1. 「大人の近代史」今だからわかる日本の歴史
  2. #182 薩摩藩主「島津斉彬」幕..
2024-10-29 27:13

#182 薩摩藩主「島津斉彬」幕末の名君

薩摩藩第11代の藩主 海外情勢に明るく、幕末に近代化を推し進めた藩主として有名

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サマリー

島津斉彬は薩摩藩の第11代藩主であり、幕末に近代化を推進した名君として知られています。彼は西洋列強との力の差を縮めるために尽力し、藩の財政改革や軍備の強化を進めています。また、彼は西郷隆盛をサポートし、民衆の生活向上に努める明君として評価されています。さらに、島津斉彬は明治維新に向けた近代化の先駆けとして重要な役割を果たしており、彼の指導の下で薩摩の技術者たちは独自の努力で近代技術を開発しています。これにより日本の成功につながっています。

島津斉彬の紹介と時代背景
スピーカー 1
民とめば、国とむのことは君主たるもの、一日も忘るべからざる。
始まりました。大人の近代史、よろしくお願いします。
スピーカー 2
よろしくお願いします。
なんか、君主とか言ってるから、なんだろうね。ちょっと昔って感じはするけど。
スピーカー 1
ああ、そうだね。君主ですね、今日は。
スピーカー 2
どういうこと?
スピーカー 1
今日は、島津斉彬をやろうと思います。
スピーカー 2
来ました。もう、おが太郎の天下が来ました。
スピーカー 1
来てないわ。
スピーカー 2
いや、でもさ、やっぱりさ、こう、最近鉄道とかさ、野原とかさ、ちょっと番外編って続いてて。
多分さ、あの、まあ、もうぶっちゃけね、ちょっとね、おとらは飽きてたと思うのよ。
歴史番組じゃねえじゃん、この番組みたいな。
スピーカー 1
ちょっと偏っちゃったんだよね。
スピーカー 2
そうそう、たまたま、まあ、まあ、俺が悪いんだけど、まあ、そこはちょっと置いといて。
で、やっぱここで、今までの傾向の感じのタイトルではなくて、
まあ、ザ・歴史っていう感じ?島津斉彬でしょ?
スピーカー 1
そう。
スピーカー 2
もう、幕末、もう最高じゃん。もうこれ来たね。
今日来たよ。もう、あの、おめでとうございます。
スピーカー 1
変な、変な、あげないでくれ。
スピーカー 2
え?いや。
スピーカー 1
で、あの、このさ、民富めば国富むのことって、まあ、おそらく、その、民っていう、まあ、民衆がこう、豊かになれば、国が豊かになるっていうことを言ってるんだけど。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
まあ、そういう君主っていう、なかなかこの時代では珍しいのかな?
スピーカー 2
なかなかそこまで、こう、思い切って言える人っていうのはいないんじゃないかなって思ってるんだよね。
うん。
スピーカー 1
まあ、そんな感じで、島津斉彬っていうのは、まあ、薩摩藩の第11代の藩主なんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、まあ、幕末に、まあ、近代化を推し進めた藩主としても有名で、
スピーカー 2
海外情勢にこう明るく、西洋列強との力の差をこう縮めようとした、まあ、名君って言われるような人なんだよね。
うん。
まあ、ちょっと時代背景に入るとさ、まあ、この頃、まあ、ペリー大公の前後に藩主として彼は活躍してるんだけども、時期としてはさ、西洋列強が日本開国を求めてきたりとかして、外国の勢力を排除しようとする、こう、上位思想が盛んになった時期でもあるんだよね。
島津家の歴史と成明の成長
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。
スピーカー 2
で、ちょっと島津家について触れると、この島津家っていうのはさ、あの島津忠久を初代として、鎌倉時代より700年もずっとね、一つの家が南九州辺りの地域を支配するような名家なんだよね。
うん。
で、最も勢力を拡大した時はね、九州の大半を支配したこともあったんだよね。
うん。
スピーカー 1
で、関ヶ原の戦いではさ、徳川家康とは敵対する石田三成方に島津は属してたんだけども、その後の和平交渉によって領地を維持したまま江戸時代を迎えるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう。で、それからさ、薩摩っていうのは幕府承認の下、琉球国に出兵してさ、琉球を支配下に治めるっていうことをするんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
それで薩摩はさ、72万国以上って呼ばれる大きな藩となるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、この薩摩がさ、まあ他の藩と比べると海外の情勢に明るいっていうのは、まあいくつか理由があってさ。
スピーカー 2
うん。
それはさ、日本は鎖国体制を取ってたんだけれども、あの薩摩っていうのは琉球を通して、その琉球がさ、中国との交易をしてるから、そっからさ、海外の物資とか情報が入ってくるっていう環境にあったんだよね。
うん。
スピーカー 1
で、またさ、近くの出島ではさ、オランダ、中国と限定的に交易があるし、まあそのためさ、薩摩から海外情勢に関心を示す人っていうのも多く排出されてくるっていうのも、そういった要因があるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう、で、その中でもその島津成明が、まあなぜこう解明的なのかっていうところもいくつか言われているんだけど、えっと彼はね、まあまずお母さんのイヨヒメの影響を受けてるんだけど。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これはね、大名家ではお母さん自らが子を育てるっていうのは珍しくて、目の取っていうのに任せるのが一般的なんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
