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何もできなかったあの頃、それは詩の生まれゆく時間であった 韓国の詩人キム・ソヨンのエッセイ集
奥歯を噛みしめる詩が生まれるときを紹介します。 どうも皆さんこんにちは、文学ラジオ空飛び猫たちです。この番組はいろんな人に読んでもらいたい、いろんな人と語りたい文学作品を紹介しようコンセプトに、文学と猫が好きな二人が緩くトークするポッドキャストです。
パーソナリティは私大地とミエの二人でお送りします。 文学のプロではない二人ですが、お互いに好きな作品を時には厚く、時には愉快にそれぞれの視点で紹介していく番組です。
今回紹介するのはキム・ソヨンさんの奥歯を噛みしめる詩が生まれるときです。 京信子さん官役、奥歯翻訳委員会役で片紙書房から2023年に出版された本になります。
今回もエッセイですね。昨年の11月に刊行された、詩人キム・ソヨンさんのエッセイとなります。
これはクウォンさんから出た数学者の朝という詩集とほぼ同時期に出たエッセイですね。
キム・ソヨンさんの翻訳が出させるという、韓国文学界にとってはちょっと大きなニュースだったのかな?
そうですよね、おそらく。僕らにとっては、一番最初に翻訳された、詩人キム・ソヨン一文字の辞典が、うちうちでと言いますか、すごい、めっちゃ良かったので、
このキム・ソヨンさんは一体何者だというので、それで、もう次の翻訳を待ちを浴びていたんですけども、
数学者の朝と今回のエッセイが同じタイミングで出たというので。
しかもあれですね、その去年の11月というのが、K-BOOKフェスティバルが開催されていて、
そこで韓国の作家さんとか詩人さんとかも呼ばれて、いろんなトークイベントがあったりしたんですけども、キム・ソヨンさんも来日されていて、
もう一人ですね、詩人の大雲さんと対談をされていたんですけども、僕も会場を聞きに行って、実際に話が聞けてすごい感動したっていうのがありましたね。
なるほど、いいですね。
しかも今回あれですね、キム・ソヨンさんにサインしてもらった本を読んでますんで。
そうか、なるほど。私はちょっとそこ参加できなかったんで、サインはないんですが、私のはですね、でも検訪していただきましたね。
奥羽翻訳委員会、これキム・ソヨン一文字の時点の翻訳をされた8名の方々ですね。
その方々の、まあおそらく全員の詩人なんじゃないかなと思うんですけれども、その中のパーチミワさんからご連絡いただいて、ちょっと検訪させてくださいということで、
もう2つ演じて、ありがとうございますといただいて、ちょうどそのK-BOOKフェスティバルの時にいただきましたね。
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そうですよね。
で、ちょっとミワさんとご挨拶させていただきましたが。
ラジオも聞いて応援もしてくださっていて、本当に光栄なことで。
ありがたかったよね。
そうです。
エッセイなんで、ちょっと紹介するかどうかみたいな議論が一瞬我々の中でありまして。
まずは、ちょっとこの本単体で話すこともないのかなっていう話があったんですけれども、先週のハンガンさんとちょっと抱き合わせでエッセイ会をやろうかなって思ったんですが、
抱き合わせようとしたら、ちょっと両方とも話すことが多すぎて、ちょっとこれは分けないという話になって、結局2回に分かれたという流れがありました。
でもやっぱりハンガンさんもキムスヨンさんもすごいっていうのが、よく分かりましたね、このエッセイだけとっても。
最初なぜ我々は2つ同時に行こうとしたのか。
もう絶対時間足りないってなっちゃいます。
時間足りないし、話すこともめっちゃあるしっていうところですね。
で、この本なんですけど、私はもう年始2日かな、7月2日にほぼ朝読み始めて、ちょっとその日は親戚の家とか行かなきゃいけなかったりしたんで、
ちょっととびとびだったんですけど、夜中読み終えて、めちゃめちゃいい本だなって思いました。
なんかこう、もやもやした気持ちにですね、なんだろう、すごくなんかもやもやしたままでいいんだよみたいなわけではないんだけれども、
でもなんかそういう肯定感を与えてくれる本で、個人的にはだいぶなんというか、
ちょっとこれが配信されてる時にどうなってるか分かんないですけど、ちょっと落ち着かない事件、災害とかがあった辺りだったので、
私としては別に直接親族とかがいるわけではないので、直接的な親族というかなんというか、
ちょっと何個かまたげばいらっしゃるようなんですけど、ちょっとなんと言っていいのかっていう気持ちでいたので、
遠い出来事として捉えることもできるけれども、でも確実にこの自分がいる土地と地図付きの世界で起きていることだなと思ったりしていて、
なんか落ち着かなかったんですよね。東日本大震災の時とはまた違う感覚で、
その後に続いたいろんな災害もあったけれども、すごく落ち着かなかった時に読んでいて、
なんか気持ちを、自分の気持ちが落ち着いたところで何もないんですけれども、なんかでも気持ちを落ち着かせてくれる辞書だったなと思いました。
非常にそういう意味でもおすすめですね。
これ30個のエッセイが入っているんですけど、本当どれもよくて、これからちょっと選んで話そうと思っているんだけれども、
いやこれどれ話しても多分結構話せてしまう濃さのあるエッセイだったので、
やっぱり作り創作をしている人たちが書くエッセイってめっちゃ深いなと改めて思いました。
それ以外のエッセイが深くないと言っているわけじゃないんだけれども、やっぱり独特の視点の深みがあるなと思いましたね。
そしてやっぱりこのキムソヨンさんと同じ時代を生きているんだなということをですね、
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観察してくれるような一冊だったので、そのあたりもすごく良かったですね。
めいさんどうでしたか?
