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はい、打ち合わせキャスト第81回ということで、今回もゲストにたくさんお返ししております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
いくつかLIFEHACK NEWS的なものをピックアップするんですけれども、
後藤春奈さんがiPadの話という、電子書籍かな、セルフパブリッシングの本を出版されまして、
多分、Kindleで読めると思います。
僕は、憲法ならぬ、けんいいパブをいただいて拝見したんですけれども、
iPad本でいうと、だいたい操作説明とか、アプリケーションの使い方っていう話が中心になるんですけど、
この本は、iPadを使うとはどういうことか、みたいなのを論じると言うとちょっとあれですけど、
考えていくライトなエッセイというような読み物になってますね、この本は。
読み物系なんですね。
読み物系ですね。一応そんなに硬い話はあかりでもなくて、いろんな方面に射程が伸びている話なんですけど、
位置付けが難しいんですよね、iPadっていうのが。
もちろんスマートフォンを持ち、パソコンを持っている人がiPadっていうものを使うと。
そういうデジタルツールの中の系譜とはまた別に、手帳とかノートとかも持っているという中で、
このiPadってどう位置付けたらいいんだろうって結構難しい話なんで、
それを考えるヒントになる本かなという感じです。
あと、タスクシュートクラウドというツールがあるんですけど、
これ基本的に有料プランしかなかったのが、無料プランが使えるようになったというニュースを受けたんですが、
僕はちょっと使ってないんで、どうなっているのかわからないですが、
ちょっと文句が広がったという感じです。
なかなか触れる機会が結構、Excelだったり、
タスクマーはちょっとお値段がいっちゃったりすることもあるんで。
そうですね、お試し版はなくていきなり2,000円くらい、3,000円、2,000円するアプリケーションを買うとこから始まるんで、
ちょっと敷居が高いのを比べると、ブラウザアプリで無料で使えるというのは感覚的に試しやすいかなと。
そうですね。
結構タスクシュートってやっていることは平坦というかフラットなんですけど、
やっぱり合う合わないというのがある手法だと思うので、
1点試してみるのがよろしいかなというのと、
ツール話でいうと、僕がベータ版なんです。
ベータ版というかアルファ版なんかな。
「こざねば」というツールがございまして、ちょっとリンクは概要欄から見ていただいたらいいんですけども。
それは知らなかったですね。
ブラウザで使えるこざね法的なことができるツールという感じで、
テキストを入力すると1行が1付箋みたいな感じになって、
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画面にペシッと貼り付けられると。
個々の付箋的なものがドラッグで移動できるかつ、
それらの付箋をグループにしてまとめて、
そのグループ自体を動かしたりとか、グループのグループを作ったりとかいう、
いわゆるアナログで付箋を使ってやるようなことが可能になっているアプリケーションの試運版というかお試し版みたいな感じで、
今後バージョンアップとかされると思うんですけど、
操作感としては結構面白い感じですね。
アウトライナーじゃんと言いたくなるけれども、
操作感覚を変えるだけでずいぶん違うものになるものですよね。
そうですね。だからちょうどこの2つの中間というのが、
前回話していたカカオやと思うんですけど、
やっぱり平面配置というものが使える。
やっぱりアウトライナーとは、
一個一個を断片的に操作するという感覚自体は一緒ですけど、
やっぱり平面配置とツリー配置という感覚の違いがあるんで、
これもだからさっき言った合わないの話で、
どっちの方がその人の思考の展開とかプロセスに合っているかという意味で、
僕としては結構こっち側が多いですね。
合っていることがものによっては。
そうですよね。自分で時々作るやつも、
なんか付箋っぽい感じのが多いですよね。
多いです。なのでこういうのがどんどん出てきたら増えてきたら、
面白いなという感じで、付箋型ツールって結構あるんですけど、
やっぱりメモ的というか、メモとして使うとか、
簡易のノートとして使うというものが多くて、
いわゆるそのKJ法的にボトムアップで何かを発想していくっていうのって、
あんまり少ないんですよね。
難しいですよね、それね。結構画面でやるのは。
まあ確かに。付箋型ツールでも、
一つの付箋の中に入って、その付箋の中に配置するっていう、
ブレイクダウンできるものは結構あるんですけど、
個々の付箋からボトムアップしていくっていう操作感って実はあんまりなくて、
だからそういうのが必要だと思っている人が開発者だったら、
あれが出てくるんだろうなというところを期待している次第です。
あと、僕の新刊の本が、二刷りができまして、
とうとうAmazonの在庫不足が解消。
解消する、それは素晴らしい。
ありがたいことでございます。
一応二刷りの本は、本文中にコラム欄と本文の切れ目が、
間違っているところが一箇所あったのが直っていたのと、
もう一個、参考文献に名前を挙げておくべき本が一冊ありまして、
「情報は一冊のノートにまとめなさい」という本があるんですけど、
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これに、読書法として「ネギマ法」というのがありまして、
本文、自分の感想、本文、自分の感想、本文、自分の感想というふうに、
引用と自分のコメントを交互に書いていくという方法があるよって、
本文中に書いていたんですけど、参考文献に僕が指定し忘れまして、
それをちょうど読書者さんの方からご指摘いただいて、
確認したら本当に名前がなくて、ちょっと焦ったんですけども、
ニュースツリーではそれが修正されているということです。
そういう細かいところまで読んでくれている人がいるということですね。
ありがたいです、本当に。
というところで、ライブハックニュースがそんなところでございまして、
今回のテーマなんですけど、「生活の技術について」とタイトルにしたんですが、
前回80回をお聞きいただいた方は、ちょっとピンとくると思うんですけど、
カンソルの第5号のテーマをどうしようか会議の中で、
生活の技術と呼んでいいのかは分からないですけど、
とりあえず呼べるものについて考えていこうという話をしまして、
はっきり言ってまだ何が生活の技術かというのを、
編集長の僕ですら分かっていないんで、
今回それについて考えたらいいかなと思うんですが、
一番のきっかけというのが、知的生産の技術って言ったときに、
どうしても、論文・執筆とか本を書くための技術として、
位置づけられてしまうようなところがあって、
それはやっぱり射程としては狭いかなという思いがあって、
もうちょっと広げたいというのが、この題、テーマを掲げた一つの目標というか、
それを見たいことなんですよ。
で、考えてみると、梅佐夫太郎さんが知的生産の技術って言ったときも、
あくまで彼の仕事が学者だったんで、
その大半がいかに論文を書くかという話に収まっていたと思うんですけど、
彼のまなざし自体はもっと広いものをやったと思うんですよね。
そうですね。
多くのものをやったと思うんで、だから、
カーソル第1号で脱知的生産の技術っていうことは、
結局知的生産の技術に返ってくることだというふうに僕は捉えたんですけど、
その意味で、やっぱり、執筆の技術というだけで収まっているのでは、
やっぱり全然知的生産の技術足りてないので、
そこを打開するというか、新しいその広げるために、
何か新しい言葉、言い方を欲して、
とりあえず暫定として、生活の技術と読んだんですけど、
これが本当に適切な読み方なのかは、
原稿を書きながら考えていくところなんですけど、
で、そこも一番いい例というか、
前回出てきた温泉っていうキーワードなんですけど、
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温泉。
大人気だったですね。
大人気でしたね。
で、何ていうのかな、
小さな工夫というかテクニックなんですよね。
温泉に名前つけるっていうのは。
大掛かりの。
ファイル名に温泉ってつける。
やりたくない仕事。
自分を奮起させるという、
動機づけを与えるという方法で、
小手先のテクニックと言ってしまえば、
小手先のテクニックなんですけど、
それによって、
自分の仕事の進み方がちょっとでも変わってくる感触があるっていいよね、
と僕も思うんですよ。
こういう時に、
例えばですけど、
非大腐剥的なものだった場合に、
そんな仕事を辞めてしまえばいいじゃないか、
みたいなね、
転職しようみたいなね、
フリーランスになろうみたいな話があるわけじゃないですか。
はい。
さすがにそれは、
ちょっと大げさというか、
大掛かりすぎますよね。
かといって、
全ての仕事には価値があるから、
