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新科薬性書2017年版で読みします。 ホロサエビトの手紙2章11節から13節。
キリストにあって、あなた方は人の手によらない、 滑霊を受けました。肉の体を脱ぎ捨てて、キリストの滑霊を受けたのです。
バプテスマにおいて、あなた方はキリストと共に葬られ、 またキリストと共によみがえられたのです。
キリストを死者の中からよみがえらせた、神の力を信じたからです。 そむきの家にあり、また肉の滑霊がなく、死んだものであったあなた方を、
神はキリストと共に生かして下さいました。 ここまでとします。
今日はこのところから、現代の洗礼と題して見事を取り継ぎます。 皆さんおはようございます。
11月最後の日曜日になりました。 アドベント第一初日と言いますけれども、クリスマスの直前のですね、 一番近い日曜日をクリスマス礼拝と定めまして、
だいたいそれから遡って4週前からですね、 クリスマスの準備ということで、アドベント、
英語ではアドベントでね、教会学校で有名な話がありますけど、 どんな弁当なんてね、そう言ったほうがいいなと言いますけれども、
そこから日本語で言うと対抗説ですね、待つ、 傍端の甲ですね、対抗説となります。
私たちは特にその礼拝の説教を、それにふさわしく何かすることはしませんけれども、 このようにロウチョクを飾り、クリスマスのですね、デコレーションをして、
対抗説の礼拝を、に臨んでいます。また、
クリスマスにはですね、バブテスマ式を用意しておりますけれども、 そういうキリスト教のクリスマスシーズンでございます。
ただ、その中でですね、心配なほどに新型コロナウイルスの拡大が非常に広がっている。
そういう中でですね、ドイツの哲学者のマルクス・ガブリエルという、40代のNHKのコロナの番組によく出る、
21世紀の精神的支柱の一人と言われているマルクス・ガブリエルという人が、 今のコロナの時代をこのように呼び解いているんですね。
だいたい彼の言うことをまとめて書いたものですけれども、 我々はこれまで目に見えることだけを重視する価値観、いわゆる唯物主義に生きていた。
しかし、目に見えないウイルスによってそれが覆され、倫理観など、 目に見えないものへの価値観を見直さなければならない。
そういう時代に来たんだと言っているんですね。 皮肉にも、目に見えないウイルスによって、目に見えないものが本当に大事だということを今考え直す時代に来ている。
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その一つが倫理観だとも彼は言うんです。 あるいは思考とも言うんですけれども。
実はですね、このバブテスマ式というのは、 目に見えない大切なことを具体的に表すものなんですね。
そしてバブテスマ式自体にも意味があります。 藤崎志摩役ですね、バブテスマ式の準備を備えていますけれども、
ちょうどですね、そのクリスマスを前に私たちが 一章一節からずっと学んできたこのコロサイリータの中で、バブテスマに触れる機会があるというのはまさに神様のタイミングだと思うんですね。
そんな中で、パウロがこの解き明かしている御言葉を通して、 バブテスマが表している目に見えないものの意味を考えましょう。
そしてバブテスマ自体の意味を学んでいきましょうということで、 今日3つの点から話していきます。
そういうバブテスマやその子に隠されている大事なことに、 私たちが気づくことによって、まさに目に見えないものを大切とする、
今の時代の拠り所となる、そんなものを見つけられることができればと願って、 3つの点からお話しをします。
まず、今日の御言葉をもう一度振り返りますが、 12節の御言葉をここに記しました。
こう彼は、パウロは言っています。
バブテスマにおいて、あなた方はキリストとともに葬られ、 また、キリストとともに呼びかえらされたのです。
キリストがおっしゃる中から呼びかえらせた、 神の力を信じたからです。
目に見えない、バブテスマに表されている目に見えない意味の、 ここ2つあるんですけど、1つ目は、
キリストとともに葬られたということです。 その目に見えないこと、それはですね、
イエス様が信じる私たちに何をしてくださったかということなんですね。
その1つは、イエス様にあって神様がしてくださったこととも言い換えられますが、 その1つは、私たちがイエス様とともに葬られた。
実はですね、バブテスマ式には3つの意味があります。 1つ目はですね、結婚式です。
それはイエス様と結び合うという。 その結果、もう1つ、2つ目の意味があります。
それは、お葬式です。 仏像かもしれません。
でも、それはですね、罪に死ぬという福音なんです。
なぜなら、死んでしまった人は罪の罰から免れるということなんですね。
例えば、問題ありますけれども、よく犯罪を犯した人がですね、
死んでしまった場合は、非義者死亡で不寄属になります。 問題ありますよね。でもよく非義者死亡で不寄属と聞くことはありますように、
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そのようにですね、 私たちが
実はイエス様を信じると、イエス様と結び合わされます。 そしてイエス様が十字架で死んで、こうやって葬られたように、
いろんな絵がありますけど、これはイエス様の葬りの絵ですけど、 イエス様が葬られたように、私たちもイエス様に結び合わされて葬られます。
それはどういうことかというと、 罪に対して死んだものになるということです。
そして罪に対して死んだわけですから、その非義者、非暴の不寄属のように、私たちも罪人でありながら、
神様の前で罪が問われなくなるということなんです。 それが福音です。
