1. 口は背中よりモノを言う。
  2. #78 愛を語る漫画で溺れかけて..
2025-01-30 54:10

#78 愛を語る漫画で溺れかけている男。

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紹介なんだか考察なんだか、なんだか良くわからない内容になってしまいました。

本当に、文字通りに溺れそうな感じでした。なんだったんだろう。ちゃんと吐き出したら楽になりました。なんだったんだろう。


▼違国日記 ヤマシタトモコ/『違国日記』特設サイト

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サマリー

このエピソードでは、漫画『異国日記』について語られています。この作品は、喪失を経験した若い女の子と彼女を引き取ったおばが、愛を理解し築いていく過程を描いており、愛の本質や人とのつながりについて考えさせられます。アサちゃんが両親を亡くした後の孤独や、マキオの言葉や行動が彼女に与える影響について深く掘り下げられています。また、エミリーとの関係を通じて、愛や支えの重要性、そしてLGBTQの人々が抱えるカミングアウトの難しさについても語られています。マキオとアサちゃんの関係を通じて、愛情表現や孤独、傷つくことの重要性が議論されています。特に、言葉だけでなく行動によっても愛を伝えることの難しさが強調され、マキオがアサちゃんに向ける深い思いやりが描かれています。愛を語る漫画に関する深い考察を通じて、愛情表現の重要性とその多様性について語られています。

漫画『異国日記』の紹介
こんにちは、こんばんは、おはようございます。カフェインよわおです。
皆様、異国日記という漫画をご存知でしょうか。
つい1、2週間ぐらい前から、僕、ユーネクストという動画とか、本とかが読めるサブサービスにね、子供たちに見せる目的で登録をしてるんですけど、
それの1日何話分まで漫画が無料で読めますよ、みたいなサービスがあって、そこにこの異国日記という漫画が出てきたんですね。
で、数年前にユトタワとかでも話題に上がっていたのを思い出して読んでみたらですね、
もうなんか、すごいこう、多くのものを受け取ってしまって、この漫画から、なんか、
昨日の深夜に読み終わって、で、今日1日子供たちと過ごして、また夜なんですけど、なんかずっとこう、
なんていうのかな、受け取ったものによってちょっとこう、喉の付け根あたりの苦しさとか、なんかね、ちょっとこう溺れそうな感じだったんです。
表現が難しいんだけれど、そうなので、これはちょっと外にどうにか吐き出せねばならないと思って、今こうしてマイクに向かっております。
えー、イキペディアの概要を読みますね。
異国日記は山下智子さんという漫画家の方によって作られた日本の漫画作品であると。
単行本全11巻、累計販売数は170万部。すごいですね。
すでに完結している作品ですね。2023年7月で完結したと。
人見知りな35歳の小説家の女性、後代牧雄と、両親が亡くなり牧雄に引き取られた15歳の名医、匠朝。
なかなか理解し合えない思いを抱えながらも、まっすぐに向き合い、次第にかけがえのない関係となっていく姿が描かれるというふうなあらすじとなっております。
ここからガンガンネタバレを含んだ話を僕はするので、もしこの漫画読もうと思って気になってたけどまだ読んでないんだという風な方がいらっしゃったら、ここで引き返すことをお勧めします。
言うても1年半ぐらいね、完結してから経ってるんで、あのちょっとそこらへんは僕はもう気にせずガンガン出していこうと思いますので。
はい、もう少し突っ込んだあらすじまで、一応先にお話をすると、
15歳中学3年生の朝ちゃんのご両親が交通事故で亡くなられてしまうと、で、亡くなられてしまって、朝ちゃんのご両親がどうやら咳を入れていなかったらしいという風なことが葬式の場で話題になって、
で、朝ちゃんがいる中でその両親に関係した無神経な言葉であったりとか、残された朝ちゃんに対するそんな話子供に聞かせんなよみたいなこう話とかが飛び交っていたと。
登場人物の関係性
で、その様子を見ていたもう一人の信仰、牧雄さん。牧雄さんは朝ちゃんのお母さんの妹である。
だから朝ちゃんにとっておばにあたる人だと。で、このおばの牧雄さんが無神経な話をする親族を一括して朝ちゃんを引き取ることになりました。
というところからこう話が始まるわけですね。で、朝ちゃんは何と言いますか、こう非常にこの15歳、16歳、中学生、高校生らしい子供と言えばいいのかなぁ。