そういう仕事にも価値があるんだっていう、
観念を塗り替えるようなやり方っていうのもあると思うんですけど、
間違いではないと思うんですが、
僕にとっては、
それはちょっと踏み込みすぎな感じがあって、
程よい工夫っていうところが非常にいいなと。
それ自身は別に、
ある種、その方法論は生産的ではないというか、
別に何かを生産してるわけでもないし、
一見すると知的生産の技術の反映外にあるかもしれないですけど、
やっぱり知的生産の技術が目指しているようなところに、
重なっているんじゃないかなと今のところ考えている次第です。
はい。
うーん。
うん。
前回もちらっと出ましたけど、
梅沙男忠夫は、
家庭っていう言葉を使ってましたけど、
はい。
この知的生産の技術で言っているようなことは、
家庭でも役に立つんだよっていうようなことを言っていて、
その家庭って言葉はあんまり最近聞かないですけど、
まあ生活ですよね、たぶん。
うん。生活ということなんですね。
実は梅沙男って情報の仮性学、仮性学っていう本を出してまして、
まるっきりその論が論じられてるんですけど、
一般的に主婦と呼ばれる人たちだって、
現代では大量の情報を処理してるわけですよね。
それはもう。
そうです。
だからそういうところに技術論が入るっていうのは、
全然普通だし必要だという論点があって、
梅沙男の論点をなぞるんであれば、
知的生産の技術っていうものを、
知的生産のための技術として、
一回、間に「ための」を入れると、
その「ための」は別のことにも使えると。
だから生活のためにも使えるっていう。
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だから知的生産の技術として開発されているものっていうのが、
実は生活にも使えるんだよっていう論立てももちろんできますし、
そういう意味でも全然違う、さっき言った温泉みたいなものも、
生活の技術として新たに考えることができる。
つまり、学者が新書を書いたときに、
絶対にあげないような技術を逆に論じていこう、
みたいなこともできるんかなと。
まあ、あれですよね。
知的生産っていう言葉が、
ちょっとその知的っていう言葉がどうしても引っかかるんで、
違う言葉がないかっていう話を、
ずっとしてきたわけじゃないですか。
知的生産とか知的生活っていう言葉が、
そういう言葉があると逆に、
それこそ今回の生活っていう言葉があったときに、
どうもそれは知的ではないような感覚になってしまうことがあり得ると思うんですけど、
生活ってそもそも知的なものだよねっていうのがあるんですよね。
知的じゃないですか、その知的という言葉が適切かどうかは別として。
まあ、頭を使わない生活なんていうのはほとんどないわけですからね。
ないわけですよね。
で、頭を使おうと思えばいくらでも、
なんていうかこう深く使うことができる、そういう余地もあるし、
やっぱり生活って簡単なことじゃないし。
そうですね、うんうん、確かに。
だから、なんだろう、
知的生産の技術っていう言葉で言われているものは、
もうそのまま生活と言われるものにも当然応用できるし、
まあそれこそ買い物リスト一つ取ってみても、
深く考えると結構深いわけですよね。
そうですね、それは間違いなくそうです。
だからそういう狭い意味での知的生産の技術だって、
生活にそのまま直結することに使えるし、
逆にその生活ってやっぱりすごく幅が広いものなので、
それこそ仕事とか論文書くとかそういうことまで含めて、
考えてみれば全部それもだって生活の範疇に入るわけで。
まあ、だからそう、ここでだから、
そう生活って言ってしまったときに、
そのワーク&バランスっていうような、
ワークライフバランスかっていうふうに、
仕事と生活っていうのが切り分けられて対峙されているかのように扱われますけど、
実際前回言ったように生活って、
その一個上の概念ですからね、本来は。
そうですね。
そのための技術は仕事の技術も当然含むし、
それ以外の技術もあるっていうのはまあ確かに言い返そうですね。
知的でない生活なんてありえないっていうのが、
最近思ったんですけど、
その知的生活っていう言葉の違和感の原因なんじゃないかなと、
思ったんですよね。
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そうなんですよね。
だから生活における知っていうのと、
知的生活って違いますからね。
だから今ここでフォーカスを当てようとしているのは、
生活における知の働きであって、
知的生活ではないんですよね。
まあ知的生活だって別に全然悪いことではないんですけど、
あれはもっとこう、教養を目指そうみたいな方向なわけで、
そうですね。
そことはちょっとピントがずれているところはありますよね。
まあ教養を目指すにしても、
そういう俺の目指している教養は、
そういう生活感のあるものとは別なんだっていうんじゃない、
本当は教養って生活を目指したもののはずなんで、
わけで考えることはできないはずなんですけど、
まあ、だから生活って何なのかって考えると、
そもそも難しいんですよね。
だから知的生産の技術で考えると、
じゃあ知的生産って何やねんって考えざるを得ないというのと同じで、
生活の技術っていうのを考えると、
生活って何やねんって考えざるを得ないところは絶対あるんですよね。
うーん、そうか。
だから先ほどの生活っていう言葉が非常に、
人生マイナス仕事イコールの答えなような感じがするんですけど、
本来は人生イコールなんですよね。
仕事を引くもんじゃなくて、包括するもんだ。
でも、日本語の語感からしてちょっと全体感が薄いというか、
だから生活イコール日用イコール人生、
これは英語では全部ライフでまとまるんですけど、
日本語の場合は結構分断というか、
異なる概念流動を含んでいるような感覚があって、
じゃあライフって言えばいいんかっていう、
ライフハック的な、包括的な言語を持ち出せばいいんですかね。
改めてライフハックについてみたいなテーマの切り方。
僕、だからライフということで本を一冊書いてしまったので、
あれですけど、
でもその時思ったのって結局、
日本語だと人生と生活って分かれちゃうけど、
英語だとライフだよねっていうところから始まってるんですけど、
結局生活って生きる活動って書くって、
だから人生の活動、
人生をブレイクダウンした時にその活動、
その活動として隠れる側面のことを生活っていうんじゃないかなと思ったんですよね。
そういうことは、それこそ生活っていわゆる買い物をしたり、
仕事に行ったり、掃除をしたり、ご飯作ったりっていう意味での生活ももちろんあるんだけれども、
もっと、例えば、この界隈で今言われることで言うと、
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例えばそのミッションを考えるとか、
人生の目標がどうだとかっていうようなことっていうのは、
まず生活の部分と人生の部分をどうつなぐかっていう、
そのための、それを考える知的な行為なわけじゃないですか、
多分それを考えるっていうのはね。
だから、
人生の部分と生活の部分をつなぐもの、
っていうところにそういうヒントがあるんじゃないかなと、
ちょっと今思いました。
まあ、そうか。だからあえてライフじゃなくて、
何かしらの日本語からスタートしたほうがいいかもしれないですね。
でも、ちょっと思うんですけど、
例えば生活の技術ってお題も掲げたときにやっぱり違和感が強いんですよね。
何がどう引っかかるのかわからないですけど、
生活の技術ってすごく違和感があるんですけど、
例えばこの技術を工夫に言い換えてみると、
生活の工夫っていうとすげえナチュラルなんですよね。
ナチュラルですね。
だから、多分テーマとしてしっくりくるのは工夫なんですね。
多分温泉技法も工夫って呼べば、非常にしっくりくるんですよね。
でも、工夫って言ってしまうと、
面白くないというか、ちょっと狭いというか、
そこで終わってしまう感じがあるんで、
逆に生活の技術って何やろうって、
違和感があったところから広げていく。
工夫の技術の違いってやっぱり、
他の人に使えるかどうかと思うんですよ。
技術っていうのは一般性、汎用性をある程度目指したものであるべきで、
工夫っていうのはそれぞれの人が、
各々の現場で行うことっていうニュアンスなんで、
だから生活っていうのがそれぞれの人にとって特別なものであるから、
工夫という言葉はしっくりくるんですけど、
技術って言われると、いかにもこの、
何やろうな、ジェネラルなものが出てくるというか、
個人性が失われてしまうから、なんか気持ち悪いということだと思うんですよ。
その違和感の正体というか。
はいはいはい、なるほど。
で、広くやってみると、
知的生産の技術っていう言葉も、
おそらく同種の違和感があるはずなんですよね。
制作とか創造っていうプロセスは個々人のものであって、
技術として汎用化できるものなんかないっていう、
ある種の考え方というか、
医療ロギーみたいなのが、
多分今でもあると思うんですけど、
で、梅さんもそれは結局ね、ある程度認めてるんですよね。
