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マルコの福音書2章12節から、数日経ってイエスが再びカペナームに来られると、家におられることが知れ渡った。
それで、多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。 イエスはこの人たちに見言葉を話しておられた。
すると、人々が一人の中部の人を身元に連れてきた。 彼は4人の人に担がれていた。
彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根を剥がし、穴を開けて、中部の人が寝ている寝床をすり下ろした。
イエスは彼らの信仰を見て、中部の人に、「こよ、あなたの罪は赦された。」と言われた。
ところが、立法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。
この人はなぜこのようなことを言うのか。 神を冒涜している。
神お一人のほかに誰が罪を許すことができるだろうか。 彼らが心の内でこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。
なぜあなた方は心の中でそんなことを考えているのか。 中部の人に、「あなたの罪は赦された。」というのと、「起きて、寝床をたたんで歩け。」というのと、どちらが優しいか。
しかし、人の子が地上で罪を許す権威を持っていることを、あなた方が知るために。
そう言って中部の人に言われた。 あなた方に言う、「起きなさい。寝床を担いで家に帰りなさい。」
すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。 それで皆は驚き、こんなことは未だかつて見たことがないと言って、神を崇めた。
以上です。 今日はこのところから
罪は許されている。罪は許されていると題して笑み言葉を語ります。 みなさんおはようございます。
昨日は少し雨が強く降った時もありましたが、
先週は良い天気でしたけれども、金曜日ぐらいから少し崩れ始めて、土曜日はちょっとたくさん降った。
今日このような曇り空で、雨も降らずに守られましたことを本当に感謝しています。
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日本では先週の月曜からコロナが語呂合いになって、マスクもしたい方、しない方ということで、
そういうことは前から自由なんですけれども、そうなりましたし、またそれとは別にちょっと物騒な事件も先週起こりました。
そんな中で、今日このようにお互い守られて礼拝できることを感謝しています。 さて、今日の箇所は
メタバースとか仮想空間ということが最近よく話題になりますけれども、 その場所に私たちを誘うようにマルコは
読者あるいは聞き手をその場に引き入れようとして、生き生きとした、いわゆる動詞系の
動詞の現在形を使って、この今日の場所を描写することがあります。 イエス様はカペナーモという故郷と言いますかですね、場所を拠点にして活動してましたが、あまりに人が多くて一度
荒野に逃れました。しかしまたカペナーモのですね、この家に入ってきた。 ちょっと地図を用意しましたが、ここがですね、
ちょっと広い世界地図ですね。ここは、いわゆるイスラエル。 ここにガリダヤ湖でありますけれども、このカペナーモというのはこのガリダヤ地方、ガリダヤ湖の
ここの北の方、左上のところですね。ここの街が3年間のイエス様の伝道の拠点になった。 今日はまたこの場所の出来事ですね。
そんな中で聖書の中でも有名な話ですけれども、 イエス様が家にいることが知れ渡って、どんどんこのイエス様が癒しをするという噂が広がっていった。
そしてそれを聞きつけた人がそのイエス様のいる家に押し寄せて、 戸口まで
溢れた。私たちの教会はそんな広くないですけれども、ここにですね、ここでイエス様が話しているとすれば、いっぱいにですね、玄関の入り口まで人が満ち溢れていた。
そんな様子を想像してください。 そこにですね、中部の人を寝床に担いでですね、4人の男の人が癒しを求めてイエス様を訪れました。
しかしですね、この群死のためにイエス様に近づけなかったので、彼らは屋根の上に登って、そして屋根を剥がして、しかも剥がして、ここにもありますように、当時土だったんでしょうかね。
私も昔住んでた家の側には、わらぶき屋根の家がまだ残ってましたけれども、屋根を剥がして、そこを掘ってですね、そしてこの図にもありますけれども、
イエス様の目の前に、この男の人を上から吊り下ろしたというわけです。 チューブと言って英語でパラライズズってありますけれども、パラルティコスというね、ギリシャ語で麻痺で寝た気の人のことを言います。
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まあチューブというのはですね、脳卒中なんかで寝た人が多いって調べるとわかりますけれども、原因はわかりません、ここでは。
調べると高血圧とかですね、糖尿病や脳梗塞で脳の血管が詰まって麻痺したなんて書いてありますけれども、まあとにかく、この今日出てくる人はですね、何らかの理由でいわゆる寝たきりになってしまう。
そういう男性です。 その時にですね、イエス様は彼らの信仰を見て、あなたの罪は許されていますと宣言しています。
それがまあちょっとセンセーショナルな言葉で、その言葉を中心に今日は見ていきます。 まずですね、よく言われる、罪と病気に関係があるんですか?
