はい、今日のゲストは、おそらく名前ね、皆さん知っている方なんじゃないかなと思うんですけれども、今日のゲストは映像作家の橋本博さんに来ていただきました。博さん、今日はよろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
はい、私と橋本博さんは一応初対面ではないんですけども、私からすると結構博さんってもうなんか雲の上の人間がすごいんで、ちょっと今日はね緊張してるんですけども、なんかいろいろね、緊張する中でもね、いろいろ聞きたい話がたくさんあるので、フランクな感じで聞いけたらなと思っているので、今日も早速始めていきたいと思います。
はい、じゃあ博さん、一応普段は最初に簡単にでいいんで自己紹介をお願いしますって皆さんに聞いてるんですけど。
そうですね、なんか結構自己紹介って言われて、ちょっと答えるの難しいんですけども、一応橋本博で映像作家として活動させていただいてます。
映像作家とは言いつつ、実は本当にこの3、4年ぐらいまともな映像を作ってなくて、としながらというと最近はその映像制作とかグラフィックとかを作るためのツール開発に結構重点を置きがちになりつつあります。
一応その映像の中でもミュージックビデオだったりだとか、モーショングラフィックスとか、あと全然ほとんど載せないんですけども、お仕事でCMとか、実写的なものとかそういうのも作ってはいるんですけども、
ただ基本的には自分個人でなるだけ1から10まで作るみたいなスタンスを大事にしていて、そういう感じで自主制作みたいなものとかプライベートプロジェクトみたいなものを中心に作っています。
ウェブに関しては結構昔から中学生ぐらいの頃からHTMLとか触ったりしていて、もともとフラッシュ業界とかそういうものに憧れていたのもあって、インタラクティブなプログラミングとかも若干勉強はしていたんですけども、そこまでスキルは高くないかなと思っています。そんな感じですかね。
ありがとうございます。結構、私のイメージをお伝えすると、結構私の中ではかなりアーティストさんっぽい印象を持ってました。
その瞬別ってなかなか不思議ですよね。アーティストさんの反対側に来るのはどういう方なんですかね。
私の中では結構対極にいるのは技術者っぽい感じなのかな。表現とかではなくていわゆる組み込みのハードウェア組み込みのプログラムを書いたりとか、そういうところとデジタルなものづくりだったり表現だったりを突き詰めている人みたいなのが結構対極かなと思っていて。
私自身は結構技術寄りの、今言ったようなハードウェアの組み込みっていうとちょっと後派すぎるかもしれないんですけど、結構プログラマー、本当にただのプログラマーっていう感じだから、すごくアーティストっぽい方々って、
アーティストっぽいっていうのがもうすでに曖昧な表現の仕方になっちゃうんですけど、そういう活動されている方たちは本当に遠い目で見ているっていうか、自分にはないスキルをたくさん持っている人たちだなと思って見てますけどね。
そうなんですかね。むしろ技術者の方とアーティスト的な方って近いところにあるのかなって個人的に思ってたんですけど、っていうのは、わりかしその表現のためとか言いつつも、どういう風な作り方でこれを作りたいかっていうこと自体が自己目的化してることって結構あって、
よく目的があって、それは世の中に対してどういう風にコミットするとか、価値に対してどう高めていくとか、目的に対してベストな手段を目的的に得りすぐっていくっていうよりは、
その手段そのものの中で一番自分が調子いいエンジニアリング的な気持ち良さだったりとか、なんか制作していく過程でのなんか、なんていうんですかね、心地良さっていうのをなんか、なんていうんですかね、こうちょっと盗作的に求めていってしまう感じって、なんか自分は少なくともそういう感じなんで、だからその上位互換として、むしろ技術者の方とかがいるのかなって個人的に思ってます。
なるほど、なんか全然見え方が違って面白いなって思っちゃいましたけど、言われてみれば確かにそうなのかもなとも思えてしまうような気もするけど。
どうなんですかね。
どうなんですかね。世の中のそのプログラマーの人たちとか、あるいはアーティストってこう自称されている方々のみんなに聞いたらそれぞれ捉え方全然違うのかもしれないですけど。
なんか私は本当にバックさん見てると、なんていうか、プログラミングもできて、なんか表現的なこともできて、お仕事として映像とかに関わることもできて、なんでもできるなーって思っちゃってましたけどね。
いや、できないことがたくさん、お仕事としてやるのが多分本当無理なんで、時間管理とかコミュニケーションとかもそういうのも含めてあんまり上手くはないんで、
だからその、なんていうんですかね、その部分の自己管理能力の低さで自分のスキルに漏れなくゼロが欠かさるみたいな感じが。
そうですね。仕事でちゃんとこう、社会人としてみたいなところ求められると、そういうのが全部うまくできないとしたら全部ゼロがかかっちゃうっていうのも、なんとなくその体験としてはわかる気がするんですけど。
私は結構その辺はなんか大人力でなんとかなってますね、今のところ。
大人力。
大人力で。
いや、割とずっとダウナーになっちゃうんで、やっぱそのうまくできなさが故に。
でもどうなんですか、普段普通にお仕事、なんか私全然、バクさんが普段どんな感じでお仕事されているのか知らないんですけど、普段のお仕事は普通に会社員的な働き方ではないんですか。
そうですね。一応、マネジメント事務所というかギャラリーみたいなところに所属してまして、仕事はしてないです、端的に言ってしまえば。多分、仕事っていうか経済価値は生んでないかな。
そんなことないと思った。そんなことないと思ったけど。
それ以外の部分の価値に関してはちゃんとコミットしてる自負はあるんですけども、経済的な価値はいかんせん何も生み出せてないまま、特にコロナ禍が始まってからちょっとクライアントワークとかも完全にストップしてしまって、なんか霞を吸うようになんとか生きながらえさせていただいてます。
なるほど。結構、何ていうか、私の周り、私の観測範囲でもコロナの流行に伴い仕事が激減した人たちってたくさんいたんで、確かにバックさんとかは煽りを受けそうな感じもします。なんか振り返ってみると。
いや、煽りは受けないですね。
煽りは受けないんですか。
煽りは受けないけども、煽りを受けた体にして、多分、僕たちのスタジオの人たちのかなりの方々があんまり仕事しなくなっちゃったみたいな。
なるほど。なんかそれはそれで落ち着いてしまったというか、どういう心境なんですか、それは。この感じでも別にいいかなって、ゆるく受け止めてしまうような感じなんですか、それって。
なんかそういうふうに結構思ってたし、すごく僕、多分、分かりやすい意味で反省主義的な香ばしいところがあるんで、ファイトクラブ大好きみたいな意味で。
だから、むしろ、自分は食わせてもらうに足るだけの文化的な価値のある人間だ、みたいな自負が最初あったんですけども、さすがにこんなに自分で生きていくためのものを自分でなんとかできてないままに生かされてるっていうことは、
自尊感情をめびりさせるもんなんだなっていう発見があります。
なるほど。でも実際問題として、なんか全く稼ぎがゼロだったらと思っちゃうんですけど、そこは大丈夫だったんですか。
なんか不思議なことになってますね。
それはそれでじゃあなんとかなってるっていうことなんですね。
いや、多分なんとかなってないんですけども、そのなんとかなってなさをなかなか奥に隠蔽してくれてるいろんな優しい人たちが周りにいらっしゃるんだと思います。
なるほどね。
だからなんか申し訳ないなって思いながら日々生きてます。
なるほど。なんかそういう感情って、ご自身の中ではどうなんですか。ずっと渦巻いてるような感じなのか、一時に比べたら今はこうある程度落ち着いてる感情になっているのかで言うと。
いや、あの、ますます強くなってますね。
ますます強くなってますね。
なんで生かされてんだろうみたいな。
私はそういう感情に襲われそうになったこと、人生の中では何度かあるんですけど。
実際にそういう状況に陥ってたこととかも実際はあるんですよね。
いろんなことがあったんで、仕事しないでぶらぶらしてたこともあるし、そういう時はたぶん同じような感情になってたのかもしれないんですけど。
そうですね。いかにやっぱそういう、なんて言うんですかね。こう、なんて言うんですかね。こう、なんて言えばいいんだろうな。
ピューリタン的な労働規範っていうのを内面化してるかっていうのを、この数年やっぱ感じました。
最初からこんなこと言うのはあれなんですけど、いつものゲストと全然違う感じがしてワクワクが止まらなくなってきましたね。
いつもね、これは別にバクさんも他の人も誰も悪く言うつもりはないんですけど、いつもの感じだと結構こう、どうしても入りは堅苦しいインタビューみたいな感じになっちゃうんですよ。
どうしてもお互い緊張しているので、心の内側の話とかしていくのって結構後半に入ってから温まってきてからやることが多いんですけど、
今日はもういきなりその深度から始まってるからなんかすげえワクワクしてきました。
逆にそれだけ面の部分がない、ペラペラペラペラなんで。
いやいや、そんなことないでしょ。
だからその外装がすごくしっかりしてらっしゃる方だったら、そこをもうほえーって眺めるだけでももう何時間でも少し手が出るけど、多分外装がやっぱほったて越えだともうすぐふにゃんと中に行っちゃうみたいな。
いや、そんなことないと思うけどな。なるほど。
いやでも、一応私とバクさんの関わりといいますか接点みたいなところって、実は結構、もしかしたら結構早い段階からお互いの存在は認識してたかもしれないんですけど、
私は多分直接会ったのが多分2回くらいしかないし、その中でもちゃんとこう面と向かってお話できたのはつい先日会った、某書で集まった時の。
まずですね、パトリシオと、パトリシオ・ビボ・ゴンザレスってThe Book of the Shadersの作者の一人なんですよね。その方々とか、あとはミスター・ドゥーブとかが、ミスター・ドゥーブはもう日本に数年住んでるんですけども、
円安の影響か、いろんなクリエイティブコーダーたちが東京に集結するっていうのが今年の5月くらいに。なんか担った時期ありましたよね。
ありましたね。ミスター・ドゥーブは結構前から日本に完全に今は移ったみたいなツイートしてたのはだいぶ前だったと思うんですけど、
あの瞬間は確かに結構集まってたというか、沸点が高い状態になってましたね。
そうですね。そこでお呼びさせていただいたというか、たぶんあのパトリシオがドクサスさんのことも何か存じ上げてるみたいな話だったんで、だからそれもあってちょっと読んで、けど何か英語って難しいなって思いながら。
そうですね。あの時本当私が全然英語喋れないし聞き取れないからもう大変なご迷惑をおかけしてしまいましたけど。
いやもう毎回お布団で敬礼してるんで、あー恥ずかしいみたいな。
いやあの席は本当に英語、今だけでいいから英語喋れるようになりたいって本当に思いましたね。
いや僕も全然ダメだし、英語に関してステル風みたいなものだけを告知するの、表に見せるのってなんか嫌だなっていうか、なんかちょっと抵抗感があるんで。
だからなるだけこうデジタルタトゥーとして、ちゃんとこの人その海外の人とか英語圏のコミュニティと接点を持ってる的なアピールするんだったら、てめえがちゃんとそういうコミュニケーション取ってるところを見れるようにしとけやみたいな、その自分への言いましめとして、結構僕の下手くそな英語でのスピーチっていうのがオンラインで見れるようにしてあって。
だからそれ見て、低きものを見て安心してもらえたらいいなって。
なんかそうですね。言わんとしてることはわかるんですけど、いや多分誰もその低きものとしては見てないと思いますけどね、実際には。
いやまあその話してる内容に関しては自信はあるんですけども。
いやーなんかもう本当面白いな。なんかいつもと全然違って本当になんか楽しくなってきちゃったな。
いやこれ悪い意味じゃないですよ。あのバクさんが変だとかそういう意味じゃないんですけど。
なんかあの私からすると、本当にバクさんって、その先日の集まりに呼んでいただいた時もそうだったんですけど、
私からするともう、なんていうか話しかけちゃいけないくらいの距離があると思っていたんで、当時も。
なので呼んでいただいた時は本当になんかアタフタしちゃったんですけど、今はその時に一応顔を合わせて話ができたんで、
なんかここのや一応平静を保って喋ることができるんですけど、
なかなか報われないというか、それは多分報われてるんだろうけど、本人の感覚としてこれをやったからといって何がみたいなところっていつもよくは見えないんで、
多分なんかあるんだろうけど分かんないままでもなんかやらなきゃいけないような気がしてやってるみたいなところがあるんで。
そういう風に外部の視点からそういう風に言ってもらえると、本人以外の第三者の目線でそういう風に言ってもらえるとなんか嬉しいですよ。
相当独卒さんのプロップス高いと思ってます。
どうなんですかね、でもどうなんだろうな、私本人は確かにWebGLだけで言ったらそうかもしれないですけど、Web全体で言ったらそんなでもないかなって思ってるんですけどね。
やっぱり一回フラッシャーっていう文化自体がJobsのツールの一声で離散したわけじゃないですか。
で、なんかあそこの後がまとしてのHTML5標準というかWebGL標準の中でまたフラッシャーたちが細かいマイクロインタラクションの積み重ねをこねくり回してやばい気持ちいいウェブサイトを作ったような、
なんかああいうハレーションをやっぱ今いろんな人たちが作っていらっしゃるその真っ最中って感じが個人的にはしてるんですよ。
なんかその中でやっぱ独卒さんっていう存在がいて初めて知ることができたプロジェクトもたくさんあるし、すごい。
いやもうなんかWeb総本さんとかに紹介されたら嬉しいなみたいな、多分。
いやって思ってます。
なるほど。
なんかこのいよいしょがすごいお互いあれです。
いやいやいや。
なんかいよいしょがあることを前提として話しましょうかもう。
そうですねそうですね。
いやあの多分なんですけどお互いだと思います。
私は私でやっぱバクさんはすごいなんかそのご本人がどんなに謙遜されても俺の中での巨大さっていうのがやっぱあるし、
逆に今伺ったようなお話がバクさん側の感覚としては私の感覚よりも多分強く見えてるんだろうなっていうのもわかるんで、
そこはもうそういうもんだっていうことで話をしちゃっても全然いいとは思うんですけどね。
あとちょっとダウナー系なところとかすごい共感してます。
なるほど。確かにそうかもしれないですね。
なんか私結構なんかこうノーマライズFMとかスクールの活動とかでもこう割と元気に明るく頑張ってるように多分見えてると思うんですけど、
まあそれは結構仮面というか外向きの顔なんで割とね自分自身の内側に目を向けてみるとそういうところあるかもしれないですね、私の場合も。
大丈夫です。なんかちゃんと伝わってますっていう。
そうですか。
ダウナー系はダウナー系でこう通じ合えるものがあるじゃないですか。
まあそうですね。
あ、わかりますみたいな。
いや結構ね、なんかあんまり出すの良くないなって思っちゃう。
まあその、なんだろう、なんかもっと違う場所でだったら全然出せるんですけど、やっぱTwitter上ではそのWebGLの人独卒っていう像がもう出来上がりすぎてしまっているので、
なんかそれをあんまりこう変に歪曲させてしまうと良くないかなっていう、そういうなんか自制心が働いちゃうんで。
なのでTwitterとかやってても入力欄にバーって書き込んで全部消すっていうのを1日3回ぐらいとかはやってますね。
あ、わかります。あの人劇ストーリーズ僕もやります。
そうですね。そうなんですよね。
はい。むしろなんか逆じゃないですか。その追消しをするんじゃなくて追い残しをするみたいな。
だから消すがデフォなんですよ多分。
まあそうですね。そうですね。結構そうですね。そう言われてみればそうかもしれない。
なんかInstagramの24時間ってインターネット時間っていう永遠じゃないですか。だから本当はもう10分で消えてくれていいのに、なんで24時間なんかも残んだよみたいな。
一応それはあれじゃないですか。見たい人の気持ちを考えてそういう仕様になってんじゃないですかそれは。
ああ、けど一瞬こう自分の中でスパイク的に石を切って出てきた言葉をポロッと投げ出して、でもあらかじめそれは深夜テンションで消すことがわかってるんですよ多分。
これ多分10分後にはもう恥ずかしくなって消したくないやつだなみたいな。
なんかそれをわかった上で深夜のテンションをエミュレーションして、ポストして、で10分後に消すみたいなことをやるとすごくなんか心の健康にいいですよね。
何の話だ。
分かります。何だろうな、なんか俺もいつもバーって入力してって、ちょっと何回か遂行して、でふと冷静になってこれを今ポストするべきかなっていうふうに考えて大体消しちゃうんですけど。
投稿する前にですか。
投稿する前に消しちゃうんですけど。
投稿して10分で消すとネクストレベルにいけるんですよね。
そうですね。1回吐き出してしまった方が確かにいいかもしれないですね。
なんか個人的にはブリッとしてる投稿よりはダウナーな投稿の方がやっぱ癒されるので。
そうですね。
そんななんかダウナーであることとかネガティブであること、ネガティブであることにネガティブに扱われるのがすごい嫌だっていうか。
だからネガティブなことにポジティブみたいな心調もあっていいんじゃないかみたいな。
そうですね。今なんかその昔よりはでも受け入れられてきてるような気はしますけどね、そういう感覚が。
いやいや、全員受け入れてると思います。そのブリッとした投稿好きな人多分Xやってないですよ。
そうですね、確かに。確かにそうですね。そこはもうすでに住み上げが完全に終わっているかもしれないね、確かに。
なるほど。
