00:03
はい、こんにちは。ポイエティークラジオです。お相手は私、柿内正午と、本日はゲストでこの方です。
はい、こんにちは。柿内午後と申します。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。一応ね、柿内なんだ。柿内じゃなくて。
あ、柿内午後と申します。
はい、よろしくお願いします。
いつも柿内って読んじゃうんだよね。
そうそう、あれね、普通はね、柿内って読むんだよ。メジャーなんか多分あれの読み方って柿内だから、読んで柿内なんですって言うとすごい申し訳なさそうにしてくれるんだけど、むしろあれで無理矢理柿内って読ませてる方が無理してるから、お気遣い。
あ、そう、こだわりポイントなの実はね。柿内なんだぞっていうのは。でもまあ、なんだろう、それは別に本人のね、こだわりだから。別に。特に。どっちでもいいんだけど。
はしご高みたいな感じか。
あ、そうそうそう、はしご高みたいな。なんかそういうのもね、はしご高であることにすごいこだわりを持ってる人もいればさ、わかんないですよね、絵で済ませる人もいるじゃんね。
それで言うと、どっちかっていうと、こだわりはないというか、柿内さんで定着しちゃった人に対して改めて修正するのもさ、めんどくさいから、そのまま黙って柿内さんって呼ばれて、はいって返事してる人とか結構いるから。
だからなんかね、別にどうでもいいっちゃどうでもいいんですけど。
なるほど。
そうそう、まあね、GOGOさんもね、今日から、今日からというか、このラジオのためにGOGOさんを名乗ってもらってますけど、超適当じゃないですか、それも。
僕ら名前似てますね。
そうですね、なんで似てるんでしょうね。
実はね、僕の弟なんですよ。
弟がいたのか。
そうなんですよね。
このラジオに呼ばれて、違う名前でやってたけど、わかりやすいように、称号に対するGOGOっていう風にね。
そうだね、称号の後に来るわけだからね。
いいですね。
ずっとね、ゆくゆくどっかでね、忘れちゃったけど、オアシス的な感じでね、称号とGOGOでね。
バンドやろうね。
そうだね。
バンドやろうね。
できたら、楽しいかもしれないけど。
バンドやって、めちゃくちゃ喧嘩して、解散して、お互い戻ってね。
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喧嘩の練習しなきゃね。
喧嘩の練習しなきゃ。
あれ、ノエル・ギャラガーってツイッターやってんだっけ?
知らない。
やってないのかな。
なんかね、どっちかがね、ツイッターやってて、トランプと同じように全部大文字でツイートしてるのをなんか見た気がする。
へー。
なんで全部大文字にするんだろうって。
やっぱり自意識のデカさと文字のデカさが比例するのかな、みたいなことをその時見たんですけど。
なるほどね。
ごごさんの紹介は弟ですっていうだけでいいですか?
ライターだぜみたいな話とか。
そうだね、ライターの玉子。
そうだね。
これを聞いている全世界でだいたい70人ぐらいは聞いてるっていうデータがあるから。
70人のうち多分僕と奥さんのiPhoneとiPadとパソコンで聞いてるから、
だから6代分ぐらいは僕らだから、実質聞いてるのは60人ぐらいだと思うんだけど。
へー、すごい。
でもその60人ももしかしたらね、その家なんかすごいこうなんていうの、宗教施設かなんかでさ、
そのグルーの端末で30人ぐらいがそのグルーのiPhoneを囲んでみんなでポイってグラジオ聞いてるかもしれないから、
端末の台数でいうと60台とかだけど、実際に聞いてるのはもうちょっと120人ぐらいいるかもしれないなっていう気持ちで。
すごい数だね、そうなるとね。
いるから、だからやっぱりここでライターだっていう風にね、紹介をしておくことで仕事につながると。
なるほど。
って思ってますが、そんなに影響力はないので、期待せずに。
ブログで今美術師的なことをね、書いてたりするんですよ。
なんか今はとりあえず自体告知画のメインにやってるんですけど、
なんか一つのテーマを深く掘っていくことによって、
なんか本当にいろんなことが見えるなっていうのが書いてて思いますね、すごい。
なるほどね、面白いね。
なんで受体告知でやろうと思ったの?
それはなんかすごい単純な理由で、一番メジャーな取材だから。
その西洋画の中でってこと?西洋画の中でとか宗教画の中でってこと?