ということです。 そのことを最初に取り上げて、全部で今日3つのことをですね、見ていきます。
まず最初、率直に言うと罪は、失礼しました、病は罪の結果ではない、ということを覚えておいてください。
ここの 箇所ですね、ある学者が解説して、こういうことを言うんですね。
病気をはじめとする苦難が罪の結果であると、この箇所から判断してはいけないと断言しています。
そのことでですね、 この箇所以外に許しと罪の関係を
マルコでは述べていないということも言いながら その学者はこういうことを書いているんですね。ちょっと読んでみますね。
このケース、今見ているところから、すべての罪があるいは何らかの麻痺さえも 罪の結果であるとの立派原理を推定するのは間違いであろう。
さらに病気、あるいは他の種類の苦難と罪との結合は、
ヨハネの9章2節や、ルカの13章の1節から5節で、これに関する問いが提起されるとき、 明らかに取り除かれている。
どういうことか。例えば、この今挙がったヨハネの9章のところ。 生まれつきに盲目に、生まれついた男の人をですね、弟子たちが見てイエス様にこう言ったんですね。
先生、この人が生まれながら目に見えないのは、この人が罪を犯したからですか。 それともこの人の両親が罪を犯したからですか。
そういういわゆる因果応報的なことを、弟子たちさえもイエス様に聞いたんです。 それに対してイエス様がこう答えたんですね。
イエスが答えられた。これ読めるかと読んでみましょう。 この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
この人に神の業が現れるためです。 ヨハネの9章2節。イエス様が断言しています。この人でも両親の罪でもない。
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神の栄光があられるためだ。この後イエス様はこの人を癒すんですけども。
とにかくこのように罪と病気の関係をはっきりイエス様も否定しているわけです。 ですから繰り返しますが、私たちは病気をはじめ苦難の原因を
罪にある、そう短絡的にですね 考えてはいけないということなんです。
ましてやですね 最近話題にならなくなりましたけど、あるカルト集団のように先祖を供養したり
あるいはお祓い等の宗教的儀式に預かればですね 不幸から逃れられるとか、そのためにたくさん献金しなさい
そういう要求をする 宗教なり何なりがあれば、それらは
間違いなくカルトをはじめとする 間買い物であるということができます。
ですからまあこの教会の人はクリスチャンの人ですので騙されないと思いますけども クリスチャンじゃない人にそういうことを言われた時にですね
こういうこと言ったらインチキだと思って結構ですよって断言しています。 まあそれはそれとしましてまず大事な原則を覚えておいてください
そしてじゃあなぜそのなのにイエス様はここで許しと罪とを結びつけたのでしょう あなたをね
あなたは癒されたとか言わないで一番最初にこの男の人に対して あなたの罪は癒されたなぜ罪と
この病を結びつけるような 罪の許しと病の癒しを結びつけるようなことを言われたのか
それを2番目に見ます。それはこの奇跡には特別に次のような意味があったからなんですね 今
罪の許しを知らしめるための奇跡だったってことだ そういう特別な意味がこの奇跡にあったんですね
その先ほどの続きですね まあ中身を飛んでイエス様はこう言いました
中部の人にあなたの罪は許されたというのと 起きて寝床をたたんで歩けというのとどちらが優しいか
しかし人の子が地上で罪を許す権威を持っていることをあなた方が知るために そう言って中部の人に言われた
2章9節10節 イエス様が後で言いますけれどもこのパイサイ人のこの心のつぶやき
不平 批判に対して答えたんです
ちょっと考えてみましょう皆さん 罪の許しの宣言か病の治癒の宣言どっちが簡単でしょう
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罪が許されたという方が簡単なのか まあ病が癒されると