表現が適切かどうかはちょっとわからないけれど、こういうふうにうちの子供が育ってくれたらとても安心して見ていられるんだろうなというふうな感じの性格をしているんですよね。
で、それに対してその朝ちゃんを引き取った牧雄さんはかなり不器用な人なんですね。
人見知りで人付き合いがあまりこう得意ではなくて、できることなら家の中に他人を入れたくない、知らない人を入れたくない、電話を取るのも疲れる、メールをするのも疲れる。
そんな2人が急に一緒に生活することになるので、なかなかうまくいかなくて、なかなかうまくいかないんだけど、牧雄さんは牧雄さんなりに小説家をして生計を立てられているような方なんですけど、
言葉を駆使してどうしたら朝ちゃんが両親を亡くしてこれからの人生をそんな中でもたくましく生き抜いていけるだろうかというのを、とにかく言葉を尽くして不器用ながらもどうにかこうにか伝えようとする。
朝ちゃんはその牧雄さんが難しい言葉をやたらめたら使うもんだから、ちょっと何言ってるかわかんないよって言って、まあその話を聞き入れたり聞き入れなかったりする。
2人の生活はどうなっていくのだろうか、てんてんてんという感じの話なのかな。かいつまんでまとめるとね。
僕はあの、この異国日記という漫画を読んで思ったのはですね、この漫画は愛とは何ぞやということを投げかけてくれている漫画だなというふうに思ったんです。
朝ちゃんが両親を事故で亡くされて、当然ながらそれはものすごく朝ちゃんにとっては大きな出来事で、それを朝ちゃん自身が噛み砕いて消化するのにもとてつもない時間がかかるし、とてつもないストレスがかかるし、
また、ご両親を亡くした子というふうな、ある意味色眼鏡で他の人から見られることによって、本当の朝ちゃん自身を知っている人がどこにいて、朝ちゃんにある意味無償の愛を注いでくれるであろう人が失われてしまったわけですよね。
で、そういう状態の中で、おばである牧尾さんに朝ちゃんが引き取られるわけですけど、牧尾さんが朝ちゃんを引き取るときに、あなたを愛せるかどうかはわからないって言うんですよね。
それってその捉えようによってはさ、かなり残酷な言葉というか、無償の愛を注いでくれる人がいなくなった。で、おばに引き取られた。ただし、おばは私を愛せるかどうかわからないと言っている。
じゃあ誰が私を愛してくれるの?みたいな状況に朝ちゃんはなるわけですね。
だから、そこからさらに話が進んでいって、朝ちゃんが果たして私は母に愛されていたのだろうか?父に愛されていたのだろうか?とか、まだ朝ちゃんはそれこそその中学生、高校生ぐらいなので、いわゆる性愛と地愛みたいなものをまだうまく区別できてないような描写がよく出てくるんです。
だから、自分が誰も好きにならねないから誰も私を愛してくれないのかもしれないとか、いわゆる恋人に対して向ける好きの延長線上にその愛する愛さないがあるのではないかみたいな、なんかそういう風な思考回路を描かれているように僕は受け取ったんですね。
なので、かなり終盤までずっと私は誰にも愛されていない、私を愛してくれる人はいないし、私も誰を愛することもできないみたいな、そんな感じの気持ちを抱えながら、それでもそれなりに学生生活を楽しみながら過ごすという風な描写がある。
ただ、マキオさん側の視点から今度同じ、その私はあなたを愛せるかどうかわからないっていう風な話を見ると、かなりこう誠実な言葉選びをしているというか、実際わかんないっすよね。
急に誰かそれぐらいの学生の子供を引き取ってその子を愛せるかどうかなんて。
実際この物語上では、おそらく朝ちゃんのご両親が亡くなった時に病院に駆けつけた時が初対面で、その翌日に葬儀があって朝ちゃんのことを私が引き取るということをマキオさんが決断されるわけですけど、ほぼ赤の他人ですよ、言うたら。
しかもそのマキオさんと朝ちゃんの母親、マキオさんの姉はあまり関係性がよろしくない。何なら相当嫌っているマキオさん側から。
なので嫌いだった姉の子供をそもそも愛せるかどうかもわからないし、自分は人見知りだし不器用だし、本当は自分の家に他の人が入るなんて耐えられないけど、
でも目の前のこの子は助けあげてあげなければならないという使命感のもとに朝ちゃんを引き取っている。
実際にはこのあなたを愛せるかどうかわからないのセリフの前後に、あなたを愛せるかどうかわからないけれども、私は決してあなたを踏みにじらない。
愛の本質についての考察