結構私は最近なんかそれを写真でやってますね。なんかもう言葉にするのが嫌になって。
写真とりあえず何も言わずに写真だけ投稿してるときは、いわゆるプログラマーがよくいろいろあってにゃーんとしかつぶやけないみたいなのがネットミーム的なのがあると思うんですけど。
なんか私はもう何も言わずに写真だけ貼ってるときは、言葉にすることを諦めたときですね、大体。
すごくいいですね。
言葉にするのを諦めて、とりあえず写真だけでいいやつって貼ってるときありますね、最近は。
いやそうですよね。なんかそういうこうバッと入ってるときに言葉にできないなと思って撮る写真って、なんか明治安田生命みたいな写真にはならないですよ。
明治安田生命。その例えめちゃくちゃ面白い。明治安田生命そうですね。そういうふうにはならないですよ。
言葉にできなくてバッと入ってるときに多分撮る写真ってもうブルータリズム建築を撮りましたみたいな。
もうコンクリートだけでいいじゃんみたいな。
そうですね。いや面白い。そうですね。
だからなんかわかりますみたいな感じが。
いやなんか、バクさん普段写真も撮るんですか?なんか私のイメージだとやっぱり映像のイメージが強いですけど。
写真撮ってるんですけども、本当に恥ずかしくて載せてないですね。写真ってやっぱすごい難しいメディアじゃないですか。
メディアとしてはもう常に終わっているというか、なんか別に写真表現で、視覚表現として今から何か面白い作品をできるかって言ったら、
もうそれはもう50年とか100年前にすでにだいたい一人住んでるわけじゃないですか。
そうですね。
その絵画的な意味でのいい構図の写真を撮るとか、あるいはもっとその現像っていうプロセスになんか重きを置いた面白い写真表現を求めるっていうのをマンレイはすでにやってるし、
だからそのアーティストとして、さっきそのアーティストっていう言葉はすごいこれから雑に使いますけど、
なんかアーティストとして写真表現と向き合うっていうのがすごい難しい時代なんで、
だからそれって結構自分の中で表に出すの怖いなと思いつつ。
そうですね。だから本当にもうハイブローな世界か、それとももっと風景写真みたいな素朴なものかの二極化しかないみたいな感じはありますよね。
いや、あると思います。なんか私も全然素人なんで、そんな深く潜ったり勉強したりしてきたわけじゃないんですけど、
写真で表現者として名前を売ってる人たちのすごい凄さがなんとなくわかるというか、
これを自分で今からやるのは相当無理気だなっていうことは普段見ていて感じることが多いですね、最近。
なんかもう綺麗に撮るためのスキルっていうところじゃないじゃないですか、写真家の写真のプロフェッショナル設定。
どちらかというともう人が行けないような遠隔地に行けるとか、
あるいはこういうセレブリティの人たちの良い表情を引き出せるような社会関係資本というか、そういうものを持っているかとか、
なんかそのどちらでもない人はものすごい高派なコンセプチュアリズムに行くしかないみたいな、なんかそういう感じがしてます。
それはその通りな気がします。なんか映像はそういうとこにはハマらないんですか、まだ今のところは。
なんか特に映像は別にいわゆる大文字のアートとしてやってはいないと思ってるんで。
なんかそれこそ先ほどのアーティストって言葉が出てきましたけども、なんか僕にとってのアーティストって、
そういうなんて言うんですかね、こうピュアに自己表現として何かをやっていますみたいな意味でのアーティストっていう感じじゃなくて、
がっつりそのアートワールドにちゃんと戦略的に関わっているアーティストっていう感じがすごくするというか。
なんか同世代で言うとフセリン太郎さんとか、なんて言いますかね、なんかそういう方々が個人的にアーティストって感じがするんで。
だから僕はなんかそれに比べたらもうクリレイターでいいと思います。
あのターの後がもうナミセンのクリレイターっていう。
なるほど。
じゃあ結構どうなんですか、そのご自身ではプログラマーなのかクリレイターなのかアーティストなのかで言うとクリレイターかっこナミぐらいがちょうどいいという感じですか。
そうですね。秋山のクリレイターズファイルぐらいの響きのクリレイターで多分いたしかないと思います。
なんかまあご本人がおっしゃることなんで、本人はそう思っているっていうことで私はこの話は飲み込もうと思うんですけど。
多分プログラマーもそんなところないですか。
なんか自分超わかるみたいなプログラマーって、なんかそんな二流って言ったらあれですけども、あれじゃないですか。
僕はただのグルーコードしか書いてないしがない人間ですっていうある意味の謙虚さっていうか無知の地をわきまえるだけの見識の深さがむしろその人を謙虚にさせるみたいな。
それそのレベルではないですけども、普通になんかこういう仕事をやったりとかこういう活動してると、本当にちゃんとしたアーティストっているんだなっていう。
そうですね。なんかわかる気がします。本当にプログラマーとしてっていう例え話が私にとってはすごくわかりやすくて。
やっぱなんかすごいWebGLの第一人者みたいな感じになってるけど、私なんか別に本物と比べたら大したことないぞってすごい普段から思ってるし、
それはなんかその謙遜とかじゃなくて、いや本物は本当にすげえからっていう、俺なんか立ち打ちできるようなレベルじゃねえからっていうのをすごいやっぱ思っちゃうし。
それは僕から見たら僕なんかただの3GSをこねくり回してちょちょいのちょいみたいな感じで、
シェーダーマテリアルしか使えないような人間なんですけども、それに比べたら独卒さんはもっとWebGLの一番ローレベルなところを触られているじゃないですか。
だからもう十分もう本物オーセンティックな人に見えるんですけども。
いやーそんなことはないです。やっぱりなんかこれはバクさんもいろんなところで同じように感じることなのかもしれないですけど、
なんか私からするとやっぱりもうオープンGLとかバルカンとかWebGLとかの仕様を作っている人たちのすごさがやっぱり感じてしまいますね。
じゃあもうクロノスとかの方とかが。
クロノスの中とかあとモジュラーの中の人たちとか、やっぱり化け物だなって思うから自分なんか立ち打ちできねえってやっぱ思っちゃいますね。
まあそうですね。そこはなんかローレイヤーであればあるだけスキルが高いっていうのもまた違うじゃないですか。
そうですね。
高級言語しか触れない人には高級言語しか触れない人たちなりの別な部分での精度追求っていうのが多分あって、
だからそれはそれでいいのかなみたいな。
だから多分ジェネラティブアーティストとかクリエイティブコーディングみたいなことをされている方々の作るグラフィックって、
それこそレッドシフトとかオクティニレンダラーとかみたいなGPUレンダラー、一流のGPUレンダラーとかを使ってすごく綺麗にレンダリングされたVFX業界の方々の作るようなものに比べると、
単的にクオリティは低いと思うんですよ。
僕が作ってるのも含めて。
だけどもそうじゃないところで、
だったら単にCGとかのHoudiniやCinema 4DみたいなDCCツールを使っては、
たどり着けないようなちょっとした違和感というか、やりづらいことっていうのを追求するためにローレベルなところに潜っているし、
そこでしかそういうローレベルなところで作ったからこそ得られるアウラーみたいなものは絶対グラフィックにあると思うんで。
だからそこはローレイヤーだからよりすごく高度なことをやっているとも借りらないというか、
すみ分けなのかなって勝手に思ってるんですけども、いかがでしょうか。
その通りだと思います。
例えばWebGLスクールとかでよく言う話としては、
皆さんに今から私はいろいろ教えていくんですけど、
例えば3DS使わないとWebGLできない、ネイティブなWebGLのAPI直接触るのは難しすぎて無理っていう感覚を持つかもしれないけど、
それは皆さんが無能であることの証明ではないというか、
別にライブラリ使って作れればいいじゃないですかっていうふうに思うし、
ローレベルなネイティブなWebGLのAPIで書けるから偉いわけじゃなくて、
何を成すかの方が大事だから、無理だと思ったら無理しなくてもいいけど、
スクールのカリキュラムとしてはローレベルなことも知っといた方が結果的に全体として考えたときにプラスになると思うから教えるんで、
それはもし一発でわかんなくても落ち込まないでねみたいなことをよく言うんですよね、スクールの中で。
だからそれに近いというか似たような話かなと思うんですけど。
そうですよね。一方で確かに高級な部分しか触ってなければ触ってないからこその別な部分に余力を避けるわけじゃないですか。
グラフィックとしての精度だったりとか。
だけど一方でローレベルなところを知ってるからこそ新たに見えてくる探索空間っていうのも多分あるわけで。
だからそこのトレードオフがすごく僕の場合難しいというか。
なんか潜っていけば永遠に潜れるじゃないですか。
そうですね。
それぞれの政策を可能にするためのデザインツールを可能にするためのプログラミング言語を可能にするためのコンパイラー最適化みたいな。
なんかそれって多分一人の人生一生で扱いきれないような量なんで。
けどなんか自分は結構そこの自制心がなくてどんどん興味が無限交代しちゃって作品ができないっていう。
なるほど。
じゃあそれがなんかその最近ツール作りに結構没頭しちゃってるというかそれが結構多くなっちゃってるっていうのはそういうところなんですか。
辛いですね、はい。
辛いんだ。
いや結構私とか見てると、バクさんご自身はどう思ってるかちょっと別として私とかから見てると、
なんかすごいこんなところからやるんだ、すげえって逆に思っちゃうんですけど。
本人の感覚はそうではないんですね。
いや早く、やっぱ映像作家っていう肩書き一つでやってるんで。
最終的に映像作りたいんですけど。
なんかこう普通にやってると多分プログラマーの方々がそれこそ今の主要なデザイン制作ツールとかされたときに
カプセル化はどうするのとか、何て言うんですかね、こうジェネリック関数はどういうふうに定義するのとか、
なんかプログラミングをしてるときに頭の中で渦巻く統合感覚みたいなものと、
デザインツールを使ってできる表現っていうか抽象思考の楽さにやっぱ耐えられない方が多いんじゃないかなってすごい思うんです。
だからPhotoshop使うよりもImageMagick使った方がいいじゃんみたいな。
だから一方で最終的に普通に映像作りたいっていうか、やっぱ映像好きなんで。
だから僕がやっぱウェブで多分ほとんど稼いでないんですけども、人生で。
多分トータルで200万も稼いでないと思うんですけども。
けどどちらかというと映像制作のためのツールを作る環境として、ウェブって全然十分耐えられるものになってきたなっていう感じが。
そうですね。
ありますよね。
そうですね。今はもうできないことが本当にどんどん少なくなってきてるから。
ブラウザっていうのがまたどこにでも存在しているから、そういう意味でもすごく夢があるし。
そうですよね。
わざわざインストールしてくださいなんていうのをやらなくても、言われる一つ私は動いちゃうっていうことがやっぱりすごく面白いなと思うし。
なんか結構私、もしゲスト呼ぶことあったら聞いてみたいと思ってた話を今ちょっと思い出しちゃったんですけど聞いてもいいですか。
はい、大丈夫です。
ついこの間、最近見たツイートで、ちょっとどういう文章だったかすぐにはパッと思い出せないんですけど、
結構UI、インターフェースに対してバクさんよく研究してること多いなっていうのが結構あって。
UI、UXの部分ですね。例えばカラーピッカーみたいなものだったりとか。
カラーピッカーじゃないのかな。あれ何だったんだろう。その色を選択するインターフェースみたいなものとか。
カラーピッカーですね。
ああいうもののデザインというか、体験自体を普段ブラウザの上に乗っかってるインプット要素とか見てて何にも感じないのかなっていうようなことを確か言ってたツイートがあって。
ブラウザとか関係なくですけども、それは僕が最初に言ったことではなくて、
今年の頭ぐらいから産業総合研究所っていうところでHCI、ヒューマンコンピューターインタラクションの研究分野の研究室の協力研究員をさせていただいてるんですけども。
なるほど。
そこで僕のメンターの方に結構教えていただいた白論とかに書いてあった。カラーピッカー変わってなくない?90年代からみたいなテイストがあって。分かるみたいな感じで。
本当にその文脈の話すげえ面白いなと思って見てて。確かになって思ったんですよね。だからそういうところに突っ込んでいくのはどういう背景があるのかなと思ってたんですけど。
もともとそういうバックグラウンドがあったというか、直近でそういう状況に置かれていたってことだったんですね。
けど、そうですね。なんか結局もうHSVっていうのがいる空間としてクソじゃないですか。色相を回すのに明度も上がっちゃうしみたいな。
あとは何て言うんですかね。結構そのものを作る上で作品を作るために色んな環境に無意識に自分の発想みたいなものが誘導されるみたいな。
アフォーダンスみたいな、アフォーダンスって言っていいのか分かんないですけども、結構そういうものに昔から興味があるというか。
だから例えばアニメーションの描き方って大きく2つあるんですよ。
1つがポーズトゥポーズ。原画と原画を描いてその間を中割りしていくっていう作り方。
で、もう1個がストレートアヘッドっていう、1フレーム目からじゅんぐりじゅんぐり描いていくっていう。
で、例えばキーフレームアニメーションとかシリーズトランジションってポーズトゥポーズの世界じゃないですか。
そうですね。
キーフレームを決めてその間をどういうイージングで保管していくかっていう。
なんかそこでは結構動きに対して計画性が出るんですよ、たぶん。
今の状態に対して前科識みたいな感じでちょい足ししてちょい足しして、
なんかよく分かんないけどこんなところに来ちゃったよっていうやんちゃ感って結構ストレートアヘッドの方が出るっていうか。
なんかそういう感じで、今の映像制作とかアニメーション制作ツールって基本的にはポーズトゥポーズをベースにしてるから、
だから世の中での動きを見てると、これポーズトゥポーズの感じがすごいするなみたいな。
だけども例えばクレイアニメーションとかって、今あるクレイに対してちょっとずつ指で形を変形させていってみたいな。
ニャッキとかそうですけど、そういうところでしか生まれない動きっていうのはたくさんあるんですよ。
そういうような感じで何かを作れるための操作環境が無意識に作品に対してもたらすトーンというか法則性みたいなものに抗いたいみたいな。
だからいちいちもうHSVのカラーピッカー使うの嫌になって、RGBスライダーで配色したりとかしてました。
なるほど。面白いな。いいですね。こういう話本当に面白い。最高に楽しいです。
いや、だから難しいですね。
バックさんを持ち上げすぎるのもあれだなとは思っちゃうんですけど、HSVがクソだからって言ってくるのも最高に面白いですね。
わかるんですよ、言ってることは。だけどやっぱウェブの世界でそういう純度まで仕上がってる人なかなか見かけないから聞いてて楽しくなってきちゃいましたね。
でもおっしゃる通りだと思います。
やっぱり3Dも結構ポーズトゥポーズっていうか、基本的にはそれの連続であることがほとんどじゃないですか。やっぱり3Dの世界も。
クレイアニメの話された、クレイアニメっていうキーワードが出てきたときに確かになって思っちゃいましたね。
その不確実性っていうか、わからなさっていうかどうなっちゃうか、未知の領域がたくさん余白が残ってるっていうか。
たくさんあるんですよね、たぶん。
例えばベクターベースだからこそ出てくる発想もあるし、ベージュ曲線の次数が3だからこそ出てくる曲線ってたぶん出てくるし、みたいな。
だからそのベージュ曲線がもし四次ベージュ曲線だったら、もっと直立連続なカーブを描きやすくなるじゃないですか。
あとCSSのボーダーラディアスあるじゃないですか。
けどあれって結局直線からいきなり円弧に繋がるじゃないですか。
だけどAppleとかのインターフェースを見ると、角を丸めるのにも緩和曲線を必ず入れてるじゃないですか。
だけどもCSSっていう標準が緩和曲線を入れた、よりエルゴノミックな角の取り方っていう選択肢をデザイナーの、ウェブデザイナーの選択肢から無意識に奪ってるわけじゃないですか。
そうっすね。
あるいはチャンファーとかでもいいわけじゃないですか。
マールクスンじゃなくて45度で切るみたいなディブがあってもいいみたいな。
そういうのにことごとく抗いたいっていう感じが、自分をこの無限交代に誘って作品ができなくなっちゃうっていう。
なるほど。なるほどな。
なんかすごく分かった気がします。やっぱりそういうツール作るところからやりたくなっちゃう気持ちがすごく分かりますね。
本当おっしゃる通りだと思いますね。そういう用意されたフィールドの上でみんな踊ってますもんね。
それ自体はどんだけ用意されたところから出ていったとしても、また別の用意されたフィールド、ちょっとだけ広いフィールドの中で踊ってるだけなんで。
多分程度問題だと思うんですけど。
まあそうですね。
だから最終的にはノイマン式コンピューターの中でできる表現に僕たちは閉じ込められてるって言ってしまったら何もできないじゃないですか。
そうですね。
それが何なのか分かんないですけども。
なるほどな。じゃあ結構その、やっぱりUI、UX、すごいこだわってしまうのも、なんかそのいたしかたないことというか、
バクさんの中ではもうどうしようもなくそっちに結局行ってしまうっていう感じなんですね。なんかお話聞いてる感じだと。
私が言うとそのUXみたいなものが、基本的に今のメインストリームのUX思想みたいなのがすごい嫌いっていうのが一番あるかもしれないですね。
なるほど。
なんていうんですかね。ユーザー体験とか目打ちつつも、すごくパターナリスティックな感じがするんですよ。
