夫の死に寄せて歌を紡いだ18世紀の詩人 アイリーン・ドブ・ニコネル
その歌と出会い直しながらアイリーンの人生にのめり込んでいく現代の詩人 デーリン・ニグリオファ
18世紀の詩人と共鳴し自身の声を発見していくオートフィクションである
喉に棲むあるひとりの幽霊を翻訳された吉田育未さんとご紹介します。
どうも皆さんこんにちは文学ラジオ空飛猫たちです。この番組はいろんな人に読んでもらいたい、いろんな人と語りたい文学作品を紹介しようコンセプトに文学と猫が好きな二人が緩くトークするポッドキャストです。
パーソナリティは私大地と三枝の二人でお送りします。文学のプロではない二人ですがお互いに好きな作品を時には熱く時には愉快にそれぞれの視点で紹介していく番組です。
今回紹介するのはレイリン・ネグリオファさんの喉に棲むあるひとりの幽霊です。吉田育未さん役で作品社から2024年に出版された本になります。
今回はですね翻訳された吉田育未さんをゲストにお迎えしての作品紹介となっております。吉田育未さんよろしくお願いします。
まずはお招きいただきありがとうございます。1年半ぶりにお話しさせていただくので、視聴者の方も、視聴者じゃないね、リスナーの方も久しぶりです。吉田です。
じゃあちょっと簡単に育未さんのご紹介をしたいと思います。吉田育未さんは今まで我々のラジオだと、本数はあれなんですけど2回と一緒に収録していて、前回はエマドナヒューの聖なる証を一緒に紹介させていただきました。
その前が、元々は我々が星野誠一という、こちらもエマドナヒューの作品を紹介したことをきっかけに連絡を取り合うようになりまして、一度ゲストに来て翻訳についていろいろお話をお伺いした経緯がございます。
今回はまた一緒に作品を紹介させていただくということなんですけれども、この喉に住むある一人の幽霊、翻訳されて観光される時に育未さんの方から是非我々に読んでいただきたいというご連絡をいただいて、ちょっと研本をいただきました。
せっかくなら、あらすじ読んだだけで骨太な作品というのが買いまみれたので、よかったらラジオで紹介したいので、ご一緒にお力を貸していただけませんかというところでオファーしたら、心よく受けていただきまして、今日3人で紹介していこうと思います。よろしくお願いします。
翻訳された育未さんも交えてですが、まず今回この作品について率直に感じたところをお話しさせていただきたいんですけど、
タイトルが結構怖そうな、幽霊が出てきますもんね、っていうところなんですけど、それ以上にですね、私はちょっと途中からこの、これオートフィクションでデーニング・ニグリオファーさんの実体験というか、詩小説のような形になっています。
とはいえ、ただの詩小説ではないんですけれども、結構変わったタイプの小説作品なんですけれども、このタイトルからの印象の怖さだと、幽霊とか何か怪奇的なものに対する怖さみたいな印象を持ったんですけど、読んでみるとですね、デーニング・ニグリオファーさんの執念とか、それを飛び越した狂気のようなものを感じまして、詳しくはいろいろ本編で話していくと思うんですけど、
現代に生きる作家の人が、18世紀に生きた詩人を追いかけるという作品で、それに対してですね、その詩人を追いかける様がですね、ちょっと尋常じゃないなっていう姿を見せつけられてですね、なかなかびっくりしたというか、そこの狂気にですね、この人どうなっちゃうんだろうという思いから、ちょっと読み進めてしまうような本だったので、
間違いなくこういうタイプの本に私は出会ったことがないので、すごい新鮮というか、こんなタイプの本があるんだっていう思いが強いのと、あとこの著者の執念、狂気っていうのがですね、ちょっともうなかなか忘れられなくなる作品だったので、今日は私はちょっとそのあたりを話したいなと思っています。
みなさんどうでした? 確かに最初これが小説なのか何なのかっていう、よくわからない形式の作品だなと思いましたね。近いのは小説かなと思うんですけども、でも読んでいくと、この語り手である著者、ニブ・リオファサと、この歴史上の人物であるアイリーン・ドブットという詩人とがもうこの解き合うような、なんかそんなです、この2人が解き合うような読み心地があってですね、よくわからないけどもすごいというような、そんな感覚はありました。
で、これが不在の歴史と言いますか、不在の女性ですね、存在していたのに記録に残っていないというような、そういったことを扱っている作品でもあって、で、著者がそこをリサーチしていって、場合によっては想像力も駆使して、この存在したかもしれない物語、場面というのを、その人物というのを描いていったということで、で、ラジオでもこの2年ほどですね、そういった作品、まあ母を失うことであったり、姉妹のようにであったり、
