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はい、おはようございます。本日の放送は、2022年の10月5日、水曜日です。
本日は、第220回目のお話となりまーす。
このチャンネルは、福島県郡山市在住の特撮アニメ漫画大好き、
親父のピョン吉が響きになったことをだらだらとなしをしていくという番組です。
そんな親父の独り言を聞きなりまして、もしもあたの心に何かが残ってしまったら、ごめんなさい。
俺、言わなかったんです。
この番組に興味を持ってしまったら、ぜひ今後もご引きのほどよろしくお願いいたします。
今日、10月5日はですね、実はダイヤモンドアイの放送開始日なんですよ。
また、明日10月6日はですね、レインボーマンの放送開始日なんですよ。
これにね、コンドールマンもね、くればね、川内広範さんの新三部作なんですけどね。
コンドールマンはですね、残念ながら3月に放送開始だったんですね。
古い特撮不安以外の人はね、なんのこっちゃーと思うかもしれませんね。
50年代後半から60年代にかけてですね、月光仮面、七色仮面、アラーの使者
っていうね、特撮のヒーローがあるんですよ。
そして70年代になりましてね、レインボーマン、ダイヤモンドアイ、コンドールマンっていうね、ヒーローがいるんですよ。
そのね、ヒーローを生み出したのが川内広範さんっていう方なんですね。
日本のね、テレビっていうね、特撮ヒーローを生み出した創始者の方なんですよ。
もちろんですね、川内広範さんというとですね、作詞家としても有名でしたね。
おふくろさんだとかね、骨まで愛してやとかね、伊勢崎町ブルーサとかね、数々な名曲を作詞した方でもあります。
その川内広範さんなんですがね、1920年の前でね、
で、小学校卒業もですね、様々な職業を転々としてね、
そして映画会社でね、大ドームだった兄を辿ってですね、上京するんですね。
そして新聞配達しながら、独学で文学の修行を重ねてですね、
そして日活でビリヤード上に就職するんです。
そして人脈を広げていって、どうにか日活のですね、撮影場に入社するんですね。
そして1941年になりまして、東宝の演劇部へ入社するんです。
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そこでですね、撮影所の脚本部へ転属になりまして、特撮とかね、人形劇の担当するんなんですね。
その方はですね、舞台の脚本なども出品していたんですね。
というわけで、その東宝時代なんですかね、人形劇映画ラーマヤナという作品の脚本を出品するんです。
人形劇、マリオネットにね、興味を持っているっていうのをね、顔内広範さん思われてしまいましたね。
そしてそれで、なんとそれがですね、津波英二監督の耳に入ってですね、制作することになっちゃったんですね。
というわけで、17分ほどの作品ですよね。
もしかしたら津波英二監督がね、撮影したんじゃないかというふうな、その人形劇のフィルムが残っております。
現在ですね、この作品がね、YouTubeで見ることができるんですよね。
見てみますね。確かにですね、素晴らしい特撮部分だしね、津波英二監督が作ったっぽいんですよね。
これが確実にですね、津波英二監督の作品となればですね、これはすごいことですよね。
だって、映画の特撮、ゴジラのね、津波英二監督と、それからテイビーの特撮、月光仮面の2人の創始者がですね、一緒にやっていたってことになるからですね。
どうにかそれは見つからないかなと思ってるんですけどね、証拠がね。
ところがですね、その撮影の時にですね、広範さんはですね、招集礼状を受けちゃうんですね。
というわけで、横浜の海兵団に入団するわけになってしまうんですね。
そこからですね、ウィキペディアではですね、映画やテイビーで活躍するまでのね、約14年ぐらいスポット抜けているんですね。
ウィキペディアにね、書かれていないんですが、実はですね、いわき市でね、疎開していてね、そこで文芸活動をしていて、そして福島のね、文学賞に応募していたんですね。
