現代の詩人デーリン・ニグリオファは、18世紀の詩人アイリーン・ドブ・ニコネルの痕跡をたどり、残されたテクストから彼女の物語を紡ごうとする。
そして、アイリーン・ドブ・ニコネルがアイルランド語で歌った歌を自身の言葉で翻訳する。
前回に続き、吉田育未さんをお招きして、喉に棲むあるひとりの幽霊のあらすじや独語の感想を話していきます。
どうもみなさんこんにちは。文学ラジオ空飛び猫たちです。
この番組はいろんな人に読んでもらいたい、いろんな人と語りたい文学作品を紹介しようコンセプトに、文学と猫が好きな二人がゆるーくトークするポッドキャストです。
パーソナリティは私大地と三枝の二人でお送りします。
文学のプロではない二人ですが、お互いに好きな作品を時には熱く、時には愉快にそれぞれの視点で紹介していく番組です。
今回紹介するのは、前回に続いてレイリン・ニグリオファの喉に棲むあるひとりの幽霊になります。
吉田育未さん役で作品社から2024年に出版された本です。
前回に引き続き、吉田育未さんにゲストに来ていただいております。
吉田育未さんよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回は前回に引き続きというところなんですけれども、前回が割と作品の大枠というか、概要をちょっとお話しさせていただいて、
この作品ですね、なかなか一言で言えなかったり、いろんな要素を持っていたり、ちょっと複雑な面があるので、
今回は改めてストーリーから入っていって、そこからいろんなお話をさせていただきたいなと思います。
前回と内容を被る部分もあるかもしれないんですけれども、いろいろ今日は作品について話していきたいと思いますので、よろしくお願いします。
早速なんですけれども、ストーリーを話したいんですが、なかなか掴みどころがないというか、
一貫したストーリーみたいなのを、一貫した形で話すことが難しいので、
吉田育未さんの役者後書きにある本書に関する部分というところを読ませていただきたいと思います。
じゃあちょっとこちら読み上げさせていただきます。
本書に登場する著者、にぐりおはは母親である。やることリストを握りしめて、受入・作入・日々の雑用に自己を召して取り組んでいる。
鏡をみかくけれど鏡に映る自分は見ない。日々の労働は存在の証拠だと彼女は言う。
疲れ果てているけれど幸せ。そんな日々の中で彼女はある日、一人の詩人と再会する。
アイリーン・ドブー・ニコネルである。
1773年、アイルランドの甲府県カリガリマで殺害された夫の元に馬で駆けつけ、彼の血をすくって飲み、クイネを歌った女だ。
彼女はまた母親だった。死んだ夫のそばで彼への愛と欲望、宿敵への怒りと復讐心に喉を震わせた。
そのクイネをおよそ250年後のアイルランドに生きる著者が握りしめ、アイリーンの亡霊を生活の隅々に浮かび上がらせる。
そして彼女は何としても自分がこの詩を翻訳しなければという強い衝動に駆られ、図書館に向かい入手可能な限りの資料を読み漁る。
けれどもどうしても詩人の姿が見えてこない。アイリーンの人生は常に男たちの影に隠されている。もしくは死を置くされている。
著者は女たちの力を借りて詩人の人生を浮かび上がらせようと決意する。
というのが一応ストーリーというか本書の説明になるんですけれども、前半でも先週の回でもお話ししているんですけれども、
これは著者であるニグリオーハさんがこのアイリーン・ドブ・ニコネルという18世紀に実在した詩人を探していく、痕跡を探していく。
彼女の消去されてしまった人生を取り戻そうというか、見つけ出そうとする過程というか、見つけ出そうとする過程を描いた作品であります。
というところでまたちょっと今回いろいろ話したいんですけれども、まずこのニグリオーハさんが追いかけているアイリーン・ドブ・ニコネル、実在した詩人の方なんですけれども、
この方が書いたクイネ、これは彼女の旦那であったアート・オレイリーが亡くなった時に作った歌です。
このアート・オレイリーはある男性というか、ずっと敵がいたんですけど、その敵に銃で撃たれて殺されてしまった。
