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This is Reina Moro's Podcast. 世界のクリエイティブ思考
Hi everyone, this is Reina Moro. 皆さんこんにちは、クリエイティブディレクターのReina Moroです。
この番組では、世界で活躍するトップランナーに、これまでのキャリアを振り返っていただき、
クリエイティブ思考で自分らしい人生を歩むヒントを探ります。
今回のゲストは、ニューヨークを拠点に活躍しているアーティストの MATSUYAMA TOMOKAZUさんです。
彼のことをちょっと紹介させていただきたいんですが、
1990年代に日本の上智大学に行かれて、
それからニューヨークのブルックリンであるプラットインスティチュートという美術大学に行かれているんですね。
お会いしたきっかけっていうのは、実は僕と彼が同じ岐阜県の平高山の出身で、
ブルックリンに同じ世代で、同じ時にそんな田舎から来ている2人がいるんだっていうことを
共通の知恵から紹介されてつながったのがきっかけです。
それから彼はすごいスーパースターになって、今はもう世界のいろんなところで古典だったりとかインスタレーションをされている方なんですが、
ちょっとこのポドキャストなので絵が見えない方にどんな作風の方かということを紹介すると、
日本の浮世絵とか日本画をすごくポップにして、それを非常にカラフルな感じで、
日本的なところ、そして西洋的なところ、例えばそのルネッサンスの絵みたいなものを混ぜて、
それを現代的に表現している、そんな作風を持っているアーティストです。
先ほどもお伝えしたように、絵だけではなくてペインティングだけではなくて彫刻だったりとかインスタレーションということもたくさんやられていて、
アメリカ全米いろんな都市で、そして日本だったり香港だったりドバイだったりヨーロッパだったり、
もう本当世界中を飛び回って展示されているすごいアーティストです。
そんな彼も20年近くの知り合いなんですが、広い範囲で深いお話ができたので、
僕もすごく楽しく会話をさせていただいた内容です。
それではお聞きください。
ちょっと遡って、アーティストになる前のお話を聞きたいんですけど、
さっきもお伝えしたように、創造性、クリエイティビティーはどう育まれるのかということをちょっとたどりたいんですね。
自分の中でクリエイティブなことを仕事にしようとか、そう意識し始めたのってどれくらいなんですか?
僕もともと今のビジュアルアーティストという肩書きでやっていて、
その中で画家というものを主軸に、今はでっかいモニュメントとか彫刻も作って、
さまざまなマルチプラクティスと言われる方で芸術表現をしているんですけれど、
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これ入る、今やっていることを成り割としてやる前っていうのは、
スポンサードを受けているスノーボーダーだったんですよ。
はいはい、スノーボーダー、覚えてます。
スノーボーダーって当時産業化する前で、スケートボードとかスケボーとかと同じようなエクストリームスポーツで、
表現の一環でみんなやってたんですよね。
ライフスタイルの一環で、着るものからクリフを飛んだり、
ワンメイクジャンプってジャンプ台を飛んで、グラブって板を握って回転しながら自分のスタイルを見せるみたいなことが、
一つの表現方法だったんです。
日常の中の普段着も連結しているという意味では、
自分の生活の中の一部に表現みたいなものを追求する、
それが自分の衣食術と密接に関わって、
それが自分なんだというアイデンティティにつながるということは、
10代からやってたんですよ。
多分それが自分のコアで、
その前はアメリカに幼少期にちょっとだけ住んでいて、
それが西海岸だったんですね、80年代の。
その時にスケートボードと出会って、
それが子供の時に通列なカルフレネのアメリカの文化影響があり、
それが根底にあってスノーボードというものと出会った時に、
もともと我々の出身地の雪国の、
ひだ高山というものと、
幼少期の一番インパクトがあったアメリカの西海岸に住むということが、
一緒くたに結びついて、
それが自分のライフスタイルになっていったというものが原動で、
結果的に僕スノーボードでスポンサーとついてたんですけど、
大怪我してリハビリで1年間歩けなかったんですね。
10ヶ月くらいリハビリしなきゃいけなくて。
それがありがたでも苦しくも22歳の時とかで、
これもう一生できないから、
でもライフスタイルを追求するようなクリエイティビティみたいなことを、
仕事にできないかなと思ったんですよ。
それが一番最初の…
でもスノーボードとかスケボーで表現というところは、
10代の頃から意識してた?