いう方が簡単なの皆さんが当事者になって考えてみましょうね いう方として
で 皆さんもですねすぐ思い浮かべることができるかと思いますけれどもまず
寝たきりの人に向かって罪が許された そんな罪の宣言許しの宣言なんて簡単にすることできませんよねしかもその
寝たきりの人にあなたに罪がありますというようなものですからそういうことはできません で反対に
まあ後で見ますけどよ次が許されてますって言ったとしてもどうやってその人の罪が 許されたという事実を確認することができるでしょう
言ったもん勝ちになっちゃうかもしれん もう一つのですねまあ
起きて寝床をたたんで歩きなさいというのはあなたの病気は癒されましたって言うと同じ ことです
それは簡単でしょうかね 医者でもなければそんなことは言えませんね
ここを考えた時にあのよくテレビのですね 医療ドラマ
シーズする場面とかありますね私失敗しないのでっていう限界が出てくるやつとか あと緊急事態の事故現場にあの
車で駆けつけてですねその車の中にたくさん医療機器があって医療スタッフもいて そして緊急発現事故や火事が起こったところに行って医者がその現場とか
あの救急車の中でこう治療するって言うねドラマ映画がありますけどね 死亡者ゼロですって言ってみんな喜ぶようなドラマもあります
ねあるいはまあ本当にあるとすればですね この雨の
先生ですよね純天堂大学の医学部の教授でも心臓外科医の名医です この人は
22年浪人して医学部買ったんです で心臓怪我になったけどもすごく大変で
もうとにかく腕を磨くことが一番大事だと思って彼の本読んだらですね とにかくあの実験用のあのなんですか
欠陥の5みたいな流れらしいですよねゴムとかでき それを使って何度も何度も何度も何度もその欠陥の方法の練習をしたって言ったんです
文字通り手を使っ それでまあ今いわゆる大事なシーズンを任される名医になったわけですね
このノーベル医学 生理書生理学書医学書を受けた ips 最後の山中信也さんね
もともとこの人 あの整形整形外科医だったんです
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整形外科 彼よく講演で言うんですけど私は整形外科に向いてなくて私が入ると医療スタッフが邪魔だ
っていうので私のあだ名は邪魔なかでしたって言われてた その挫折から私は研究の道に入ったって言っている
でこの心臓外科医とか整形外科医っていうのはその人をまあ 手術して治すかどうかというのははっきりわかりますよね
あるこういう人にはこういう人がですね あなたの病気治りましたって言った
信憑性があるわけです目に見えるし実はそれができる じゃあ例えばイエス様や素人の私たちはそんなことネタ系の人に言えるのか
それは簡単ですか どちらも簡単じゃないんですね罪の許し
でもこのイエス様の発言にはこういう意図があるんです 実はイエス様は神の許しをもたらす特別な存在であることを人々に知らせる
ための奇跡なんだってことです そういう特別な背景がこの
出来事にあります このようなことを宣言するための奇跡なんです
罪の許しっていうのはいわゆる福井の中でとても大事な要素ですね 実は今日の箇所で初めて罪の許し
ということがイエス様に関わる中で 出てくんです初めて出てくる
あの物事をね学ぶ時教えるときに段階的なこの教育がありますよね例えばあの人 子供が言葉を学ぶのにはまず
たくさん聞かなきゃいけないです 聞いて聞いて聞いてそしてそれを真似て
そして まず言葉を覚えていく
まあ皆さんどうかわかりませんけど私も子育てしててね 子供が言い間違えた面白いことばあるじゃないですか
面白いからわざと直さなかったりするわけですけども そして聞いた上で真似してしゃべってそして今度は地を学ぶわけですよね
地を学ぶ時もカタカナ平仮名から学んでだんだん感じ 難しい感じ段階的に教えたり学んでいきますで実はこの
イエス様が神の子救い主であるってこと一番最初宣言してますけども そのことをこのマルコの文書は段階を追って教えてきてるんです