彼女はマリウッポリからやってきた、HHHもそうですけども、というのを紹介してきて、そういった作品と重なっているようにも思いました。でもラジオで今まで紹介してきた作品というのは結構ですね、この戦争とか自身のルーツを辿っていくというような、大きなこの使命感というんですかね、そうせざるを得ないような状況になって、この歴史に立ち向かっていったというようなですね、そういった物語というのがあったんですけども、
今回のこのニグリオファさんは、そのニグリオファさんの日常生活を送っている中で、このアイリンドブという歴史上の人を追いかけるようになっていたと、それがなぜなのかと、なんかそこを考えていくと、というか読んでいくとですね、この著者の人のニグリオファさんのすごく切羽詰まった感じというかですね、なんかそういったのも読み取れて、
で、しかもこのやっぱりすごいなと思ったのは、このニグリオファさんがこのアイリンドブという人を感じ取って、その彼女の声ですね、アイリンドブの声であったり感情というのを見出していてっていうんですね、なんかそこが読めていったっていうのがすごいもう圧巻で、なんかよくわからないけどもすごいっていう、なんかそんなすごいなんとも言えない充実感がありました。
なるほど、そうですよね。いくみさんからなんかもしここで。
日常の本当に繰り返す母親として繰り返していく日常の雑事の描写が多く、その中から彼女の内面を本当に包み隠さず描写していくっていうところにまずは大きな魅力があると思います。
それで、その中で彼女、彼女自身も詩人で、で、詩人で母親である著者が詩人を追いかけていくっていう形態なんですけど、ニグリオファーが他のインタビューでこの作品について言ってたときに、詩に自分を開けば、詩が開いてくれるという言葉を言っていて、
だからこの作品はその詩を通してニグリオファー自身が自分を開いていく過程を記したような作品なのかなと思っていて、自分自身も著者と同じように、引っ越しとか育児、家事に追われる日常の中でこの作品に向き合えたという意味で、私にとってもすごく大切な翻訳の過程であり、物語になったので、今回お話しできることをとても嬉しく思います。よろしくお願いします。
ありがとうございます。本当に今回ちょっと来ていただいて本当助かっていて、多分我々特に男性2人だと見えてこない部分かなり多い作品じゃないかなと思っていて、今生久美さんが言っていただいた通り、結構最初の方ね、出産のシーンとかもあったりして、結構男性からするとちょっと受け止め方が難しかったりするような部分が正直なところちょっとあったりはしたので、この辺りちょっと今日は翻訳された生久美さんの力も借りながら紹介できたらなと思います。じゃあ、著者紹介いきましょうか。
ではですね、著者のデーリン・ニグリオファさんについてなんですけども、アイルランドの詩人でアイルランド語と英語の2カ国語で執筆し、本書のほかに詩集を6冊出版していると。詩集は今まで出されたものはアイルランドの様々な賞を受賞されたりというすごく実績のある方になります。
作品紹介の方にしていきたいなと思います。版元の作品者さんのホームページから引用させていただいて、アイルランドの春英詩人による鮮烈な3文デビュー作、18世紀に実在した詩人と著者自身の人生が入り混じる新しいアイルランド文学、数年に一度の傑作、ジャンルや形式の明確な定義をごとくごとく消し去ったというアイリッシュ・インディペントの紹介文ですね。
ここからちょっと作品の概要になります。恋をした。その人は18世紀の詩人だった。殺害された夫の死体を発見した貴婦人、アイリンドブ・ニコネル。18世紀アイルランドに実在した詩人ですね。
彼女はその血を手ですくって伸び、深い悲しみからクイネを歌った。アイリンドブの死は何世紀にも渡って旅をし、3人の子供と夫と共に暮らすある母親の下にたどり着く。家事、育児、度重なる引っ越しの両立に疲れ果てた彼女は、自身の人生と共鳴するアイリンドブの世界に夢中になり、やがて彼女の日常を死が侵食し始める。
他者の声を解放することで、自らの声を発見していく家庭を描き、ニューヨーク・タイムズほか各紙で話題となった、日記・愛歌、翻訳、詩人たちの人生が混合する異色の3文作品、オートフィクションとなります。
さまざまな賞もいただいていまして、ジェイムス・テイト・ブラック記念賞の伝記部門での受賞されていて、ラスボーンズ・フィオリ賞最終候補にもなっていて、それと18世紀にアイルランド・イギリスで書かれた最高の詩とも称されるアート・オレイリーのための愛歌、クイネですね。
このアート・オレイリーというのはアイリーン・ドブの旦那さんになります。アート・オレイリーのための愛歌のクイネの全編訳付きで、これがアイルランド語、英語、日本語の3言語で編末に掲載されているという、そのような作品になります。
そうですね、これね、アイルランド語の原文があって、それをにぐりおわさんが訳されたものも載っていて、さらに吉田一久美さんが訳された日本語訳があるという、ちょっと三重構造になっている。詩がですね、最後、編末に、何ページくらいですかね、40ページくらいあります?