多分ユーザーっていうのはこのアプリを使うにあたって、このサービスを使うにあたって、
より本質的なことに興味があるであろうから、その過程で邪魔になるような認知負荷をなるだけ取り除いてあげようみたいな考え方じゃないですか。
なんかそれが僕はあんまり好きじゃないというか。
それが例えばオークションアプリとかだったらそれで別にいいと思うんですけども、
デザインとかものを作るって目的があってそこに向けた局所最適化の世界じゃなくて、
そもそもどこに向かえばいいかなっていうのを探索的に楽しむもんじゃないですか。
僕は個人的に少なくとも思ってるんですけども。
なんかその上でこういうふうにテンプレートを作ってあげたらとか、
こういうふうな補助ツールがあったらワンクリックでこれができて便利よねっていう、
何が便利かっていうのをベンダー側に規定してほしくないみたいな感じでないですか。
いや、分かります。
何が便利かは僕が決めるからみたいな。
だけども、多分そのUI UX、エンドユーザー向けのUI UX思想みたいなものを、
できるだけそういう選択肢をあまりにも多くしてユーザーを圧倒しないっていう考え方も一方であるじゃないですか。
こんなに選択肢を示しちゃって、
ジャムがたくさん多すぎて選べないみたいになっちゃったらUX下がるよねみたいな。
あるいは何ていうんですかね、あまりにもツールとしての自由度が高すぎちゃうと、
その自由度の高さゆえに自分の銃で自分なし撃っちゃうじゃないかみたいな。
僕はむしろそのカオスさっていうかわいざつさっていうのが万歳というか豊かだなと思うんで。
だからそういう意味でやっぱりカラーピッカー一つにしても、
なんでCMYKの中で、RGBの中で配色させるんだろうとか。
なんで毎回絵料を選ぶたびにポップアップをしてクリックでポップアップを開いて、
そっからまたクリックをしてドラッグして選ばなくちゃいけないんだろうとか。
そういうものについて真面目に考えてる方が全然いらっしゃらないのが悔しいなっていう気持ちが。
ないですか。
いや、私自身が例えばですけど普段の生活の中で、
バクさんと同じ順度でそういうことを考えられてるかって言ったら考えられてないかもしれないですけど、
おっしゃってることはわかりますね、話聞いてれば。
やっぱ私がよく思うのは、結構ユーザー、
同じことではないのかもしれないですけど、
なんでもかんでも最適化しすぎるのはやっぱり良くないなっていうのはすごく感じることがあるんですよね、
普段の生活の中で。
結構私なんていうか、プログラマー特有のあれなのかもしれないし、
もしかしたら他にもそういう人いるかもしれないんですけど、
なんでも最適化しようとしちゃうんですよ、普段の生活の中で。
自分がなるべく最短距離で、最短の時間で何でもこなせるようにみたいなのを習慣化して、
なるべく無駄なく生きようとしてしまうんですけど、
無駄なく無駄なくやっていくと確かに効率がいいし、
自由な時間がその分確保できるしとかっていろんなメリットはあるんですけど、
一方で、あれでいえば肩にはまってしまうというか、
新しい発想が生まれにくい環境を自分で作ってしまうようなところがあって、
なので結構最近は散歩したりとかして、
3時間とか散歩するんですよね。
3時間、歩いてるだけの時間が3時間あるんですよ。
昔、最適化を考えたら歩いてるだけの時間3時間あるって、
どんだけ無駄なことしてんねんっていう感じもするんですよね。
だけどその無駄さが結構最近は楽しいんですよね。
それって結局最適化じゃないですか。
そうなんですかね、そうなんかな。
最適化しすぎることがダメっていうよりも、
むしろ最適化の不徹底がダメだったんじゃないかなと思うんですよ。
だから例えば生産性とか能率とか、
実際僕たちが最大化したいのってそういうところじゃないじゃないですか。
プロダクティビティとか上がってその結果をもたらされる、
自分の調子の良さみたいなものを最大化したいわけじゃないですか。
だけど一方で低量化しやすいのって、
人質換算しやすいような仕事量だったりとか稼ぎだったりとかするわけじゃないですか。
だから多分本当に最適化っていうのを突き詰めていくと、
そういう自分が最も調子良くなりような無駄さっていうか良さの行動も含めて、
むしろ最適化の対象になるのであって、
最適化をしてこなかったというよりは、
そこの部分も含めて最適化できるパラメーターっていうのが
特撮さんの中で広がって、
より徹底した合理主義者になった結果、3時間散歩してるっていう考え方もできますよね。
そうですね。そういう考え方もできます。
だから自分が最も良い状態になるものを散歩することによって発見したわけで、
そこに向かっていくんだったら確かに最適化ではあるんですね。
確かにね。
だから最終的に作品とかツール作るときも、
別に便利だから作ってるわけじゃないっていうのも多分あって、
難しいなこれって。
こう…
やっぱ作ってるプロセスとして、
すごい自分のいろんなインテリジェンスとかをフル活用したりとか、
あるいはクソどうでもいい反復作業で時間無駄に浪費しながらも、
一番クオリティオブライフが高められるような作業の混合比率ってあるじゃないですか。
ありますね。
ダラダラポッドキャストとかを聞きながら無心でコマドリルをするみたいな。
僕が最大化したいのってそこであって、
だから今のツールとかも結局たぶん言ってしまえば全部、
ジェネラティブAIやらせてしまえばいいようなことにたぶん今後数年でなっていくかもしれないんですけども、
だけどプロセスとしてちまちまグラフィックを描いたりとか、
グラフィックを描くためのツールを作ったりとか、
あるいは今コマドリルアニメーションソフト1から作ってるんですけども、
より調子のいいコマドリル制作環境を作るにはどうしたらいいかみたいな。
それって結局いいものを作るためにそういうものを作ってるんじゃなくて、
自分の調子を上げたいからそういうふうにしてるみたいな。
なんて言えばいいんですかね。
すごいキャンプとか最悪だなってやっぱ思うんですよ。
キャンプとか最悪。
あとマインドフルーネスとか最悪だなってやっぱ。
そうですね。
それ最適化に失敗してんじゃんって思っちゃって。
合理的思考の中にそういう、
定量化しづらいような価値っていうのも含めて徹底的に合理化できなかったような人たちが
いたずらに知的労働でもって自分の生産性を上げまくって上げまくって、
そこで自らすり減らした人間性を結局消費っていう行動によって回復するってことじゃないですか。
そうですね。
だったら最初から最適化する対象間違えてんじゃんみたいなって思うんですけど、
これちょっと批判的かもしれないので。
いやでもいいと思います。
今日はそういう話をしてくれるっていうのがめっちゃ嬉しいですね。
なんかやっぱ普段なかなか、まあでもバックさんの場合は結構ちゃんと言葉にされてるのかもしれないですけど、
そうやって包み隠さず、包み隠さずって言うとちょっと違うかもしれないですけど、
思ってる通りに喋ってくれると。
私は嬉しいなと思って聞いてましたけど。
いや、僕もキャンプしてます。
そうですか。
いやでも、なんていうか、ちょっと今バックさんがお話ししていただいたことに対する直接的な反応ではないかもしれないですけど、
なんかそういう視点で、視点というかそういう流度で世界を見ることができてしまうと、
なんかすごいツイッターとか、なんかすごいヘイトの塊に見えたりとかはしないんですか?
自分、なんて言うんだろうな。
なんかツイッター、多分誰しもが感じていると思うんだけど、ツイッターの中にある混沌としたものって、
ツイッターを開けば、今はXっていう名前ですけど、あれを開いちゃえば嫌がおうにも絶対にタイムラインに流れてくるし、
なんかその都度心が揺れ動かされてなんかこう参っちゃう人とかっていると思うんですけど、
バックさんは結構そういうふうにはなんないですか?
なんかその今の話聞いてても、キャンプをそういうふうに捉えることができるんだ、すごいなっていう感覚と、
そういう流度で世界が見えてたら、なんでもかんでも、なんかこうどう自分の中で消化したらいいか、
エネルギーめっちゃ使うんじゃないかなって今聞いてて思ったから、それで疲れちゃうとかってことはないんですか?
いや、ない。なくないですか。
そこは普通になんか自然に受け流せるというか、そんな気にならないんですか?
いやなんかそれをそういう、今はポッドキャストの場でしかキャンプ批判とかマインドフルネス批判はしないですけども、
それを言ってしまったらやっぱりいろんな人を傷つけてしまうのでよくないなと、
10分で消すぐらいのことはそういうかもしれないですけどもけど、
なんかあんま疲れないっていうか、なんか何に使い入れてるのか、何に食らってるのかっていうのがいまいち理解できてないから、
なんかオーバードーズしちゃうんじゃないかなって気持ちはするんですよ。
だからやっぱ結局Xなんか仕事で迫られて使う人ってもう実はあんまりいないじゃないですか。
そうですね。
広報的な意味で、例えばその独卒さんみたいにオンラインスクールで集客するためにやっぱり必要なんだっていうふうになったとしたら、
もうそれこそなんていうんですかね、不快なツイートとかそういうものを一切フォローしないで、
ぼっか的なSNSタイムラインをすることも可能じゃないですか。
それは4Uですごく余計なものも入ってくるんでそうとはいかないんですけども、
それでもリスト作ってその中だけ見てしまえば、完全にそういうけしからなさとか、
もにおりから隔離されるじゃないですか。
だけどそれを結局選べるのに接種しに行っちゃってるってことは何かかしら快楽なんだろうなと思うんですよ。
私はあんま食らわないっていうか、すごい病んじゃうとか、一回離れようみたいなところまで行くほど不快ではないし、
結構なんていうか、みんなから私がどう見えてるかわかんないんですけど、
私自身は結構ドライなところはとことんドライだったりもするので、気に食わなかったらさっさとミュートしちゃうんですよ、結構。
3秒ぐらいで。
いいですね。
その人がどういうことを普段喋ってるかわざわざ見に行ったりせずに、一回何か見た瞬間にそれで、
これなんか良くないなって、自分的に良くないなって思ったら深掘りせずに3秒ぐらいでスッとミュートしちゃうんで。
結構、本当にそういうところは良くできてるんですよね。
自分自身の精神が壊れないようにすることだけは結構上手くできるっていうか。
でもそれでも見てると、なんでわざわざこんなみんなキレてるんだろう。
キレてるみんなのくだらなさにくらってしまうっていうか、
そんなこと、お前気にしなきゃいいじゃん。なんで気にすんだよ、こんなこと。っていうふうに思ってしまうのが嫌になってくる感じがあって。
それって気持ちいいからですよね。
だから、そういうのを見てると、俺はこういうふうになりたくないと思ってめいっちゃうからどんどんミュートしてっちゃうんですけど。
だから多分生き延ってる人が一番のマウンティングの対象としてカースト低いと思うんですよ。
これは生き延る対象っていうのはすごくちゃんとした世の中でもっと理論されるべきイシューであるときに関してはそうじゃないと思うんですけども。
SNSしぐさとしてのカーストは多分低いと思うんですよ。
生き延りに対してニヒリスティックに構える人もまた一方でヤギの対象になるみたいな。
っていうわちゃわちゃに対して、ああいうふうにして霊障系で振る舞うのってなんなんっていう霊障に対する霊障をした人も結局同じ無事なというか。
だから結果どのポジションどのぐらいマウンティングがメタであろうと気持ちいいことには変わりないと思うんですよ。
どっかで飽きれるとか食らってしまうとかしょうもないと思うこともやっぱ怪異ではあるじゃないですか。
すごく認めたくはないけども。
僕はそうなんですけども少なくとも。
それをどんぐらい自分が一番すり減らない程度に適量摂取し続けるかみたいなカフェインみたいなもんで。
だからそれでいうとやっぱプラットフォームってクソになっていけばクソになっていくなりの別な用途って出てきますよね。
そうですね。
今スレッツが一番平和じゃないですか。
いや私スレッツ全然やってないからわかんないけど。
でもそういうふうによく聞きますよね。平和だよっていう話はよく聞く。
みんなイエサピーみたいな感じなんですけど。
けどFacebookはFacebookで逆にすごく使いやすいSNSになったなって思うんですよね。
誰も見てないし見てるやつみんなダサいから。
だから逆にどんなダサいこと言ってもそれを見てダサいと思う人も結局ダサい。
だから逆にある種の心理的安全性っていうのが担保されてる世界じゃないですか。
その意味でもSNSでいうXってオワコンじゃないですか。
オワコンになってからがようやく言いたいこと言えるんじゃないかみたいな。
だって見てる側もクソだからみたいな。
そうですね。
ドッキリないですか。
いやわかります。
暴論ですかね。
いやそうだと思いますよ。
Xはいずれ終わってしまう感じがするし、それでもやめないやつが絶対いると思うんですよね。
そうなったとしてもやめないやつが。
サーバーが動いてる限りそこからいなくならないやつが絶対いると思うから。
おっしゃる通りだと思います。
フェイスブックとか本当誰も、誰もって言ったら言い過ぎかもしれないけど、
前向きな気持ちであそこに何かを言ってる人ってあんまりもう本当にいないんじゃないですか。
プロモーションというか業務連絡的な感じで自分がやってることを義務的にフェイスブックに流してるっていう人がほとんどなんじゃないかな。
なんか私も一応WebGL総本山更新したときはフェイスブックのビジネスアカウントみたいなやつに総本山のやつがあるんですけど、
そこにだけ流すんですけど、そのためだけにフェイスブックを開くんですけど、
自分のパーソナルなアカウントのほうで何か定期的に見るみたいなのを本当にやんなくなっちゃいましたもんね。
もともとやってないけど、さらにそれに同行してやらなくなってる感じが。
高校の先生とかしかいないですもんね。
そうっすね。私は結構若いときにもうとっちらかしたせいで、結構高校レベルの知人とは一人も繋がってないレベルで繋がってないんで。
だからもうフェイスブック上は本当に何のあれもないな。見たいと思って見ることがほぼないですね、フェイスブックとかは。
でもスレッツは写真を投稿してたインスタグラムのアカウントと紐づいちゃってるから、
ドクサスっていうコンテキストではないんですよ、スレッツのほうに存在している私のアカウントは一応あるんですけど。
スゴフォンさんとしてのドクサスさんじゃなくて。
そうそうそうそう。だからあんまり見てないっていうか、一応アカウントはあるけどフォローもしてなければフォローの何でしたっけ、リクエストの許可とかも全然してないんで放置状態になっちゃってますね、スレッツは。
僕もあんまり投稿できてないんですけど、ただ見受せんとしてスゴイいいなーって感じは。すいません、全然ウェブとかスマホとかの話してないですね。
いや別に全然いいんです、いいんです、そんなのは。いやそんなのはっていうのはちょっと違うかもしれないけど。
いやそんなのです。
いやあの、なんていうんですか、このノーマライズFM本当にあの、スゴイどんどん格式が高くなってっちゃっているので、なんかこういう話をしなければならないとか、こういい話をしなきゃいけないみたいな感じにしたくないなーっていう気持ちはずっとあるんですよ。
だから今日みたいな感じの方が私的には楽しいんですけど。
ああ、けどそういう意味ではもしかしたらだいぶ下心あるかもしれないですね。
ああ、なるほど。
むしろそういうんじゃないオルタナないい話をしてやるぜ的な下心が多分まだあって。
そうですね、はい。
まあどんどんメタになってたらどうしようもないんであれですけど、また別な種類の下心にまみれてる感じがするんで、なんかもっと意識の低い話した方がいいんすかね。
いやいやいやいや、そこはまあどっちでも大丈夫です。私はそのゲストの方とお話できるのが楽しいだけだから、どっちでも全然大丈夫ですし。
そうなんですね。
いや結構やっぱ、普段はですよ。普段は結構やっぱみんな緊張もしてるし、かっこよく、かっこよくと言うとちょっと違うかもしれないけど、ちゃんとしなきゃっていう感じでこの場に臨んでる方が絶対多いんで。
こう自然体でいてくれるっていうだけでかなりアドバンテージというかその希少性が高いですよね。自然体で喋ってくれるっていうだけで。
なんかそうですね、特にやっぱディスコードとかで、今ほとんどそのウェブカメラオンにしてるんですけども、ほぼもうそっち側の方見ないで、今Google Chromeのインスペクターのログをずっと見ながら話してるんですけども、
なんかそのディスコードで結構、なんていうんすかね、ボイチャしながら作業通話することがやっぱコロナ禍以降増えたんで、なんかその感覚でこうやってボソボソとずっと卑屈なことを言うのに逆になんか悪い意味で慣れちゃった感じがします。
でもそれは別にダメではなくないですか、でもそれ自体は。
こういう真面目なく話をできた場合に、なんか片桁であろうもっと有意義な話を全部スポイルして、またマウンティングの話をしてるんで。
いやなんかほんと今日は楽しいな。
はい。
いやもうちょっと、なんか俺もバクさんゲスト呼ぼうって決めた時に、こういうような感じになるだろうなっていうことは想像はしてたんですけど、
でもその想像以上にちょっと今、普段のノーマライズFMと違う感じになってて、最高に私自身は楽しんじゃってるんですけど。
あ、けどこの辺全部バッサリ切って、逆に今からちゃんとこう、お仕事の実績とか、あるいはまだ納品できてないものとかの話をすることも可能っちゃ可能ですよね。
いや別にそれはいらないじゃないですか。いや、あの語りたいなら語ってもらっても全然いいんですけど。
まあいいかなっていう感じだったら、まあ別に無理にとは全然思いません。
いやなんか結局、まあ僕に関しては、ちゃんとこう、ぶち上がる映像作れたなと思えたのがもう7年前なんで。
あのお餅のミュージックビデオって見たことありますか?
