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新約聖書〈殺さえ人への手紙〉2章6節7節 新海約聖書2017年版でお読みします。
このように、あなた方は主キリストイエスを受け入れたのですから、 キリストに会って歩みなさい。
キリストのうちに根差し、果てられ、 教えられた通り、信仰不卓し、
あふれるばかりに感謝しなさい。 以上です。
今日はこのところから、確かな伝統、確かな伝統と題して見方を取り継ぎます。 皆さん、おはようございます。
さまざまなニュースが飛び交っていて、 大統領選挙がこの数週間話題になっていましたが、
ようやく、王女ギアが悪い人が一名おりますけど、ようやく体制が出まして、
バイデン大統領候補がですね、 次期大統領になるのではないかと言われています。
アメリカの分断、アメリカの分断ということが言われていますが、 その一つの理由として、
共通の伝統に連なっていないというのがあります。 以前は、ずっと昔は、いわゆるピューリタンとしてですね、
信仰の自由を求めてアメリカ大陸に渡ってきた、 そのような信仰の一致がありました。
しかし今は、信仰だけじゃないんですけども、いろいろな国々から、 またいろんな背景を持った人々が集まっているが故に、
共通の伝統、信仰の持ちの母体がないということが混乱の一つでもあります。 また日本においても、
今もまだ新型コロナウイルスが増え続ける一方であって、 さまざまな不安から私たちが揺さぶられることがあればと思います。
そんな中で、私たちはもう一度ですね、今日の御言葉から、 このキリスト教の確かな伝統に連なっている、その幸いを学んでいきたいと思います。
パウロが今日のこの6節、7節、短い御言葉ですけれども、 前の1節から5節を受けて続けて述べているわけです。
先週も話しましたけれども、パウロが喜んでいたと。 パウロが労苦しながら奮闘して、命懸けで伝えたキリストの福音、
そのキリストの福音、そして キリストにある
豊かな伝統、それをですね、エパフラスを受けて、 エパフラスを通してコロサエの兄弟姉妹が受け入れた。
そしてさまざまな信仰の危機がある中で、 このコロサエの兄弟姉妹がしっかりと立っている。
教えられて固く信仰に立っている。 またさまざまな
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執著が乱れる中でも、愛において結び合わされて、 執著と立っている。そのことを喜んでいると言っています。
そしてそこから今日のところに入っていきますが、 今日の
この御言葉のポイント、 そのイエス様を受け入れるということ。
それはキリスト教の伝統につながるということです。 そしてそれは
先ほどもみんなで昭和した、 人心情と今の私たちに関わりがあります。
ルーティンという言葉がありますけれども、 ルーティンというのは慣れ親しんで自然にできていること。
いつもやっている監修ですけど、時にその意味をもう一度振り返って、 内容を確かめることによって、これからのその
ルーティンであったとしても糧になるということもあるかと思います。 3つの点からお話ししますが、まず一番最初
イエスキリストを受け入れる、それはどういうことかということですね。 今日の書き出しの御言葉をもう一回ここに掲げました。
読んでいますね。 このように
このようにというのはさっき言いましたが、 奥義なるイエス様を受け入れた。あなた方は主キリストイエスを受け入れたのですから、
キリストにあって歩みなさい。
このようにあなた方は主イエスキリストを受け入れたのですからという、この受け入れた、どういう意味でしょうか。
実は受け入れるという言葉、ギリシャ語にはですね、 2つの受け入れるという言葉があるんです。
失礼しました。 まず一つ目はですね、
ペファレナ福音書1章12節にあるような受け入れる。 それは平たく言うと個人的に受け入れるとか、人格的に受け入れる。
ギリシャ語でランバノーという言葉なんですね。 英語でテイク。それは
皆さんが、あなたが、 イエス様を私の救い主として真摯受け入れます。
自分でお祈りする。そしてあなたの人生とか、 心の中にイエス様を受け入れる。そういう個人的人格的な受け入れ方を最初指します。
でも、 ここで言うですね、受け入れるはちょっと違います。
その元のギリシャ語はですね、 パラランバノーという、別のパラという言葉がついてますが、
この言葉が実は、 受け継ぐという意味があるんです。
一人の人から別の人へ受け継いでいく。 あるいは一つの世代から次の世代へ受け継がれていく。
受け継ぐということがあるんですね。 それが今で言う人心情と関係しているわけです。
その受け継がれた内容を、私も その伝統に従って受け入れます。
そういう意味です。 以前学んだ
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第一テイサノニキの手紙にもこの言葉が書いてあります。 こちらに掲示しました。
パウロの第一テイサノニキの手紙4章1節、 こう書いてありますね。
この私たちから学んだようにという言葉が訳が違いますけど、 このパラランバノーという同じ言葉が使われています。
それは、私たちが教えたように、 この伝統的な教えにあなた方が同意して、それに受け入れたようにという、 そういうニュアンスがここにあります。
もうちょっと詳しく見ていきましょう。 人心情との関わりとその意味、2番目のポイントです。
私たちはこのパウロからずっと受け継がれてきた内容の一つとして、 人心情を告白します。
礼拝でさっきも告白したんですが、それは何をしていることになるでしょうね。 それはこういう意味です。
