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(BGM)
はい、それとてつアラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、ついに今回、ブラフマンとアートマンということで、さっそく行ってみたいと思います。
はい、前回の最後にもお伝えしたいのですが、今日はですね、僕は割と前回で行こうと思うので、わからんわからんってなったらまた言ってもらえたらと思うんですけど、
もうちょっとちゃんと言うと、いわゆる一元論的な世界の感覚をちょっと持って話したいなと思ってます。
一元論。
一元論。それもちょっと説明していこうと思うんだけど、先にちょっと説明すると、僕らって基本的には、いわゆるロジックに自分がいて周囲に世界があるっていうふうに生きてるじゃないですか、日常的に。
それを二元論、主体と客体が分かれている二元論的な世界って言ったりするんだよね。
これまでのいろんな回でも、それってのは実は一つなんだとか、分かれてないんだとか、主観と客観っていうのは分けれないんだみたいな、それをある種の二元論みたいな話をしたことがあったかなと思うんですけど。
クーの回が一番近いのかな、それと。
クーかな。そうだね、そうだね。その本体はないとか。まさにクーも、今日の話ともまさに密接に関わるんですけど。
今日お話するブラフマンとかアートマンとか、あとブラフマン=ボン、アートマン=ガ、ボンとガが一緒だ、ボンが一乗っていうことも結構そこに紐づいてくるんだけど、それは完全に一元論的な発想なんですよ。
分かれてないっていう。それは、まさにさっき言ったようなクーとかも含めた仏教もそうだし、ヒンド教とかインドの哲学もそうだし、あとは周り回ってやっぱり僕らの考え方にも影響しているので、しといてやっぱり損はないかなって思ったりしてます。
はいはいはい、なるほど。
で、ちょっと最初に問い補足しておくと、やっぱりインド哲学とかって説明がないんですよね。
では彼らも修行をして、自分で体得した知見とか直感した真理みたいなものから話しているから、いわゆる西洋の哲学者みたいにブラフマンとはこういうもので生じてきてとかっていうのがない中で話をすると、
ブラフマンは何かっていうと、一言で言うと、この世界が生じる原因とか大元となるものです。
だからブラフマンが何か後から出てきたっていうよりは、世界の成り立ちとか宇宙の成り立ちとしての原因っていうのを考えた時に、その根本にあるものをブラフマンと名付けましょうとか、そういう概念を当てはめましょうみたいな感じなんだよね。
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だからブラフマンって何ですかって聞かれると困るんだけど、いやもう全ての根本ですっていうような、ちょっとそんな感じで一旦捉えてくださいと。
現代のニュースで言うと自分も結局はそこから来てるし、みたいな話だよね。あと動物もそうだし、自然もそうだし、何ならパソコンとか人間が作ったものとか、もう全部その根本となるものがブラフマンですよみたいな話。
で、実は一歩進んじゃったんだよね、それは。この世界が生じる原因の大元としか言ってなくて。
この世界…ちょっと待って、言葉の定義がやばいぞ。この世界…
世界っていうのがどのように始まったかっていうのをまず考えますと。
その世界って何?
世界っていうのは、僕らが生きている宇宙だと空間じゃない?その時間とか空間とか、そもそも僕らが生まれている何か箱のようなものがあったとした時に、箱ってどうやってできたの?みたいなことを考えますと。
なるほどね。その中で生きている人間とか動物はその後の話だから、そもそもの、例えば水槽か、水槽買ってきて水とか砂利とか入れる前の水槽だけみたいな話か。
そうそう。入れ物の話だね。
はぁはぁはぁ。
確かに、世界っていうとそうだよね。
なるほど。ちょっとイメージできた。
なので、例えばこれもキリスト教での新約聖書かな?ちょっとごめん、旧約か新約忘れたんだけど、新約聖書はそちらと神がおられて、いわゆる光あれと言われたとか、初めに言葉ありき、ロゴスありきみたいなことから世界が生まれたみたいな始まりがあるんですけど、
インド哲学で言うと、このブラッグマンっていうのが一番の根本にあったものなんだっていう風に言われます。
これもちょっと今日段階から名前登場するんですけど、時代がこれもだいぶ先になっちゃうんですけど、紀元後700年だから、いわゆるウッパリシャットの時代からいくと1300年くらい後なんだけど、
インド最大の哲学者と言われるシャンカラっていう人がいるんですね。そのシャンカラっていう偉大な人がいて、その人はブラッグマンを有とか無いとかの有って言ってますと。
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つまりインドの哲学っていうのは、無から有が生まれるってことを認めないんですよね。
無だからね。 無だから。無だったら無のまんま続くはずだから。何らかのあるものがあって、その他のあるものっていうか、存在するものが存在するようになったよねっていう。