そこまでとかっこよくなっちゃうので、
コンペティティブスポーツのところの要因はあるので、
そうする上でだんだん表現みたいなところが、
クリエイティビティになってたのかなって。
最初何したかわからないんですけれど、
ナイキの広告とか、
ワイディ&ケネディがやってたことは、
僕がやってるカルチャーにすごく近いところだったんですよね。
あれジョン・ジェイさんってインタビュー?
はい、しました。
ちょうどワイディ&ケネディが、
ナイキとかユニクロをやりだしたタイミングで、
ジョン・ジェイさんが日本のワイディ&ケネディにずっといて、
すごいかっこいいクリエイティブスポーツをやりだした時だったんですよ。
その時、ジョン・ジェイさんのことを知ってたんですか?
スノーボードをやってる時に知り合いを介して、
ワイディ&ケネディに遊びに行ったことがあったんですよ。
20代前半の頃ですか?
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怪我した後?
23、24歳くらいの頃?
すごいな、この感じと思って。
すごく企業で、世界に影響力を持っているクリエイティビティの広告で、
それがスポーツなので、ナイキとかだとどんなかっこいいイメージを作ってるかわかるじゃないですか。
すごいカルチャーショックを受けて、
外資でみんなTシャツ短パンで着て、
みんなでクリエイティブに話して、スタイル意識にやってるのを見た時に、
なんじゃこりゃと思ったんですよ。
で、僕は計画部に行ってたんで、
少し実力的な自分のマインドがあって、
これだったら仕事としてもクリエイティブにできるって思ったんですよ。
それで夜、就職活動せず、
クアザーデザイン研究所に夜間で行ったんですよ。
なるほど。
でも、今僕がやってるサブカルチャーとかユースカルチャーみたいなものをデザインにするって、
日本の当時のデザイン風潮だと、ちょっとエッジがかかりすぎていて、
やっぱりクリエイティブの仕事をしたいって言って、デザイン事務所とかに見せても、
誰もまともに相手にしてくれなかったんですよね。
で、僕それで一番最初に何をしたかっていうと、
デザインを覚えたんで、自分がスポンサードを受けてた会社に僕のポートフォリオを見せたんですよ。
そしたらオリンピックに出た中井孝晴って選手がいるんですけど、
彼に僕に自分のデッキ、シグネチャーモデルを書いてほしいって言って1本書いたんですよ。
それがインフィニティスノーボードっていうスノーボードの会社で、
まさか自分のやってたフルスでデザインできると思ってなくて、
それで彼の1本、10何本くらいスノーボードのブランドって1年間出すんですけど、
彼のモデルを1本出したらすごい評判良くて、
結果的にその1年後にはアパレルもああいうスノーボードブランド、スケートボードブランドって作るんで、
アパレルから広告のデザインも突然全部1年でデザイン勉強した時にやらせてもらえるようになったんですよ。
なるほどね。
でも漠然とそれも不安で、結局自分の知り合いを介して仕事をしていて、
自分の近いところで仕事をしてるし、プロフェッショナリズムだったりがわからなかったんで、
なんか漠然とこの今の状況が変えていかないといけないなって思ったんですよ。
でもそれは20代半ばくらいですか?
