2022-01-16 24:32

#89 2022/1/16 働く喜び

エペソ6:5-9からの礼拝説教。2022年1月16日録音。職場におけるパワーハラスメントが問題視されていますが、今日の箇所でパウロは奴隷の主人にパワハラを禁止する命令を出しています。それは当時としては異例のことでした。当時の奴隷制度は今抱くイメージとは違い、健全で一般的な雇用形態として存在していました。今に置き換えると奴隷の主人は雇用主や部下を持つ上司に当たります。そして奴隷は社員や職員に置き換えられます。そのような背景を受け入れつつ、まず主人への教えから1つ、奴隷への教えから2つの合わせて3点から学びましょう。

00:07
奴隷たちをキリストに従うように、恐れ、おののいて、真心から地上の主人に従いなさい。
ご義賢取りのような上辺だけの使い方ではなく、キリストの下辺として、心から神の御心を行い、人にではなく主に使えるように、喜んで使えなさい。
奴隷であっても、自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなた方は知っています。
主人たちよ、あなた方も奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。
あなた方は彼らの主、またあなた方の主が天によられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。
以上です。今日はこのところから、働く喜び、働く喜びと題して見事を終わっております。
皆様おはようございます。
久しぶりに礼拝来る方もいらっしゃいましたが、後で簡単に自己紹介していただきたいと思います。
私たちの教会では、新約聖書のエプソビトの手紙から続けて学んでいて、先週から6章に入りました。
6章の前の5章の後半から、いわゆる家訓、家族への教えが続いています。
そして今日はこの最後の奴隷と主人に対する教えの部分です。
いわゆるパワーハラスメント、職場におけるパワーハラスメント問題が問題視されて長らく時間が経ちますが、
この今日の箇所でパウルは、奴隷の主人にパワーハラを禁止する、そういう命令を出しているんですね。
それは当時としては異例の命令です。
そして今日は、この奴隷と主人のそれぞれに対する教えから3つの点を取り上げます。
当時の背景を理解していただきたいので、いくつか、いくつも取り付けしますが、
当時の奴隷制度は、今の奴隷という言葉と違って、イメージとは違って、
割と健全で一般的な雇用形態としての奴隷というのがあったんですね。
一つの家に奴隷として雇われて、生涯を過ごす。
そこで結婚はできないんですけれども、子供を設ける奴隷もいたようです。
大臣にした奴隷の主人もいたわけですね。
03:01
今、この教えを置き換えますと、例えば奴隷の主人は雇用主、オーナーに当たったり、
あるいは皆さんどこかで仕事をしているのであれば、自分の上司に当たるとも言えると思います。
そして奴隷はですね、もうちょっと柔らかい言葉で下辺とも置き換えられますけれども、
今で言えば社員や職員さんに置き換えられる。
そういう背景を受け入れながら、主人への教えから一つ、奴隷への教えから二つの三点から学んでいきたいと思います。
まず最初、奴隷の主人への教えですね。
主イエス様は人を差別しないから、ということがあります。
ちょっと繰り返しになりますが、旧説、小さい声で結構ですので読める方、前の言葉を見ながら読んでみましょうか。
3、主人たちよ、あなた方も奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。
あなた方は彼らの主、またあなた方の主が天におられ、主は人を差別なさないことを知っているのです。
これは今で言うと、先ほども言いましたが、経営者や雇用主、あるいは部下を持つ上司に対する教えと捉えることができますね。