私は正統的なキリスト教の伝統につながるこの教えを教わって、 それを今、自分の心情として受け入れますと。
告白していることになるんです。礼拝の度に。 内容に同意して、それを信じて、それを自分のものとして告白するというのが、
この礼拝でやっている人心情の意味なんですね。 ですから、信じるということと関係していますから、
人心情ではこういう風になっていますよね。 ちょっと分解してみました。どうですか。我は天地の創り主、
全能の知なる神よ、信ず、となっているでしょう。 その後も、我はその一人が我らのイエスキリスト、信ず、と言っています。
信じてますよ、と告白している。 その後もそうですよね。
この内容は後で見ますけども、最後に、
父なる神を信じ、子なるイエス様を主なる神と信じ、 最後に、我は聖霊を信ず、と言っています。
三人一体の神様をちゃんと信じて告白しているんですね。 それで最後に、
これらの教会の既行、そして終わりの蘇りの命を信ず、と言っています。
ですから、いわゆる知らない間に皆さんは、 信仰告白を伝統に基づいてしている。そういう意味があるんですね。
そして後で言いますけども、その信じている内容が連なって、 教育的な意味もあるわけです。
ですから、こういう意味が次に伴ってきます。 このような意味が伴ってきます。
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人心情を告白することは、私たちの信仰の 安心と核心のよりどころになっているということなんです。
安心と核心のよりどころに人心情はなっているということなんです。
つまり、どうですか、私たち日本の中で普通に生まれたら、 なんとなく宗教感を持っていますよね。
お伝統様があってとか、死んだらどっかに行って、みたいな。
そういうなんとなくの宗教感ではなくて、 明確なこのキリスト教の伝統につながる信仰を信じています、とはっきり言っています。
あるいはいつも言っています、コロサイの教会もそうでした。 イタンの教え、カルトの教えが、
え、そんなイエス様信じれば天国行けるなんて、 そんな簡単な話あるんですか。
例えばあるカルトでは、 伝道につき二十時間使わないと救いを失いますよ、と言ったりするんです。
あなたそんな普通に生活していて、天国行けるんですか、 そんな甘いんですか、と言われたらどうですか。
あるいはあなたそんな立派な信者なんですか、と言われたらどうですか。 私だって揺らぐんですね、そういう時。
でも、この使徒信条というのは、 同じようなイタンとの闘い、疑いとの闘いを経て、
二千年のキリスト教の歴史と伝統を経て、 今ここに受け継がれてきたものなんです。
だから、別の言い方をすると、 使徒信条は私たちの疑いや不安の解読剤のようなものです。
カルトに対する防腐剤のようなものです。 つまりですね、私たちは自分に頼ると心ごとないですね、疑いが生じてしまう。
自分も頼りない。 そして不安になる。信仰を終わりまで保てるんだろうか。
こんなこと言ってしまった、してしまった。
でも、私たちは自分のこの頼りなさではなくて、
このような二千年にわたる信仰の戦い、 疑いの戦いを経て、長きにわたって保たれてきた
深刻化学に連なっているので、安心してください。
このパウロが今日の御言葉の中で続けてこう言ってますね。 前に見てください。2章7節でこう言ってます。
キリストのうちに根差し、建てられ、 教えられた通り信仰を固くし、
あふれるばかりに感謝しなさい。 ちょっとちなみに難しいことを言いますけどね、勉強みたいな。
ここには3つの受動体と1つの能動体が隠されています。 受動体というのはね、してもらうことです。
神様がしてくれること3つ。 それは、私たちをイエス様の中に植えてくれるんですよ。
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そして私たちをイエス様のうちに 建て上げてくださるんですよ。そこもです。
教えられた通りに信仰を 神様が固くしてくださるんですよ。そういう受動体なんです。
自分の頑張りではなくて、ここは神様が私たちにそうしてくださっているから、 その通り信じて歩みなさい。
ここは最後、今日は触れませんけど、あふれるばかりに感謝しなさい。 これ本当は言語で言うとですね、感謝にあふれなさい。
それはもう自分の意思で感謝しなさいという意味で能動体なんですね。 それはさておいて、
この言葉、受動体特に信仰を固くする。
これが教えられているということと連携しているというのは、
つまり伝統やこの歴史を踏まえて教えられた、
その教えた内容の硬さゆえに私たちに 信仰の確証が与えられているという意味なんですね。
ちょっとうまく説明できませんでしたけど、言い換えますと、さっきも言いましたが、 私たちの自分自身の確かさとか、
緩いでしまう、そういう頼りなさではなくて、 この教えられている、
使徒信条のような教えの内容の確かさゆえに、 固く立つことができるんですよ、という意味です。
私も信仰的背景が多少違ったので、 なかなか理解するのが難しかったんですけど、
せめてその考え方だけでも今日受け入れて書いてほしいんですが、 2000年も保たれている使徒信条の確かさゆえに、それを信じているゆえに、
自分は安心なんだ、 そういう意味があるということなんです。
そしてその内容をもうちょっと詳しく説明しますと、
例えばですね、
内容はさっきと関係していますけど、 伝統によって守られてきた内容それは、天地の作り主、
善能の父なる神様なんだ、 それを信じています。
そしてそれから何が言えるかというと、 例えば、ほら、諸辱五反。
イエス様はどうして乙女マリアから生まれたんですか?
