偶然性の概要
はい、それで哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も引き続き、久喜修造さんの偶然性ということで、前回からあれでしたね、偶然というものをテーマにしてきたというところでした。
そうですね、はい。まず偶然性の問題っていう本があるよっていうところから話していて、
偶然っていうのかね、ちょっと僕らが普段使っているたまたまだよねとかっていうことよりも、結構概念的には必然の規定だとか、
あとは無が有を起こしている状態だとか、そんなん言ったの覚えてます?前回。
そうだね、必然ではないものが偶然みたいなね。
やっぱりどうしてもね、近代までの西洋哲学、近代、現代とかもそうかもしれないけれども、
必然っていうものの一転倒だったところに対して、自分は偶然というものを立てるんだっていうところの背景があるから、
なかなかね、そこが僕も含めてちゃんとわかんないと本当に理解できない、しにくいってあると思うんですけれども、
あくまでも必然っていうのが偶然だよというか、世界で必然だけじゃなくて、偶然っていうのも大事だよねみたいな、
そういうところから始まっている本でございますよというところがあったんですけど、
今回はですね、この偶然っていうものを3つに分けてというか、もともとはもちろん1つなんだけど、
あくまでもその便宜を3つに分けたときに、こんな風に言えるよねとか、こんな風に理解できるねっていうところを追っていきながらですね、
独木さんが偶然っていうものをどのように捉えたかっていうのをより深く見ていこうかなというふうに思っておりますよと。
前、こと前やった息の構造みたいな感じで、偶然の構造みたいなイメージなのかな、3つに分けてっていうのは。
そうだね、息の構造のときは息がどういう風な要素に分解というか、要素からできているかっていう話をしたんだけど、
この偶然に関しては偶然の現れ方っていうか捉え方が3つあるよねっていう感じなんだよね。
種類が3つありますみたいなイメージの。
そうですそうです。
ただ難しいのはさっきも言った通り、偶然っていうのは1つというかこの3つの領域が重なってるよねというか、
あくまでも偶然A、偶然B、偶然Cみたいな感じでパキンと分かれてるわけじゃないよっていうのはちょっと難しいんだけど、
なのであくまでもその根前一体としているものをあえて名付けてみたりとかライブリングしてみたらっていう感じで聞いていただけると思っております。
定言的偶然の実例
早速ではあるんだけれども、1個目が定言的偶然っていう名前で、これ漢字分かんない人もあるんですけど、定言って定める。
定節とかの定に、言は言うね。
的、偶然っていうんだけど、これは論理的な、ロジックで見たときの偶然と指しますって話なんだけど、どういうことかっていうと、
例えば論理って数学とかが分かりやすいと思うんですけど、三角形ってあるじゃないですか。
三角形っていろんな定義があるとは思うんだけど、例えば3本の線に囲まれた図形だみたいな風に定義できますよと。
いうときに、例えば三角形は3本の線に囲まれた図形であるかっていうと、これはロジックが通ってるというか、その通りじゃないですか。
これを実は定言的必然っていう、偶然じゃなくて必然っていう名前で呼んだりするよね。
そういうのもあるんだね。
必然と偶然って両方あるよねって話なので。
定言的偶然って何かっていうと、例えば三角形は大きいとか、三角形は尖っているときに、
大きいとか小さいとか尖ってるとかって、それは本当にたまたまその三角形が大きいだけみたいな感じじゃないですか。
っていう意味で言うと、別にこれが三角形の必然な性質じゃないとか、どの三角形も大きいわけじゃないよねっていう風に、
この同一性が保てないよねっていう風なことを考えるんだよね。
なるほどね。はいはい。そういう論理というか言葉もあるような話ね。
そうですそうです。今のは数学というか三角形の話だけど、
例えばもうちょっと現実の世界で言うと、クローバーの葉っぱっていうのじゃないですか。
あれってクローバーの葉は何枚ですかって聞かれたら何枚って答える?
