バブテスマと投獄の背景
それではお読みします。ヨハネ3章22-30その後イエスは弟子たちとユダヤの地方に行き、彼らと共にそこに滞在して、バブテスマを授けておられた。
一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバブテスマを授けていた。
そこには水が豊かにあったからである。人々はやってきてバブテスマを受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかった。
ところでヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人と清めについて論争した。
彼らはヨハネのところに来て行った。先生、ヨルダン川向こうで先生と一緒にいて、先生が赤死されたあの方がなんとバブテスマを授けておられます。そして皆があの方の方に行っています。
ヨハネは答えた。 人は天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。
私はキリストではありません。むしろその方の前に私は使わされたのです。と私が言ったことは、あなた方自身が明かししてくれます。
花嫁を迎えるのは花婿です。 そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、
花婿の声を聞いて大いに喜びます。 ですから私もその喜びに満ち溢れています。
あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。 以上です。今日はこのところから脇役の美学と題して見事を取り続けます。皆様おはようございます。
今日は2024年2月最初の日曜日となりましたけれども、埼玉では雨が降ってますね。
そして昨日少し前から埼玉でも雪がちらつくのではないかと言われていましたが、とりあえず雨で済んでいる。
ただ今週中頃もしかしたら、火曜日に雪になるかもしれないと、そんなことも報じられていますけれども、
今日もこのように皆様と礼拝を守れることを感謝しています。 さて先週から続いて、
ヨハネの3章22節から30節を学んでいきます。 今日の箇所では、短く的確にクリスチャンとしての美徳を表す格言が2つ書かれています。
それはですね3章27節のこの言葉。 人は天から与えられるのでなければ何も受けることができません。
もう一つは3章30節のこの言葉ですね。 あの方、つまりイエス様は盛んになり私、バブテスマのヨハネは衰えなければなりません。
というこの2つです。 そしてまた今日の箇所ではですね、聖書を深く広く読む楽しさを垣間見ることができるんですね。
これまで語ってきました。 あとでも詳しく言いますが、今日の箇所の場面設定とか時間の設定を移り変わりを今日のところから知ることができます。
それは他の福音書と比べるとわかってくることなんですね。 まず最初にその点を触れます。
そして次の2つの点で、この2つのそれぞれの格言と関わりあることに触れて、私たちの
クリスチャンであれば信仰生活と関わりのあることを学んでいきたいと思います。 皆さんご存知かと思いますが、ちなみにヨハネの福音書を書いたヨハネはイエス様の弟子。
そして今日登場する ヨハネはバブテスマのヨハネということで別の人物。
私が今日ヨハネという時はそちらのヨハネをのこと意味しているということを覚えておいてください。
さて まず最初の点第1は他の福音書との関わりからわかること。
ちょっとなんでしょうかね、学校の授業みたいな話になりますのでレジュメを見たり、このビジュアル見たりしながらまた必要なら後で復習してみてください。
まず3章22、24節でこう書いてあります。 その後イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと共にそこに滞在してバブテスマを授けておられた。
この短い一言だけ読んでみましょうか。3、ヨハネはまだ投獄されていなかった。
実はこの箇所にはですね、大変興味深い事実が記されているんですね。 それは
バブテスマのヨハネとは別にイエス様がバブテスマを授けていたという事実なんです。
誤解生じないように早めに言っておきますけれども、4章の2節には実はバブテスマを直接授けたのはイエス様の弟子だということが書かれています。
ただイエス様の弟子たちがバブテスマを授けていたヨハネとは別に、この事実は
何が興味深いかというと、他の三つの共感福音書ですね、マタイ、マルコ、ルカには書いていない真実なんです。
ちょっと詳しく言うと、ヨハネの福音書はそれら三つよりもだいぶ後になって書かれたので、