そうですね、結構長い。
そうですよね、40ページありますよね。40ページ以上ついていて、結構そこも読みごたえのある作品ですね。
はい、ではここからですね、作品の特徴に移っていきたいと思います。いくつか特徴として、まず最初にこれはという点をですね、挙げていきたいなと思いまして、まずこの作品の構造というんですかね、著者にぐりおわさんの人生とアイリーンドブという18世紀の詩人の人生がシンクロしていくような、そのような話になっていますね。
このアイリーンドブという人についてなんですけど、簡単に説明しますと、18世紀のアイルランドの詩人で、生まれの時の名前はまた別で、ネリーという名前ですかね、だったんですけども、結婚などして、アイリーンドブ・ニコネルという名前で知られている人になります。
この18世紀に実在したアイリーンドブという詩人の方なんですけれども、まずこのアイルランドの方々からすると、教科書に載っているぐらい有名な方みたいで、知名度っていうとそれなりにあるそうです。
ただちょっとこのアイルランド以外の人からすると、全くわからない部屋の存在なので、こういった詩人がいたんだなっていう程度のことしかちょっと印象ないんですけれども、アイリーンドブなんですけれども、この著者のぬぐりおわさんがですね、彼女の詩を読んだりとかしていて、どんどんどんどんこのアイリーンドブの空白の歴史というか、彼女に対して分かってない部分っていうのを調べていこうとします。
それに対してかなりの熱を入れ込み始め、彼女はさっきちょっと出てきた通り子供がいたりとか、あと結構育児とか大変な状態だったりすると思うんですけれども、そういう状況をですね、結構なんとかしながら図書館に行ったりして、どんどんどんどん調べていくっていう状況が描かれていきます。
なんでこのアイリーンドブにこんなにのめり込むのかっていうのが、結構最初ちょっとわかるようで、途中から私からするとちょっと狂気に近いようなモードに入っていって、ぬぐりおわさんは調べていくんですけれども、これがこの作品の魅力でもあると思うんですけれども、ちょっと私は怖くなったところでもありますね。
このぬぐりおわさんも子供の頃からアイリーンドブの詩自体は知ってたんですよね。やっぱり学校で習ったりして、ただ子供の頃はどっちかというとそんな良い印象は持っていなくて、で、高校生ぐらいになってもう一度このアイリーンドブの詩を読んだ時に、結構この激しい情熱の話ですね。
この愛する夫を失ってしまって、夫の血をその死体からすくい上げて飲んでという、そこにちょっと見せられるところがあって、で、またそこからさらに大人になっていったぬぐりおわさんが3度目ぐらいですかね、このアイリーンドブの詩に立ち向かった時に、なんかその情熱のところというよりかは、この同じ母親としてというか、そっちの方にすごく共感するところがあるというので、
結構自分もアイリーンドブも同じなんじゃないかなっていうんです。なんかそんなことを感覚を持たれて、で、そこからですね、結構アイリーンドブでも調べようと思っても、アイリーンドブって一体どういう人なのか、記録って何か残ってるのかっていうので、だんだん謎深きアイリーンドブを追いかけていくっていう。
そうするとだんだんこの、最初物語としてはね、このぬぐりおばさんの日常というか人生の話なんですけど、だんだんこのアイリーンドブの人生がそこに一緒に入っていくっていう、なんかこのシンクロしていくような、なんかそんなすごく面白い展開になっていきますし。
そうですね。ぬぐりおばさんじゃなくて、何だっけ、アイリーンが書いたって言われるクイネは、クイネっていうのがもともと夫が亡くなったり家族が亡くなった時に、女性が遺体のそばでその人を思って声を出す言葉にしていくという営みなんですけど、
それはその歌とか詩とかいう形状で私たちが今理解しているのは、最初は少し違ったのかもしれなくて、その音の発出であったり、それが詩というフォーム、結構きちんとした形態をとってパターン化されていくんですよね。
それが女性たちの声によってどんどん伝えられていくっていうのが、アイドランドの愛歌の伝統としてあって、それがあるところで筆記される。それまでは声だけ交渉だったのが、筆記されていくっていうのがあるんですけど、それが全体的な、簡単に言うとそういう伝統のクイネっていうのがあるんですけど、
このアイリーンのクイネは、殺されたモリスという人に殺されたアート、アーサー・オレイリーっていう人のための愛歌、夫に妻が歌った愛歌として伝えられ続けてるんですが、なんでこれが著者にすごく響いたのかっていうと、