本当、普通3枚だよね。
そうだよねそうだよね。なのでクローバーの葉は3枚であるっていうのは基本的にはそうだよねって意味で、
こっちは必然、定言的必然って呼ぶんだよね。
それも必然、さっきの三角形と同じような感じで定言的必然って呼んでいいんだ、それも。
そうそうそう、呼べると。
当然皆さんでご存知の通り4つ葉のクローバーもあるじゃないですか。
だからね。
そうそうそう。ただそれはやっぱりレアケース、たまたまだよねっていうところでいくと、
クローバーの葉は4枚であるっていう方が定言的偶然だよねっていう風に捉えられますと。
へー、そうなんだ。難しいね。さっきの三角形で言うとさ、たまに四角があった時にさ、これは例外であるみたいなさ。
そこがちょっといまいちバシッとくっつかないけれども、
一応その話としては定言、どっちも三角形の定義もクローバーの葉は3枚であるという定義についても、
同じ引き出しには入るってことだね、定言的必然というのは。
それの揺らぎというか、その愚かさを持っている言葉なんだね。
おっしゃる通りですね。
だから、ちょきっと分けたっていうよりは、大まかにはこうなんだけどそうじゃないものもあるよねっていう、
いわゆる例外を扱うみたいな感じなんだよね。
もっと言うと、定言的必然っていうのはいわゆるイデアの世界みたいな感じで、
でも三角形のイデアがあった時に、これが三角形全てに同一の性質だとか、
全ての三角形がこれを持ってるとかって言えるんだけど、
でもここの現実の三角形を見たら、当然線が本当にピシッとまっすぐなものなんてないしとか、
それはたまたまこの三角形は線がちょっとぐにゃぐにゃしたけど、
でも三角形と言えるよねみたいな。
あー、はいはい。それと納得だね。
さっきその三角形がたまたま四角形だったらどうするのみたいな話したんだけど、
そうだよね、そうか。三角形は直線3本だみたいな話で言うと、
そうだもんね、現実のおにぎりとか三角なのって時に、
全然直線じゃないけどあれは三角形だとすると、
あれはさっきの直線3本の三角形の例外なんだね、
あのおにぎりのフワンっていう形が。
そういうことね、そういうことね。
だからクローバーの3枚がクローバーであるっていう厳密な訳にする4枚もあるよねっていうのと、
おにぎりは同じような立ち位置だね。
そうだね、おっしゃる通りです。
飛ばしすぎた、四角形どうなのみたいな、いっちゃうものに近い。
そうね、さっき言っちゃったもん、全然別のカテゴリーなんだよみたいなやっちゃうんだけど。
なのでそういうのを指して定限的偶然っていう風に言ってますと。
これまでよりも現実の世界に近づくんだけれども、
さっきの例に挙げたクローバーあるじゃないですか。
もちろん四ツ葉って例外だし、見つけたらラッキーみたいな幸運だってあると思うんですけど、
本当に偶然なの?みたいなことってもう少し疑えるんですよね。
どういうことかっていうと、たまたま四ツ葉ができたとは言うんだけれども、
実際いろいろ調べてみると、もちろん遺伝的に出てくるとかもあるんだけど、
ちっちゃい時に人とか動物に踏まれると傷ついちゃって、葉っぱが。
それが分かれた時に3枚のほうが4枚になるみたいな、そういう風な理由があるらしいんだよね。
そうな、後天的な理由もあるんだ。
そうそう、環境要因があるらしくて。
だから四ツ葉が見つけるのはたまたまかもしれないけど、
四ツ葉ができるとか、四ツ葉になるっていう意味では、ちゃんと原因が言ってありますと。
なるほどね、そうね。
ある種因果関係というと、人とか動物がいっぱい踏んだら四ツ葉になるっていう風な因果関係があるとすると、
もはやそうやって必然じゃんみたいに言えたりするじゃない?
そうね。
そういう時の必然とか偶然っていうものを、福木さんは仮説的偶然とかって呼んでて、
仮説って要は、いわゆるもしなりないならみたいな感じだよね。
仮説と検証の仮説ね。
そうですそうです。
もし人に踏まれたりしたら四ツ葉になるだろうとか、そういう風なものが成り立つものっていうものを、
仮説的偶然とか必然という風に呼びます。
へー、はいはいはい。
なので、さっきの四ツ葉のクローバーとかおにぎりもそうかもなんだけど、
要は定言的には偶然なんだけど、仮説的には必然だと。
仮説的偶然の探求
要はクローバーは踏まれたらとか、おにぎりは手で握られたら、そんな綺麗な直線にはならないよねとかっていう風に、
その原因とは一定説明できるという意味では、仮説的必然だとも言えるんだよね。
へー、なるほど。