この六章の一節から取り上げていますけれども、この架空シリーズでは何度も言っていますが、
基本的には、当時上下関係がはっきりしていて、女性皆さんおこないでいただきたいんですけれども、
夫婦だったら男性が上、親子だったら父親が上、これだったら主人が上、
そういう上下関係がはっきりした中ですけれども、そんな中で、
その立場の上の人に対する教えというのは当時、わりとショッキングな出来事だったんですけれども、
今日のこの奴隷の主人に対する教えほど大きなインパクトを持つものはないと思うんですね。
当時、何が衝撃的かというと、同じようにしなさいというのはどういうことかというと、
その前の御言葉にあるように、奴隷が主人に従い使えるように、
あなた方も自分の奴隷に同じようにしなさいと教えているんです。
これは、上の者が下の者に使えるというのは非常識であって、
先ほども言いましたが、この奴隷に対して、主人に対して奴隷に使えなさいということを聞いて、
怒る主人も少なからずいたんです。
06:01
ふざけるなと。それこそパワハラになっちゃいますからね。
そういう人も多くいたようです。こういうことをもし聞いたならば。
当時の常識ではそれは当然だったんですね。
当時、良識をわきまいた奴隷の主人がいて、奴隷を大事にする人もいたんですけれども、
当時は一般的に奴隷は家畜と同じで、主人の所有物だったんですね。
だから、横暴な主人も少なからずいたわけです。
そんな中で、脅すことはやめなさいと言われて。
文字通り当時、いわゆるパワハラは普通に行われていました。
脅して奴隷は従わせるものだという常識だったんです。
それだけじゃなくて、言葉は当然ですが、
無知も平気で使われて、無知打ちをしていました。
主人がひどく奴隷を扱って、奴隷が死んでもお咎めは一切ありません。
なぜならば、家畜が死ぬのと同じ。
主人の所有物が亡くなろうが死のうが、人の知ったことじゃないということで、
奴隷が死んでも主人に何のお咎めもありませんでした。
さらに言いにくいんですけれども、当時男女の奴隷がいて、男性の主人がいますけれども、
男女の奴隷を性の履け口として、主人が使っていた。
そういうことも平気であったそうです。
ティーンエイジャーから奴隷もいましたから、そういうことも行われていた。
そういう文脈の中で、この手紙が、脅すことをやめなさい、使えなさいと言っているのは大きなインパクトがあったんです。
それで皆さんも分かると思いますけれども、これはどこで言われていたかというと、
当時の教会で教会の長老が朗読していて、家の教会ではいわゆるクリスチャンになった主人とその奴隷がいた。
そんな中でこの教えがされていたわけですね。
だから、パウルはここで言いたかったことはですね、社会一般ではそういうことが曲がり通っているけれども、
彼ら奴隷の主、またあなた方の主は天におられるんですよ。
そしてその主は人を差別なさわないことをあなた方は知っているんですから、奴隷に対してふさわしい扱いをしなさいと教えたわけです。
つまり、奴隷の主人にとってはイエス様が主人であり、奴隷もキリストの下辺である。
イエス様があなたの主人であるから、あなた方も奴隷の主人でありながら、実はキリストの下辺なんですよと伝えたんですね。
09:06
そういうようなイエス様を主人として、主人であってもキリストの下辺だという、そういうことをパウルは根拠にしたわけです。
それでですね、その上でですね、主は人を差別なさないことをあなた方は知っていると言っているように、
その上であなた方は奴隷の主人としての地位によってその横暴が見逃されたとしても、
神の前ではその地位は何の役にも立たず、悪事に対してふさわしい神の裁きを受けるんですよと、そのようにパウルは警告をしたわけです。
パウルは別のローマ人の手紙というところでこういうことを言っているんですね。ちょっと見えますか?