血まみれで馬に乗っている時、血まみれになってしまって死んでしまったというところです。
このアイリーンは夫の元に駆けつけてその血を吸って歌を作ったということが語られてきますね。
その時の歌をニグリオーハは幼い時にも聴いていたんですが、母親になった時に聴いた時にまた違った響き方をしてきてのめり込んでいった。
そうですね。ちょっと一点だけ大事なのが、アイリーンも実在するし、夫のアート・オレイリーも実在するんですが、
これ交渉伝承なので一番最初に書いたわけではないんですよ。
そうですね。
死に駆けつけた、そこで一度クイネを唱えた、吟じた、歌った。
クイネというのは今録音が残ってないので、どのような形だったのか正確にはわからないんですけれども、
その後にまた葬儀で同じクイネを読むという。
多分そこでアイリーンは少なくとも2回クイネを吟じていて、
そのクイネというのは一人で読むものではなく、コミュニティの中の女性たちが輪になって一緒に読んでいくもので、
桓松の大子を見ていただけると、大役を見てもらうとわかるんですけど、
そこにアートのお姉さんだか妹だかシスターって書いてあるんですけど、が一緒になって読んでいるところの部分もあり、
一人著者というふうに言われるんですけど、著者という言葉がふさわしいのかはわからないんですが、
その交渉伝承として女の人たちの喉を通して伝えられてきて、
ある時点でこの中に出てくるんですけど、それも女性によって書き記されているっていう、そういうシーンになります。
ありがとうございます。
アイリーンなんですけれども、このにぐりおばさんは異様な執念で彼女の人生を探っていきます。
残されているものが少なくて、その中でアイリーンの影を追い続け追い続けというのが、
どんどん後半になっていくと強くなっていく作品ですね。
このにぐりおばさんがアイリーン・ドブを追いかけたいんですけど、
意外とアイリーン・ドブにその人について書かれている記録というのがなくて、
やはり当時の女性の記録というのがなかなかなかったようで、
アイリーン・ドブの兄弟とかですね、男性の記録ですね。
最初は女性の組さんからちょっと教えてもらったんですが、
女性の記録を追おうとしたけどもやっぱりなかなかなくて、
男性について残された人生の記録というのを頼りにしてアイリーン・ドブに迫っていくというですね。
なのでちょっと直接的というよりかは間接的な形でアイリーン・ドブを追いかけていく。
ではそこでじゃあアイリーン・ドブについてどれだけわかったかっていうと、
なかなかこの作品の中でもはっきりとアイリーン・ドブはこうでしたみたいなですね。
なんか完結したところまではわからずにっていう。
そうですね。だからそのあたりの下りはもう本当そのなんか孫レベルまでこう遡っていって、
家族のね家族のやり取り、手紙のやり取りとか、残されて見れる手紙のやり取りとか、
孫の代ぐらいまで見ていくけれども、なんかこのアイリーンの影を感じるような文章とかを見つけると、
にぐりおばさんはだいぶちょっと興奮されるじゃないですか。テンションが上がったりするじゃないですか。
だからそのあたりとかすごくなんか面白いし、なんかすごいすごい執念というかを感じるし、
ただもう何というかそこまで考えるかっていうレベルまで行っていくので、
ちょっと私は怖くなるようなところまでありましたけどね。
広げていった先に凝り固まっていく感じとかがあって、そこが人間としてなんかちょっと何ですかね、
狂気を感じる部分ではちょっとあって、解釈を広げていった後にぐっとそこに何でしょう、
縋る感じというかがあって。
少し話が戻るんですけど、そのリサーチをする中で、男の人たちの影を見ていくんですけど、
その皮肉なことが彼女はすごく有名な政治家のダニエル・オコネルっていう人のおばあなんですよね。
だからその人のダニエル・オコネルはカトリック教徒の議席獲得に向けて動いた人で、
すごくアイランドでは解放者みたいな感じで敬われている政治家なんですけど、
その人との繋がりがあるので、カイムじゃないですよ記録は。