各々が個々に秘めたプロセスを持っているということは、
分かってはるんですけど、
それでも、彼の表現を威悪すると、
各々が結構アクセントしているのを眺めてみると、
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結構一緒のことで悩んでるよねっていう話をしてるんですよ。
はいはいはい。
で、そういうのから技術っていうのが言えないかっていう展開なんですよ。
つまり、もともと、
なんていうかな、
イデア的に共通の技術があるというよりは、
結果として見たときに同じことしてるんじゃないかっていうものを、
技術と呼ぼうみたいな感じなんですよね。
そういう観点から捉えたら、
たぶん生活技術っていう論だでも可能やと思うんですよ。
なるほど。
うんうん。
その、全体を支配する共通性、
共通性って基盤性というか、
まあ、イデアなんですけど、
があるんじゃなくて、
各々の苦労の中で、だから、
ライティングの哲学を呼んでるような感じですかね、きっと。
うーん。
一人一人の。
そう、一人一人の工夫があるんですけど、
やっぱりどっか似ているところがあると。
で、あの本は、それを技術という形に紹介はしてないんですけど、
やろうと思えば、なんか技術的にまとめることもたぶんできるでしょうし。
そうですね。
だから、カンソルという場で、
一つ、なんか、
原稿を集めるんであれば、
その工夫の先にある何か、
一般的なものへの、
まなざしも、
ちょっとあってほしいなという感じも込めて、
まあ、技術でいいんかな。
まあ、生活の技術というかどうかは別にして、
やっぱりその、技術っていう言葉をちょっと外さない方がいいかなという感じが今してますね。
まあ、なんか工夫集になってしまうこともあるかなとは思いますよね。
その工夫は工夫でもちろん価値があるんですけど、
うーん。
工夫集だとちょっと、
なんだろう。
まあ、わざわざカンソルでやることじゃないかなという感じがしますよね。
そこがだから、ある種難しさではない。
自分の工夫からスタートするというのはとりあえずいいとしても、
なんかそこに射程を伸ばせるものが見つかるかどうかっていう問題が多分、
今回の例では一番難しいでしょうね、きっと。
そうそう、だから、そうですよね。
内容は個々の工夫でも全然いいんだけれども、
うん、それはいいです。はい。
そこの背後に何があるかというところまで、
うん。
具体的に描かないまでもなんかこう、あるよねっていう、
いうのがね。
感じられるかっていうことですよね。
うん、そういうとこまで、もしいける射程を持っているんであれば、
このテーマで多分全然いけると思います。
それがやっぱりでも、工夫、私はこうします以上で終わってしまうんであれば、
まあちょっとブログ記事でいいよなということになってしまうんで、
うーん。
でもね、あると思うんですよね、なんか。
あの、その温泉法だってきっと何か近いことをしている人はいるでしょうし、
そこにあるその、その、なんていうんかな、
うーん、そこまでして仕事をするっていうその、
心理的な態度というか、に何かあると僕は思うんですけどね。
まあ温泉法だって結構考えてみれば、
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あの、ラベルを付け替えるわけじゃないですか。
そうですね、はい。
で、まあなんか昨日重い仕事っていうこうファイルがあるときに、
そのラベルを付け替えることで開かせるわけですよね。
ある意味では自分の認知をごまかしているわけですね。
うん、そういうことですね、はい。
それって、まあ温泉だからなんかこうすごくこう軽い感じに見えるけれども、
よくよく考えると結構、なんだろう、
いろんな形に展開できるというか、
はい。
ラベルとかタグとは何なのかということまでつながりそうな結構、
いや、それは確かにそうですね。
射程の広いテーマですよね、考えてみれば。
つまり内容そのものをタイトルが表している必要はないということですよね、ここで。
そうそうそう。
高度な知的作用を起こしてますよね。
そうなんですよ。
そのファイルを、その内容をタイトルが代表するって、
まあ標準的な形だけれども、
例えばこの仕事を完了させなきゃいけない、着手して終えなきゃいけないっていうときに、
そこについてるタイトルって別に内容を代表するものである必要ないんだな、
開かせるものであればいいんだなっていう。
確かに。
ことまで考えると結構面白いでしょうね、それ。
そうですね。
内容とタイトル、だから普通思いつかないですよね。
短くするとかあるじゃないですか、長いファイル名を短縮してっていうのは普通ですよね、
普通というか認知的にはスライドしやすい流れですけど、
自分を誘引する全く関係のない名前にするっていうのは、
ある種アイディア的というか、
先継的に展開できるアイディアじゃないですよね、
それって飛躍がありますよね。
飛躍がありますね。
うん、確かに。
あんまり誰にでもすぐ思いつくものではないんですよね。
そうですね、確かに。
そう言わればそうかな。
なんかこう、ルーさんがすごい軽い感じで言って、
それがすごい大人気だったんですけど、
よくよく考えると結構深いなと思って。
うん、確かに。
だからそう考えるとあらゆる工夫って、
そういうふうに考えてみると、
なんか深みはあるはずですよね。
だって工夫が整理するってことは何かしらの…。
そうですね、だから人間の認知に働きかけることが起きるっていうのがまず1個で、
多くの場合その反応って、
情報に何かしら作用を与えているというので、
知的プロセスでもあるというのはまず絶対的ですよね。
おそらくですけど、
温泉にしたら自分が開きたくなるだろうっていう、
メタ認知が働いてますよね、自己理解というか。
そういう様々なものの結節点として出てくるのが工夫なんですよね。
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だから一見ごく簡単そうに見えて、
その工夫の裏側にはいろんなものが蠢いているはずなんですよね。
はい、はい、はい、そうですそうです。
そういうことを考えたらなんかいろいろありそうかな。
だからさっき技術の話を散々してましたが、
その工夫っていうものの面白さについて話が移行してるんですけど、
やっぱり工夫って個別的というか個人的で、
大体は環境を大幅に変えるんじゃなくて、
環境適応的なノウハウというか、
方法として出てくるんですよね。
そのあり方って何なんだろうな。
だから事故によって環境を支配する、
環境そのものを上書きしてしまうということではなくて、
環境に自分を沿わせるというか、
もう仕事なんだからこれは自分の気持ちがどうあってもやるんだみたいなんでもなくて、
事故と環境の間に何かしら干渉剤を入れて、
調和というんではないですけど、
対立を少しでも減らそうみたいな試みが工夫だと思うんですよね。
だから工夫を観察すると、環境と人の両方が見えてくるというか、
ところがあって、
まずやりたくない仕事があるというのがまずわかりますし、
それでもやらなければならない責任感みたいなのも見えますよね、その工夫からは。
見えますね。
だから結構後ろに人間が透けて見えるというか、
人間らしいですね。
そう、そう、そう。汎用的に作られた方法って汎用的になるほどその人間性が薄れていくというのがあって、
やっぱり、
特にもう近年のGTD的なものって、もう人間性が全く見えないですから、
非常にシステマティックになっているというか、
立ち上がったばっかりのGTD、つまり、
GTDとまだ呼ぶに値しないようなアレンさんの工夫の頃は、
アレン三州が多分すごくしたと思うんですよね。
はい、そうですね。
そこがいろんな人のフィードバックを得たりして、
汎用化を目指す中でいろんな人に使えるがゆえに、
その人らしさは効いていくっていうところがあって、
だから、
そうですね、そこまでは行かない、行きたくないというか、
だから、ノウハウ、特風の間ぐらいが技術なんかな、きっと。
まあ、やっぱり一定程度の俗人性が残りつつ、
汎用的なものにつながり得る可能性を秘めた何かがあるということですよね。
そういうのほど、やっぱり生活という分野が一番生きるというか、
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つまり、画一的な仕事の場合は、
技術よりもさらに汎用化されたマニュアルで作業できるわけじゃないですか。
はい。
その求められている成果が一定だからですよね。
はい。
でも生活はそうじゃないからこそ、
そのマニュアルとか均一したノウハウでは埋めきれない穴があるというか、
ぴったりフィットしないというのがあるんで、
何かそう、俗人性の余地がある、マージンがある、何かのノウハウじゃない。
これ何て言ったらいいんだろうな。
まあ、工夫か。
だから、それぞれの人が工夫を作れるような工夫の見せ方、
用法提示の仕方ができたらいいのかな、カーソルでは。
そうですね。
あとだから、切り口としてどんなカテゴライズがあるのか、