じゃあさっきね、今偶然と必然をコロコロ入れ込んでるんだけど、
じゃあ、仮説的偶然って何よと。
あー、確かにそうだね。
今のは仮説的必然の方の話だもんね。踏まれたら四ツ葉になることがあるみたいなのは。
そうですね。
なので、もっと狭いのとかって言うと、一言で言うとね、この仮説的偶然っていうのは、
その原因と結果、その間に同一性が見られないとか、
要は結果がコロコロ変わっちゃうってことなんだよね。
多分これが一般的に言われる偶然に近いんじゃないかなと思うんだけど、
例えばさ、ことわざで犬も歩けば棒に当たるっていうことわざあるじゃないですか。
これって、本来犬が歩くっていうことと棒に当たるっていうことには、
必然的な関係はないというか。
犬が歩いたら必ず棒に当たるわけではないじゃないですか。
まあそうだね。
さっきのもしないないならばっていう時に、
もし犬が歩くならば棒に当たるだろう、
それは明らかに間違いっていうか、ちょっとおかしいよね。
そうだね。
っていう意味で、これはその原因、
犬が歩くっていうことと棒に当たるっていうことの結果の間には、
さすがに同一性というか、必ずそうならとは言えないでしょう。
そういうものを仮説的偶然っていうふうに呼ぶんだよね。
なるほど。
それはあれだよね。
例えば犬が歩くと棒に当たるんじゃないかっていう仮説を、
めっちゃ持った人に対して言える話だよね。
まあそうだね。
なんだろうな。
これって定言的にも言えるのかな。
犬が歩くと棒に当たる。
定言的のほうが、AはBであるみたいなイコールの関係なんだよね。
三角形は三本の字に含まれているとか。
なるほど。定義の話に近いのか。
そうそうそう。定義の話に近くって、
この仮説的のほうは、AならばBとか。
因果でつながってるからちょっと違うんだよね、表現が。
言わずに言っちゃったんだけど、
普通に僕らが生きてる間もそうだよね。
例えば旅行先で昔の友人に出会うとか、
あるいは物を買ったら福引きが当たったとか、
そういうのがあったときに、
物を買ったら必ず福引きが当たるわけじゃないじゃん。
っていうときにこれは仮説的偶然です。
なるほど。
っていうふうな感じなんだよね。
うちらが一般的に持っている偶然の感覚に近い気がするね、この辺。
そうそうそう。
逆に言うと、常にこうなるとか、
常に原因と結果が一致するみたいな必然性ってのがないよね。
必然性の否定っていうふうな意味合いもあるんだよね。
この辺が結構クキさんの哲学の根幹にもつながってきていて、
前に息の構造の話をしたときに、
息っていうものが備体とか諦めとかあったときに、
二元性が重要だみたいな、男女の出会いが重要だって話をしたじゃないですか。
実はこの仮説的偶然のところで二元性っていうのが復活してきてて、
どういうことかっていうと、
さっき言った犬も歩けば棒に当たるっていうときに、
犬と棒っていうのは、それぞれ本来なら関係を持たないっていうか、
別々の、まさに二元性のある関係性じゃないですか。
そうね。
っていうときに、本来なら別々のものが、
この仮説的偶然において出会うというか、
一つの瞬間を共有するということが生まれるんだよね。
偶然と必然の意味
なので、さっき必然性っていうのが同一的というか、
前回か、必然性とは同一性ということで、
それを超えるのが偶然なのかっていう話だと思うんですけど、
この仮説的偶然において、もともと二元性のある犬と棒っていう存在が、
一元的に言えるかどうかはわからないんだけど、
そういうふうに一つの場所に、
集うというか、出会うというか、
そういう働きが生まれますよっていうようなことを言います。
なるほど。
福木さんから言わせると、この仮説的偶然であれからこそ、
人と人とか、人と物っていうのが出会えるんだよね。
そんなことを言うんだよね。
その因と果が生ずるって話はね、何かにね。
そうそう。
ちなみにこれも書いてるらしいんだけど、
偶然の偶っていう人間のやつと、
出会うとかの遭遇ね、
偶、こっちは信用なんだけど、
これどっちも実は会うっていうことを漢字としても意味してるらしいんですよね。
そうなの。どっちも会うっていう。
そうそう、入ってるみたいで。
もちろん偶然の偶って偶数の偶でもあって、
こっちはさらに二つとか並ぶとかって意味はあるらしいですと。
ほうほうほう。
なのでこの偶っていうもの自体が、
それこそ二元性と出会いって、
この両方の二つの意味を持ってるんじゃないかとか、
へー、ほうほうほう。
そういう言葉からしても、
そういう意味を込めてるね込めてるねっていうようなことも指摘して、