その偉大な男、偉大な男っていうフレーズが結構この本の中に出てくるんですけど、
そこに紐付けされた情報はあるけれども、彼女が女性として主体的に動くようなテキストはないので、
それを影として、不在のテキストとして見つけていくっていうんですよね。
大地さんが言われた執着っていう切迫している、なんでこんなに求めていくのかっていうところは、
やっぱりそこにアイリーンっていうよりも、ニグリオファー自身の中に何かがあって、
そこで突きを犯されていくっていうところがある。
それがラストに繋がっていきますよね。
で、それがその最後のリフレイン、最初のThis is a female textっていうところと、
最後のThis is a female text、これがある女の、これはある女のテキストであるっていう、
そこに繋がっていくんですけど、私は結構興味あるな、
どういうふうにその執着、何かに執着して、何かをそこまで愛して追い求めていくっていう、
しかも自分にはあるんですよ、家族とか子供とか夫とかすごく愛している。
けど、それとはまた別に追い求めているそこっていうところに、結構私はこの共感じゃないけど、
そこに私はこの作品の面白さがあると思っていて、
人間的な矛盾とか、欲しいもののために動くんだけど、その中で犠牲にしていくもの、
この人にとっては自分をすごい削るじゃないですか。
でも自分を削った先に、何をじゃあ見つけるのかなっていうところで、
動いていってくれたら、読者がね、一緒に読んでいくっていうのがすごくいいんじゃないかなと思うと、
それと前回に三重さんが、普通の人が書いた文章のように、
っていうのは結構ネグレファー自身も言われていて、
これを読んだ人にね、私もできるかもって思ってほしい。
私もこういうのがあったら、学者とか大学とかいなくても好きなものを見つけて、
こういう人がいるって分かって、そこに興味あったっていう人がいたら、私もできるかもって。
こういう毎日の中で雑用とかに追われているけれども、自分が探していく過程を書いた。
その過程を一緒にいくことで、自分も一緒に探しているような気持ちになってくれたら、
みたいに言われていたので、そこを三重さんが読み取ったのかなという。
なるほど、確かに。
三重さん、その感覚、前半でちょっとお話ししてたけど、
普通の人が書いたんじゃないかみたいな、ちょっと深掘りしてなかったと思うんで、
もし三重さんその話を知ってもらえたら、どういう感じに。
あんまり整理せずに前編でしゃべっていたんですけれども、
思うのは、にぐりおばさん自身の話というよりかは、
にぐりおばさんという詩人が書いたある一般のお母さんの話みたいな。
あるいは、詩人ではない一般のお母さんが書いた自伝家のような、
そんな、読んでいる時のちょっと感想があってですね。
もちろん文章はすごくいいので、やっぱり詩人の方なんだなっていうのはあるんですけども、
詩人という部分よりかは、お母さんというそこの部分が、
にぐりおばさんの人生にすごく現れているように思えて。
そうなんですよね。
確かに、にぐりおばさんが詩人だから、今回のアイリーン・ドブの人生に重ね合わせたとかっていう、
一概にそんな単純な話ではないんだなというのは、ちょっと一文章の話を聞いて思いましたね。
すごく気持ちが、ちょっと弥生みたいな僕としては、
軽くなるところがありましたね。
今、私、言われて気づいたんですけど、
これも女のテキストとして書いてあった部分なのかもしれないなっていうと、
この人ずっと与え続けて与え続けて、
にぐりおばさん、アイリーンにも与え続けて、
あなたの本当の姿を明かすことがあなたへの献身みたいになって、
それもダメだと、今度は三つの地に献身しだすんですよね。
あなたたちが好きな庭を作りますみたいな感じで、
その止めどない献身の中でも、
さっきみなさんが言われたみたいな、ちょっとずつ変化が、
起こりながらのラストにつながるんだろうなって、
つながったんだなっていかがって思います。
すごいですね、この。
蜂さんにひざまずいてお使いしようっていう。
そうなんですよね。
本当にやっちゃうっていう。
