい姿なんだから、
それを嘆くのとかっていうのは無駄というかそんなことをしてもしょうがない。
むしろその嘆くってことが調和を乱す行為なんだっていうふうに考えるんだよね。
なるほどね。
なので普通に考えたら、そんだけ頑張って助けようとして助かんなかったら後悔するとか悲しむっていうのが人としてあるべきだって僕らは思うと思うんだけど。
悔やんでも悔やめきれないっていうね。
なんだけど、千葉さんはそうは考えませんっていう感じなんだよね。
実際こういう態度っていうのは結構他の学科の人たちからの批判の対象にもなったみたいで。
そうか、どんな感じで?
普通に考えたらさ、子供が亡くなったらいろんな感情湧き上がるじゃないかと思う。
辛いとか苦しいとか申し訳ないとかさ。
それが人間にとっては自然じゃないのっていうふうな話なんだよね。
ただやっぱりストア派の自然とか宇宙の理性ってそうじゃないじゃない?
そうだね。ここまで聞いた通り、どっちもというよりはストア派の視点からするとストア派正しいねっていうのは分かれる。
39:00
だから別にはその感情が湧き上がるっていうのは本能的な発想であって理性的な振る舞いではない。
理性的なそういうことを考えたときに子供が亡くなったっていう事実はもう事実としてあるわけだから、
それを理性的に捉えなければならないよねっていうふうなことがストア派的な発想なんだよね。
ここ反論されちゃうんだね。ちょっと意外かな。
たぶん今、ハヤトがしてるのは、家事になった家だから自分の子供ではないわけだよね、まずね。
で、そのシチュエーションでたまたま当時からあったストア君が、
しかもストア派的な意味で万事尽くしましたって言ってるんだよ。
このストア君。だから助けようとして救急、消防車呼んで、当時ないけど消防車呼んで、
自分も水かぶって突っ込んで、もしくは突っ込もうとしましたとかじゃなくて、
たぶん自分も死にそうになりながら突っ込んだより、
なんなら自分大火傷で、下手したら右腕も骨折してますみたいな状態で、
肺も真っ黒になってて、気分で死ぬかどうか自分もみたいな、
たぶん超限界までやった上で、たぶん子供助けられなかったみたいな話だと思うんだよね。
このストア派的な万事尽くすっていうストイックな方たちですからね。
そこまでもうやられることは全部、この瞬間にやりましたっていう意味で、
だから一般的な意味で、ああすれば助けられたのにっていうことは、
このストア派の方たちにとっては、マジでやってる方たちにとってはありえないわけで、
もう文字通り万事尽くしてるから、その上で悔やむっていうことはない。
悔やむとすれば、自分って万事尽くせなかった、ちくしょう。
こんな俺、価値ないわ。理性も何もわかってない。神様すませんっていう言い方ならわかるんだけど、
いわゆる子供が亡くなったことに対して、万事尽くしたのにそれを嘆くっていうのは、
多分ストア派的じゃないっていう意味でわかるし、
それに対する反論として、子供が亡くなれば残念でしょっていう話があったときに、
それが例えばストア派的に、自分の子供だったらめちゃくちゃ嘆くって、
そこまで含めて自然の調和だと思うんだよね。
なるほどね、なるほどね。
そういうのを含めて、このストア派の土台の上っていう意味では、
42:04
すごく、結構隙がないなと思う。
はいはいはいはい。
し、めちゃくちゃ大変だろうなと思う。
広垢のデッグじゃないけど、毎回ボロボロになりながら生きると思う。
そのぐらいのストイックというか、
普通はできないんだろうけど、もし徹底したとしたらそうなるんだろうなっていう意味で。
そうね。
批判するとしたら、普通の人間はそこまでボロボロになれないよっていう批判の方かなと思った。
なるほどね、いや面白いなと思ったし、
やっぱり理想のストアさんの話をしてるんで、
こういう人ってそもそもいるのかとかってあるんだけれども、
だって一個あるのは、多分ストアさんは自分の子供とか彼に憎しんだとしても嘆かないのよ。
あー、万事尽くしてるから。
万事尽くしてるから。
そうだって、そこ変わんないわけじゃん。
自分の子供であろうが、同胞であろうが、その親しみであるってこと自体は変わんないわけだから。
うんうんうん。
へー、あー、そこ言われちゃうとちょっとわかんないかなー、そこは。
なるほど。
これはどっちかっていうと、ストア派的な思想に対する批判というよりは、
純粋にそんな人が隣にいたら怖くね?っていう批判もある気がするんだよね。
そうだねー、そっかー。
もうちょっと考えればわかるかもしれないけど、ちょっと負には落ちないね、自分の子供バージョンは。
そうそうそうだし、
例えばね、今子供を救うっていうことだったからいいけれども、
そういうわけで、祖国を裏切るとかっていうときに、
例えば、ストアさんが宇宙の理性に従って、この祖国とは滅びるべきだと考えるとすると、
この祖国を滅ぼすためにあらゆることをやるんだと思うんだよ、このストアさんは。
離れるとかじゃなくて、
離れるとかじゃなくて、
もしあれか、滅ぶべきだと考えちゃった場合。
滅ぶべきだということが理性的に正しいと、調和すると思ってしまった場合ね。
やべえやつだなー、ちょっと。
ちょっと、そっかー。
そこまで徹底するとちょっとやばくない?