実は今日の前の1章の21節で最初にですね 悪霊追い出しの奇跡がありました海道で
でそこからですね今日のところまで5つの癒しの物語が出てきます でその中でまず一番最初の悪霊に対する
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権威が 権威を持った救い主イエス様っていうのが一番数でできます
まあ悪霊に対する権威を持った救い主ってことが一番最初に出てくる その次にペテロのシュート目の癒しからですね
病に対して権威を持った救い主ってことがわかります そしていくつかあった後今日初めて
癒しと罪の許しが結びつけられましたその中で 罪の許しの権威を持った救い主だっていうことが初めて明らかにされた
そういう意味があっての 罪の許しと病の癒しということがセットになっているという特別なことをまず覚えて
おいてください ですからこれまでお話ししてきましたように
病は罪の結果ではありませんけれども この2章の頭のところでイエス様は救い主として人の罪の許しを権威を持っている
そのことをはっきりと表すために この特別な癒しの技を行った
罪は許されたと言っても見えないですから そしてそれによってその男の人がこれから癒されますけども癒されるところを見て
イエス様には病を癒す権威だけじゃなくて罪を癒す権威があるんだなっていうことが はっきりと表されたということを覚えておいてください
2番目のテーマですね今日はこの 罪と病の
関係が語られていますがそれは特別なケースで病を癒すことによってイエス様は罪の 許しをもたらす救い主だということを表す特別な奇跡だったことを覚えておいてください
それでは最後の点 今日の出来事これはですね実は新鮮で刺激的な
許しの宣言が起こっているということなんです イエス様はこう言いましたね
あなたに言う起きなさい 寝床を担いで家に帰りなさい
すると彼は立ち上がりすぐに寝床を担ぎ皆の前を出ていった ここから読めるかで読んでみましょう3回
それで皆は驚きこんなことは未だかつて見たことがないと言って神を崇めた ちょっと飛んでしまいましたけれども
どちらが簡単ですか 多いったでしょその後イエス様
人の子つまり救い主である約束の救い主としてきた私がこの地上で神のまあ 罪の許しを
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あらわすそういう救い主であるということを皆さんに知らせるために私は言います と言って
寝床を担いで家に帰りなさいと言ってこの癒しの技を行った さっきも言いましたけど繰り返しになりますがそうやって
自分が罪を許す権威があることをこの癒しを持って 人々に明らかにしたわけです
まあそういう箇所なんですけどももう一つ今日の箇所で初めて出てきたことがあります それはいわゆるですね
まあ今風の言葉で言うと初めて登場するキャラが出てくる それは立法学者たちです
まあの皆さんどうかわかりませんけどねあのテレビドラマ 先週の一番視聴率稼いだテレビドラマはランマンというですね
朝の連続テレビショースだったそうです3番目がどうする家康というね テレビドラマだったそうです
それでだいたいあの長いシリーズのドラマ見ていくと一番最初いろんな人が出てきます よね
それで大体なんか目立たない役だけども有名な役者がやってる 役はですねその後大事なキャラクターとしてこの物語に登場してくるというそういう
パターンがありますよね でそれと同じようにですね
まあちらっと出てくるそしてまた例えばですね 今日のイエス様の物語がそうなんですけどもいろんな人が癒されて
イエス様の評判が広がってたくさん人が集まってきた でもこうやってですねいわゆる
闇キャラって言いますかね ダークなものが出てくる
物語の前半いい話ばっかなのにちょっとですね この悪い人が出てきてこの先この人どうなるのかな
この物語どうなるのかなって不安を動かせるような場合がありますよね そういうようにここで
しらっとばリサイブとたちがですね イエス様を批判する神を