あなたの寝床はここにある。部屋は汚いし、私はだいたい不機嫌だけれども、あなたを愛せるかどうかわからないけれども、少なくともあなたは今ここにいていいから。
この私の家に帰ってきていいからという言葉なんですよね。全体を見ると。
だからあなたに愛情を注げるかどうかはともかくとしても、少なくともここにあなたの異色自由が保障されている環境は私は作るし、私はあなたの尊厳を傷つけるようなことはしない。
ってさ、もう愛じゃん。それって。
嫌いな姉の子供をさ、急に引き取って、異色自由は保障する。私はあなたを踏みにじらないし、あなたに何をせよとも言わない。
ただ、あなたがここに帰ってきたいんだったら、いつでも帰ってきていい。愛じゃん。
で、外から見ていると、すごく思うんだよな。
で、そこからね、実際に2人の共同生活が始まって、朝ちゃんはしばらく生活はしているけれども、なんとなく地に足がついていない状態が続くわけです。
そりゃそうだよねって感じなんですけどね。親をなくしているから。なんだけど、親をなくすとはどういうことなのかっていうふうなことを朝ちゃんが自分自身の中で噛み砕くのに、話の中でも結構な話数がかかるんですね。
自然と、話の端々に、お母さんもそういうこと言ってたとか、お母さんならなんて言ったかなとか、そういうふうなことが人と話している間に朝ちゃんの思考として、所々ちょいちょい出てくるわけ。
で、それを経て、なんであいつら死んじゃったのっていう、今度怒りのフェーズになるんですね。他の子には親がいて、親はいろんな形で子供たちに対して関わってくれている。
でも私にはもう親がいない。なんで?なんであいつら私を置いて死んじゃったの?っていうふうな思考のフェーズが、さらにそこにこう数は入って、苛立ちとか孤独とか、いろんな諸々からマキオに当たり散らしたりとか、学校をサボってみたいとか、いろんな諸々を経た上で、
夜中に一人寝つけず、マキオが書いた小説を読み、孤独を表現した文章を読み、今までその朝の頭の中にあった、なんで私はこう空っぽなんだろう?なんで今私は一人でどうしたらよくて、誰が助けてくれるんだろう?
ようやくその今まで溜め込んでたいろんな感情が、このマキオが書いた文章によって、うまく朝ちゃんの中で消化ができるようになるんですよね。
消化ができるようになるというか、ああ、孤独って、私が感じていた孤独っていうのはこういうことだったんだっていうふうなことを、うまく気持ちの中に落とし込めるようになったんだと思うんですよね。
それを読んだ朝ちゃんの独白というのかな、心情を書いた文章が横に添えられてるんですけど、彼女はなぜ、なぜ誰もなくしたことがないのにこんなものを書くのだろう?こんなものを書くのになぜ私を真に理解しないのだろう?
なぜ私の欲しい嘘を知っているのに、たとえその場しのぎでも消してくれないのだろう?なぜ?って言って朝ちゃんが泣き出す。
マキオがそこに駆けつけて、お父さんとお母さん死んじゃったって朝ちゃんが泣きながら言う。このシーン、このシーンで聞いてくれよ。このシーンでさ、その、ニューネクストのね、無料でここまで読めますが、ちょうど切れたの。
次は明日読んでくださいになったわけ。待てないよ、そんなの。ってなって、あの天使書籍です。その後もう全巻購入したんですけど。もうつらくてつらくて。
マキオはその、人見知りで不器用で孤独で、ある意味そうやってこう孤独を生き抜く術、孤独を生き抜くのにこう助けてくれる言葉みたいなものはめちゃくちゃいっぱい知ってるし、それをこう朝ちゃんに与えることもできるわけです。
で実際問題、それでそうやってこうマキオから得た言葉によって朝ちゃんが助けられている場面もいっぱい描かれるんですね。あなたの感情はあなたのもので、他の誰が決めるものでもないみたいな。
孤独と愛の探求
そういう言葉が誰かから両親をなくすなんて可哀想って言われても、私は自分のことを可哀想って思ってないから可哀想ではないのだって思って平静を保ったりとか、そういうシーンがちょくちょく出てくるんですね。
だから確実にそのマキオが朝ちゃんに与えている言葉とか行動っていうのは、朝ちゃんが両親がいない孤独を生き抜く上で役には立っている、役には立っているんだけど、でも朝ちゃんが今欲しいのってそういうものじゃないんですよね。
朝ちゃんはその一人で生き抜ける力が欲しいのではなくて、両親がなくなってしまった、無償の愛を注いでくれる人がいなくなってしまった、自分は誰からも一番に大事にされない、誰かにあなたが一番大事だよって言ってほしい、あなたのことを大事にしているよ、心配しているよ、愛しているよって言ってほしい。