その根本存在としての存在とか有っていうものはあるよねっていう風なことを考えていますと。
そこにはちょっと空っていうのとの違いがあるんだね。この世界観の中には。
空はまさに無というか、空があるともないとも言えないみたいな、そういう世界だと思うんだけど、インドのこのシャンパイチャット的なブラッグマンの哲学で言うと、あるものから始まってますと。
で、面白いこれはちょっと余談だけど、無っていうと何もないみたいな、そういう一つの絶対的なものっぽいじゃないですか。
うん、そうね。 でもやっぱりインド人はそういうのを考えるから、無にもいろんな区別があって、どの無を重視するかとかによって理由が劣ったりするんですよ。
どの無を重視するか。 どの絶対無なのか関係無なのかとか、いろいろあって、あんたどの無のこと言ってんの?みたいな会話が成り立っちゃう。
そうなんだ、すごいな。 みたいな感じ。それなぜかっていうと、この「有」っていうものから世界が生まれたって考えが厳密にあるから、その対立概念である無に関しても思想が深まっていきますよみたいな感じなんだけど。
はいはいはい。 だから、ブラッフマンが何かとか、あるかとかっていう問いは、あんまり成り立たなくなっちゃうんですね、そうすると。
そっか、そこはもう、仏教とこのウパインシャット、哲学とか思想の、そこはもう違う話だからねって、同じテーブルにはそこは載らないよって話なんだね。
そうそうそう。だからそこは結構重要なところなんで、まさに切り分けていただければと思うんですけど、これは結構ね、中世の神の存在証みたいな近い話で、これも中世の時には話したと思うんですけど、要は神そのものが絶対性を持っていて、その中に存在するっていう性質もあるから神は存在するんだみたいな、そういう話があったじゃないですか。
あった気がする。
すごい単純化するとね。
どこだっけ、デカルトとカントの方かな、どっちだろうね。
カントの時にも言ったかな、神の存在証明、デカルトの時にも言った気がするんですけど、あれは理性の側から神の存在を捉えた話だけど、理性の手前の時代でも神っていうものはそもそも存在するっていう前提だから神は存在するんだみたいな話があった時に、ブラフマンも同じなんですよね。要は物事とか世の中にあるんだったら、始まりとしてあるものがあるんだからブラフマンはあるみたいな。
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あーそれカントっぽい、カントだな多分それ。物事体みたいな話、違うかな。
物事体も存在論的な話だからあるって感じなんだけど、だからシャンカラーがブラフマンを説明する時にも、そもそも第一にブラフマンは存在しているとか、ブラフマンは存在することが確定しているんだみたいなことを書いてます。これは実学の定義上は正しいんだけど、ロジカルではないよね。
まあそうはね、理性で語っても同じことが起こっているもんね、どっちが先なのかって。結局今自分たちがいるから神もいるっていう順番なのか、神がいるから自分たちがいるからなのかっていうのは、そこは証明不可能ではあるみたいな話ですね、おそらくね。
でもまさに言ってくれた通りで、そのぐらいの地平に立つと何を信じるかとか前提におくかっていうので、結論が変わってきたりとか説得力が変わってくるわけだってだけの話なんだけど、なのでこの世界はまさにそういうブラフマンっていうものがストーリーとしての説得力を持っていた時代なので。
はいはいはい。 これがいわゆるブラフマンが世界というか、さっき話していたような、その水槽というか世界の枠の生じる大元として、アートマンが何かっていうと、こっちは個人とか個別的な存在?
さっき兄貴が、じゃあブラフマンが例えば人間とか動物とかの根本だよねって言ってくれたと思うんですけど、それはブラフマンじゃなくてアートマンっていう別の原理が存在するよねっていう風に考えてたんですよ。
はいはいはい。
これ何かっていうと、それこそ太陽にもアートマンがあって、神にもアートマンがあってみたいな話になるんだけど、わかりやすく人間に当てはめると、いわゆる私とか自分っていうものの本質とか大元だっていう風に言うことができるんですよ。
これさっき僕が1元論とか2元論とか言ったと思うんですけど、ちょっとこれ面白い話があって、例えば僕、観音ハヤトっていう人間が何かを見るとか認識するって考えた時に結構難しい問題が実は生じてて、
僕が例えば目の前のリンゴを見るじゃないですか、そうなった時には自分っていう主体が外の世界にある客体って言ったりするんですけど、その客体としてのリンゴを見ますよみたいな。
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はいはいはい。
これ自然な考え方だよね。
そうね。
これがいわゆる視覚2元論っていわゆる2元論的な世界ですと。この2元論的な世界で次のことを考えてほしいんだけど、自分が自分を認識する場合ってどうなりますかって話なんだよね。
なるほど、面白いね。
意外と問われるとさ、おってちょっと詰まるんじゃない?