そうそう、そもそも西洋美術って、アルネサンス期とか今はほとんどが宗教画だから、
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でもその中で一番多く描かれてるのがマキリストの卓系か、受体告知画って感じだから。
なるほどね。
その時代とか地域とかによって表現の幅っていうのが大きくて、
なんかより面白く紹介できそうなのが受体告知だったから。
なるほど、面白いね、そうか。
キリストの卓系の場合だと別にだいたい全部卓系で貼り付けられてるだけだから、
バリエーションとしてもそんなに、ある意味キリストの顔とかそういうところぐらいだけど、
受体告知だと要素とか、それこそ構図とかから変えていけるってなると、
受体告知の方がバリエーションだった時代ごとのバリエーションにかなり幅というか余地がありそうっていう感じなのかな。
面白そうだね。
逆にちょっと作例が多すぎて、どっから手をつけたらいいかわからないっていうのもある。
なるほどね。
ちょっとね、まだ読めてないんだけどさ、受体告知のブログシリーズについては今第4回ぐらいまで進んでるけど、
今のその第1回、2回ぐらいまでの話でいいからさ、その4回目までは読むから。
これから読みたい人たちに対しての特化かりとしてこういうことを書いていこうと思って書いてるぞみたいな紹介をもうちょっと聞けたらなって思うんだけど、
紹介してほしいなって思ってて。
てかね、そもそもね、西洋画とか宗教画みたいな、キリスト教圏の文化に対してさ、
ごごさんは好きで勉強してるというか、結構こうあるじゃない。
でもそれってさ、言ってしまえばそんなにこの日本語ネイティブの世界においてさ、メジャーな教養ではないというかさ。
確かにね。
僕はそれこそこの1年トラさんにめちゃくちゃハマってるんだけど、
男は辛いよシリーズの厚見清志についてすごい語っていく方がまだ受け入れられやすいというか、
トラさんですって言えばなんとなく男は辛いよねぐらいのところまでは繋がる気がするんだけど、
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受胎告知について掘ってますって言ったときに、
そこからどこまでみんなが、多くの読者がキリスト教ねっていうところ以上の解像度を持ってるかどうかっていうと、
どうなんだろうなっていう気持ちと、
正直それは僕自身があんまりそれ以上のことを思えてないな。
今の話聞いてる中だけでもモチーフのバランスだったりで、
時代によって全然いろいろ違うから、読み取れるものが全然違うんだろうなっていうことまでは今の段階でもなんとなくぼんやり理解はしたけれども、
そこにどんな面白そうな世界があるのかみたいなのはもうちょっと聞いてみたいなと思うので。
トラさんってそんなでっかいマーケットだったの?
トラさんはだって柴又っていう一つの街がもうトラさんの街にしかなってないから、
すごいんだよだからリアルの街なのにディズニーランドみたいな、
もうなんかトラさんのために保存されちゃってるから街が。
そこにちゃんと人々の営みがあるんだけど、
もう街がテーマパークになっちゃってるから、
お団子屋さんとかもそのままトラさんの雰囲気を継承することに一番注力してて。
なるほどね。
だから何かこれからの時代に向けて変えていこうとかっていうことではなくて、
トラさんというテーマをいかに守っていくかっていうところに、
すごいもう街自体が一個方向づけられてしまってたりとか。
ああ、そっか。
あといまだにアイダミツみたいなひめくりカレンダーのトラさん名言カレンダーとか出てたりするから、
割と一つ商売として成り立つだけのマーケットはあるんだよね。
なるほどね。
なんとなく知らない人もトラさんって言ったときに、
なんとなくあの帽子でハラマキンの目のちっちゃいおじさんっていうのはわかるじゃん。
うんうん、わかる。
あとなんかそれを言っちゃお氏名よとかさ、ちょっとしたワードとかだったらさ、
なんとなく知っちゃってるじゃん。
知ってる。
すげえ雑に言うと、西洋圏におけるキリスト教ってそういう扱いなんだろうなって思うわけ。
ちゃんと知ってる人たちはすごいマニアックに、
それこそ第何作目のマドンナが至高みたいなところで派閥が分かれたりもするけれども、
そうじゃない、全然知らない人でもなんとなくそれについてある程度の知識が知っちゃってる状態。
確かに。あの服装してたらトラさんっていう。
そうそうそうそう。
共通の構造があったりとかね。