ちっちゃい時は、あんまりよくわからなかったんですよね。ミリさんが言われてて。高校生になった時に駆け落ちするんです。質の中で自分がすごいかっこいい人がいて、その人を見染めて、女の子が私一緒に行くって言って、一緒に行って。
家族は反対してたんですよね。自分の主体的に。危険な男だから近づくな。そうなんですよ。欲望をむき出しで行くっていうところに、たぶん10代の自分の淡い恋だったり、結構10代の思春期の激しめの恋心みたいなのを重ねて憧れていくっていう過程があったと思うんですよね。
この本の一番最初、自分が母親になって、その女の子が母親になって、著者が母親になって、育児していく中で、もう一回この詩に出会うんですけど、その時に初めて、この詩を書いてた人も母親だったんだって気づくんですよね。
でも高校生期に読んでた時は、その女の子の主人の欲望に目が行って、その子が母親だったっていうことは見落としてるんです。でも母親になった著者がそれを見たときに、この女の人は母親であり、こんなに欲望があり、こんなに憎しみがあり、この感情をむき出しで歌ったっていうところに、おそらくすごい衝撃を受ける。
そこでまた、なんて人だろうって声を知らす。そこの衝撃で、この人はその人が知りたいから、まずはその詩を翻訳するっていう過程で、この本の中でもその翻訳の過程っていうのが結構綴られていく。
なのでその間末に、アイルダンの子からミグレオファさんの英詩、英訳を載せていただいたのは、やっぱりそこの過程がすごくこの作品には大事だなと思ったので、大訳として載せていただきました。
そうですよね。このアイリーン・ドブのクイネがこの作品の中では章の始めであったり、あとはこの作品の途中途中でも入っていたりはするんですけども、断片的にその場面に適したようなこの詩の一部が掲載されていて、断片的には詩が読んでいけるんですけども、この全貌が明らかになるのは、
間末を読んだら読まないとわからないというような。だからそこもこの作品のすごく特徴的なところだなと思っていまして、もちろんこのミグレオファさんの人生、アイリーン・ドブの人生っていうのがこの作品のメインなんですけども、一方でこのアイリーン・ドブのクイネ、これももう同じくらいのメインになっているような。
そうですね。なかなかでもこのクイネというこの詩がこの作品の決して一つの材料ではなくて、本当にクイネそのものが一つの作品としてこの作品の中に存在しているかのような、そういったところもありまして、このクイネを読んでいくというところもすごくこの作品の面白さだなと思ってますね。
最初お話いただいたときにクイネを訳さなきゃいけないのと、本編を訳さなきゃいけない。2つの作品を訳すみたいに考えてて、だから最初本編を訳す前にクイネから訳したんですよ。
だけど結局そのときは、ニグリオファーさんの英語を私が訳すんだと思いながらも、やっぱりアイルランド語からの訳の訳なので、アイルランド語もちゃんと知っとかなきゃいけないなと思って、アイルランド語の原文の音を大事に訳したいと思って、アイルランド語で音読できるようになろうと思ってすごい練習して、原文とかもアイルランド語をすごい下手なりに調べて訳したんですけど、
本編を訳していく中で、この詩、最後の詩っていうのがニグリオファーさんの言葉のニグリアッファーさんの解釈であって、ニグリオファーさん本編ですごい妄想していくじゃないですか、それがすごく楽しい過程だと思うんですけど、
ニグリオファーさんの言葉で自分がいかに詩を訳せるのかっていうことに、本編を訳した後にもう一回クイネに戻ってやるっていう作業があって、
先ほど三枝さんが言われたように、クイネ自体が織り込んであるけど、作品の中に、それ自体にニグリオファーさんが妄想っていうか空想を膨らまして、
プラス、著者の、詩人のアイリーンの実態も妄想でカバーしていくっていう、ファンフィクション的なところが私は結構読んでて面白かった。
白昼夢と事実を混ぜこぜにしていくみたいなふうに、彼女もそれが自分のリサーチの手法であるみたいなのって言ってるんですけど、そういうふうに自由に頭の中で描く、描いていくっていう、その過程を描いてくれるっていうところが、
とても開放的。私にとってもすごく開放的。その縛りをとって、自分の持っている情報だけでポンって飛んでいく感じが、役しててすごく楽しかったね。
