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はい、というわけで番外編です。素敵なジェンダー論を学ぶラジオキッチュ番外編のお時間です。
STUDIO Kitschの三木裕蘭です。どうぞよろしくお願いします。
番外編がラジオキッチュで上がるのは、多分これが最初のやつだと思うんですけど、
ちょっとさ、最初に番外編の説明だけしますね。
ラジオキッチュ自体は、多分本編があると思うんですけど、
その本編、もう上がってるんですかね?上がってないのかな?
まだ上がってないですね。本編、第1弾は【ジェンダーとNO】ですね。
たぶんまだ上がってないと思うんですけど、【ジェンダーとNO】が、
たぶんこれから聞くことになるかもしれませんが、だいぶかっちりした内容をやるんですね。
僕が調べて、調べてっていうのを、本を何冊か調べて、
だいたい3冊以上調べたいと思うんですけど、
だいぶ小難しい内容をやるので、クソめんどくさいんですね。
クソめんどくさいんですよ。クソめんどくさいっていうか、クソ疲れるんですよ。
だいぶ疲れてしまうので、聞いてる側の皆さんも恐らく疲れるんじゃないかなと思うので、
番外編っていうのを設けようと思ってまして、
番外編はすごい緩く喋っていきたいと思ってます。
緩くっていうか、本編みたいにすごいかっちりした大学の講義みたいなのは、
僕もあんまりやりたくないし、疲れちゃうからね。
疲れちゃうから、僕もやりたくないし、皆さんも気づかれると思うので、
番外編っていうのをちょこちょこ挟みながらやりたいと思うので、
番外編はすごく緩く喋りたいと思ってます。
っていうのも、僕が最近気になったこととか、直近で個人的に調べてたこととか、
気になったこと、知ったこと、なんか面白かったことがあれば、
この番外編で喋っていきたいと思います。
番外編は、おそらく本編と本編の間にたまに投稿される具合だと思います。
特に月に何回とか、週に何回とかは決まってないんですけど、
たまに不定期で上げたいなと思ったり、
共有したいなと思ったことがあれば、喋ってみたいと思います。
今回はラジオキッチンの番外編の第1弾、最初のやつということで、
テーマは学校とジェンダーですね。
これ、僕が以前調べたことがある内容で結構面白かったので、
共有したいなと思うんですけど、学校の日本の教育の歴史の中と、
ジェンダーがどういうふうに活用されてきたのかっていう話ですね。
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性っていうものが学校というシステムの中で、
どのように活用されていくのか。活用っていうのは良くも悪くも、
良い活用され方もすれば、悪い活用され方もする利用って感じですかね。
利用されていくのかっていうのを、僕は以前調べたことがあって、
性別っていうもの。学校はどうしても性別で分けて教育がなされますよね。
別に批判してるわけじゃないんですけど、批判してるわけじゃないけど、
そういうことになってますよね。現代でもそうですよね。
僕が行ってた中学とか小学校とか全部公立行ってたんですけど、
普通に男女別教育だったかな。特に小学校はそうだったかな。
僕が小学校行ってたのはもう数年前ですけど、
普通に男女別教育がありましたよね。
こういう教育、日本の教育、僕が行ってた小学校とか中学校もそうだし、
皆さんが通ってた学校もそうだと思うんですけど、
基本的にはこういう学校って明治以降の、
どんどん日本政府っていうのが整い始めて、
と同時に日本の教育システムも整えられていくんですよ。
その文脈の上に続いてきた教育の歴史の上に、
現代の学校っていうのも、皆さんが通ってた学校っていうのも、
僕が通ってた学校っていうのも成り立っているわけ。
ちょっとそこの昔のとこを見ながら、性っていうもの、性別というものが
学校の中でどのように使われていくのかっていうのを見ていきたいと思います。
結論から言ってしまうと、男女別教育っていうのは、
当時、例えば明治の最初期の学校とか、
そこから数年後、第一次世界大戦ぐらいの時も、
男女別教育っていうのはしっかりと行われてましたね。
ビビるぐらいしっかり行われてました。
すごい驚くぐらい男女別だったんですよ、最初。
なぜ明治以降の話をするかというと、
明治以降は政府が主体になって、学校が整えていくので、
ちょうどいい時期かなって思ったのと、
それ以降の文献が多かったということですね。
だいぶ材料が多かったので、明治以降を見ていくんですけど。
ちなみに、男女別教育、明治の初期にもちゃんと行われていたと言いましたが、
江戸、明治の前、近世ぐらいにおいても、教育は男女別でしたね。
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すごい男女別で、江戸時代は藩校っていうのがあったんですよね。
これは多分聞いたことあるんじゃないかなと思います。