そのことをパウロはローマ人の手紙の中でこう書いています。 前に書きました。
これを見てください。
罪の奴隷ではなくなるためであることを私たちは知っています。
ちなみにバブテスマを表すギリシャ語の動詞はバブティゾーというんです。 それは浸すという意味です。
ものを水に浸す。 だからまさにバブテスマ式というのは水の中に浸しますね。
そうすると水の中に浸されているということは、 土の中に葬られたということを象徴しているわけです。
死んでしまったものは罪に問われないとあるよ。
ですからまず私たちが知ることは、皆さんイエス様を信じて、イエス様と結び合わされたならば、
イエス様と共に葬られて、罪に対して死んだものとなっている。 その罪の罰をイエス様が担ってくださった、
そのイエス様の罪の罰を担ってくださった、許しの効力、罪の償いの効力が私たちにも及んでいる。
罪に問われないということを覚えてください。 もう一つの目に見えない意味、
それはですね、
イエス様と共に今度は蘇らされるという意味です。
さっきの12節の後半、
葬られ、またキリストと共に蘇らされたのです。
その12節の続きの13節では、こうあります。
背きのうちにあり、つまり罪をやめられない罪の中にあった私たち、また肉の割れがなく、神の民ではなかった、違法人として死んだものであった、あなた方を神は、
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キリストと共に生かしてくださいました。
アブデスマー式の3つ目の意味は、誕生祝いです。
イエス様を信じた私たちはイエス様と結び合わされて葬られますけれども、今度はイエス様と一緒に復活するんです。
新しく生まれ変わるんですね。 そのことをパーラはローマの6章でこう言っています。
もし私たちがキリストに継ぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、
必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
このようにあなた方も自分は罪に対しては死んだものであり、
神に対してはキリストイエスにあって生きたものだと思いなさいと言っています。
イエス様と結び合わされて私たちは新しく生まれ変わったんですね。
今まさに神様を信じる揺るがない生き方とか、
あるいは死を乗り越える新しい命ということをコロナ禍の中で見直す機会になっているんじゃないでしょうか。
ですからなおさら私たちイエス様を信じる私たちは、
目に見えないイエス様を信じながらも、
神様に対して新しい人生を生きている、
揺るがない人生を得ることができているということ、
そのことを覚えていきましょう。
それでは今度はバブテスマ式そのものについて見ていきましょう。
2つ見ていきます。
まず最初、
水のバブテスマを受けるということは当然のことだということなんですね。
先ほどパールの2章の12節で、
パールはこのように言っていますね。
おさらいのために最初に読みますけれども、
バブテスマにおいてあなた方は、
キリストとともに葬られ、また、
キリストとともに呼びかえらされたのです。
そして、キリスト教の中から呼びかえらせた、
神の力を信じたからです。と書いてあります。
実はですね、この最後の部分、
キリストお釈迦の中から呼びかえらせた神の力を信じた、という言葉の中にはですね、
先礼式、当時の先礼式の時の、
信仰告白の一文が隠れています。
それは、私たちの主神像にあるように、
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我は全能の父なる神を信ず、と言っていますよね。同じように、
私はイエス様お釈迦の中から呼びかえらせた神の力を信じます、と言って、
告白して、先礼を授けられた、という、
そういう一文なんですね。
ここにあるように、パウロは水のバプテスマを大事にしていました。
そしてもう一つ、パウロがそれを大事にしていたことが分かる理由、
それはですね、パウロがこの、
この細部という手紙を書いた時に、
ある前提に立っていたんです。
それはもう、
彼の手紙を読む教会の人々が、すでに、
水のバプテスマを受けていた、
そういう前提で、彼はこの手紙を書いているんですね。
そのようにですね、
バプテスマを受けるということは、イエス様を信じた人が、
当然そのように進むべき、
道だったわけです。
新約聖書の使徒の働きに、
こういう話があるんですね。
8章の後半、使徒の8章。
イエス様の住み弟子の一人のピリポーという人がいたんです。
彼が、
神様の声を聞いて、あるところに来なさいと言ったらですね、
馬車に乗っている、
エチオピア人のカンガンが出てきたんですね。
そのエチオピア人のカンガン、
ジョーカンだけの役人だったんですけど、
彼は聖書の遺材書を読んでいたんです。
それを朗読している姿を聞いて、
ピリポーはですね、
あ、彼に声をかけなきゃいけないと言って声をかけたんですね。
すると、そのカンガンはカンガンにですね、
あなたはその意味がわかりますか?とピリポーが尋ねると、
導く人がいなければどうしてわかるでしょうか?と言ったんです。
すると、ピリポーはですね、遺材書から解き明かして、
ここに書かれている救い主はイエス様です、ということを解き明かした。
そしてそのエチオピア人のカンガンはそこでイエス様を信じたんですね。
そのことの天末が、人の働きの8章に書かれています。
8章36節、こう書いてあるんですね。
馬車に乗って道を進んでいくうちに、二人が道を進んでいくうちに、
水になるところに来たのでカンガンは行った。
ご覧なさい、水があります。
私がバブテスマを受けるのに何か差し支えがあるでしょうか?