そして、福島県文学賞第1回受賞作を受賞するんですよ。作品名はね、天中堅雲月っていう作品です。
本名はね、川内清志っていう名前でね、書かれています。
しかしね、その受賞がね、発表された時はですね、実はもう大阪に行っていたっていう話なんですね。
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実はですね、福島県と特撮の繋がると初めて知ってね、すごい面白いと思ったんだね。
っていうので、今ね、いろんな福島県との繋がりで喋っているのは、それがきっかけだったんですね。
月光仮面の作者がね、湯脇市にいてね、文学賞を取っていた。これ面白い話でしょ?って思ったんだね。
っていうので、それからずるずるといろんなことを調べるようになっちゃったんですね。
その不明な14年間ですけども、詳しいことはね、もう広範さんが2008年に亡くなってしまったんでね、もう分からないだろうなっていう風に諦めていたんですよ。
ところがですね、その間後ろに人がね、現れたんですね。
広範さんの実の息子さんです。そのね、記事がですね、2020年の9月にですね、毎日新聞に載ったんですね。
広範さんがね、湯脇市に来たのは実はね、戦後ではないらしいんですね。戦中だそうです。
廃室館でですね、青森の療養所にいたんですがね、そちらの方を除退になったと。
というわけで、湯本のね、有名な旅館の新滝を頼ってね、こちらの方に来たんだそうですね。
どういう伝えなのかちょっと分かりませんけどね。
そして1943年にですね、海軍時代の時にね、胃紋袋っていうのを送ってくれたっていうね、女性の人のところにね、家にね、訪れるんですね。
というので、胃紋袋に書かれていた住所を頼って、その家に行きまして、そしてその女性と出会ったと。
ところがですね、その女性のね、姉の方とね、恋愛関係となっちゃうんですね。
そして結婚したと。
湯脇のね、駅の北口。
そしてそこの丹後沢っていう公園にあったですね、棒友屋。
そちらの方に住んでね、子供も生まれたそうなんですね。
そして湯脇は第二の郷土と呼んでですね、湯脇市でね、文芸活動をやっていたそうなんですよ。
で、そこでね、福島の文学省の方に応募したんでしょうね。
ですが、何があったか分かりませんけども、大阪の方のね、岸和田の方に移動されたそうなんですね。
そして1952年にですね、離婚ということで、息子さんと別れる形になってしまうんですね。
で、河内広範さんはね、先ほど言ったように非常に有名な作詞家だとかね、脚本家とかなった後ですが、その間のことはね、ほとんど答えることはなかったそうなんですね。
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その後はですね、新東方の脚本で1955年から活躍するんですね。
森重久弥さんとかね、柳屋錦吾郎さんのね、コミュニティ映画などでね、脚本を書いて人気者になっていくんですね。
そして2年後のね、1957年にですね、日本初のね、テレビ映画、ポンポコ物語っていうね、子供向けの時代影響で脚本をするんですね。
そしてその翌年に月光仮面を出して大ヒットすると。
で、以降は様々な特撮作品とかに携わっていくわけですね。
そしてご存知の通り、漫画日本昔話なども作りますし、最後の方ではね、ドリームグだなんてね、アニメなども作っておりました。
いうわけでね、京都の歴史を調べている人たちの間ではですね、月光仮面の物語っていうのはね、
自分の都合によってね、別れた、愛らなくなってしまった息子への贈り物ではなかったのかなという風に言っているそうなんですね。
なるほど、確かにそのような面があるかもしれませんね。
でも、愛らなくなった息子にですね、自分の顔を出さないでね、憎むな、殺すな、許しましょうと言っている月光仮面というのはね、なんか月光仮面のイメージがね、変わってしまいますよね。
ちょっとね、ちょっと情けない感じもするような感じもしますね。
はい、それではまた次回ですね。よろしくペンキスの大人の話をお付き合いくださいね。本日もお聞きくださいまして、誠にありがとうございました。