どんなことに言及できるのかっていうのをちょっと探求したいんですが、
例えば生活の技術っていうのを仮に大項目を掲げたときに、
下にどんな開項目を設定できるのかという話なんですが、
起点としては、行為のジャンルというのかな。
仮に生活の技術の下に、
もの書きをする技術として知的生産の技術っていうのを当てはめたときに、
他にも多分ほにゃららな技術って色々あると思うんですよ。
はい。
だから、温泉法は仕事を進める技術ですよね、きっと。
はい。
他に何かありますかね。
人が必要としているよりは、
例えばたくさんが、これは工夫と呼べるものっていうのを駆使している分野というか、
ジャンルというか。
ものすごいレベルの低いことで言うと、
事務手続きをしなきゃいけないときに、やりたくないじゃないですか。
やりたくないというか、めんどくさいじゃないですか。
事務手続きとか、公共料金とか税金とかそういうものをやらなきゃいけないときに、
つい僕は目の前から排除しちゃって、存在を忘れるんで。
はい。
それを忘れないようにっていうことで言うと、もうあれですよね。
パソコンのキーボードの上に置いておくという。
なるほどね。
なんか、翌日にパソコンを開かないということはないので。
なるほど。
まあ、そこに必ず置いてある。
だから忘れ物をしないように玄関に置いておくみたいな話ですよね。
モノリマインダーというやつですね。
その手のことはたくさんありますよね。
だから、温泉と同じですよね。
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やりたくない、特にやりたいというモチベーションが湧かないものをどうやって自分にやらせるかということですよね。
そうなんですよね。
だから、基本的に知的生産の技術系に湧き立つ人というのは、だいたい文章を書きたい人じゃないですか。
素直に書けるかどうかは別にして、動機づけが内的に持っているという状況から、いかにプロセスをうまく進めていくかという方法論なんですけど、
この場合は違うんですよね。
やりたくないけどやらざるを得ないとか、やるべきだとは思っているみたいな、アンビバレントな状況をいかに打開していくかという技術で、
やっぱり方向性がちょっと違いますよね。
そうですね。技術と言えるのかというレベルのものもやっぱり入ってきますよね。
ただそれをあえて技術と呼ぼうということかもしれないですね。
そういうことだと思いますよ。この本でやろうとしていることはおそらく。
技術と呼んだときにどんな風景が見えてくるのかというようなことだと思うんですけど。
それこそ目覚まし、朝起きられるようにアラームを時間をずらして何回もかけるみたいなことはよくあるんですけど、
複数台使ってだんだん遠くに置いておくとかね。
最後には洗面台にまで行かないと止められないみたいな。
でもそこまでしないといけないし、そこまでしたら逆にできるっていうことでもあるし、
これも結局小さな工夫で、いわゆるライフハックの現象的なやつですよね。
まさにそうですよね。
だからやっぱり生活の技術について考えるってことは、
ある種一回通り過ぎてしまったライフハックについて考え直すっていうことでもあるでしょうね。
そう考えるとライフハックとどう違うんだっていう話になりますよね。
僕はライフハックのほうが好き。
でも逆にライフハックがあまりにも言葉として普及しちゃったりすると、
いや、そりゃライフハックじゃないでしょうっていうものを、
これは俺のライフハックだぜって言うようなことって、
あるでしょ、ネタ的に言うような言い方ってあるじゃないですか。
あります。
逆に本来のもともとのライフハックって何だったのかっていうのを、
ちょっとこの生活の技術は別にして思い出してみるのもいいですよね。
なんかだから、もともとのライフハックっていう、
あれはどっちなのかな、やっぱり人生のほうがニュアンスが強いのかな、
ライフハックするっていうのは。
もともとの文脈がどっちが強かったのかちょっとわからないですが、
去年プログラマー的な人たちの生活の工夫みたいな、
それこそ工夫ですよね。
だからいかに生産性を上げるために効率的になるかとか、
というとこからアメリカのライフハックは発祥したはずですけど、
日本のブームは多分それとはちょっと文脈が異なってて、
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仕事術全般からそれこそ生活の技術まで含む網羅性を備えてた。
それはやっぱり日本語にとってライフっていうのが、
さっき言った言葉を全部含むからでしょうね、きっと。
そうですね。
それを言ってもそれはライフに該当するっていうのがあるから、
包括的になったんでしょうし、
当然そもそも人生っていうのがさっき言った趣味から仕事まで全部包括するんで、
人がやってることはすべてライフハックの範疇に入ってしまうっていうのが、
捉えづらさとしてあるのと、もっと詳細に見ていけば、
実はライフハックを提唱していた人たち、著作を書いていた人たちも、
実は流れがあって、それぞれ異なる色合いがあるんですよね。
堀さんルートとか、しごたのルートとか、なんとかルートとか、
ちょっと名前はあれですけど、それぞれ色々あって、
それぞれ似たことは言及しているけども、
そのライフハック的なものに何を求めてるかっていうのは結構違ったんですよね。
だから、ホネハララハックっていう本を複数読んでても、
やっぱり全体像が定まらないというか、それぞれが違っているがゆえに、
その描く縁がやっぱりでかくなってしまうんですよね。
だからやっぱりわかりにくくなったし、それはもう避けがたかったと思うんですけど、
僕が一番影響を受けているのは、堀しごたのルートのライフハックなんですよね。
一番アメリカで発祥したライフハックを日本に伝えようという意思を一番、
個人的には感じたのが、特に堀さんルートだったような気はするんですけど、
ものすごい詳しいわけじゃないですけど。
堀さんルートと平行したタグチさんルートというのがあって、
これはしごたの方なんですけど、
でもタグチさんルートは結構GDDよりになってしまって、
それ以降継続的にやっぱり、
米国式のライフハックの考え方を伝えていたのは堀さんだけだったでしょうね、後半見ると。
だからライフハック、僕の印象だと、
僕もその辺にものすごい詳しいわけじゃないんですけど、
結局プログラマーが開発するときにハックするっていう風に言っていた、
プログラムなりコードじゃないものをハックするっていうのがライフハックだったっていう感覚があるんですよね。
だからライフとは何かっていうのは特に考えてなくて、
本来自分たちがハックしてたもんじゃないものもハックしちゃう、
プログラマーの機質としてそういう発想をするっていうものだったような気がするんですよね。
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そうか。
例えば、いかにうまく時間を使うとか、
例えば頭が働く時間に仕事をするとか、
シャワーをこう浴びたら目が覚めやすいみたいな、
そういう話が結構、当然プログラムを使うことで、
普段なら2時間かくる作業が5分でできますみたいなも初期のライフハックの範疇だったと思うんですけど、
後半あんまり出てこなかったですけど、
そういうのって結局はだから、やっぱり人生というよりは生活なんでしょうね。
日々の生活を少しでもハッキングして、
時間を最大限活用しようっていう、
そういうポリシーというかアイデンティティーがあったんですよね、初期の頃は。
そうですね。
だからあんまり大きい話ではなくて、
なかった。だからそれが変わったのがGDD以降でしょうね。
GDDのボトムアップ的に、あれも結局最後に高度の話しますから、
5千メートルとかの話をしだすので、
あの辺でいわゆるナーツの習慣的なビジョンとあそこで交わるんですけど話が。
そこまではだからもっと日常的な、今から来たら笑われるような細かい話だったと思うんですけどね、きっと。
でもなんかいわゆるデビッド・アレンがGDDの本を書いた時って別にこれはライフハックだと思って書いたわけじゃないじゃないですか。
もちろんそうですね。
いわゆるそのライフハックの人たちがそのGDDに飛びついたというところがあって、
で、この印象だとその、あの、ネクストアクション、次のアクションとそれをそのコンテクストに分類するっていうところがすごくこうなんかライフハックと神話性が高かったような気がしていて、
あんまりその高度の話ってなんか出てこなかった気がするんですよね。
あれはだから青い本ぐらいなんですよね。
日本語翻訳されてるとだから、2冊目になるのかな、そのストレスフリー系のタイトルでいくと。
1冊目の時のね、エッセイを束ねたような時の本には多分出てこなくて、
あのGDDがいわゆるシステムティックにまとめられた後ですよね。
だから、あの話がないと結局行動が決定できないかもしれないでしょうね。
だからなんかこう、デビッド・アレンが書いたの最初の本っていうのは割に、それ以前にすごくその、それこそ7つの習慣とか、