藩の学校ですね。薩摩藩とか。それぐらいしか知らないけど。
そういう藩の学校では、男子しか入れなかったんですよね。
女子は藩校に入れなくて、藩校以外の手習い塾、寺子屋みたいなやつも、
基本的には男子専用だったんです。女子は入れなかったんですよね。
明治より前であっても、びっくりするくらい男女別教育だったんですよ。
僕らの感覚で言うと当たり前かもしれませんけど、実際は男女別教育だったんですね。
明治前の、つまり江戸の私塾の中には、女子が入れる手習い塾、寺子屋っていうのもあったんですよね。
女寺子屋っていうやつが一応あったんです。
これは女子特有の職能としての、職業の能力としての裁縫とか、そういうのを習う塾っていう側面が強かったんです。
裁縫を習って、家の家事をやる女性を育てる、そのための手習い塾っていう意味。
そういう意味の手習い塾だったら、都市部を中心に女子が入塾できる学問どころとして、一応存在してたんですけど、
普通の算数だとか、そういうものを勉強する手習い塾、寺子屋っていうのは男子専用だったんですね。これは江戸時代の話です。
じゃあ明治以降になってどうなるかっていうと、まず前提として、明治以降に関しては
まず明治のあれから見ていきますか。明治以降の政府主体で整えられていく教育制度っていうのは、軽く外観してみると
明治維新が起こったのは1868年ですね。これで明治の新政府の樹立が、それと同時に教育改革の方針が発表されてるんですね。
この時の明治政府は、大学、中学、小学の学校体系の設定を明らかにして、文部省が設置されたのもこの時期です。
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大学、中学、小学、今のやつと若干違いますけど、いわゆるステップアップ式の段階別の教育制度っていうのが作られていて、
この学校体系の設定は結構ブラッシュアップされていくんですね、この後も。
教育例とか、中学校教授対抗とか聞いたことあんまりないかなっていうぐらい、覚えなくていいんですけど、そういうのが出されていて、
1919年には幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学の教育体制が完成しています。
その3年後には就学率が97%を超えてるんですね。
だから明治政府が作ってきた学校のシステムっていうのはだいぶすごいもの。結構ちゃんとしたものを作ってるんですね。
しかも明治政府ができたのが1868年ですから、そこから1919年とその3年後には就学率が97%を超えてるっていうので、
だいぶ明治政府が頑張って作ってるんですよね、学校制度自体は。
女子教育どうだったのかというと、もちろんさっき言ったように江戸、つまり明治以前、明治より前っていうのは、
女子の教育っていうのはなかなか存在してなかった。いわゆる裁縫を習うやつとかね、それ以外は全然存在してなかったんですよね。
明治以降、いわゆる学校制度が整えられてきた後も男女別教育っていうのが行われていくんですよね。最初からそうでした。
明治政府の作った学校が運用されていく後の男女別教育がどういうものだったのかっていうのを見ていきますかね。
その前に、僕が調べてた時は、僕の頭の中にあった問いって、性っていうもの、言い換えたらジェンダーなのかな。
ジェンダーっていうものがどのように学校というシステムの中で活用されていくのかっていうのが、僕の問いだったのが気になるところだったんですよね。
調べてみたんですけど、おそらく男女別教育が行われているだろうなって思ったんですけど、びっくりするぐらい男女別教育だったんですよ。
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僕が想像する倍ぐらい男女別教育っていうのが行われてて、しかも結構女子が遅れてた。
女子教育っていうのが、そもそもスタートも遅れてたんですけど、内容もやる内容も男子と結構違ってて、どうやらわかってきたこととしては、現状わかっていることとしては、
男子の教育がその目的、男子教育の目的と女子教育の目的っていうのがどうやら違うかもしれない。
同じ教育に関しても、男子に対する教育と女子に対する教育では、その教育を行う目的が違うんじゃないかっていうのが何となくわかってきたんですよね。
それも後でしゃべりますね。女子教育、明治以降の女子教育を見ていきますか。
なんで女子教育を最初に言うかというと、女子教育があまりにも遅れてるからです。
そもそも教育制度っていうのが、男子に対する教育を一般、普通のものとして教育制度が出来上がっていくので、女子教育を見ていくとどれだけ遅れてたかっていうのが何となくわかってくる。
さっき言ったように江戸ぐらいには女子教育はほとんど行われていなかったので、歴史的社会的な差別というでしょうかね。
行われていなかったので、女子の平均的な学力の低さ、平均学力の低さっていうのがあったんですよね。