夫が殺されるとことか、ぬかるみに膝をついてマスケット銃を構えてとか、そういうのを全部頭の中で。
確かにあれですよね。その前に一杯飲んでいって、ちょっと酔っ払ってしまったとか。
そこできちんと物語を描いてくれるっていうのが、とても楽しかったという。素敵だなって。
普段妄想したとしても、形にして表現するってなかなかないですし、しかもこの年月というか、ニグリオファーさんの中でもかなり長い年月、このアイリーン・ドブンについて考えている。
思いを馳せると思うんですけど、そういうことってなかなか、もし仮に自分の中にあったとしても、表現物として外に出すっていうのは、なかなかないです。
さらに実在した人物ですもんね。妄想だけじゃなくて、本当に、事実としてある部分と、自分の推測というか、そこから膨らませた。
そこから考えたことっていうのが、割とゴチャッとなって出てくる。作品って言っていいのか、表現って言っていいのか、ちょっと難しいところですけど。
始めに言いますが、他になかなかないですし、これをこのレベルでやるっていう、覚悟みたいなのもすごいなって思いましたし、衝動なのかな。
いくつかの点で本当にすごいなと思っていて、持続しているっていうところと、表現まで消化しているっていうところと、その元になっているリサーチプラス推測のところが本当にすごいなっていうところですよね。
この、ちょっと次思っていたのがですね、やはりこの作品の中で翻訳することへの試みというのが、やはりこの作品にすごく現れていて、そこもすごく特徴的だなと思っていまして。
第1弾であって、イクミさんが先ほど言われたこともそのままにはなってしまうんですけども、ニグリオファーさんがテクストをどのように読み解いていくのか。
旦那さんのオレイリーが殺されてしまう場面とかでも、記録上ではそこまで残されていなかったんじゃないかなと。
そもそもそうですね、アイリーン・ドブさん、時代記録上ではやはり残されていなくて、でもこの旦那さんが亡くなった時に、その血を手ですくって飲んで深い悲しみからクイーンを歌うような人物であるということはどういう人物なんだろうというのを想像でして描写したと思いますし、ニグリオファーさん、やはりそこだけではないと思うんですね。
アイリーン・ドブという人の残されたテクストから、あったかもしれない人物像というか、読み解いていかれたり。あとは日常ですよね、このニグリオファーさんの過ごしている日常、そこに様々なテクストというのがあって、そこを描いているというテクストとニグリオファーさんが会話しているかのようなその描写ともあって、
ニグリオファーさんが言われたように、すごく楽しそうなところもあると思いますし、一方で読んでいるとですね、これ今何の話してるんだろうかと、ちょっと置いてけばいいなってしまう時もありはするんですけども、でもすごく分かりやすくこうですよって書かれていないと思うんですけども、
やっぱりちゃんと理由があるんだなと、ニグリオファーさんがその物事というか、そのテクストをどのように読み取っているのかって、そこのニグリオファーさんの視点であったり、触れることができるというですね、そういった翻訳した結果だけじゃなくて、翻訳しようとするその試みがそれ自体が作品に出ていて、そこから本当にたくさんのことが想像できたり組むことができるので、ここもすごい面白いと思うところですね。
そうですね、なんか著者はとにかく母親のその仕事っていうのを最初に、なんか一番最初にリスティングアップしてて、私の朝はいつも同じだ、夫にキスをするから始まって、で、夫のオートバイのエンジン音が遠くで響き、私の耳に届くこの、私はすでにその日の労働に取り掛かっている朝食を、子供たちに朝食を取らせ、皿を洗い、おもちゃを片付け、飲みこぶしを拭き、
学校に送り届け、歩き始めたばかりの家なんて赤ちゃんを家に連れて帰り、とかもうそういうなんかリストで、日々何、毎日の本当に労働、その母親としてのドメスティックワーク、ケアワークにいかにそれがいかに繰り返されるかということをずっと言ってるんですよね。
で、バニー・グリンファーがアイリーンの詩を翻訳するって思ったときに、彼女すごい不安、やりたいんだけどすごい不安。何でかっていうとその前、その以前からこの詩ってすごく有名なので、著名な学者の方とかがどんどん翻訳ずっと出してきてて、何で私が、私がやって何の意味があるんだろうっていう思いは少なからず彼女は持ってるわけですね。