あります。もちろんです。もちろん見てます。
あれがやっぱ僕が最後に作れた最高なもので、
まあその、別になんていうんですかね、それ以降作ったものって別に取るに足らないというか、
結局なんか、まあそれはその自分に対して依頼をしてくれた方々に対して取るに足らないものを返したってここで宣言するわけではないんですけども、
けど、まあその時できるベストは作ったけども、だけどもそれがなんていうんですかね、
ミシェル・ゴンドリーに引けを取らないみたいな意味でやばいかって言われるとそうじゃないっていうか。
だからなんかそこが結構ずっとへこむというか。
なんかちょっと話遮るような感じになっちゃうんですけど、
自分の中で納得できたおもちの映像があるよっていう話だったと思うんですけど、
私、写真に対してその感覚をまだ持ったことがないんですよ。
こいつは俺にとって一つ意味があったなって振り返って感じるものって今んところまだ登場してないですね、私の人生の中で。
それってなんか作ってる瞬間から、あるいは取り組み始める前の思いついた段階とかから結構あるもんなんですか?
それとも作ってから時間が経って何か感じるものがあるもんなんですか?
マクさんの場合はっていうことになっちゃうと思うんですけど。
作ってる最中から最高のものを作れてるなって感じになりますよね。
そうなんだ、やっぱり。
いいじゃん、いいじゃんってなんか思いながら。
で、そのトランスというかハイな状態がちゃんと経過して出てきたものはやっぱり最高なんですけども、
なんかわかんないけどうまく歯車が合わなくて、そのハイな状態に持っていけないままシラフで最後まで作ったものって割とそれなりの出来になっちゃうみたいな。
それで言うとやっぱ僕がウェブに関して、そういう意味で自分のフィルモグラフィーっていうと大げさですけども、
そういうものに残るようなものを作れたってことが多分一個もなくて、
なんかやっぱこれまでいろんなウェブとか多分どれかもしかしたら独卒さんも見ていただいてるかもしれないんですけども、
ちょっとしたその、なんていうんですかね、その世界の方々と一緒にやったナイティアボとかのウェブGLのサイトとか、
あと元ドットバイドットの方々と一緒に作ったインタラクティブミュージックビデオとかもあるんですけども、
そもそもそのうちの一個はもうすでに動かなくなっているし、
やっぱもう一個もスナップチャットとか出てきたときに、全然なんか映えない表現になっちゃったっていう、
なんかそういうこう寂しさってありますよね、ウェブって。
うん、そうですね。
それと皆さんどうやって向き合ってらっしゃるのかなっていうのがすごく気になって。
どうなんだろう、どうなんすかね。
なんかもう最初から一家製のものとして見てそうな気もするけど、そういう人もいそうな感じはしますけどね。
だけども最新の僕のポートフォリオに載せられるような作品っていうのが、
いわゆるモダンなウェブデザインっぽい動き方をする直近5年の作品しか、実績しか載せられないって結構、
どういうふうに考えたらそれに対して前向きになれるんだろうって。
そうですね、そうですね。
だからやっぱ高校生ぐらいの頃にフラッシャー文化っていうのがすごく花開いていて、
インタラクティブ広告っていうものもすごく言葉としてもてはやされていた時代に、
いろんなこういい表現から辛い表現までいろんなもの出てきたじゃないですか。
それを今振り返って批評することももう叶わないって、
なんか結構自分、
ニヒルになっちゃったっていうか。
だから僕がアクションスクリプトを大学の推薦入試を受かった時間を使って勉強していた頃に、
なんかもうフラッシュ自体終わっていくねって感じになっちゃって。
それまで僕がすごくウェブとかで観察していらっしゃったフラッシャーのすごい方々の多くが、
ある意味ちょっと一つ定感の境地に行ったというか、
こういう一つのプラットフォームの中でちまちまとやばいものを作っていくんじゃなくて、
もっと上流の仕組みというかシステムみたいな部分からかかっていかないとダメじゃね?みたいな気分もなんかあった気がするというか。
そこで堅くなにフラッシャー的なマインドでもって、
気持ちのいい動き方とか、やばいデザインっていうのをこねくり回す人っていうのが、
なんかあんまり多くなかったのが結構僕が学生の頃にショックだったんですよね。
それって独卒さんってどの時代からウェブデザインっていうのをずっと見られてたんですか?
これも結構ノーマライズFMとかで言ってることではあるんですけど、
私自身は元々全然違う結構画展系の仕事とかをずっとしていて、
ちょっと正確なところは覚えてないんですけど、
多分20代の後半、30手前ぐらいまではほとんどパソコン触ってないぐらいの感じだったんで。
いや、それですごいですね。
だったので、当時やってたのは倉庫みたいなところで、
いわゆるトラックのうんちゃんが運んできたやつをフォークレフトで煮下ろしして、
それに送り所を張って佐川のあんちゃんに渡すみたいなことをやってたんですよね、当時。
最終的な送り先に送るための送り所を、当時はまだ手書き文化だったんで、
送り所がラベルでビハテ出てくるみたいなんじゃなくて、
カーボン紙みたいな何枚か重ねになってるやつを手で書いて送って、
その手書きで書いた控えをExcelのセルに入力しなきゃいけないという業務があり、
それでパソコンを触ったみたいな感じだったんですよ。
だから当時はタイピングも全然できなかったし、
マウスとキーボードというものとしてはそれ知ってたし、
どういうふうに使えばいいかは何となく直感的に分かってはいるけど、
自分で全然やってはいないっていう感じだったんで。
その頃は本当にまだ日本ではGoogleよりYahooの方が強いぐらいの頃だと思うんですよね。
みんながYahooのトップページを見ていた。
Windowsマシン買ってきたらYahoo、まずインターネットエクスプローラー開いたらYahooが出てくるみたいな時代だったと思うんですけど、
その頃は本当にあれですよ、いわゆるITリテラシーがないってよく言われるような、
なんか分かんないけど壊れたんですけどって言っちゃうような感じの人だったんで。
だからちゃんとウェブをウェブとして見始めたのはそれこそ本当にWebGAと出会った後ですね、多分。
それまでは本当に1インターネットユーザーぐらいの感じで。
だから本当だったら世代的には2チャンネルとかめっちゃ潜っててもおかしくないぐらいの世代だと思うんですけど、
2チャンネル文化とかも全然その当時オタクじゃなかったから知らないし。
後追いでどういうものかはなんとなく分かりますよ、ニコニコ動画とか、
2チャンネルとかそういう昔ながらのインターネットの文化はなんとなくは分かるんですけど、
がっつりそこで生息していたっていう感じじゃないんで。
だからWebGAを勉強し始めて、それと同じぐらいのタイミングでHTML、CSS、JavaScriptをちょっとずつやっていってみたいな感じだから。
だからもうフラッシュが終わりを告げる本当に数年前とかぐらいですかね、タイミング的には多分。
そうなんですね。
なんかじゃあ多分僕と同じぐらいからWeb…
そうかもしれないです。
なんかそうですね。
なんか僕の中で結構Webデザインっていうのを一つのデザイン師として語ろうとすると、
いろんな○○士官が混ざり合ってぐちゃぐちゃになるじゃないですか。
なんかその中ではやっぱ僕はすごいフラッシュ士官みたいなものがあるっていうか、
フラッシュ的な方々が持っていたクラフトマンシップみたいなものっていうのが、
それってすごい過剰品質でもあったと思うんですけども、
そんなX-Menのウェブサイトそんなこっとり必要なくね?みたいな。
その過剰品質のフラッシャー同士がそれがなんていうんですかね、
シンクった話、ユーザーにとってどんだけ見やすいかとか、
そういうの関係なしにフラッシャー同士が他のフラッシャーを意識しながら、
こうハレーションを起こしていった先に出てきた謎のコンデンス魅力みたいな、
なんかそういう強度がすごいフラッシュにあったなって僕が中高生とか10代の頃に思ってたんですよ。
で、それがまたWebGLになって一回リセットされて、
WebGLはWebGLでどんどんどんどんまた過剰品質になってるじゃないですか。
僕すごいこれ褒め言葉でしかないんですけども、リスペクトと。
で多分フラッシャーの時代は多分主にそういうものに対して資金源というか、
その制作費として当てがわれていたのって広告費じゃないですか。
ウェブ広告っていうのが未来のメディアだよっていうふうなハイプっていうのがたくさんあったから。
でなんかWebGLで凝ったウェブサイトってその辺何が何によって駆動されてるのかな資金面的にってちょっと不思議な気もするんですけども。
でも同じじゃないですか、多分。
広告なんですかね。
同じじゃないかなと思うけどな。
例外があるとしたらそれこそGoogle Earthみたいなもんとか、
ああいうなんか所詮Googleは公共ではないにせよ公共色の強いサービスとか、
そういうもので使われてるWebGLは別ですけど。
それ以外は同じじゃないかな、同じな気がするけどな俺は。
なんかコンサルファームとかのランディングページがものすごい軽やかなアニメーションとともにこにゃこにゃかかじりにコミットするみたいな、
なんかA1民調のフォントがにゅるっと入ってくるみたいな。
なんかああいうの見てるとこれって別に本当にこのコンサルファームの方々の顧客価値を高めることにつながるのかなって一方では思うんですけども。
けどそれはもうそういうインタラクティブデザインっていう文化に対する投資というかCSR活動的な意味での貢献だと思ってるんですよ。
あとはWebGLとかそういうナードな人たちがWebGLっていうメディアムを使っていかに激ヤバな表現を追求していくかっていうそのハレーションを加速させていくだけで文化としてすごい豊かなものになっていくのかなと思うんですけど。
これなんか仕事してないから言えることなんですよね。
どうなんですかね。多分本音はそういう風にしたい、そういう風な感じで飛ばしていきたい人が多いんじゃないですか、やっぱり実際は。
すごいフェティッシュですよね。
そうですね。
なんか僕はもういちいちDOMをぐんにゃりさせるみたいなのに懲りまくってたことあったんですけども、
なんかつりつりと動かなくなっていく自分のサイトが悲しくて。
それをやっぱりキャプチャー撮ってたんですけども、動いてるところを残したいなと思って。
これキャプチャー撮ってなったらこれってもはや映像制作だよなと思って。
だからやっぱり映像はなかなか強いですよね、残りやすさって意味では。
そうですね。
Webはもう本当にだってちょっと前のやつがもう動かないとか結構日常感じっていうかすぐ見れなくなっちゃうからな。
確かにできるだけWebGL2とかいろんなカッティングエッジなもの、新しめのAPIとかを使って直いことをすればするほど動かなくなる確率も結構多いじゃないですか。
ベンダーペレフィックスなしでも動くようになっちゃって逆に動かなくなっちゃうみたいな。
そうですね。
そうですね。
いやそうだと思います。
そこのアンビバレントな気持ちってすごいあるっていうか。
だから結局今もいろんなAPIとか使ったりとかしてるんですけども、Webを使って。
なんかそういうインタラクションとして気持ちいいとかグラフィックとして気持ちいいっていうのは最初からその映像って形にベイクできるところでしかもうやらないようになっちゃったんで。
なるほどね。
また誘ってほしいなーみたいな気持ちもあるし。
いや難しいな。
どうしたらいいんですかね。それすぐおっしゃってることはわかるけど、アーカイブする方法だってもうブラウザの各バージョンごとのダンプを取っとくっていうか、
各バージョンの実行ファイルを残しておいて再現するっていう以外に再生する方法がないってことになっちゃいますもんね。
だからメディアアートとかも結構保存・修復が難しい分野じゃないですか。
それこそナムジュンパイクとかの福岡にあるようなブラウン化のマトリックスのやつとかやっぱすごい修復体験だったように。
インタラクティブメディアって基本的にそういう保存の難しさってありますよね。
そうですね。
ニューヨークとかにあるニューミュージアムっていうところとか、結構デジタルアート系の美術館っていうかギャラリーのところでは、
もうダンプってかもう物理的にダンプ取っちゃうみたいな。
その当時のコンピューターとかブラウザを含めてウェブサイトをアーカイブするみたいなことやってたような気がするんですけども。
それしかだって残しておける方法がないですもんね。思い浮かばないもんな。
あとはそれだけ残す価値がある、グラフィックデザイン的な価値があるものだと思っているかっていうのもまずありそうですよね。
多分多くのウェブフロントエンドの人たちは思ってないんじゃないですか。そういうふうな思考で作ってはいないというか。
デザイナーさんはもしかしたらそういう気持ちがあるかもしれないけど、
フロントエンドの実装やってる側は結構少ないんじゃないですか。そこまで思っているか思っていないかで言うと思ってる人って少ないんじゃないかな。
花火師さん的なプロフェッショナリズムっていうのがまたあるってことですよね。
そうですね。
ずっと残っていく建築とかを作っていくんじゃなくて、その瞬間にしか出ない、瞬発的なものではあるけども、
いろんな人たちを喜ばせて、顧客価値にコミットできるようなものを作れたら、おんのじみたいな。
それはそれで美しいというか、美学として筋が通ってる気もするし、
今見るともうゴミなんですよね。
だから多分当時Cinema 4Dのクラック版を使ったりとかしてNHKのコンテストに出した映像なんですけども、
マッチムーブとかできる人いなかったし、なんかディスカバリーチャンネルとか特命リサーチみたいな、
そういう編集館でわちゃわちゃテンポ良く映像をエディットできる人もいなかった背景ではすごい抜きんでられたというか、
高校生の部活画放送部で作ったドキュメンタリーだったんですけども、
高校放送部の講師で全国最優秀とか出られたりとかしてて、
なんかそれのたった10年前なんだけども、今見るとこんなゴミなんだなって思って。
だけどそのゴミの中に光るものは多分あるんですよ。
その表彰としてのナウさとか、なんか技術的な良さっていうのはたった2,3年でスポイリーされてしまうけども、
なんかそれでもその、なんていうんですかね、なんか可愛げみたいなものはすごいあるっていうか。
それがなんかウェブで見れるようになることで、自分の中のすごいマイルストーンとしてずっと機能してくれてる感じがするっていう。
過去を作ったものっていうのがどういうふうにして経年劣化していて、どういうふうな作品強度っていうのが時代と共にスポイリーされていって、
だけどもどういう強度っていうのは変わらずに残っていくかみたいな。
なんかその感じって多分、例えばイラストレーションやってる人とか音楽やってる人とか、
なんか他の創作分野だったら当たり前に多分みんな意識してることだなって思うんですよ。
そうですね。
今ワブルベース使っちゃったら10年後ダサく聞こえんなとか。
逆に何だろう、八百屋のカウベルを今使ったらどういうふうになんだろうみたいなピコ太郎じゃないですけども、
なんかそのこねくり回しのもたらす文化的深みっていうのがすごいウェブにあってほしいなっていうか、ある人はすごいいるんですけども、
キラセンジデザインさんとかキュビビさんとか、あとハリワラジュニアさんとかすごく好きで、
なんかすごいアンフレンドリーなウェブサイトばっかり作ってるんですけども、どなたも。
なんかその人たちは多分そのレベルでドムっていうものを捉えてるからこそいける境地なんだろうなって思った。
すいません、なんか当てず。
方向性が。
いやいやいやいや。分かります。
本当にキタセンジデザインさんとかは、なんていうか、真似しようがないっていうか、この人にしかできない感じというか、すごいですよね。
なんかすごいという言葉でしか私は表現できないんですけど、全然そのちゃんとした言葉で自分の思いを言語化できないですけど。
特撮さんが以前アートとしてのウェブっていうのはどんなものかみたいなことを話されてたと思うんですけども、
なんかあれって逆にウェブ、あそこで紹介させていただいたネットワートみたいなものって、
ウェブ業界の方からどういうふうにして映ってらっしゃるのか気になるなと思ってますけども。
いやどうなんだろうな。なんかウェブ業界っていう括り方が結構難しいような気もするけど、
職業としてウェブサイトを作るホームページ屋さんとして働いてる人たちっていう意味ではたぶん存在をそもそも認識してないっていうか、
たぶんこういうものですよ、見てどう思いますとかって言っても特に何の感想もなさそうな気はするな。
なんか私の感覚で喋っちゃってますけど。でも逆になんかクリエイティブコーディングだったり、
なんかしらやっぱウェブを一つの自分の表現手段の一つとして捉えてるみたいな人だったらなんか思うことがあったりするんじゃないですかね。
だからウェブっていうよりもウェブ業界っていう括り方をしてしまうと、なんかこう輪の形がいびつになっちゃうっていうか、
全然違うところに引っかかっちゃいそうな気がしますけど。
なんかたぶん大まかには例えばみんなTHAは知ってるし、セミトラの田中良二さんとかも知ってるみたいな、
そういう意味でのウェブ業界を今想定してるんですけども。
なんかどうなんですかね。難しいのが僕自身その美術大学っていうのを中退してるんですよ。
だから本当にそういうなんていうんですかね、アート感っていうものがなんか素朴なままに世の中に放り出されてしまう。