最初の方で言うんですよね、クローバーの畑のとこにいて、
私に庭があったらひざまずいてお使いしようっていう画面が結構前にあって、
最後に本当にお菓子屋さん開いてあげてるみたいな感じで蜂さんに。
そうですね。
この置くことの関係も面白いですね。
そうですよね。
お父さんとの関係も。
珍しい描かれ方なのかなと思いながら。
読んでる以上だと、この旦那さんはすごい優しい人っていうか冷静な人っていうか。
ね。
いや、これ結構、もうちょっと衝撃的だったんだけど。
そうですね。
なんでしょうね。
すごく大きく受け止めてくれている人なのかなっていうのに。
そうです。応用力って感じ。
そうですよね。
ちょっとしか出てこないけど。
これもなんか気にはなってるとこですね。
結構このにぐりおばさんが旦那さんに対して、
この中で描くにあたってどういうことを、拡大って言い方おかしいですけど、
どういう旦那像を描こうとしてたのかというのはちょっと気になったり。
実際の旦那さんと多少なりとも乖離はあるんだろうなと思いながら。
そうですね。
確かに今までの話の感じからすると、
にぐりおばさんがやっぱり家事とか育児とかやることに追われているので、
旦那さんはそういうのを押し付けてたんじゃないかみたいに思って。
あり得るし。
でも最初に一緒にやるけど、自分一人でやった方が楽なんだよねって言ってました。
なんか手伝われるよりも自分で勝手にやれた方がいいかなって。
にぐりおばさん結局制御、コントロール人なので、
自分でコントロールできないものが増えていくのが、
ちょっと不安でたまらない人だと思うんですよ。
だからこそ検体のとこでも自分の体の死後までコントロールしようとするっていう、
結構そういう衝動がある。
ただちょっと会話見えたのは、
ティムさんの、ティムさんって後だけに書いてあるの。
夫さんの会話見えたのは、
にぐりおばさんが翻訳するときにご飯食べ終わったら、
夫が後片付けしてる間に自分は2階に行って他人の部屋でっていうのがあったので、
ゼロカジではないと思う。
そうですね。
読んでる感じだと相当強調性のある旦那さんなのかなとは思いましたんで。
そうですね。
ちょっとこれネタバレになるのか分かるんですけど、最後の方のね、
チョキンチョキンのところとかは、
チョキンチョキンって言葉で訳してるのすごい面白いと思うんですけど。
これ言語がね、スニップスニップかなんかなんですよ。
そうなんですか。
原文は結構そんな感じなんですよ。
なるほど。
割と原文の語感。
語感を活かしてる。
スニップスニップリンプリンプって感じなので、
そういうの多いんです。
なるほど。
他にもちょっとね、ジャジャーンみたいなとこも。
あれもタダーなんですよ。タダーって書いてるんですよ。
タダー。
なるほど。
はい、TABA、タダーって結構なんかお茶目っていう感じ。
そうそうそう。書き方が。
でも喜びにあふれてる感じ。
ジャジャーンってなんか自分のその妊娠、出産で変わり果てた体を、
裸体を鏡に映して、ジャジャーンって言えるってそのシーン、
私すごい泣きながら訳しました。
あ。
はい。染みると思います。
はい。
ちょっとお話があれだったんですけど、
その旦那さんのチョキンチョキンのところは、
ちょっとこれ、しかも結構ラストの方に書かれてるんで、
あんまり触れない方がいいかなと思いつつ、
あれなんですけど、
ここのちょっと旦那さんに対しては結構衝撃があって、
注射針の話をするだけでもみたいな、
旦那さんに対して結構こんなことになってくので、
ここの感情の動きとか描かれてないので、
旦那さん側のとか考えると、
結構ちょっとどういう風に描きたかったのかなっていうのは、
ちょっとこの辺りで感じてしまったところはちょっとあったんですけど、
なんか決断したのが、
割と簡単に決断してるけど、
これはどれぐらいのあれだったのかなとか、
ちょっと気にはなったところはありますっていう程度なんですけど。
そうですね。
これあれですよね。
あんまりあれなのかわからない。
アイリーンじゃなくて、
著者は子供が欲しいんですよね。
ずっと子供が欲しくて、