前回の半顔さん同様ですけど、このキムソヨンさんのエッセイも苦しい状況の中で書かれたものというので、
家族との記憶とかですね、結構子供の頃からの記憶とか、
あと、詩人として大切にしているということが言葉として残されているので、
やっぱりその深さというところがあったと思います。
220ページほどなんですけども、非常に読み応えがありましたね。
思ったのは、詩であったり詩人というものに対しての言及がたくさんあったので、
もしですね、この詩を書いている方とか、詩人の方が読まれたらどのように思われるのかなというのはすごい気になりました。
めちゃめちゃ刺さるのが、詩人にもいろんなタイプがあると思いますので、
どういう感情になるんだろうかというのはすごく気になりましたね。
あとキムソヨンさん、旅人なんですけども、詩集の数学者の朝でも、
いろんな旅に行った時の詩というのが書かれているというのは特徴的だったんですけども、
今回もエッセイの中で旅の思い出がめちゃめちゃいっぱい入っていたのが印象的でした。
好きあれば本当に旅に行っている人なんだなというのをすごく感じて、
本当に世界のいろんなところに行っているので、日本にも沖縄とか来てたりするので、
旅好きな人がもし読んだら、これは単純に楽しめるんじゃないかなと思いました。
確かに、そうですね。この旅の辺りの話は結構明るくていいですよね。歩く話とかね。
ここから著者紹介をしていきたいと思います。
キムソヨンさんは詩人で、詩集に数学者の朝はコーンから翻訳されていて、
まだ未翻訳ですけども、極まる光たちの疲れが夜を引き寄せる、
涙という骨、哀憂、他を刊行されています。
エッセイ集には第8回日本翻訳大賞にも輝いた詩人キムソヨン一文字の辞典があったり、
心の辞典、愛には愛がないというエッセイ集もいくつか出されていらっしゃって、
本当様々な韓国での賞を受賞されている詩人になります。ではですね、
ここから作品紹介を移っていきたいと思います。
版元のホームページから紹介文を引用させていただきます。
心の傷も分かり合いなさも、
全てを死にした時、母を愛せるようになった。
痛みの声を聞く詩人が、母、父、心の傷、そして回復までの日々を語る。
奥歯を噛み締めて耐えること。
奥歯を噛み締めて愛すること。
何もできなかったあの頃、それは死の生まれゆく時間であった。
生きること、それ自体が死になる。
それは特別なことではなく、あなたの人生もまた死なのだ。
寒さに震える心をそっと包み込む。
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限りなく温かな30ペンのエッセイ。
日本の読者へと三住美月、詩人による応答エッセイを付す。
という紹介になります。
じゃあちょっとこれから具体的に話していきたいと思うんですけれども、
まず本書の全体的な印象特徴的なところで言うとですね、
やはり傷を負った人たちに響くような内容なんじゃないかなと、
個人的には思っています。
著者のキムソヨンさんが結構家族、主に母なんですけど、
母を中心とした家族のことについて結構触れられていて、
その関係の中でいろんなことがあっただろう。
家族ってやっぱり一筋縄じゃいかない部分って結構あるなと思っていて、
自分も自分の家族について、両親について思いを馳せると、
いろんなことをちょっと思ってしまうので、
なかなか一つの感情だけではうまくまとめられないものだなと思っていて、
やはりそれが受け入れることができて愛せるようになっていった部分、
というのが語られているなと個人的には思いました。
というかそれは全体的なところですね。
ただもちろんそれだけじゃなくて、
ちょっとこれから構成の話をしていきますけれども、
キムソヨンさんのですね、いろんな感性について触れることができる本なので、
その辺りちょっと話していきたいなと思います。
ちょっと差し込むタイミングがないんで、
ちょっとここでお話ししちゃうんですけど、
個人的にはですね、今回本当がめっちゃいいなと思いました。
なんかちょっと独特じゃない?
これでもちょっと気づかなかったですよね。
言われると確かにちょっと…
なんか一般的な本とちょっと違うよね。
何体って読んだか全くわからないけど。
なんかちょっと線が細めなのかもしれないですね。
そうだね、細い。
読んでると、なんでしょうね、
独特っていう感じはちょっと気づかなかったですけど、
言われて比べると確かにちょっと違うっていうのはね、わかりましたけど。
なんだろう、オフホワイトって言っていいのかな?