そして馬車を止めさせ、ピリポーもカンガンも水の中へ降りて行き、
ピリポーはカンガンにバブテスマを授けた。
もうすぐ直ちにバブテスマを受けました。
これはエチオピア人ですけど、もうちょっと行くとローマ人の役人のコルネリオという人が、
ペテロを通してバブテスマを受けた話をイエス様が信じて、
そのすぐ後、彼と家族が宣伝を受けた話も出てきます。
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何を言っているかというとですね、
バブテスマを受けるということは当時イエス様を救い主として信じた人が当然していたということがわかるんですね。
なぜそうなんでしょうか?
それはですね、このカンガンやコルネリオのように、
ユデア人でない人がイエス様を信じたという点にヒントがあります。
バブテスマ式を受ける当然な理由、それが3番目。
それはですね、神の国への入会式、教会への入会式という意味があったということなんです。
実は、皆さん当たり前のように私たち教会に来ていますけれども、
イエス様を信じて、イエス様が天に変えられたすぐの時代、
ヒトの働きやパウロの時代、
このユデア人以外の人が神の国の民になるということは非常識というか、
新しいことだったんです。常識を覆す出来事だったんですね。
なぜこのようなエチオピア人やローマ人、コルネリオの会心が書いてあるか、
それは、新しい時代が始まったということを知らせるんです。
ユデア人以外の人が神の民になれたということを知らせているんです。
そして、それは今の私たちに繋がっているんだということが込められているんですね。
当然、今私たちが学んでいるコロサイビトの手紙、
これもそういう背景の中で書かれました。
ユデア人でない人たちがクリスチャーになったという背景です。
この上ですね、イエス様の十字架と復活によって、
神様は、先民イスラエルの他に、
ユダヤ人を含めだけじゃなくて、違法人全てが一つの神の民となれる。
全ての国の民を一つの神の国の民にしてくださる。
それが福音なんですね。
そして、その神の国への入会式として、
バブテスマに意味があったわけなんです。
そして、今私たちがここで具体的に礼拝を持っている一つ一つの教会、
それはバブテスマのように、目に見えない神の国を
具体的にこの地上で表す形なんですね。
ですから、歴史が証明し、
学者も言っているように、バブテスマ式を受けるということは、
神の国に入り、またその具体的に表れている教会に入るという
正式な入会式の意味があったんです。
それによって私たちは、例えばニーザーの教会に属しながらも、
いつも言っているように、マルチン・ルターやキング・ボクシーや
マザー・テレザー、世界的なクリスチャーの連なりに入る。
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その神の国に入る、そういう入会式がバブテスマ式なんだということなんですね。
その意味で大切なことを最後にお話しします。
その前にですね、そのバブテスマ式自体に意味があるのかどうかということで、
いろいろ議論されているんです。
ただですね、学者のいろんなものを見ていくとですね、
今まで述べたように、
ファウルは当然、この目に見えないイエス様の絵のバブテスマということと、
目に見える水のバブテスマということを一つのこととして話している。
だから、水のバブテスマを受けるということは、
それはすなわちまたイエス様と共に葬られ、イエス様と共に蘇らせることでもある。
そういう、なんて言うんでしょうかね、
ちょっと誤解がないように聞いて欲しいんですけど、ある意味、
この霊的な神の国の中には意味があると、やはり多くの学者は理解している。
そのことを分かってください。
その意味で大事なこととして、この点を日本人なら特に考えることが必要なんでしょうか。
私たちはバブテスマを受ける、
その信仰告白するという、そういう具体的な表れでもあるんですけども、
その上で、自分じゃなくてですね、
善能なる神様に信頼するということなんです。
私がそうでしたし、皆さんも、
自分は心もとないので、
バブテスマを受けても信仰生活を圧倒できるかどうか、
死ぬまでクリスチャンやめずにいられるかどうか、
不安になるかもしれませんね。
神様の名を怪我したことになるんじゃないかという、
そういう不安があるかもしれません。
実はですね、
この最強界の人々もそういう自分の心のもとなさに対する不安があったようですね。
だから、この、
今日あえて説明しませんでしたけど、
異端の人たちがですね、
滑稽を受けてユダヤ人と全く同じようになって、