この偶然っていうものに含まれる、
出会いと別れじゃないけど、
別々のものが一つになるみたいな、
出会うみたいな。
そういうことをもたらす働きなんだということを説明していくんだよね。
原因の探求
わー、なるほど。
その言葉の由来的なところから見てもっていう感じなんだね。
そうそうそう。そうなんです。
っていう感じで、
この定言的というか仮説的というのは2つ目言ったんですけど、
まあね、これもある種疑おうとは疑えますよねと。
どこをね。
本当に偶然かとね。
素人にどのポイントを疑えばいいか分かんないんだけど。
これはちょっとほんとこりつけだよ。
こりつけなんだけど、
さっきの犬があれから棒に当たるっていう時に、
例えばその日たまたま大雪が降ってましたと。
大雪がね。
で、その時に犬が喜んで庭を駆け回ってるんだけど、
その大雪で視界が悪かったから棒に気づかなくてぶつかりましたみたいな。
この時になった時に、
例えばそれを犬があれから棒に当たったのは大雪っていう原因があったからだみたいな。
っていう風に言えなくもないよね。
大雪が降ったら必ず犬が棒に当たるかっていうのはもちろんそこはあるんだけど、
っていう風に犬と棒の関係だけじゃなくて、
他の第三者の関係も含めた時に因果が成立する可能性がありますと。
なんかこれはイメージわかる。
わかる、うん。
で、さらにって話で、
大雪が降るみたいなことがあった時に、
それもたまたま気圧の変化とか、
冷たい空気がぶつかって、
普段は暗いところに大雪が降ったとかっていう風に、
遡ろうと思うとどんどん原因って遡れますよね。
なるほどね。
そうなると結局大雪が降ったのも偶然じゃなくて必然だよね。
っていう風な感じで、
どんどんこの偶然と必然が遡ろうとすると、
どんどん遡って入れ替わっちゃうってことを想定できるんだよね。
なるほど。なんか風が吹けばケアが儲かる的な話に近いなって。
そうそうそう。
ほんとそんな感じ。
だからどんどん原因って遡れますよねと。
風が吹くっていう原因があったよねっていう風にたどり着くみたいな感じなんだけど。
ある種そんななんだろうな、
それを突き詰めて突き詰めて考えていったときに、
おそらく何らかの、
それ以上遡れない偶然っていうのがあるんじゃないかってことを貴様は考えるよね。
えー、なんか一気に哲学っぽくなったな。
真理にたどり着こうとしてる感じがするね。
そうなんです。
3番目はそういった形状的というか、
まさに究極のものを探しに行くっていう感じがあるんだけど、
そういう風に原因と結果っていうものをどんどん遡っていったときに、
何か究極の原因Xみたいなものがあるんじゃないかと。
これを突き詰め、
この原因Xみたいなものっていうのが、
それ以上も遡れません。
これは本当にたまたまXだ、そういうしかないみたいな、
そういう風なものになっちゃうねっていう風に言うんだよね。
まあそうだね、それを想定するっていうのがわかる気がするよね。
今の話をやってると。
さかのぼっていきますと。
そうなると逆に言うと、たまたまXであるんだとしたら、
別に本当はYでもZでもいいんじゃないかみたいな。
へー、ほうほうほう。
偶然Xだって言ってるんだから。
え、そうなの?偶然Xだって言ってる?
さっき、例えば犬が歩くと棒に当たるが、
実は、例えば雪が降ると犬が棒に当たる的な話で、
どんどんさかのぼっていくと気象条件かもしれないしみたいな話で言うと、
どんどん必然に近づいていく感覚になっちゃうんだけど。
なるほどね。
たどり着いた先が偶然なのかな?
ごめんね、確かにちょっとね。
つながらない?
言えてなかったな、ごめんね。
多分、原因っていう話をしちゃったから、
必然にどんどんなっていくっていう話をしてしまったんだけれども、
えっと、何だろうな。
必然と偶然っていうのが、ある種どんどん入り込みになって遡っていきますと。
必然だと思ったものは本当は偶然だと疑えるし、
偶然だと思ったものに必然という風に意味付けができるみたいな感じだね。
はいはいはいはいはい。
っていう風に、何だろうな。
偶然、必然、偶然、必然って遡っていくんだけれども。
なるほど、なるほど。
そうか、それを無限回数やろうとすると、
どこまで行っても、
例えば犬が歩くと棒に当たるっていう必然だと思ってたものは、
実は偶然だった。
理説的偶然の考察
はいはいはい。
人間の科学としては偶然だと思ってたものが必然だったっていうのが、
たぶん気持ちいいっていう話だと思うんだけれども、