そうそうそうそう。なんかみたいな前提知識がさ、
なんか割と、てかなんていうの、
言ってしまえば日本のトラさんレベルぐらいにしかキリスト教ってものを思い浮かべたときの共通認識って
12:01
日本語圏だとそんなにこう、ない気がしててね。
うんうんうん。なるほどね。
まあでも時代革新そのものっていうのは、
なんか実は聖書にそんなに記述がなくて、
そうなんだ。
キリスト教、キリストの生涯を伝えるものとして、
なんか聖典の中では教官福音書って呼ばれる、
マルコ、マッタイ、ルカ、ヨハネ福音書のやつがあるんだけど、
その時代革新の出来事をしっかり言及してるのってルカによる福音書だけで、
なんかそれも本当に大天使ガブリエルと聖母マリアの交わした言葉とかがポツポツ書いてあるだけで、
一生にも満たないぐらいの文量しかない。
そうなんだ。
そうそうそう。
だから元ネタを知らなくてもすぐ知ることができるっていう意味ではなじみやすいかな。
そうだね。そもそも時代革新自体はね、
さすがにそれこそトラさんぐらいの解像度では結構知ってるもんね。
たぶんね、張り付けられてるんでしょっていうのと同じぐらいにはさ、知ってる。
そうそうそう。
いくつかの図像的なお約束事っていうのがあって、
マリア様の服の色とか、ガブリエルが持ってる花とか、
ガブリエルが百合の花持ってるからこれは時代告知の場面だみたいなのがわかるんだけど、
トラさんが団子食べてるからここ千葉まただみたいな感じで、
そういう共通の構造っていうのがあって、
そういう時代告知のあらすじとか、
そういう象徴的な事物の意味っていうのを第1回で紹介してる。
それ読んでくれたら、
時代告知画を見る上で必要なとっかかりの部分っていうのは一応、
なるほどね。
じゃあもう本当にゼロからこの話を読めば、
そもそもこれはどういうお約束事のもとに入ってるものでっていうところから、
ちゃんと面白がれるように今書かれてるね。
ちゃんと文化による福音書も引用してあるから。
じゃあもう本当にゼロから学べる。いいね。
なるほど。
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それもなんか聖書の中では、
具体的な時間とか場所とかっていうのが明示されてないから、
具体的なイメージを与えなきゃいけないわけじゃん。
画家とかっていうのは。
でもそれも勝手に自分の好きなように設定していいわけじゃないから。
同時代の人たちによる説教とか、やる概念とか、
それから結構その図像的な着想をやったりして、
その辺も詳しく述べています。
なるほど。面白そう。いいな。なるほどね。
その時代においての解釈の幅ってどのぐらいあるものなの?
今の話だと、服の色とかまで綿密にある程度コードが決まっているってなってくると、
どのぐらいまでその解釈、再解釈の余地というか、
画家によっての触れ幅っていうのはあり得るもんなんだろう。
なんだろう、現代の感性に慣れきっているとさ、
極端な例でいうと、たとえば、
知り上がることぶきの真夜中のやじさん来たさんみたいにさ、
やじきたんのちょんまぎを金髪にしてピンクの像を出しちゃうみたいなところまでさ、
二次創作の幅があり得ちゃうから、
その切層がある意味全くないみたいになってきがちなんだけど、
多分そうではないわけじゃない?
それぞれの時代における真面目な解釈論争みたいのがある中で、
とはいえその解釈っていうものも、
何でもかんでも好き勝手に解釈していいってわけではない中での話になるんだよね、きっとね。
そうだね。
そもそも、その絵画を巡る状況っていうのが今とはだいぶ違うから、
今では普通に使われている芸術とか芸術家っていう概念が18世紀頃にできた結構新しいものだから、
それまでっていうのは芸術家っていうのはいなくて、
当時の画家とかっていうのも基本的には工房で働く職人さんみたいな、
有名な人だったら大抵親かったんだけど、
その工房っていうのも絵画ばっかり作ってたわけじゃなくて、
18:04
金属の加工とか、家具作ったりとか、
割と何でも屋さんの職人みたいな感じだったから。
なるほど。
絵画作る時も基本的には注文ありきやってる。
その注文ももちろん作品によって条件とかはだいぶ違うんだけど、
結構この顔料を使うこととか、
大体の構図はこういう感じでとか、
背景は近似ではなく自然の風景を描いてくださいみたいな。
結構細かく決められたりしてるから。
なるほど。
だから結構その時代のお約束みたいなのが反映されてるものができる。
なるほどね。面白いね。
だからどうしてもその今っぽい発想でいくと、