そうだね、2通りが出てくるっていうのは、例えば自分が自分を見るって言った時に2通りがあってと思って今パッと。
まず自分がそれこそどこまでがお自分っていうのかみたいな話が出てくる。
例えば手を伸ばして自分の手を見たとすると、それも自分だよね。
そうだね。
そうすると自分の一部としての手を見ている。ただこの手は自分が思い通りに動かせるから自分であるってした時に、これはリンゴと同じだよね。
リンゴを見る感覚で自分を見ているとも言える。
そうだね。
ただし、自分とは何かって自分の存在自体っていうものに、そこはそもそもリンゴにもそれぞれが入れてしまうと思うんだけど、リンゴとは何かみたいなものを同じことは言えちゃうんだけど、
自分って何なんだろうっていう内面みたいなものを想像した時は、目では見てない。もはやそこには認識しかなくて、っていう世界になってくるのかなと思った。
そういう意味で脚体ってなんだっていう。脚体っていうものがとてもふわふわしたものになるよね。認識上にしか存在しないものになるっていうイメージの2つ。
おー。なるほどね。
やっぱりアニキュアの哲学的な素養がすごいあるよね。
そうなの?
自分で考えられるっていうさ。今の話だけで客観存在って実はふわふわしたもので、曖昧なものなんだって思える人はそんな多くないと思うよ。
ほら、それ哲学70回聞いてきてるけど。
確かに確かに。でも本当に実はそれは西洋哲学の人たちがまさに考えた問題でもあったりするんですけどね。
へー。そうなの?
ちょっと今日のインド哲学の話として伝えていくんですけど、例えば自分は自分を認識しましたって言ったときに、
「あ、なるほど。私はカンナ・ハヤトです」って言った場合、それって自分の本体を指してるかって言うと、そうじゃないよねって言えますよねと。
例えば名前ってのは別に変えることもできるし、名前自体は別に自分の本体ではない。
だから、それはある種正しいとは言えないですと。これはちょっと抽象度を上げると、
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要は自分という認識主体が自分をまさに兄貴が言ってくれた通り客観として認識できるか、要は自分自身を認識の客体にできるかっていう問題が出てくるんだよね。
これは二元論では乗り越えられないんですよ。だって自分の心が自分の本体だと言ったときに、
でも心が心を認識するって言うと、心っていう主体が心っていう客体を認識するってどうやってるのっていうのがぐるぐる回るじゃない。
どこまでも行っちゃうのか。なるほど。
だから仏教的にはそういうことで有意識みたいな感じで、
それこそマナ式っていう区別する働きの前には実はアラヤ式っていう根本の一個のものがあるみたいな話とか出てくるのもまさにそういう話なんだけど。
そうか、その無限ループを乗り越える話なんだね。
なのでインド哲学ではこの認識主体、自分を認識する根本存在っていうものをアートマンっていう特別なものとして設定して、
これは二元論を超えた一元論的なもの存在で、絶対にこのアートマンっていうのは認識代償になりませんっていうルールを作るの。
なるほど。認識代償にそれぞれの子だよね。人間でも動物でもなんでもいいけど、それぞれが自分のアートマンを認識することはできませんという話だね。
今のさっきの話から。
まさにそういうこと。だから見えることももちろん聞くこともできないし、心で想像することもできないし、名前をつけることもできません。
だから面白い、僕は好きな表現があって、そのペパニシャットとかでアートマンを表現するときには、
「〜にあらず」っていう否定を2回重ねる方法で表現するっていうのがあるんですよ。
何かっていうと、例えばリンゴがありますと。アートマンと何かというときにリンゴではないとは言える。間違いなくリンゴそのものではないから。
でもそうなるとリンゴ以外のものっていうのを指し示しちゃうじゃないですか。
そのリンゴ以外のものも全部否定したときに、まだあるもの、要はベンズみたいな丸と丸が挟まったものとかを想像してほしいんですけど、
リンゴを否定するとリンゴ以外が残るじゃないですか。
でもリンゴ以外も否定すると、何も残らないようにロジックでは見えるんだけど、そこにあるのがアートマンだっていうね。
まあそうだね、さっきの説明のアートマンというのは自分では認識できないっていうのの説明にはなってる。
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みたいな感じの話が出てきて、そういう風にしか証言できないんだけど確率に存在しているんだ。それが個別の存在の本質であるアートマンなんだみたいに言います。
なるほどね、それを頑張って認識しようっていう人間の苦悩を感じるっていう。
そうだね、なんとか表現しようみたいなね。なので、ここまで来ると、いわゆる世界の枠組みというか、そういったものっていうのはブラックマンから生じて、
個別のもの、本体、神でも太陽でも人間でもいいんだけど、そういうものの個別存在にある本質とか本体っていうのはアートマンから生じますよっていう原理がそれぞれ見出されますと。
ごめん、一個質問だけど、アートマンってそうするといっぱいいるの?
いっぱいある。
ブラックマンは一つで、アートマンはいっぱいなの?