気味なこの紙の色とちょっと合う、
そういう感じの、細いから一つ一つの文字の筆の流れというか。
なんかね、割とスッていう感じがして、
ちょっとこれ説明しにくいけれど、
自分は結構好きでしたね。
なんかこの紙の色といい、この書体といい、
目に優しそうですよね。
優しそうですよね。
なんかちょっとパキッとしてないんで。
全体的にね、この方がね。
優しく読めるような風合いがありますね。
これあれか、やっぱりブックデザイン恵比寿屋さんだから、
あれですね、一文字の字典の時と一緒ですね。
もう同じ方なんですね。
お馴染みの、たぶんその辺りも。
本当のことはもしかしたらいろんな議論があってこれになってるのかもしれないけどね。
あれかもしれませんね。
ちょっと細かいところで、
気に入ったところなので話させてもらいました。
じゃあちょっとこの本の構成を話していきたいと思います。
この本はですね、五部構成?五章構成?どっちでいいのか分からないので
一体五部構成と言わせてもらいますが、
1、2、3、4、5と分かれています。
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一部がこれがもう一つの話が入っているだけなんですけど、
母を覚えた母という話が入っています。
これは認知症になってしまって、
老人フォームで意気を引き取った母に対する思い、母に関する話なんですけれども
母がアルツハイマーになってしまって、
自分のことを何でしょう、
もうあまり覚えてないというか、
もう介護士であるような感じで、
娘であるキムソヨンさんを介護士として接していて、
自分の娘として認識しないんですよね。
という状況になっていて、
死んでしまうんですけれども、その辺りのことが書かれている文になります。
2部はこの中には細かく話がたくさん入っていて、
家族の話も多いんですけれども、
その他にもキムソヨンさんの感覚で捉えている話が多くて、
ここには共感する話とか、彼女の感性の豊かさを感じる話、
あと言葉のチョイス、センスなんかを感じる話が非常に多いですね。
3部は儚い喜びという話だけ入っていまして、
こちらはですね、ノーベル文学賞を受賞したポーランドの詩人、
シンボルスカという方がいるみたいなんですけど、
ちょっと私あんまり詳しくなくて存じ上げてなかったんですけれども、
この方に対しての思いというのが語られてきます。
これは本当詩人らしい熱い思いだなってちょっと思って、
本当これだけ読んでも感動するような話でしたね。
4部は基本的には詩とか創作に関してのエッセイが多い。
本当タイトルの通り、詩が生まれる時というものをですね、
結構体現しているような部かな、賞かなと思います。
最後の5部がですね、二箱の手紙というところで、
二箱分のですね、キムソヨンさんの父が、
キムソヨンさんの母にあてた手紙の話がありますね。
これがまあ何でしょう、父がですね、母を複読ために書いた手紙たちで、
これはこれがなかなかかなりエモい感じになるところでしたね。
今の5つの部というか賞の説明ありましたけど、
結構この1番と5番が何て言うんですかね、
関連性があって、一番最初は母を終えた母という、
一つのエッセイというのかな、しか入っていなくて。
そこではアルツハイマーになったお母さんに対しての
いろんな思いとか思い出とかあって、
最後結構終わりは強烈なんですよね。
そうやってお母さんのことをいろいろ思いを綴って、
お母さんもその病気の影響もあって、
最初ね、このキムソヨンさんが病院に現れて初めて見たときに、
ちょっと泣き始めるんですけども、
ただキムソヨンさんが冗談を言ったりして、
笑わせようとしたら泣き止んで笑ってくれたという。
最後がですね、母は母を得て私の子供になりという風に書いていて、
この母を終えた母という、
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まさにそのようなことを書かれていて、
結構強烈な話があって。
そこからこのエッセイ、2部以降が始まっていくんですけども、
最後5部は母と父との思い出というか、
まずお父さんが手紙をずっとお母さんに送ってたんですよね。
ラブレターですね、好きですっていう。
それをずっとお母さん無視していたんですけども、
それがもう何年も続くので、あるときやっぱりちょっとかわいそうに思って、
プロポーズを受け入れたみたいな、そんな話があって。
そんなラブレターを子供時代のキムソヨンさんと妹が屋根裏部屋で見つけたという、
そんな話があって。
その後、いろんな話があるんですけど、
大人になってキムソヨンさんもお母さんに手紙を送るようになると、
やっぱり離れて暮らしていたり、
そういうので、お母さんのことを心配して、
もっとこうしなさい、ああしなさい、というようなね。
2箱の手紙というので、お父さんの手紙が入っていた箱と、
お母さんの入っていた、
キムソヨンさんの書いていた手紙のその2つの箱というですね。
これもこの1部で始まり、この5部で終わるというですね。
この終わり方がすごい良かったなっていうのが、
まずは感じたところですね。
この話の2箱の手紙の中でも、
最初手紙の持ち主、
誰の手紙っていうのが、
最初母の手紙っていう表現がされているんだけども、
その読んだ後はですね、父の手紙ってなるっていう。
だからその手紙の所有物は一体誰なんだっていう、
受け取った側なのか、送った側なのか、
みたいな話がちょっとあるんですけど、
それがちょっとね、この中で逆転するっていうのもね、
ちょっと自分は良いなっていうところですね。
結構、本当に短い文章なんですけど上手い。
最初に語っていたお母さんの人物像というか、
お母さんと娘の関係というのも、
だんだん読んでいくうちにだいぶ印象が変わってきて、
やっぱりこの5部の2箱の手紙を読んだら、
やっぱり印象は、見え方はだいぶ変わりましたね。
愛のないお母さんみたいな感じで、
私はね、書いていたんですけど。
いや、わかる。そうだね。
こういうのなんかあるだよね。迫ってくるよね。
印象が変わっていくのはね。
読んでいる中でね、ちょっとずつね、
父のこととか母のこととか他にも語られていくので、
それも合わせて印象が変わってきますね。