その描き手の思想だったりとか、
なんかこだわりみたいなものが反映されたものとして、
絵画っていうものを想定しがちだけれども、
もともとその時代を巡る絵画のあり方みたいなものをちゃんと考えていくと、
割とクライアントワークだから。
そうそうそう。
お客さんの鉢割り切ってなってくると、
集合的無意識ってほどじゃないけど、
ある意味世論というかさ、
その時代における常識っぽいものが反映されざるをもちろん得ない。
あまり言っちゃうと、
そうだよね。
これ頼んでないですって言われちゃうから。
それは面白いね。
なんとなくこの話聞くまでって、
絵描きさんの中でそういう解釈闘争みたいなのがあって、
その人のなりの宗教の勉強だったり解釈っていうものの反映として絵があって、
その絵の中から作者がどういうふうに聖書を解釈したかっていうのを読み取っていくみたいなところに、
面白さがあるのかなっていうふうな仮説の上で話してたけど、
むしろそういうことっていうよりは、
発注者の人たちが、
当時どういう発注がメインだったのかみたいな、
どういうことを多くの人が、
なんていうのかな、
優勢な解釈を採用点の壁沢として、
どんな解釈をしてたのかみたいなのが、
わかるからおもろいっていう話だね。
そうそう、なんか、
画家個人の作品って考えると結構見えなくなるものが多くて、
本当に注文主との関係とか、
21:00
社会の中での取材の位置とか、
あと顔料の値段とか、
当時のことまで結構関わってくるから、
他の作品も本当に画家が一人で最初から最後まで描いたっていうよりも、
工房で弟子の手とか借りながら制作したっていうことのほうが多いから、
美術館とかで飾られてるような誰々作みたいなのは、
本当はそんなに簡単には言い切れない。
なるほどね。
面白いね。
だからその親方が最後にサインしてるかもしれないけど、
例えば会社で言うと最後の決算を下ろした部ちょうど半個だけをしてあるけど、
実際にその現場で契約取り付けてきて、
実際その現場でその仕事してる人たちっていうのは、
その部内の別の人たちだったりするよねみたいな話にも多分近いんだよね。
でも契約取ったりとか、
全体の指揮とか監督っていうのは基本的には親方がするんだけど、
なるほどね。
手を動かす、手足としてその中での5人さんたちがいるって感じかな。
人によっては注文の中で、
絵の具の調合は必ず親方本人が行うことって決められてたりする。
なるほどね。
さすがにその絵の具の調合を大臣だと思っている発注者にとっては、
いやちょっとそんな誰ともわからない人にそんなことやらせちゃいけないっていうこだわりポイント。
その人の好みが好きなのに、
手に任されたらたまんないから。
なるほどね。
面白いねそれは。
本当に職人の世界だよね。
工房の中にめちゃくちゃ動物描くのが上手な助手とかがいて、
結構いろんな人のとこに呼ばれてたりするんだけど、
動物上手すぎてちょっと浮いてたりする。
なるほどね。
明らかに違う人が描いてるんだ。
面白いねそれは。
そうか、なるほど。
なんかそれはすごい面白いね。
どうしても今の、例えば美術館とかに行ってのさ、
海岸の見方みたいなのにで言うと、
あとはそれこそ今の自分の感性とかで言うとさ、
どうしてもそこに名前が出てる人、個人とかと作品っていうのを結びつけたがっちゃうとか、
作品っていうものは個人の表現なんだっていう幻想が、
どうしても拭いされないところがあるけど、
そうじゃなくって結構チームでの仕事なんだよっていう見方をしてった方が、
時代の変え方、あれだよね、テレビドラマとかポップミュージックとかってさ、
例えばテイラー・スウィフトとかだとテイラー・スウィフト一人にパッケージとしてはなってるけど、
24:00
そのテイラー・スウィフトに対してすごい膨大なチームが組まれているわけじゃないですか、
ちゃんとどんなところでレコーディングしてとか、エンジニアのあり方とかさ、
実はそういうのって全部を全部テイラー・スウィフトが統括してるっていうよりは、
チームとして一つの作品を作り上げていくためにテイラー・スウィフトっていうブランドの中で作っているから、
それをテイラー・スウィフト個人にフォーカスを当てて、
その音楽を聴くっていうことがどれだけ本当に今でも正しいかというか、
意味があることなのかって結構微妙なんだけど、
それをある程度だからちょっとつまんないかもしれないけど、
プロダクトというか商品として見たときにテイラー・スウィフトの何がすごいのかっていうのを考えることって実は結構楽しいことで、
