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では、朗読します。エペソビトへの手紙、1章1節2節。
神の御心によるキリストイエスの使徒パウロから、キリストイエスにある忠実なエペソの生徒たちへ、
私たちの父なる神と主イエスキリストから、恵みと平安があなた方にありますように。
今日はこのところから、永遠と今、永遠と今と題して御言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。 梅雨の中休みで少し晴れやかな明日となって良かったですね。
今日からですね、エペソビトの手紙の学びに入ります。
地図を出しましたけれども、
エペソというのはですね、この地図の地中海があって、
パウロがですね、第二次伝道旅行と第三次伝道旅行の時に訪れた場所です。
自分で開いてて分からないですね。
ここがエルサレムからですね、この辺ですね、ここがエペソです。
エルサレムがここで、エペソはここです。
先週までコロサイビト・ピリモノの手紙と両方学んできましたけれども、
コロサイビトの手紙の宛先がここですね、コロサイ。
そしてエペソビトの手紙の宛先がここ、エペソです。
コロサイビトの手紙の最後の4章の部分で、
ラゴデキアから回ってくる手紙を読んでくださいとパウロは言っているんですけど、
それはですね、おそらくエペソビトの手紙のことだと言われています。
エペソとこのコロサイはだいたい150、160キロ離れていて、
同じアジア地区の境界でした。
そのエペソの境界、エペソという町も後で紹介しますけれども、
非常に偶像に満ちた町であって、
誠の神様と無関係に動いている、そういうふうに見えるところです。
それは今の私たちにも共通した問題ですね。
ですから、この手紙を学ぶことが私たちにも多くの霊的な示唆を与えるわけです。
そして今日はですね、この2説の言葉、
いつもパウロが手紙の書き出しに書いているこの言葉から、
手紙全体を理解する上での大事な3つの点を学んでおきましょう。
その1つ目は、エペソという彼らが置かれている現在の状況。
それから2番目は、彼らの新しいアイデンティティです。
3番目は、永遠の神様とのつながりという、
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そういう3つの点からともに学んでいきたいと思います。
先ほども、こっちの見やすいのかな。
こうですね、エペソ。
おそらく書説ありますが、この手紙は
エペソか、あるいはローマの極中にあったパウロが
西暦60年代近くに書いたのではないかと言われています。
そしてこの第1番目ですけれども、
エペソ、読者が置かれている場所と時代について、
私たちとも絡めながら見ていきましょう。
実はこのエペソの街について、
使徒の働きの18章19節より後に記録されています。
パウロが3回伝道旅行をしたうちの
第2回目の伝道旅行の最後と、
そして第3次伝道旅行の時に主に
2、3年の間このエペソにとどまって
代々的な伝道活動が行われました。
パウロがユダヤ人の街道に入って
反対を受けた後にですね、
ツラノの行動という、
なんていうんでしょうね、今で言えば
ニーザだったらニーザ市民会館とか、
四季市民会館とか、
ああいう大きな行動にパウロは移って、
そこで2年間教えて、
聖書によれば先ほどのアジア宗の人全てが
御言葉を聞いたとあります。
おそらくその時にエパフラスが福音を聞いて、
彼がコロサイに帰って
コロサイで宣教をして
コロサイ教会ができた、
という関係があるようです。
さあ、このエピソビットの手紙は
コロサイビットの手紙とペレモンの手紙が
書かれた後に多分書かれて、
エピソのリフォージン・クリスチャンに
対して書かれました。
その時にですね、
この使徒の働きを読んでいただくと
わかるんですけれども、
アルテミスに関わる魔術が
すごく盛んに行われていた
エピソの町で
たくさんの人がイエスサムを信じて
魔術書が焼かれたんです。
銀貨5万枚というので
だいたい500万円相当
少なくともしたんじゃないか。
それだけの本が焼かれた。
そしてエピソはアルテミス、
女神アルテミスの町でしたから
アルテミスの神殿を売って
銀細工を売って人々を設けていました。
修学旅行で日光行ったりとか
京都行ったら買いますよね、
お寺のレプリカとか。
そういうので設けていた銀細工人たちが
このままだったら
私たちの商売上がったりだ
そんなことを言って騒動を起こしたんですね。
そのちょっとところ
使徒から抜粋しました。
19章の27から30
ちょっとつらつらと読んでいますね。
前にも掲示してますけど。
これで私たちの仕事も信用を失う危険があるばかりか