あるいは、なんで死んだ人が3日目に甦えるイエス様はそんなことあるんですか? というときにどうするか。
まず皆さんそれを信じていると告白しているじゃないですか、礼拝で。 イエス様を信じています。
なぜかというと、何を信じるかというと、イエス様が、 精霊によって宿って、乙女マリオに生まれたことを信じていますと告白しているんですよ、みんな。
そして3日目に死にの中から甦えたイエス様を信じていると告白しているんです。
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それを善悟関係から確かめると、
じゃあなんで諸女からイエス様が生まれたんですか? 精霊によって宿ったんですか?
イエス様が蘇ったんですか? その根拠は何ですか?
皆さん知らない間に告白しているでしょ? フィンときました?
なぜなら、 善能の地なる神がそれを成したからだと。
タオルの手紙で言っているのは、イエス様も善能なる神だと言っているんですけど、
善能の神を信じると言っているじゃないですか。 だから神様は善能なる神様だから、
精霊によって人間の中に宿って神と人となったし、 3日目からイエスを蘇らせることができた、
そういう根拠がある。 それは皆さんが考え出したり頑張って編み出したものではなくて何度も言いますが、
聖書から、 キリスト教の伝統から、
私たちの信仰の先人が信じて確かなものだとして受け継いできた内容だからですね。
ですから、そのような自分の疑いあるいはイタリアンカルトによってですね、
あなたの信仰は大丈夫ですかと揺さぶられても、 いや、歴史と伝統によって検証された、この善能の
善能の地なる神様、そしてその御子であるイエス様によって、 私の罪は許され救われているから大丈夫です。
そのように言うことができるわけですね。
このしっかり植えられた木、 この木の下には何があるか、これと同じほどの根っこがあるわけです。
この堅固な城、堅固な城は何の上に立っているかというと、 しっかりした土台の上に立っているんですね。
しっかり根差してその上に、しっかり立てられた木や、 育った木や立てられた建物は
台風や暴風の被害を被ることがないわけですね。
大きな風や大きな雨で 揺さぶられることがあっても倒れてしまったり、
崩れ去ることがないわけです。 同じように私たちの信仰も、
このしっかりとしたイエス様ご自身、 そしてこの確かな伝統に根差してその上に立て上げられているのが、
試練や疑いの嵐が吹きつけても、 揺さぶられることがあっても倒れることがないということを覚えておいてください。
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それでは最後に、 バプテスマとの関係を述べましょう。
実はこの2章6節7節の御言葉は、ある学者によると、 バプテスマは先例と関係しているって言うんですね。
この何度も見ている6節の 主キリストイエスを受け入れるという言葉、
この受け入れるは先例と関係しているって言うんです。
前に引用しました、彼はこのように述べています。 ちょっと長いので、
レジュメにもありますけど、一緒にここで前で確認してください。
パウロが、この御言葉はパウロが先例の時とその重要性を考えていたことを示している。
2章6節の主キリストイエスは、巨大教会のイエスキリストは主であるという信仰告白の定式と対応し、
戒心者たちが先例の時に告白したものであろう、 パウロは12節ではっきりと先例に言及している。
このキリストイエスを受け入れることによって、 この際のクリスチャンたちが
キリストの体の一員として新しい立場を持っていることに、 パウロは言及している。
彼らがクリスチャンに立ち、 クリスチャンとしての入会式、すなわちバプテスマを指す。
それを受け入れる時に、 しかもこのことはですね、
この際の教会の人々にとってさえ、異教の文脈では勇気のいることだった、と言うんですね。
つまり、とにかく彼らがクリスチャンの入会式を受け入れる時に、 これらすべてのことが起こるのである、ということが示唆されている。
つまり、このイエス・キリストは主ですという告白を、 洗礼式の時にみんなしていた、と言うんですね。
そしてパウロは、いわゆるバプテスマを大事にしていたということが、 この見答を通してわかる、ということがあるんですね。
私たちもイエス様を受け入れることによって、
イエスが主であるという、この歴史的な宣言を受け入れているわけです。 そしてその受け入れた結果として、その信仰を告白する。
その信仰告白の一つが、使徒信条であり、 またそのもう一つの大事な式が、バプテスマ式でもあるわけなんです。
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私たちがイエス様を主なる神様、 救い主として受け入れる時に、
またそれを告白する、バプテスマを受ける時に、 新しい人生が始まります。
