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スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。
スピーカー 2
で、ちょっと島津家について触れると、この島津家っていうのはさ、あの島津忠久を初代として、鎌倉時代より700年もずっとね、一つの家が南九州辺りの地域を支配するような名家なんだよね。
うん。
で、最も勢力を拡大した時はね、九州の大半を支配したこともあったんだよね。
うん。
スピーカー 1
で、関ヶ原の戦いではさ、徳川家康とは敵対する石田三成方に島津は属してたんだけども、その後の和平交渉によって領地を維持したまま江戸時代を迎えるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう。で、それからさ、薩摩っていうのは幕府承認の下、琉球国に出兵してさ、琉球を支配下に治めるっていうことをするんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
それで薩摩はさ、72万国以上って呼ばれる大きな藩となるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、この薩摩がさ、まあ他の藩と比べると海外の情勢に明るいっていうのは、まあいくつか理由があってさ。
スピーカー 2
うん。
それはさ、日本は鎖国体制を取ってたんだけれども、あの薩摩っていうのは琉球を通して、その琉球がさ、中国との交易をしてるから、そっからさ、海外の物資とか情報が入ってくるっていう環境にあったんだよね。
うん。
スピーカー 1
で、またさ、近くの出島ではさ、オランダ、中国と限定的に交易があるし、まあそのためさ、薩摩から海外情勢に関心を示す人っていうのも多く排出されてくるっていうのも、そういった要因があるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう、で、その中でもその島津成明が、まあなぜこう解明的なのかっていうところもいくつか言われているんだけど、えっと彼はね、まあまずお母さんのイヨヒメの影響を受けてるんだけど。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これはね、大名家ではお母さん自らが子を育てるっていうのは珍しくて、目の取っていうのに任せるのが一般的なんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
ただ成明の母は、自らの養育を行って、幼い時から厳しく教育を教えたっていうところがあるんだよね。
スピーカー 2
うん。
で、あと、その祖祖父にあたる島津重秀の影響があって、この重秀はさ、第8代の薩摩藩士として、西洋や中国の文物に強い関心を持ってた人なんだよね。
うん。
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で、数多くの書物を収集して、自ら学んで、オランダ語も話すことができたって言われるような海外情勢に明るい人だったんだよね。
スピーカー 2
うん。
そんな彼はね、孫の成明っていうのをかなり出来合いしたって言われて、一緒にお風呂に入るほどだったらしいんだよね。
うん。
スピーカー 1
これについてはどう思う?
スピーカー 2
ね、お風呂ぐらい入ってあげてよ。
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そうだね。
まあ、そういった環境でさ、幼くして蘭学を学んで、海外の書物なんかにも触れて、またね、著名な蘭学者なんかと親交があったりとか、西洋の科学文化とか世界情勢に精通した大名になっていくんだよね。
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うん。
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この頃さ、幕末の日本ではさ、西洋の軍艦がたびたび開国要求をしてくる中で、象徴的なのはさ、裏側に現れたペリー来航とかもあって、日本国内ではさ、さっきも冒頭で言ったけど、上位論っていうのが高まってくるんだよね。
スピーカー 2
うん。
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で、これはさ、外国人を排除しようとする考えでさ、孔明天皇をはじめ幕府とか諸大名の中でも上位論者っていうのは多くいたんだよね、この時。
スピーカー 2
うん。
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で、成明はさ、この上位論に対しては、無謀の大和魂っていう言い方をしてるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
世界情勢に詳しかったさ、成明っていうのは、今の日本に上位が不可能であるってことは分かっていたし、今日本がするべきことは産業活性化させて、軍備を強化しなきゃいけない。
で、その上で準備を整えてから、外国と積極的に交わるべきだっていうような主張をしてる人だったんだよね。
スピーカー 2
うん。
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で、そんな成明はさ、順調に藩主になっていくと思いきや、実はさ、父の成明との関係が良くなかったんだよね。
スピーカー 2
うん。
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そう、これはなぜかっていうと、成明っていうのはさ、父成明と、聖室イヨヒメとの間に生まれた子供なんだけど、父成明っていうのは成明より、聖室との間に生まれたヒサミツの方をできあいしたっていう風に言われてて。
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うん。
