1. 志賀十五の壺【10分言語学】
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2020-09-22 08:43

#179 森鷗外『高瀬舟』朗読 2/3 from Radiotalk

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#落ち着きある #ひとり語り #朗読
00:00
しばらくして、正兵衛はこらえきれなくなって呼びかけた。
「岐助、お前、何を思っているのか。」
「はい。」と言ってあたりを見まわした岐助は、何事をか、お役人に見とがめられたのではないかと気づかうらしく、出前を直して正兵衛の景色をうかがった。
正兵衛は自分が突然問いを発した動機を明かして、役目を離れた大隊を求める言い訳をしなくてはならぬように感じた。
そこでこう言った。
「いや、別に訳があって聞いたのではない。実はな、俺はさっきからお前の島へ行く心持ちが聞いてみたかったのだ。
俺はこれまでこの船で大勢の人を島へ送った。
それはずいぶんいろいろな身の上の人だったが、どれもどれも島へ行くのを悲しがって、見送りに来て一緒に船に乗る親類の者と夜通し泣くに決まっていた。
それにお前の様子を見れば、どうも島へ行くのを苦にしてはいないようだ。
一体お前はどう思っているのだい。」
木助はにっこり笑った。
「ご親切におっしゃって下すってありがとうございます。
なるほど島へ行くということは他の人には悲しいことでございましょう。
その心持ちは私にも思いやってみることができます。
しかし、それは世間で楽をしていた人たちだからでございます。
京都は結構な土地ではございますが、その結構な土地でこれまで私の致して参ったような苦しみは、どこへ参ってもなかろうと存じます。
お上のお慈悲で命を助けて島へやって下さいます。
島は良しやつらいところでも、鬼の住むところではございますまい。
私はこれまでどこといって自分の居ていいところというものがございませんでした。
今度お上で島にいろとおっしゃって下さいます。
そのいろとおっしゃるところに落ち着いていることができますのが、まず何よりもありがたいことでございます。
それに私はこんなにか弱い体ではございますが、水素病気を致したことはございませんから、島へ行ってからどんなつらい仕事をしたって体を痛めるようなことはあるまいと存じます。
それからこの度島へおやり下さるにつきまして、200文の聴目をいただきました。
それをここに持っております。
こう言いかけて、木助は胸に手を当てた。
円筒を押せ付けられるものには聴目200度を使わずというのは当時の掟であった。
木助は言葉を継いだ。
お恥ずかしいことを申し上げなくてはなりませんが、私は今日まで200文というお足をこうして懐に入れて持っていたことはございません。
どこかで仕事を取り付きたいと思って仕事を訪ねて歩きまして、それが見つかり次第骨を押しまずに働きました。
そしてもらった銭はいつも右から左へ一手に渡さなくてはなりません。
それも現金で物が買って食べられるときは私の苦面のいいときで、大抵は借りた物を返してまた後を借りたのでございます。
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それが卯に入ってからは仕事をせずに食べさせていただきます。
私はそればかりでもお上に対してすまないことを致しているようでなりません。
それに卯を出るときにこの200文をいただきましたのでございます。
こうして相変わらずお上の物を食べていてみますれば、この200文は私が使わずに持っていることができます。
お足を自分の物にして持っているということは私にとってはこれが初めでございます。
島へ行ってみますまではどんな仕事ができるかわかりませんが、私はこの200文を島でする仕事のもとでにしようと楽しんでおります。
こう言ってきすけは口をつぐんだ。
しょうべいは、「うん、そうかい。」とは言ったが、聞くごとごとにあまりに意表に出たので、これもしばらく何も言うことができずに考え込んで黙っていた。
しょうべいはかれこれ初老に手の届く年になっていて、もう女房に子供を世に産ませている。
