全地が暗くなる意味
マルコの福音書15章33節から41節をお読みします。
さて、十二時になった時、闇が全地を覆い、午後三時まで続いた。
そして三時にイエスは大声で叫ばれた。
エロイエロイレマサバクタニ。
訳すと、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか?」という意味である。
そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて行った。
ほら、エリアを呼んでいる。
すると一人が駆け寄り、海面に水葡萄酒を含ませて葦の棒につけ、
待て、エリアが卸しに来るか見てみようと言ってイエスに飲ませようとした。
しかしイエスは大声を上げて息を引き取られた。
すると神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
イエスの正面に立っていた百人大帳は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て行った。
この方は本当に神の子であった。
女たちも遠くから見ていたが、その中にはマグダラのマリアとショウヤコブとヨセの母マリアとサロメがいた。
イエスがガリダ屋におられた時に、イエスに従って仕えていた人たちであった。
この他にも、イエスと一緒にエルサレムに登ってきた女たちがたくさんいた。
今日はこのところから、見捨てられた救いの人たちに対して見事を取り継ぎます。
レジュメの方をお願いいたします。
みなさんおはようございます。
先週は台風が近づきまして、日本をかつてないほど大きな台風が襲うのではないかと、戦線恐竜として東海道新幹線はじめ鉄道が止まったり、大混乱していましたが、
幸いと言っていいのか、私たちが住む埼玉県のエリアは川越の方で浸水などあったようですが、
とりあえず台風直撃ということは免れたようです。
そんな中早いもので、今日から9月が始まり、最初の9月、最初の礼拝となります。
そして今までマルコの勲章を順番に見てきましたが、今日は一つのクライマックス、イエス様が息を引き取られたところです。
見捨てられた救い主という歌いでですね、3つの点、どうして全地が暗くなったのか、そして2番目、イエス様が十字架の上で神に見捨てられたといって叫んだ意味は何なのか、
そして最後にですね、この百人隊長の真空捕獲に関わることを見ていきたいと思います。
最初に1番目は不吉な予兆としての暗闇ということで、もう一度15章33節を読んでいます。
さて12時になった時、闇が全地を覆い午後3時まで続いた。
先週見たようにイエス様は当時の時間の朝およそ9時に十字架にかけられました。
そしてその3時間後のですね、正午12時から3時間、全地を闇が覆った、そういう記録なんですね。
それはイエス様が息を引き取る時までの3時間の間ですけれども、
その3時間というのはイエス様が息を引き取る前の前兆だったということですね。
その全地が闇を覆ったということはですね、不吉な出来事の予告ということはそうなんです。
そこには少なくとも3つの意味があったと言われています。
1つ目はですね、旧約聖書出エジプト記で、エジプトから奴隷のイスラエルが救出された時に、
10の軌跡がありましたが、そのうちの1つにエジプト全土が闇に覆われた。
それはですね、エジプトへの神の裁きが現れたということで、この暗闇には最初にはですね、
神の裁きが現れた、十字架がそのような時だったという意味があるわけです。
そして2つ目はですね、終わりの訪れ、つまりよく言う終わりの始まりとして、
闇が地を覆うということが旧約聖書に記されています。
アモス書にですね、こう指摘されているんですね。
8章9節、その日には神である主の言葉、私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。
さらに、実はこの、簡単に言ってしまうとですね、終わりの日のメシアの到来、
そして神の完成の時の到来を、あらかじめ告げた言葉と言われてますけども、
この後にですね、いわゆる救い主が再び来られて、終わりの時に贖いを完成するという、
そのような、私が言っていれば、預言の言葉なんですね。
実は、ここはですね、イエス様の十字架の時にそれが起こったということは、
終わりの時の始まりという意味とですね、そしてイエス様はまさに世の終わりに再び帰って来られて、
救いを完成させる再臨の救い主だということを、このアモスの御言葉に合わせて語っているわけです。
そして三つ目の意味はですね、このイエス様の十字架の時にわざわざですね、