ちなみに女子の教育のスタートってどこかというと、1872年、明治時代ですね。1872年の文部省がこの時、東京女学校というのを開設してるんですね。
これが日本で初めての女子が入学できる学校です。
東京女学校というのは、現在で言うと、お茶の水女子大学の前身の東京女子師範学校の付属高等学校の源流だそうです。
東京女子師範学校の付属の高等女学校があるそうです。
東京女子師範学校付属高等女学校というのがあったらしくて、東京女子師範学校というのは現在で言うところのお茶の水女子大学だそうです。
東京女子師範学校付属高等女学校というものの一番最初の姿が東京女学校だったそうですね。
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これ文部省が設置したやつですね。これが日本で初めて女子が入学できる学校だったんです。
この学校の開学を皮切りにして、いろんな全国各地に女学校というのが設置され始めるんですね。
だから女学校のスタートがここなんです。
ちなみに女学校を作らないと女子が教育の場に行けなかったかというと、実はそうでもなくて
女子がいわゆる普通のこの時の中学校とかに入学してたりするはするんですね。
男女比を見てみると、その当時の中学校の男女比を見てみるとやっぱり女子の方が低いですね。
圧倒的に低いし、ほとんど男子がいたので。
その後、ちゃんと女子教育が行われるのはこの時なんですね。
東京女学校が開設される時がスタートラインって言っていいんじゃないかなという感じだそうです。
女子を対象にした教育っていうのは江戸時代に行われていなかったわけなので、
いわゆる女子対象の学校教育っていうのはここがゼロからのスタートラインだった。
ゼロからのスタートを切ったのがこの時だった。
この1872年に東京女学校ができたんですが、この9年後、1881年に文部省が中学校教則大綱を発表していて、
要はこれからの中学校の運営方針を発表していて、そこには男女別の教育体制に改変するよということが明記されているそうです。
だからここで、それまではなあなあになってた。なあなあに行われてた教育っていうのが。
なあなあってどういうことかというと、要はこういうふうに学校を作っていきますよと文部省は言いつつも、そこに男子の専用のやつですとか、女子の専用のやつですとか、男女どっちも入れるやつですとも入ってなかったんです。
特に明示はしてなくて、ただ男子が大型学校に入ったかなっていう感じだったんです。
この1881年にもなると、女子も普通に学校に入ってくる時代ではあったんですね。そんなに多くはなかったはずなんですけど、女子も普通に学校に来るような時になったので。
という時に文部省が発表したのが、これで男女別の教育に切り替えるって言ったんです。
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だからここで男子と女子がもう明確に分かれていくんです。しかもこれは明治政府主体に、明治政府というか文部省、当時の文部省ですけど、文部省主体で男女別というのもここで切り替わるということになるんですね。
そこに書いてあったことには、既存の中学校っていうのをこれを分割する。これを分割して女子専用の中等教育機関っていうのを別で作りますっていうふうに言ったんです。
だからこれまで中学校には男子も女子も入ってたんですけど、これを当時は、さっきも言ったように当初は男子の方がほとんど多かったんです。
けど、この時に明確に中学校を男女別に改変するって言ったんです。すごいこと言ってますよね。
その翌年に、これまで言った中学校に相当する学校としてできたのが東京女子師範学校付属高等女学校ですね。
さっきのやつです。幼女子大学の全身の学校の付属の学校ですね。
っていうのがこの時作られます。これが中学校を分割したんですね。中学校を分割して、男子はさっきの普通の中学校。
女子はこの東京女子師範学校付属高等女学校、いわゆる高等女学校ですね。女子は高等女学校に行って、男子は中学校に行きます。
っていう風にこれで分けられるんですね。分割される、分離されるんですよ。
ここで一個不思議なことが起こってて、何が不思議かっていうと、男子が中学校に通うんです。
それと同等の期間です。同等のレベルのレベル帯の学校として高等女学校っていうのが作られるんですけど、
中学校の女子バージョンが高等学校なんです。
名前の位が今と考えれば全然違いますよね。中学と高校で違ってて。
で、この別の、なんで女子の方が高等女学校っていうのかっていうと、
佐藤秀夫先生っていう教育学者の先生が、日本教育史の専門の先生が言うにはですね、
男子の中学校に、ほとんど相当する学校に高等女学校っていう名称を与えたのだが、
女性には中学校レベルのものが高等であるという意識によるものである。
という意識があったじゃないか。
私も、文部省が受教主義的教育政策を行っていたため、
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普通教育学校に採用し始めた。そういう受教的教育を普通教育に採用し始めていた時期であったので、