ただ成明の母は、自らの養育を行って、幼い時から厳しく教育を教えたっていうところがあるんだよね。
スピーカー 2
うん。
で、あと、その祖祖父にあたる島津重秀の影響があって、この重秀はさ、第8代の薩摩藩士として、西洋や中国の文物に強い関心を持ってた人なんだよね。
うん。
スピーカー 1
で、数多くの書物を収集して、自ら学んで、オランダ語も話すことができたって言われるような海外情勢に明るい人だったんだよね。
スピーカー 2
うん。
そんな彼はね、孫の成明っていうのをかなり出来合いしたって言われて、一緒にお風呂に入るほどだったらしいんだよね。
うん。
スピーカー 1
これについてはどう思う?
スピーカー 2
ね、お風呂ぐらい入ってあげてよ。
スピーカー 1
そうだね。
まあ、そういった環境でさ、幼くして蘭学を学んで、海外の書物なんかにも触れて、またね、著名な蘭学者なんかと親交があったりとか、西洋の科学文化とか世界情勢に精通した大名になっていくんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
この頃さ、幕末の日本ではさ、西洋の軍艦がたびたび開国要求をしてくる中で、象徴的なのはさ、裏側に現れたペリー来航とかもあって、日本国内ではさ、さっきも冒頭で言ったけど、上位論っていうのが高まってくるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、これはさ、外国人を排除しようとする考えでさ、孔明天皇をはじめ幕府とか諸大名の中でも上位論者っていうのは多くいたんだよね、この時。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、成明はさ、この上位論に対しては、無謀の大和魂っていう言い方をしてるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
世界情勢に詳しかったさ、成明っていうのは、今の日本に上位が不可能であるってことは分かっていたし、今日本がするべきことは産業活性化させて、軍備を強化しなきゃいけない。
で、その上で準備を整えてから、外国と積極的に交わるべきだっていうような主張をしてる人だったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、そんな成明はさ、順調に藩主になっていくと思いきや、実はさ、父の成明との関係が良くなかったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう、これはなぜかっていうと、成明っていうのはさ、父成明と、聖室イヨヒメとの間に生まれた子供なんだけど、父成明っていうのは成明より、聖室との間に生まれたヒサミツの方をできあいしたっていう風に言われてて。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これは、聖室との仲があんまり良くなかったんじゃないかとか、言われてるんだよね。
二つ目はさ、成明がそれまで以上に大規模な近代化が必要だっていう風に考えていたことがあるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そういった考えをさ、父成明っていうのは警戒をしていたんだよね。
そのお父さんの成明っていうのはさ、前の藩主である重秀の開花政策なんかで財政が、あの薩摩藩って悪化してたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、藩の財政改革を行った人でも有名なんだけども、琉球の密貿易を拡大させたりとか、支出を減らすために大規模な近代化路線をやめて、
乱学施設を取り壊したりとか、そういった改革を行った人なんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
その結果さ、薩摩藩の財政って復活して貯蓄を増やしたっていう成果を出しているんだけども、
この成明の考える大規模な近代化によってさ、また薩摩藩が大きな出費となるっていうことが予想されて、これを警戒していたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そのため成明になかなかその藩主の座を譲らなかったんだよね。
そこにさ、成明を藩主にさせたい派閥と父成岡の派閥でその対立が激化していって、成明派の側近が成岡の暗殺を企てたっていう疑いで自害させられるっていうような、そんな事件にまでなっていくんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これにはね、他の大名とか成明と親しくしてた幕府老中主座の安倍政宏とか、こう間に入って取りもって、最終的にはね、始末成明っていうのは将軍、その当時の徳川家吉から茶旗をもらったんだよね。
スピーカー 2
うん。
この茶旗っていうのはさ、将軍から贈られるってことは、隠居して茶会なんかを親しんでねっていうような意味合いがあるんだって。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
そのため、成明っていうのは隠居して、成明をその次の藩主に任命したんだよね。
藩主としての成明の政策
スピーカー 1
うん。
こういったね、成明って周りの支援があるっていうところでも、彼の有能さを他の藩主とか幕府首脳陣も高く評価していたっていうのはあるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これでやっと始末成明が42歳にして薩摩藩主になる。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
当時さ、常識的に20歳前後で藩主となるっていうケースがだいたい一般的だったんだけども、だいぶ遅咲きの藩主だね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。もう安藤桃福みたいな感じかな。
スピーカー 2
ん?え、何?