大女神アルテミスの神殿も帰り見られなくなり
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全アジア全世界の拝むこの大女神のご遺行も
地に落ちてしまいそうです。
そう聞いて彼らは
証拠会議所の人たちですね。
大いに怒り
偉大なのはエピソ人アルテミスだと叫び始めた
そして町中が大騒ぎになる人々は
パウロの同行者であるマケドニア人ガイオと
アリスタルクを捕らえ一団となって
劇場へ流れ込んだ。
パウロはその集団の中に入っていこうとしたが
弟子たちがそうさせなかった。
こういう騒乱状態に
町が落ちるほどの騒動になりました。
で、これほど影響力があった
アルテミスどんなものか
少し学んでいきたいと思うんですけども
こんな感じちょっと図を出しましたけどね
エピソ、こういうアルテミス礼拝
皇帝、他ですね
偶像の礼拝を行われた
このアルテミスというのはですね
女神であって
神殿がエピソの町の中心から
2キロのところにあったそうです。
そしてギリシャのパルテノン神殿って
見たことあると思いますけども
それの約4倍の大きさがあった。
そして当時、今もですかね
世界の7不思議
そんなでかい建物があったということが
世界の7不思議に数えられていたほど
大きな神殿だったわけです。
そして年2回大きなお祭りが行われていました。
エピソはこのアルテミスを祀る責任があったんですね。
一つ目の祭りは
結婚と運動の祭典だそうです。
女神アルテミスが相手を取りもって
いわゆる若い男女の婚活の場になっていたんですね。
そして何か運動競技が行われていた。
そして学者によればそこで
女性がアピールしたり
そういうペアリングの季節なので
非常に不死だらな行為が
公然となされていたようです。
だから後半出てきますが
エピソのビットの手紙でパウロは
不貧困を避けなさいと
光の子供らしく愛みなさいと
命令していたわけですね。
もう一つの大きな祭りは
それから2ヶ月後ぐらい
5月6月ちょうどこの時期に
行われていた祭りです。
日本でもよくあるような
アルテミスの偶像を担ぎ出して
町を4キロ周遊する
そういう祭りで
信者たちはその後を練り歩くという祭りでした。
それがその一月の間に
2回も行われていた。
日本でもありますよね。
出身など歩いて
それがまたその神々への
献身を表す行為だった。
そして実はですね
宗教と政治が
非常に強く結びついていて
アルテミスの神官がですね
神の役職のある者がですね
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政治の中枢にいたそうです。
だからいわゆる祭りごとと
偶像の祭りが密接に
関わっていたのが
このエペソという町だったんですね。
そしてローマ帝国の霊に漏れず
いわゆる皇帝礼拝
皇帝をすべての保護者
平和の実現者
私たちに物を与えてくださる
ジェネラスな
ベネフェクターということで
祭りあげられていたわけです。
そして先ほども言いましたが
エペソの女神の意向を表す
魔術が行われて
人々は縛られていたわけです。
私たちは当然
このような明らかな偶像礼拝とは
関わりがありません。
しかし
この間までG7サビットが行われ
今はコロナでいろんなことが
政治的な判断
国際的な判断が行われています。
そういうのを見るときに
誠の神とは無関係に
物が動いているように錯覚しますよね。
あるいは
こういう中でも
株などでお金を
すごく儲ける人たちがいて
格差が広がっている
いわゆる大富豪を見ると
神など信じなくても
お金を儲けている人がいるじゃないかと
自分たちの
無なしさや無力さを
実感してしまう
感じてしまうかもしれません。
そのような
豊かさと権力と
無関係であるという気持ちに
私たちはさせられてしまうでしょう。
しかしパウロはこの手紙を通して
聖書の神様こそ
イエス様こそ
全ての権威に勝るお方だと
告げているわけです。
そして
前の図にも表しますけれども
今の時代と
現実は
誠の神と関係ないように動いている
アルテミスをはじめとする
そのような
この世の勢力が
支配しているように見えるけれども
パウロはこの手紙を通して
聖書の神様イエス様こそ
全ての権威に勝る神であり
クリスチャンは
アルテミスや皇帝ではなくて
その偉大な神様の
力を知るために
誠の神様への忠誠を
誓い生きるべきだと
この手紙の中で訴えているんですね。
今日
教会に来た方にはレジュメを
ライフしましたけれども
例えばこのレジュメの
ローマ数字の2番の
2章の中で
そういう
異教の世界と
今の私たちのことが書かれていますし
AとBで大きく分かれるんですけど
2枚目ですね。Bの後半には
異教社会で生きる
神の民の
在り方ということが