当時が受教的な男尊女卑の発想に立っていて、
こういうことが行われたっていうのは明らかなんじゃないだろうかって言ってるんですね。
だから、女子にとっては中等のものが高等ですっていう、
そういう意識が当時の文部省にあったらしいんですよね。
この先生が言うには。今じゃ考えられないですけどね。
まあそうだったのかな。今じゃ考えられないけど、当時といえばそうなのかなと言われても、
まあ信じれますよね。
でもこれはですね、
当時の文部省があまりにも男女差別激しい極悪人だっていうわけでもなくて、
ちょっと前にさっき言ったように、男尊女卑というよりかは、
男女で平均的な学力に違いがあったからなんじゃないかとも言われていて、
女子教育っていうのが、その正式な始まり、しっかりとした女子教育の始まりは東京女学校でしたよね。
1872年にできた東京女学校っていうのが、女子が正式に入学できる学校だったんですけど、
これまでは女子教育っていうのがなかったわけですよ。
だからそれまでこれより以前の社会では、
男子の方に教育機会が与えられていたので、
男子の方が学力が平均高いわけですよね。
だから、男子と女子で平均的な学力が違うのであれば、
学校を分けた方がいいんじゃないかっていうことですよね。
だから、男子と女子っていう思想だけじゃなくて、
平均的な学力が違うんであれば、
学校を分けるのも理にかなっているとも言えなくもないですね。
だから、算数とか数学の授業であったいわゆる少人数教育って、
やってることこれと同じですよね。
少人数教育って皆さんありましたかね。
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僕のときあったんですけど、
小学校の算数の授業が小学5年生か6年生になると、
少人数クラスに変わるんですよ。
ありましたかね、皆さん。
僕の小学校は公立の学校でしたけど、
1学年3クラスあって、
小学校なんでクラスごとに授業を受けるんですけど、
算数だけは小人数クラスに切り替わって、
じっくりクラス、しっかりクラス、素早さコースみたいな、
3段階分かれるんですよ。
招致配みたいなね。
3段階分かれて、それが数学のテストで分けさせられたのか、
自分でどこ行きたいのか選ぶみたいなのだったのか、
ちょっと覚えてないですけど、
算数のやつが、
僕は確かに算数の小人数クラスで一番上のクラスに入ったんですよ。
だけど、一番上の小5、小6の学校の中の一番上の算数の小人数クラスって、
やっぱり算数で生きる子がみんなたくさんいるんですよ。
掛け算、暗算とか早いやつがたくさんいたんですよね。
僕、その時掛け算全くできなくて、暗算が全然できない子だったので、
そのままやってなかったし、計算のドリルなんて死ぬほど嫌いでしたから、
やってなかったんですけど、
当時仲良かった友達が、
一番上のクラスに行くべ、みたいなこと言ってたから、
じゃあ俺も行くかって言って、一番上のクラスに行ったら、
みんな暗算早くて、授業の時に普通に暗算でやっちゃうみたいな子がたくさんいて、
僕にビビり散らかした記憶があるんですよね。
絶対クラス間違えたと思ってね。
でも、なんとかやってた覚えはありますけど、
そんな小人数教育が当時行われてたんです。
何の話かというと、男女で教育の学力の平均が違うから、
中学校と高等女学校って分けたっていうことでしたね。
で、続きですが、続きを話そうと思ったんですが、
時間が今収録27分ぐらい収録してるんで、
ちょうど良さそうなので、続きは次回話そうと思います。
次回なんですけど、男女別の教育、
さっき言ったように、明らかに男子に対する教育と女子に対する教育で、
教育の目的が明らかに違うんですよ。
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なんでそれが分かるかというと、この後、戦争が始まるんですよ。
第一次世界大戦、第二次世界大戦、主に第二次世界大戦の方から。
二次大戦が始まってしまうので、ここを皮切りにまた、
教育っていうのが男女別教育にどんどんどんどん分かれていくんですよ。
ここを見ていくと、やっぱり目的がある。
男子教育の目的と女子教育の目的が、やっぱりそれぞれ存在してるんですね。
ここを見ていくと、なんでこういうことをやってたのかっていうのが、
なんとなく分かってくるし、意外と面白いので、
要は当時の男子、当時の女子、当時の男性、当時の女性に
何を求められていたかっていうのも分かるので、
いわゆる当時のジェンダーがなんとなく分かる。
てな感じがするんで、そのことを見ていきたいと思います。
次回はそこから話しますかね。
今回は長くなりましたね。
番外編を10分ぐらいで終わらそうと思ったんですけど、
口が滑りましたね。
だいぶ口が滑ってしまったので、申し訳ないです。
続きは次回ですね。
ということで、素敵なジェンダー音を学ぶラジオキッチ。
番外編でした。