それだけれども、この彼女は私しかこの詩を翻訳するにふさわしい人はいないと思うわけです。私ぐらいこの彼女のことを理解しようと思って愛してる人はいないから、私がやってみせるって思って。
図書館に子供を連れて時間もないのに足を運び、母乳ね、チティまみれながらみたいな感じでテキストにあたり、で翻訳するんだけど、結局その出生果物としてはあれ?みたいな。私、自分が思った域に達しててない。満足できない。
でも、翻訳をしていく不安な中で彼女が思った、自分に言い聞かせたのが、翻訳はホームメイキング、家を整えることであるっていうふうに言っていて、それは今まで自分が日々やってきてること、お皿洗ったり、掃除したり、翻訳っていうのはそれと同じことだよっていうのを自分に言い聞かせて、
で、彼女がさらに言うのは死のスタンザ、死の意味の行の塊をスタンザって言うんですけど、そのスタンザはイタリア語でもともと部屋という意味だから、その死の翻訳っていうのは部屋を整えることなんだって自分に言い聞かせて、どんなにビッグネームの人、どんな学者が翻訳していても、自分は家を整える、部屋を整えることができるからって自分に言い聞かせながらこうやっていくんですよね。
だから、この翻訳っていうことをホームメイキングに例える、ケアの中に入れていく、そのテキストをケアすることなんだっていうふうに言っていくっていう表現が私としてもすごくしっくりすること、来ることがあって、なんかここ最初のスタンザが終わると、私は一歩下がり作った部屋を見つめる、最善を尽くしたのにドアはきちんと閉まらないし、床板はゆがんでいる。
もし読者が裸足でこの部屋に入ってきたら、足の上に床のささくれが刺さってしまうだろう、っていうのはやっぱり翻訳をしていて、自分も文を整えるときにすごく思うことなので、結構シンクロというか、気持ちわかるなと思いながらなくしまして、その後にこのねぐりおばさんは満足いかなくて、結局自分が探し求めているのは詩の翻訳じゃない、詩の意味じゃないんだ。
詩を書いたこの女性も私は探したいなって言って、今度は実際にその彼女が生きた場所に自分の体を今度は運んで、その彼女の影に自分の実態を合わせていくような、なんかそういう旅を始めるんですね、著者さんね。
はい。
旅ですね、確かに。
翻訳する人の話でもあるので、それをいくみさんが翻訳されていて、どのように思うんだろうっていうのはすごく気になるところでしたし、事前の打ち合わせでも聞きましたけど、結構このねぐりおばさんがその翻訳に対しての感覚というんですかね、スタンザというのを持ち出しての話とかも、
同じ翻訳者として分かるところがあるっていうのをおっしゃっていただいて、なんかすごくあれですね、翻訳に興味がある人とか読むとまた面白いと思うんですね。
そうですね。
そうですね。
翻訳という営みについても、こういうふうに言語化がされているんだっていうのがですね、家族がねぐりおばさんの翻訳論というのがすごく読めるんじゃないかなと思いますし。
そうですね。なんかね、途中で結構ね、以前の翻訳者のことを結構聞きながらしておりますよね。
そうですよね。
そうそうそう。結構言って、結局やってみたら結構難しいんだなっていう。
そうですね。
作中でもね、従来の翻訳はアイリン・ドブのこのドクドクした脈動を見つけられていないというふうに。
そうそうそう。
って言ってますよね。
そうなんです。
私はあれですね、私は6章の解剖室のところが結構一番、なんというか、わからなかったところで、ここだけ、この章だけ私不正一切貼ってないんですよね。
えー。
読んでて、この章は一体何なんだろうと思いながら、自生も過去に戻りますし、赤というか、ミグリオファーさんの中の過去に戻るじゃないですか、そこもちょっと捉えどころがなくなってしまって、そうですね、ここはなかなか。
ミグリオファーのずっと持ってる衝動として、さっきお兄さん言われた、自分を差し出す衝動みたいなのがあるじゃないですか。
だから6章は、差し出す衝動の究極の形にたどり着くところの過程みたいな。
そして、そこにもチェストで出てくるんです。
ミグリオファーは医学部に1年だけで、そこで解剖、人体の解剖をするんですが、心臓を手に持つっていう経験をするんですよね。
心臓もチェストって言って、チェストも箱とか部屋とか英語なんですけど、さっきの死のスタンザと一緒に部屋なんですよね。
この作品には結構連なる部屋みたいなのが、いろんな形で部屋が出てきていて、この作品って、This is a female textっていう詩から始まるんですよ。