それに老婆が生きているので、家は七人暮らしである。
平成人には隣職と言われるほどの賢悪な生活をしていて、衣類は自分が役目のために着るもののほか、寝巻しかこしらえぬくらいにしている。
しかし不幸なことには妻をいい信頼の商人の家から迎えた。
そこで女房は夫のもらう縁前で暮らしを立てて行こうとする善意はあるが、豊かな家に可愛がられて育った癖があるので、
夫が満足するほど手元を引き締めて暮らしていくことができない。
ややもすれば月末になって感情が足りなくなる。
すると女房が内緒で里から金を持ってきて長尻を合わせる。
それは夫が釈在というものを毛虫のように嫌うからである。
そういう妻は所詮夫に知れずにはいない。
商兵はご節句だといっては里方から物をもらい、子供の七五三の祝いだといっては里方から子供に衣類をもらうのでさえ心苦しく思っているのだから、
暮らしの穴を埋めてもらったのに気がついてはいい顔はしない。
格別平和を破るようなことのない羽田の家に、おりおり波風の起こるのはこれが原因である。
商兵は今喜助の話を聞いて喜助の身の上を我が身の上に引き比べてみた。
喜助は仕事をして給料を取っても右から左へ人手に渡して無くしてしまうといった。
いかにも哀れな気の毒な境界である。
しかし一転して我が身の上を帰り見れば彼と我との間に果たしてどれほどの差があるのか。
自分も神からもらう縁前を右から左へ人手に渡して暮らしているに過ぎぬのではないか。
彼との我との相違は、いわばそろばんの桁が違っているだけで、
喜助のありがたる二百文に相当する貯蓄だにこっちはないのである。
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さて桁を違えて考えてみれば、張目二百文をでも喜助がそれを貯蓄と見て喜んでいるのに無理はない。
その心持ちはこっちからさしてやることができる。
しかしいかに桁を違えて考えてみても不思議なのは喜助の欲のないこと、
たることを知っていることである。
喜助は世間で仕事を見つけるのに苦しんだ。
それを見つけさえすれば骨を押しまずに働いて、
ようよう口をのりすることのできるだけで満足した。
そこで老に入ってからは、今まで得がたかった職がほとんど天から授けられるように、
働かずに得られるのに驚いて、生まれてから知らぬ満足を覚えたのである。
張明はいかに桁を違えて考えてみても、
ここに彼と我との間に大いなる間隔のあることを知った。
自分の淵前で立ててゆく暮らしは、おりおり足りぬことがあるにしても、
たいてい水筒があっている。手一杯の生活である。
しかるにそこで満足を覚えたことはほとんどない。
常は幸いとも不幸とも感じずに過ごしている。
しかし心の奥には、こうして暮らしていて、
不意投薬が御免になったらどうしよう、
大病にでもなったらどうしようという義父が潜んでいて、
おりおり妻が里方から金を取り出してきて、
穴埋めをしたことなどがわかると、
この義父が意識の敷居の上に頭をもたげてくるのである。
一体この見覚はどうして生じてくるのだろう。
ただ上辺だけを見て、それは気づきには身に経類がないのに、
こっちにはあるからだと言ってしまえば、それまでである。
しかしそれは嘘である。
よしや自分が独り者であったとしても、
どうも気づけのような心持ちにはなられそうにない。
この根底はもっと深いところにあるようだと生兵衛は思った。
生兵衛はただ漠然と、人の一生というようなことを思ってみた。
人は身に病があると、この病がなかったらと思う。
その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う。
万一の時に備える蓄えがないと、少しでも蓄えがあったらと思う。
蓄えがあっても、またその蓄えがもっと多かったらと思う。
核のごとく、先から先へと考えてみれば、
人はどこまで行って踏みとどまることができるものやらわからない。
それを今、目の前で踏みとどまって見せてくれるのが、
この気づけだと生兵衛は気がついた。
生兵衛は今さらのように脅威の目を見張って気づけを見た。
この時、生兵衛は空を仰いでいる気づけの頭から五行が指すように思った。
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