ただその必然も、たぶん偶然である余地が残ってるよねっていう風にはなっちゃうってことか。
そうだねそうだね。
どこまで行ったら必然、これで必然ですっていうことはないよねっていう風には考えられるか。
考えられる、そうだねそうだね。
あーわーむずい、だからそれら入れ込むって話ね。
だから、いわゆる科学なのか何かが発達すると、
さっきの四ツ葉のクローバーも、たまたま見つけたラッキーっていうところから、
いやいやと、これは遺伝的にそうなってるものがあるから、実はクローバーは必然ですみたいな話。
そこがゴールだと、その時は思っちゃうんだけれども。
そうだねそうだね。
実はそれゴールじゃないかもねっていうことは、たぶん証明できないから、
そういう意味で偶然である余地が残ってるんだね、その必然には。
仮の必然にはみたいな。
本当に綺麗に言ってくれてありがとうございます。
本当にそう、本当にそうで、
やっぱりどこまで突き詰めても、絶対にこれが始まりだとか、
これが正しい必然のスタートだっていうふうに言って、やっぱり言い切れない。
なのでごめん、さっき言った通り、究極の原因Xとかって言ったんだけど、
それもなんでXですかっていうふうに、例えば質問したときに、
それでなぜならって言えちゃうと、それも必然、またさらにその奥に必然があるっていうふうになっちゃうじゃない。
なので、この究極原因XはたまたまXだとしか言えないというか、
それ以上の説明ができない領域のことを考えてるんだよね。
ここまで来ると、たまたまXでしたってなっちゃうと、
じゃあ別にXじゃなくてYでもZでも良かったんじゃないみたいな。
そういうふうに入れ替え可能になっちゃうんだよね。
そうなっていくと、さっきから偶然って発想してるんですけれども、
この究極の原因Xってのは本当に偶然でしかないので、
これをこきさんの考え方の中で、
同じものをさっきの定言的とか仮説的っていう言葉と並べたときには、
理説的偶然って言葉になっちゃって、結構分かりにくいんですけど、
接続っていうのは離れて接するっていう意味で、
選択肢があるみたいな感じなんだよね。
さっきまでは、AイコールBとか、AならばBみたいな感じで言ったんだけど、
並んでるときに、AですかBですかCですか、どれを取りますかっていうふうなことを考えるんだよね。
この理説的偶然というのを考えると、
例えば人間が生まれるみたいなことを考えると結構分かりやすくて、
例えば何月何日に生まれましたかとか、
親は誰かとか性別は何かとかって、
ある種、何であってもよかったわけじゃない。
2月に生まれても3月に生まれてもよかったし、
別に親が今の親じゃなくてもよかった。
ただ、たまたま妊娠の期間とかいろんなものの中で、
もちろん10ヶ月後に生まれるとかってあるんだけど、
それも結局偶然ですと。
なので、1個目の仮説的に考えると、
親が例えばいついつ出会ったからとか、
DNAの構造上男性だったからとかっていうふうに必然性も見出せるんだけど、
それはさっき言ったみたいに、
偶然、必然、偶然、必然、偶然って遡っていくと、
結局はある種、別に男でも女でもそれ以外でもよかったよねとか、
でもたまたま男として生まれたよねっていうふうな、
やっぱり語れなくて仕方ないよねと。
その原因も、原因そのものがあったとしても、
それも偶然だから、もちろんわからんねっていうね。
本当のところはね。
だからそういう意味では、
人間っていうものは理説的偶然によって存在しているんだっていうふうに、
クキさんは考えるんだよね。
つまり、ある人がなんでその人なのかっていうのは、
本当に偶然でしか語れないというふうに言います。
もっと言うとね、
人間だけじゃなくて世界そのものみたいなものも、
実は理説的偶然なんだっていうところまで発想してるんですよ。
なるほど、だいぶ広げてくね。
どんどん広げてくんだけど、
こう言い切っちゃうと、
ある種一神経的な世界観というかさ、
世界はある種絶対の神が作ったんだみたいな。
もっと言うと、
君っていう必然があって、
世界があるっていうふうな考え方と、
すごい対立しちゃうんだけど、
あくまでもクキさんに言わせると、
世界っていうのは今のようにある理由とか、
なんでこの世界がこうなってるのかってことに対して、
必然的な理由はないんだよね。
はいはいはいはい。
ないですと。
もっと言うと、
別にこの世界がなくてもおかしくなかった、
っていうふうにも言えるって、
クキさんは考えるんだよね。
そういう感覚って感じることあるかな?