みんなそのコンセプチュアリズムとか言ってるけども、結局見た目が全てやんみたいななんかナイブさをずっと今にも抱えてるというか。
で、たぶん今ってそうじゃないじゃないですか。
その見た目とかそういうところでちくり回せるものっていうのは、もうモダンアートの遥か前に済んでしまっていて、
今はそうじゃない、もっとその見た目っていうものを形作る前提っていうか諸余みたいなものをいじくり倒す方がコンテンポラリーアートの主流でもあるし、
逆にその主流にコンセプチュアリズムに対して死んだ絵画っていうものを逆にこうあえてやるみたいな面白があったりするんですけども。
なんかその流れで言うと、なんかどうなんだろうな。
ウェブデザインっていうのも結局デザインとは名ばかりで、今すでに体験っていうより大きな枠組みの話になってるじゃないですか。
そうですね。
なんかデザインっていうものに関しては、もうほぼそのプラットフォームが決めた標準的なデザイン、それまたリアルデザインなのかフルエンドデザインなのか何でもいいんですけども。
で、ある程度正解っていうのが出ている中で、なんか昔の人がフォトショップでなんかすごいスキューモフィズムっぽい用紙紙みたいなディブを9個のスライスに割ってテーブルで組んでたときみたいな、
ああいうちちぐり回しっていうこと自体がウェブデザインにおける悪点になってんのかなっていう感じがするんですけども。
どうなんだろうな。だから、なんかそもそもこれは本当に私個人の意見になっちゃいますけど、やっぱウェブをあんまり表現として捉えてない人の方が圧倒的に多いような気がするし、
なんか何かとその、じゃあ表現的なものとしてのウェブっていうのを考えると何かと批判にさらされやすいというか、批判にさらされるというとちょっと言い過ぎかもしれないんですけど、そもそもなんか伝わらないっていうか、
なんかその、これちょっと本当に素人が言ってるだけのただの感想として聞いてほしいんですけど、例えば何か絵画を見るとか音楽を聞くっていう体験と比べて、ウェブサイトを見るっていう体験ってあまりにも手軽すぎる、コストがなさすぎるっていうか、
簡単に×ボタンでなかったことにできるし、次の瞬間に忘れることができてしまうから、なんかこう美術館とかにわざわざ足を運んで何かを感じ取ろうとするっていう、そういうテンションでウェブを見ているっていうのはあんまりないんじゃないかなと思うんですよね、その割合から言うと。
どうしても作る側と見る側との、そういう意味での言葉にならないお互いの気持ちのやり取りみたいな部分に対してウェブってあんまりそこを重視されにくいというか、そういうのがあるんじゃないかなっていう気はするんですよね。
だからウェブで何かを表現する、それは別に不可能ではない。プラットフォームはそれをやるだけの能力を持っているけど、見る側がそういうつもりで見てないっていうか、これに何の意味があるのみたいな話になりがち。
別に絵画見てこれに何の意味があるのなんて言う方がヤボだと思うんですけど、でもウェブではそれが許されてしまうっていうか。
だから何かその、これが何の意味があるのこれやってってそれが正解になっちゃうっていうか。
だから何なんですかね、そのウェブ特有のなんか刹那的な感じっていうか、そういうものがあったり、アートとしての成熟の難しさみたいなものが。
だから何か作り手の気持ちがうまく伝わりにくいメディアっていうのかな。何かもうそもそもウェブというものがそういうものとして大きくなってきちゃってるからっていうのがあるような気はしますね。
これ私の個人的な何か感覚の話をしちゃいましたけど。
なんかどんな表現分野も最初からそういうハイアート的な意味で文化的アーカイブの対象になるものとは見なされてこなかったところが起点にあるじゃないですか。
それは別に民芸でもそうかもしれないし、映画とか写真っていうのもあくまで他の芸術的な分野に対する二流のメディアってされていた時期もあるわけじゃないですか。漫画もそうですよね。
そうですね。
多分ウェブってまだその、何て言うんですかね。柳創越が出てくる前のそこら辺の職人さんの手仕事による民芸品っていう、何かそのフェーズにまだあるのかな。けど僕はすごく価値を感じてるっていうか。
多分それ、そういう着眼点を持ってる人が一人でも増えてくれることがそういう風になっていくことの近道なんだと思うんですよね。
そういう人があんまりいないのかもしれないですね、今は。
それは独卒さんはウェブ業界の柳創越になろうみたいな感じとかって。
いやいやいや、そんなはないです。そんなはないですけど。
ただ、例えばこのノーマライズFMとかもめっちゃ細い糸ではウェブ業界の貢献につながってるとは思ってるんですよね。
はい。
こういうことをやってるっていうこと自体が。
そうですよね。
だから、こういう人と人が会って話をするっていうことは基本的に台本通りにはならないっていうか。
そこに不確実性があるじゃないですか、人間が二人で話す以上は。
そういう中でこういう話題が出てくることもウェブ業界に貢献していることの一つなのかもしれないし。
なんかこうやってやるぞみたいな旗掲げてみんなの前でバサバサ旗を振ってっていうことはできるとは思わないですけど。
なんかそのノーマライズFMだったりウェブジェール総根山だったり、なんかもう細い糸で実はちょっとだけウェブの発展に貢献しているっていうぐらいがちょうどいいのかなと思ってますけどね。
その意味ではもう偉大ですよね。なんか僕はやっぱそのウェブ、WGLD.orgあるじゃないですか。
ああいうウェブサイトとやっぱ総根山っていうのが同じ一人の手によって運営されてるっていうのが尊すぎて。
どういうことですか。どういうことですかそれは。
なんて言えばいいんだろうな。こう自術的なレイヤーと表現側としてのレイヤーっていうのを何か二元論的に捉えてないっていうか。
自術的にやばいから表現もやばいし、表現がやばいってことは自術的にもやばい。
もう溶けていいじゃんみたいな感覚の持ち主ってやっぱり自術的な深い機会があって、かつウェブデザイナーの方が糸を込めて作ったマイクロインタラクションに日付けるような感性がある、両方がある方にしかできないと思うんですよ。
なんかその意味ですごい多分独卒さんって、いやこれまた要所になるんでよくないかもしれないですけど、本当そういう方がいらっしゃるのって宝みたいな。僕ウェブ業界で人間じゃないんでそういう適当なこと言えるんですけど。
でもそうかもしれないなとは思います。なんかもっとみんないろいろやってくれたらいいのになって思うことは多いんですよね。
ノーマライズFMより面白いポッドキャストできるやつ絶対いるだろうって思うし、やってよって思うんだけど、しょうがないから自分でやるんですけど。
なんか悲しいなーって思うのが、僕すごい学生の頃とかやっぱりさっき話したようなネットワート、ポストネットワートとかメディアみたいなものを情報収集にかかってたメディアの一つがCBCNETっていうウェブサイトだったんです。
僕その運営されてるどちらの栗田さんも張り終わらさん、張り終わら隼也さんは先ほどちょっと好きだって話したウェブデザインの方なんですけども、どちらもすごい大好きで。
彼らがポッドキャストとかもやってたんですよ。君と僕とインターネットっていう。
何て言えばいいんだろうな。業界の話でもあるし、コミュニティの話でもあるし、カルチャーの話でもあるし、仕事の話でもあるっていう。
なんかそのぐちゃぐちゃに混ざって、やっぱお仕事はお仕事ですみたいな、業界は業界ですみたいな、じゃなくてそこには少なからず自分自身の個人的興味とか自己実現とか、あと作品としての興味っていうのもあるわけじゃないですか。
そういうのを全部一塊で語ってくれるようなメディアって、増えたり減ったりしてるし、その中でやっぱ独卒さんっていうのはそれを増やしてくださった方だなと。
その一方ではウェブデザイニング誌、雑誌のウェブデザイニングがフロントエンド的な表現の話から正門なマーケティング雑誌に変わったりみたいなスポイルも起きてるんですけども。
あるいは、ただの技法書だったらMDNがもう少し表現と技法書をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせた文化、カルチャーシーみたいなものになって、だけどもそれは平成の終わりとともに雑誌としての発刊っていうのは終わりになったりとか。
だから結構そういう編集っていう仕事の存在を全ての僕は作ってるもので語るんでみたいな、寡黙さこそ志向みたいな方々に訴えていきたいみたいな。
まあでもどうなんかな。俺から見たらそっちの方がすごいって思っちゃう気もしますけどね。自分は所詮他人のふんどしで相撲をとっているだけだって思っちゃうっていうか。
そうすかね。
なんかやっぱ一次創作者みたいな人が言ってくれないとそれを編集することもできないからって思っちゃいますけどね。
けどその一次創作者が学ぶサイトを運営されてるわけじゃないですか。
そうですけどね。
それはもうゼロ次創作と言って差し支えないのでは。
これ卵と鶏みたいな感じでどっちが先なんだっていう話かもしれないけど。
まあどうなんだろうな。
でも総本山とかは正直どんだけ社会の役に立ってんだかマジでわかんないですけどね。
いや僕のためには役に立ってます。
立ってますよね。
すっごい役に立ってますね。
素人が適当なこと言ってるだけっていう感じにどうしても自分では思ってしまうんですけどね。
いやけどある意味その役に立つようなものはどうせ自分じゃなくても誰かやってくれるじゃないですか。
だから多分個人の手でできるのって役に立たないものを作ることしかなくないですか。
そうですね。いやわかる。すごいわかります。
その上で総本山すっごい役に立ってると思うし。
いやけど役に立つことがウェブ総本山を価値たらしめてるわけではもちろんなくて。
なんかもうその編集その業界っていうものをシーンみたいなものにしていくために編集っていう側面からやっぱ関われてる方全員が僕の中で尊いみたいな。
別にその独卒さに借りらず、例えば映像作家っていう分野でいう林永子さんとか山本かなさんっていう方がいらっしゃったりとか、
あとNFTアートっていう分野だったら松野雄介さんとかすごく最近本とか出されてたりとかして、
そういう編集所みたいなのをもっと業界の方々ってもう足を向けて狙えないぐらいの感じにしてほしいなって思うし、
けど多分僕もそんな、じゃあその感謝の形をすごく体で表されてるかっていうとそうじゃなくて、
やっぱポッドキャストの感想をツイートするっていうのもすごく励みになるじゃないですか。
けどそれもなんかできてないとか。
なんか多分さっき言った話って、何かについての感想を言うときって一番簡単なのは絵に対していうことじゃないですか。
一緒に添付して投稿すれば何の感想について言っているのかわかるし、
それが文章だとしてもリンクとかクオーティットツイートって形で想像を示しながらいけるじゃないですか。
けどポッドキャストってその元になっている言及元を主張するためには時間分聞かなくちゃいけないっていうので、
なんか結構ハイコンテクストな感想になりがちじゃないですか。
そうですね。
だから結構自分が3時間とか1時間とかかけて聞いた音声メディアの感想をそこにキャッチアップするのに同じぐらいの時間を強いるような関係ない人に目につくところに果たしていいものなのかっていう抑制が多分効いて、
ポッドキャストってなかなかそういうテキスト中心のSNSで感想シェアしづらい路上になっているのかなってなんか。
確かに。
だからその意味でディスコードだとある程度その文脈を理解している人たち同士のさらどいができる世界じゃないですか。
そうですね。
いや、だから、いや、テキトーのこと言ってます。もうダメでした。ダメだ。
いやでもそうだと思いますよ。その言わんとしていることはわかるし、たぶんなんですけど、これは希望的観測も含むんですけど、たぶんノーマライズFMのファンがいるはずなんですよ。
いや、僕もファンです。
そういう人たちを集めてみんなで感想を言ったりする方がたぶんいいんだろうなぁとは思いますね。
あとは嫌かもしれないですけど、スペーシーズとかやられたらすごい楽しそうですよね。
そうですね。なんかそれも考えたことはあるんですよね。考えたことはあるんですけど、結構最近私ここ1年ぐらいずっと朝早く起きて夜すぐ寝ちゃうっていう生活をしてて、
みんながそういうことに耳を傾けられる時間にはもう私は寝ているみたいな感じのちょっと運営的なところの難しさがありますね。
スペーシーズのゴールデンタイムは23時からですもんね。
そうですね。だからその時間、昔だったら完全夜型っていうか絵に描いたようなプログラマーとかオタクの夜型生活みたいな感じだったんで、
それこそ2時、3時とかまでコードを書いてますみたいな感じだったんですけど、最近は21時になったらもう眠くなってくるし、寝ちゃいますからね。
いや、なんかいいな。なんか田中克司さんとかも、サドウとかサウナの漫画とかを描かれたすごい有名な漫画家さんがいらっしゃるんですけども、オストン子ちゃんとか、
なんかその方も本当にサウナブームの仕掛け人に近いところにいる方なんですけども、もうすでに彼の興味って早起きに移ってるらしいんですよね。
だからその人為的な外的な温度変化って刺激を体に与えることで、なんかこう体を肺にしていくみたいな感じすらも飛び越えて、何だろう、境地としてはもうドライオーガズムの世界みたいな、なんか言葉ですごい不適切さ。だからその境地ってことですよね。
いいですよ、早起きは結構。
早起きいいって言われる方からのこの微妙な、みんなこううまくプレゼンテーションできれないんですよ、早起きの良さを。多分それが本質なんだろうなと思って。したものにしかわからない何かがあんだろうなと。
なんかね、俺も自分は完全な夜型だと思ってたし、よくテレビで、テレビなんて滅多に見ないんですけど、ただ嫁とかが見てるやつを目の端っことかで音声が聞こえてきてしまうみたいな状況で見ることがあったりして。
まずよく言うのが、朝をちゃんと起きろ。3食食べろ。栄養バランスに気をつけて運動して早く寝ろ。そんなことはわかってんだよって話でさ。自分が夜型人間だと思ってた時に、それは生理学的にはそうなのかもしれんけど、俺は違うって思ってたし、俺は夜の方が冴えるんだって思ってたし。
ちょっとひねくれてるっていうか、朝起きて健康みたいなのは、そういうふうにせざるを得ないとか、そういうことをやっててかっこいいとかっていうやつがやってるやつだろって思ってたんですよね。
でも自分で実際に早く起きするようになってみると、なんていうかね、ちゃんと眠くなる。まず。それがすげえと思って。自分は夜型の完全な不眠症人間だと思ってたんですよ。
布団に入ってもずっとプログラムのことばっかり考えちゃって、1時間ぐらい下手したら寝れなかったりとかして、朝10時、11時ぐらいになんかめいこすりながら起きてきて、午前中は使い物にならないみたいなのが俺だと思ってたんですけど、ちゃんと眠いんですよね、夜。
ってことは正午が正午に感じるってことですか?
正午が正午に感じる。
だから1日のてっぺんって感じするじゃないですか。
そうですね。
僕、むしろ正午って1日の始まりみたいな。それがちゃんとてっぺんになってくれるってことですか。
そうなんですよ。だから俺、ちゃんと早起きするようになってから1ヶ月ぐらいして、なんかそれがもうだんだん板についてきたなっていうときに冷静になって思ったんですけど。
夜更かし、夜方だったときって、それこそ昼近くに起きてきて、夕方ぐらいになんとなくやる気出てきて、6時、7時、8時ぐらいからちゃんとやり始めるみたいな感じなんですけど。
起床してから何時間経ってるかで考えると、大体起きてから3、4時間経ってちょっとやる気出てきて、6、7時間ぐらい経つとちゃんとしたやる気がくるみたいな感じなんですけど。
今のサイクルに当てはめて考えると、5時台とかに起きてるんで、ちょうど10時ぐらいにやる気が出てくるんですね。
10時ぐらいになると、ちょっとそろそろいい加減やるかっていう気持ちになってくるんですよ。
それで、昼飯を食った後に一番やるべき、一番やる気を出すべき時間帯が2時から3時ぐらいにくるんですよね。
で、もう5時、6時になると、いやもう今日は終わったっていう気持ちになっていて、飯食って風呂入ったらもう9時なんですよね。
だから、絵に描いたような規則正しい生活になってるんですよ。
これ、すごく申し訳ないんですけども、全く早起きの良さっていうのが伝わってこないんですよ。
伝わんないんですよね。
だから多分、今の僕のこの立場に独卒さんもいらっしゃって、老婆心で早起きはいいぞっていう方々に対してケッって思ったわけじゃないですか。
その歴史を全く一言一句違わずトレースしてるのが、多分早起きのヤバさなんだろうな。
そういう進め方になっちゃうもん。なぜなら早起きは素晴らしいからね、みたいな。
そうですね。
これは楽しみです。
本当にね。本当にそうなんですよ。
するだけ不節制した方が、むしろ早起き時の整い方に対する感動も段違いになるっていう意味では、
そうですね。
もう少し不節制させてもらおうかなって。
そうです。不節制できなくなるんで、自然と。いつかは。
そうですね。
だから今のうちにしといたほうが。私は体調とか体がどうとかで早起きしなきゃってなったわけではなくて、他の事情で早起きしなきゃいけなくなり、結果的にそうなっただけなんですけど。
ちゃんと眠くなるかな、一言で言うなら。ちゃんと眠くなる以外は特にないかもしれないな、言えることは。
だんだん早起きが板についちゃうと、その感動がホーバーしちゃうことってないですか?