12:01
エペソビトの4章から
後半にかけて教えられている
わけです。
エペソ
誠の神と関係ない
この時代に生きるべく指針が
エペソ書の中に
これから語られていくということを
覚えておいてください。最初はですね
手紙の受け手、あるいは私たちが
生きている現実の場所という
エペソ、この時代
そういうことを見てきました。2番目
忠実な生徒たちへと
パールを書いています。今の時代を生きる
新しいアイデンティティ
ということですね。
一章一節
皆さん読んでみましょうか。前に掲示してあります
3、はい
神の御心による
キリストイエスの使徒パウロから
キリストイエスにある
忠実なエペソの
生徒たちへ
この宛先
エペソの忠実な
生徒たちへと書いてあります。
先ほどの図の
続きですけれども
ここでパウロは
誠の神なきが如く進む
時代に生きる生徒
そのような
新しいアイデンティティに
気づかせようとしているのではないかと
見ているわけですね。
クリスチャンが生きている
エペソという時代
また場所
しかしそこに生きる
クリスチャンは
忠実な生徒、神の民であるということを
思い起こさせているわけです。
そこの中で
新しい立場
新しい
違法人から
開始した神の民となった彼らを
忠実な生徒と
呼んでいます。
この忠実な生徒
という
言葉ですけれども
忠実なというのは
ギリシャ語ではですね
信仰と同じ言葉
信仰と同じ言葉の
由来があって
イエス様を信じ
イエス様に忠実に歩む人を
忠実なと言っているのです。
そして生徒というのは
よく今まで言いましたが
旧約聖書の神の民をもとにして
生まれた言葉
神が聖であられるように
聖なるものとして生きるべく
神に選ばれ
この世から召し出された人々を
指しているのです。
偽造と不品行に汚れた
町で生きている
クリスチャンというのは
真実の神
真実な神を
信じそこに忠誠を
誓っている。そして神に
聖なるものとして選ばれた
そう生きるべく選ばれた
神の民である
そのことをパウロは
思い起こさせているようです。
15:03
この
実はこの新しい
イデンティティについてパウロは
語っていますけれども
エペソビトの手紙の中でパウロは
そのことを詳しく祝福として
語っていくわけです。
この配布したですね
公害の
ローマ数字の2番や
3番にある
2章全体
を通して
生徒ということについて
違法人として
死んでいたということと
2章で語っていますし
そして3章にかけては
違法人が
神の民とされた
祝福を語るわけです。
それじゃあ先ほど言いましたが
4章以降の後半の
部分
信仰の実践の部分では
生徒として
神に忠実に生きるものとして
具体的にどう生きたらよいのか
その指針が
教えられている
わけなんですね。
そしてパウロは
ただそういう義務感を押し付けるだけではなくて
その
生徒とされた
神の相続を受ける豊かな
祝福について
十分知ることができるように
祈っているんです。
1章18節ですね。
前に掲示しまして読める方は一緒に読んでみましょうか。
あなた方の心の目が
はっきり見えるようになって
神の召しにより
与えられる望みが
どのようなものか
生徒たちが受け継ぐものが
どれほど栄光に
富んだものか
知ることができますように。
先ほども言いましたが
目に見える現実は
アルテミスを礼拝している
神など関係ないと知っている方々
人々が反映しているように思えるかもしれません。
でも
パウロはそうじゃなくて
心の目がはっきり
見えるようになるように
そしてそれによって
生徒たちの受け継ぐもの
神からの祝福はどれほど素晴らしい
栄光に富んだもの
であるかということを
心の目が開かれて
見えますようにと祈っています。
実際そのことが
先ほども言いましたがこの手紙の中でこれから
素晴らしく語られていくわけなんですね。
2番目は
新しいアイデンティティ
異教の世界
エヴソで生きるクリスチャンの
新しいアイデンティティを見ました。
3番目は
父なる神と主イエスキリストからの
恵みと平安
それは永遠との
繋がりを意味します。
2節を一緒に読んでみましょう。
前に掲示しました。
私たちの
父なる神と主イエスキリストから
恵みと平安が
あなた方にありますように
18:01
この父なる神
主イエスキリストから
恵みと平安が
エヴソの兄弟姉妹に
今を生きるあなた方にありますように
とパウロは祈っているわけです。
ここでパウロは
目に見える今の時代と
その目に見える現実以上のものに
触れているんです。
それはつまり
目に見えない神様の
永遠の現実と
その祝福であるところの
恵みと平安を
祈っているんですね。
先ほどの続きですけれども
私たちは今この
限られた時間と時代に
来ているように思いますが
実はそうじゃなくて