スピーカー 1
安藤桃福って知ってる?
スピーカー 2
いや、知らないよ。
スピーカー 1
48歳でインスタントラーメンを発明した日清食品の創業者。
スピーカー 2
そうなの?
スピーカー 1
そうそう。ごめん、全然関係ないんだけど。
スピーカー 2
なんか全然関係ないな。
スピーカー 1
いや、遅咲きってとこでね。
スピーカー 2
ああ、そういうこと?多分ね、そんな、もっといるでしょ、いっぱい。
スピーカー 1
もっといるだろって。
そうだね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、彼はその後49歳の若さで病死するんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
だからね、わずか7年半の藩主になる。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。しかもさ、この藩主時代っていうのは参勤交代があるから江戸に参勤して、江戸にも滞在して。
スピーカー 2
しかもさ、薩摩からさ、移動するのにだいぶかかって、その1回参勤交代するのに往復80から120日ぐらいかかるんだって。
うん。
スピーカー 1
で、結局ね、薩摩にこう下国したのは3回だけって言われてて、期間はね3年半だけなの。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、そんな短い期間ながらも大規模な近代化に舵を切って、大きなその成果を出してるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、ちょっと彼のやったことっていうのをバーッと話したいと思うんだけど。
で、まずね、軍事力を強化したんだよね。
スピーカー 2
うん。
で、これはね、大砲は前の藩主から着手していた製銅砲っていうのがあったんだけども。
うん。
スピーカー 1
この原料の銅っていうのはさ、高価で膨大な資金が必要になってくるから、西洋を真似て比較的安価な鉄を使った大型の大砲を作ろうとしたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、大砲を作るためにはさ、用航路が必要で、この用航路は佐賀藩とかが先に研究をしていたっていうのもあったんだけど、
薩摩藩もその後、その翻訳された海外の書物を参考にしながら、日本で最初の用航路を建設していったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、これで大型の鉄製の大砲を作ることに成功しているし、あと船だね。
その当時沿岸を航海するような和船しかなかったんだけども、洋式船の建造に力を入れていくんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
その中でイロハマルっていう、全長約40メートルぐらいって言われてるんだけども、っていうのも建造していったりとか、
あとその当時漂流してアメリカへ行っていたジョン・マンジローが琉球に上陸した時期でもあるんだよね。
スピーカー 2
うん。
島津斉彬の技術革新
スピーカー 1
で、彼が補芸船に乗っていたっていう経緯があることを知って、鹿児島に呼び寄せて補芸船の構造を聞き取って、それで作られた帆船がオットー船っていう小型の帆船なんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。
ちょっと多分ジョン・マンジローの時に話したかもしれないけど、この時さ、やっぱり島津成明が藩主だったから、海外に関心がある藩主でさ、
ジョン・マンジローも成明じゃなかったら運命がもしかしたら変わってたかもしれないって言われてるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、島津成明はさ、その後もさ、もっと大型で本格的な洋式船を作りたいっていうところで構想するんだけども、その当時日本はさ、大船建造禁止令っていうのがあってさ、大きな船っていうのは作ることが禁止されてたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、そこでさ、親しくしてたバックフロージュの安倍に相談して、薩摩と琉球の航路において例外的に大型船の建造を許可されたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これはさ、異国である琉球っていうのは禁止令の対象外だっていう根拠で、琉球っていうのはさ、実質薩摩の支配下にありながらも中国と貿易する上で独立を維持しているように示す必要があったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
だから、和船を使わずに中国式のジャンク船を使用してたりしてたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そういった経緯でさ、薩摩は大型船、琉球大砲船って言われるものを建造に取り掛かることができて、取り掛かって3日後ぐらいにちょうどペリー艦隊が裏側に来航したんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
このことで、成明っていうのは防衛強化のために幕府に大舟建造禁止令の解禁をするべきだっていうのを願い出て、幕府がこの願いを認めて、薩摩は琉球大砲船を本格的な洋式船に作り直す届出をすることができたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうしてできたのが、翔平丸っていう全長約30メートルにも及ぶ大砲も16もついているような大型の帆船ができたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