今んとこはないですけど、なんか諦めますね。
なんていうか、夜型だった時は、今乗ってるなと思ったら寝ないんですよ。
乗ってる状態のままやりきりたいし、なるべく自分のハイな状態でやりたいじゃないですか。
今まさにそうですね。
でも今は俺はもう時間に縛られてますね。夜になったら眠くなっちゃうから、寝る。自分のテンションとか関係ないです。
っていうか自分のテンションが時間によってちゃんと人生化されるようになってしまったかもしれないですね。
今は朝起きて散歩して写真撮るっていうのが自分の中で一番でかい出来事なんですよ。
今の生活のライフサイクルの中で一番何に重点を置いてるかで言うと、
朝起きて散歩しながら写真を撮り、それをセレクトして、いらないもの消して、残ったやつを眺めて、
今日も撮ったなっていうところまでが俺の中で今一番重要な時間なんですよ、一日中。
それが朝6時から10時ぐらいの間に起こってるんですね。
そっからあとはもう何ていうか惰性で生きてるっていうか、
あとは自分の最重要なことは朝のうちに全部終わるんで、あとは気持ちが乗った時にやるだけっていう感じなんですよね。
そこはちょっと特殊かもしれないですね。
早起きとは無関係に自分の興味のベクトルがたまたま今そこにハマってるっていうのはあるかもしれないです。
そっか、なんか逆に音霊交代浴と一緒で不節制っていう負荷を間に挟むからこそ、
より早起きっていう体験が水風呂的に素晴らしいものになるみたいなこと、欲求って起きないんですか?
いや、起きないな。
水で脳が覚醒してる状態じゃないですか。
あんまり長い時間水風呂にいると、そこで感覚が飽和しちゃって脳みその血管を収縮していくわけじゃないですか。
また開くために下手打ち打つと虚脱時間のあの不規則な生活に戻ることで、また早起きになった時の感動を再び味わいたいなみたいな風になったりはしないですか?
想像でそういう風になっちゃう人はいると思うんですよ。
でも今自分がそうなってるかっていうとなってないですね。
むしろなんかもう、眠れない可能性があるイベントをすごい過度に怖がるようになりますね。
ちょっと飲み会しましょうよ。開始7時ですって言われたら、その時点でどうやって断ろうかなって考えちゃう。
ほんと5時から飲みたいですよね。
5時からだったら、まあ伸びても9時ぐらいまでじゃないかなと思うし、9時に終わってくれれば、まあ頑張れば10時台とかに寝れるかもなって思うんですけど、
7時開始って言われたら、いやもうそれ23時コースじゃん。
もう俺の寝なきゃいけない21時をその時点で2時間オーバーしてるじゃんって思ったら、どうやって断ろうかなって考えちゃうし。
そこでたまに外した方がいいなっていう風になる人もいると思うんですけど、
俺はなんかもう自分のルーティーンから外れるなと思ったら、どうやって断ろうかなって考えちゃうかもしれない。
いや、もちろん相手とか状況によりますけどね。
なんか8時からとかって嫌じゃないですか。
いや、ほんとにそうですよね。
ちょっと時間を遅らせた飲み会の方がイケてるみたいな、なんかふんわりないですか。
そうですね。みんな忙しいから遅めに始めようみたいな感じのやつですよね。
むしろ遅めに始めたら忙しい感かもしれるみたいな。
僕、やっぱ時間に関してはやっぱり暇なので、基本的に。
だから、ほんとはやっぱ5時からドクサスさんとご飯とか行きたいなとか。
いいですよ。5時だったら俺ほんといつでも行ってくれれば。いつでも行きますよ。
5時ですらなく昼散歩しません?ってすごい。
いや、ほんとそういうの全然ウェルカムですね。全然いいと思います。
あんまり何やってるかわからないフランスからやってきた同い年のお友達的な方がいらっしゃって。
で、久々に来日したんで、何年か前に安藤忠夫ってのを新美術館に見に行って、何も話さずに各々見て。
で、終わったらその足で青山墓地を通って表参道から渋谷駅まで歩いて、その過程で話すだけ話して解散したことだったんですけど。
僕あれの方がすごく、ご飯っていうものをハブにしないと進まないっていうのが僕あんまりよくわかんなくて。
あるいはアルコールとか、アルコールあんま飲めないんですけど。だから散歩って結構考えごとに良いってあるじゃないですか。
それを対話の舞台にしたらもっと最高じゃない?ってなんか思うんですけど。散歩しながら散歩飲みみたいな。
飲まなくていいんですけど。
飲まなくていいけどね。飲まなくていいけど。本当そうですよね。本当そう思う。
なんか飲みの席、まずアルコールが前提になっていることが俺としては不服だし。
いやー、そうですね。
なんかこう、なんて言うんだろう。わざわざ行かなきゃいけない、みんなで集まらなきゃいけないっていうコストもやっぱりあるじゃないですか。
だからなんかもっと雑っていうとおかしいんですけど、もうちょっとラフな感じの関係性でも全然いいのになっていうのは思うことあるし。
そうですね。なんかお互いがお互いに遠慮し合っちゃって、やっぱ日帳、お仕事忙しいだろうから呼んだほうがいいかなーとか。
なんかいいお店にしたほうがカッコつくかなーとか言って。
それってなんかある意味、忙しい感を演じるための文学競争じゃないですか。
僕たぶん平日の昼間に人と会えるなら最高なんで。
いや、そうですね。
だからこのポッドキャスト聞いてらっしゃる方がいたら、今から散歩しませんかってDMくれたらすごいいくと思います。
そうですね。本当にそうだと思います。
たぶんバックスさんもそうだと思うんですけど、やっぱりなんかすごい雲の上の人感感じちゃう人が多くて。
もっと雑に扱ってもらってもいいなーって思ってるんですけど。
独雑さんは雑に扱ってもらえないですか。
雑に扱ってもらえないですね。
雑に扱ってもらえる人はあんまりいないと思うんですけど。
ゲストとして呼ぶってなったらなんか手品扱いになってるっていうか、なんかそのうぞうむぞうの一人でいいのになって思っちゃいますけどね。
いや、そうですよね。この前も独雑さんって、そもそもお仕事をするとかじゃなくて、お仕事をする人たちのためのメンターみたいな人だから、
その方に普通のお仕事を発注していいのかみたいな話をたぶん中野みさきさんのゲスト会のときに出してらっしゃいましたよね。
僕もそのイメージあります、すごく。
普通に扱ってくれればいいんですけどね。
だからなんか別に俺が作ったりするものがなんか思ったほど良くねえなと思うんだったらそういうふうに言ってほしいし。
まあ役に立たねえなって思ったらそういうふうに言ってほしいし。
役に立たないは褒め言葉じゃなくていいんじゃないですか。
そうですね。そうなんかだから、難しいんですよ。なんかそのやっぱ自分の中でチヤホヤされたい欲がゼロかって言われたらそんなことないし、
みんなから感謝されたいとか、そういうなんかこう族っぽい感情だってちゃんとあるし、
みんなが優しくしたりチヤホヤしたりしてくれるの気持ちよくないかって言ったらまあ気持ちよくないわけじゃないし、
でもとはいえそんな特別扱いしてくれなくてもなって思うことの方が多いような気はしていて、
それは自分がそういうふうに思っちゃってるだけなのかもしれないけど、
なんかでもちょっとなんかちょっと私が神的な存在として扱われていることが多すぎる気がするんで。
そうですね。なんかウェブ業界のプレイヤーっていうよりはそのプレイヤーを神の視点で見守るデウス・デ・マキナみたいな。
そうなんだよな。だから多分みんな本当にそうなんですよ。自分がそういう仕事を別にやるよっていうふうに思ってないっていうか、
ドクサスさんはそんなこと言ってもやってくれないかもって思ってしまうような感じがあるんでしょうね。
全然言ってくれればやるのになって思うんですけど。
いやーけど僕はなんかその一プレイヤーとしていろんなNDAとかにがんじがらめの、
あんまりその自分の実績として言いづらいような資金用のための仕事をするよりも、
ある意味こういうORGドメインで情報合信をされるってこれってもう社会貢献じゃないですか。
そのドクサスさんができるであろう社会貢献の時間を奪ってまで、
そんな資源なんぞのクライアントワークにこの人の貴重なクリエイティブ資源を使っていいものかみたいな意識になる人も結構いるのかな。
いやーどうかな。まあでも言わんとしている方はわかる。
言わんとしていることはわかります。だからなんかこれはちょっとズズしいことなのかもしれないんだけども、
もっと楽に食わせてほしい。そうすればもっとこういうことたくさんできるから。
例えばなんかスクールとかも自分で思ってたよりすごいたくさんの受講者さんが来てくれて、
自分はとても恵まれてるなって思ってるんですね。
いろんな人がたくさん来てくれて。でも一方でそれだけじゃ食っていけないんですよ。
スクールだけやってれば自分の思う生活水準で生活できるかって言われるとそうではない。
だから結局住宅だったり、何かしらこう金を稼ぐことをしなきゃいけないから、
もっと楽に食わせてくれればもっといろいろできるのになって思うことはありますね。
そうですね。なんか僕多分今年の見込み年収が650万ぐらいなんですけども、
なんか楽したいですね。楽したいそう。楽したいんですよ。
なんかみんなすごく、いやこれは別にみんなに対して金をよこせって言うわけではないんですけど、
例えば何かどこそこの老舗のお店が閉店です。
いや残念、あんなすごい行ってたのにみたいな後から騒ぐ人たちがすごい俺はあんま好きじゃなくて。
例えば俺がウェブジェルソー本座の講師を辞めました。
多分みんなすごい残念がってくれるんですけど。
でも俺が辞めざるを得ない状況ができてしまったんですよねっていうふうに言っちゃうと思うんですよ、その時は。
それはもっとみんながなんか、いやみんなに責任をなすりつける気持ちは全然ないし、
そういうことは絶対言わないと思うんですけど、
でも多分みんながもっと何かしらの形で貢献してくれたら多分俺は辞めないかったろうなとは思うし。
多分ノーマライズFMとかも1円の売り上げも経ってないですけど、
こんなんもね、別になんか支援してくれる人がいたらもっと俺は楽ができるけど、
別にそこを求めてないからね、みんながしてくれてないことを責めるつもりも全然ないんですけど、
ただもっと楽して生きていけたらな、もっと想像的なことをたくさんできるのになとはやっぱり思うし。
そうですよね。
別にクライアントワークとかお仕事みたいなものがダメって言ってるわけじゃなくて、
あまりにもそういうお金にはならないけども意義深い活動が世の中に多すぎて困っちゃう。
そうですね。
こんな意義を見出してしまうようなイシューなんか世の中になければよかったのにってすごい思うんですよね。
それこそデザインツールの話とか、Gリスプっていうデザインツールみたいなもの、
リスプベースのデザインツールを開発してるんですけども、
多分あの子人欠を普通にすべてお仕事に注ぎ込んで顧客価値を高めていたら、
何千万もらえたんだろうなーとかやっぱすごい思うんですよ。
多分それはドクサスさんも一緒じゃないですか。
そうですね。
多分ドクサスさんぐらいすごいスキルの方が普通のお仕事とかされていたとしたらみたいな。
だけどその時間とかその機械費用みたいなものを投げ打ってでも、やっぱそういう公共の福祉に準じてそういうものをやりたいって気持ちってあるじゃないですか。
しかも僕なんかドクサスさんのそのWebGLの教本とかって、
結果的にいろんな日本のウェブ制作会社の新人研修とか教育コストを下げてるっていう意味ではすごい経済的だと思ってるんですよ。
だからもうみんなそのスポンサーシップとして月額で出せばいいのにって思うと思います。
そうですね。
それこそわかんないですけど、このノーマライズFMに過去出演されたような制作会社の方々とかも多分もっとこう、
僕もすごい感謝の気持ちがあるんですけども、いかんせんちょっと僕まだお金がないので。
お金がないそうですね。
だからもうノブレス・オブ・リージュとして、もうそのWGLD.orgってあってますか。
あってます。特に読み方はないんで、そのまま読むだけで大丈夫です。
とかをちゃんと下支えするための、ちゃんと継続的な、ある意味それで新人研修とか業界に新しくやってくる方々のレベルが上がるって形で、
もう余り余るほどに対価は得られてるんで、と思うんで、出したらいいのになってすごく思います。
これは本人は思ってても絶対に言わないっていうか、もっと金をよこすよって話になっちゃうんで、どんなに言葉を取り繕ったところで本人が言ってしまうと。
だからあんまりこういうことは普段は言わないんですけど、
でもやっぱりなんか、私に限らずどんな業界にもそういう人って多分いて、
いらっしゃいますよね。
そういう人たちはやっぱり大事にできないとしたら、長い目で見たときに損失はもっとひどいことになるなとも思うし、
だから結構私も寄付っていうか、スポンサーできるものとかはなるべくスポンサーするようにはしていて、
と言いつつ、バクさんもスポンサーになってないかもしれないな、もしかしたら。
僕は大丈夫です。
なってないかもしれないんですけど、自分が気になった意義深い活動とか、そういうのはやっぱり支援したいな。
あと人間で選ぶこともありますね。
この人が自分に対して何かしてくれたとかではなくても、自分にとって大事だなと思ったら支援するとか、そういうのはやってますね。
結構毎月GitHubから大量の請求が来るんですけど、こんなに払ってんだと思って。
だから自分にはGitHubスポンサーズから入ってくる分はもうほとんどないんですけど、出ていくやつは結構ありますね。
それで言うと僕はまだまだですね。
いやいや別に、でもバクさんのスポンサーになってない気がするから。
いや全然大丈夫です。
よしなに頑張っておきます。
あれ結構辛いのが、スポンサーを辞めた時の通知が相手に来ることを考えると、なかなか解約できないことを考えると、そもそもスポンサーになるのも辛いっていう。
なるほどね。
あれなんかもう少しフェードアウトできるUXがあればいいのになって思います。
そうですね。
辞め時が適当にできるみたいな、数値がいかないみたいな。
そうですね。その方が絶対いいですね。
だから誰からどの額っていうのは毎月分かんなくても個人的にはいいっていうか、最初にどのタイヤでこの人が契約してくれたかっていうのだけ分かって、
それだと人数が減った時にそれ誰が抜けたかっていうのは逆算できちゃうな。
まあ頑張れば、調べようと思えば調べられちゃうかもしれないですよね。
そこが混ざればいいのになって思いますね。
本当すごい。
なんか私がよく普段感じてる、てか昔からよく思っていることとして、どんどん少子化が進んでるじゃないですか。
で、本来だったら子供に対してかけるはずだったお金を、
親なり自分なり、少なくとも自分より上の世代のために使わなきゃいけなくなってると思うんですね。ちょっと前と比較すると。
そうですね。それは年金っていう形でとか、あるいは。
まあ年金だったり税金だったり。
はい。若年者の方の低賃金っていうのはある意味。
そうですね。そういう日本の社会情勢の中で、今まで子供に流れていた金が別のところに流れていて、
せめてそれがもうちょっと自分にとって有意義なところに流れてほしいなっていう感覚があるんですよ、なんとなく。
なんか急にちょっとポッドキャストっぽいことをいきなり聞いちゃうんですけど、
なんか、ワックスさんの中ではこうなっていきたいとか、こういう自分でありたいみたいなのってなんか常にあるものなんですか?
それとも結構やっぱり日々それって移り変わっていくというか、
その時々によって違ったりしますか?
いやけど割ともう本当に一貫して普通にいい、
いやいいかどうかわかんないけども、
なんか残りのような映像作品を作りたいなみたいな、
すっごい素朴な感情は常にあります。
やっぱすごいやっぱ自分の原体験にあるのが、
なんていうんですかね、90年代とか0年代のMTV文化とか、
あとはさっきほど言ったその映像作家っていう言葉が日本に出てきてからの、
そのアフターエフェクスでみんな何でも作れるようになっちまったぜって、
みんなわちゃわちゃしていた頃の映像作家文化みたいなのがやっぱりすごい好きなんで、
それもしかしたらそのワイブスのインディアニメとかにも通廷してるかもしれないんですけども、
だからなんかもうそのあんまりこうよくわかんないですけども、
いかになんだろうな、もう具体的な話で言うと、
そのコーネリアスのフィットソングみたいなミュージックビデオとか、
そのクリス・カニンガムのエフェクツインのラバージョニーとか、
あとなんだろう、ケミカルブラザーズのスターリーダーとかみたいな、
すっごいわかりやすいめっためたの1点ですけど、
なんかああいうものを1個でもたくさん作れたらいいなとしか多分、たくさんじゃないですね、
走り高跳びの世界なんで、1回でもなんかその高得点を叩き出せたらいいかなっていう感じです。
だからその点で僕は結局7年前に作ったもの、
そのお持ちのグループ移納の今井さんって方と中村加穂とナックさんって方のミュージックビデオっていうのが、
一応今までのところで2番目か1番目かに最高得点で、
それ以降やっぱ作ってるものっていうのはウェルメイドではあるけども、
いろんな撮影監督さんとかにお願いできたりとかして、
けどウェルメイドなだけでだからっていうものしかやっぱできてないんで、
だからそこをなんか超えたいっていうか、クソどうでもよくないものを作りたいみたいな、
そういうのってなんかないですか?