そんなちょっと1部2部の印象だけじゃなく、
ちょっと他の部分の印象の話もしてから、
気に対しての話をしていきたいんですけど。
前回も半顔さんをご紹介させていただきましたけれども、
やはり普段小説だったり詩を書かれている方のエッセイっていうのは、
多分この創作に対する自分のスタンスとか思いとかってみたいのが
共鳴されている部分もあるので、
結構そういう意味では、
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小説を読むことが好きな人間にはですね、
おそらく響いてくる部分多いんじゃないかなと思いますね。
今回もかなりいろんなところで響いてきました。
半顔さんもすごくセキュラルな方だなと。
エッセイを書くってやっぱりセキュラルになってしまうところどうしてもあると思うんですけど、
キムソヨンさんはさらにですね、
すごく正直な作家なんだなと思いました。
自分の感性にも正直だし、
そして正直であろうと、
正直であり続けようとしているんだなってのをですね、
今回ちょっとやっぱり感じましたね。
これはキムソヨンさんがKブックフェスで対談の時にですね、
主人でとして大事なことって観察力って言うんですかね。
注意深く観察するのが大事だなと。
そのようなニュアンスのことを確かに言われているんですね。
このエッセイも本当にキムソヨンさんがやっぱり
すごいいろんなところ旅したりとか、
いろんな記憶とかいろんなシーンを見て、
やっぱりそこでじーって観察して、
気づいたことを書いてるんだなっていう、
そんな感想は持ちましたね。
なるほど。
そうですよね。
何て言うんですかね。
確かに観察。
後で述べていこうと思うんですけども、
場所と空間とかっていう言葉があったとしたら、
それについては自分はこう思うみたいなんですね。
そういうことを書かれていたりとかですね。
そういうのを読んでいくとすごく発動させられてる。
キムソヨンさんすごいってなったりする。
そういうのが至る所にあってですね。
そういう意味でこのエッセイ30個あるんですけども、
それぞれ日本語なんですよ。
一つ一つがやっぱりすごく、
いいことって言うとちょっと単純すぎるんですけど、
一個一個が読み応えがあるっていうのが思いましたね。
そうですね。
一つ一つが本当に読み応えがあって、
本当にすごいいいですよね。
じゃあこれからですね、
双方印象に残ったエッセイの話をしていきたいんですけども、
それぞれ3つあれかな、
順番にいきますか。
じゃあ私の方からですね。
私は一番最初はですね、
53ページの少し違うことっていうエッセイがですね、
結構共感しまして、
これまず友人がですね、
ちょっと引っ越しを決めた話からちょっと入っていって、
それがあまり何でしょう、
人がしなさそうな選択だったと、
ようなことが書かれてるんですけども、
一回思い留ませようとメールを書こうとしたんですが、
一回消して、友人の決定を後押しする内容に書いて、
送ったそうなんですね。
人とは違う独創的な選択で、
友人の特別な人生が新たに始まることを願ってのことだったと、
続いてるんですけれども、
やっぱりこの今SNSで、
みんなの近況とかですね、
本当全然遠くの人ともですね、
近況を知り得る状況、
本当その人が何食べたりとかしていて、
何で元気をもらっていてとか、
多分結構わかる時代だなと思ってるんですけども、
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そういう知人たちの、
自分たち、自分も含めたのかな、
何を好きになるか、何を選択するかっていうのが、
もはや知らないふりをすることができなくなってしまったと言われていて、
他者からの観戦という方式で、
自分に近づいてくる愛好の世界に、
積極的に自分を露出し、
愛好の世界に自らを周囲することによって得られる、
情報弱者でも流行遅れでもないという、
&感が所属感にすり替わる、
自身の独創性によってのみ見出される、
少し違う楽しさを置き去りにしたままという文章がめちゃめちゃ刺さりまして、
自分のだけの独創性っていうのをですね、
やっぱり置き去りにしてしまう瞬間があるかもな、
SNSのようなものに触れていると。
で、キムソヨンさんはいつからか少し他人とは違う、
自分の意見や日常、自分だけの発見を、
みんなの空間には、
そんな空間には展示しないようにしているという話があって、
そういうのってすごくいいなと思っていて、
自分だけのものっていうのを持っておくのはすごくいいなと思ったので、
すごく共感したので、
これは紹介したいエッセンスだと思って話しました。
僕もこれはすごい共感して、
大地さんと同じようなことをメモで書いてましたね。
やっぱり重いよね。
大地さんが言った後の文章でも、
キムソヨンさんが新たに知った美しい場所とかっていうのを、
やっぱり自分だけの秘密の場所になるように願って、
言わないようにしているとかですね。
仮にそこが有名になっても、
その後変わらないことを願うと書かれていて、
それもすごく確かに、
その気持ちわかるなっていうのがありましたね。
本当ですよね。
その話を読んで思ったのは、
やっぱり自分だけの美しい場所というかね、
思い出とかっていうのは結構重要だなって思ったり。
そうですね。
あと僕これを読んで思ったのが、
書いてあることに対して結構共感できたり、
これわかるなっていうのはですね、
結構思う人多いんじゃないかなと思うんですね。
このエッセイでこういう形で書けるかってなった時に、
これはもうやっぱりさすがプロの主人だなって思うのが、
これ一番最後の文章なんですけども、
多くの物語が待ち伏せしていて、
少し異なる視点を楽しむことができて、
かすかだが奇妙な残像を与える場所。
そんな場所では独特の音が入り混じった独特の空気が肌を包み込む。
感覚する器官である私たちの肉体にかすかに刻まれ、
ついには頭の中に美しい記憶となって存在するようになる。
そういう意味で、
私が友人と一緒に歩いたあの見知らぬ路地のように、
友人がこれから住むことになる街のように。
確かにわかるなあっていう、
そういった感覚を、
めちゃめちゃいい文章で表現できるっていうのが、
もうただすごいなあっていうのが、