こんなふうにいろいろな取り組みをしていて、ただそれまで作ったのはさ、あくまでも洋式の帆船なんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
彼は当時最新と言われている蒸気船っていうものに関心を持って、その蒸気船の研究を始めて、日本最初の蒸気船運航丸っていうのも完成させているんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
この蒸気船は驚くべきことに、海外の技術者を呼んで作らせたっていうわけではなくて、日本人の手によって作られたっていうところなんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これは書物を取り寄せて研究させて、技術者に長崎に行って、オランダの蒸気船の船内を見学させたりとか、そこにいるオランダ人にいろいろ質問して、そういった中で試作を重ねて日本人がやっと作り上げたものなんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう。で、後にね、この薩摩を訪れたオランダ人がいるんだけど、この蒸気船運航丸を見て、欠陥はありながらも、これを作った人の才能の非凡さに驚かざるを得ないっていうようなことを言ってるんだよね。
薩摩藩の繁栄と西郷隆盛
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。いや、こんなこと言われたよね。
スピーカー 2
いや、わざわざよく言われてるんだよ。
スピーカー 1
言われたことないわ。
で、そんな中で、その様式船を建造するようになると、外国船かさ、日本の船かっていうのを区別することが難しくなってきたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。で、そこで成明っていうのは目印が必要だっていうんで、白地に一つのこの朱色の日の丸を描いたサンプルを作成して、今の日本国旗のデザインのような感じなんだけど、これを日本の船の印とするような提案を幕府にするんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。日の丸ってさ、彼が全部描いたっていう構想したわけではなくてさ、もともと古くから日本人が好んで用いてたデザインだったんだけど、その日本を象徴するっていう意味合いは当時もなくて、その当時もさ、デザインも一つに固まってなくてさ、白地だけじゃなくてさ、紺とか金だったりとか、丸もさ、一つじゃなくて三つとか五つあったりとかもしたんだって。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。こういった中でシンプルな一つの朱色の日の丸を提案をして、これがね、幕府に認められて、その後その日本の船を区別するための印として使われるようになったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、その他にもね、宝石業にも取り組んでいて、さつまはさ、帆船に使う炎、布を作るために始まったって言われてるんだけども、水車を動力として、宝石工業を築いて、綿布の生産を行ったりもしたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、またガラスにも力を入れてて、帆船用のさ、窓ガラスとか、あとさつま霧子って透明ガラスにさ、紅色とか藍色とか紫なんかのその色ガラスをかぶせて、こうカットしてるような文様が象徴的なんだけど。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
長丸もね、キレキレなツッコミが埼玉のさつま霧子って言われてたしね。
スピーカー 2
そう、埼玉じゃ、埼玉だったらさつまじゃねえだろ。
スピーカー 1
そうだね、もうめちゃくちゃだね。
スピーカー 2
もうめちゃめちゃだよ、振り方も雑すぎるし。
スピーカー 1
いや、振ってほしそうだったから今。
スピーカー 2
そう、まあ、それからね、写真に関してもね、フランスで発明されたあの銀板写真を元に、さつまでね研究が行われていって、安成4年に鶴ヶ町内でね、ナリアキラ自らがモデルになって撮影実験に成功してるんだよね。
うん。
そうそう、これあの銀板写真として日本人が撮影した、現存する最古の写真として残ってるんでね。
うん。
スピーカー 1
で、あと電信なんかも行っていて、鹿児島城内のさ、本丸と二の丸の間の約500、600メートルある間を電信を通して実験をして、島津ナリアキラが日本で初めてモールス信号による通信を行ったって言われてるの。
スピーカー 2
うん。
そう、で、さらにこの電信機の電線を使って地雷とか水雷の爆発実験を行って、で、この実験によってさ、その後鉱山開発なんかの岩石崩しにも採用されて、工費の節約にも役立ったって言われてるんだよね。
うん。
スピーカー 1
で、他にもまあいろんなことやってるんだけど、ガス灯の実験だったりとか、パンやビスケットの、とか砂糖なんかの研究製造っていうのもまあ行ってるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう、で、こんな風にさ、ナリアキラっていうのは近代的西洋式工場群の建設に取り掛かって、これらのね、事業の総称を修正官事業って言うんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