いや、ありますよ。なんか私、ありますよっていうのはちょっと語弊があるな。
私はやっぱり自分が何か表現する人間ではないって言い聞かせてきてしまったというか、
これもノーマライズFMでも何回も言ってることなんですけど、
自分は何かを表現したり、あるいは創作したりみたいなことってできないなって思っているので、
そういう意味では今バクさんがおっしゃったような、
何かを自分が納得できる何かをぶち上げてそれを体験したいみたいなところはあんまりずっとなかったというか、
考えないようにしていたというかっていうのがずっとあったんですけど、
でも最近やっぱ写真が本当に自分の価値観をすごい変えてしまっていて、
なんか写真は何か出したいっていう欲求がすごい働きますね。
それが何なのかはわかんないですけどね。自分の中でも何かを出したいっていう。
ただこう自分で撮って満足してアーカイブしておいて大事に墓の中に持っていきたいっていうわけではなく、
何かを成したいっていう感覚だけが強く働いているっていうところはありますね、その写真に対してだけは。
なんか何だろうな、別にそんな表現をやってるつもりはないっていうか、
ヘボいエンジニアリングとして映像を作ってるんで。
ヘボいと思うけどな。
ヘボいです。
ヘボいことはそんなに悪いことだと思ってないんで言うんですけど、
なんかこう自分の中にあるもんもんとした何かをキャンバスの上に思いの丈ぶちまけてあるぜ的なこってこての表現者って意外とそんなにいないんじゃないかなって。
結構そこにはかなりエンジニアさんがやってらっしゃるようなモチベーションと近いものもあったりするし、
あるいはもっと表現っていうよりはもっと戦略的にマーケティング的に自分の作品っていうのを組み上げてくれるような人もいるわけだし、
だからなんか結構僕もこういう業界とかで、作家ですもんねみたいなふうに距離を置かれちゃうこと多いんですけども、
根にあるのは同じっていうか、むしろあなたの介護官ですぐらいの、エンジニアとしてのあなたの仕事の介護官のようなものを映像なんていうチャラいメディアでやってます。
揺らせてあげてますみたいな。だから多分今もうちょうどSigma FPのSDKとジンバルを使ったりとかした新しいコマ取りのシステムっていうのを開発してたんですけども。
リツイートまでしていただいたな、リポストしていただいたなと思ったんですけど、
これって多分ちゃんとしたエンジニアの方とか入られてるようなものに比べたらもうままごとみたいなもんで、本当にそうなんですけど。
だから逆に表現じゃなかったら何をやってらっしゃるんですかみたいなふうなさがどいを仕返したくなっちゃうのを抑えて、すいません、作家なんですっていうふうに言っちゃうんですけど。
なるほど。いやなんかどうなんだ、その感覚はちょっと俺にはまだわかんないな。自分を作家として扱われたことがないから。
アーティストみたいな。いやアーティストって別に見た目ナードだしなとか。
いやなんかそこら辺ってすごく難しいっていうか、アーティストと呼ばれたいような人も中にはいるんですよね。なんか俺には観測したことはないけども。
中にはいるじゃないですか、自分はアーティストですっていう。そこにアイデンティティがある人っていうか。
でもやっぱり私はそういうふうにはなれないですよね。そういう意味でさっきの自分はアーティストではないっていうことを思っちゃうんですけど。
でもなんか写真だけはアーティストって呼ばれても別に嫌な気はしない。
どこかの執着点があったとして、その時点でそう呼ばれたとしても多分嫌とは思わないだろうなって思いますね、写真に関してだけは。
写真も結構難しくないですか?
いや難しいですね。だからなんか終わりが全然見えなくて、今の時点で。
だからたぶんこれを聞いてくださるような方にはなかなか近しい方いらっしゃらないと思うんで言うんですけども。
いわゆる上手く写真を撮れるって言っても行き着く先ってブライダルとかの写真とかになってくるじゃないですか。
もちろん普通にちゃんとしたアーティストの写真とかアートディレクションも込みでのいろんなものを作れる方もいらっしゃるんですけども。
なんか僕の中でアーティストとして写真をやるってもっとハイブローな方向に行っちゃうっていうか、
そのエビスの写真美術館とかでやってるような。
はい、そうですね。
撮るとは、見るとは、みたいな。
なんか、けど逆に言えばドクサスさんってそういうコンセプチュアリズムにスーッと入っていけそうな感じもしますよね。
なんか僕と違ってそういう技芸っていうか、技芸の世界で乳首回すっていうのに多分、
もっとこうでかい枠組みの話とかローレイヤーの話がすごい好きな方だと思ってるんで。
まあどうだろうな。だから今は別になんかこう自分の中でこれだっていうものは全く見えないし、見える兆しもないし、
どっちの方角に歩いていけばいいかも正直全然わからないですよ。
ただなんかこう、いろいろ試してやってみて、それ自体を楽しんでいるっていう段階だと思ってるんですけど。
でもなんか、長くなくてもいいんだけどとにかくこう人生生きてきて、
いろんなこと日々感じてるけどわざわざ言葉にしない、
なんかこう感じていることとか、自分のすげー深いところにいつもなんかいるみたいなものとか感情に対して、
写真が何か答えを出してくれそうな予感だけがあるんですよね。
例えばなんか最近だと撮ってきた写真をわざと横に引き伸ばしてみたいとかして。
ギヒターのストリップみたいな。
そうそうです。なんかこうギュってピクセルを引き伸ばして、
引き伸ばしてるだけなんですよね、あれ単純に。
どちらかというとGLエッジクランプって言った方がいい。
それそれそれ。
ハントリーヒターっていうよりも。
同じUVをただ引き伸ばしてるだけなんですけど、
あれ自分でなんか思いついた時に、
ちょっと入り口のドアに爪の先が引っかかった感じがあったんですよね。
ピクセルとピクセルの間にあるものを、
これってもしかしたら匂わせられるかもなって思ったんですよね、思いついた時に。
ピクセルとピクセルの間に何があるかなんていうのはどうでもいいんですよ。
ただ何かそういうことができるかもしれないなっていう匂いだけがしたんですよね、あれを思いついた時に。
それを思いついたのは道路標識見てて、
その道路標識って標識に込められてるいろんなコンテキストがあるよなと思って、
その標識をびょーんって伸ばしてみたら、
その標識の間にあるコンテキストをかき分けて潜っていった先に何かがある的な匂わせができるんじゃねえかなっていうアイデアを思いついたんですよ。
なんか唐突に散歩してて。
で、それみたいな感じで、
自分の中にある何かが写真とか写真を発展させた何かによって顕在化させられる可能性があるのかもな。
自分で言語化すらできないものが形にできる可能性があるんじゃねえかなっていう気がしちゃったんですよね。
それがすごいなんか、
バクさんがさっきからおっしゃってる構図とか絞りとか露出とかっていうのは、
教科書的なことはそれはいくらでも極めようがあるっていうか、
どこまで行っても、
それが写真としての表現にはあまり結びつかないっていうのは俺も思うし、
そういうことを勉強するのも結構半年ぐらい勉強してやめちゃったっていうか、
体が勝手にできるようになるまではそれをやったんですよね。
水平を撮るとか、露出をちゃんと考えて撮るとか、構図を考えて撮ってみるとかっていうのはやってたんですけど、
最近はもうそういう感じで写真撮ってないんですよね。
結構無意識に水平は撮れちゃうんですけど、
でもそれは別に悪いことじゃないと思うからその通りに撮るし、
でも傾けちゃいけないとも思わないですよね。
やり始めた当初は絶対傾けちゃいけないと思って水準機がんみしながら撮ってたんですけど、
最近水準機がんみしながら撮ったりとか全然しないし。
傾きなんて後で固形補正すればいいですね。
そうなんですよね。
だからなんか写真に対する捉え方がやっぱり窮屈になったら負けだなっていう感覚が最近強くて、
だから後処理で引き伸ばしてみたりとか色相変えてみたりとか、
もう全然そういうことをやってるうちに、
こねくり回してるうちになんか自分でも想像してなかった何かが現れるかもしれないっていう期待だけがすごく今は強くあって、
何年もやってったら結局わからないままでしたっていう感じで終わっちゃう可能性もあるんですけど、
でも今はその期待がすごい強く働いてるっていうのはあるかもしれないですね。
なんかいいですね。めっちゃ豊かっすね。
そこが今までの自分の人生の何とも違うんですよね。その感じが。
結構絵とか描くのは好きだったんですけど、
それはやっぱり子供が純粋に何かこう自分の得意なことを見つけてそればっかりやってるみたいな感覚だったし、
今のこの写真に感じている何かもっと複雑で、
なんかぐちゃぐちゃしたものではなかった、もっとなんか純粋な夢っていうか楽しいからやってるっていう感じだったんですけど、
なんか写真は本当に自分という人間性が全てそこに凝縮する可能性があるっていうか、それを感じる。
そう、だから写真ってもうこすり倒されたメディアだわけじゃないですか。
多分同じ話になっちゃうんですけど、だからこそ何て言えばいいんだろうな。
あとは後ろめたさもあるんですよね。
自分は結局この機材ってものにエンパワーされてるだけなんじゃないかみたいな。
いいレンズを使ったからとか、いいボディを使ったからとか。
だからある意味なんかすごいグロテスクだけども、ある程度経済的ゆとりがある人たちのためのクリエイティブなゴルフになっちゃってるみたいなところもすごいやっぱあって、
その後ろめたさと戦いながら、じゃあ自分には何ができるんだみたいな。
僕も結構写真を撮ったりとかして、その写真をあんまり表だった人に発表できなさっていうのはそこが絡んでるんですけども、
やっぱすごいいい単焦点とか使うときのボケ足のヌメヌメ感、めっちゃ気持ちいいなみたいな。
けど結局それって、自分が何かを成したっていうよりは工学系を考えてくれた方々の肩の上に乗ってやってるみたいな後ろめたさも一歩であるじゃないですか。
そこに対するちねくり回しからがむしろ写真の本当の面白さのスタートみたいな感じしますよね。
最初は本当に散歩のついでで撮り始めたし、何かを成してやるみたいな感覚は本当につい最近から急激にできるのかもしれないって思い始めてしまったっていうのが最近すごくあって。
本当に世界の広さもわかりましたよ。こんなこと考えるやつがいるんだっていう。
自分には想像もしないような角度から写真っていうものを考えてる人間がこんな風にいるんだなとか思ったり。
だから本当に最近は1日の半分を冗談抜きで時間的にも感覚的にも1日の半分ぐらいを写真にすぎ込んでいて。
なんか楽しいですけどね。
じゃあもうそれはシェーダーと混ざり合う運命になるんじゃないですか。
そうですね。なんか自分らしさっていうのを考えるとやっぱりフラグメントシェーダーだなって思ったり。
写真ってピクセルの集合だなって思ってるから。
昔のフィルム写真は別ですけど、少なくとも今のデジタルの写真っていうのはピクセルの集合であってセンサーが1ピクセルごとシェーダーを走らせたようなものじゃないですか、要するに。
だから自分はそういう視点で写真を捉えることができるだなっていうふうに思ってるから。
だからなんか引き伸ばしてみるかとか、そういう発想がそこで生まれたんですよね。
これポリゴンの真ん中のUV固定したままぴょっと左右に広げたら伸びないなと思って。
フラグメントシェーダーだなと思ってやってみたりとかして。
確かにな。
知り合いっていうか同世代ですごいリスペクトしている写真家で小林健太って方がいらっしゃるんですけども、
フォトショップの指先ツールとかを使ってスナップ写真とかをぐにゃぐにゃにしてるんですよ。
それが果たして写真家って言われると、逆に引き換えしますけど、どこまでが現像で、どこからがレタッチで、どこからがコラージュなんですか?とも言えるじゃないですか。
だから写真って単純にフラグメントシェーダーとして扱うラスター画像としての写真を考えたときに、
別にISOとシャッタースピードとF値とかその借りられたパラメーターだけをいじるっていう縛り芸をしなくても、
自由に後で色変えてもいいし、コラージュしたっていいわけじゃないですか。
そうなるともはや写真じゃないって言われる始末で、じゃあ写真って何なんだ?みたいな。
ある意味強歩みたいなもんなのかな?みたいな。両足地面から離れちゃダメだけど、なるだけ早く走りましょう、みたいな。
そこをわりかし境界線っていうのを脱構築してくれるようなアティチュードとして、
小林健太とかがやったようなことって、個人的にあんまり知らなかったっていうのもあるんですけど、面白いなって思ったんですよ。
一方で朝日、今はもうなくなっちゃいましたけど、朝日カメラって有名なカメラ雑誌とかの月齢フォトコンテストとかに、
トリーミングまでは、構図何パーセントのトリーミングまではOKですけども、それ以上はレタッチと見ます、みたいな感じで。
写真と見なされるための要件を厳密に定義してたりとかするっていうか。
そうなった時にシェーダー的な発想を持っていらっしゃる独卒さんが、軽やかに真ん中UV引き伸ばしちゃえって言われるなんて、めちゃくちゃかっこいいなって。
すごい自分を持ち上げるつもりはないんですけど、でも本当に最近の写真ってもう捉え方が違うだけで、そういうぐらいの飛躍がないとなんか面白くないっていうか。
昔ながらの写真ってやっぱり今の写真の捉え方ってもっと柔軟でめちゃくちゃでハチャメチャでそれが面白いんじゃないかなって思ってるし。
一方でSNSとか見てて、思いっきり色を変えてグレーディングしたやつを、さも自分いい写真撮れましたみたいに貼ってるのに対する嫌悪感も同時にあったりはするんですよ。
それが自分の中で共存してるのが不思議だなと思うんですけど。
それはいわゆる塗り消し感みたいなもんですかね。
どういう感覚なんですかね。
例えばめっちゃフォロワー数が多い、インスタでもツイッターとかでもいいんですけど、すごい人気のあると思われるような写真系カメラ系のアカウントを見てて、
これ写真っていうかカラーグレーディング芸だよなみたいに思っちゃう人って結構いるっていうか。
写真っていうよりも色遊びしてるだけじゃねっていうふうに思っちゃう人も結構私から見るといるんですよね。
そういうものに対する嫌悪感があるのに、自分がUV美容みたいなのは別に嫌ってなるこの感覚がわかんないんですけど。
すごい僕の身近なところで言うと、フラッパー3のヤコーナオヒロさんって方が浮かんだりとかするんですけども、
彼自身すごいいろんな方から歌舞伎町とかを本当にブレードランナーみたいな、
ブレードランナーって実はそんなに色見ないのにみんなブレードランナーって言ってるんですけども、
いろんな看板の色とかを転がして国際式のファーイーストアジアを作り出すみたいなリタッチをされてる方で、
やっぱその写真をされてる方から言われもない誹謗中傷を受けたりとか、
自分でやってることは現像じゃなくて塗り入れだみたいなふうに批判されたりとか、
それに対して塗り入れで何が悪い?みたいな反応をしてたんですけども、
だからそこはやっぱ不思議ですよね。
ここまで行っちゃうと、何て言えばいいんだろうな、
写真って別に現像ってプロセスが大事ってよりは、
いかに撮ってきたままに手を加えずに、そのものとしていいものに転化していくかみたいなところが結構強度として強いのかなみたいな。
強い気はする。一般的な感覚として。
そうですね。ヤコウさんのこと、めっちゃ昔から彼がやってた音楽レーベルとかも含めてすごい好きだったんですけども、
一方で、もはやどこまで作為が入ってしまったらそれはやりすぎってなって、
どこまでが作為じゃないのかみたいな背道って突き詰めてしまうと、ノーファインダーの世界ってのが多分あると思うんですよ。
そうですね。
ファインダー見ないで撮るとか、あるいは監視カメラに映ってしまったものの写真って言い張るみたいな。
それこそが何の編集もなされていない現実そのものだからみたいな。
だからその中で多分、結局、どっちかの方向にラディカリにいじっちゃうのって楽じゃないですか。
もうノーファインダーですとか、あるいは完全に塗り入れですみたいな。
その重要な部分に魅力を見出しちゃってる人からすると、結構肩身狭いときってありますよね。
私は自己分析すると、バズローとしてそういうカラーグレーディングをしてるなっていうのが嫌いなんだと思うんですよね、多分。
自己分析するとですけどね。
誰の目にも優しくかっこよく見えるものに近づけていく作業をしている人。
そこに全てを注ぎ込んでいる人。
自分が見ているものを写真に残すっていうことよりも、バズるためにいかにカラーグレーディングするかっていうことに前振りしているように見える人が多分好きじゃないんだと思うんですよね。
その人からしたら、本当にカラーグレーディングこそが絵としてエステティックだと思っている可能性もありますよね。
そうですよね。だからそこら辺は結局自分で落とし所を見つけるしかないんだなって思うし。
これ最初の方に話したXの話と同じで、見なきゃいい話なんですけど。
でもそういうものを見て、こんなクソなんだこれって思うことすらも、もしかしたら必要なことなのかもしれないし。
結構写真家だと、奥山よしゆきさんとかはすごい有名だと思うんですけど、
彼の写真集のベーコンアイスクリームってやつとか見ると、ぱっと見何表現したいのか全然わからなかったりするし、