著者ヨハネ、イエス様の弟子のヨハネがこの今日の出来事をイエス様のバブテスマのことも含めて加えたと考えられているんですね。
それは今言ったように他の福音書との比較の中でわかることなんです。
そしてもう一つ興味深いことはですね、今日の箇所に短く記されている、ヨハネはまだ投獄されていなかったという言葉、この短い言葉がなぜここにあるかというその意味なんですね。
なぜこの言葉があるか。 実はそれはですね、
ヨハネの格言と教訓
この言葉によって今日の出来事の時間設定がわかるわけなんです。
いつ、このヨハネの弟子たちがイエス様の弟子たちがバブテスマを授けていることについて、ネタンデなんですけど、ヨハネに文句を言ったというかですね、
危ないということを伝えたかという、この出来事が起こった時間軸がわかるんです。 なぜかというと、
今日の出来事はイエス様がヨハネからヨロダン側でバブテスマを受けて、その後アラノで誘惑を受けますけれども、そして神の国を宣言して公に宣教を始めます。
イエス様の後生涯というんですけれども、実はこの今日の出来事はイエス様の後生涯、宣教の始めとイエス様がバブテスマを受けたその間にあった出来事なんですね。
そのことが、この短いヨハネの盗獄がまだという言葉からわかるということなんですね。 なぜかと言いますと、
この絵もありました。失礼しました。 絵を一応用意してました。お見せしますけれどもね。
なぜかと言いますと、このマルコの1章の14、15節等の関わりを見ると時間軸が見えてきます。
マルコの1章14、15にこのように書いてあるんですね。 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリダヤに行き、神の福音を述べ伝えて言われた。
時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。 教観福音書ではこの言葉がイエス様が公に宣教活動を始めた宣言の言葉になっているんです。
で、この宣言の言葉の前にヨハネが捕らえられた後、 投獄された後って書いてありますから、
この3章24節のヨハネはまだ投獄されていなかったという言葉からですね、
今日の出来事はイエス様の交渉外の前、そしてイエス様がバブテスマを受けた後のことだということがわかるわけです。
ちょっとまとめてみましたけれども判明した時間と出来事の流れ、まず最初にヨハネによるイエス様の受宣があった。
そして今日の出来事、イエス様たちによるバブテスマとヨハネの弟子たちの問いかけ。 これは他の福音書にはない記述ですね。
そしてヨハネの投獄があって、その後イエス様の公の宣教が始まった。 神の国の到来を宣言ということですね。
こういう時間軸が他の福音書との関わりですとか、短いこのヨハネの3章24節の言葉からわかってくるよ。
そういうことを今日皆さんにぜひ知っていただきたくて、ちょっと学校の授業みたいな話を最初にいたしました。
このようにですね、ある聖書箇所を他の聖書の箇所と比べたり、
また自分の知っている聖書の箇所や言葉と比較することによって、新たな発見があるということを皆さんに知っていただきたいんですね。
このような聖書の読み方、広くて深い読み方でも言いましょうか。
そのような聖書の読み方をすると、一つには信仰生活のマンネリ化を防ぐことができますよ。
新鮮な喜びを聖書から発見することができますよということになるわけですね。
ちなみに、脚注付きの聖書を持っている方はですね、その聖書の言葉の右上とかに書いてある脚注を参考に、他の箇所に飛んでみてみると、このような新たな発見がある。
そして聖書がより面白くなって、信仰生活もですね、この新しい息吹を得ることが時にある。
そのことを覚えておいてください。
それでは、二つのですね、キリスト者の美徳とも言える格言のところからですね、私たちに関わることを見ていきましょう。
最初はちょっと否定的な視点から見ていきます。
2番目、他人を羨む罪ということですね。
3章27節、ヨハネは答えた。
では一話から読んでみましょうか。
人は天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。
という格言のような言葉です。
このバブテスマのヨハネは、自分の弟子たちがイエス様とその働き、特にイエス様を妬んで、こういうヨハネに進言したことがわかったんですね。
そしてこの格言を語って、悟したわけです。
つまり弟子たちはですね、自分が従事してきた先生よりも、後から来たイエスという男、その人の方にもっと人が集まっている、そのことを好ましく思っていなかったんですね。
東部東上線というのがあってですね、大山という駅にハッピーロード商店街というのがあるんです。
