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  2. 【GMV 247】分岐点などない
2020-11-04 34:56

【GMV 247】分岐点などない

分岐点はないから後悔もできないのです
00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
Twitterでですね、その話を受けて、
うつのことをちょっとコメントしてくださった方がいらっしゃっていて、
大変ありがとうございます。
それで、最近ちょっとキーワードとして捉えられているのが
後悔というやつなのかなと思って、
簡単に言えないか、
後悔というものなんですが、
この前提には僕らの大変奇妙な癖だと僕はよく思うんですが、
分岐点という考え方がある気がするんですよ。
さんべけいって多分読むと思うんですけど、
漫画家の方がいらっしゃるんですね。
最近ではかなりヒットしたと思うんですけど、
僕だけがいない街っていう、
北海道をバックグラウンドにしてるんで、
私結構親戚が母方北海道なんでね、
僕も生まれ朝日課ですし、
すごく鉛が北海道弁で、
それもちょっと良かったんですけど、
さんべけいさん、すごく分岐点、
よく題材にされますよね。
何て言うんですか、
タイムトリップ。
やり直すんですよね、要するに。
少し過去に戻って。
過去の大事なポイントというところがあって、
そこでやり直すといろんな事態が起こる。
要するにパラレルワールドみたいな感じだと思うんですけど、
主人公の子供時代に冤罪事件があって、
多分同級生が殺されてしまってるんだけど、
その記憶を、半ば消え去っている記憶を思い出しながら、
思い出しているうちにタイムトラベルして過去に行ってしまって、
もう一回その冤罪事件が起こらないように
真犯人を突き止めるべくやるという、
非常にですね、分岐点じゃないですか。
そこで私がよく思うのは、
分岐点ってないじゃないですか。
どこかに分岐点があると思うのは人間の勝手な都合ですよね。
私たちはつい、しかも自分の身の回りしか見ていないから、
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時間が数直線のように流れていると思う癖があるんだけど、
例えば今私とこれ撮ってるの、朝だけど、
アメリカ大統領選今やってますけど、
アメリカの方は夜の方じゃないですか。
ってことをタイムトラベル系は綺麗に無視してますよね。
ちょっと時間は戻るって言っても、
世界中でそれだったら一気にちょっと戻っちゃうじゃないですか。
それってもう全然関係のない、
分岐点でも何でもないところも全て巻き戻されますよね。
この考え方って、
昔ニュートンが絶対静止形という表現を取ったんですけどね。
全てそうやって全ての空間でですね、
1秒は1秒、2秒は2秒としてコチッコチッと進んでいくような
コマ送りみたいに宇宙が動いているとすると、
一切動いていない場所っていうのが
一点必要になっちゃうんですよ。
太陽系は太陽中心に地球が動いている。
地球が回っている速度に応じて時間って決めてますけど、
この時間が宇宙において
あらゆる空間を支配しているって考えるとなると、
何かが何かの周りを回ってたりするから、
太陽も何かの周りを回っているという風に、
ニュートンはそういう風にモデルを、
単純なモデルを考えてみたことがあったんだと思うんですよ。
ニュートンが本当はニュートンだけが考えたのか知りませんけど、
そういうものを考えた人がいたはずなんですよね。
そうすると何かに対して動きがあるっていう考え方を取ってしまうと、
そんな考え方って宇宙空間全域で取れるはずないけれども取ってしまうと、
どこかは全く変化しないまま、
そこを中心に全てが動いているっていう、
そこを中心にってからにはそこは絶対動かない場所っていう、
変化もしない場所っていうのが1点必要になりますよね。
これを絶対静止系って言うんだろうけど、
そんなものがあるわけがないんですよね。
そういうものがでもないと、
分岐点って考え方は成り立たないと僕は思うんですよ。
どこかに何かが取っておかれてるみたいなニュアンスがありますし、
点が他と接続されてないって感じも必要になるじゃないですか。
でもいろんなことを考える必要は実はなくて、
それがあるわけがないですよね。
分岐点っていうのは僕らが勝手に考えつくものでしかないですよ。
最近興味ない人は全くないと思うんですけど、
パリームのクライマックスシリーズ進出がかかっておりまして、
私は千葉ロッテのファンなわけですね。
ずっと2位で今年はよく頑張ってたんですよ。
10月にぐらいまでは1位とほぼゲーム差なしで2位だった。
要するに1位とほぼ追いついてたんだけど、
気がつくと1位に圧倒的な差をつけられて、
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3位に追いつかれるという、