23、24です、本当に。
そうか。でも上知は卒業して、
卒業するかしないかなんで、
で、工技デザイン研究所に行き始めて勉強し始めたと。
なるほどね。
で、1年後には、
さっきまで大学1年残ってリア館行ってたんで、
そのスノーボードブランドのデザイン学校行って、
フォトショップもほとんど使わない状態でデザインするから、間違いだらけのひどいファイルだったんですよ、当時は。
当時、ナイキはビューティフルって言って怪我した人たちを、
すごくジョンの広告キャンペーンでワイデンの、
怪我するっていうことが勲章だみたいな広告を作ったんで、
ポートフォリオを送って、
実は僕も怪我してスノーボードを引退してデザイナーになってるんだっていう、
僕の尖ったエッジの効いたポートフォリオを送ったんですよ。
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そしたら、僕、当時ジョンとはほとんど会ったことももちろんなくて、
どこの代理店に送っても、僕のポートフォリオとかも全然返事くれなかったのに、
ジョンが手書きの手紙を書いてくれたんですよ、僕。
へー。
それ雇いたりとかじゃなくて、
すごく気持ちのこもった手紙で、
ありがとう、と。
あなたのビューティフル、僕の怪我をしたっていうところも、
ポートフォリオも、すごいうちのフィロソフィーと合うね、と。
だけどうちは今そういう信心を求めていなくて、
また機会があればキープインタッチしようっていう感じで、
ちょっとディプロマティックな、さすがジョンなんですよね。
何か見てくれて、そもそも僕にとってすごい勇気になったんですよ。
それがきっかけで、やっぱりちゃんと一回デザインを勉強しようと思って、
ニューヨークに来たんですよ。
それでプラットインスティテュートに大学院で、
コミュニケーションデザインっていう、グラフィックデザインをちゃんと勉強するっていうきっかけになったんですよ。
で、漠然だった期間をちゃんとニューヨークっていう本場を見てみて、
少なくともワイデンっていうところは、ちょっとでも僕の作品を、デザインを、
目に止まるんだっていうことだけの自信で、海外に行って現場を見て、
アメリカみたいな場所だったら、僕みたいなデザインっていうのは、
より受け入れられるんじゃないかっていう、勝手に自分を信じて、
来たっていうのがニューヨークに来たポイントなんですよ。
なるほどね。
プラットインスティテュートで来て、最初の1セメスターで、僕はグラフィックデザインに絶望したんですよ。
どういうと?
これ、日本の美大の教育、デザイン科の教育と、
アメリカのアートスクールのデザイン科の教育の全くの違いで、
今は逆にその教育が良かったんですけど、
プラットはニューヨークのクーパンユニオン、SVA、パーソンズ、FITってある中で、
一番プラクティカルな教育をするんですよ。
なので、最初に授業が1セメスターで最初終わって感じたことは、
問題解決、プロブレムソルビングがデザインで、黒子でなきゃいけない、
個性なんてデザイン出すな。
で、アニュアルレポートのデザイン。
本当に学校終わった瞬間に、すぐ仕事に就くっていう、
ザ・実技的な教育だったんですよ。
僕はどちらかというと、日本の横尾忠宏さんとか、
ああいう70年代、60年代のかっこいいデザインに、
詳細入ったんで、影響を受けたんで、
グラフィックデザイナーはスタイライズの個性みたいなのに、
そっちに行きたいと思って来てたんで。
でもなんか、それって逆っていうか、
日本ってどっちかっていうと、超圧力みたいな言葉があるみたいな感じで、
同じなものを求められるところもあるんですけど、逆ですね、それは。
で、もともと僕はスケートボード、スノーボードを介して、
日本では今でこそすごく大きな市民権を得たんですけど、
裏原宿のカルチャーとすごく仲良かったんですよ。
で、これが今ニューヨークとどう繋がっていくかっていうと、
ニューヨークに来てちょっと失望しちゃったんですよ。
デザインしたいのかわからない。
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でもなんかクリエイティブで自分聞いたことやりたい。
で、そのタイミングで、僕ニューヨークに来て、
カウズと出会ったんですよ。
で、その僕の裏原のカルチャーから知ってる人を介して、
スタジオ遊びに来なよっていう、誘われたんですね。
でもカウズって知ってるなと思ってます、ストリートアーティストで。
で、ウィリアムズバーグの僕の住んでる家に近かったので、
近い近いと思って彼のスタジオに招待された。
そしたらそれがまた僕にとって強烈なカルチャーショックで、
彼って僕の2つか3つ上なんですよ。
当時今みたいにバンクシーとかカウズみたいなのが、
アート業界のメインストリームの一部になって、
世界をギラギラ輝かせてるっていうよりは、
彼だって当時は本当にサブカルのアーティストだったんですね。
でも、僕は20いくつで、2,3歳上の彼が、
ニューヨークのすごいかっこいいアトリエで、
自分の好きな環境を自分で整えて、
デザインというのと違ってクライアントがいて、
仕事を引き受けてサービスを返すことの対価じゃないですか。
だから僕もそのスキームしか知らなかったのが、
壁にいろんなとこに絵がかかってて、
これ何なの?何よ?って言ったりは何よ?って
別に自分のために描いてるんだよみたいなことを
さらっと言われたことが。
知ってはいたんですけれど、
なんか違うことで飯食ったりしてるのかな?