しばらく前からちょっとした大騒ぎになってますね。
それは大きな建物が建って、そこに大型ショッピングセンターができるんです。
そしてそのハッピーロードが分断される形になって、客足が遠のぐんじゃないかということで、
割と有名なその商店街で、少し物議を醸して、新聞の中で出ていました。
そうやってですね、大型商店街ができて、大型ショッピング施設ができて、地域の商店街でお客様が奪われてしまう、死活問題ですけれども、
まあ、ヨハネの弟子たちにとってみれば、自分たちの元に来てた人たちが、みんなイエス様のところに行ってしまう、という危機感といいますか、
妬みからこういう真言をイエス様にしたと考えられるわけですね。
そして、ヨハネはこの弟子たちに、神様の主見とこの神様の気高い知恵を認めて、この事実を受け入れるようにと、この格言的な言葉を持って悟ったわけですね。
ここから学べる教訓を少し話しますが、ちょっと難しい理屈に聞こえるので、
このバブ・テスマのヨハネを仮にねたんでいたという設定でお話ししますから、聞いてみてください。
学者の見解のもとに説明するので、私の勝手な解釈ではないということも知っていただければと思います。
もし、どういうことか、このバブ・テスマのヨハネが、この世に願ったとしたらどうでしょうか。
自分が他の誰かであって、多くの人がもっと目立つような、そのような脚光を浴びるような働きをできればよかったなぁ。
もっと多くの人から脚光を浴びるような奉仕に自分が召されたらよかったなぁと、他の自分になりたかったらどうだったかということなんですね。
まあ、限定していますと、キリスト者の中には、他の人が神様にもっと用いられている様子を見て、ねたんでしまったり、自分を卑下してしまうという、そういう問題があるということを前提でお話ししているわけなんですけども。
実はそれはですね、むさぼりの罪にあたると言うんですね。
むさぼりの罪。 もっと言うとですね、
もし彼がこの時にイエス様をねたんだとしたならば、多くの人を惹きつけているイエス様をねたんだとするならば、それは神様に選ばれたメシア、救い主をねたんだということになるんですね。
それはつまりこういうことになると。それはつまり、神様が使わせた救い主を、ヨハネがねたむということは、それは
ヨハネがですね、神様がイエス様に与えた素晴らしい務めを無効にすることも意味するんだということなんです。
つまり、私たちと関わる事柄として考えてみましょう。
最後のこのヨハネとイエス様の関わりについてですね、ちょっと難しいんですけど、もうちょっと私たちの生活の中に置き換えて考えてみると、このように言えるんじゃないでしょうか。
先ほど言いましたが、他のクリスチャンの方が神様に用いられて、華々しい働きや業績を持っていたとしても、ねたんではならないという
シンプルな教訓です。なぜか、人にはそれぞれ神様から賜物や証明が与えられていますよね。
そして誰にどんな賜物が与えられ、どのような証明、もっと言うとどのような役割が与えられるかというのは、すべて神様の主権、
神様の気高い知恵によって決められているということなんです。 それは神様の深い知恵と絶対的な主権によって定められているんだということを、私たちは悟る必要があるということですね。
ですから、その学者に言わせれば、他の人をねたんだり、自分への処遇に強い不満を抱いたりすることは、神様を信頼しない罪にわたるよと。
さらにそれは、もっとこうじると、神様と等しい立場に自分を置くという、傲慢の罪になるんだ、という警告があるわけなんですね。
ですから、慎まなければならない。 そして、実は新約聖書の中でパウロは、そのような態度とは反対のですね、
信仰生活の重要性
慎み深い考えをするように教えさとしているんですね。 自分に与えられていることは、神様から授けられたものに過ぎないとして、慎み深い考えをするように教えています。
ごめんなさい、これお見せしなかったですね。 人はそれぞれ神様から賜物や証明、使いのちが与えられています。 それは神様の気高い知恵や主権の結果です。
誰にどのような賜物を与え、どのような使いのちのために人を使わすということは、神様の深い知恵と絶対的な主権によって定められているということなんですね。
その上でパウロが、神様の主権や気高い知恵を認め、また自分に与えられているものは、神に授けてもらったものに過ぎないという、慎み深い考えをするように、このように教えさとしているんですね。
第一コリントの四章七説。
一体誰があなたを他の人よりも優れていると認めるのですか? あなたにはないか、人からもらわなかったものがあるのですか? もしもらったのなら、なぜもらっていないかのように誇るのですか?