そうそうそう、この時点ではね。
人間一人一人の中とか、植物一個一個の中にアートマンがそれぞれ存在する、あるみたいな。
そういう存在があって、そのアートマンから今のカンのハヤトっていわゆるような人間が生まれているとか、カンのキョウスケっていう人間が生じているみたいな、そんな感じ。
じゃあアートマンが一個しかなくて、その一個のアートマンから全ての存在だよね。存在に紐づいてるとかではないんだ。
ではない。今のところはそうではない。
今のところは。
ごめん、ちょっと今ね、その水槽とその中にあるアートマンっていうものをビジュアルで想像してるんだけど、アートマンを一個で想像すればいいのか、その箱庭の中にアートマンがいっぱいパパッパーっているのかっていうのをどうしようと思ってたの?
水槽のイメージでいうと、魚は3匹で、その3匹ごとに違うアートマンがあるし、岩とか水槽とかにアートマンがあるっていうふうに一旦思ってもらって大丈夫。
はいはい、了解です。
今のところね。
うん。
じゃあ次にそれが進みますって話なんだけど、やっぱり満足しないんだよインド人はこれでは。
はいはいはい。
なんかね、人間のこれ思考のバグじゃないかなって思うんだけど、真実は一つにしたい生き方なんすよ多分人間は。
うんうん、まあじゃないと気持ち悪いもんね。
そうそうそう、なんか気持ち悪いじゃない。
うん。
それなぜ気持ち悪いのかって考えると面白いんだけど、一旦それは置いておいて、根本原因が二つあるのは収まりが悪いって考えたかどうかはわからないんだけれども、
じゃあこのブラフマンとアートマンって一緒じゃね?一つじゃね?っていう考え方が発展してきますと。
うーん、どういうことだ。
でもこれ兄貴がさっき言ってくれたことなんだよね、ブラフマンが人間とか動物とかの根本原因なのっていう、世界の根本原因っていうことは個別存在の根本原因もブラフマンなんじゃないみたいな。
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うん、ああ、はあはあはあ。
うん、アンチっていうのは自然に出てくると思うんですけど、でもこれは実はアートマンの方から考えた方がわかりやすくて、
どういうことかっていうと、さっき言った通りアートマンっていうのは個別のものの本体だから、それぞれの存在で、ある種あらゆる存在がそれぞれ固有のアートマンを持つみたいに言えますよね。
これは僕の解釈とか僕の説明だから、本当に学術的に正しいかとかはあれなんですけど、
どの部分?ここから先の部分?
今から話す部分。
ああ、はいはいはい。
それは世界についても同様だっていうふうに考えることができるよねと。要は世界の枠組みっていうのが個別存在だとしたときに、それの本体って結局ブラフマンって名前つけたけどアートマンじゃねって言えるじゃない。
要は、世界とかその枠組みを生み出した原理であるブラフマンっていうのは、実はその枠組み自体の本体としてアートマンであると。
ごめん、もう一回。
人間っていうのは存在でとりやすいじゃないですか、一個の存在として。
アートマンとして、ブラフマンが作った箱庭の中の存在で一つとして。
一旦ブラフマンとアートマンというのを取り除いて、存在っていうのを考えたときに、人間は一個の存在として、要は全体が見えるからなんとなくイメージしやすいじゃないですか。
そこにアートマンがあるっていうのも、なんとなく伝わったと思うのね。
世界そのものとか、そういった枠組みっていうのも一個の存在であることには変わらないじゃない、超抽象化すると。
なるほど、ごめん、そっか。一回ブラフマン捨てるとわかった。
一回ブラフマン捨てて、人間を超えた存在としての世界そのものって考えたときに、その本体であるブラフマンっていうのは、いわゆる個別存在の本体としてのアートマンと一緒だっていうことが言えるようになります。
なるほどね、そっか。この前のあれだよね、人間も神も結局同じで、神は神の根性を生きているっていうような概念と近くて、ブラフマンにはブラフマンのアートマンがあるよねみたいな話ができちゃうってことか。
それにも、ブラフマンって名付けてたけど、結局それもアートマンじゃんっていうことが言えるようになりますね。
そこまで行っちゃうのか。
そこそこそこ。
世界の根本原理ブラフマンってわけで考えたんだけど、結局根本原理なんだし、世界っていうのは個別の存在に変わりないんだから、アートマンだよね。
アートマン性があるって言えるようになるし、だから、そういったブラフマンが実はアートマンだみたいなことが突き詰めると言えるようになります。
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イメージとしては、マサイでも水槽とか、あとは僕は大きな木みたいなのを見入りするんだけど、大木があって葉っぱの一枚一枚は別の存在じゃない?
