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始まりました、志賀十五の壺。みなさんいかがお過ごしでしょうか。館長伊藤です。
今回のトークは、言語学の証拠性というものについてお話ししていこうと思います。
あんまり一般には広まってない用語ではないかなと思いますね。証拠性。
これはどういうものかというと、その文というか発話が、その情報をどうやって得られたか、情報源は何かというのを表すのが証拠性というものです。
ちょっとピンとこないかもしれませんけど、例えばね、天気予報によれば今日は雨らしい。
こういったものが証拠性で扱われるんですが、この中で天気予報によるとみたいな、こういう副文みたいなものとか、あるいは
なんだろうな、おそらくとか、なんかそういう推測が情報源となっているような、おそらくみたいな、こういった副詞とか、そういったものは証拠性では普通扱われなくって、
むしろ雨らしいとか、彼は来るそうだみたいに、らしいとかそうだみたいな、典型的には動詞にくっつくものだと思うんですけど、
そういうある程度文法化されたものを証拠性では扱うということになっています。
こういう証拠性っていうのは伝統的なヨーロッパの言語っていうかね、ラテン語とかギリシャ語とか、そういった言語では見られないものだったし、
長らく言語学でも扱われてこなかったもので、比較的新しい概念と言えるかもしれません。
今回特に取り上げたいと思うのは、パプアニューギニアのフォエゴっていう言語です。
このフォエゴっていうのはトランスニューギニア語族っていう言語のグループに属すもので、
こないだね、オクサプミンゴっていうまた別個のパプアニューギニアの言語の話をしたんですよね。
その時にこのフォエゴの話もしようと思ってたんですけど、そっちはそっちで話盛り上がっちゃったんで、今回はフォエゴの証拠性についてお話ししていこうと思います。
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このフォエゴっていうのは証拠性について厳しく厳格に区別する言語なんですね。
例えば、くるっていう動詞は、わぶげげっていうらしいんですね。わぶげげ。
この形は和舎が直接体験したことにしか使えないみたいです。
だからある意味その情報源っていうのは自分自身の体験ということになります。
でこのくるっていう動詞は、わぶげげっていう形以外にもあって、
わぼばあえっていうと、これはその情報源を目で見たっていう視覚的な情報に頼ってますっていう意味になるらしいんですね。
ではその情報源が視覚的に捉えた場合じゃない場合、
つまり匂いを嗅いだとか耳で聞いたとか、見る以外の方法でその情報を得たっていう時は、
わびだあえっていう別の動詞の形を使うんですね。
これはなかなか面白いんですよね。
例えば男がわぼばあえって言った場合は、その男が来るのを見ているっていうことになるんですけど、
男がわびだあえっていうと、その姿は見てないんですけど足音とかで、あるいは香水の匂いとか、
そういうので男が来ていることがわかるっていう意味なんですね。
他にもその情報源を表す言い方はあって、
そういう自分の感覚で情報を得たわけじゃなくて、
情報源が自分の推測に頼っている、推測からそういうことがわかるっていう場合もまた別の動詞の形を使うんですね。
このフォエ語の証拠性のシステムっていうのは動詞の活用みたいなもので、
例えばラテン語みたいなヨーロッパの言語で、
1人称、2人称、3人称、あるいは単数複数で動詞の形がいちいち変わるように、
自分がその情報をどうやって得たか、その情報源によって動詞の形をいちいち変える言語ということになります。
こういう証拠性のシステムっていうのは、フォエ語をはじめとするパプアニューギニアの言語だけの特徴ではないんですね。
いろんな言語で見られる現象ではありますけど、フォエ語はかなりシステマチックに証拠性を表しているということです。
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日本語だって証拠性を表さないわけではないです。
今までも何回か言ってますけど、
例えば、「男が来るらしい。」とか、「来るそうだ。」みたいな言い方をすると、
これは話者がその情報を直接入手したというよりは、
推測とかね、あるいは伝聞によって情報を得たということを表しています。
フォエ語の場合と違うのは、フォエ語の場合は動詞の活用だったんですけど、
日本語の場合は、「来る。」とか、「来た。」っていう、その完成されたっていうかな、
活用が終わった後の動詞の後に、「らしい。」とか、「そうだ。」とか、
そういうものがくっついてるっていうことですね。
日本語にも、話者の発話の情報源が直接的ではない、
その知覚的な情報に基づいてないっていうことを表すものはたくさんあって、
今言った、「来るらしい。」、「来るそうだ。」もそうだけど、「来るっぽい。」とか、「来るみたいだ。」とか、
その情報を間接的に入手したっていうことを表していると言ってもいいかもしれません。
さっきフォエ語で、話者が自体に直接関わっている場合に用いられる形式があるみたいな言い方をしましたけど、
わぶげげっていうと、私が来るっていう情報源が体験だっていうことですけど、
これと似たものは日本語にもあって、特に願望を表すようなものですね。
あるいは感情とか感覚を表すようなもので、水が欲しいって言った場合、
これは主語は一人称じゃないとかなり厳しくて、主語が話して以外の場合、つまり話者が体験してないものの場合は、
がるっていうのをつけるのが普通だと思います。
欲しがっているとか痛がっている、圧がっている、嬉しがっている、みたいに。
日本語の場合も、体験しているかどうかによって動詞の形を変えていると言ってもいいかもしれません。
というわけで、今回のトークは証拠性というもののお話をしました。
例に挙げたのはパプラニューギニアのフォエ語っていうもので、全然なじみがない言語だと思うんですけど、
似たような仕組みは日本語にもあって、その情報源は何なのかっていうのを動詞の形を変えることによって表すという点では共通しているということなんですね。
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というわけで、今回のトークはここまでということで、最後まで聞いてくださってありがとうございました。
番組フォローを忘れずにお願いいたします。
ではまた次回のトークでお会いいたしましょう。
お相手はシンガ15でした。