言語記号シーニューの特徴
始まりました、志賀十五の壺。皆さんいかがお過ごしでしょうか。レディーガガです。
言語というのは、記号と言われることもあります。記号の体型と言われることがあって、
一つ一つの単語、あるいは形態層は、シーニュと言われることがあります。
このシーニュと言われる言語記号は、シニフィアンとシニフィエという二つの側面からなっている、表裏一体の存在だみたいにね、よく言われるんですね。
この話は、ソシュールを取り上げた過去のエピソードで、おそらく話していると思うんですが、
なかなかね、不簡易ですよね。 普通記号と言ったら、
それでもって何かを指し示しているものっていうふうに考えられると思います。 例えば地図記号なんかが記号と聞いたときに思い浮かぶと思うんですけど、
あるいは道路の交通標識とか。 例えばフォークとナイフの記号があったら、それはレストランを表している、
レストランを指し示しているというふうに考えられるんですよね。 で、そういったパッと思い浮かぶ記号と、
言語記号シーニューを見比べたときに、 シーニューが他の記号と違うのは、
表すものと表されるもの、シニフィアンとシニフィエっていうのが一色たになっているっていうのが、
言語記号シーニューの大きな特徴です。 まあちょっと似たようなことの繰り返しになってますけど、
言語記号だって何かを指し示しているじゃないか。 犬という言語記号が犬を指し示しているじゃないかということですが、
犬という指示対象を指し示しているのはシーニュー全体なんですね。 で、そのシーニューの中身、犬というシーニューの中身に
シニフィアンとシニフィエがあって、 シニフィアンっていうのは言語だったら音の側面ですね。
あるいは文字っていうこともあると思いますが、 聴覚的なイメージとか言われることもあります。
表す方がシニフィアン。 シニフィエっていうのはシーニューの概念的な側面で、
で、その音のイメージの側面と概念の側面が一色たになったシーニューが犬という指示対象を指しているというふうに考えるんですね。
決して犬という聴覚イメージだけが犬という指示対象を指し示しているわけではありません。
なんで冒頭でこんなややこしい話をしたかというと、 言語学にとってこの考えっていうのが一つ重要だっていうのはもちろんあるんですが、
このシニフィアンとシニフィエの関係、 シーニューっていうのはこの2つの側面を持っているっていう観点から見ると、
固有名詞っていうのは シニフィエなきシニフィアンだということができるんですね。
これは非常に面白いことだと思います。 シニフィアンだけしかないというか、
ある意味シニフィエの方はゼロで空っぽで、 その音だけでもって指示対象を直接指し示しているということです。
ちょっとこの話を掘り下げる前に、 そもそも固有名詞っていうのは言語の中で相当変わったものと言えると思います。
まず辞書に載ってないですよね。 辞書に載せるようなものでもないということで他のシーニュー、
単語と異なるものだし、 あるいは翻訳っていうこともされません。
ある固有名詞が別の言語に入ったとしても、 多少その言語に合わせて音が変化するということはあると思うんですが、
翻訳っていうことはなされません。 語学にとっても固有名詞っていうのは
結構どうでもいいというか、ある意味でどうでもいいもので、 固有名詞だから固有名詞だねっていう感じなんですよね。
固有名詞の特殊性
わざわざそれを掘り下げることもしません。 さてそれでシニフィエなきシニフィアンだというのはどういうことかというと、
普通の名詞、普通名詞犬っていうのに対して、 例えば固有名詞っていうのはポチとかですよね。
でまず犬っていうのから考えると、 シニフィアンの方は犬という聴覚イメージがあって、
で概念として犬っていうのがあるわけですが、 まあそれは
ある意味象徴化された、 あるいは他の動物というか他の事物から区別してカテゴリー化した犬という概念があるわけですよね。
でその繰り返しですけど、 聴覚イメージの犬っていうのと概念的側面が一緒くったになったのが
犬という単語、言語記号シーニューです。 でそれに対してポチっていうのは
シニフィアンの方はあるんですよね。ポチっていう音というか、 聴覚イメージがあります。これがシニフィアンです。
で表される方のシニフィエっていうのはどうなっているかというと、 まあないんですねこれが。シニフィエっていうのがなくって
直接指示対象、ポチというその個別の犬に、 まあアクセスしてるっていうことなんですね。
このシニフィアンとシニフィエという側面から見ると、固有名詞っていうのは シニフィエなきシニフィアンという、まあちょっとかっこいい言い方ができるんですね。
また別の言い方をすると、 固有名詞には意味はないという考えもあるんですね。
だからこそ辞書で記述されるようなことはないわけですけど、 まあこれもなかなか面白いですよね。
固有名詞には意味はない。 まあある意味説明できないですもんね。
4月15のツボ。
言語の研究で固有名詞っていうのはそんなに取り上げられることはないんじゃないかなと思います。
むしろ固有名詞以外の言語記号が持っている、 さっきちょっと言った象徴化とかカテゴリー化っていう方が
言語の本質をついていて、 そういった言語の象徴化する力とかカテゴリー化・範疇化する力がなければ、
逆に言語っていうのは固有名詞ばっかりになっちゃうということです。
一つ一つの事物に別個の名前がつくということですけど、 まあそれってキリがないというかね、
現実的にはありえないということがすぐ想像できると思います。 そういう言語の持っている範疇化能力に対して、
固有名詞っていうのはそれの逆を言ってるっていう感じですよね。 カテゴライズある意味でしてないということなので、
そういった意味で固有名詞っていうのは言語の中でかなり例外的だし、 シニフィエ・ナキ・シニフィアンっていうのもその言語の本質から
かなり外れてますので、 だから例外的ということですね。
というわけで今回は固有名詞についての話でしたけど、 まあそもそも
言語記号シーニュっていう考え方が シニフィアンとシニフィエの異色体になったものっていう
この考えがですね、記号と言われてイメージするものから ちょっと違和感を覚えるようなものなので、
まあなかなかねその辺も含めて難しいというかね、 だからこそ面白いとこではないかと思います。
それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう。 番組フォローも忘れずよろしくお願いします。
お相手はシガ15でした。 またねー!