実はそういう見方として宗教画っていうものも見ていくことができるんじゃないかというか、
だから純粋に個人の表現としての作品として見るんじゃなくて、
ある意味一つそういうクライアントありきの製品として見ていった方が結構深く読めたりするんじゃないかっていう話なのかなって。
結構その絵の機能とか置かれた場所とかっていうのは今では見えにくくなってるけど結構重要。
美術館の明るい商品の下で他の作品と並べられて見るのが今では普通の鑑賞の形態だけど、
ピエロ・デル・ラ・フランチェスカの外国人画とかだと、
置かれた位置の関係で人っていうのが画面に対して右側に立つようになってるんですね、どうしても。
だから右側から見たときにちょうどよくなるように消失点とかが左の方に置かれてたりとか、
なるほどね。
固定されたりとかっていうのがあったりするから、
そういう、どこに置かれてたかとかどういう方向でどういう感じで学ばされてたかとかっていうのは結構今では見えにくくなってるから、
大事なとこだなっていうのは思う。
なるほどね、面白いね。
すごく今の方に例えて言うならば、
ノーラン監督がテネットは4DXのこういう画角の、この大きさのスクリーンで見てくれっていうのに近いというか、
この鑑賞体験に合わせて作ってるんだから、そう見てくれって思ってるけど、劇場で終わっちゃうとみんなテレビでネットフリックスとか見るから、
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そのノーランの意図した鑑賞体験とはちょっとずれちゃってるというか、みたいな話なんだろうね、きっとね。
映画館で見るか家で見るかみたいな違いはあると思う。
あるんだろうね。面白いね、なるほど。
基本的にはその絵画作品ってきちんとどこから見られるかっていうのが生まれられて制作されるから、
絵画ってそれを見るのにちょうど適した位置っていうのが本当に一箇所に固まる。
消失点から逆算してそれと本当に対応するから見るようにできてるから、
ある意味本当に一度にみんなでわらわら見るのって本来は想定されてないのかなみたいな。
なるほどね、まともとだって発注した人のためだけに描いてるんだもんね。
その人が例えば食事中にこのテーブルのこの位置から見るものだったりとかっていう、それさえ余計に満たしてればいいんだもんね。
公共の協会の祭壇画とかいっぱいあるけど、基本的に一点透視図法が使われてたら、最良の鑑賞点は1点にしてもらえる。
なるほど。面白い。
そういう作品と観客の関係に着目して美術史とかを捉え直そうっていうのがニコラ・ブリオンっていう人で、
関係性の美学っていうすごい有名な本があるんだけど、なんかそれは本当にそういう一対一対応みたいな感じだったかつての絵画から、
例えばポロックのアクションペインティングとかっていうのは、あれって別にどこから見てもいいというか、ここから見るのが一番いいっていう位置が特にないから、
そういう意味でより開かれた絵画とか、みたいな感じで、なんかそういう美術史を捉え直していく試みもあるぐらい、
なんか結構面白い。
これは非常に面白いね。
今の話聞いてるだけでも、それこそキュビズムとかさ、今だと雑によくわかんない芸術として仮価値はされがちだけど、
あれの何ていうの、画期が何だったのかっていうのもさ、そういう、あれもだから言ってしまえば、画期点として視点が複数一枚の絵の中に落とし込まれてるっていうところで考えていくと、今言ったような、
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この1個に鑑賞者の位置が1個に決まっていくっていう、絵画と人との関係のあり方っていうものの発展形というか、1個に決まらないところから、
どこから見るかで、ある程度その人と絵画とが結ぶ関係が変わってっちゃうみたいなあり方の表現、こう、何ていうの、実験の結果だったのかな、みたいなことも思えてきたりするから面白いね。
視点の相対化というかね、ある種の制度をかき乱すみたいな、意味もあるかもね。
なるほどね。面白いね、それは。
15世紀の絵画を、15世紀の目で見ることの大事さみたいなのを説いてる本に、マイケル・バクサンドールのルネサンス絵画の社会史っていう本があって、
めっちゃ面白そう。
それが本当に、15世紀の絵画を見るために、15世紀の目を身につけるっていうのを目的に書かれてる。
それ、超読みたい。
なんか、結構その、よくある論争として、絵を読むのに予備知識は必要なのか、問題。
あるね。