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キム・ソヨンさんのこのエッセイの面白さの一つかなって思いますね。
この表現力というか。
わかりますね。
次、僕が紹介するのがですね、
つんどくとつんどくの対義語というですね。
なるほど。
結構これも面白い内容と思っていてですね、
本を購入してつんどくだけで読まないことを、
日本ではつんどくと呼ぶかっていうところから始まるんですけども、
これって韓国ではこういう状態のことを、
つんどくと同じような意味合いの言葉ってないのかというと、
日本ではつんどくと呼ぶかっていうところから始まるんですけども、
同じような意味合いの言葉ってないのかというと、
ちょっと気になる。
日本のつんどくというのがここで紹介されていて。
これ面白いのがキム・ソヨンさんの場合は、
なんか読んだら捨てるみたいなんですけども、
そういう読み終えた本を捨てる自分みたいな人は、
たぶんつんどくの対義語とでも言うんじゃないかというのが書かれていて、
とはいえキム・ソヨンさんも読んで全てを捨てるかというと、
そうではなくて、
読み直したときにまた違った感想を持てたりとか、
またいつかじっくり読み返したくなるような本とか、
そういう読み終えたんですけど、
読み終えたとはっきりとは言い切れないような本というのは、
保管しておくという、
そういうルールがあるみたいで、
そんな本にまつわる話をしているんですけども、
途中から、
キム・ソヨンさんが、
たくさんの本を所蔵されているんですけども、
やはり刺繍が一番多く持たれていて、
ちょっと書いてあるのが、
韓国語に翻訳された外国の刺繍はほとんど全て、
とりあえず買うことにしているというですね、
これはすごいなというふうに思います。
そうですね。
はい。
はい。
そうですね。
これはすごいなというですね、
この翻訳された刺繍をとりあえず買うという、
ということはどんだけの刺繍を持っているんだろうかというですね、
しかもさっきの話で、
捨てれない本ですね、
もう一度読み切ったとは言い切れない本って、
やっぱり刺繍は特にそれに該当するみたいなので、
もう相当の数の刺繍が家にあるんじゃないかというね、
そこからとにかくたくさん詩を買って、
あとは今までで読み切れなかった詩集が一冊あって、
それに対してのちょっとしたエピソードがあってというですね、
そんなエッセイで、
これはとにかくとんでもない数の詩に触れているんだろうなというのがですね、
このエッセイを読むとちょっと思えてですね、
これも宇佐野さん、やっぱり相当凄まじい、
詩を読んでいただいて、
とにかく、
やっぱり相当凄まじい詩に触れてきたんだなという、
感じれてという、
そこがかなり印象に残りましたね。
27:00
そうですね。
これはでも詩集に対する思いの強さがあふれていますね。
そうですね。
旅行に行った時にその国の詩集を買うっていうのも、
結構印象深いエピソードですね。
そうですね。
この寸読の反対語のね、
そうですね、寸読の対義語ですね。
対義語から始まってね、この読み終えたとはいえ、
いつかじっくり読み返したくなる本、
読み終えたが読み終えたとはっきり言い切れない本、
これめっちゃわかるなっていう、ある意味全ての本が、
自分はそうなってしまうかもしれない。
そう思いながらちょっと読んでましたね。
結構その気持ちも共感できるところがあって、
ステレオ本って全然ないので、
家では溜まっていくばっかりですけど、
ラストもいいよね、ほんとね。
これも1個のエッセイの中に、
3つぐらいかな、面白いエピソードが入っていて、
2つかな、2つのエピソードが入っていて、
なかなか展開も面白いエッセイですね。
じゃあちょっと続きましょうか。
私紹介するのはですね、61ページの場所は、
トポフィリアかな、英語なのかが書かれている。
あ、トポフィリアだ。
場所は、トポフィリアというもので、
トポフィリアという人間と場所との繋がりを探求する、
地理学者、イーフ・トワンという方が書いた、
本から取ってるっぽいんですけど、
場所と愛という意味の造語らしいですね。
場所は、っていう話があるんですけど、
これ結構面白くて、空間と場所っていうものの言葉の違い、
意味の違いっていうことをですね、
話しているエッセイになります。
ざっくり言うと、場所はですね、物語があって、
それが物語と共にある固有の名を持つ空間、
みたいなイメージですね。
場所は唯一で空間は普遍だっていう話があって、
場所は変化を経るが空間はそのままだと、
場所は破壊されないが空間は破壊されるという話があってですね、
例えば空間が壊れてしまっても、
そこに宿った物語までは消すことはできないということで、
場所というのはいつまでも健全にいられる。
戦争が起きても一つの都市が破壊されても、
再開発が進んで一つの地域がすっかり変わっても、
空間のイメージが変わるだけで、
場所は物語をしっかりと握りしめて、
永遠に命を繋いでいくという話がありまして、
その後ですね、これがなんかゼロみたいな感じなんですけど、
1,2,3,4,5,6かな、ちょっと話が続いていって、
5までぐらいかな、
具体的な場所の話があって、
それを死にかけ止めたいというような話が
繋がっていくんですけど、6が締めなんですけど、
この締めがすごく良くて、場所について、
キムソヨンさんの愛着について書かれているんですけど、
良い場所を渇望し、その場所に自分を置こうとする欲望の反対側に
自分の愛着があるという話をしていて、
良い場所じゃなくてですね、問題が多い場所、
30:00
人々の暮らしが丸見えで、洗濯物が旗のように
ひるが入っている場所に自分は愛着を持つと、
そんな場所であれば、時間を物語と受け止めることができるから、
そんなところを私は死の場所と信じたいし、
そこに住みたいと思ったという話があって、
結構深い芸術感、人生感の話に
ちょっと発展していっているなと思っていて、
すごく良いエッセイだなと思って読みました。
これはぜひいろんな人に読んでもらいたい文章だなと思いましたね。
この場所と空間の違いを
そういうふうに定義するっていうのが
ちょっと僕もかなり新鮮に読めて、
すごい良かったですね。