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これは、聖室との仲があんまり良くなかったんじゃないかとか、言われてるんだよね。
二つ目はさ、成明がそれまで以上に大規模な近代化が必要だっていう風に考えていたことがあるんだよね。
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うん。
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そういった考えをさ、父成明っていうのは警戒をしていたんだよね。
そのお父さんの成明っていうのはさ、前の藩主である重秀の開花政策なんかで財政が、あの薩摩藩って悪化してたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、藩の財政改革を行った人でも有名なんだけども、琉球の密貿易を拡大させたりとか、支出を減らすために大規模な近代化路線をやめて、
乱学施設を取り壊したりとか、そういった改革を行った人なんだよね。
スピーカー 2
うん。
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その結果さ、薩摩藩の財政って復活して貯蓄を増やしたっていう成果を出しているんだけども、
この成明の考える大規模な近代化によってさ、また薩摩藩が大きな出費となるっていうことが予想されて、これを警戒していたんだよね。
スピーカー 2
うん。
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そのため成明になかなかその藩主の座を譲らなかったんだよね。
そこにさ、成明を藩主にさせたい派閥と父成岡の派閥でその対立が激化していって、成明派の側近が成岡の暗殺を企てたっていう疑いで自害させられるっていうような、そんな事件にまでなっていくんだよね。
スピーカー 2
うん。
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これにはね、他の大名とか成明と親しくしてた幕府老中主座の安倍政宏とか、こう間に入って取りもって、最終的にはね、始末成明っていうのは将軍、その当時の徳川家吉から茶旗をもらったんだよね。
スピーカー 2
うん。
この茶旗っていうのはさ、将軍から贈られるってことは、隠居して茶会なんかを親しんでねっていうような意味合いがあるんだって。
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うん。
スピーカー 2
そのため、成明っていうのは隠居して、成明をその次の藩主に任命したんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。いや、こんなこと言われたよね。
スピーカー 2
いや、わざわざよく言われてるんだよ。
スピーカー 1
言われたことないわ。
で、そんな中で、その様式船を建造するようになると、外国船かさ、日本の船かっていうのを区別することが難しくなってきたんだよね。
スピーカー 2
うん。
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そうそう。で、そこで成明っていうのは目印が必要だっていうんで、白地に一つのこの朱色の日の丸を描いたサンプルを作成して、今の日本国旗のデザインのような感じなんだけど、これを日本の船の印とするような提案を幕府にするんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。日の丸ってさ、彼が全部描いたっていう構想したわけではなくてさ、もともと古くから日本人が好んで用いてたデザインだったんだけど、その日本を象徴するっていう意味合いは当時もなくて、その当時もさ、デザインも一つに固まってなくてさ、白地だけじゃなくてさ、紺とか金だったりとか、丸もさ、一つじゃなくて三つとか五つあったりとかもしたんだって。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。こういった中でシンプルな一つの朱色の日の丸を提案をして、これがね、幕府に認められて、その後その日本の船を区別するための印として使われるようになったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、その他にもね、宝石業にも取り組んでいて、さつまはさ、帆船に使う炎、布を作るために始まったって言われてるんだけども、水車を動力として、宝石工業を築いて、綿布の生産を行ったりもしたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、またガラスにも力を入れてて、帆船用のさ、窓ガラスとか、あとさつま霧子って透明ガラスにさ、紅色とか藍色とか紫なんかのその色ガラスをかぶせて、こうカットしてるような文様が象徴的なんだけど。
スピーカー 2
うん。
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長丸もね、キレキレなツッコミが埼玉のさつま霧子って言われてたしね。
スピーカー 2
そう、埼玉じゃ、埼玉だったらさつまじゃねえだろ。
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そうだね、もうめちゃくちゃだね。
スピーカー 2
もうめちゃめちゃだよ、振り方も雑すぎるし。
スピーカー 1
いや、振ってほしそうだったから今。
スピーカー 2
そう、まあ、それからね、写真に関してもね、フランスで発明されたあの銀板写真を元に、さつまでね研究が行われていって、安成4年に鶴ヶ町内でね、ナリアキラ自らがモデルになって撮影実験に成功してるんだよね。
うん。
そうそう、これあの銀板写真として日本人が撮影した、現存する最古の写真として残ってるんでね。
うん。
スピーカー 1