予備知識あったほうが分かる派と、そんなことより感じることが大事だみたいな派がいるじゃないですか。
いますね。
別にどっちが正しいとかじゃないんだけど、でも予備知識がなかったら、何が書いてあるかわかんなかったりするから。
うんうん。
宗教画とかっていうのは、そういう意味ではね、買ったほうがいいんじゃないかなっていうふうには思います。
それはね、超面白い話だね。
なんだろう、ちょっと、自分がハマってるトラさんの話にあえてするとね、
トラさんを見るってなった時に、今の感性でトラさん面白がるっていうやり方ももちろんすごいあり得るんだよ。
むしろ今じゃないと、読み取れないようなメッセージをトラさんから読み取るっていうことはもちろんできるんだけど、
それって、実際にその作り手が意図してたものだったり、当時映画館でトラさんを見た人たちが感じてたものとは全く違うものなんだよね。
だから、すごい雑に言うと、もうトラさんの撮られた時代がすでに50年前の過去だから、
33:02
当時の日本ではこういう乱暴なすぐ手が出ちゃったりとかするあり方が普通だったんだなっていう見方を、
古き良き日本みたいな感じに価値判断するのか、とんでもない封建的な時代だと思うのかはそれぞれの感想次第だけど、
何かそういう判断をするっていう見方が一個あるんだけど、もともとこのトラさんで第一作ができたのが68年とかで、
高度経済成長期で、当時からトラさんって時代遅れだったんだよ。
そうなんだけど、例えばそういうことを当時の人からしてすでに、
なんか昔はこういう困ったおじさんいたよねっていう見方をしてたのを知らないで、
今見返すと68年っていうのはこんなに野蛮だったのかってある意味見ちゃうかもしれない。
でもそうじゃなくて、68年ってどういう時代なんだっけっていうのを考えた上で見た時に、
当時あえてこの時代遅れの男をこういうふうに撮ったっていうことっていうのは、
当時どういう意味を持ってたんだっけっていうのを考えてみていくと、全然違ったものに見えてくる。
トラさんをこの2021年の目線だけでただ楽しむことももちろん面白いことなんだけど、
当時どういうふうに受容されてたんだってことを考えていくと、
そもそもこんな25年も続くシリーズだと誰も思ってない時代に作ってる映画だっていうところから見ていくと、
一本一本の映画の鑑賞体験が全然違ったものになっていくとかって考えていくと、
何と見も蓋もないことをしてしまう。トラさんは2021年の顧客は想定しないで作ってる製品だから、
68年当時の人が楽しめればそれで良かったはずなんだよ。
みたいなところを考えるだけで結構映画も見方って全然変わってくるなと思って。
たった50年前でもそれを忘れちゃうぐらいだから、
15世紀の人たちが自分たちと全然違った価値判断のもと作品と触れてたかもみたいなことを発想できるのってかなり訓練がいるんだよなっていうのをね。
そうだね。
思ったね。
トラさんって、68年当時の人々はトラさんに何を求めてたんだろう。
あのね、これは僕もまだそこまで解像度高くないからあれだけど、
68年の当時っていうのは、やたらに人儀なき戦いとかね。
そういう、ヤクザ映画が一回めちゃくちゃ流行った。
流行るちょっと前ぐらいの時期なんだけど、人儀なき戦いが73年とかなのかな。
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5年ぐらい前から始まってるんだけど、とにかく日本の喜劇とか、植木ひとしとかの無責任時代とか、
ヤクザ映画とか、あとは68年の学生運動とかね、そういう反戦的なものとか、
あとはそれこそ権力というものに対してアウトローっていうものが、わりとちゃんと、
世界のオルタネイティブタリエタ時代のギリギリのところにあって、
トラさんの初期の頃の乱暴さって、ちゃんとアウトローの乱暴さなんだよね。
それが社会に包摂されきらない乱暴者たちの生き様みたいなものを、ちょっとマイルドに描いてる。
っていうところに、暴力を血みどろの暴力だったり抗争なしで描いたヤクザ映画みたいなところがトラさんってあるんじゃないかっていう感じがしてて、
当時もわりとそういう重要な再活動されてるんじゃないかと思うんだよ。
だんだん時代が変わっていくにつれて、どんどんホームドラマ感が出てくるというか、
ただの親戚の困ったおじさんとして、社会に包摂されてっちゃうんだけど、
当時の最初の初期5作ぐらいのトラさんっていうのは、むしろその社会っていうものに絶対に取り込めない要素としてあった気がして。