全地が闇を追ったと書いてあることが大事なんですね。
イスラエルの一部ではなくて。
で、それはですね、神様が送った救い主を神の民イスラエルが捌いたということであれば、
このエジプトの時のように、イスラエルだけが暗くなったと書かれてもおかしくなかったんですが、
あえて全地が暗くなった。
それはですね、イエス様の十字架は全ての人の罪を贖うものだ。
簡単に言うと神は、イスラエルに関係なく全ての人のことを裁く神だということにして、
繰り返しますが、その反動として全ての民をイエス様は贖う救い主だということを、
この十字架の出来事が表している、この暗闇が表しているという意味になるわけなんですね。
このようにイエス様が息を引き取る前の正午からの3時間の暗闇。
それにはですね、イエス様がこの十字架の上で神の裁きを受けられた。
それは、全世界の人の罪を贖うためであり、
イエス様はやがて世の終わりの闇が訪れた後、再び帰って来られる、
サエリの救い主であるということを表している。
そういう意味があったということを覚えておきましょう。
見捨てられた救い主
2番目、今日の一番大事な点だと言えるかと思いますが、
見捨てられた救い主ということを見ていきましょう。
15章34節。少し難しいんですが、ちょっと頑張って読んでみましょうか。
ここから行きましょう。
そしてサンジにイエスは大声で叫ばれた。
エロイエロイレマサバクタニ。
ヤクストワガカミワガカミ。
どうして私をお捨てになったのですか。という意味である。
このイエス様の最後の叫びは、先週4編の22編から、
いくつか受難の救い主の預言が成就したということを見たんですが、
その冒頭にある言葉なんですね。
4編22編の1節には、
偽人がゆえもなく敵から攻撃されるというか、
その中で叫ぶ声が記されています。
ワガカミワガカミ。どうして私をお捨てになったのですか。
私を救わず、遠く離れておられるのですか。
私のうめきの言葉にもかかわらず。
という、簡単に言うと、4編の受難の召し上げの言葉が、
このイエス様の祈りに重ねられている。
ちなみに、このエロイエロイレマサバクタニというのは、
英語で言うとダイアレクスですね。
この当時、人々がガイデラヤ地方で話していたアラム語なんです。
イスラエルの公用語はヘブライ語なんですね。
微妙なんですけども、簡単に言うと、
いわゆる方言でイエス様は聖書の言葉を使って神様に叫んだ。
それほどイエス様の言葉の中に御言葉が入っていたということと、
それから学術的に言うと、
イエス様の喋った生の言葉が、
こうやって聖書に記録されている、大変珍しい例だということでもあるんです。
イエス様は、いろんな人たちに見捨てられました。
自分の民に見捨てられて、
そしてその民のリーダーであるサンヘドリンの議員たちにも見捨てられ、
あざけられ、そして先週の最後の部分では、
十字架の共に架けられた犯罪人にも侮られて見捨てられた。
そして十二弟子をはじめとする弟子たちもこの時にいなかった。
最愛の弟子たちにも見捨てられた。
そして最後に、まさに最愛の父なる神に、
なぜ私を見捨てるんですかと叫ばれたわけなんですね。
漢字で厳しいに酷いと書いて厳酷という言葉がありますね。
これを神明界国語辞典で調べると、こういう意味があるんです。
相手がどんなに苦しくても容赦しないほど厳しい様子。
これが厳酷という意味なんですね。
このマルコの副印書には、父なる神様がどれほどイエス様を愛しているか、
最愛の御子だということが2回記されていますね。
最初はバプテスマを分けた後、マルコ一書十一節に神の声が聞こえたとありますね。
読める方、ここを読んでみましょうか。
あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶ。
そして二つ目は、フェテレロは三人の弟子の前で、イエス様がご自分の正体を表した変貌山での出来事の時でしたね。
九章七節、読める方読んでみましょうか。
これは私の愛する子、彼の言うことを聞け。
共通する言葉は、私の愛する子という言葉です。
父なる神の、まさに最愛の神の御子であったイエス様ということが表されているわけですね。
その最愛の父なる神に見捨てられたということはどういう意味があるか。
それは全人類の罪を贖うためには、愛する御子にさえ容赦しない神の裁きが下さらなければならなかった。
まさに厳酷な仕打ちが御子に対して十字架の上でなされたということなんです。
そして十字架は旧約聖書、神の民、ユダヤ人の中では呪いの印と言われていたんですね。
パウロもガラティア3-13でこう言っています。旧約聖書を引用して。