みたいな感覚あったんですけど、
スタジオに行って、自分の住んでるところから
1キロぐらいしか離れてなくて、
ブルックリンっていう場所で、
本当にユートピアンみたいな形で、
自分のやりたいことを追求するっていうことが、
これは本当のクリエイティビティだと思って、
その瞬間に僕、画家になろうって思ったんです。
アーティストっていうものが、
職業として成立するっていう概念が
全くなかったんです。見たことなかったんです。
で、これだと思って、
それでキャンバスにそっから絵を描くっていうことを
25だったかな。
ニューヨークに来て、半年経ってから、
初めてちゃんと絵を描くっていうことを始めたんです。
でもこの時はまだ大学院に在学中の時で。
うん、行ってました。
結局じゃあ、プラッと終わらせたんですか?
そう、終わらせました。
というのが、一番大事なのは、
ニューヨークにいることが大事だと思ったんですよ。
プラッと続けるべきか、転校すべきかと思ったんですけれど、
別に学校じゃなくって、
ニューヨークにいることが大事で、
やっぱりニューヨークに行こうと思ってきた中で、
じゃあ、卒業するまでに何できるんだろうと思って、
それから絵を描くようになったんです。
僕も高校ぐらいの時に、
アーティストになりたいなっていうのはぼやっと思って、
大学でデザインっていうものにあって、
クリエイティブな表現でビジネスにつなげていくとか、
あとインターフェースを作るとか、
そういうところに興味があって、
僕はそっちに行った派なんですが、
カウズとか松山さんは、
本当純粋な自分の描きたいこと、
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自分のやりたい表現で食べていくっていう道を選んでらっしゃるんですね。
ここに出てくるカウズっていうのは、
それこそちょっとアートに興味のある方だとご存知だと思うんですが、
もう本当世界的なアーティストで、
アメリカの漫画的、コミックみたいなものをモチーフに、
例えばセサミストリートのキャラクターだったりとか、
スヌーピーだったりとか、
もう本当子供たちが知ってるようなキャラクターをモチーフに、
それを絵にしたりとか、人形のおもちゃにしたりとか、
そこで彼は自分の象徴的なシグネチャーとして、
目にバッテンをつけるっていう、
そのキャラクターの目をバッテンにするっていうことを昔からやっていて、
目がバッテンになっていたら、
それはカウズの作品だっていうことがわかるようなシグネチャーを昔から、
僕も20何年くらい前にカウズのアートに出会ったとこから、
それはスタイルっていうのをもう既に持っていて、
それをずっといろんな形で展開してるっていうのは、
このカウズっていうアーティストですね。
じゃあ、これ金銭的な話になっちゃうんですけども、
その大学に行ってて、
僕の場合は大学、学部でミシガン大学に行って卒業して、
22、23の時にニューヨークに来て、
最初いくらだったかな、
4、5000ドル親がくれて、これでまず生活しなさいと、
その後はもう自分らでやってきなさいって言われて、
僕は二人の兄弟がいるんですけども、
彼と一緒に来て、ボロボロなアパートに2人に住んで安い家賃で、
フリーランスとかしながら生活を成形を慣れてたんですけども、
どうやってその辺は成形に繋いでいったんですか?
これが僕は実はデザインを辞めなかった良さだったんですよ。
で、スノーボードのブランドをやってたって言ったじゃないですか。
スノーボードって1年1回しかリリースしないじゃないですか。
つまり季節労働者ができるんですよ。
そのブランドが順調に波に乗ってったんですね。
1年間生活できるぐらいのお金になったんですよ。
でも切り詰めないといけなかったのは本当に僕も同じで、
今、ブルックリンの当時は最も治安悪いって言われてたブシュイックに、
ブシュイック、知ってました。
ブシュイックでね、カウズのスタジオで見た景色が忘れられなくて、
ニューヨークで最もゲトウでスラムで、
フッドで治安悪いところにでかいスペース欲しいと思っちゃって、
2000スクエアフィート、1000ドルぐらいで借りれたんですよ、ロフトで。
ブシュイックで。
そこが本当に治安悪いところで、そこに住んで自分の絵を描く生活が始まったんです。
ある時最後、4人に襲われて、銃口を顔に突きつけられて、
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それでウィリアムズバークに引っ越してきたんですよ。
デザイナーをやりながら、それで生活ができてきて、
そこからじゃあ完全にアーティストにバッと切り替わったんですか?