あのフランクリン・プランナー的なそのゴールやミッションを決めて、それを日々の行動に分解していきましょうっていう、
あの流れに対するアンチ提説みたいなところがあって、
ただ、そういう人生の目標的なことをGDDは考えてないわけじゃないよっていう、
42:02
そこから考えてもうまくいかないよねっていうことであって、
実は、その、あのコードで考え、だんだんコードを上げていけばそういうものも見えてくるんだよっていう、
なんかそういう持っていき方だったんですよね。
だから別にコードを上げましょうとは別に、それほど積極的には言ってないですね。
なんかコードっていう考え方もありますよっていうぐらいであって、
日々を回していけばコードが上がれるようになりますってっていうメッセージではそんなに強くないんですね、そういえば。
ないですね。その逆にいかに、どれだけコードが高い方から考えてそれをやろうとしても、
日々の生活に追われたらできないでしょう。
だから、そこをいかに効率よく片付けるか、
それができれば自然にコード上がっていくこともできますよっていう言い方だったような気がしますね、むしろ。
確かに。
だからまあ、そんなにコードにこだわってないような気もしますね。
だからやっぱりそれが日本で需要されたときに、結構だから自己啓発成分が、成分というかコンテキストが、
太陽にこう降りかけられたんでしょうね、きっと。
おそらくは。
そうなんですかね。
おそらくだから、逆の言い方をすると、自己啓発的なものを欲していた人たちが、
それを成すための手段としてGTDを需要したということじゃないですかね、きっと。
そうか、僕あんまりGTDに自己啓発的な成分が入ってる印象がなかったんですけど、
確かに今思うとそういうこと言ってる人いましたよって感じ。
そこでミスマッチがあったんでしょうね。
だからGTDで時間を効率的に使って、
あとはそういう自分にとって重要なことをする時間を作りましょうっていうことだったんでしょうけど。
確かにそういう流れは、あんまり印象、個人的に印象残ってないんですけど、確かにありましたね。
そういう、やっぱり初期の、ビジネスパンソンに受け出した頃は、結構そういう文脈やったと思いますよ。
あれをすれば夢が叶う的な、別に、アレンがそういうこと言ってるわけじゃなくて、
そういう文脈で、この技法使えるぜみたいな紹介のされ方が結構なされていたような。
でもやっぱり、振り返ってみると、もっと生活の技術なんですよね。
日々の白かった机をどう片付けるかレベルの生活の技術なんですよね、基本的には。
そうなんです。すごいGTDってそうですよ。
本当にどう片付けるかぐらいのところから始まるんで。
だから机の上の木になるものを片付けるっていうのと並行して、
45:00
頭の中の木になるものを片付けましょうっていう。
だから、ストレスフリーの整理術ってついてますけど、やっぱ整理術なんですよね、あれって。
意味ではそうですね。
あれはタスク管理の文脈じゃないと思うんですけどね、そう捉えるんであれば。
結果としてタスクは管理できてるかもしれへんけど、
それは主要な目的じゃない気がしますね、なんとなく。
そうですね。タスク管理の手法ではないですね、タスク管理っていうのは。
ただそのGTD的な思想がタスク管理アプリに導入されたので。
そういうことか。
もちろん無関係じゃないんですけど、タスクじゃないんですよね。
その気になっていることを頭の中から出して、これは何だろうねって考えた時に、
これはタスクだってタスクに分類されていくことはあるけれども。
タスク管理の技術ではないんですよね、別に多分。
だからこそやっぱりGTD用のアプリってうまくいかないんじゃないですかね。
GTD用のタスク管理アプリっていうのが何か思想的なミスマッチを送ってるというか。
だからよくいつも言いますけど、インボックスの中にタスクを書いちゃうっていうのはそういうことですね。
インボックスは多分フリーじゃなきゃいけない。
そうですよね。気になることリストになってないといけないはずが、タスクリストになってますからね。
そうなんですよ。
だから話戻すと、生活の技術っていうのは本来のGTD的なものとして考えると分かりやすいところはありますよね。
そういう情報処理の側面と、あとさっき言ったいかに行動を促すのかっていう側面と、
あともさっき言った部屋の整理とか物理的な側面と、この3つかな。
行動と情報と物質の整理。
だからやっぱり多くは整理を含みますよね。整理というキーワードがありますよね。
で、そこに自分の感情的なものを含むかどうかっていうのがすごい難しいところだと思うんですよ。
やっぱりそこが含めないとダメというか、弱いというか。
そこを含めてこなかったのがやっぱりライフハックの弱さというか、
なんか非常に無機的なものに最終的に落ち着いてしまった気がするんですよね。
だから怒りを抑える技術も生活の技術だと僕は思いますけども。
ああ、そうですよ。まさにそうですよね。
だからそこの感情的な部分を含めるときに、
じゃあ夢を実現するためにっていうところに、ところが入ってきうるんですよね。
48:06
で、来たって全然いいんですけど。
いいんですけど、まあはい。
いいんかな、いいんかな。ちょっと待ってください。
ダメです。
一回言ってもらいましょう。
ダメですね。
だからそう、夢を叶えるための技術が、このここで想定している生活の技術に、
果たし本当にコンフリクトなくハマるのかというのが結構大きい話で。
そこが大事だと思うんですよね。
おそらくだからそれはね、生活をないがしろにすることで得られるものだとしたら、
それはコンフリクトするんじゃないですかね、きっと。
そう。で、そういう意味では夢が、夢の実現が生活をないがしろにすることにつながるとしたら、
それを夢ってなんか違うんじゃないかとは思いますよね。
でもそういう夢を抱くことそのものが間違っているとまでは僕は言えないですけど。
まあまあ、確かに確かに。
例えば有名な画家とかって、本当に生活をさ、自分で手放して絵画に打ち込んだ人たちがいるわけで、
それをじゃあ安易に否定できるかというと、
その人がもうそれで納得してるんやったら、それはそれしゃあないわけですけどね。
ただ、かといって正当化するわけではないけど、
やっぱ生活の技術っていう文脈で言う場合は、やっぱりその日常を守るというところがキープラインとしてあって、
だから生活を守るからこそ、こんな仕事やってられるかって飛び出すんじゃなくて、
温泉っていう名前をつけるわけですよね。
そうです、そうです。まさにそういうことです。
だからそこを守るというのは、この企画のコンテキストとしてはやっぱり最低限必要な気がしますね。
そうですね。
で、やっぱ温泉があんなに大人気だったのって、たぶんね、そこだと思うんですよね。
うんうん、確かに確かに。
そうか、だから、やってられないとかあんまりやりたくないっていうのが日常にあるっていうことがもう前提というか、
それをなんか無理やり変えてしまうんじゃなくて、いかに付き合っていくのかっていうことを、
みんな日々体験しているんですよね。
で、ある種その反動として、ある種のビジネスショーでは、
それを一切合切捨ててしまいましょうっていう言説がある種反動として受けるんですけど、
そういう方向にはいかないし、やっぱり行くとそれは生活を壊すということにほぼ直結してしまうんで、
まあ、面白い。
そうですね。
だからそこが難しい、だからその、そこのなんていうか、すべてをバーンって捨てるというところに行かないっていうのはすごく大事なことだと思うんですけど、
はい。
だからずっとそこに留まってなきゃいけないというところにも行っちゃいけない。
もちろんそうです。
気がしますよね。
もちろんそうです。
だから、その、何というか、ちょっと言葉が正しいかどうかわかんないんですけど、
健全な意味で必要だったら出ていけることも含めつつ。
51:04
だから、温泉。
難しくなってきましたね。
はい。
だから結局その温泉、そのあんまり気が乗らない仕事のファイルに温泉ってつけてこう開くという、
なんだろう、そのレベルのことをやりつつ、でも温泉では通用しなくなるところをちゃんと見極められるというか。
あー、そうか。だから逆に日常的にその温泉みたいなのに対応しているからこそ、それで無理なラインがわかるというか。
あー、そうそうそうそう。
そういうことが言えるかもしれませんね。
うんうんうんうん、なるほどなるほど。
逆に温泉でも開けなくなったら何かまずいかもしれない。
それはそうですね。
だから反応の敷地をちょっと上げるわけですね。いきなり怒り出すわけじゃなくて、ちょっと耐えられる領域を作っておいて、
それでも無理やったら無理っていう、反応の過敏さをちょっと減らすために工夫という干渉剤が入っているという感じですね、きっと。
そうですね。
うんうんうん。
で、一方ではね、それこそ生活、生きていくための日々の仕事をないがらしろしにして、
人生、そんなんできるのか夢だぜ、っていうことが、
はい。
そうじゃないっていうことが非常にこう、何ていうか、こう、当たり前のこととしていや、そうじゃないよねって言えなきゃいけないわけですよね。