この寂しくて孤独な状態を誰かに何とかしてほしいなんですよね。ここに至るまで。自分でその孤独な砂漠を生き抜ける力が欲しいんじゃなくて、誰かにその孤独な砂漠を一緒に歩いてほしいとか、誰かがこの孤独な砂漠にオアシスを作ってほしいとか、多分そういう風な感情なんだろうなぁと思うんです。
だからもう絶対に交わらないんだよ、そこの2つは。そこがもう絶対に交わらないのはすごくよくわかるんだけれど、でもマキオさんがそういう口先だけのフレーズをアサちゃんに吐かない気持ちもとてもよくわかるし、
アサちゃんが、私はそういうのが欲しいんじゃないんだよって思うのももうすごくわかるし、
超つらかったんだよなぁ、ほんとなんかこのシーンを読んだ時。この異国日記という漫画はさ、
1ページあたりの文章量もそこまで多くないし、セリフもそこまで長ゼリフ喋んないと思うんですね。
ちょっと比較対象が極端だけど、例えばそのハンター×ハンターとかに比べると、ハンター×ハンターの最新刊回りの文章量まじえげつないことになってるんですけど、
なんかハンター×ハンターとかデスノートとかそういうのに比べると、文章で書かれている情報量自体はそんなに多くないんですよ、ずっとね。
なんだけど、1つのセリフに込められている情報量と、このお父さんとお母さん死んじゃったって言っているアサちゃんの表情から読み取れる情報量と、
それを見ているマキオさんの表情の情報量と、すごい多いんだよな、なんだか。すごい不思議なんですけど。
だから、僕結構あの漫画パッパパッパ先を先が気になるからどんどん読み進めたいっていう風なタイプの人なんですけど、
すごいね、1ページ1ページをめくるのに時間がかかったんですよね。
今その、第5巻171ページのそのアサちゃんが泣いているシーンを開いているんですけれど、
本当にこう、文字通りページをめくる手が止まって、動けなくなってしまったんだよな、このページ。
結構その後にも、あの似たようなね、一気にこう読み進めるスピードが遅くなって、手が止まってしまうシーンというのが、
いくつもいくつもあったんですけど、僕あの、アサちゃんの親友であるエミリーちゃんの話がね、なんかこうかなり深く突き刺さってしまったんですけど、
このエミリーちゃんというのは、アサちゃんの小学生からの知り合いなんですけど、
そのアサちゃんが両親が亡くなったっていう時に、一番最初に連絡したのもエミリーちゃんだし、その後なんやかんやってちょっと1回喧嘩をするんだけれども、そこからアサちゃんとの関係が変わってしまったんですよね。
マキオとアサちゃんが暮らしている家にもよく来るし、あの外にも遊びに行くし、エミリーちゃんの母親とマキオさんとの関係が変わってしまったんですよね。
なんやかんやってちょっと1回喧嘩をするんだけれども、そこから持ち直して、かなりの回数物語の中にも登場する。
マキオとアサちゃんが暮らしている家にもよく来るし、あの外にも遊びに行くし、エミリーちゃんの母親とマキオさんの間もなんかいい関係性になるし、というかなり重要なキャラクターだと思っているのですが、
エミリーちゃんがさ、エミリーちゃんの彼女と話している時にね、まあエミリーちゃんは同性愛者なんですけれど、エミリーちゃんの彼女と話していて、LINEが来るんですね、アサちゃんから。
で、それをきっかけに彼女ともアサちゃんの話になるんです。
その幼馴染からだ、前に話した、親が死んじゃった子だと。
で、エミリーちゃん自身はアサちゃんの両親とは交流があったし、仲良くしていたし、アサちゃんから親が事故で死んじゃったどうしようっていうLINEが来た時に、
エミリーちゃん自身もショックだった。
けど、同時に、もう絶対友達ラメらんないじゃんって思っちゃった。
辞めるつもりもなかったんだけど、でも思っちゃった。
というセリフをね、言うんですよ。
そーだよなぁ。
確かに。
ここまでこのエミリーちゃんというキャラクターは大体そのアサちゃんとセットで描かれていて、そのエミリーちゃん自身の気持ちを、
なんだ、そのアサちゃんと喋っている時のエミリーちゃんの気持ちがちょっとこう描かれることはあったんですけど、
そのアサちゃんがいない場でエミリーちゃんがこういう風な話をする場っていうのはここまで全然出てこなかったんですね。
で、なので、ずっと両親がなくなったとしても変わらず関わってくれる、
とてもこう、アサちゃんにとってもエミリーちゃんにとってもお互いが大事な存在だなっていう風な感じで、
このセリフが来るまでずっと読んでたんですけど、