それとも徐々に?
本当に苦労続きでした。
なんか順風満帆なアーティスト生活っていうのは全くなくて、
そもそもニューヨークに行ってから25歳で絵を描き始めると、
動機が不純すぎるんですよ、そもそも。
大体ニューヨークってアーティストを自国でやって、
ある程度成果を出した人が行く場所なんで、
ニューヨークに来て25歳からアートを始めて、成功できるみたいな甘い場所じゃないじゃないですか。
なので、ただ自分がアーティストになれると信じて続けるしかないわけですよね、ニューヨークって。
なるほどね。
ウィリアムズバーグに当時、バンクシー始め、みんな壁描き出したんですよ。
ウィリアムズバーグがアートハンプとして注目され出した時に、そこにみんな来るようになったんですよ。
それ来るようになったことで、このバンクシーが僕らのエリアで自分の作品を落としてったりとか、
いろんなアーティストが落とすようになったんですよ。
そこで、僕はこうしたんだったのと、どうやったらってずっと考えてたんですよ。
で、毎日見てたんで、僕も気になって気になって、どうやったらこういうことできるんだろうと。
そっか、今わざわざみんながウィリアムズバーグまで壁が見に来るんであれば、
このエリアに一番でかい壁を描けたとすれば、
この人たちの中の植物連鎖の中の一番トップにいるって見てもらえるのかって思ったんですよ。
で、そっからもコンコンコンコンノックしてた時に、あるバーだけがいいよって言ってくれたんですよ。
なるほどね。
ほいで、「いいよ、うちでたたくまで全部自分でお金用意してね。」って言われたんですよ。
あ、そうなんです、はい。
で、最初壁画だけ描きたかったのが、そっか、バー全部やっていいの?って言ったら、
いや、全部出してくれるなら好きにやっていいよって言われたんですよ。
で、でもお金僕ないんで、貧乏なんで。
で、じゃあこれコンセプトにしようと思って、なんか勝手にお金はないながら、
自分で大きなグランドコンセプトを立つ時に、そういえばパリとかみんな酒場がハブになってて、
ウィリアムズバーグがそういうエリアになってるんであれば、なんかそんなことできないかなと思って。
それでコンセプトを立てたら、ニューヨークでこういうとこに若いキュレーターもいるんですよね。
で、アメリカって若いキュレーターってグラントライティングって教育を受けてるんで、
面白いプロジェクトがあれば、グラントライティングすると5000ドルぐらいだったら、
グラントがすぐ降りるんですよ。
で、あるキュレーターが、すごい松のコンセプト面白いと。
で、全部やろうとすると当時2万ドルぐらい必要になったんですけれど、
彼らがグラントライティングとかしたら、お金がそこで作れちゃったんですよ。
なるほどね、グラントとしてこう。
そう、巨大な壁画を描いて、お店の内装も自分の絵を壁紙化して、
いろんな方法で自分のアートワークを落とし込んでたんですね。
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で、ここで、突然ある雑誌を作ってる人から、
ちょっと君を取材したいんだけど、今まで取材されたことある?って言ったら、ないって僕正直に言ったんですよ。
なんて言っちゃったら取材してくれないのかなと思ったら、消しってなったんですよ。
だからこう、ニューからあるですよね、初めて出す人をドーンって出すぐらいの方が、僕らのメディアとしては。
で、当時って暗柄な雑誌いっぱいあったじゃないですか。
で、中に10ページぐらい初めてその壁画を特集してくれたんですよ。
それを見てくれたのがナイキだったんですよ。
で、またここでナイキに戻るんですけれど、
ナイキの香港からプロジェクト来たんですよ。
で、それまで生活を切り詰めてデザインとかやってたのが、
ナイキの1個のプロジェクトをやったことによって、
4、5ヶ月生活できるだけのフィーをもらえたんですよ。
その時初めてわかったんです。
アートっていい作品を作ることじゃなくて、
アートを介してコミュニケーションっていう言語になり、
それが人に影響を与えることをやれば、こういうことが起こるんだと思ったんですよ。
僕コミュニケーションデザインを勉強したことが、
この後にものすごく自分のセオリーとして根幹にあるってことを気づいたんですよ。
要はアートワークとコミュニケーション。
で、自分もちろん作りたい作品を作りながらも、
それがどういう落とし込みがあることによって人の心に響くか伝わるか、
コミュニティの中で接点を持てるかってなった瞬間に、
デザインやってるのからアーティストの1本目の。
じゃあそのナイキ香港っておっしゃいました?