そしてその新しい人生が始まりますけれども、 ついにこの世の旅路を終える時に、
イエス様を救い主として受け入れ、バプテスマを受け入れた人はですね、 クリシャンとして葬られるわけですね。
人生には右の曲折があるわけです。 たとえですね、本当は怒ってほしくないんですけども、
教会生活から離れてしまっても、 バプテスを受けている方であれば、クリシャンとして葬られていくんですね。
20年以上前なんですけどね、 私の祖母の弟がいたんです。
彼は当時、 貧乏感、喉の癌で、嫁行くばくもなかった。
ある親戚の集まりで、その親戚のおじというかね、 祖母の弟と会ったんです。
その当時、私もクリシャンだから、 おじさん、
教会行かないの?とか、 クリシャンじゃないの?って言ったら、簡単に言うと、
これこれこれがあって、僕は教会行かなくなったんだ。 きつい言葉で言われたんですね。
あ、そうなんだ。 うまじゃしょうがないから、
おじさんとお祈りして別れたんです。
残念ながら、 しばらくしておじさん亡くなったんですね。
一緒に葬儀を出ることはできなかったんですが、 このおじさんの意思で、葬儀はケイスト教式で、
僕氏が取り行ったということだけが聞きました。 もちろん、私たちイエス様を信じてもある方は、
御式で褒められた方もいて、 それでも天国に行けるんですけれども、
イエス様を信じるわけです。負けたのであれば、 意思表示もありますけれども、その方は、
クリスチャンとしてこの世の終わりを迎え、 褒められるわけです。
それがまた、 時には遺族の慰めにもなるわけです。
私たちこれから先どういうことがあるか分かりません。 でも、
イエス様を受け入れる人生、それは、 人生の旅路が守られる素晴らしいものです。
イエス様は私たちの予想を反して、 私たちを誠実に守ってくださる方なんですね。
もう一つだけ話しますが、昨日、 大学時代の知事会と久しぶりに会いました。
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大学卒業して、30年以上経ってから 会った方々もいたんですけれども、
実は私、イエス様を信じて宣言を受けたのが 大学1年ですから、もう36年経つんです。
で、まぁ、
ああ、なんだ希少、牧師やってるなぁと 驚かれたんですけれども、
で、でも、その時、今朝また振り返って、 いろんな意味があるなぁと思ったことはですね、
ああ、もうあれからイエス様を信じて36年も 牧師の目で経ったんだ、っていろんなことがありました。
けれども、
こうやって自分も信仰を守られているんだなぁ、 ということを実感しました。
宣言を受けた時は、そんな30年先なんて 考えられなかったんですけれども、
確かにイエス様が私を守って、 今に導いてくださっているんだなぁ、
ということが分かったんですね。
何よりもあれ、
イエス様を受け入れるというのは、
神様の確かさに目指すことであり、
私たちの弱さ以上に、
不確かさ以上に、
2000年にわたるキリスト教の伝統につながる、
その確かさでもあるということを 覚えておいてください。
最後にパウロはですね、
イエス様を受け入れた人に、 こう勧めているんですね。
もう一度、今日の御言葉をここで掲げます、 読んでいます。
このようにあなた方は、 宗キリストイエスを受け入れたのですから、
キリストに会って歩みなさい。
キリストの地に根差し立てられ、
教えられた通りに信仰をたくし、
あふれるばかりに感謝しなさい。
実は、受け入れた後、イエス様に会って、
歩みなさいとパウロは教えています。
実は今日詳しく説明をしませんが、 歩んでいく具体的な内容として、
根差し立てられ、信仰を固くされ、
感謝にあふれなさいと言っています。
実はその4つの歩む具体的な内容について、
パウロはこれから詳しく、 この手紙の中で解説していきますから、
その詳しい内容ともに、 これから学んでいきたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆お存じいたします。
1年前には予想もできなかった、
感染症の影響が大きく広がっている今、
世の中に私たちは生かされています。
私たち自身の不確かさのみならず、
この世の出来事における予想もできない、
そのような不確かな状況を目の当たりにしている私たちです。
しかし私たちには、
長きにわたるこのイエス様にある信仰、
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キリスト教の伝統というところに連なる、
その幸いと祝福に預かれていることを感謝いたします。
どうかその祝福や喜びを、確かさを、
私たちがこれからさらにかみしめ踏みしめ、
歩んでいくことができるようにどうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。