で、最後リフレインで最後それで終わるんですよ。This is a female textっていうのが、一番最初と最後に出てきてて、
私はそこを、これはある女のテキストであるっていう風に訳したんですけど、この訳もすごく迷ったんですけど、
この表現と同じで、結構リフレインが何個も何個も繰り返す表現が出てくるんですけど、
この本を訳す上で結構謎、私の女のテキストって一体何だろうという謎がずっとあって、
で、その中で繰り返される言葉みたいな、やっぱりチェストというのが結構あって、部屋とか箱とかそういうのがあって、
で、その女のテキストって言うと、それしかもこれってクイネンの話じゃないですか。
クイネンって交渉伝承で口で伝えられる、喉を通る、女たちの声で次にずっと伝わっていくんですよね。
で、私たちが今文学とかテキストって見ると結構文字じゃない?文字で、だからバージニアウルフとかが言ってたように、
もうこう座って、部屋があって座って文字で書いていくという文学っていうのが女のテキストとして存在している。
そしたらこの人たちみたいな、ケアワーク、ドメスティックワークにずっと従事してきた家計の女たちと言われる人たちは、
一番最初のこの詩でちょっと読むと、これはある女のテキストである。
誰かの服を畳むうちに形をなしたテキストである。
私の胸にしっかりと抱かれ、育つ、しなやかにゆっくりと、私の両手が無数の雑用をこなす間にって書いてあって、
だから文字にならなくても、洗濯しながら、湿しぼりしながら、赤ちゃんにおっぱいをあげながら、
女性たちが考えてきた、もしくは編み物をしたその編み目、そのすべてが女のテキストではないのか、みたいな。
そのテキストっていうのが、部屋とか箱、チェストの中で、スタンザの中で存在してきたのではないかっていう、
そういう風な読み方もできるかなという風に思ったんです。
それが、その空間として、空間の中に存在するものっていうのを、リフレインのシーンでもあるし、
ミグリオファーが自分を差し出すっていうところへの紡ぎ重ねのシーンでもあるし、という風に解釈しました。
この解剖室、確かに私ちょっと、部屋で、これね、メインが部屋の描写というか、部屋があれなんですね、木になってるんですね。
この部屋に初めて入った2度目、再び3度目、4度目とかですよね。
そうそう、で、なんか撮っていったりするんですね。いろいろなんかしていくんですよね。1回1回違うんですよ。
この、なんていうんですかね、この部屋はメタファーなのか。
この、実際の解剖室であると思うんですけど、とか、ちょっと分かんなくなってる感じが私は。
メタファーではないのか。でもなんか架空の感じはすごいしたんだよな。
メタファーかもしれない。
そうですよね。
いやいや、なんか結構そういうの多いな、唐突で衝動的で。
急に連れてかれたみたいな。
自動車のシーンも僕もそうでした。
そうですよね。
シーンがなんで入ってきたんだろうって思いましたし。
急に連れてかれますよね。
飛行機のシーンとかも、あとその水に沈んだ村のシーンとかも。
そんな急に連れてかれて、私結構そういうの心地いいんですけど。
すごくなんだろうな、脳みその芯を抜かれるみたいな、そういう感覚になるんですよね。
でも、自分の人生の話だったら分かるなって思うところもありましたね。
作品の本質とは関係ないようでいて、
でも突然起きたあの出来事にちょっとつながっていたり、影響を受けていることがあったりっていうので。
人生ってそういうよく分からないことが起きて、でもそれが実はどこかでつながっているとか、
そこから自分は影響を受けたとかって、そういうものかなって思ったりしますし。
あとそのメタファーの話に戻ると、アイルランドの文学祭かなんかでインタビューされているときに、
インタビュアーの男の方が、この作品にはたくさん乳とか作乳とかミルクとかミルクがめちゃめちゃ出てくるけど、
あれはメタフォーなのかって聞かれて、
モグリオファーが、いや本当になんかめちゃめちゃミルクにまみれて書いたんです、みたいなことを言っていて、
だからその、なんていうのかな、この本は母性の侵略に抗うみたいなところもあるのかなって思っていて、
お母さんって素晴らしいお母さんって、なんていうのかな、
雲の上の存在じゃないけど、母親だからこうしなきゃいけないとか、母親ならこうするべきとか、
そういうことを言われる母親という存在だけれども、母親にもこういうドロドロした欲望はあるし、嫌いな人もいるし、文句だって言いたくなるし、