うん。
ナイキ香港からのお仕事が、
そのバーの壁画以外の次の正式なアーティストとしての報酬ってどうですか?
でした。初めて自分のやりたいことで、
ナイキなんで、なんかこう古いグラフィックがあって、何十年前の。
それを好きに、もうあなたのクリエイティビティでもう描き直せ。
で、過ごしてもいらないみたいな。
もうナイキらしい最高のプロジェクトだったんです。
え、もう何やってもいいの?っていう。
で、そこからアーティストとしては徐々に、
僕もカフェから発表していたのが、そこの大きなバーをやったことで、
ギャラリーから声がかかるようになったんです。
そこで気がついたらストリートカルチャーなのか、何なのかわからなくて、
どう表現していいかわからないクリエイティブ溢れる人たちと一緒に仕事するようになって。
で、それがアメリカ全土になったんですね。
LAからサンディエゴから、サンフランシスコからニューヨークから。
で、一回グループ展とかで飛ぶと仲良くなるじゃないですか。
ニューヨークに来る時に、うちに泊まんないよとか。
そんな貧乏だけどお互いを助け合うコミュニティの中で、
10年ぐらいずっと続けてたって感じなんですよ。
で、そうするうちに徐々に徐々に自分の作品も進化していって。
で、ある時に突然、大手ガローから、
ちょっとやってみないか、うちで。
って声がかかってます。
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で、そこの日本のギャラリーがミズマアートギャラリーって言うんですけど、
ミズマアートギャラリーから突然声がかかって、
僕はびっくりしたんですよ。
それいつですか?
それね、
してるのが10年ぐらい前でした。
30代の頃?
30代になりたての頃だと思います。
当時2008年、9年って、
日本のアートが世界的にすごいトレンドだった時だったんですよ。
ミズマアートギャラリーっていうのは、当時世界でもすごい注目を受けていて、
僕がそこに作品を出したことによって、
勝手に僕、日本に住んでるアーティストだと思われたんですよ。
なるほど。
そのギャラリーがすごい有名で、みんな見に来るんで。
ミズマアートギャラリーが発掘してくれた新しい作家は誰だ?みたいな、当時は騒いでたんで。
それに入った瞬間に、僕がニューヨークに住んでるアメリカベースのアーティストだって分かった瞬間に、
今度はアメリカのギャラリーから声がかかるようになって。
その頃には結構、しばらく時間が経っているんですけど、
商業的なことも一切やめようと思って。
やっぱりファンアートの世界に徐々に僕も興味を持っていって、
自分の作品が後世に残ったり、
人に思いが伝わるっていうふうに自分の作品性を追求するようになって。
そこをちょっと放り込むと、
クライアントみたいなブランドとか、
ナイキーとか、スノボとか、商業用的なデザインかけるアートみたいなものから、
本当に表現というか、純粋なアートとして切り替える。
どういうきっかけでその気持ちが変わったんですか?