ねっ なぜこんなこと言うのか
この人は神を冒涜している神一人以外誰が罪を許すことができるのか 批判して
少し影を落とすわけです でその中ででもこの
実は 言葉が重要なんですけども
彼らがそういう件ことを判断する一つにですね旧約聖書のこういう言葉があるん ですね
民数記15章3310 この国に生まれたものでも
恋に違反するものは主を冒涜するものでありその人は自分の民の間から断ち切られる 必ず断ち切られそのとがを追う
そういう まあ立法の教えがあってそれに基づいてこの立法学者は神でもないのに罪が許さ
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れるといったこの男は 批判に値するということでだんだん反対が強くなっているわけです
でそんな中で 先ほども言いましたがある学者はですねこの箇所は
新鮮さと 刺激に満ちているって言ってるんです
つまりここはイエス様が初めて次の許しを宣言するという 新鮮さがこの奇跡に伴って
そして イエス様が神を冒涜しているというこの誤解を受ける
刺激 暗闇が迫ってくる緊張感というものが今日の箇所に漂っているわけなんですね
でもだ残念なことに私たちはイエス様の次の許しということとかイエス様の十字架の 死ということが学者に言わせればそれは
常識的なものになってしまってこの新鮮さと刺激的な衝撃を受け止められないと言うんですね まあそれはそういうことなんですけども
このようにですね 神を冒涜するものは
必ず神から断ち切られるもっと言うと死罪に値する しかしイエス様はこの神を冒涜したという罪を
押し付けられることをですね恐れずに まさに死を覚悟してですね
この 次の許しの宣言をなさったそうやって神の子であり救いにしてあるということを宣言した
一方ですね私たちはどうでしょう また中考えてねこのネタキーの人は私のようだな
ということそれは自分の罪に対して自分の罪に対して自分を救うことができない 寝てるだけ何もできない自分だな
この男には重ね合わせて自分を持ったんですね皆さんどうでしょう そのように罪に対して無力な私たちです
このネタキーの人のようにですね 罪の許しの宣言を受ける
そうやってイエス様の言葉を待つしかないような 罪に対して無力な存在ですしかしそのイエス様を信頼してこう屋根を剥がして穴を開けてですね
そうまでしてイエス様の元に行こうという連れて行こうというこの進行の熱意もこの物語で 見て取れるんですね
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ですから私たちもこのイエス様の覚悟に対して この進行の熱意を持って主は私を許しくださいとこのイエス様にもとにありのままで
出て罪の許しをいただくことができるということなんですね ぜひそのことを覚えながら
イエス様の罪の許しの 宣言ということですね
新鮮で また
新しい 原宿の言葉として受け止めイエス様の前に行こうた場合でありましょう
もう一度このところだけ読んでは 終わりにしましょうイエス様は罪を許すことを示すためにこう言いました
あなたに言う起きなさい寝床を担いで家に帰りなさい すると彼は立ち上がりすぐに寝床を担ぎ皆の前を出てい
最後一緒におりましょうさんはいそれで皆は驚き こんなことは未だかつて見たことがないと言って神を崇めた
お祈りしましょう 天の神様
皆を賛美いたしますあなたが救い主イエス様を使わせてくださり 私たちを罪から救うお方として
この地を歩ませてくださったことを感謝いたします どうぞそのイエス様の罪の許しの尊さ
また 偉大さを私たちがまた新たにしていくことができますよ
私たちがまた自分の罪の弱さの故にまさに寝た木のように何もできないと思えるとき どうか大胆に新たな許しを信じてあなたの前に出ることができるよう
どうか私たちの信仰を励ましてください この願いと感謝を私たちの救い主主イエス様のお名前によって祈ります
アーメン それでは1分ほどそれぞれ見言葉に応えてお祈りする黙祷する時間を持ちましょう