事業や仕事を考える上でのシンプルなモデルと現実の乖離
僕たちが事業や仕事を考える時って、結構シンプルで綺麗なモデルを考えて、その通りに進めようとしがちなんじゃないかなと思っています。
でも実際そうやってやっていくことはあまりないのかもと思っていて、
すごくよく考えていられれれば別なんですけど、そうじゃなければうまくはまらないんじゃないかなと思っています。
偉そうなことを言っているんですけど、多分僕もその罠にはよくはまっていて、
ツールとかで自分のやることとかを、タスクの管理とかをするときって、
綺麗にこれ使ってうまくできました、はいおしまいみたいな、そういう綺麗なモデルを考えちゃって、
それにはまらなかったら、なんでもう一回いかないんだって考えちゃいます。
実際こうやっていること、自分たちが普段やっていることって、そんなに綺麗にできていることはないので、
そういった考え方は捨て去った方がいいんじゃないかと思っていて、
そういうような考え方で、変にとらわれることがうまくいかないということを生み出しているんじゃないかなと思います。
特に僕はITシステム開発とかの仕事の経験が影響していて、
物事を整合的に綺麗に捉えたいという考えが多分強めで、それは良くも悪くも影響しているんじゃないかなと思っています。
なので物事をやろうと思ったときに綺麗に捉えて綺麗にやろうとする。
タスク管理もそうだし、新しいビジネスモデルとかそういうのを考えたときに、
フレームワークとか考えて、じゃあこういうビジネスが成り立つんじゃないかみたいな、そんな感じの妄想をしているとかしますと。
でもそれって結局物事の捉え方としては浅くて、
もちろんそうやって綺麗にはまってうまくいくというのはあると思うんですけど、
そういうふうにうまくいくという過程を一旦捨ててやった方が実際はうまく物事を進められるんじゃないかと思っています。
物事を振り返ったときに一貫性とかブレないというのを重視しがちですけど、
それは一旦忘れてしまって、一個一個についてどういうことができたのか、何をやったのかというのをもう少し引いてみた方がいいんじゃないかと思っています。
なので毎日そういう視点で生活を見てみて、振り返りでいうとちょっとしんどく感じるんですけど、
振り返りにおけるメモ帳としての現実の補助線
振り返りというと物事を正してあるべき方向に持っていくというようなイメージが強くて、
それをやろうと思うとすぐ挫折しちゃう気がするんですよね。
そうじゃなくて、発見するための叩き台として見ていくのがいいんじゃないかなと思っていて、
そういう意味でいうと、事実をきっちり書きました、これをこういうふうにやっていきますというようなものじゃなくて、
占いみたいな感じで捉えた方がいいんじゃないかなってちょっと思いました。
占いみたいな捉え方というと、占いで例えば亀の甲羅に割れ目を入れて、それで現実を見ていくという捉え方をします。
これは社会学者の植島圭司さんが、確か生きる力か偶然の力かという本で紹介されていたエピソードなんですけど、
物事を捉えるときに現実がとても不確実なので、それを捉える補助線として占いを使うと。
そうすることによって不確実な未来にある程度の方向性を持たせて生きていくことができるというエピソードを紹介していて、
日記もそうですし、振り返りもそうなんですけど、記録で事実だと考えてうまくいっているのかうまくいかなかったのかというふうにやるとたぶんしんどいので、
そういう捉え方じゃなくて、現実を捉えて未来を方向づけるための補助線として記録して、それをもとにこの後どうしていくかというのを考えるというスタンスがいいんじゃないかなと思いました。
なので、今からつけるような日記とか振り返りのメモとかも、うまくいっていかなかったとか、これが成功した、成功していないじゃなくて、こんなことがあったなぐらいな感じで振り返ってみるためのメモ帳としてぐらいの位置づけにしておくのがいいんじゃないかなと思います。
以上です。