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始まりました、志賀十五の壺。 ブランコ大好き、志村隆です。
今回のトークは、私が彼に話しかけてきた、
なぜこの文が変かっていうのをお話ししていこうと思います。 私が彼に話しかけたなら ok なんですけど、
てくるっていうのをつけて、話しかけてきたっていう言い方にしてしまうと、途端に変になってしまいますよね。
結論先に申し上げておくと、何々してくるっていうのは、
一人称の主語の時には使えないんですね。 つまり、私がっていう主語の時には、話しかけてきたみたいな言い方はできないということです。
こういうの専門的に認証制限があるみたいな言い方をしたりするんですね。
もしね、もしっていうか多分このトークを聞いてくださっている方は、大抵日本語母語化者だと思うんですけど、
私が何々してくるっていう言い方はしたことないと思います。 ただね、物理的な移動の場合はちょっと別で、私がやってきたみたいな言い方は
できるので、もうちょっと抽象的な動作の方向性みたいな場合の
てくるの場合は、主語は一人称を許容しないということになっています。
むしろその動作の影響を受けるのが何々してくるっていうことになるんですね。
話しかけてきた、単に言った場合、 誰に向かってっていうのは出てきてませんけど、
私にっていうふうに解釈されるんですね。 あるいは
教えてきたみたいな言い方すると、 なんかちょっと迷惑な感じのニュアンスが出てくると思うんですけど、
これもやっぱり教えてきたと単体で言った場合は、 私以外の誰かが私に向かって教えたっていうことが、
動詞だけに含まれているっていうことになるんですね。 過去のトークでもお話ししたことがあるんですけど、
日本語は主語を省略する言語だ、みたいな言い方がされることがあります。 省略っていう言い方が正しいかどうかは置いといて、
確かに日本語は主語が出てこないことが多いです。 その理由として、
動詞を見れば何が主語かわかることがあるっていうのがあるんですね。 今言ったように話しかけてくる、みたいな言い方をすれば、
これは主語は一人称以外で、その動作の方向、 話しかけられた人が私であるってことが、動詞だけでわかるってことなんですね。
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こういった仕組みは他にもあって、 教えてきたの場合はちょっと迷惑な感じがするってさっき言いましたけど、
教えてくれたっていう言い方をすれば恩恵があるって感じですよね。 でまさにこのしてくれるみたいなものも主語が何かっていうのを
あんに表していて、 してくれるっていうのもしてくると同様に一人称が主語にはなれないんですね。
私が教えてくれる。 まあ罵り言葉としては使うことはできるんですけど、普通してくれるっていうのは
一人称、私以外の人物が主語で、その動作の方向性が、 話しての方向である、私の方向である
ということを表してるんですね。
こういうふうに動詞の形をいろいろ変えることで、 主語が何なのかっていうのがわかることが日本語であるんですけど、
ただ日本語の場合は、 普通デフォルトとして主語っていうのは一人称として解釈されると思います。
何の文脈もなく財布を落としたと言ったら、 まあ私が落としたっていうふうに解釈されると思うんですよね。
あるいは、 知らない人に話しかけたって何の文脈もなく言った場合も、やはり主語は私がだろうと、
日本語母語話者だったら解釈すると思います。 なので、
ただ動詞を出すだけだと主語は一人称と解釈されてしまうので、 話しかけてきた、話しかけてくれた、こういう言い方をすることによって、
主語は一人称じゃないということを表しているということもできると思います。 なんかややめんどくさい言い方になってますけど、
もう一回言っとくと、 普通日本語の文の主語っていうのは特に出てこない場合は私一人称と解釈されるので、
主語が一人称じゃない場合は動詞の形を変えなきゃいけないっていう、そういうことになると思います。
で、今例に挙げた話しかけてくるとか話しかけてくれるとか、 こういったものもそうですけど、
あるいは何々がるっていうのもそうですね。 おもちゃが欲しいといった場合、普通これは一人称として解釈されて、
おもちゃを欲しがっているみたいにがるっていうのをつけると、 これは主語は一人称以外であると解釈されるんですね。
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寒いと寒がっているも同様の対立ということができると思います。 あるいは敬語っていうのもそういう側面があると思いますね。
言うっていう動詞に対して、 例えば申しますっていう言い方をした場合、主語は一人称に限定されるんですけど、
正確には一人称とその周辺っていうね、うちの関係とか言ったりするんですけど、 それに対しておっしゃるっていう言い方をすると、主語は一人称以外である。
これを外の関係と言ったりします。 っていうふうに、
その謙譲語や尊敬語っていうのは敬意を表すっていうのはもちろんそうなんですけど、 主語が何であるかっていうのを
動詞だけで表している仕組みと言えなくもないんですね。 この点については関連トークがあるのでぜひ聞いていただけたらと思います。
今までの話を聞いて、日本語って面白いなぁと思われたかもしれませんけど、 まあ日本語に限った話ではないですね。
動詞の一致をするような言語はまさにそういう言語と言ってよくて、 主語が一人称だったら一人称の形、二人称だったら二人称の形、
三人称だったら三人称の形っていうふうに動詞がね、 いちいち形を変える言語ってたくさんあるので、
まあそういった意味では別に珍しくはないんですね。 ただ冒頭お話しした話しかけてくるみたいなのは
やや珍しいかもしれません。 話しかけるだけだと
主語が一人称で、一人称から誰かに向かっての動作を意味して、 話しかけてくるとなったら
逆に一人称以外から一人称に向かってという、 まあそういう方向が変わるってことですよね。
こういうふうに動作の方向に従って動詞の形が変わるっていう言語は、 カナダのアルゴンキン語族っていう言語のグループがあって、
そこのクリー語っていう言語でこういった現象があるんですね。 つまり動作が一人称から一人称以外に向かう時と、
一人称以外から一人称に向かう時とで、動詞の形を いちいち変えなきゃいけないんですね。
でこれはちょうど話しかけると話しかけてくるの対立と似ています。 こういうのを順行と逆行とか言ったりするんですね。
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一人称からその他が順行で、その他から一人称が逆行という言い方になります。
まあ日本語に限らずですね、一人称っていうのが最も主語になりやすくて、 そうじゃない場合は
そのクリー語みたいにね、なんか特別な動詞の形を 使わなきゃいけないっていう言語は
まあまああるみたいですね。で日本語の何々してくるみたいなのもそういったものかも 知れません。
というわけで今回のトークは、何だろうな、 主語と認証制限の話とか言えばいいですかね。
やややややこしい話でしたけど、最後まで聞いてくださってありがとうございました。 また次回のトークでお会いいたしましょう。
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