ちょっとね、まだこれは全然わかんないけどね。
なんとなく当時の時代背景だったり、関連の本とか読み漁っていくと、
実はわりと今から振り返ると、ただの変わったおじさんみたいなホームドラマ感の中で男はつらいよっていうのを考えてしまうけど、
当時はむしろそういう反戦だったりとか、反権力みたいなものの居場所がどんどんなくなっていく。
むしろそれがコミカルなものとしてしか残らないようになってしまっている状況っていうのを、わりと冷静に映し取っている映画としても読めるんじゃないのかなっていう感じがするというか。
社会というものに対して抗っていく姿っていうのが、既にもうかっこよさよりも滑稽さが際立ってしまうっていう状況を、
ヤクザ映画のバズよりも先にもう既に見通しちゃってた感じがちょっとあるんじゃないのかなっていう感じがするんだよね。
そのトラさんがいかにしてその後のホームドラマ的な雰囲気を創設されていくのかみたいなのも面白そうだね。
面白いと思う。多分70年代に入ってくるともう既にすっかりリアルじゃなくなっちゃってるというか、
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ちょっとした時代遅れのおじさんだったところから、
普通にもっと明らかにありえないおじさんというか、実在しようがないおじさんに既に5年とか6年でなっちゃったんだろうなっていう感じがするんだよね。
70年にもなったらもう新宿駅で火炎瓶投げれないもんね。
そうそう投げれないもんね。そんなことしたらさ、はーってなるもんね。
そうなんだよ。だから進歯が全然出てきないでさ。ただバッシングだけがありになってくるからね。
なるほどね。面白いね。
絵画を見るときにその絵画の描かれた当時の想定顧客をちゃんとトレースして見てみるっていう見方は面白いね。
面白いよ。
なんかバックサンドウォールの本の中で面白いことを言ってて、
ラフランチェスカの世界国地画をキリスト教を全く知らない人が描いたとしたら、
聖母マリアと大天使かブレイルが他の円柱に対してひたすら祈りを捧げてる絵に見えるんじゃないかみたいな。
うんうん。
でも確かにその両方とも祈るような姿勢をとってて、
その二人の間に古代風の装飾のある円柱っていうのが空間に分割してるのね。
真ん中にある円柱に向かって二人がずっと祈りを捧げてるっていう風にも確かに見えなくもない。
なるほど。
でもなんかそれがだからまあ見当違いの解釈としていわば取り上げられてるんだけど、
なんかでも面白いのがその解釈の仕様によっては円柱ってキリストの象徴ともされる。
あーうん。
だからその事態告知があって結構その天使とマリアの間に円柱が描かれてて空間が遮られてることが多いんだけど、
それも単にそっちの方がなんかかっこいいからとかだけじゃなくて、
なんかそういうもしかして象徴的な意味が含まれてるのかもしれなくて。
なるほどね。
だからそのなんかキリストである円柱に向かって祈りを捧げているっていう解釈も
間違いとは言い切れないかもしれない。
面白いね。
一層その当時の解釈がこうなったんじゃないかって知識をもとに見ていくのも一つ大事だけど、
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実はそれで見下ろしそうなものを直感的にフラットな目線で見た時に感じるものの方が掴み取ってることもあり得るっていう。
面白いね。
理論と直感となんかどっちかであればいいっていうわけではなくてっていう、
なんかなんていうの、行ったり来たりしないといけない感じが非常に良いですね。
そうなんです。
なんかその当時の自動的な約束こととかっていうのもきっちり決まってるようでいて、
なんでかわかんないけど結構やっぱり祭りみたいなのも出てくる。
なんかそのスタイル告知画で神様の手からその精霊、鳩の姿をした精霊がマリアに向かって飛んでいくっていう映画よくあるんだけど、
その中でもなんかその精霊の表現として赤子の姿をしたキリストが空からマリアに向かって飛んでいくっていう絵が描かれることがあって、
なんかそれってかなり今見ると異様なんよね。
うんうん。
赤子が飛んでってる。
うん、なんでってね。
でもそれって神学者とかからも攻撃されてるよね。
あ、そうなんだ。
そういうのは誤解を招くから。
うんうん。
マリアの体内に宿る前からキリストが人の形を取っていたという誤解には耐えるか、
なるほどね。
言われてるんだけど、言われ始めてからもしばらくはその図像が結構留守してたり、いろんなところで引用されたりとかしてて、