そうだね。俺もこの違いについて考えたことが
今まで一切なかった。
そうですね。じゃあ、
キムソヨンさんにとっての場所は何かというと、
このエッセイの中でいくつか紹介されているんですけども、
これ読むと確かに自分にとっての場所、
愛着のあるものっていうのかな、
そういう場所って何だろうって結構考えたりはしましたね。
これでもすごく感覚を更新してくれるエッセイだなと思っていて、
例えばちょっとちっちゃい話からすると、
自分が好きだった、すごく通ってたバーとか
お店が閉店してしまって、
その場所がもう違うお店になってしまうことは
何度も経験しているんだけれども、
もう無くなってしまったみたいな感覚がすごく強かった。
この場所愛の話を読んでみて照らし合わせてみると、
そこで過ごした時間とか思い出とかは
確かに無くならないもの。
やっぱりすごく捉え直すことができた。
自分が好きだった場所じゃないか、
空間が無くなってしまったということが、
空間が無くなっただけで自分が好きだった場所っていうのは
確かにあったんだっていう。
今も自分の中にあるんだっていう感覚を持ってたので、
めちゃくちゃいい文章だったな、話だったなと思って。
そうですね。
これは確かに、
本当こういうエッセイを読みたいなっていう、
思うようなまさにドンピシャのエッセイでしたね。
そうだよね。
すごい良いエッセイだよね。
確かにこれはすごい良かったです。
次がですね、「途方もなさについて」
というエッセイですね。
これは133ページに載っているんですけども、
これも刺繍に言及している内容の
エッセイになりまして、
始まりはもう本当、
木村さんが初めて出会った刺繍の話が書かれていて、
そこから私が子供の頃で大人になっていって、
詩人になっていって、
木村さんも最初は何て言うんですかね、
もう訳も分からず詩を出して、
3冊目の詩集を出した頃に
自分が詩人であるというですね、
漠然と自覚し始めたというようなことが書かれていて、
あるイベントとかに参加した時に、
33:00
自分の詩集の中でどれが一番気に入っているかと
質問されたりした時には決まって
1冊目と答えるようにしていると。
これ何でかというと未熟で荒削りで
よく分かっていなかったけれど、
だからこそ心敷かれるという風に語っていてですね、
方もないけど何でもやってみようと必死になっていた時に
書いた詩とかですね、
そこにたどり着く無垢さは私が失いたくない感覚の一つだと
書かれていて、
というので木村さんにとって1冊目の詩集というのが
すごく大事にしているし、
その時の感覚と書いていた感覚もすごく大事にされているという
そのようなことも書かれていて、
そこの言及していることはすごくいいなと思うのと、
あとそこからですね、
1冊目の詩集について、
自分が書いた1冊目だけじゃなく、
詩人にとっての1冊目の詩集についての話が展開されていて、
それと同時にですね、
最後の詩集ですね、
その詩人にとって最後の詩集というのが、
最後の詩集にはもう病の気配が染み付いている。
ところがこの病の気配は私たちのよく知る病の気配とは別物だと、
詩人の病の気配とは欲のなさをどこまでも透明に表わにするので、
最後の詩集では詩人はほとんど戦うことなく退然としている
というふうに書いていて、
木村さんは最初の詩集と1番目の詩集と共に
同じ意味を持っています。
つまり、
1つ目の詩集と1番目の詩集と共に
同じ日の、同じ午後に、
最後の詩ですね、
1人の詩人が出した最初の詩集と最後の詩集、
その隔たりというのは同じタイミングに読むと、
隔たりというのはとてつもなく果てしない、
そんなことを感じるというですね、
そのような内容のエッセイで、これもすごい良かったですね。
うん、これ確かにいいよね。
最初の詩集を出した時のこの気持ちとかね、すごくいいし。
そうですね。
確かにこの最初の詩集と最後の詩集を
合わせて読むっていうのは面白そうだなって思いましたね。
その隔たりを感じるっていうのを。
やってみたい。
これはやってみたいと思います。
特にまだ現役の詩人の方でもね、
最初の詩集と最新詩集を読み比べると大分違うかもしれないですね。
そうですね。
最後の詩集には病の気配が漂うっていう、
病の気配がするって書いてあって、
それはもしくはそれを感じ取れる、
詩人の嗅覚みたいなものがあるかもしれないですけど。
たぶん私が読んでもわからないかもしれない。
その気配に気づけるかどうかってありますけど。
でもすごく、これもなんか
いいというか深みを感じるようなやっぱり
1冊目の詩集へのやっぱり話はすごくいいんですけど、
その後ね、この最後の詩集っていうのにも触れて、
2つの隔たりを感じるっていう、
36:00
そういう話に膨らませるっていう、
そこがすごくやっぱり読んでて、
こっちもすごく満足して、
読めてっていう。
でもちょっと細かい話するとあれだからちょっと次に行きます。
じゃあちょっと私が最後紹介するのはですね、
Lか。
170ページのLという、Lってあれですね。
獲得するみたいなLですね。
手に入れるLですね。
これが結構いい話で、
最初レベッカ・ソルニットっていう方の文章が引用されてるんですけど、
人生を形作るのは公式の出来事の隙間で起きる、
予期できない事件のカツカツだし、人生に価値を与えるのは、
計算を超えた物事ではないかという文章が最初引用されていて、
この文章がですね、
自分が言いたいことが簡潔に表現されているという説明があってですね、
予期できない事件と
計算を超えた物事に向き合う準備がいつでもできていることを
願いつつ生きているという自分自身についての自覚も
この言葉によってですね、はっきりしたと書かれています。
話はちょっといろんなところに飛ぶんですが、
コロナ禍になってですね、
いろんな制約があって、自分の趣味がですね、
歩くこと、走ることみたいになっていて、
自分の歩き方について考えてみた、
観察してみた感じかなって、いろんなことに気づいたと。
そんな話があって、最後の方なんですけど、
最初に新型コロナウイルスが私たちに恐怖を
痛かせた始まりの時点を思い返してみると、
私は失ったものと同じくらいに得たものも多い。
時間を少しばかり綺麗になった空気を満喫する
1日を暮らしている街で知らなかった場所をという感じで