もう絶対友達やめらんないじゃんって思っちゃった。
で、そりゃ思う、そりゃ思うよな確かになーって、なんか全然ない視点だったんですよね。
それこその、アサちゃんがいかに両親をなくしたショックから立ち直っていくか、
そこで立ち直りながらもアサちゃんとマキオさんがどうやって関係性を深めていくのかみたいな、
そっちの方にこう意識がずっと向けられていたので、
そうか、自分がエミリーちゃんと同じ立場になったとしても、
確かになんていうのかな、ちょっとこう寄りかかられる覚悟を急に迫られるだろうなって思ったんですよね。
ある意味そのマキオさんは自ら寄りかかられる立場に志願したというか、
もういろんなことは起きるし、いろいろ辛いこともあるし、私にはできないこともたくさんあるけど、
でも少なくとも一食十はちゃんと提供してあげるし、あなたの帰る場所をここにしていいよっていうふうなことで、
マキオさんは自らの意思でそのアサちゃんを助けようっていうふうに踏み切ってるけれど、
エミリーちゃんだけはこの物語に出てくるキャラクターの中でそうじゃないんですよね。
アサちゃんからエミリーちゃんに助けを求めて、アサちゃんにとって寄りかかりどころになることを、
悪く言えば強制された立場なんだよな、多分な。
LGBTQの視点
だから急に両親を失った友人から連絡が来て、どうしようって言われるって、
どう、私がどうしようだけどみたいな感じになるよね。
15、6ですよとかですよ、年齢的には。
そりゃあ、それはもちろん言われた方にもショックがあるよな。
確かにな。
ってなって手が止まった、このページ。
第6巻、145ページなんですけどね。
で、ちょうどここら辺の話をしている段階では、
まだエミリーちゃんは自分が同性愛者であるということはアサちゃんに言ってないんですね。
で、そのアサちゃんのそういうこう、相手がLGBTQである可能性は全く度外視した会話に対して、
ちょっとエミリーちゃんが腹を立てているような描写も何回か出てくるんですけど、
エミリーちゃんがアサちゃんにカミングアウトするシーンも、
なんか、めちゃくちゃ重くて、
重いっていうのは物語的に重いっていうよりは、僕へのダメージとしてね、とても重くて。
LGBTQの人が性的指向や性自認を周囲に打ち明けることをカミングアウトと呼ぶらしいですけれども、
カミングアウトはこんなにも難しいことなんだっていうのをね、
頭ではわかってたんだけど、こういうことなんだなっていうのをすごく気づかされたんですよね。
その、それこそ小学校からずっと仲良くしてきた幼馴染なわけですよ、アサちゃんとエミリーちゃんはね。
で、そのエミリーちゃんが今女の子と付き合っているんだっていうふうなことを明かすわけです、アサちゃんに対して。
で、それを受けたアサちゃんの反応が、
え、あ、あ、え、あ、うん、あ、そう、うん、そう、うん、なんだ、あ、応援するよ。
え、だって別に私はいいと思うよ、そういうの友達に言うとかちょっと自慢っぽいかも。
もうなんか的確にこう、地雷を踏み抜いていっているというかさ、
その応援されたいとか、自慢されたいとか、なんだ、こう特別視してほしいっていうことではないんですよね。
カミングアウトという行為は。
で、ずっとそのアサちゃんから、彼氏ができたら最初に言おうねみたいなこう約束を一方的に交わされるたびにちょっと心が傷ついていたりとか、
いろこいざたの話が出るたびにちょっと話を逸らさなければならなかったりとか、
親から結婚についての話を出されたりとか、
そういう諸々があるたびに少しずつ、少しずつ少しずつこうエミリーちゃんも傷ついていって、
私はただ私でいたい、なりたい私になりたいだけ、というねセリフをエミリーちゃんが言うんですけど、
なんというか、こう、当事者からすればさ、そのLGBTQプラスというふうな、一応のなんと言いますか、くくりを与えられている、そのくくりに入れ込められている当事者からすればさ、
ただ異性を好きになったんじゃなくて同性を好きになっただけ。
なのに、私は女の子を好きなんだよねって言ったら、応援するよとか、自慢っぽいかもとか、
それって私がタイプってこと?とか、そういうふうな余計な言葉をいっぱい向けられなければならないんだろうっていう、
そういう考えに、そういう気持ちになるよなと思ったんです。
なんとなくこれまでのね、あの頭の意識の中では、こういう物事を打ち明けること、打ち明け、
まあ仮に自分が打ち明けられたとして、特別なこと、特殊なことを受け入れる、そうなんだと思う。