感じというか、
今回の話からすると、
そういう分岐点だよね。
たまたま一個のスタートがあったとして、
こうやって地球が水があって、
緑が大石に似てる地球みたいなのもあるかもしれないし、
ある意味その隕石で本当にむっ壊れてしまった地球という
パラレルワールドもあるかもしれないみたいな。
地球の分岐点がいろいろあると考えると、
全然イメージはできるよね。
そうですよね。
まさにパラレルワールドとか平行世界とかっていうのは
結構近いイメージだと思うんだけど、
例えばね、
わかりやすく数字で言ったときに、
偶然と必然の対比
1から引くまで数字がありますと。
今目の前に1っていう数字があるんだけど、
1っていう数字が存在する裏には、
2から100までの
99個の数字がなかったっていう事実というか、
そういうものが一緒にくっついてるっていう風に考えられるんだよね。
なので、今日の冒頭でも、
偶然っていうのは、
無が有を犯しているとか、
無と有がくっついてるって話をしたと思うんですけど、
今言ったみたいな感じで、
1がある裏には、
今はない2から99があるとか、
今の僕らの地球とか世界がある裏には、
地球が壊れた未来っていうものがなかったということがあるみたいな、
そういう風なことも考えられるように言うんだよね。
はいはいはいはい。
そういう風に考えると、
やっぱり世界が、
国際は必然じゃなくて偶然だっていう風に言いたいわけなんだけど、
どこまで行っても、
世界がこのようにあるとか、
僕らがこういう風に生きているってことに対して、
必然っていうものが、
考えることはできるんだけど、
必然だけでは足りないよねと。
もし必然だけで語ろうとすると、
結局それこそ神の意思みたいなものとか、
絶対者みたいな、
そういう存在とは立てなきゃいけなくって、
それまでも違うよねっていう風なことを言いたいんだよね。
まあそうだよね。
それ作ったところで、
それも偶然性の中に収まっちゃうもんね。
そうそう。
結局なんで君がいるのとかっていうのも、
神の意思ですっていうか、
たまたまですっていうか、
どっちが説得力あるんですかみたいな感じだよね。
うんうんうんうん。
うん。
はい。
なので、ある種の特殊な世界観においては、
今言った原始偶然、
理性的偶然っていうものが、
神の位置を占めるって言うと言い過ぎなんだけど、
ある種、始まりっていうものがそうとしか言えない、
そういう偶然的なものとしか言えないっていう風なところから、
この福木さんの世界観というのが生まれていくんだよね。
うんうんうん。
しかもそれが絶対ではないと、
それも偶然であるみたいな、
そういう予知というかね、
残してるのがなんか面白いね。
そうだねそうだね。
ある種、前も誰か説得力あったと思うんだけど、
きっちりしてない分ちょっとつかみにくいんだけれども、
ところは広いというか受け入れやすい感じはあるよね。
まあそうね、前回も話した通りだけれども、
現実世界を捉える
やっぱり自然性の哲学的な話をすると、
やっぱりどうしても実験室的な話にはなっちゃうよねっていうね。
そうだねそうだね。
風もない摩擦もないみたいなさ。
気温の変化もないみたいなところで、
そこだったら確かにそう言えるよね。
因果関係の必然って言えるよねみたいなところだけれども、
現実世界そうじゃねえでしょと。
そうそうそう。
風もあるし温度も変わるしみたいなときに、
同じことやっても周りの環境のせいで結果異なるよねっていう、
そっちにアプローチするとなると、
この久喜さんの今回のような話になるのかなとは思うね。
そうだねそうだね。
やっぱり今回ずっとお伝えしてると、
久喜さんって現実の生の生というか、
生きるっていうことを哲学したいんだっていうふうに発想があるから、
やっぱりそこにどんどん結びついていくって本当にそうなんだよね。
久喜さん自身はね、この世界っていうのは偶然だってことに関して、
こんなふうに書いてるっていうのがあるんだけれども、
現実の世界っていうのは偶然的存在なんだと。
何らかの意味で全体的な、
もうさっき言ったAとかBとかCとかっていうふうな、
いろんなものがある中の単に一つに過ぎないんだっていうふうに言ってるんだよね。
だからこそ我々、私たちは一つが存在するってことについて、
驚くんだと。
要は本当はなくてもよかった世界っていうものがまさにあるじゃないかとか、
その上で、この世界の上でこんだけのことが起きてるっていうことがなんて、
不思議なことなんだというか、
その偶然によって生かされてる我々っていうことを考えたときに、
やっぱり驚きとか、どこみが出てくるのかっていうふうな話を考えるんだよね。
それもくちさんがそういうふうな感覚で捉えてるんだね。
そうそうそうそう。
だから偶然ってある種儚いとかさ、
たまたまそうなっただけで意味がないとかっていうふうに思いがちなんだけど。