人から、もちろんですけど神様からも授けられているということで、誇らず慎み深くありましょうという教えに耳を傾けていきたいものです。
最後三番目。
今度はポジティブなことから学んでいきましょう。
神に与えられた自分の役割を知り喜ぶということなんですね。
二番目の格言めいた言葉、三章三十節のヨハネの言葉を、もう一回読んでみましょうか。
あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。
繰り返しますが、あの方はイエス様で、私はヨハネ自身を指した言葉です。
ある学者は、この言葉は人間の口から発せられた最も美しい言葉の一つだと言っています。
この言葉の意味は、ヨハネは神様の御心を受け入れた、つまりこの絵は何かというと、コンサートの前座のように、
自分は救い主イエス様の前振りに過ぎないんだ、この先駆者に過ぎないんだ、その立場を受け入れわきまえていたということなんですね。
そして、自分のその信仰といいますかね、わきまえた意識を弟子たちにも共有したい、悟ってほしいと思って、
別の箇所で弟子たちに語りかけている言葉がありましたね。
三章二十七節、私はキリストではありません。むしろその方の前に私は使わされたのですと、
私が言った言葉、あなた方自身が証してくれます。
私ですね、学生時代に先駆者を通してイエス様を信じてクリスチャルになったんですね。
で、ある時、初めてその先駆者の一人の結婚式に出たんです、日本で、多分浦和かどこかだと思うんですけどね。
その時に気づいたのは、新郎新婦、新郎が立って花嫁さんをお迎えしますよね。
その時に新郎が立つ横に二人か三人、別の男の人が立っているんです。
で、まあこれその絵なんですけど、アメリカだけなのか西洋にあるのか知りませんが、それを英語でベストマンと言うんですね。
新郎がいて、その横に友達が主になるんですね。
いろいろな友達とか上司が二人三人並んで、こうやって一緒に花婿が花嫁を迎えるところを一緒に見るとか、
そして式のいろいろお手伝いをするんですけども、実はバブデスマのヨハネは当時の結婚の風習を語りながら、
花婿主役はイエス様ですよ。そして私はイエス様、花婿の親友の友達、今で言えばベストマンに過ぎないんですよ。
それだけじゃなくて、花婿が喜ぶ、声を聞いて喜ぶ、その声を聞いて友である私も大いに喜ぶって言ってるんですね。
ギリシャ語を見ると面白いんですけども、喜びをもって喜ぶ、本当に喜んでいるということ、それで満足していることがわかるんです。
何が言いたいかというと、この言葉、
あの方は盛んなり私は踊れなければなりませんって言葉とか、
私はキリストではないという言葉、この背後にあるのはですね、
自分はイエス様が栄えていく一方で、脇役に過ぎないので、いわゆる雄大していく、
それを、立場をわきまえている、しかもそれを喜んで受け入れているということをですね、これらの一連の言葉でヨハネは表しているわけなんです。
満足と喜びの関係
今日ちょっとタイトルにも入れますが、脇役の美学と言いますかね、そういうことが彼の言葉に満ち溢れているわけなんです。
ヨハネはそのようにイエス様が栄えていくこと、そして自分は脇役で、そして雄大していくということを喜んで受け入れているということがわかります。
私たちもですね、このヨハネのように、自分に神様から尊い役割が使いのちが与えられていると信じるときに、喜びが与えられます。
ヨハネは実は、自分も神様から役割と使いのちが与えられて、救い主を指し示している、救い主を盛んにするんだということを悟っていて、また喜んだわけなんですね。
イエス様を主役として私たちも、自分を通してイエス様の素晴らしさが明らかにされることを願っていったり、
またそのことがわかったときに、それができたということがわかったときに、私たちにも大いなる喜びが与えられるのではないでしょうかね。
それはですね、他の人との比較によるのではなくて、神様と自分、イエス様と自分との関わりの中で得られる喜びですよね。
そういう関わりの中で、神様との関わりの中で得られる満足ですよね。
そして、それだけではないんですね。素晴らしいことはですね、前も少し話しましたが、
イエス様は後々、ヨハネをですね、最も偉大な人だと評価しているんです。
さらにそれだけではなくて、天の御国に入る人たち、私たちはそのヨハネよりも偉大だとさえ言ってくださっているんですね。
そのことがわかるときに、私たちはなおさら、このヨハネのような生き方を貫くことができるのではないかと思います。
最後にその御言葉を読んで終わりにしましょう。
マタイの11章11節でイエス様がヨハネと私たちについて語った言葉です。
誠にあなた方に言います。
女から生まれた者の中で、バブテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。
しかしから読んでみましょう。3回。
しかし天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。
もう一回読みましょうか。しかし3回。
しかし天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。
私たちもイエス様に栄光を期しながら、イエス様に認めていただく存在であるということを信じて歩んでいく。
イエス様の栄光を表していくことになりたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
バブテスマのヨハネ、弟子とのやりとりから今日学いました。
どうぞ私たちがヨハネのようにあなたから与えられた役割や使いのちを知り、
またそれを受け入れ、またあなたとの関わりの中で喜びや満足を見出していくことができるようにどうか導いてください。
あなたが私たちを本当に尊い者として認めてくださっていることを感謝いたします。
どうぞ私たちを通して、拙い私たちを通して、あなたの御栄光を表されますように。
イエス様がますます偉大になり、私たちはますます小さくなりますようどうか導いてください。
この願いと思いを、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほど、御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。