キリストは御自分が私たちのために呪われたものとなることで、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。
木にかけられた者は皆呪われると旧約聖書に書いてあるからです。
このような厳酷な父なる神からの十字架という仕打ちは、まさに神の裁きを全人類の裁きを十字架で担って、そしてその結果神に呪われたものとなったということを表しているんです。
じゃあイエス様はどういう気持ちでそれを受け入れたのか。私を見捨てたのかと神様を恨んだのか。
皆さん覚えていると思いますが、ゲステマネの祈りでイエス様はこのように祈られましたね。
14章の36節。ちょっと読める方頑張って読んでみましょうか。
アバ父よ、あなたは何でもお出来になります。どうかこの杯を私から取り去って下さい。しかし私の望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。
こうやってまさに苦い杯を飲むとイエス様はゲステマネで決意されたわけですね。
そして取り上げませんでしたが、先週と今日の場面でイエス様は2回、人から差し出された杯を拒んでいます。
先週十字架の登場で、おそらく同じユダヤ人の女性だった方が差し出した牧薬と葡萄酒を混ぜたものです。
そして今日の箇所では、息を引き取る前にローマの兵士が葦の棒に麺をつけて染み込ませた葡萄酒を飲ませようとした。
一説によると、その葡萄酒はローマの兵隊たちが酢を混ぜて飲んでいたものであり、またその棒というのはイエス様を叩いた葦の棒だったという説があります。
しかし、この2つの葡萄酒が表す意味は哀れみの印だったのです。痛みを和らげる印。
あの過酷な兵士でさえイエス様の十字架のような苦しみを和らげようとした。
今で言えば、威嚇的に言うと緩和嫌い的な、そういう息を引き取る前に苦しみを和らげ、そして命を流れさせるための葡萄酒だったわけなんですね。
しかしイエス様はそれを拒んだわけです。なぜでしょうか。
それは神の裁きの苦しみを完全に受け止めようとされた決意の表れなんです。
神の差し出したこの苦しみの杯を余すとこなく飲み干そうという決意の表れだったんですね。
神の裁きを受け入れる決意
また一説によると、いわゆる麻酔薬的な葡萄酒を飲んで、意識を朦朧とした状態で死を迎えるのではなくて、
はっきりと目覚めた状態で痛みを感じながら神に自分の霊を委ねようという、そのような十字架を全面的に受け止めようとするイエス様の意思が、
この二つの葡萄酒を拒んだところに現れていたということなんですね。
はっきりとした意識を持ってイエス様はこの十字架の苦しみを担われたわけです。
そしてイエス様が息を引き取られた後に、神殿の幕が真っ二つに裂けたと言われています。
幕が二つあって、手前は違法人の庭とユダヤ人を隔てている幕。
それが裂けたということは、違法人もユダヤ人もない、全て神の民だということが言えたそうです。
二つ目の幕は神殿の始聖所、英語で言うとHoly of Holyと言って、その中には神の臨済を象徴する神の箱があったんですね。
そこは年に一回、大祭司が一度だけ入ることができた。
しかも厳重な清めの儀式を行って、やっと入ることができたのが、神の臨済を象徴する箱がある始聖所、Holy of Holyだったんですね。
そこも幕で隔てられていましたが、その幕が裂けました。
それはどういう意味があるか。
イエス様の十字架の贖いによって、全ての人の罪が許されて、誰でも神の臨済の前に出られるということを表しているんです。
年に一回だけ、特別な人が特別な清めをして入れた神の臨済の場所に、
今はイエス様の十字架の贖いの上に、誰でも神の臨済に触れることができる。
そのことを、この幕が裂けたことが表しています。
百人隊長の信仰告白
このような、神に見捨てられた過酷な十字架でしたけども、
贖いを成し遂げて、私たちを神に近づけてくださった。
そのような救いの道が、イエス様の十字架によって、神に見捨てられたその御業によって開かれたということを覚えておきたいと思います。
最後、3番目、百人隊長に見えた救い主ということです。
15章39節、読める方一緒に読んでみましょうか。
イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見ていた。この方は本当に神の子であった。
百人隊長というのは、こんな再現された絵がありますが、皆さんご存知のように、当時の最強のローマ兵の百人部隊の指揮官だったわけですね。
そして、おそらくイエス様の死刑の執行の番人であり、責任者だった。