前も似たような話をしたような気がするんだけど、なんか若干のこう、上から目線というか、その枠から外れているものを、
ああそういうこともあるのねっていうふうに飲み込むみたいな、なんとなくこうそんなイメージを抱いてしまっていたんだけれど、
当事者としては別にそういうことをしてほしいわけではないんだろうなって、このシーンを読んで思ったんですよね。
別にあなたに何かをしてほしいわけではない。別にあなたにこういう諸々の気持ちを受け入れてほしいとも思ってないし、
うーん、こういう状態にある私を守ってほしいとか、そういう諸々も思ってない。
ただ、例えば朝ちゃんと仮に恋話をするときに、彼氏ができたら報告しようねっていうのと同じぐらいのテンションで、彼女ができたら報告しようねって言えるようになりたいし、
LGBTQ+とカミングアウトの感情
お母さんに自分の彼氏を紹介するのと同じぐらいのテンションで、自分の彼女を紹介できるようになりたいし、
そういうふうな行為をしたい自分でありたいという願いみたいなものが、LGBTQプラスの方々のカミングアウトには込められているんだなぁ、
というこういろんな感情が渦巻いて、手が止まりました。再び。
第8巻、51ページ。
そういうことかぁ、と思ってね。いやもうそういうことでもないんだと思うんだよ。
言ったらさ、それこそ漫画だし、僕がこの文章とか絵を見て読み取れる情報量なんてさ、
当事者の方々からしたらね、もう本当にスズメの涙のような情報量しかないと思うから、
でも、なんか、ちょうどさ、タイミング的にね、
第2次トランプ政権が発足してさ、アメリカでは男女の2つの性別しかないというふうな論を出してさ、
どれだけの人が、あれによって心の底から絶望して悲しみを抱えるんだろうなぁ、ということをね、
ちょっとタイミング的にもすごく思わされてしまいました。
で、ちょっともうなんか、言い出したらキリがないぐらいに、いまだにいろんな感情で溢れ返っているので、
最後にちょっとラスト近辺にだけ触れておこうかなと思うんですけれど、
最終巻、第11巻に入ってから、マキオさんがちょっと今までとは違った歩み寄りを朝ちゃんに対してしようとするんですよね。
これまでもずっとその、多少朝ちゃんとの関係性は柔らかくはなっているし仲良くはなっているものの、
孤独を生き抜くための力を言葉によって与えようみたいな関わり方はずっと一貫して続いているわけです、マキオさんは。
で、そこから朝ちゃんが受験シーズンに入ったとか、いろいろなことを乗り越えていって、
もっと何か朝ちゃんに対してしてやれないだろうか。
でも私なんかがそれをしていいのだろうか、それをしたことによって衝突してしまうのではないだろうかとか、こういろんなことを考えるようになるんですよね。
で、マキオさんが選んだ術というのが、生命保険に入って、その生命保険の保険金の受け取り人を朝ちゃんにする、
という手段なんですよね。
で、それが朝ちゃんにバレて、朝ちゃんがとても傷つくんですけど、
そのシーンに対してもとてもこう思うことがいっぱいあるんだけどさ、
で、めちゃくちゃ後悔するんですよね、マキオさんも。
そりゃ、両親を亡くして一人になって孤独を感じていた子が、自分を引き取ってくれて、とても良くしてくれて仲良くなってきたおばから、
私先に死ぬから、でも私が死んでもあなたにはお金が入るから大丈夫だからって言われても、
そういうことじゃないじゃん。
そういうことじゃないじゃんって、そりゃ思うよね。
で、超後悔するんですよね、マキオさんも。
この生命保険回りの話からしばらくして、
私すぐじゃないけど大学入ったら一人暮らしするかも。
で、ぽつって朝ちゃんから、マキオちゃんが言われるシーンがあるんですね。
で、これはそのタイミング的にはさ、別に何も間違ってなくて、
ただゆくゆくそういう風なこともあるかもしんないけど、どう思う?ぐらいな朝ちゃんからの投げかけだと思うんですけど、
マキオさんからしたらさ、やっちゃったから、
自分の手から離れていっちゃうのかもしれないな、もっと大事にしてあげたいと思っていたはずなのに、みたいな感じに、
おそらくなっていたと思うんですよね、きっとね。
で、それを、そういういろんな後悔の気持ちを、マキオさんの古くからの友人に打ち明けて、
そこに朝ちゃんが帰ってきて、ようやくマキオさんが、自分が朝ちゃんについてどう思っているのか、どういう存在だと思っているのかというのを言葉に出してくれる。
あなたは痛いだけここにいていい。私が嫌になったら二度と戻ってこなくてもいいし、