立法を全部守ってこそ、本当の神のためになれるんだという、
こういう人間的な努力を充てがわれてですね、その通り生きろと言われると、
そのように生きた方が、
私は本当のクリスチャンになれるんだと言って、
揺さぶられてしまったようです。
それもそれとして、ある牧師がですね、説教の中でこういうことを述べていました。
私もですね、
歴史の中で聞いたことがあります。
前にこうやって掲示しました。
前にも書いたので見てください。
かつて、ローマ時代も含めて、
洗礼を受けた後に罪を犯すことを嫌って、
死の直前に洗礼を受ける信者が多かった時代があった。
確かに洗礼が、
もし一度だけ罪を洗い清めてくれるものだとしたら、
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死ぬ間際に受けるのが良いかもしれない。
しかし洗礼とはそのようなものではない。
我々は決して、
穢れたりすることのない着物である、
キリストを身にまとう。
自分じゃなくてキリストなんだ。
それゆえ我々はもはや、
せっかく綺麗にしてもらったものをまた、
穢してしまうのではないかと、
ビクビクしながら生きる必要はないのだと言っています。
つまり不完全なまま、
神に信頼して洗礼を受けること、
それは良いんだと言っているんですね。
当然のようにパウロもこのコロサイ教会の人々、
自分の不安に揺さぶられたり、痛みに惑わされた人々に、
こう教えたんです。
今日の御言葉をまとめて言うと、
イエス様を信じ、バクテスマを受けているのであれば、
それで十分だ。
前回言ったように、
神御自身そのものであるイエス様を信じていますし、
イエス様と結び合わされ、
その証であるバクテスマを受けてあれば、
十分だと言っています。
そして彼らが心を持たないゆえに、
イエス様を蘇らせた、
善能なのちのある神様に信頼する、
そしてその信頼を表した、
自らを委ねるという信仰告白としての、
バクテスマに意味がある、
そのように教えたんですね。
自分の心のもとなさ、
それはそれとして、
善能なのちのある神様、イエス様を、
死者の中を蘇らせた、
善能なのちのある神様を信頼する、
その信仰告白と、そこへの献身の表明として、
バクテスマを受けている、
そこに意味があるから大丈夫だと、パウルは教えたのでしょう。
私たちも、この聖書の御言葉に耳を傾け、
すでにバクテスマを受けた人は、
そのイエス様の確かさに、
より頼んで、
かみしめて歩んでいきたいと思いますし、
またそのような思いで、
バクテスマについて考えていく、
望んでいくお互いでありたいと思います。
最後にパウルが、
別の箇所で述べた、善能な神様、その信仰について、
見て終わりにしましょう。エペソの1章19節から21節です。
神の善能の力の働きによって、
私たち信じる者に働く、
神の優れた力が、
どのように偉大なものであるかを、
あなた方が知ることができますように、
生涯かけて知ることができますように、
意味を込められています。そうパウルは祈っています。
神はその善能の力をキリストのうちに働かせて、
キリストを使者の中からよみがえらせ、
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すべての名の上に高く浮かれました。
このイエス様を信頼して、
共に歩んでいくお互いでありましょう。
お祈りします。
天の神様、
皆を賛美いたします。
殺された人の手紙、
自分の子供のその家に、
信仰を揺さぶられていた、
痛いに惑わされていた、
兄弟姉妹のためにパウルが、
確かな福音を語って、
私たちに届けてくださったことを感謝いたします。
どうぞ私たち、
自分の心の大人さ、また、
この今の時の不安定さ、
不安を取り巻く中でありますけれども、
イエス様を信じ、
イエス様に結び合わせ、
イエス様にまた会って、バブテ様を、
断された私たち一人一人が、
そのイエス様に会って、
罪に死にまた、
あなたに生きていく、
その歩みをしていくことができますように、
どうぞ弱き私たちを主は共にいて、
お支えください。
日々の生活を通して、
あなたの全能の力をまた、
知り続けることができるようにどうか導いてください。
あなたの憐れみ、
導きに感謝し、
また、自らを委ね、
私たちの救い主、
主イエス様の名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは皆さんそれぞれお祈りしましょう。
一分ほど、
神様に信頼する思いを、
それぞれ捧げてください。
様々思ったことをどうぞ、
神様に打ち明ける時間としてください。
アーメン。