イエス様の十字架を最も近くで見ていた。
聖書の言葉では、すぐ横に、バイスタンダードと言いますが、すぐ隣に立っていたとか、十字架の真正面に立っていたとも言われています。
その彼がイエス様が息を引き取る様を見届けて、この方は本当に神の子であったと言っています。
元の言葉では、一番最初にアレソース、マコトニという言葉が出るんです。
本当にと感動した彼の様子が現れていて、実はこれは百人隊長が違法人の代表者として信仰告白したんですね。
ユダヤ人の代表としては、ちょっと前にペテロが、あなたはキリストですとヘンボザンの前に言った。
ここでは違法人の代表、マルコが書かれた大正のローマ人とも言われていますが、その代表として百人隊長が信仰告白をしたと言われているんです。
実はこの言葉は、マルコの福音書の冒頭一章一節の、神の子イエスキリストの福音の始めという言葉の始まった物語の完結させる頂点の言葉なんです。
この方は本当に神の子を救いにしていた。
そしてまさに、彼はイエス様が息を引き取る姿を見て信じた。
イエス様が十書四十五節で言っていますが、人の子も多くの人のための贖いの代価として自分の命を与えるために来たのです、という救い主としての仕事を完成させるところを百人隊長は目撃したわけです。
ちょっと先週のことを覚えている方は興味深いことに気付かれたと思いますけれども、先週イエス様を罵る言葉で共通の言葉があったんです。
一つは他人を救ったがお前は自分を救えないということ、もう一つは十字架から降りて来い、自分を救ってみろと、それを見たら俺たちは信じるぞと道行く人やまたユダヤ人の指導者たちが言ったんです。
お前が降りたら、それを見たら、私たちは信じる。しかしここでは百人隊長はイエス様が息を引き取るところを見て、十字架の上から降りずに、十字架の上で息を引き取るところを見て、信仰告白をした。そのコントラストが際立っているわけです。
神様に呪われた、その現れである十字架の上で救いが成し遂げられた。神様などいないと思えた十字架の上に、まさに神の御子がおられた。そういう神様の不思議な救いの技が十字架の上にあったわけなんですね。
そして、私たちがとて神様などいないと思える世の中にあっても、その中にも神様がおられて私たちを救ってくださる。神なきところに神がおられて、神が私たちを救うということが十字架に現れた技なんですね。
イエス様が我が神、我が神、どうして私を見捨てになったのですかと叫ばれましたけども、私たちが同じように見捨てられたと思っても、神様が頼れるその理由はなぜかというと、イエス様自身が叫ばれて、自分が見捨てられたと思ってもなお神様をイエス様は、我が神、我が神という自分の言葉で呼んで、神に頼られている。
そういう証拠でもこの言葉はあるんだと言われているんですね。私たちがそういうことがあってはならないと思うんですけども、神様に見捨てられたと思うときでさえ、なお神様に頼ってですね、我が神、我が神と救いを求めて祈ることができる。
その確証がこのイエス様の十字架の祈りの中にあるということなんですね。このイエス様のありさまと私たちの救いを表す御言葉を最後に見て終わりにしたいと思います。
ヘブル人の手紙の五章七節、このように書いてあります。キリストは肉体を持って生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いを捧げ、その経験のゆえに聞き入れられました。
そして最後ですね、パウロの言葉、ガラティア三章十二節を読んで終わりにしたいと思います。読んでみましょうか。
私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信を持って大胆に神に近づくことができます。
神様に祈り近づく私たちでありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。イエス様が十字架の上で、その神の裁きを受けられ、私たちのために救いを成し遂げて下さいました。
私たちの想像や思いに絶するそのような十字架のあなたの苦しみを今日見ることができました。
どうかその深さ、偉大さを私たちが知ることができるように導いて下さい。
私たちが行く先がない神様に見せられたと思う時でさえどうぞ、あなたは私たちのことをご存知ですから、
このイエス様に倣って、あなたに助けを求め祈り、またあなたの救いをいただくことができるようにどうか私たちを導いて下さい。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。
それでは1分ほど神様に応えて、黙祷する時間を持ちましょう。