なんだこれ、全然わかんないわと思ってググってみたりすると、本人もこんなにバズっちゃうとは思ってませんでした。
日常をただ適当に集めてきただけなんですけど、みたいなことを言ってる風の文章とかも見つけたりして。
結局究極を感じる側の自由なんだなって思ったんですよね、その時に。
やってる本人には何か伝えたいことだったり、表現したいことだったりはあるのかもしれないし、
何かいいと思ってそれをやってる場合と、なんとなく雰囲気でやってる場合といろいろあるのかもしれないけど、
究極、自分でそれをどう受け取って自分の中でどう解釈するかに結局なっちゃうんだなって思いましたね、それ見た時に。
自分の写真も、自分なりにいろいろ込めるものはもちろんあるし、アイディア考えてみたり、面白いって思う仕込みしてみたりはするけど、
結局それは見る側の自由だなって思って。
だから結構ツイッターとかに写真貼る時も、本当は説明した方がいい場合もあるのかもしれないですけど、
あんまり説明しないで貼っちゃったりする時が多いんですよね。
それはみんな好き勝手に解釈してくれっていう、そういう感情がありますね。何も言わずに写真だけ貼るときは。
そうですね。バズルに前振りしたかどうかはって、結局本人の心の内は覗けないからわかんないじゃないですか。
だからそういうふうに自分が感じるだけなんですよね、結局は。見てる側が。
そうですね。本人がどういう作意があったかどうかは置いといて、結果としてそういうバズルトーンっていうものに修練進化しちゃったっていう現象そのものは、やっぱ嫌いになれるものなのかなって思ってます。
その本人の気持ちを穿って何くそって思うのは違うけど。
だからやっぱそこは僕も独卒さんもこれを同じ国で言うの申し訳ないですけども、ナードなんだなって。
そのジョックス的なこれをやったら価値覚でしょうとか、これをやったらモテるでしょうみたいなものは多分薄々テクニックとして理解していて。
それはもしかしたら独卒さん世界だったら渋谷の街を100万パーティクルぐらいのポイントクラウドとしてビジュアライズするみたいな5G案件なのかもしれないし。
僕からしたらGPUレンダリングで災害都道みたいなザミルみたいなかっこいいグラフィックを作るみたいな。
なんかそこに対して、すでにそこはいいって基地の良さとして認知されてるわけだから今更みんな藤山登山しても意味なくねみたいな。
たぶんすごいありますよね。
とはいっても日本で一番高い山って藤山じゃないですか。
別にやりがだけとか登ってもそんな凄さ分かってくれる人っていないし、実際標高も低いじゃないですか。
だけどそういうあんまり登ってない、そこに局所回があるっていうことも知らされていないところっていうのを広域探索しちゃう心性って、心の性質ってすごい共感するんですよね。
絶対標高は藤山ほど高くないんですよ、たぶん。
価値覚でもないしモテないけども、人類の探索活動としてのデザインのあんまり掘られていない部分っていうのを探検してみて、結果的にそこに何の山がなかったって負け戦になっても別にいいんですよ。
ただ少なくともこの人は藤山のコロナアクエのあの行列に関わらない人なんだなっていうところにすごい共感が受けるみたいな。
けど一方で八甲さんめっちゃ好きみたいな気持ちもあるし、八甲さんとかがすごい受かれた作品の一つが確か、桜がこうすごい満開の目黒川でちょうどその桜の中にハート型の空間ができてるみたいな。
はいはいはいはい。
あれ八甲さんじゃないかって申し訳ないですけども。
でも有名な写真ありますよね、その手のやつの。その写真自体は見たことある気がするよな。
はい。けど一方でやっぱ僕はその八甲さんがすごくナードな一面も持ってるみたいなし、すごく音楽活動として意義深いことをしてきたっていうのも知ってるんで。
僕から見たらもしかしたらバズレシピとかも実はいろんな資料深い何かがあって、その八甲さんの一角としてバズレシピみたいなものが出てきて目立ってるだけなのかなみたいな想像力は失わないようにしたいですけども。
そうですね。
やけど嫌いですよね。
いやでもね、どっちもあるなって思います。
だって見なきゃいいんだから嫌いだったら。
でもやっぱなんか…。
見てケッと思うことが一つ自分の勢力になりますよね。
そうですね。なんか本当にこの辺の感情って自分でもうまく言語化できないけど、なんだこの気持ち悪い写真って思う写真ってやっぱ実際あるし、何も考えてねえで撮ってんだろうなって思っちゃうけどそうとは限りないし。
そうですよね。
実際自分の写真だってどういうふうに見えてるかわかんないわけで。
はい。
言い出したらまあ答えのない取り留めのない話になっちゃうんですけど。
こんなに写真で話が盛り上がると思ってなかった。
いやいやいやなんかすいません、俺が本当に写真に最近興味が深くなっちゃってるせいで巻き込んでしまって。
僕もなんか去年実は友達がすぐさっき話に出てらっしゃったイメージキャストと別のポッドキャストをされてる鉄頭さんの展示に参加したんですけども。
やっぱあそこに関して本当は自分は作品として出品したくなかったみたいな気持ちとかすごいあって。
それを落ち合いを打ちに補足されて変なツイートされるのも含めて全部自分のプロプス下げてんなとか。
けどなんだろうな、やっぱすごいなんだろうな、本業の写真家の人ってももはや写真っていうかカメラっていうのは空地じゃないですか。
透明化しちゃってるんですよね、カメラの仕組みとか。
だけどやっぱりエンジニアとしてカメラっていう広角形に向き合う人ならではのなんか豊かさってすごいあるなと思って。
それはその写真表現としてはもしかしたら最終的にはよくあるビクトリアリスムみたいなふんわりした表現で落ち着いちゃうかもしれないですけども、
そのプロセスで道具について考えるとか、自分が何かを作るための環境そのものに対していろんな相対化を仕掛けていくっていう、
その豊かさってもうAdobeのエコシステムの内側でデザインティップスみたいなことを言ってらっしゃるようなバズデザイナーとは全然違う豊かさがあるなってまたすごい批判しちゃったんですけども、
僕は嫌いです、あの層は。
なるほど。
嫌いなことと別にその人がいなくなればいいと思うことは別じゃないですか。
そうですね。
嫌いって気持ちもありつつ、かといってこの人もある意味その多様性の一部として、
少なくとも自分がこの場所の作品は嫌いっていうものがわかる道しるべとしてずっと機能し続けてるっていう意味では、
そうですね。
すごく大事な存在だと思うんで、だから僕やっぱ独卒さんから嫌いっていう言葉がすごい出てくるのが嬉しいっていうか。
そうですね、あんまり言わない、意図的に言わないようにして、そのネガティブな言葉はあまりSNS上に流さないようにしてるっていうところがあるんで。
けど全然ウェルカムというか、ネガティブなことにポジティブになっていきましょう。
そうですね。なんかバクさんがおっしゃってることはすごいわかるし、自分自身はそういう温度感嫌いじゃないんですけど、
ウェブジェルとかJLSLとか、あるいはスクールを受講された皆さんとか、みんなの顔がちらつくとやっぱりちゃんとしなきゃなって思ってしまうっていうか、
SNS上で好き勝手やるわけにはいかねえなと思って、どうしても表情を作ってしまったりするんですけど。
なんかそういう、ある意味自分を職業上とかの役割期待に基づく偶像として演じるのをもうやめちゃった感じはあります。
いやそれが多分、なんか思うに、クリエイターだったり、作家とかアーティストとかもそうだと思うんですけど、そこに前振りしないとたどり着けない境地はあるなって俺思ってる部分があって、
全部かなぐり捨てたときに多分見えてくる世界線ってあると思うんですよ。
今は、かなぐり捨てちゃまずいかなって思ってる。
自分に課されてる責任をもう少し全うしないとなって思ってるので、それが多分取っ払われたときに、
それこそXみたいなSNSとかやんなくなっちゃうかもしれないし、写真の世界にフェードアウトしていってしまうかもしれない。
うん、なんかそういう状況になった。
なんか僕個人としては、それこそ僕、意外とドクサスさんが人事ストーリーって消していくようなものとかも補足してたりとかするんですけども、
一方でドクサスさんが、本当に世の中には本当にすごい人がたくさんいるもんだなみたいなツイートとかされてるのとかも、
めちゃくちゃありがたいっていうか、そこをすごいカッコつけて見せたがらない方って多すぎるなって思っちゃうっていうか、
あなたはセレブリティなんですか?みたいな気持ちになっちゃうんですよね。
なんかすごい、僕はこの役割、例えば映像作家とかエンジニアとか有益な情報を発信するエヴァンジェリストみたいな、
単一の役割自体だけを演じ続けるのって難しいなっていうか、むしろ僕ネガティブな部分とかも含めて全部ダダ漏れさせてくれてる人の方が、
なんかそんなアーティストとしてとか作家としてみたいな、その幻想をそんな本人に求めてないし、
イヴァンやドクサスさんをやっていう感じなんで、だから、なんか僕それで離れてくる人は元からもうノットフォーミーだったみたいな。
それはその通りです。
そうは言わない、いけない事情も多分あるのを。
本当にそれがめちゃくちゃ自分にとって重要だったらこういう場でも言わないですからね。本当にそれが重要であれば。
まあそうですね。
だから露出したい自分もいると思うんですよ。そういう部分を露出させたい自分もいるし、
だからこういう何とかして外に出そうとするものの一部なのかもしれない、こういうノーマライズゲームがあるかもしれないですよね。
結局なんかその人の精神状態とか、あとその心の中で感じてしまっているヘイトフィーリングみたいなものって、なんかBMIみたいなもんじゃないですか。
BMIっていうか、なんかこの人すごい血痩せしてるし血太りしてるけども、おおよそBMIこんぐらいなんだろうなってなんだか想像つくじゃないですか。
そういうふうな様子で人を判断するのすごいあれなんですけども、
なんかそれと一緒で、なんかダダ漏れさせてなくても結局その人の、この人アッパー系なのかなダウナー系なのかなとか、
あるいはその人の練習とかって、節々からわかるじゃないですか。
例えば僕なんかそういう意味で全然稼げてないのって一目瞭然なわけで、
それってちょっとした僕が日常をアップする写真のカビガビの質感とか、
なんかそういうニトリの過線性の超毛の超毛なラグみたいなものからやっぱ透けて見えるわけじゃないですか。
だからなんかそこに自制をかけても結局わかってしまうものだったら、
なんかオープンにしても、まあ程度問題ですけどもいいのかなって。
だからなんかもっとみんなと練習の話したいんですよね。
いやまあそれはそうですね。それはそうだし、今のバクさんの話聞いてて思ったんですけど、
俺なんかもう1年ぐらい写真撮ってるのに、比較的最近までずっと写真をアップしてなかったんですよね。
大焼けの場に上げてなかったんですよ。
でも最近なんかもう遠慮なく上げ始めるようになってるのは結構そういう、今バクさんがおっしゃったような、
別に俺が写真の話しかしなくなって離れていくやつはそういう人なんだって思って写真を上げ始めている感じはありますね。
だからなんか自分の軸足がここまで写真に寄ってるのに、それを出さないっていうのも自分にとってなんかおかしいし、
じゃあ自然の発露として出てくるその写真が流れてくるタイムラインを見て、
写真なんかこいつ投稿すんなよって思うんだったらフォローしなきゃいいっていう話で。
そうですよね。
だからなんか最近結構遠慮なく写真バンバンツイッターに上げてるのはそういう感覚の変化があってやってるっていうのはありますね。
なんかミュートしてもらえてるってすごいリスペクトを感じるじゃないですか。
なんか本当に嫌だったらフォロー外すわけじゃないですか。
だけども少なくともフォローを外されたっていうことはこの人に認知はされたくないけども、
けどもこれは今の自分のタイムラインにはいらないなっていうものに対する経緯としてミュートってすごい良いなと思ってて。
だから多分僕もほとんどの人にミュートされてんなって。
いやそんなことないと思うけど、まあまあしてる人はいるかもしれないし。
多分ユニークユーザー数100数人もいないんじゃないかって勝手に思ってるんですけども。
俺は結構見てるけどな。
本当ですか。
いやというか多分ミュートの対象になっていた仕方ないし。
けどフォローを外されたらちょっとへこんじゃうなっていうくらいで。
そうですね。
いや本当なんか本当写真の話ばっかりしちゃいました。
すいません。
いやけどなんかすごいもっとみんなその実績しかSNSで投稿しないのがいいみたいな、やめてほしいなって思います。
そういうところじゃねえからっていう話ですよね。
そうですね。
別にそういうもんじゃねえから。
別に何のセレブリティーでもないし、実績なんかポートフォリオで見りゃ分かるからみたいな。
なんかそのSNSを広報とかプロモーションのためのメディアとして使うってすごいマスメディア的っていうか。
東京に住んでる同じモチベーションでSNSを使ってる感じがするんですよね。
コロナ禍、北海道にずっといたんですけども、やっぱ最終的に東京恋しくなって戻ってきちゃったっていうのも。
なんていうんですかね。
その遅延、ゲマインシャフトゲゼルシャフトの話じゃないですけども。
なんかこう遅延と欠延っていうすごい選べない縁っていうのがあるわけじゃないですか。
そこにやっぱ社会人とかになったときに社縁っていうのが加わるわけじゃないですか。
それは自分の別に家族とかそういう血族みたいな利害関係にはないんだけども、
純粋に自分の興味とかその同僚だったりとか職業人として生まれる縁っていうのが多分あって、
なんかそのさらに外側に選択縁っていうのが多分あると思うんですよ。
半分そういう職業人としての社縁、その会社の社に縁って書いて社縁でもあるし、
だけでも一切何の利害関係もなければ興味もあんまりかぶんないけども、
お互いに観測だけし合っているみたいな、
なんかその緩い繋がりの外縁っていうのがすごく心地がいいんですよ。
東京にいて生まれる人の繋がりもそうだし。
それがSNSを引退して、僕はリアルで仕事で出会った人たちだけとこの後関係を継続していきますって、
社縁の世界に戻っちゃうような気がして嫌なんですよね。
どう?リアルで選択縁みたいなものに触れられる程度にコミ教だったら僕はいいと思うんですけども、
僕はそこまでコミ教じゃないんで、こういうふうに縛ったりとかそういうのが多いんで、一方的に。
だからSNSは僕大好きですね。
Xはクソになってよりクソなものとしての相応の別の価値っていうのが生まれてきて、
不快ですけどね。
いや、すいません。
私も結構似たようなことを感じてるなっていうのは思うんで。
だって今のXに残ってる人たちって本当にそれでも残ってる人たちだし、
そこにしか見出せないものが、そこに何かを見出してしまう、そこにしか見出せない、しがみついてしまう何かみたいな、
この何とも言えない人間臭いっていう、人間臭さを凝縮したようなツイッターの眺めが俺は結構好きですね、最近。
そうですね。みんなちょっとした諦めもあるし、プラットフォーム資本主義に対する絶望もあるし、
けどなんかこう、惰性で付き合ってる感じ?
やっぱテキスト中心で話せるメディアっていうのが必要だよね、みたいな。
クラシーとかそういう、なんかそっち側が露出する方がよりグロテスクっていうか。
グロテスクっていう言葉が本当マッチするような気がするな。
人間の全てを暴き出してしまっているっていうか。
そうですね。
グロテスクって言葉、すごいピッタリくる気がします。
いや、なんか普通にこれフォトキャスター関係なくドクソスさんと作業通話してる感じで。
そうですね。
本当に。
そうですね。そろそろ締めますか、じゃあ。
そうですよね。だから全然バッサリ、丸ごと何か切っていただいても大丈夫なんで。
もうね、俺はちょっと途中から思ってたんですけど、今回はあんま編集しないでこのまま出そうかなって思ってますね。
いつもは、いつもはですよ。いつもは収録音源がだいたい2時間弱ぐらいなんですよ。
そうなんですね。
公開されるときに1時間半ぐらいになってるやつは、だいたい収録した音源全体の長さが2時間ぐらいとかで、
そこから削ったり、うまいことつなぎ合わせたりして、1時間半から45分ぐらいとかになるんですけど、
今日はなんかあんまり間の編集とかもしない方がいいなってちょっと今思ってますね。
一層のことをポッドキャストっていうよりも、ただ録音いただけっていう感じにした方が面白いなって今思ってますね。
なんか結構そうですね、ポッドキャストのクオリティの1つっていうのが音信機を配るっていうのはもちろんあると思うんですけども、
短くするって大事じゃないですか。
編集ちゃんとしないとダメで、結構口癖であのーとかって言っちゃうやつとかも全部切ったりとか。
結構皆さんがノーマライズFM聞いてる音源って割と編集されてる。
喋ってることは書き換えたりはしてないんですけど、要は空気感を編集で作ってるんですよね。
間の広さを縮めたりとか、吸い込む音を消したりして、結構ちゃんと聞きやすいように作ってるんですね、普段は。
でも今日はこの話してる内容とかも、ほんとDiscordで2人が適当に喋ってたやつを録音してそのまま出しましたみたいにした方が面白いなって今思ってますね。
その方がいいなって。