でも結局葉っぱも木の一部だし、大木の幹っていうのも木の一部だし、そこから生まれてるんだけれども、全部一つの存在だよみたいな、同一の存在だよみたいなイメージに近いんじゃないかなって思ってます。
(ヤン) 本格伝わるよ、このイメージ。 (岡田) そうだね。たださっきの水槽とのイメージとは木になってくると、
もう全体と部分は一緒であるみたいな感じになってるから、さっきの水槽とはイメージがちょっと違うから、この先どうこの概念になってくのかってところでイメージがまたね、
水槽が近いのか木が近いのかってことは想像しながら聞いていきたいなと思っているっていう感じ、現段階で。
(ヤン) 水槽の比喩はどっちかっていうとブラッフマンとアトマが別のものだっていう世界観のイメージで、それが一つだってなると木のイメージに近づく。
(岡田) うんうん、なるほど。ここまで来ると木のイメージだよねって話だね。 (ヤン) そうそうそう。
(岡田) その葉っぱ自体がアートマンだと思ってたけれども、根っこと幹と葉っぱと枝と全部含めて、今までブラッフマンって呼んでたけど、
でもこれも一個の木として見ればアートマンじゃんっていうことをアートマン側から見ると結局同じじゃんと、同列じゃんっていう風に気づいてしまったという話ですね。
(ヤン) 気づいてしまった。やっぱりインドは存在とかあるとか、一つ一つの存在とかをすごく大事にする発想だと思うんだよね。全体性っていう。
なので、前回お伝えしたような輪廻みたいなのがあったじゃないですか。これの説明を実はちゃんとしなかったんだけど、
自分がその存在として輪廻するってなった時に、何が輪廻してるの?っていう問いがあるってちょっとお伝えしたじゃない。
(岡田) はぁ~。あったかも。 (ヤン) そう。とか、あとはじゃあ、今アートマンとブラッフマンも一緒って言ったんだけれども、
こういう死んだり悪いことしたり良いことをしたりするっていう自分と、世界の根本原因みたいなものすごい聖なるものみたいな、
ブラッフマンが一緒って言われても、やっぱりそんな風には思えないじゃないですか。
(岡田) うん、そうだね。さっきの水槽のイメージしちゃう感じがする。 (ヤン) だよね。それとも別れてるもので、人間、それもまさに人知を超えたみたいな。
(岡田) うんうんうん。 (ヤン) 結構それは当時、それこそ2000年前とか、そのぐらいインド自治学を実践したい人たちもそうだよねって話が残っていて、
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1000年前って言ったけど、これはシャンカラの例だ。シャンカラなんで、700年くらい活躍した人だから、今から、たぶん1300年前か。
(ヤン) うんうんうん。 (岡田) のやり手が残ってるんですけど、例えばシャンカラっていうのは、まさにブラッフマンとアートマンっていうのは一緒だ、みたいな。
(岡田) それを強力に主張してた人なのね。 (ヤン) うんうん。そっか、そこはいろんな認識があったんだね。さっきの水槽なのか、木なのか、みたいな認識はあったんだ。
(ヤン) インド自治学の中でも。 (岡田) うん。両方あって、どれが一番正しいんだろうね、みたいな話とか、どれが一番説得力あるんだろうね、っていう話でもあったんですけど、
(岡田) そのシャンカラがそういった、文外知能的な考え方を持ってた時に、理性になろうとする人が来るんですよ。
(岡田) そしたら、必ずというか、最初に聞いた質問が、「君は誰ですか?」っていうふうに尋ねてたんですって。 (ヤン) ほうほうほう。
(岡田) ここで、例えば「私はカンノハヤトっていう人間で、ミライフっていう会社で働いていて」っていうのが、常識な回答じゃないですか。
(ヤン) うん、まあそうだね。自己紹介。 (岡田) そうそうそう。「はじめまして」みたいな。で、当時の人ももちろんそうで、「いや、私はどこどこのバラモンの何々村の生まれで」とか、
(岡田) 「なんとかって親がいて」っていうふうに言うんだけど、それに対して「ふむふむ、じゃあ聞くけど」っていうふうにシャンカラがさらに聞くのが、
(岡田) 所属とか名前とかもあるんだけど、死んで肉体が灰になっちゃえば、それも全部土に変えてなくなっちゃいますよね。それで、どうやって輪廻っていうのを越えて離脱するの?っていうふうに聞くのね。
(ヤン) おおー、全問答っぽい。はいはいはい。 (岡田) そうそうそう。なので、「君は誰?」っていうのを言えば、君の本体とか本質っていうのは何か。要は、離脱したいんだったらそれをつかめようって話で。
(ヤン) そう。で、これまで言った通りアートマンっていうのが本体だから、それを自覚しなさいねっていうことを教えていくんだよね。 (岡田) はー、なるほど。今の話はそっか、離脱っていうものを目指したときの問いなんだね。問答なんだ。はーはーはーはー。なるほど。
だから、あくまでも目的は「離脱」。「輪廻」を越えること。だから、その「輪廻」している本体っていうのはアートマン。だから肉体も消えるし、人格とかも消えるかもしれないけど、アートマンは残って、来世に引き継がれていく。