しかも、そこに感情とか何もないわけよ。
それ正しいと思うからやりました、以上、みたいな。
そうだねー、だから、殺戮マシーンじゃないけども、
ストアマシーンなんだね。
ストイックマシーン。
恐ろしいね、確かに。
そうなんだよね。
じゃあ、あれか。
祖国をただ離れるっていうのはあんまりなさそうなのか。
一時的に離れるみたいな選択になるんだろうね、今危ないからとか。
そこがたぶん、リコの保存っていうよりは、
自分の愛情を通してでもやるのかとか、
自分が生き延びるってことのほうが大事だと価値を生み出すのか、
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それ次第だと思うんだけど。
そこもあれでしょ、ストア派的な理性の天秤にかけた上で、
自分の命とその国を滅ぼすのと、また国を離れるのどれが大事なのかっていうのは、
自分の感情とかじゃなくて、
ストア派理論で天秤にかけられるわけだもんね。
おっしゃる通りです。
恐ろしいマシーンだな。
結構怖いよね、そう考えると。
もちろんそこまで徹底する人は少ないとはいえ、
ストア派的な構造原理を徹底したストアさんはそうなりかねませんという感じなんだよね。
やっぱりこの感情とか、
ある種ストア派の鍛錬って、そういう感情を抑え込むとか禁止しなくなるっていうふうな鍛錬だから。
抑え込むんだ。
感情すらも物質である、理性であるっていうところまではわかる気がするんだけど、
そんなマシーンになっていく感じなんだね。
抑え込むというよりは、
アンガーマネージャーとかで前回のストア派の時の話だと思うんだけど、
今私は自分の怒りを生んじているということを知っているから、
その怒りを手放そうみたいな。
そういうふうなことを常にやっているみたいな感じなんだよね。
はいはいはいはい。
だから例えば、自分は今言葉関心で悲しいと思っているが、
この悲しいというのが自分の感情だという理性を捉えたことなので、
もういらないって言って話すみたいな。
そういうことを瞬時にやっている人みたいな感じ。
ちょっと引いてきた。
面白いなあと思ったけど、第四段階ぐらいか。
引いてきたぞ、恐ろしい。
ちょっと徹底すると何事もっていうのはあるんですけど、
まさにこの辺りが第四段階的な話なんだけれども、
まだ第三までだったのか。
今第三段階で話をしていて、ちょっと他の掛け足でいくんですけど、
第四段階っていうのはまさに一個一個の物事の価値を判断する。
要は子供が助かった、亡くなった子だけじゃなくて、
それを一連の出来事として、
あらゆる出来事が繋がった状態で、
全体の価値を判断するという状態なんだよね。
さっきもおっしゃった通り、
スターカーの宇宙ってあらゆるものがロジカルや論理的に繋がっているような宇宙なので、
その全体を知るということは、賢者になるということにイコールなんですよ。
だからこそ、第四段階までいくと、
その全体を一挙にするということはまだできないんだけど、
その繋がりということを見出して、
ある子供を助けるという行為は、
このBとかCとかDという、いろんな行為とかと関連して、
正しいと言えるとか良いと言えるみたいな、
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そういうふうに一個一個の出来事じゃなくて、
いろんなことを関連させて捉えるようになるんだよね。
さらに第五段階に至ると、関連とかじゃなくて、
調和しているから全体を捉えるみたいな。
AがあってBがあってCじゃなくて、
もうAもBもCも全部ある世界を一挙に捉えますみたいな。
やっぱりストーリーっぽくなってくるんだけど。