一生私に連絡してくれなくても構わない。でもいつでもここに戻ってきて暮らして構わないし、このまま一生ここにいても構わない。
私はいつでも不機嫌だし、部屋は散らかっていて食事のメニューはつまらないけど、それでもあなたが幸せでいてくれればいい。
って言うと幸せでいなきゃいけないみたいだね。時々幸せでもいいよ。
いいセリフだなぁ。
だから、朝ちゃんが離れたければ離れてもいいし、そのまま近くにいたければいてもいいし、近くにいる限りはしっかりあなたのことを支えるし、できれば幸せでいてほしいけど、
でも別に幸せでなくてもいい。すべてはあなたの自由だよ。ということをマキオさんなりに言葉を選んで言っているセリフなんだと思うんです。
これはマキオさんからすると最上級のね、最上級のあなたのことを大事に思っているよっていう表現なんだと思うんですけど、朝ちゃんももうマキオさんのことをわかっているから、
そういうその行動面の話、なんていうか、私はあなたに対してこういう扱いをするけどあなたは自由でいいんだよっていうことが、これは私を愛してくれていることなんだなっていうのがわかるようになったんですよね。
たぶんこの3年間ぐらい一緒にこう生活する中で、でも朝ちゃんが欲しいのはそういう言葉じゃなくて、なんで一言ただ私を愛してるって言えないんだよ。
そういうなんかしめんどくさいあなたこうだ私は本当にあなたが自由でいてくれればよくてあなたが幸せでも不幸せでもそれはあなたの自由ででも私はずっとあなたのことを思っているよとかじゃなくて、もっとわかりやすく愛してるって言ってくれたら私はそれで乱されたのになんで言ってくれないんだよ。
というこの本本当に。
マキオさんはその朝ちゃんとずっとこう暮らしていく中で、あんなに嫌いだった姉がこの15、6になるまで朝ちゃんを育て上げた姉がどんなに苦労をしてどんなに朝ちゃんに愛情を注いでということが、まだ姉のことが嫌いではあるけれど、でもわかってしまったんですよね。きっとね。
でもその上で、マキオさんにとっても朝ちゃんはとても大事な存在にはなっているけれど、でも私がどんなにあんたのことが大切だよ愛してるよって言っても朝ちゃんのお母さんが注いでくれた愛情とそれがもう二度と注がれることがない状態になったその喪失には絶対に勝てないというふうに思っている。
実際どうかはさておきね。
だからそんな愛してるなんて、愛してるなんてそんな言葉では言葉が足りないんだよってマキオさんは言うけれどさ、言うけれどさ。
この、この後のね、この後朝ちゃんとエミリーちゃんがおそらく卒業式かなんかに向かう電車の中でマキオさんが書いた詩を朝ちゃんとエミリーちゃんが読むシーンもとても最高なんですけど。
もうもう言い出したらキリがないので、ここら辺にしようかな。
もうなんか本当こう誰かに何かを伝えるために言葉を出すっていうよりは、ただただその僕の喉に詰まっていたものものを外に吐き出さなければ僕が溺れてしまいそうだったので、なんか聞いてる側からしたらなんのこっちゃっていう風な感じの話になっているだろうと思うのですが、
本当に本当に素晴らしい作品だったなということだけはあの声を台にして言わせていただきたいなと思います。
愛を深く理解する過程
なんかね、すごい考えちゃって、今日とかね、あの今日ワンオペだったんですけど、僕とその子供たち2人とね、なんというか、僕は子供たちのことはなんというか、もちろんその愛しているし大事にしているし、幸せになってほしいと思うし、健やかに育ってほしいと思うし、
そういうことがあって日々接してはいるんだけれど、彼らは果たしてそういうね、あの僕のいろいろな言葉だったり行為だったり、そういう諸々を受けて、私は愛されているんだと果たして感じてくれているだろうかっていうことをね、すごい考えたんです。
なんか、前編通して愛情表現は人それぞれだし、その人が欲しい愛情の種類もそれぞれだし、愛情を受け取る準備ができてるできてないも人それぞれだし、
目の前の人に対してあなたのことを愛しているよということを伝えて理解してもらうことのなんと難しいことかっていうことを表現された作品だと僕は受け取ったんですね。
僕が思ったのは、愛を伝えることというのは、多分言葉だけでも足りないし、行動だけでも足りないんだと思うんですね。
例えばマキオさんは、朝ちゃんに孤独を生きていくための、朝ちゃんの心が極力傷つかないための、その傷に対して立ち向かえるようになるための術を言葉で伝えようというふうに努力をされていて、それは紛れもなく僕は愛だと思うんですけれど、