言えなきゃいけないわけです、それは。
そう。
うーん。
難しい話になってきたけど。
いやいや、そう、だから、そうなんです。結局、その、どういう話にしろ、その、片方だけで進むわけは絶対なくて、
日々の小さな工夫と茶舞台ひっくり返すことの両方が視野に入っているのが多分健全やと思うんですよ。
はい。
だからその、夢タイプは結局片方しか選んでないのが多分問題であって。
うん。そうなんですよね。
電化の報道を切れる状態にはしつつも、普段は脇座して対応するみたいなね、そういう感じがいいんじゃないですかね、きっとね。
うん。そう、だからそれ、やっぱりね、その、いい年して夢なんてっていうのもダメなんで。
うん、それはもちろんそうですね。
だから、なかなかそういうバランスをうまく取れる、うまく取ることをこう、視野に入れたこう、方法論みたいなもってあんまりこう、見せてくれない。
まあ、極端な方が受けますからね、基本的には。
うん、そう。そうなんですよ。
だから。
だからね、自分もできればそういう方に行きたいし。
はい。
何の話でしたっけ。
54:00
結局それ、このKiwiの工夫ってさっき言ったように、環境支配的でも環境重視的でもないという意味でバランスを取る技術なんですね。
ああ、なるほど、なるほど。
ありとあらゆることが、その、どっちの両方も塩梅良くするっていうバランスを取ることを目標としてるというのは、まあ多分あるんかな。
だから、えーっと、しめ、原稿が書けないときに、その、締め切りほっぽれ出してバカンスに出かけるっていうのも、まあ、逃避なんですけど、それは結局バランスを取ってるわけなんですね。
そうですね。はい。
自分の精神の調和っていう風の方にちょっと振ってるバランスの取り方というところで。
だから、生活を守るということイコールやっぱバランスを取るということで、バランスを取るための技術というのがまあ一つのカテゴリーとしてはあるんかな。
いろんなことがいろんなとこでバランス取られてて、まあ何かが守られてるっていう。
で、やっぱり日常っていうのはその繰り返されるものっていう定義を僕は含んでるんで、1日だけの1日って日常ではないんで。
うん。はいはい。
繰り返されるものこそが日常なんで。だから、ライフハックと習慣っていう小さな習慣っていうのが親和性があるんですね。
うん。そうですね。
一回きりじゃなくて繰り返されるものに価値を見出すというところで。だから、チャブ代返しの先に人生が続くんやったらそれはそれでよしやし、そうじゃないんであればやっぱりそれはダメだしというところで。
継続っていうものとバランスとか調和っていうのが一つのキーワードで。
だからと、この調和っていうものに相反するように見えるんですけど、変化っていうのも実は内包されてるというか。
はい。
調和するために変化が必要っていうことかな、逆に言うと。
うん。
変えていくことっていう、まあ名前を変えるでもそうですし、先ず言うとファイルで言うと置き場所を変えてますよね、だから。
工夫ってだから変えることがだいたい含むんですよ。
うん。はいはい。
そのままで続いてきたことをちょっと変えてみるっていう変化っていうのも一つのキーワードかな。
だから、何を、この言語を書いてもらうときに、仕事の工夫について書いてくださいみたいな、でも別にいいんですけど、
例えばどんなことに対してバランスとってますかみたいな聞き方もできるかなというのをちょっと今話してみました。
はいはいはい、そうですね。
バランスって結構キーワードになるかもしれないですね。
でも面白いのはさっき思ったんですけど、ライティングの哲学のセシモさんの方法、さっき。
バカンス方法となるでしょ。
バカンス、バカンス、バカンスに行ってしまうと、原稿の締め切り前に。
はい。
で、それって一見チャブ大外視のように見えるけれども、そのことによって、まあ原稿が、最終的には原稿ができあがる。
そうそう、ちょっと遅れるけど、原稿ができあがる。
で、自分も心身のバランスを崩したりせずに、まあそのままこう続くっていうことを考えると、
57:03
一見チャブ大外視のように見えながらバランスをとってるわけですよね。
確かに。継続が目指されてますね。
だからバランスをとるって、常にあっちとこっちを見ながら妥協をしながら進むという意味ではないんですよね、たぶん。
確かに。
ある場合には、その極端に見える行動をとることが、自分にとってバランスをとることにつながるっていうこともありますよね。
あの、あのセシモンさんのね、あの話、僕ね、すごい好きなんですよね。
いや、あの、歴代のビジネス書を見てもあんなことが書いてあることは一個もないと思うんですよ。
いや、でもね、思うんですけど、やっぱりね、そう、まあその日本文化の真面目さかどうかは知りませんけど、
まあ本音と建前の建前のほうかは知りませんけど、いや、逃げたらいいと思うんですね。
締め切りを遅れたっていいし、仕事を断ってもいいって、あの、ごくナチュラルなことなんですよ。
契約関係で動いているだけなので、いやと言ったら遅れたりして、
ある種のそこのフィードバック、罰とか、信頼感を失うっていうフィードバックが返ってきて、それを自分が引き受けるんであれば、
それは全然選択肢ってあるはずなんですけど、選択肢としてない人が多くて、やっぱりそういう人ほど思いつめやすいことがあるんで、
あの、ほんまにその、逃げたらいいと思いますよ、僕は。
そうですね。僕もね、割にそうなりがちなところあるんで。
はいはいはいはいはい。
うん。あの、もともとそうじゃなかったという、
あの、それこそ僕は、宿題って絶対踏み倒すタイプだったし、子供の頃。
はい。
あの、約束の時間にはつかないし、仕事は締め切り遅れるしっていうタイプであったことのコンプレックスが裏返っちゃって、
フリーランスになった時に逆にガチガチに絶対に待ち合わせには遅れないとか、何があっても締め切り遅れないみたいになっちゃったところがあるんですよね。
はいはいはいはい。
だから、すごく、なんていうか、本当はそうじゃないっていうか、なんだろうな、そのこと自体に絶対性があるわけじゃないんですよね。
その、締め切り守ることも時間に遅れないことも大事なんだけれども、
そのこと自体に何かこう絶対的な価値があるわけじゃないっていう、
それこそ、締め切り間に合わなさそうだったら、すいません、ちょっと遅れそうなんですけどって連絡して、
まあ1週間伸ばしてもらうっていうことも含めてそういうことができれば別にいいわけですよね。
うんうんうん。
っていうことをやっぱね、ある時期忘れてたことがあって。
はいはいはいはいはい。
だから、やっぱ、あの、それこそ、あの静止モードさんの方法もそうだし、
まああのライティングの哲学全体にわたってこうそういうメッセージがこうすごい走られてるんで。
はいはいはい。
大事なことだなと。
し、そういうことも、まあある種今回のその生活の技術に関わることだなと思いますね。
1:00:03
そうですね。だから、まあ生活だけで日常とか生活っていうの継続性が僕の中では定義としてあるんですけど、
まあ、えーと、まあいろんな工夫とかっていうのが、何かしらを円滑に進める、円滑というまでは言わないですけど、
ものすごい抵抗値があるものを少し抵抗を減らして進みやすくする、進めやすくするっていう技法やとして捉えた場合にやっぱりその、
なんていうかな、人生を進める、うーん、生活を進める技術、うーん、何やろな、日常を進める技術、なんかここには当てはまることはないですけど、
まあ進むとか進めるっていう言葉自体にもう継続が含まれてますし、そこにバランスが取られてることも含意されてると思うんですよ、進んでるから。
はいはい、そうですね。
進むとか進めるとかっていうニファンスイメージがそこにあったら、必然的にさっき言ったキーワードをまるっと含むものになるのかな。
うーん、はいはいはい。確かにバランスが取れてなければどこかで進まなくなりますからね。
進んでるということはある種の何か系がちゃんと維持されてるということなので、システムが維持されてるということなので、
やっぱり進まなくなった時にどうするかも含めての進む、進める技術かな、なんかちょっとあまり主体的に聞こえるけどもこの言葉は。
でもなんかそういうイメージかな、日常を進める的な。だから生活の技術よりはもう少し絞り込んだイメージになるのかな、これを。
例えば生活の技術って言ってしまった時に、例えばどのクレジットカードがお得かみたいなのもまあ生活の技術から言うと。
でもおそらくカーソルのメンバーがイメージしているのはそこじゃないと思うんですよ。勝手にイメージしてますけど僕が。
そうですね。
なんかその円滑さ円満さというか、日常を抵抗値を減らして進めていくっていうような。
そうですね。やっぱり楽天ポイントはでかいですよっていう話じゃない。
ないと思いますよね、きっと。それ自身は別に生活の技術として位置づけることはできると思いますけど、温泉っていうのが、温泉法が弱気したイメージはそうじゃなかったなという気がするので。
そうですね。
そういうとこかな。そういう適切なキーワードが見つかればいいんですけど、イメージとしてはそういう風に自分の人生をなんとか進めていくための方法みたいな。