読める方は読んでみましょうか。
神にはエコヒーキなどないからです。
ですからそのことをわきまえて、あなた方は奴隷に対してふさわしい取り扱いをしなさいと言うんですね。
このように2000年前の奴隷の主人、たとえ横暴によって奴隷が死んでもおとがめなし、
そういう時代にすでにパウルはいわゆるパワハラを禁止していたというのが、よく考えると驚くべきことなんですね。
なぜそのような明確な倫理基準を持っていたか。
それは天の王座に座しておられるイエス様、天の御座におられるイエス様を忘れないように、
そのことゆえに主人たちを悟していたということがあるわけですね。
それが最初の主人への教え。
2番目、下部への教え、在地原則ですけど、主イエスに対してするようにということなんですね。
ちょっと長いんですけども、これ読んでみますね。
奴隷たちよ、キリストに従うように恐れおののいて、真心から地上の主人に従いなさい。
読める方はここから読んでみましょう。
ご機嫌取りのような上部だけの使い方ではなく、キリストの下部として心から神の御心を行い、
人にではなく主に使えるように喜んで使えなさい。
奴隷の教えから学びますけども、まず基本的なこととして押さえておきたいことはですね、
もし私たちが仕事の上でパワハラを始めとするハラスメントを受けていたら、別に泣き寝入りしろということではないんですよ。
12:10
もしそういうことが身に振りかかっているのであれば、叱るべき措置をとるべきだ。
それは前提として覚えておいてください。
その上で学びを続けていきましょう。
実はですね、先ほども言いましたが、当時の一般的な就労形態として、
一人の人が奴隷として主人の下、一つの家の中で働くというのは普通の仕事のありようだったんですね。
一般的な仕事の一つです。
だから主人に従い使いなさいと教えられていますけども、
これは今の私たちにとって言えばですね、
それは仕事に対する基本的な態度をこれから学ぶというふうに考えたらいいと思うんですね。
もっと言うとですね、例えば皆さんが客相手の商売をしているならば、
そのクライアントをはじめとして、自分の目の前にいて皆さんの労働の対価を受けるそのクライアントに対する態度とも言えますし、
皆さんが何か私たちが仕事や作業をする上での基本的な態度をこれから学ぶと思っていただければいいと思うんですね。
そこで問われることはですね、私たちは誰のために働いているのか、何のために働いているのかという問いです。
顧客目線と言いますけどね。
その問いに対するキリスト社の答え、それは私たちはイエス様のために働いているのだということができるわけです。
これは1960年代のある町の風景です。
ロンドンですね。
あるイギリス人の心学者であり牧師がですね、こういう大変な話をしているんです。
彼が新学生、牧師見習いの学生の頃ですね、バイトをしたんです。建築現場で、レンガとかあると。
で、週4日働いたって言いましたかね。
で、彼は新人の学生として働いたんですけど、ベテランの職員がいたそうです。
で、自給制だったんですね。
何が起こったかというと、彼はせっせとレンガを摘んだりするんですけど、もうベテランは働かないんです。
タバコ吸ったりして。
で、現場監督が来ると一生懸命働いたフリをするんです。
自給制だから。中身どうでもいい。時間だけ稼げば。
何が起こるかというと、5時に終わるんです。
でも仕事がなかなか進んでないんだそうです。
で、たまに兼ねた現場監督が現場に行ったんですね。
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お前たちは3時間残業しろ。
それで、その日のノルマをこなせと言ったんですね。
そして、その通り5時まで働いた後、いやいやながら彼らは残業するんですが、
真面目に働くから、現場監督が3時間で終わろうと思った仕事が1時間で終わる。
どうしたかというと、警備員がいたんです。
警備員にちょっと賄賂を持たせて、3時間後にタイムカードを切らせてた。
そういうことをやっていた。
これが60年代のロンドンの現実ですね。
その学者は、この上辺だけのご機嫌取りのような使い方というのはまさにこんなことですという話をしていたんですね。
で、このまさにですね、ご機嫌取りのような、ごめんなさい。
パウルが禁じているのは、ご機嫌取りのような上辺だけの働き方はいけませんよと言っているんです。
これ元のギリシャ語でどういう言葉かと言いますと、
ご機嫌取りというのはですね、ギリシャ語でオフサルモドゥーリア、オフサルモドゥーリアと言うんですね。
ギリシャ語でオフサルモスというのは目なんです。
ドレイアというのは、奴隷というデューロスという言葉から来た労働なんですね。
英語でこれをアイサービスと言って、目があるときだけ使える人。
そういう造語を出そうです。
で、上辺だけの使い方というのはですね、アンソロパレスコス、アンソロパレスコスと言って、
英語で言うとマンプリーザー、ピーポープリーザーという人よく言いますけど、