お父をあげない自分の存在が考えられない。
あげない自分の存在どうなってしまうんだろうって言って、
恐怖で、恐怖もあって子供欲しいってなってて、
夫がバセクタミっていう、
何て言うんだろう、
否認方法を取るんですけど、
結構ドラスティックで根本的な否認方法を取るというチョイスをするんですが、
そこで大事なのはニグリオファーが、
もう授乳できないという状況になったっていうことが、
そこのところでは重要なのと、
今まで自分が与え続けていた人なのに、
夫が今度は自分を犠牲にするという形で、
そこで役のフリッパが起こるみたいな感じになっているのかなっていうふうには。
そこも結構面白いところでね、
そうくるのがあって。
今のあたりが結構終盤の話なんですけど、
このラストの印象の話をしていきたいなと思うんですけど、
読み終わった時に、
たぶんこの作品自体は、
アイリーンっていう詩人に関してのテキストであり、
最終的にはニグリオファーさんという著者に対してのテキストになっていったっていうところではあると思うんですけど、
最後にやっぱりニグリオファーさんが、
これだけアイリーンの影を追い続けて、
でもやっぱりわかったことっていうのは少なかったりするっていうところ。
普通の作品だったらやっぱり多くのことがわかったりとかして、
大演談って言い方おかしいですけど、
いわゆるわかりやすいオチがあったりして、
そこでそれに対して考えを巡らせて終わっていくのかなっていうのなんですけど、
これネタバレになってるかどうかちょっと怖いからちょっとあれなんですけど、
でもこの作品に関してはそういう終わり方ではなくて、
まあはっきりしない。
でもはっきりしないからこそ、
ニグリオファーさんの中に残っていってる感情があるっていうところが描かれていると思っていて、
これってでも途中で諦めてしまったものとか、
途中で手放してしまったものというか、
手放したつもりで手放しないとかすごいあると思うんですけど、
そういうものに通じる気がして、
このラストはニグリオファーさんとしては一個の終わりを迎えているけれども、
終わっているのかどうかっていうのはちょっと気になるところ。
まだ追い求めていく可能性も全然あるしと思いながら読み終えているので、
そうして絶対他にはない、
独語感を味わえるっていうのは間違いないと思っているんですけど、
なかなか自分の中でもまだ多分1回2回じゃ答えが出ないので、
何回か読まないと多分この作品はこういう作品だったなっていうのはまだ言えないなってちょっと思いながら、
ちょっと今収録段階っていう感じですかね。
みずさんはどうですか。
僕もちょっとさっきまでいろいろ話していたのと被っているんですけども、
ちなみに最初はですね、
読んでいてこれ悲しい小説なのかなとちょっと思ってたんですね。
著者のこの状況も結構ですね、日常が切羽詰まって、
過去の描写とかでもやっぱりいろいろ苦しんでいるというか悩みながら人生を歩んできて、
アイリンドブの話も悲しい話ではあるので、
というので悲しい話かなと思いきや、
でもそうでもないのかなとだんだんちょっと思えてきてですね。
最後の方ですね、ちょっとさっきの話に戻りますけども、
結構この著者のアイリンドブの話に関しては、
いろいろ切ないところもあったりはしたんですけども、
でもこのにぐりおわさんの日常に戻ると結構明らかんとしているというか、
ちょっと開放感があるというかというので、
アイリンドブの人生はアイリンドブの人生としてあって、
そこから紡がれてきたものというのはにぐりおわさんが受け止められたと思いますし、
にぐりおわさんの人生はこれからも続いていくという感じの、
ちょっと前向きな、前向きと言うんですかね。
僕もちょっと開放感を感じましたね。
特にこの終わった後、写事があるので、
それを読むとやっぱりこれは現実の話だったんだなと、
旦那さんへのメッセージとかを読むと思いまして、
そうですね。
作品の中の物語は一つの物語として、
その後にぐりおわさんの人生がちゃんと続いていってるんだなという、
そんなふうに見てましたね。