いろいろ続いていくんですけど、
失ってしまったものと同じくらいに
やっぱり得たものも多いんだなっていうところと、
そしてこの失ってしまったものですね、
永遠に失われたわけではなく、Uターンするように
また元の場所に戻ることもできるということも書いてあって、
もちろん元にできないものってのはあるとは思うんだけれども、
でもすでに壊れてしまったものは元通りにできないという
長年の誤解はもう消えた。元通りにできるものとして
一杯一杯作り上げなければならないのではあるが、
元に戻りたい者たちは元通りになっていくということを
きちんと休んでみてようやくわかったのだという一文で締めていて、
何だろう、ちょっと話の流れは少し
二転する部分はあるのかもしれないですけど、
人生は形作るものというところから話が始まって、
コロナで失ってしまったものだけではなくて
得てしまったものがあって、失ってしまったものも
元通りにできるかもしれないという話があって、
すごくいい文章だし、やっぱり
同じコロナを生きたんだなということを感じさせてくれる文章だったので、
それは結構感動して読んでましたね。
これもいいですよね、やっぱり。
やっぱりキム・ソヨンさんが
すごい注意深いというか、本当にいろんなところに
目を向けているんじゃないかなと思うんですけども、
コロナになってみなさんって失うもの多いと思うんですけど、
ただいろんなところに目を向けると
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今までは気づかなかったけど、
得るものってたくさんあるっていうのを教えてくれるっていうので、
こっちの心の持ちを
ちょっと前向きにさせてくれるようなエッセイで、
僕もこれはすごい好きですね。
いいよね。
最後に紹介するのが平和であれというエッセイですね。
196ページになります。
これは平和であれっていう詩があるんですけども、
それがタイトルになっています。
これも何て言うんですかね、
結構キム・ソヨンさんの近況みたいな今のことが書かれて
いつつ、
ちょっとその中で平和っていう言葉が出てきて、
ちょっと回想します。
14歳の時ですね、
国語の先生が試験で
詩を一つ暗記して、
書くようにというので。
キム・ソヨンさんがこの平和であれっていう詩を書くんですけども、
この平和であれが実はすごくシンプルで
簡単な詩なので、
先生としては全然評価していなかったと。
これはもうズルしたんじゃないかと。
キム・ソヨンさんは全然そんな気持ちじゃなくて、
ただ単にいいと思っている詩だから書いたって言うんですね。
先生はこれは点数与えるのやめようかなって思ってたけども、
ただ一晩考え直して、
やっぱりでもこれいい詩だから、
点数は上げようかみたいな、
そんな裏話が書かれていて、
ちょっと笑えるような話もあるんですけども、
ただこの平和であれっていう詩が非常に良くて、
シンプルな内容なんですけども、
ちょっと気持ちを穏やかにというか、
平和への祈りを感じるような思いになるような、
すごく良い詩です。
というので、こういった詩からも癒されるというのはありますよねということです。
ちょっと述べて、
ここからですね、僕がすごい好きなのが、
癒しとはという文章ですね。
これもちょっと終盤に書かれているんですけど、
癒しとは感情の推移や表現方法の問題ではないと思う。
内面の奥深くから擦られる、語ってはならず、
語られるはずもない内密で濃厚な告白が、
誰かの口の中でぐるぐる回るうちに、
正直な発話の瞬間が絶妙なタイミングで訪れる。
その切なが時として詩に具現される。
このような類の心の奥深いところに潜む思いは、
他の誰とも語らうことはできため、
私たちは詩を通じてその体験をし、心が安らぐ。
それゆえに想像しくても落ち着かなくても、
それをある者にとっては癒しとなるのだ。
もうちょっとここから文章続くんですけども、
この癒しとはっていうのを、
こういう説明をするっていうのは、
これもやはり詩に通じているところがあって、
心が安らぐっていう風に書いてあって、
本当読んでこれもかなり心に残ったので、
ちょっと心が温かくなるようなエッセイですね。
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そうですね、これいいですよね。
私もちょっとこれ話したかったけど、
他の3つを優先してしまいましたが、
トラストの素直な内面に基づくものであるならば、
癒せる人が必ずいるのだということを私はよく知っている。
詩人らしい良い文章だなと思って、すごい感動したな。
詩だけではないかもしれないけど、やっぱり文学とか面白いですね。
そうですね。
この平和であれっていう詩から、
この木下さんが読み取ったことというか、
感じたことでいろいろ書かれているんですけど、
最後1日2時とくらいは平和であれって書いてあったりして、
平和が維持されるランニングタイムっていうね。
これも途中までは何でしょうね。
子供時代の平和であれの試験を巡っての
ちょっと笑える話かなと思いきや、
この癒しとはあたりからも話がどんどん深くなっていって、
すごいやっぱり心に残るようなエピソードになっていったんで。
文を書けるのがやっぱすごいよね。
やっぱり他のエッセイもそうですけど、
木下さんのエッセイの中で、
展開がちょっと面白いなと思います。
全くというか、
展開が読めないところがあって、
楽観的な話かなと思いきや、
急にグッて深く育ってくるような言葉がいきなり来て、
気持ちが完全にそっちに持っていかれたりするっていう。
平和であれはほんとそんな感じですね。
うまいよね。
これはタハコの手紙になっているんですけど、
直前に入っていたりするから、
4部の締めというか、
すごくいいなと思いました。
めちゃめちゃいいエッセイだなと思いましたね。
じゃあちょっとこの程度にしていきますか。
テーマトーク、最後に話したいと思います。
今回はですね、奥歯をかみしめる時というエッセイも入っているんですが、
そのエッセイにちょっと触れていないんで、
ちょっとイメージしづらいかもしれませんが、
我々が奥歯をかみしめるときはどんなときだろうか、
という話を話してみたいと思います。