朝ちゃんはそんな難しい言葉を言われてもよくわかんないし、確かにその言葉が身を助けてくれることもあるんだけれども、とにかくただ私は愛されているんだということを誰かに言ってほしいし、示してほしいみたいな感情だったと思うんですね。
序盤のね、朝ちゃんが親を亡くして一緒に住み始めましたっていうふうなタイミングでは。だから仮にこれがもしもマキオさんが、もちろんその状況下で愛しているなんて無責任なことは言えないし、私はあなたが一番大事とも言えないし、
私にできることはただただあなたが生きていけるようになるための言葉を授けることだけだと思っていたとしても、仮に例えば手をつないだりハグをしたり、そういう身体的な行動でさらに猛アクションを朝ちゃんに対して取れていたならば、もっと序盤に2人の関係性は結構変わっていたんじゃないかなと思うんですよね。
ただまあ、それがいいかどうかは別として、それによってその朝ちゃんは私は愛されているのかもと感じられたかもしれない。だから結果的にはね、この話は朝ちゃんが日々を過ごしていく中でマキオさんが授けてくれた言葉の大事さだったり、
あの言葉をくれるってことはそういうことだったんだなぁとか、いろんなことに遭遇することで、どうやら私は愛されている。これがマキオさんなりの愛情表現なのかもしれないなみたいなことを多分なんとなくこうわかるようになっていったんだと思うんですけれど、
なんというか、自分の子供に対しては、そんなこう先が長い愛情表現では多分いけないんだろうなって思うわけです。もちろんなんていうか、僕が別にあの子たちに好かれたいと思ってないと言えば嘘になるが、最終あの子たちが幸せに暮らしてくれるんだったら、別にその自分のことを好きでいてくれようが嫌いでいてくれようが、そこはまあまあ言ったらどうでもいいことなんだ。
ろうとは思うんですよね。ただ、そこの答えがわかるのは、もっともっとそれごと10年20年30年とか先のことであって、今この瞬間にうちの6歳児と4歳児が地に足がついて物事にこう立ち向かえるようになるためには、
自分は誰かに愛されているのだという実感を持っていることはとても大事なことにように思う。で、それを彼らにしっかり実感として持ってもらうためには、果たして今の僕の関わり方というのは足りえているのだろうかなーって、
すごいなんかその答えのないことを考えてしまってですね。
わかんないじゃん。仮に当人に聞いたとしてもさ、4歳6歳の子がそういう話を、だからなんというか、かなりこれやってるからOKみたいな話じゃなくて、
愛情表現の多様性
とにかく私はあなたのことを大事に思っているし、あなたのことを支えたいと思っているし、何かあったら頼ってきていいし、何もなければ頼らなくていいし、
すべてのはあなたの自由ではあるけれど、でもあなたのこう帰ってきてもいい場所はここにあるよという、きょうさんが示していたようなメッセージは発信し続けなければならないし、
それの穴を埋めるようなボディ…ボディランゲージじゃねーな、何て言うんだろうか。
そういう後からじわじわ聞いてくるタイプの愛情表現だけではなくて、もっとダイレクトな、その抱っこをするとか肩車をするとか、何だろう、撫でてあげるとか、
なんかそういうね、いろんなことを惜しみなく行っていきたいなとか、なんかそういうことをこういろいろ、きょう一日考えていました。
本当にとてもとても良い作品に出会ったなというふうに思っています。
その2、3年ぐらい前にゆとたわでこの作品について話されていたときの内容は正直言っても全く覚えてないんです。
なんかそのエミリーちゃんの絶対友達辞められないじゃんと思ったみたいな話はなんか出てたような気がするなっていうところはちょっとおぼろげに覚えてるんですけど、
改めてね、その回を聞き直してみたりとかもしながら、何回もこれからの人生の中で読み返すことになるんだろうなというふうに思わされたそんな作品でした。
やばいな、信じられないほど長い録音になってしまっている。
これは編集の僕が大変ですけれど。
まあまあそんなところでちょっと終わろうかな。再現なく喋れてしまいそうなので。
作品への思い
ありがとうございました。
質問・意見・感想・異国日記を通じて感じたことなどなど何かありましたら、
番組概要欄のお便りフォームか、ハッシュタグふちものでポストいただけますと大変嬉しいです。よろしくお願いします。
では、また。
54:10

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