なんとかですよね。なんとかは多分。
人生をなんとかする。
このなんとかの残念感がやっぱり僕の中では必要だと思いますよ。
うん。なんかね、こう、生き抜く。生き抜くからもうちょっと切実さを抜いたような感じですよね。
1:03:00
そうそう、そんな感じです。
だから、自分に降りかかってくる不都合をゼロにすることもできないし、かといって他人に不都合を与えることを完全に良しとしもしないっていう立ち位置になったときに、やっぱりそのもどかしさというか、言い切れなさというか、なんとかしてかんっていうのは避けがたいと思うんですよね。
人間ってコミュニケーションの中で生きてるんで。
他者を完全に無視すればストレスフリーに生きてきますし、他者を完全に支配してもストレスフリーに生きてきますけど、やっぱりそれ答えではないと思うんで。
だからなんとかやっていくっていうための方法かな。
でもなんかね、イメージそうですね。なんとかやっていく。
僕、前からGTTの頭文字のGet It Doneかな。
Getting the Things Done。
やり遂げる技術って確か日本語では最初の役の時にそうですよね。
でもね、もちろんわかるんですよね。ある種のものごと達成するとかコンプリートするっていう感覚はいいんですけど、
ここまでの話を引き継ぐと、やり遂げたら止まっちゃうじゃないですか。
僕の中では継続のイメージが非常に重要なんで、だからDoneではダメだなと。
僕の貧困な英語の語彙で考えると、Get Alongっていう言葉があるじゃないですか。
うまくやっていくっていう、あの感覚やなと。
Doneじゃなくて、ある種なんとかうまくやっていくための、そういう技術として何か提示できたらなと。
その細かいことから大きなところ。大きなところで言うと仕事を辞めるとか変えるとかっていうレベルですね。個人の選択で言うと。
そういうところまでを包括してなんとかうまくやっていく。
結局、僕フリーランスで10年ぐらいやってますけど、なんでそうかっていうと会社員ができないからなんですよね。
つまり、フリーランスに適性があるというよりは会社員に適性がないから、仕方なくってちょっとネガティブすぎますけど、
この場所にいるだけであって、別に偉いわけでもなんでもなくて、むしろ社会的協調性のなさなんです。
基本的には。そういう戦略としてフリーランスをやってるっていう話は、僕の中でうまくやっていくための一つの方法ですね。
自分自身を壊さないためのうまくやっていくための方法みたいな感じなので、
そういう嫌なことをなんとか進めるというレベルから仕方なくフリーランスをするというところまで含む何かでしょうね。
もちろん技術的なことでもいいですし、情報的なことでもいいですし、感情的なことでももちろんいいんですけど、
環境とうまく付き合うための方法みたいなね、そういう感じ。
1:06:05
逆にそういう技術論的なことじゃなくて、もっとさっきの会社に適性がないからフリーランスやるんですよ、やるっていう、
そういうところまで含めるってことですね。
僕の中ではそれを含め、今まで話してきた感じで、それは含められるんじゃないですかね。
含めた方がいいと思います。
そうですね。
こんなイメージかな。これを別にカワソミメンバーが全員聞いてるわけじゃないんで、
もう一回また文章にまとめ直す必要はあるんですけど、なんとなく見えてきたかな。
単に生活という言葉に付随するあらゆる技術というよりは、さっき言ったうまくやっていく、回していく、なんとかやっていくために何をしているのか、
僕がここの環境で何をしているのかっていうので、言えば統一的なテーマになりそうですね、きっと。
そうですね。
そんなとこかな。
現状はそんなところで、またもう一段階カワソル会議を進められそうですけども、
どうしようかな。ちょっとだけこぼれ話にしていいですか。
こぼれ話。
手書きノートを久しぶりに見つかったんですよ。
無印良品というところで売っている文庫本ノートというのがありまして、
ありますね。
その文庫本サイズのノートで144枚ページがあるんですけども、
今進めている次の企画の本が、企画案が2点3点してまして、
どうしても仮組はできるんですけど、
これだっていう感触がないものができるんですよ。できるにはできるんですけど、
常にハテナマークが3割ぐらいあるような、これでいいかなみたいなのができるっていうので、
一応原稿を書きながらその構成について考えてたんですけど、
ある時どうしてもわどまらないんで、その文庫本ノートを買って、
1ページに、見開きの右の方だけ使う1ページに、
その本について書き出そうとしていることを全部書いていったんですよね。
だからカード的に使ったっていう感じ。
全部書き終えて138ページまでいったんですけど、
その後でようやく構成ができたんですよ。
これね、なんでこんな質面倒くさいことをせなあかんかなと思ったんですけど、
やっぱりね、メディアって重要やなっていうのを感じたっていうのを言いたいだけなんですけど、
結局情報カードでもうまくいかなかったですね、今回は。前回はうまくいったんですけど。
今回はノートを使って初めてなんかできたという感じで、
1:09:03
その考察はまた考えますけど、そういう幸福がしたか。
その考察がこれから始まるわけじゃないですね。
それはさすがに長くなるんであれですけど。
だからいろんなことを結構言ってますけど、
詰まったら媒体、メディアを変えた方がいいよってよく言うんですけど、
なおこれも僕もそれを実践してみたんですけど、
もう予想外のとこに答えがありましたね。
普段使っているツールの一周してみたんですけど、
どれでもダメだったときにふと思いついて、
そのふと思いついたに多分なんか僕の中に眠っている無意識が引っ張り出したんでしょうけど、
ノートを使ってみたと。
138ページ書いた後に1行目に書いたことをインデックスとして、
またそれを手書きで全部写したんですよね、138行。
この間ツイートしてたのはそれなんですね。
6字を書いたわけですよね。
そうするとやっぱり見通しがつくんですよね。
見通しがつく上に、この項目はあの項目と関係あるなっていうのがふって浮かんでくると。
そういうのがいくつか浮かんでくると、
構造の接合部分っていうのかな、
ハブになる部分、ジグソーバズレット四隅かな、
みたいなのがぼんやり出てきて、
これだったらおそらくこういう本になるだろうなっていうのが初めてわかったんですよ。
これやっぱり全部書き出してみないとわからないっていうことですね。
それはなんとなく想像つきますね。
今は集めきらないでちょっと破片的に集まったものだけで考えてたんですよ。
例えばそれで前半部分の構造だけ立てられたらいいかなとか思ってたんですけど、
結局それじゃダメだったんですよね。
よくよく考えたら僕、すべてはノートから始まるって、
結構初期の段階で正立が立ってて、立ってたもんもこれでいけるっていう感じが確かにあったんですよ。
今は直前までの目次案で、どうしても「ん?」っていうのがいくつか残ってたんですね。
残ってると進められないんですよ。
ある程度これでいけるなっていうものをやるためには、
一遍全部書き出してみる必要があると。
全部は別に本文じゃなくていいから、これについて書こうと思ってることをとりあえずあらかた書いてみると。
それの目次を、見出しを並べてみると。
だから完全にアウトライン、アウトライナーにアウトラインを書けってことなんですけど、
でもアウトライナーって思いっきり書かなかったんですよね。
それは全部書き出した後で見出しを書いたわけですよね。
だから書き出した時に1行目を書くじゃないですか、絶対に。
それがもうだから見出しになってて、見出しを書き終えた後にインデックス。
そういうことか。
並べて書いたってことです。
でもそれはアナログだけど、アウトラインプロセッシングですね、まさにやってることはね。
1:12:04
カードじゃないっていうところが面白いですよね、それ。
これね、カードでやってたはずなんですけどね、カードではこの形にならなかったんですよね。
カードでも書いてて結構枚数あるんですけど、それでも今回のような構造が立ち上がってくることはなかったんですよね、不思議なことに。
それは何でしょうね、やっぱなんか閉じられて、順番が固定されていることに何か意味があったんでしょうね。
やったっていうことに意味があったんでしょうね、きっと。
だからある種そのページ数の制約、144ページ以上書けないって、有限化されてるっていうことがあったのかもしれないですし、
カードを書くときに何か妙な意識を発揮させて書いてたから、うまく書けなかったのかもしれませんし、なんかその辺は分からないんですけど。
だからとりあえずここで言えることは、デジタルツールとかアナログツールの境目を一回なくして、
詰まってるときはツールを書いてみるのがよろしかろうという話です。
はい、はいはいはい。
ちなみにそれ、無印に買いに行ったときって、その目的でそのノートを買おうと思って行ったんですか?それともそれを見かけて買ってみると思ったんですか?