なるほど。これもちょっと虚無主義的な方に行けるんだ。
行ける行ける。
この世界が偶然なら別に自分の生きるところにも意味がないとかっていうふうにも言えたりするじゃないか。
リーチャーの時とかもそういう、なんかあった気がするな。
そうそう、ルサンチマン的なね。
次回撮って、実はそういうリーチャーとかも少し触れてたんだけど、
やっぱりきょうきさんとしては、そこで、
いわゆる虚無主義とかに陥るんじゃなくて、
むしろその偶然に感謝しましょうというか、
その偶然の力を知れば知るほど、
何かが存在する、自分が存在するっていうことが
どれだけすごいことかっていうのが見えるよねみたいな、
そういうことを考えていくんだよね。
そうなの。
くちさんはあれやんないのは、
この偶然性をコントロールしていくにはみたいな話はきっといかないじゃん。
錬金術的な、禁断の。
禁断のね、ライブハック術みたいなね。
ここをこうすると、この面がこっちに。
偶然に目を向ける意義
世界はこっちに動くはずなんで、
こっちはいかないんじゃね。
いかない、いってないと思うんですが。
ちゃんとそれ自然として捉えてるんだね、
ちゃんとその偶然性。
そうですね。
それを正しく捉えましょうみたいなのはあるかなとは思うんだけど、
正しくって何よっていうと、
要はさっき言ってるやっぱり、
無と言うっていうものとか、
偶然と必然っていうものを、
ちゃんと両方見ましょうねっていう話なんだよね。
はいはいはいはい。
やっぱり近代西洋哲学だと、
必然だけとか有、あるっていうことだけは問題してたんだけれども、
そこに対してないとか、
偶然とかっていうものも含めて、
初めて世界っていうのはちゃんと捉えられるよねとか、
そこをちゃんと意識していきましょうっていうところが、
一番伝えたいことなんだよね。
全部無理矢理必然に済んだよっていう多分、
違和感があったんだろうね。
そうだね。
あと、今回聞いて浮かんだイメージがあったから、
今回は理解度のチェックも含めて聞いてもらいたいんだけれども、
はい、なんでしょうか。
今回で言う必然、クローバーにせよ何せよ、
それを必然じゃないか、
因果関係みたいな仮説的偶然みたいなものが、
実は必然なんじゃないかっていうところに到達したいってなったときに、
さっき犬の場合でも雪が降ったから空が積み上がった、
どんどんさかのぼっていくイメージがあるんだけど、
それをアミダクジのイメージで持つと、
結構今回の話って理解しやすいんじゃないかなって思って、
アミダクジのゴールから一番下からたどると、
必ずスタート地点に行くじゃん。
はいはいはい。
同じスタート地点。
そうだね。
普通は多分そう考えちゃうんだろうなと思って、
必然性の哲学的な話で言うと、
もう今ここにうちらがあるってことは、
ここをこうやって正しくアミダクジを遡っていくと、
絶対何回やってもここにたどり着くじゃん。
ほらねみたいなイメージを多分持ってるんじゃないかなと思って、
はいはいはい。
多分今回の話で言うと、
仮説的必然とか定言的必然みたいな、
仮説的の方は難しいかもしれないけれども、
やっぱり現実の世界を説明するとなると、
やっぱりそう簡単にはいかない。
必ず現在地からスタートして、
同じところにたどり着くみたいなことは、
多分ないっていうことを、
ヴィクシャーはすごく感覚で捉えてたのかなと思って、
だから現実世界って多分、
アミダクジと一体的に、
アミダクジと一体的に、
アミダクジと一体的に、
アミダクジと一体的に、
うん。
必ず違うところからスタートするときは 違うところに行くし、
はいはいはい、
ポチッってボールがさ。
ポチッってボールがさ。
必ず違うとこからスタートすると、
はいはい、
そのナマって、
はいはい。
ariを持っている人が、
ある度なんかもう、
やはりいろいろ対応して
一番左に到着した
ここはさっき言った
Xみたいな話あったじゃん
原始偶然
原始偶然Xにたどり着きました
1時間後になったら
やっぱ動いてるから線は
せっかく遡ったのに
Yの方必然になって
偶然Yの方に行っちゃいましたみたいなね
だからそのXYZの
下跡はどれでもいいんだっていう感覚に
すごいイメージできやすいなと思った
そうだね
それはすごくやっぱり近いなと思う
実際その本とかに書いてある図だと
アミノエクジの始まりの方が
一個に集まっちゃってるんだよね
僕らが世界を見るときは
Xっていう世界に生きてるから
さかのぼるとXにしかたどり着かないんだけど
今ヤニケーって言った通り
本当はYでもZでもいいってなると
そのXだけじゃなくて
Yとかにたどり着く可能性も
ゼロではないというか
っていう風にも全然言えるよね
一つから始まってどんどん枝分かれしていく
遺伝とかさ
人類の存在みたいなのとはちょっと違う
アミノエクジみたいな図にはなるかもね
そうだね