なんかこう、アメリカって貴様貧乏ダメじゃないですか。
二足のわらし八甲とダメで、
例えば僕が今住んでいるアートコミュニティでは、
セレブリティがアートをやると絶対叩くじゃないですか、アメリカって。
絶対評価値が乗れないんですよね。
日本人で芸能人がアートをやりましたみたいな。
なんかその漠然としたアメリカのルール、
そしてアメリカがどうやって芸術人にパリから変わってきて、
それを支手するためにすごく必死にいろんなゲートキーパーがいて、
番人がいて作ってきたかっていうのは、やればやろうと分かってきたんですよね。
唯一無二っていうか、アートっていうのはウェルカムしないし、
芸能しないし、そこにすごいかっこよさを覚えたんですよ。
やっぱりデザインをやっていると最終的にはクライアントが
オッケーしないといけないわけじゃないですか、サービスを提供しているわけなんで。
クライアントサービスっていう概念が作品を作れば作るほど、
僕にとってもうちょっと自分がいいと思うもので、
自分が納得するものだけを作りたいって思ってた時に、
僕のチャンネルはたぶん、その気高いアートの中で、
どうやって自分の見ている景色が既視感ないものを作って、
新しいことをコンセプトとして提案できるかっていうふうにシフトしてたんですよね。
松山さんがプラットに行って、もう最初のセメスターですごく絶望しちゃったっておっしゃってたんですけども、
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逆にそれは彼が本当にやりたいことを見つかったきっかけが、
実はコミュニケーションじゃなくてエクスプレッションだったんだなっていうのは、
そういう言葉は使ってないですけど、デザイナーっていうのは、
そういうクライアントにいただいた、例えばこの商品のポスターを作ってくださいとか、
この商品の宣伝を作ってくださいって言った時に、
じゃあこの魅力は何なのかっていうところを突き詰めて、
それをデザインという形に落としていくっていうことなので、
表現という言葉は、実はクリエイティブ業界では、
日本では表現表現ってすごく使われるんですけど、
アメリカでは同じクリエイティブ業界の表現という言葉は、
実はあまり使われないんですね。
アメリカの場合は、それがコミュニケーションなんですよね。
だから伝える。
なので思っていることを表すのは表現であるんですが、
そうではなくて言いたいことを伝える、
分かってもらいたいことを伝えるのがコミュニケーション。
なので日本では表現って言われて、
それを直訳するとエクスプレッションになるんですけども、
エクスプレッションというよりは、
こちらで特にデザインというところで重要視されているのはコミュニケーション。
そこに気づかされたのが、アメリカのニューヨークの大学に行ったことなので、
自分ではその期待をして、
エクスプレッションをどうするかっていうことを教えてくれるのかなと思っていたら、
コミュニケーションよりだったと。
ここまでお送りしてきました、
レイナモトの世界のクリエイティブ思考。
今回のアーティスト松山智一さん、松さんとのお話、
僕とすごく近い友達として、
そしてプロフェッショナルな声優として話せた、
今回の話はすごく僕も個人的に楽しい内容でした。
意外なことに近い接点というのがいくつかあって、
このお話にも出てきたジョン・Jさんのお話があるんですが、
ジョン・Jさんはこのポドキャストの初回のエピソードに出ていただいた方で、
コミュニケーション、広告マーケティング業界の巨匠のクリエイティブディレクターの人なんですが、
その彼がワイルド・ケネディというすごくイケてるクリエイティブエージェンシーの東京オフィスを立ち上げられて、
その時に松さんがジョン・Jさんのところに訪ねていって、
そしてそのオフィスを見て感銘を受けていたという話は、
こんな近いところでそういう見方があったのかというのはある意味驚きでしたね。
そういうところも含めて松さんの仕事の仕方、そして生き方、
そしてどうやって自分のやりたいことを見つけてそこを貫いていくかというところ、
今回はちょうど初めのところのお話を聞けて、
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やっぱり人が学ぶっていうのは、もちろん本を読む勉強、本を読んだりとか、
いろんなことを調べて文字とか動画とかで見るっていう、見たり読んだりするっていう勉強の仕方もあると思うんですが、
松山さんの場合から読み解いていくと、旅をして世界に出て、そして人に会うっていうところが、
その自分らしい生き方、自分でやりたいことを見つける近道ではないかもしれないですが、
きっかけになるんだなっていうのは、今回の話を聞いて改めて気づかされたところです。
なのでリスナーの皆さん、特に若い皆さん、今ちょうどコロナもようやく落ち着いてきて、
世界に出れるようになったので、ぜひ旅をして世界に出て、そして人に会ってください。
次回も松山さんのインタビューの続きをお届けします。お相手はリーダーズでした。
デジタルガレージは、危険な海に最初に飛び込むファーストペンギンスピリットを、創業以来大事にし続けています。
これからくるWeb3、オープンソース時代を見据えた、テクノロジーで新たなビジネスを生み出す仲間を募集しています。
番組詳細欄にあるリンクよりぜひご覧ください。