今回のこのエッセイを読んで、
やっぱり耐えるときなのかなと思ってしまったけどね。
そうですね。
耐えるときもそうだけど、あとは愛情表現。
そうね。
この話の中で出てきますけど。
何だろうな、相反する感情を自分が持ったときって、
ちょっと奥歯をかみしめている気がする。
そうですね。
愛情ではないけどさ、愛情もあってみたいな。
でもそれがうまくいかなくてみたいな。
あるだろうしね。
たかにそうです。
なんか思ったのは流されないとき。
そうだね。
周囲とノリが合わないときとかですね。
例えばみんなが笑ってるけど、
それを流されて笑うのか、
自分が面白いと思って笑うのかっていうところとかもですね。
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そういうときにあれじゃないですかね。
ちょっと奥歯をかみしめて、
これは本当に面白いんだろうか。
流されてなんていうか、
何も考えずにいるんじゃなくて、
どんな状況でも考えたり観察してたりすると、
奥歯をかみしめないといけないときがあるかもしれないというのは思います。
そうですね。
それはあるな。
流されないときは確かに奥歯をかみしめてるかもしれない。
流されないとする。
抵抗してるとき。
そうですよね。
でもやっぱり一筋縄ではいかない人生ですから、
奥歯をかみしめる意味も多分本当に一つじゃなくて。
それでちょっとだけ思ったのが、
竹村さんもすごい旅をしてるんで、
やっぱり思っても見ない状況になった。
何か電車が遅れたとかですね。
旅先でちょっとトラブルにあってめんどくさいことになったとか。
そういうときも奥歯をかみしめてるんじゃないかなと
ちょっと思ったりもしてですね。
実際はわかんないですけど。
あれですよ、僕も前実際自分で会ったのが、
仕事終わった後もう夜遅くなったんですけども、
本当タッチの差で乗りたい電車乗れなかったんです。
また10分待たないといけないというときに、
これが一昔前の自分だったら、
すごいそこでネガティブになってたかもしれないんですけども、
そのときの僕は、
いやこれはもう実はめちゃめちゃラッキーなことなんだって言うです。
ちょっと奥歯をかみしめて、
あえて持ち歩いて、
無理やりポジティブになって、
普段は読まない電子書籍で買ったけど、
つんどくにしていた本をこの10分の間で、
ちょっと触りだけ読んでみようという、
その時間にできるから、
これは実はすごくラッキーな時間なんだって言い聞かせて
ということがあったんですね。
電車乗り損したときですかね。
電車乗り損したときですかね。
最近だと。
確かにグッとね、ちょっと歯を一回力入れて、
変換するときがあります。
確かにな、ポジティブに考えないとなっていうときはあるな。
なんかこう一個スイッチングするんすかもしれないですね。
こんなとこにしちゃいましょうか。
では最後、感想をちょっと言っていきたいと思います。
さて、エッセイ2週連続で紹介して思ったんですけども、
思ったより話すこと多くてびっくりしました。
なんかね、話したいことか。
そうですね、しかも前のハンガーさんですね、
今回の生きる素肌さんにしても、
たくさんエッセイが収録されてたんで、
すごく良かったなっていうエッセイでも、
全然話せてないものがいっぱいあるんで、
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エッセイ紹介するのはちょっと難しいなって思いましたね。
なんか小説以上に。
もうめちゃめちゃ話したいことすげえ多かったもんな。
逆島で橋つく話とかもちょっとしたかったし、
いい話すごく多かったな。
なかなかちょっとあれですね、
エッセイ話すの危険ですよね。
そうですね、確かに。
お父さん無能の人って言われてるんですけど、
そんなことないだろうって思うようなエッセイとかね、
これとかすごい喋りたかったんですけども。
ちょっとやっぱり話し足りない部分はあるなというところですね。
仕方ないですね。
エッセイから得るものはめちゃめちゃあるなっていうのは感じましたね。
そうですね、間違いないですね。
ワンガンさん、キムスワンさん、
この2人が単純にすごいっていうのは絶対あると思うんですけど、
やっぱりエッセイにその作家さんのいろんな生きてきた人生とか、
考えてることとか、
そういうのがダイレクトに読めるんで、
これはやっぱりあれですね、
創作とかしてる人とかも、
読むとかなり刺激になるんじゃないかなと思いました。
ですね、これはすごいな。
やっぱちょっと自分も、普段は、
ちょっと分かんないけど、
こういうエッセイ書いてみたいなって思っちゃいましたけど、
この文章力と発想力と着眼点と、
全然足りてないと思うんで、
でもちょっとね、
心から始まる部分もあるかもしれないから、
ちょっと2024年はエッセイっぽい文章を書いていきたいなと思いました。
そうですね。
本当にいいと思いますね。
キムスワンさんに関しては、
一文字の時点の時にすごい人だなと思いましたけど、
このエッセイを読んで、やっぱりもう凄まじい人だなって思ったので、
確かにそうですね。
尊敬の念の込めて、
エッセイとか書いてみたくなりますね。
そうだよね。そんなところで、
多分結構読みたくなった人もいるんじゃないかなと思うので。
読んだら多分何か書きたくなると思いますね。
そうだね。
次回はですね、番外編お便り紹介会をやらせていただきます。
ぜひお楽しみに。
1月12日までかな、お便りをお話ししていきたいと思いますので、
お楽しみに。
それでは最後にありますが、メルマ会員募集しております。
こちらですね、無料版有料版でございます。
詳しいことは番組概要欄をご覧ください。
そして番組の完成のリクエスト、またこのラジオを聞いて紹介された本を読みました。
お迎えしましたのでございましたら、
ハッシュタグそのとみねこたちをつけて教えていただけると大変嬉しいです。
Xやインスタの投稿などでお待ちしております。
お便り本も番組の方から載せております。
来週以降もまたお便り紹介していきますので、ぜひぜひお寄せください。
この番組気に入ってきましたら積極的に拡散寄与してあげると助かります。
ではまた来週。
ありがとうございました。