毎日疲れてるし、みたいなそういう、なんていうのかな、母親っていうのをきちんと泥臭く書いてくれるっていうところで、
そういうのがすごくあって、あとその結構海外のレビューで多いのは、
ドメスティックワーク、家庭内労働とか妊娠した体が、どう足掻いても搾取されていく、
いろんなものを削って赤ちゃんを産むっていう、それを望もうが望むまいがっていうその事実を書いてくれて、
とてもありがたかったっていうような、自分たちの姿が可視化されたような気持ちになったっていう、そういう声も多い。
なるほど、そうですよね、なんかそのあたりってかなりセキララにというか、ストレートに書かれてるなとは思っていて、
そのパンチ力はそこすごく感じたんですけど、本当にこれ妊娠とか出産のシーンとか、
あと今後の妊娠に対する考え方とか、ミルクも左の胸からはちょっと出ないとか、
すごいリアルなことが書かれていて、そのアイリンドブのその話っていうところに、
このにぐりおばさんのその自分が感じていること、痛みまでいかないかもしれないですけど、っていうのはすごく感じますね。
今、深刻化に抗うっていう話が出てきて、母性の深刻化に抗うって話が出てきて、確かに全くそれを深刻化してないというか、
良いこととしてあまり書いてない感じはすごくしていたので、これ何なんだろうなってちょっとすごい思ってました。
その子育てとか、お乳をあげることとか、なんというか営みとしてとても善なことだと思うんですけど、
それに対しての何て言うんですかね、ありふれてるというか、そのレベル感で言って全然抑え込んでる感じはすごく感じたんですよね。
そこはちょっと今、深刻化に抗うっていうのはちょっと聞いて、なるほどなってちょっと思ったところですね。
僕も最初この小説読んでいて、なんかあの詩人の人の辞伝っていうふうにはあまり感じなくてですね、ちょっと言い方あれですけど、
本当にこの作家さんの文章なのかなって思って、なんか文章はすごくもちろんいいんですけども、
なんて言うんですかね、なんかの作家が書いた本当にそのあるお母さんの日常というか、なんかそういったのをリアルに描いてるみたいに読めてですね、
それがその著者が詩人なんで、この詩人の人の辞伝、自分の話とは最初ちょっとつながりづらかったんですけど、
確かに読んでいくと詩人であり、そのお母さんでありっていうところで、そこがリアルに書いていくと生活になっていくんだとかですね、
なんかすごく生活が詩人であるんですけど、やはりそのお母さんとしてのその生活、そこにすごく覆われているっていうのが感じましたし。
そうですね、なんか夫と子供のこと大好きで、その人たちの役に立つのは大好きで、
喜んで、喜んで家事やってるんだけど、でもだからってその中で消えていくその自分、
この労働、家事っていうのは存在の消去だっていうふうにエグリオファーは作中で言ってますけど、
その掃除するっていうことも、鏡を拭くっていうことも、結局そこにあったものを消していくっていうことで、
その存在の消去の中で、自分も消去されているような感覚があり、
でもその消去のされているような感覚の中で、
エグリオファーの作品にあたることで、様々なところで消去されていく、女性の影っていうのに気づいていく。
だけどそのエグリオファーは、インタビューで言ってたのが、消去されているっていうのが、
受け身、全て女性が消去されているというふうに考えているわけではなくて、
自分から隠れたか、自分から影に行きたか、人もいるだろうし、
自分たち、女性の手紙が残っていないっていうのも、それは捨てられたっていうのもあるかもしれないけど、
女性たちが自らの意志で燃やしたっていうのもあるかもしれないから、
その消去という言葉に消去されたとか、そういうニュアンスではなくて、
ただそこに不在があり、その女性の不在を浮き上がらせていくっていう、
そういう探索だったのかなっていう。
それがこの後のアイリーン・ドブという歴史上の詩人の人生がそこから浮かび上がってきて、
自分に重なっていくっていう、今回の作品につながっていくっていうのがすごいなって思いましたね。
それができるのが、やっぱりさすがにぐりはわさん。
話を聞いていると、よくこの作品が誕生したなってすごい思います。
本当にもう、何でしょうね。決して偶然だけではないな、徐々に承知してるんですけども、
すごい、いろんなものが重なってできてるんだろうなって本当に思いましたし。