なんかあらやすきじゃないけどね。
測定の感覚センサーみたいになってきそうだね。
それをパンって全部理解しちゃうから、
まさに調和みたいな話なんだよね。
要は従うっていうことが、
一個一個理解して、
宇宙は今こうであるとかじゃなくて、
宇宙と自分が調和しているから、
何をやっても善だみたいな。
これでいうと、
孔子の量だと思うんですけど、
70にしてノリを超えずみたいな、
あるじゃないですか、
15にして額をこう出してみたいなのがあったときに、
ノリを超えずというのは、
規則とか原理原則に反してなくなる、
反すなくなるという意味なんだけど、
まさにそういう思うままに過ごしても、
世界と調和してるみたいな発想に、
かなり近いと思うんだよね。
なので、第5段階まで来たストアさんっていうのは、
何をしても善。
ストアさんの存在自体が善みたいな。
そうすると、
神の領域に近づいていくわけなんですよ。
そうだね。
これはもう悟りを開いた人になっている。
そうそう。
なので、第4段階、第5段階って、
ほぼ至っている人はいないし、
それも賢者みたいな話で、
そういうことになるんだけど、
こういう段階を整理することで、
自分は今第3段階の中でも、
このぐらいだからもっと頑張ろうとか、
うちの子供は今第2段階まで来たから、
成長しようとか、
そういうことを考えられるようになりますよ。
そうすると、
教育とか育成とか成長、
まるいは、
鍛錬だよね。
っていうことがあるし、やりやすくなるし、
ディオゲイスみたいな人こそ、
理想としましょうと言っても難しいんだけど、
ディオゲイスってもう第4段階まで行ってる人だから、
僕らも頑張ったらそこまで行けるかもね、
みたいな、
そういう体系化っていうのが進んでいきましたっていうのが、
この倫理学の第5段階っていう話になってるね。
すごいね、これは。
どうよ。
なんか結構面白いし、
ちょっとさ、怖いなって感じも伝わったかな。
そうだね、怖いし、
ただ、そうだね、
確かに仏教的なのも比較で言うと、
確かに煩悩をなくすだったりとか、
あるいは自分の感情をちゃんとコントロールというかね、
それもまた、
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まやかしというか幻だというか、
苦慮じゃないけどね、
生きるとは何かみたいなのとか、
そういうのをガチで考えると、
こういうとこに行き着くのかなみたいなのをちょっとね、
感じるよね。
だから、
なんか言うとストイックマシーンっぽくて怖いんだけれども、
ストア派の人たちが言いたいのは、
そういうとこじゃないんだろうなっていうのも、
なんとなく分かる気もするし。
そうね。
やっぱりパッと多分なって、
ストア派として、
そういういわゆる賢者第5段階を目指すっていう話と、
やっぱり今ね、
現代の世の中に自分がどう価値を届けるかとか、
それこそマルクス・ワイルスの肯定だとしたら、
肯定としては仕事がある中で、
いかにストア派的な生き方に自分を近づけていくかって、
そういうバランスは絶対あったと思うんだよね。
やっぱりそれじゃ肯定の仕事を投げ捨てて、
自分の道を極めるってことはやっぱり、
調和しないじゃんとかってことにもなっただろうし。
いやー、そういうことやっぱり出家しないと無理な話になる。
定座仏教じゃないけど、
人に人にが関連すべしみたいな感じには、
何か本当の意味でストイックだね、なっちゃう。
逆に言うと出家っていうシステムがどんだけ便利だったかって話だよね、
その東洋に目を向けると。
お由来さんでも出家しますって言えばその役職を捨てて、
仏の道にあるし、平民とかと差別なく生きたりしたわけじゃない?