(ヤン) なるほど。 (岡田) その本体だからね。だからそのアートマンっていうものを正しく認識するっていうのがまず第一歩で。で、かつ、それだけじゃ、下達できないんだよね。知っただけじゃ。
(ヤン) あ、そうなんだ。 (岡田) だって、私のアートマンこれだとか、私の名前とかアートマンじゃないってなっても、どうやってそれで輪廻を乗り越えたらいいかってわかんないじゃないですか。でも、だってアートマンはもう勝手に次の来世に行っちゃうわけだから。
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(ヤン) まあ、そっか。そうだね。そこは別か。 (岡田) じゃあ、シャンクラに下達って何よっていうと、それこそがアートマンとブラックマンが同一であることを正しく知ることなんだっていうふうに。
(ヤン) ちょっとこの辺、ややこしいんでざっくり言うんですけど、要は、通常人間が自分だと思って、兄貴がやってくれたような自分の手とか足とかあるじゃん。身体みたいなものとか、あと心もそうなんだけど、それは認識できるからアートマンじゃないんだよね。
(ヤン) 自分の心があるって思われるってことは認識代償にしてるってことじゃないですか。あるかどうかはわかんないけど。だからそれはアートマンじゃないと。もっと言うと、この自分の本体じゃないものを自分だって見出すっていうこと自体が実は輪廻の原因なんだっていうふうにシャンクラは突き詰めるのね。
(ヤン) そう。だったら、輪廻っていうのは、いわゆる因果横行みたいな話に近くて、ある行為をしたときにそこでカルマが生じて結果を自分が受けるっていう、それが永遠に繋がっていくことですよっていう考え方がここで出てくるんですよ。
(ヤン) はいはいはい。だから例えば僕が左足を踏み出すと、その結果としては右足をさらに踏み出しますと。そうすると石につまずきましたよとかあったときに、そういったのは要は自分が動いたから石につまずくっていう結果を自分が受けたじゃないですか。
(ヤン) そういうのを永遠に続けていくことが輪廻で、死んでも生まれて死んでも生まれてっていうことに繋がっていくって考えるよね。なんかわかる?わかる?これ。
(ヤン) いや、ちょっとわかんないな。どういうことだ。今、歩く例でよね。どういうことだ。
(ヤン) 歩くだとわかりづらいかな。要は、途切れないとか、瞬間瞬間刹那を生きていくみたいな話に近くなっていくんだけど。
(ヤン) とか、あと、ウッダのところで、ゴダムシアターのところで、十二縁起の話知ったじゃないですか。覚えてます?
(ヤン) あれ、難しかったやつで、結局理解できずに終わったやつ。そうなんだよ。理解してないんだよ、十二縁起。またちょっとリベンジさせたかもしれないけど。
(ヤン) 何て言ったらいいんだろうな。仏教的なとかインドツー的な世界観で言うと、人間の人生とか世の中っていうのは、一瞬前の結果から次の一瞬の結果が生じているっていう。
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(ヤン) だから、一番可能性の高い世界が一瞬一瞬に生まれているっていう世界観なんだよね。これは四半からの世界観じゃないかもしれないけど。
(ヤン) なるほど、なるほどっていう。多分だけど、さっき左足を踏み出した瞬間みたいな話をしたっていうのが、多分その話で、その一瞬前のものが次の一瞬に繋がり続けているみたいな話で。
(ヤン) それをやっぱり輪廻ってすると、その輪廻のスタート地点どこよって話だよね。今世なのか前世なのか。
(ヤン) もしくは、今世で右足をこっちに踏み出したら来世以降どうなるのかっていうのが、この瞬間決定してしまうみたいな話みたいな感覚ってことだよね、さっきの。
(深井) まさにその通り。輪廻は前世というか過去世。仏陀も何回か生まれ直して修行してきたって話があったじゃないですか。
(深井) それと一緒で、みんなそういう過去世を持っていて、過去のあらゆる行動の連綿とした蓄積が今の自分のカルマとして乗っかっていて。
(ヤン) なるほど。自分のアートマンだよね。認識できないアートマンにはそれがもう脈々と過去世だよね。ものが引き継がれていて、自分はそれを認識できないっていう業を抱えてるんだみたいな話だね。
(深井) そうそうそう。 (ヤン) その左足を認識しないと、最初の一歩目。
(深井) そう、一歩目は認識しない。認識したいんだけど、カルマとしては残ってて。それが次の結果を生むから、原因と結果が永遠に続いていって、自分の人生っていうのは死んでも続くし、来世も続くし、その先も先も続いて、輪廻っていうのが続いていくよっていう。
(深井) それがこの仏教的な、インド自治体的な輪廻の考え方なんだよね。 (ヤン) はいはい、なるほどね。それでそっか、今の今世の自分とは何かみたいなものを通ってたりとか、それって分かんないとか言ってる時点で、もう全然次元が違うんだね。