無印に文庫本ノートあるなと思って行きました。
じゃあそれを買いに行ったんですね。
なんかちっちゃいノートが今必要だよっていう予感、予兆があったんですね。
うーん、面白いですね。
面白いんですよね。その後の1ページに1項目っていったって、1行しか書いてないところもあれば、結構ページにフルに書いてるところもあるんですけど、
とりあえず全部書き出して行った。
だからやっぱカードを書いてたときって全部を書き出してなかったからかな。
思いついたことを書き留めてはいたんですけど、カードで。
よし、今自分の考えてることを全部書き出すぞっていう作業じゃなかったんで。
で、カードを使ってるとあんまりそういう気にならないんですよ。
はいはいはい。
思いついたことを適宜書くことはしても、GTDと最初の洗い出しみたいなことにはなかなかならないんですよね。
うん。
なんか不思議ですよね。カードこそそういうことに使えそうな気がするのに。
多分終わりがないからでしょうね。
カードを書くという行為についての制限がないんで。
だから気持ちにならないというか、そういう気が湧いてこないというか。
ノートやったら埋めたら終わるっていう終わりが見えてるから、よしちょっとやったろかみたいなことになりやすい。
で、アウトライナーでもできるはずなんですけど、思ったのはアウトライナーの場合ってやるべきではないんですけど、
書いてるときにあの項目とこの項目近いなって思ったら編集しちゃうんですよね。
うん。
書き出すことより先に。
はい。
そこが多分問題やったんでしょうね、きっと。
ノートは一回書いたらもうボールペンで書いてるんで、直しようがないんで。
関連がありそうだったらそのページ番号を振ったんで、
そのあのページと関係するってだけ書いて、そこ先に進むんで。
1:15:02
その編集不可能性っていうのが、洗い出し書き出しに役立った可能性がちょっとありますね。
はい。
うん。
そうなんですよ、そのね、初期段階で書き出しながら編集しないというのは結構アウトライナーを使う上でポイントなんですけど、やっちゃうんですね、これがまた。
やっぱり容易に編集できるからね、やっぱ気になって、例えばこの項目近いかなって項目を近づけたりとかしちゃうと、やっぱりちょっとノーの作用が変わってきてしまうようなところがあって。
見出しを立て始めちゃって。
そうそうそうそう。
そうですね。
そうなんですよね。そうするとね、拡散しきれないうちに収束しちゃうんですよ。
おそらくそうでしょう、きっと。
そうなんですよ。
難しい。だからこれはアウトライナーというツールの使い方の説明書には出てこないですけど、人間が使う上でこの作業するときはまずこれした方がいいっていうのはそのガイドラインがいりますよね、きっと。
逆に言えば本当に使えるアウトライナーの説明書にはそれが書いてなきゃいけないってことですよね。
そうですね、確かに。
だからこう、そうですね、例えばVimというエディターの場合って、編集するモードと書き込むモードが分かれてるんですよね。
編集するモードのときってキーボードって文字が入らないんですよね。
編集しかできない。
それと同じで、アウトライナー使うときに、ブレインダンプモードとか名前を何でもいいんですけど、書き出すことはできるけど、このまま移動はまだできないよっていう制限があった方が、
別になくてもいいんですけど、あったらちょっと使い方に迷いにくいかなというのはちょっと感じましたね、今回は。
Niemanのでもあるですよね、きっとアウトライナー開発する人には結構耳寄りな情報じゃないかなと思いますけどね。
モードの概念って結構重要だなと、いろんなツールでモードがあったりとかなかったりとかしますけど、そのツールをこなす役割が単一の場合はいいんですけど、
広い工程、広い知的プロセスを受け入れる場合って混ざりやすいんですよね、どうしても。
スクリプトが使いにくいのもそこなんですよね、あれ。
文章を書くときのモードと編集するときのモードがナチュラルに一体化しちゃってるんで、それがもちろん効率的で便利なんですけど、自分が今何をやってるかっていうのがすぐ途切れてしまうんですよね。
だからモードがない場合はツールを分けるというのが一番で、僕は結局ノートを全部書き出したとその元にアウトライナーに木ジャン立てましたけど、そこはやっぱりアウトライナーなんですけど。
でもその意味では書き出す段階はアウトライナーじゃなくて、テキストエディターでもいいし、それこそ手書きノートでもいいし、
って決めちゃうのは一つの手ですよね。
1:18:00
だと思いますね。今回感じたのはやっぱり、さっき言ったようにナチュラルに作業が混じってしまうということが普通にあるし、それを支えてくれる操作性の高さがアウトライナーの便利さなんですけど、
書き出すだけにしようって決めたとしてもやっぱり操作しちゃうと思うんですよ、ついつい、うっかり。
だから一回別の場所で洗い出しは別のツールでやっておいて、テキストならそのままコピーして写すこともできますし、アナログの場合はちょっと頑張れというしかないんですけども、
でも分けるだけの価値は多分ありますね。
ありますよ、アナログで書いて打ち直すことの意味は決して小さくないんで、だと思いますね。
だからアウトライナーで断片的に書き出してそれを操作できるのでイエーイという嬉しさはもちろんある反面、それが混じってしまうという副作用も当然あって、
そこはもう使い方を教えてくれる人がいないとわからないですよね、これって。
そうですね。僕、それはもう絶対にやっちゃいけないっていうか、
そうなんですよ、最初の段階でそれやっちゃいけないんですよって言うけどやっぱりやっちゃうんですよ、時々。
はい、わかります。
時々やっちゃうんですよ、わかってるのに。
だからやっぱりアウトライナー使ってみたけどうまくいかなかったっていうか、書き出していろいろ分類したり編集したりしてみたけど、
もうその先進めなくなっちゃったっていう話はよく聞くんですけど、多くの場合それをやってる。
ただその編集と書き出しが同時にできるっていうその特性は実はそれを一緒にやっちゃいけないのは前半の話であって、
そうですね。
後半はすごくそれが役に立つ場面もあるので。
それはわかります。
非常にそこが難しいところなんですよね。
だから後半の作業の、結局同じツール使っている以上、後半の作業の気持ちでやっぱり前半の作業にコミットしてしまうってことは普通にあるわけで。
だから例えばですけど書き出すときって最初に項目数を決めておく?
例えば50個書き出すぞって決めてしまえば、
はいはいはい。
その後に書き出すことが進むと思うんで、いいと思うんですけど、そういうツールを変えるか制約を設けるか自分で知っておいた方が多分いいでしょうね、作業が混じらなくて。
そうですね。
そうですね。だからそこはそのモードを分ける機能をアウトライナーなりなんだりが持ってた方がいいのかどうかっていうのはちょっと微妙なんですけど。
ちょっと思いますけど。
微妙だけど、意識しておいた方がいいですよね、それを使うときにね。
とは思いますね。今回は改めて思います。僕の場合はツールを使い分ける方向に進みますけども、
でも毎回すべて、例えば文庫本ノートを書けば僕自らができるっていう一般ができる話ではないんで。
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だから逆に毎回前回うまくいった方法があっても次の回は違う方法をやれるっていうその柔軟性も大事だろうし。
それも結構難しいことです。
あんまり難しいけどね。やっぱり本を書く手法って毎回違うのが必要だなっていうのを、
僕はどっちかっていうと、ある種規格家というか、毎回このスタイルで進めたら本書けますぜっていうのを求めがちですけど、
今回の本と前回の本を比べてみても、大まかに言ってバザールシッピース法的なプロセスっていうのは一緒だとしても、
細かい具体のレベルで言うとやっぱり同じにはいかないんだなっていうのは思いましたね。
うん。面白いですね。
はい。
面白いですねっていうか。
面白いというか、つらいというか。
面白いな。辛さもありますけど、面白いですね。
それは結局僕自身が毎回同じような本を書こうとしてないからなんですよね。
そうでしょうね。
だから方法も違って当たり前っていうその当たり前なことにようやく気づいたということなんですけど。
うん。
はい。まあこれを話したらまたちょっと僕自身で掘り下げたらまたもう一回取り上げたいと思います。
というわけで、今回の感想と生活の技術って例えばどんなものが思いつくのかとか、
私なりの音声の方法があるとかいうのがあれば、
ぜひ#打ち合わせキャスト、ひらがなで打ち合わせアロベットキャストまでいただければクラシタカチェックしたいと思います。
はい。というわけで今回はこれまでにしたいと思います。
お疲れ様でした
お疲れ様でした
でした