すごいシステムね。
すごいシステム、そうそうそうなと思うんだよね。
というような感じなんですけど、
今回スターハンの倫理学っていうものを見る中で、
前回見た認識論だよね、
宇宙とはどうあるかとか、宇宙の理性とは何かっていう話を求めたときに、
5段階で自然に従って生きるってところにも段階がありますよっていう話をしましたよと。
僕が改めて見てすごいなとかいいなと思ったのは、
理性が大事って言っても別に第一段階みたいな、
赤ちゃんみたいなとこからすると、ある種本能に従うことも理性的だよねというか、
それがある種宇宙の理性に従った姿だよねっていう話もあるっていうのは、
逆に初めて知ったんだけど、
そこまでちゃんと捉えて、それでOKってして、
理性的であることが善で、本能的なのは悪だとか切って捨てるんじゃなくて、
本能的に生きるっていうのも第一段階においてはいいんですよみたいな、
人間以外の動植物を見たらいいんですよっていう風に言ってるっていうのがすごく真っ当というか、
ちゃんと考えた上で背景化した人たちなんだなって感じたんですよね。
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そうだね、なんか今のハヤテの話聞いて面白いって確かに思ったのが、
この理性っていうロゴスっていうものの概念の始まりが、
ある意味二言論の始まりみたいなところがちらっとあったような気がするんだけど、
今回の話、結構一言論的じゃない?と思って。
はいはい、そうね。
それから、何となく本能と理性っていうのも比較されて二言論っぽくなっちゃうんだけども、
このストア派的な意味での理性ってこの本能を飲み込んでるというかさ、
すごく一言論的な感覚じゃん、この理性。
そうね。
それがすごい不思議な感覚になってる。
はいはい。
一言論と言えるかわからないけど、連続的だなとは思っていて、
やっぱり事故っていうのが最初は本当に自分の狭い範囲の、
そこしかないところがやっぱり広がっていて、
祖国とか、あるいはもうおその小板的に世界とか、
あるいはもう本当に宇宙とか、
そういうとことを合わせたり親しめ合わせたりするっていう、
事故の範囲が変わることで理性の捉え方とか扱い方も変わるっていう発想は、
すごく納得感があるというかね。
今でもそうじゃないですか、
やっぱり自己認識を広げていかないと、
結局ね、利己的なままになっちゃうけど、
やっぱり相手も本当の意味で自分と同じ存在だと思えば、
そこにちゃんと親しみとか愛情が生まれてあると思うから。
今でもね、地球目線でとか宇宙目線でとかって言うもんね。
そうそうそうね。
そこにすごく近い。
だからこそやっぱりある種リバイバルというか、
前回とか1年前にお伝えしたように、
スタッフ的に生きるみたいな本が今でも出たりとかね、
ある種見直されてるっていうところが、
そういう部分にもあるんじゃないかなと思ったりするんですよね。
いやー面白いね。
ある意味ね、
禅とか、今で言うとというかね、
浄土仏教とかよりは禅とか、そういうのと近いというか。
そうだね。
そういう意味で今に、
その時代に学ぶべきというかね、
参考にすることが多いんだろうみたいな感じなんだろうね、きっとね。
あると思います。
そんな感じで今回スタッフを参加いただくと言ってきたんですけれども、
ちょっとまだヘリニズム哲学がもうちょい続きますという風にして、
あのですね、
ヘリニズム哲学ってもちろん色々あるんですけれども、
その中でもう一個流行というかすごい盛り上がった流れがあって、
それがエピクロス派ってやつがあるんですよ。
へー。
エピクロスと言えば快楽主義とかって言われたりするんですけれども、
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ある種、装飾をなすまではないけども、
もちろんプラトンとかアリステルスの流れもあるんであれなんですけど、
ストア派と結構通りになるようにいわゆるエピクロス派というものを取り上げまして、
このね、さっき言った快楽主義の快楽ってなんだとか、
そもそもエピクロス派ってどんなものなんだ、
あるいはエピクロスって人の名前なんだけど、
エピクロスってどんな人かとかですね、
その辺りをまたちゃんと追っていくことで、
このエピクロス派を見ていく。
これはね、たぶん3回分になっちゃうんだけれども、
はいはいはい。
ボリューム多いんですけど、それをやっていくので、
今回はヘリズム哲学全体を終わらせるというふうな感じにしたいと思ってます、
というようなところでございます。
はいはい。
いやー、いいね。
ストイックからの快楽主義って、
そうなのよ。
この対比もまた面白そうだね、なんかね。
そうそうそう。
でも当然ね、やっぱストア派の自然が宇宙でしたみたいな話と一緒で、
この快楽っていうのも何台みたいな話が結構あるんですよ。
宇宙でしたみたいな。
宇宙ではないんだけど。
わかりました。
じゃあちょっと、今回で一旦ストア派は終わりということで、
ただね、ちょっと今回の話も、
たぶん最後の第4段階、第5段階はさ、
もう荒屋敷、マナ敷か、
マナ敷ね。
という感じでさ、
もうかなり抽象度いきなり爆上がりして、
そのまま終わってって感じだから、
またね、そのうちちょっと、
全部のエピソードじゃないけどね、
ストア派エピソードとか交えながら、
ぜひちょっとまた深めてもらいたいなっていうね。
そうですね、ちょっと具体例とかまたあれば。
はい。
わかりました。
じゃあ次回は、エピクロスハエスね、
こちらに移ってまた楽しんでいきたいと思いそうで、
引き続きよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回もありがとうございました。
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