まあ一時はね、この次々と建てられた工場に約ね、1200名ぐらいの人が働いてたって言われるもう大規模な工場群だったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これさ、あの、ちょっと調べたらさ、鹿児島市のさ、吉野町に、あの商工修正館って博物館があって、その当時の面影が見れたりするんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう、ただね、2024年9月30日に閉館したんだ。
スピーカー 2
えー、そうなの?もうじゃあ行けねえじゃん。
スピーカー 1
ね、ちょっと俺行きたいなと思ってたんだけど、1ヶ月前、残念なのこれ。
スピーカー 2
いやー、これは運命かもしれない。
スピーカー 1
いやいや、でもだからやっぱ古いものってさ、見とかないとどんどんなくなっちゃうよね。
スピーカー 2
うん、なくなっちゃうとね、もうあとはその残った記録しかなくなっちゃうからね。
スピーカー 1
確かに。で、それからね、あの幕府から海軍技術を教える任務を受けて日本に来てたオランダ海軍の将校らが薩摩に来たことがあって、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
彼らがね、見て言った言葉が、この藩は間もなく日本全国の中で最も繁栄し、また最も強力な藩になることは間違いないっていうようなことを言ってるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう、実際にこれがさ、その後薩摩を筆頭に明治維新っていうのが行われていくっていうことになるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、あと柴津成明で有名なところで言うとさ、西郷隆盛っていう逸材を表舞台に出したっていうところでも有名なんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
西郷隆盛っていうのはさ、もともと下級武士の生まれで、藩士の成明と直接接するような立場ではなかったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、ただ西郷ってその藩に対する意見書を何度か提出していたりとか、あの若い下級武士の中で人望を得てるっていうところで、あの成明は関心を示して庭方役にこう任命するんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう、なんか庭の掃除番みたいな役割みたいなんだけど、この時さ西郷っていうのは28歳時で、これによってさ、藩士である成明から直接面会するっていう機会が得られたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、成明からもさ、用事がある時にいつでも西郷に声をかけられるっていうことにもなって、それからさ、西郷っていうのは成明と親交を深めていって、成明とその親交のある大名家との連絡係なんかも務めていって、どんどん彼の存在っていうのは幕末に大きくなっていくんだよね。
スピーカー 2
うん。
で、成明はね、西郷隆盛のことを殺国、貴重の大宝であるっていうようなことを言ってるぐらい絶賛してるんだよね。
うん。
スピーカー 1
で、西郷自身もさ、成明から多くのことを教わって、すごく尊敬していたし信頼もしていて、で、そんなさ、成明が突然その亡くなってしまったことで、西郷もさ、自分も死のうとしたぐらい、そのぐらいさ、大切な存在だったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、あと他にもその始末成明って、例えば刑法に関しても、もともと薩摩藩の刑法っていうのはすごく厳しいものだったんだけども、この時代どこも厳しいっちゃあれ厳しいんだろうけど、彼のその考えっていうのはさ、罪疑わしきは軽くせよっていう考えがあったんだよね。
島津斉彬の政策と影響
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
死刑をなるべくなくしていったりとかもしたし、あと、例えば父の罪があった場合に、子孫とか親戚にまで及ばないようにってこともしたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。これさ、今では当たり前じゃんって思うだろうけど、昔ってさ、結構その親族も罪に問われるってことがあったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、こういうのも改善していったりとか、こういったことで薩摩藩の牢獄に収監される人っていうのは、かなりの数が減ったって言われてる。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、それからね、民主の暮らしに対しても配慮していて、例えば米の価格がこう上がって、民主にさ米が手に入らなくなった時に、藩の蔵から大量に米を商人に売り渡したりとかして、生活の安定を優先させたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これには家臣から反対の声っていうのもあったんだけども、冒頭の言葉でもあったように、民主の暮らしを安定させるってことを最優先にしたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
こういった彼の行動とか人格なんかからも多くの人から強化されて、幕末の明君としても知られているんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
ただ、彼のやったことがいい面に働いた部分もあるし、マイナスにちょっと働いた部分っていうのもあるんで、ちょっと2つほど挙げたいんだけど、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