アンソロポスというね、人間という言葉にアレスコスというね、喜ばす。
まさに人を喜ばすと言われている通り、このようにですね、まさに人の目があるときだけ働いて、
その動機は人を喜ばすためだけの働き方ですよ。
この特徴はどちらも目の前にいる人だけを意識している働き方に過ぎないということなんですね。
けれどもパウロはキリストに従うように、人にではなく主に使えるように喜んで働きなさいと言っているんですね。
目の前にいる人に対してではなくて、目に見えないイエス様に従うように、
人に対してするのではなくて主に対して使えるように喜んで働きなさいと教えているんですね。
18:00
先ほどの主人と同じように、目の前にいる人、目の前の仕事ではなくて、
天におられるイエス様を意識して働きなさいとパウロは教えています。
この実は主人に従いなさいの主人ということと、
キリストのしもべであるよとして、人にではなく主に使えるようにという主、
この主はイエス・キリストなんですね。
主人というのは奴隷の主人ですけど、
このどちらの奴隷の主人もイエス様である主人もギリシャ語では同じ言葉なんです。キュリオスという。
だから、目の前の人をキリストとみなして、その仕事をキリストへの奉仕としてみなして働きなさいとパウロは言うんですね。
そしてですね、真心からという言葉。
真心からというのはですね、元の言葉ではシンプル、シンプルな一つの心でという意味なんですね。
だから仕事をするときは、イエス様だけを見て人の目を気にしたり、目の前の人を気にしすぎるのではなくて、
イエス様だけを見て仕事をする、それが喜んで仕事をする秘訣だと言えるかもしれませんね。
これがある意味、クリスチャンの仕事の倫理基準と言えるでしょう。
最後、イエス様に対してするよりですけれども、3番目はもう一つの動機として主イエス様が報いてくださるからということなんですね。
8節読める方ちょっと読んでみましょうか。
3、はい。奴隷であっても、自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることをあなた方は知っています。
パウルは奴隷に対して、私たちに対して仕事の健全の動機、それはやがて受ける報い、その報いをあげているんですね。
報いというのはですね、文字通り給料、そういう言葉だそうです。
主が給料をやがて払ってくれるんだから、それを頼りにしなさい。現実的な言葉です。
でも私も一般的に仕事をしていますけど、当然仕事をしたらですね、それに見合った対価、お金が欲しいですよね。
21:03
よく言うのは、割に合わないとか、もっともらっていいはずだ、そういう必要な労働交渉が必要かもしれませんが、
でもパウルが言うこの報い、それはですね、やがて来る完成の時に、私たちがイエス様とまみえた時に与えられる対価だ。
言い換えれば、目に見えない希望です。
それをイメージして信じなきゃいけない。
目に見えない、触れない希望です。
それはですね、そういうものを希望にして真面目に働くというのは、簡単なことではないかもしれないですね。
私は難しいと思います。
でも、だからこそですね、それがどんなに幸いなのか、ということを私たちは日々の仕事を通して、そして生涯をかけて学んでいったり、体験していく、そういう必要があるのではないかと思うんですね。
このキリストの報いについてですね、ある学者はこう解説しているんですね。
私たちがした良いこと、それについて、天の主が知らないことはなく、良いことは決して無駄にはならない。
地上では感謝されないかもしれない。批判や誤解を受けるだけかもしれない。
しかし、忠実な奉仕には必ず報いがある、と述べているんですね。
そのイエス様の約束を、見言葉から最後に共に確認して終わりにしたいと思います。
目試録の22章の12節、イエス様が直接ヨハネに語った言葉ですね。
読めるかで読んでみましょうか。
見よ、私はすぐに来る。
それぞれの行いに応じて報いるために、私は報いを携えて来る。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
パウロの教えから私たちは学びました。
私たちが日々の生活、仕事をする上で、様々な人に仕えたりまたなすべき作業があります。
お金になる仕事もあれば、そうでない作業もあるかもしれません。
どうか、それら一つ一つをする中で、私たちの目を天におられるイエス様に向けることができるように、どうか助けてください。
目に見えない、触れない希望が報いとして約束されています。
どうかその幸いを知ることができるように、弱い私たちを励ましまた教えてください。
24:06
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは皆様その場で、それぞれ1分黙祷してですね、主にお答えする時間を持ちましょう。
1分ほど黙祷しましょう。
24:32

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