で、あと電信なんかも行っていて、鹿児島城内のさ、本丸と二の丸の間の約500、600メートルある間を電信を通して実験をして、島津ナリアキラが日本で初めてモールス信号による通信を行ったって言われてるの。
スピーカー 2
うん。
そう、で、さらにこの電信機の電線を使って地雷とか水雷の爆発実験を行って、で、この実験によってさ、その後鉱山開発なんかの岩石崩しにも採用されて、工費の節約にも役立ったって言われてるんだよね。
うん。
スピーカー 1
で、他にもまあいろんなことやってるんだけど、ガス灯の実験だったりとか、パンやビスケットの、とか砂糖なんかの研究製造っていうのもまあ行ってるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう、で、こんな風にさ、ナリアキラっていうのは近代的西洋式工場群の建設に取り掛かって、これらのね、事業の総称を修正官事業って言うんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
まあ一時はね、この次々と建てられた工場に約ね、1200名ぐらいの人が働いてたって言われるもう大規模な工場群だったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これさ、あの、ちょっと調べたらさ、鹿児島市のさ、吉野町に、あの商工修正館って博物館があって、その当時の面影が見れたりするんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう、ただね、2024年9月30日に閉館したんだ。
スピーカー 2
えー、そうなの?もうじゃあ行けねえじゃん。
スピーカー 1
ね、ちょっと俺行きたいなと思ってたんだけど、1ヶ月前、残念なのこれ。
スピーカー 2
いやー、これは運命かもしれない。
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いやいや、でもだからやっぱ古いものってさ、見とかないとどんどんなくなっちゃうよね。
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うん、なくなっちゃうとね、もうあとはその残った記録しかなくなっちゃうからね。
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確かに。で、それからね、あの幕府から海軍技術を教える任務を受けて日本に来てたオランダ海軍の将校らが薩摩に来たことがあって、
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うん。
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彼らがね、見て言った言葉が、この藩は間もなく日本全国の中で最も繁栄し、また最も強力な藩になることは間違いないっていうようなことを言ってるんだよね。
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うん。
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そう、実際にこれがさ、その後薩摩を筆頭に明治維新っていうのが行われていくっていうことになるんだよね。
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うん。
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で、あと柴津成明で有名なところで言うとさ、西郷隆盛っていう逸材を表舞台に出したっていうところでも有名なんだよね。
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うん。
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西郷隆盛っていうのはさ、もともと下級武士の生まれで、藩士の成明と直接接するような立場ではなかったんだよね。
スピーカー 2
うん。
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で、ただ西郷ってその藩に対する意見書を何度か提出していたりとか、あの若い下級武士の中で人望を得てるっていうところで、あの成明は関心を示して庭方役にこう任命するんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう、なんか庭の掃除番みたいな役割みたいなんだけど、この時さ西郷っていうのは28歳時で、これによってさ、藩士である成明から直接面会するっていう機会が得られたんだよね。
スピーカー 2
うん。
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で、成明からもさ、用事がある時にいつでも西郷に声をかけられるっていうことにもなって、それからさ、西郷っていうのは成明と親交を深めていって、成明とその親交のある大名家との連絡係なんかも務めていって、どんどん彼の存在っていうのは幕末に大きくなっていくんだよね。
スピーカー 2
うん。
で、成明はね、西郷隆盛のことを殺国、貴重の大宝であるっていうようなことを言ってるぐらい絶賛してるんだよね。
うん。
スピーカー 1
で、西郷自身もさ、成明から多くのことを教わって、すごく尊敬していたし信頼もしていて、で、そんなさ、成明が突然その亡くなってしまったことで、西郷もさ、自分も死のうとしたぐらい、そのぐらいさ、大切な存在だったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、あと他にもその始末成明って、例えば刑法に関しても、もともと薩摩藩の刑法っていうのはすごく厳しいものだったんだけども、この時代どこも厳しいっちゃあれ厳しいんだろうけど、彼のその考えっていうのはさ、罪疑わしきは軽くせよっていう考えがあったんだよね。