私たちは
永遠の父なる神の主イエス様
聖霊様の中で
私たちは
生かされているということなんです。
恵みと平安
一般よく聞く言葉ですけれども
これは
恵みと平安というのは
福音をまとめた言葉だ
という格小言です。
福音の要素は何か。それは神の恵みと平安だ。
この平安には
何があるかというと
平安は平和
私たちに対する問題や
私たちに敵対する
勢力の中にあっても
与えられる神の平安です。
問題や敵意の中で
与えられる神の平安。
しかしそれにとどまらないで
それを超えた
神様の実際の祝福も
この平安に
含まれているんですね。
アルテミスや皇帝のような
この世の神々や
慈愛者ではなくて
まことの神様
主イエス様にこそ
私たちの本当の祝福の
源があると
パウロは目に見えない銀図に
訴えているわけです。
そのことを
この手紙を通して私たちも
学ぶことができます。
そしてこの恵みというのは
先週学んだように
私たちが計り知ることもできないほどの
豊かな神様からの
何て言うんでしょうか
御徴ですね。
びっくりするような、信じられないほどの
あり余る
豊かさから
与えられる祝福を
恵みと言います。
実はこの
神の平安と
神の恵みは
父なる神様が
イエス様の十字架のあがないを
通して、そして
聖霊という
媒体を通して実際
今の私たちに与えてくださるんですね。
この
21:01
恵みと平安
永遠と現実の
祝福が
このエピソービットの
手紙の中で語られていますけれども
これから学んでいく一章の
続きの部分で
神の永遠の祝福
ということが書かれています。
そして
公害のBですね。
四章以降の実典の部分でも
この永遠の祝福や
永遠の時間を意識しながら
今の時代を生きていく
その指針について
後半の部分でパウルは
教えているわけです。
私たちはですね、まさに今
神なき時代の中で
生きているような
錯覚に陥ります。
エピソーのクリスチャンたちも
私たちもでも
本当の
現実、それは
永遠の神様の現実の中で
生かされているということなんですね。
ちょっとこういう図に
描いてみました。
実は私たちは
この何でしょうかね
エピソーだったら、こういうエピソーの
街、その時間の中で
生きているように思いますけれども、実際は
私たちの
生き様や時間はこの
永遠なる神様と
つながっているんですね。今の時代に
おいても。
で、実は
私たちがですね、今
祈ったり、助けを求めて
神の恵みや平安を体験する
ということはどういうことかというと、実はこの
永遠の祝福が
私たちの日常の現実に
入ってきている。
永遠の現実が今とつながる
体験というのがですね
私たちが神に祈り
神の恵みと平安をこの時代
この時代で体験する
ということなんですね。
これこそですね
永遠が
私たちの日常とつながっているという
そういう
クリスチャン信仰の
醍醐味なんですね。しかし
いつも言っていますように
私たちには人間的限界が
ありますから
偉大な神様を知り尽くすことはできませんし
永遠とは
何ぞやと、やっぱりよく
わからないことがあるんですね。
神を知り尽くすことは
不可能です。だからパウロはそれを知りながら
このように祈って
この手紙を通して
私たちが神の偉大さを
知るように
この手紙を進めているんです。
そのパウロの祈りを読んで
終わりにしたいと思います。
1章17節で
パウロはこのように祈っています。
読める方は読んでみましょう。
24:01
どうか私たちの主
イエスキリストの神
栄光の父が
神を知るための知恵と
啓示の御霊を
あなた方に与えて
くださいますように。
エペソー1章17節。
これからエペソビトの手紙を
学びながらですね
私たちの目が開かれ
神に力を与えられて
ですね
御霊の導きにより
神の素晴らしい祝福、また神様ご自身を
知っていくことができるように
祈っていきたいと思います。
祈りましょう。
天の神様
皆を賛美いたします。
エペソの生徒たち
そして私たちも
誠の神であるあなたが
無関係に見えるような
そのような時代に
生かされています。
しかし、私たちは
永遠のあなたとつながりながら
そのあなたの
祝福の上に養われ
導かれていることを感謝いたします。
どうぞ
私たちの心の目を
開き、また
啓示の見た目を与えてくださり
あなたが与えてくださった
素晴らしさ、あなたご自身の
素晴らしさを
この御言葉を通して
日々の歩みを通して
これから知ることができるように
導いてください。
この願いと感謝を
私たちの救い主、主イエス様の
お名前によってお祈りします。
アーメン
それではしばらく
お祈りしましょう。
今の時代また
膨大な永遠の時
様々難しい
課題があるかもしれませんが
それぞれの思いを委ねながら
しばらく
祈りのうちに時間を過ごしましょう。