(ヤン) 自然が違う。 (深井) 自然が違う。 (ヤン) 施生的な人からするとね。 (深井) 施生観がね、この60年とか100年じゃないのよ。 (ヤン) うんうん。さっきの禅門道みたいなのは、今のを表現してるわけだよね、多分。
(ヤン) ああ、そうそうそうそう。だから「お前は誰ですか?」って言われる時に、「今の話すんだよ」っていうことにもなるし。「お前はアートマンだろ」と。前世もあって来世もあるから、その今のバラモンだとか、観の速さっていうのは、なんかシャンチャラおかしいわみたいな。
(深井) はいはいはい。じゃあさっき言った、それを自覚するだけっていうのは、その存在をただアートマンあるんだなっていうのは、ある程度ぼやっとしただけでは無理っていうのは、きちんとアートマンの過去と未来にアクセスしろよみたいな、どこまで含めない途切れだつうは無理だよみたいなのに近いのかな。
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(ヤン) えっとね、じゃあそこをちょっと説明します。さっき言った通り、アートマンが何かっていうのは分かっただけじゃなくて、それがブラフマンと同一だっていうことを知れっていうのね。
つまり、さっき言った通りアートマンっていうのは認識対象にならないですと。もっと言うと、認識対象を分けるから行為と結果とか、原因と結果っていうのが分かれるんだよね。そこに瞬間がなかったら全部一緒なんですよ。
だから、認識対象にできない認識主体であるアートマンっていうものが、自分の本体だっていうことをまず認識して、
世界の始まりとか根本原因のブラフマンとそれが一緒だっていうことが分かると、結局そういった輪廻を生み出す原因である因果の関係とか連綿と続くっていうものをストップできるんだよね。
というか、それはアートマンを正しく認識してないから、そういうふうな世界観で生きちゃってるんだよねっていうことを言う。だから輪廻っていうのはお前の世界観なんだってぐらい。
なので、このアートマンとブラフマンが同一じゃないって思わせる要素があるとしたら、それは全部誤りなんだっていうことを指摘して、
これがシャンからの俗称的な不二一元論って言うんだけど、一元論的な考え方です。2つに分けんなと。
これが不二なんだ、この前出てきた。
これ不二。
あれだよね、何だっけ、唯一無二か、無二じゃない不二だみたいな。
そうそう。
不可能の不と関数字の二だよね。
そうだね。
はい。
そうですそうです。無二じゃなくて不です。だから、無だと無が存在するみたいになっちゃうんだよ。不二は二じゃないっていうことだから。
うん、あのー、そっか。無二だとまだ二元論で語ってるって話なんだね。
そうそうそう。有と無っていうのは存在しちゃうから。
うんうんうん。
はー、ちょっとわかったというか、腹落ちした気がするね。
さっきの左足の一歩踏み出すみたいなとか、一瞬一瞬をみたいな例って、そこだけ聞いちゃうとわかりづらかったけど、
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はいはいはい。
さっきの説明とここまで聞くと、そうだよね、その、だったりとか十二縁起って内容を理解しないといけないと、因果関係、そもそも。
うんうん。
因果関係ですら因とがっていう、もうあの二元論で話してるでしょ、という話だよね。
そう、そう。
アートマンっていうものを認識したとしても、過去とか未来とか、最初の左足一歩目を想像すればそこさえわかればいいのにってまだ苦悩してる時点では、
まだやっぱり、本質的にアートマンっていうものを理解したとは言えなくて、
まだその二元論の中だよね。
その因果でいう因っていう原因の左足の一歩目っていうものを認識しちゃってる時点で、全然ダメだと。
うん。
で、その因とかは分けてるからだよね。
だからその一歩目っていうものと今の自分と未来っていうものが、一続きのもの、分かれてない一つのもの、不二のものであるっていう認識に至った瞬間に、その芸達への扉が開くよって話なんだね。
そうそうそうそう。それが正しい認識であるって話ね。
だから兄貴が言った水槽の比喩は、その観点から間違ってるんだよね。
そうだね。水槽っていう箱が準備されて、その中でいろんな生き物がいますっていう、もう全部分かれちゃってるもんね。
そうそうそうそう。
それがブラッハマンとアットマンが別々の根本原理でやってる世界観なんだけど、それが一歩進んでそれが一緒だって言った瞬間に、ここまでやっぱり思想が飛躍するんだよね。
はいはい。
さっきの木で想像すると、今自分がこの枝の、ここに葉っぱとしてなってるっていうものの因と果っていうものは、やっぱり今の自分の葉っぱっていう存在だけで見ると、いつ落ちて死ぬかも分からないけれども、
やっぱりそこを因と果っていうのをなくする、不二にすると、もうその大木ではない、木がまだ種としてその土に存在するだったりとか、何ならその前みたいな世界から想像する、そこまで自分だよっていう風な部分に行くと、
初めてその丸幹っていうものすらも一つの存在で、そこからも解放される、解脱できるみたいなFHというか、自由になるんだよね、そこから。葉っぱっていうものからね。