それが素晴らしいというか面白いと思う
さかのぼるという意味では
過去とか時間で言うと
過去になっていくってことだと思うんだけど
これが面白くて
必然というのを考えたら確実に
過去の方にどんどん目が向くんだよね
要は今起きてるのは
結果っていうのは原因から起きるから
そうすると過去へ過去へとどんどん行くじゃないですか
なんだけど
偶然というものを捉えると
別に過去と現在の結果が一致しないことがあるから
あくまでも目線というか
現在に向くよねとか
要は見るべき場所が変わるよねっていうことも
すごい
なるほど
そうそう
だからそういう意味では
例えばじゃあ僕らなぜ生きてるんだとか
っていう時に
原始偶然Xを捉えに行こうとすると間違いで
今生きてるこの自分とか
自分を取り巻く環境というものに
ちゃんと目を向けましょうよとか
なんで今こう生きてるのかって思って
やっぱり今この瞬間か
ちょっとその前後ぐらいにやっぱり答えがある
っていう発想になりやすいのが
偶然っていうところの世界観なんだよね
面白いね
そうするとちょっと未来に目が向くというか
確かにちょっと日常的でもあるし
ある意味東洋的でもあるしというかね
この一瞬一瞬で自分が作られてるし
この今の一瞬一瞬で次の自分というか
次の世界も作られていくっていう演技じゃないかとさ
そうそうそうそう
ちょっと無理やりかもしれないけどね
そういうイメージがお互いしやすくなるかもしれないね
そうそうそう
これ面白くてやっぱり
必然と偶然の探求
仏教的なこともどちらも含んでるんだけれども
演技とまたちょっと違うのが
演技はとはいえ原因と結果の世界なんだよね
前にカルマの話をしたと思うんだけど
前世のカルマで
今世のあなたの運命が決まりますみたいな
そういう世界観なんだけど
偶然だともう少し可能性というか
なんだろうな
ある意味自由意志みたいなものは
語りやすくなるんだよね
なるほど
要は今この瞬間はAかもしれないけど
次の瞬間Bになってるかもしれないっていう
そういう可能性を開けていきますと
なるほど
演技の縁の方にあんま縛られなくなるのか
そうそうそう
無駄にというとあれだけど
そういうことです
面白いね
なんかそれはバランス覚悟とか
西洋哲学っぽい
犠牲みたいなものを含んでる気がするね
だいぶ
そうそうそう
そうなんだよね
面白い
ガチガチに演技の世界に固められるわけでもなく
全ての始まりみたいな
神とかに捉えるわけでもなく
その中で人間として偶然中に生きるって
どういうことなんでしょうねとか
そういうことが打たれるのは
偶然性っていうものの世界観なんだよね
へー
なるほどね
なかなかバシッと捉えにくい概念かもしれないけれども
そうだね
この世界観っていうのはすごく
やっぱりクリスタンがやろうとした通り
すごく現実に立脚してる感じがするね
なんかね
そうだねそうだね
今回はちょっと低減的とか
節積というかちょっと
堅い言葉を使ったので
イメージしにくい部分もあったかなと思うんですけど
本当にまとめた兄貴が言ってくれたストーリーで
人間いろんな見たくじを歩いてると
この人から出発しても
その横の棒が変われば
どこに倒れつくかってやっぱ分かんないし
やっぱり一回戻ってちょっともう一回進むときに
また違うところに行く可能性もあるよねっていう意味では
本当に結構ね
見たくじの例は本当に分かりやすいなって思った
というふうなところで
たぶんそこのイメージしながら
そういうことかって聞いていただけたら
すごく嬉しいなって思うんですけれども
今回そういった
ちょっとこれも構造的な話ではね
偶然というのが三つの領域があって
それが低減的仮説的実践的でした
というふうな話をしたんだけれども
次回ね福木さんの最終回になるんですけれども
運命と自由意志
この捉え方を通じて
まさに今言ったような
世界観での生き方というか
そこで何が大事になるのかとか
もっと言っちゃうと
いわゆる運命っていうのがテーマになる
っていうようなことを語ったりするんだよね
ここで運命という言葉が出てくるのか
これ1年前の偶然とかを扱った時にも
やっぱり運命との関係性とか言ったと思うんですけど
それは今回の福木さんの
この偶然という話を踏まえた時に
どんなふうになるのかというか
どういうふうに捉えられるのかというところを
次回お伝えして
福木さんからの最後にしていきたいなと思うように
思っておりますという感じですね
だからある意味
次の最後だけ教えてくれよっていう話ではあるよね
結論だけで言うとね
でもやっぱりそれだとね
理解できないと思うんでっていう
お伝えくださいっていう感じだね
プロセス分かんないままね
っていう話になっちゃうからね
では次回ですね
その偶然性のまとめというところで
引き続き楽しんでいきたいと思います
では次回もよろしくお願いします
お願いします
今回もありがとうございました