うんうん。
なんかそういうのとかってそういう、例えば宗教的な文書とかの源泉があって、
そういう表現が生まれたとかっていうものでもなさそうだし、
うんうんうん。
でもその赤ちゃんの姿で描くっていうしきたりっていうのが、
うんうん。
結構絵図よくあったっていうのは、
うんうん。
なかなか面白い。
面白いね。だからなんだろう、そのさ、絵画とかっていうのはこう、どうしても今の観点だとハイカルチャーというかさ、
いわゆるインテリのものとして見てしまいがちだけれど、
今の赤ん坊の話もそうだけどさ、
それよりも発注する人たちが、とはいえこっちの方がしっくりくるじゃんっていう感覚の方が、しばらく根強く残っていくみたいなのがさ、
45:04
うんうん。
今もよくある話じゃない、なんていうのかな、
例えば、白人と黒人の描き方とかっていうところでさ、
そこに無自覚な差別があるんじゃないかみたいなことの反省をさ、ずいぶん前からされ続けてきたわけじゃん。
それでもいまだになお、ステレオタイプの雑なギャグが根強く残っちゃってる。
それに対してようやく反発の声の方が大きくなってきたから修正が入って、
やっぱりそういうジョークはダメだったよねっていう方向に修正されていく方がメジャーに流通させる上では有利だっていう方向にようやく向かってきたけれども、
そこまでの道のりってすごい大変長いわけじゃない。
それと同じように、キリスト教的に正しいキリコレ的なものとして、
インテリたちがこっちこうしないといけないんだって、赤ん坊空飛ばしダメなんだっていうことを言い続けても、
それが実際に製品に反映されるまでっていうのは結構ラグがあるみたいな話なのかもなって思って。
そういう意味だとずっとそういうことをやり続けてるんだろうなって感じもするんだよね。
確かにね。
正しさっていうものがどんどん更新されていって、それに合わせてじわじわと大衆であったりとか、
実際のプロダクトの方に反映されていくっていうところまでの浸透していくまでの時間みたいなもので。
面白いかもね、そういう。
ね。
なるほど。いいね。
面白いね。ちょっともう読むよ。ちょっと読んでから話せればよかったんだけど。
読んでみるよ。面白い。
そういう話をね、書いてます。
ちょっとね。
なんか、みぶりの。
うんうんうん。
そのみぶりによって何を表してるのかとかって、やっぱそれ決まってるから。
なるほどね。そのデスチャーが何を持っているのかって、どういう意味を持っているのかってね。
うん。
面白いね。
なんか、中世の最後の審判とか。
うんうんうん。
書いた絵だとなんか自分の手のこう噛んでる。
うん。
ってくるんですけど、なんかそれはもう絶望とか。
うんうんうん。
愛恨とかを表してるらしい。
なるほどね。面白い。
いいね。ちょっと。
あと悲しすぎる。
48:00
うん。
ホロモモを引き裂くっていうのが一般的だから。
なるほど。筋肉がすごいからとかじゃなくてね。
うん。なんか悲しいじゃなくて、怒ったとき。
うんうんうん。
怒るとホロモモを引き裂くっていうのは古い表現で。
へー。
ドラゴンボールとかホットドッキリとかでもそうだけど。
うん。
あれはうめえさん好きからある表現。
なるほど。あれは筋肉がすごいぞっていう表現なんじゃなくて、怒りの表現なんだね。
怒りの表現。
なるほど。面白いね。
なるほど。
ちょっと多分だいたい1時間ぐらい喋ったので、聞く側が疲れちゃうから録音としては一旦このぐらいにして。
でもちょっと面白い話だったからね。
え、まだそのブログの受体告知シリーズはしばらく続くのかな?
うん。しばらく続く予定。
なるほどね。じゃあちょっとまたそれをしっかり読んでからね。
読んでからこういうことも聞きたいみたいなのが出てきたい。
それを話せたら楽しいなって今話してたんだったので。
今のところ4万字ぐらい書いたんだけど、
でも最初に話したかったことにまだ到達してないから。
おーすごいね。最終的に本位にしちゃうのがいいね。
お願いします。
こっちですんの?じゃあいいよ。
なんか作ってもいいね。それは楽しそう。
なるほど。いいね。
ちょっとじゃあまたお話を聞けたらなと思うので。
このポッドキャストで配信するときにブログのURLを説明文に貼っておくので、
これを聞いて気になるなっていう方はそこから読んでもらえれば楽しいなと思いますので。
お願いします。
よし、ではありがとうございました。
声入れてくるお相手は私、垣内昌吾と、本日はゲストでこの方です。
垣内誤吾でした。
ありがとうございました。