そうそうそう。もしも聞いてる方もね、兄貴の自由になるんだよねって言葉が分かんないかもしれないですけど、なおさらにそれで、今木っていうのも一個の比喩で、兄貴が考えた通り木の外にも世界が広がっていて、この地球の外にも宇宙が広がっていて、
宇宙の外には物理的には世界はないけれども、概念的な入れ物としての世界というのが存在するって考えた時に、結局自分という一個の小さい存在と、全てを包む世界の枠そのものっていう存在が、実は一緒だった、アートマンだったっていうところにたどり着きますと。
42:11
そしたら理念なんてないよね。
はいはい、それもなくなるって話ですね。先の木の例で言うとね、具体的に言えるもんね、それがやっぱり、土と木でも同じになっちゃうし、なんだらやっぱり宇宙と地球も一緒になっちゃうっていう、そこも同じように無限ループになっていくから、自分の心が認識できないという、同じ状態になっちゃうんだよね。物音を具体的に表現した瞬間に。
そう、スケールで考えちゃダメなんだよ。だから自分から環境があって世界があってとかじゃなくて、アートマンって自分の根本本体原因と、世界のグラフマンっていう根本本体原因はそのまま即一緒だっていう、この隙間がないっていうのがすごい大事。
なるほどね。まあ、頭でまあね、確かに理解できた感じというか、なるほどとは思うけれども、ここの完全に至るっていうのは本当、あれだね、悟りとか気立ちとか、世界になってくるんだろうなあっていうね。
なるほど。
無理。無理。
でもちょっとなんか、うん、面白さは伝わったと思う。
うんうんうん。ちょっと伝えきれたか、僕自身がこの話がすごい好きなので結構厚く語ってしまったんですけど、何が好きって、このブラグマンとかアートマンとかボンガイチノって結構難しいんだけど、
これを知ることでね、実は結構よくありがちなさ、神と人間は一つだとか、あらゆるものが繋がっているみたいななんかこう主張とかってなんかあったりするじゃん。
あったりするじゃんって、まああったりするんだけど、それらの妥当性ってのは判断できるんだよね。
あー、なるほどね。
概念として強いから、こういう全は一とかなんか全ては一緒とか、人間と世界繋がっているとか言われた瞬間に、それってどのレイヤーで話してますかっていうことを判断できないので、惑わされなくなるんですよ。
それはブラグマンっていうとかアートマンっていうあるものから始まった世界観においてはやっぱりこのボンガイチノっていう考え方はめちゃめちゃ完成されてると思ってて。
いやー、そうか、そうだね。さっきの神と人間は一つだっていうことを二言論的な世界から語ってるのか、本当に不二の一言論的な世界から語ってるのかっていうのが判断できるようになるよねってことね。
そうそうそうそう。相手の論の強さとか、分かってるやつなのか分かってないやつなのかとかが分かるようになる。
そうだね、特定の主張に結びつけようとしてるという意図があるかないかみたいな話まで含めてってことだよね、例えばね。
なんで僕はこのインドジェスタークのこのブラグマン、アートマン、ボンガイチノ説はすごい考え方だと思ってて、大好きなんですよ。
45:09
なるほどねー。
完成されてると思ってて。
そこまで言う完成されてる。
完成されてると思う。やっぱりだって隙間がないもん、このロジックにおいては。
なるほどなるほど。この中で、このテーブルの上ではってことね。
もしくはね、「無から言えば生まれる」とかって前提を切り替えちゃったら違うしとか、なんだけど「輪廻が何か」とかって全部やっぱ説明できてる気がするから。
なんで下達できるのかとかも説明できてるから。
面白いね。じゃあなんでこれを仏教を乗り越える必要があったのかっていうところもまた面白くなってくる。
そう。
この三カ月祭は紀元後700年とかの人の話なので、ここの三カ月祭は多分インド、それこそ仏教とかが明強されてる話だとは思うんだよね。
はいはい、なるほどなるほど。そこに融合みたいなものがある。
やっぱりその大元の思想っていうのは、このバニシャット、紀元前600年とか今から2600年前とかにもあったっていう、このおぼろきをぜひ皆さんにお伝えしたくて、今回、いのちつらくについて語ってきましたという感じですね。
はい。ですね、なので一旦ちょっとね、このブラハマンとかアートマンの話はここまでかなと思ってるんですけど、次回ちょっと冒頭でお伝えした、1回目でお伝えした通り、ちょっとインドの最近の1900年くらいに活躍した哲学者というか言語学者の方がいらっしゃるんで、
そういう人の話とかを持ってきながら、もう少しインド的な思想って面白いねっていうのをちょっと伝えていきたいなって思っておりますと。
わかりそうだね。ここまで来た上で、いのちつらくちょっと興味出てきたね。じゃあ次回も引き続きよろしくお願いします。
はい、お願いします。
はい。ありがとうございます。
はい。ありがとうございました。
はい。ありがとうございました。
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