この米の配給とか、近代化が促進できたっていうのは、もともと前の藩主の父成岳が財政改革によって積み立ててた財力があったからこそできたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
だから悪者扱いに扱われるんだけど、そんなに彼を責めないで欲しいっていうのをちょっと補足しておきたい。
あ、そうか。
島津斉彬の近代化事業
スピーカー 1
彼はさ、松間の財政悪化を改善させたっていう面もあるし、成明の近代化促進によって、実際に藩の貯蓄っていうのは減っていたっていうちょっと面があるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、あと2つ目はさ、成明自身がこれを扇動して行った近代化事業だから、彼が突然亡くなった時に藩の重役とかがそれを引き付くことができなかったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう。でもそれだけ、成明がもう直接現場で指示を出して行ってたっていうことでもあるんだけど、まあそういったのがちょっと挙げられるかなと思って。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
その後さ、藩主忠義の貢献役として父成明がついたことで、なんか時代がこう逆行したように、例えば資質が大きくなっていた修正官事業っていう規模を大幅に縮小するっていうこともしたし、
で、それによってさ、約1200人ぐらい働いてた人たちが縮小によって20人余りになったって言われてるんだよね。
スピーカー 2
うん。
ただ、この父成明が亡くなったことで、成明の弟島津久光が藩主の貢献役となって、また近代化に力を入れ始めるっていうことになっていって、明治維新園と向かう原動力とはなってるんだよね。
うん。
スピーカー 1
で、彼がやった偉業っていうのはやっぱり明治維新園と向かう先駆けとなって、近代化に力を入れたっていうところなんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう。で、これはさ、その後、日本ではアジアでも唯一、西洋と肩を並べるほど近代化に成功したって言われてるけど、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これってさ、他のアジアとかアフリカ諸国でも近代化を試みてる国っていうのはたくさんあるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、でもそのほとんどが失敗に終わってる。
で、そのやり方っていうのはさ、西洋から材料を輸入して、技術者を直接招いて指導してもらうっていうものが多かったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、ただ日本においてはさ、鎖国体制化っていうのもあったからさ、海外の書物を参考にして、その見たこともないものを作るっていう困難な道を取らざるを得なかったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
薩摩で言うとさ、成明の指示の下、薩摩の技術者が苦労して蒸気機関を作り上げたりとか、鉄製の大砲を作ったりとかしていって、
そういったさ、自分たちで研究して作り上げようとする姿勢がさ、その後の日本が近代化に成功する要因になったんじゃないかっていうふうに思います。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
明治になってさ、その後お雇い外国人とかさ、招いてやったけど、最終的にはさ、日本はさ、日本人技術者が育っていって、外国人工技術者に依存せずに近代化を進めていくことができているっていう、
そんなさ、近代化の先駆けとして大きな影響を残した、始末成明の回でした。
薩摩の技術者たちの努力
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
いかがでしたでしょうか。
スピーカー 2
いやもう、小片郎がね、もう素晴らしい解説をしてくれたんで、もうそれだけでいいんじゃないかとは思うけど、
俺自身あんまり始末成明ってそこまで詳しく知らなかったから、まあほんと小片郎のね、こんだけ詳細な説明でさ、
あ、そんなすごい人がいたから、ちょっとこう近代化?もう推し進められたんだなっていうのは分かって、すごい良かったと思いました。
スピーカー 1
なんかこの人そう、期間が短いからさ、なかなかね、そんなにたくさんの資料があったわけでもなかったから、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
でもそれでもなんかすごいこうインパクトあるようなことをいっぱいしてるから、すごいなと思って。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
まあということで、今回は始末成明でした。
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
じゃあもしよかったら、あのまあ媒体によってですが、あの評価の星だったり、あとはいいねボタンとかあったりするので、何かしらこうリアクションしてくれると私たちとっても嬉しいので、ぜひ宜しくお願いします。
スピーカー 2
はい、ぜひとも宜しくお願いします。
スピーカー 1
それでは最後まで聞いていただいてありがとうございました。
スピーカー 2
ありがとうございました。
27:13

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