10月に入ってから悲惨な感じなんですね。
で、分岐点言うわけですよ。
あのゲームが分岐点だったと。
そんなものはないんですよ、ずっと見ている人間にしてみると。
ゲームの中でもあそこが分岐点だったとかって言うんだけれども、
疑わしいんですよね。
解説の方ですら言うんですけど、やっぱり疑わしいんですよ、結構。
分岐点だったと言いながらその後逆転とかをするとですね、
こっちが分岐点みたいな話になってしまうんですよ。
あれ見てるとよくわかるんですけれども、
私たちは未来が読めないのに、
そこに流れとかって言うんですよね。
流れは多分みんな言うんだから、
全くないわけじゃないんでしょうけれども、
長いこと、もう僕なんかの場合、
40年以上野球をただ見る側の立場に立って見てるとですね、
流れというよりは後付けなんですよね、全てが。
後自衛バイアスっていう心理学では言うけど、
まさにそれで、
例えばピンチをしのいで逆転すると、
あそこで流れが変わったって言うんだけれども、
それだったらそのまま勝ちそうなもんなんですけど、
その後再逆転されると流れが今どっちにあるかわからないとか、
よくわからない話を平気でするんですよね。
だからそのレベルのものだと思うんですよ。
分岐点と称されているものはですね、
送り番と失敗とか、エラーとかフォアボールとか、
何にでも意味はつけられるんですよ。
送り番と失敗したけれども平気でその後ホームランを打つとか、
フォアボール出たけど何もその後起こらないとか、
そんなものはザラになって、
何かあった時だけそれに意味を後で見つけるみたいなところがあるわけです。
でも野球はですね、そこでできること、
そこで起こることの幅が狭いので、
興味がないまま見ている方から見ると、
あまりにもいろんなことが多様に起こりすぎて
さっぱりわからんってことになるかなと思うんだけど、
よくわかっている人から見るとそこでできることって
ごくごく限られてるんですね。
少ないんですよ。
だからこれを見ていて思うのは、
野球だからまだしも先が読める気がしますし、
分岐点もいっぱい考えつくんですね。
まさにその分岐点をダイジェストで切り取って後でまとめて
スポーツですってやるんだけれども、
あれだけ見ればいいじゃんという人もいっぱいいらっしゃいますけど、
私のように全部見ている人間からすると、
あれだけ見るのは何の意味もない気がするんです。
あれは勝手にそこが大事だと切り取ってるだけであって、
そこが大事なわけじゃないんですよ。
全部見た側からするとですね。
09:00
あくまでもそれはそこをつなぐと
ストーリーになるような、絵になるような気がするから、
そこをクローズアップするんですよね。
で、時間がないときになってくると
ますますそのダイジェストが切り取られていくんで、
もうなんか2秒ぐらいで終わってるわけですよね。
3時間半ぐらいの試合を2秒ぐらいでまとめられるんだけど、
それは確かにそのシーンは大事だったけど、
まあ要するにそれは
極めて恣意的なもの。
で、私たちが考える後悔って
あれそっくりだとよく見てて思う。
現に野球でもそうなんですよね。
あそこで送り番としておかなければとかって言うんだけど、
そんなこと言うのは無駄というものであって、
何をやったら上手くいくかが分かっているぐらいだったらば、
誰もあそこで苦労はしないわけですよね。
後からだったら何でも言えるっていうのは
まさにああいうのであってですね。
どれが分岐点になっているかなんていうのは実は
分からないと思うし、分からないんですよ。
で、あの分からなさ以上に
現実はものすごく分からないわけじゃないですか。
でも僕らはここに分岐点を
見ちゃうんですよね。
あのダイジェストとそっくりのことが多分脳内で起こる。
だからあのダイジェスト人気あるんだと思うんですよ。
あれ見てると
本当の試合と全く違うものを見させられているなという気が
もう僕はしちゃうんですけど、
子供の頃はそうは思いませんでしたから。
よくまとまっているなと思っちゃってましたからね。
大人になってというか何回も何回も
それこそもう僕で言えば1万回ぐらい
そんなには見てない。
でも前試合延べで言うと1万回に近いぐらい
見てる気がするんですよね。
高校野球とかまで全部入れるとですね。
僕結構最初から最後まで見る方ですからね。
見てるとですね、あの
ダイジェストというのは別物なんですよ。
本当の試合のダイジェストに違いはないんだけれども
なんかもう全く違うものなんですよ。
そういうことにある時意識するようになって
以来ダイジェストというのはほぼ見る気が
しなくなったんだけど
なんて言うんですかね。
あれと記憶って本当によく似てます。
現実のいろんなところを勝手にバサバサぶつ切りにしてですね。
ここというポイントだけを
繋ぎ合わせて記憶というものにしているんですね。
だから僕らはそれを分岐点で考える
癖がついているんですよ。
そこに行ってやり直すと
一番分かりやすい例で言うと結婚とかじゃないですかね。
あそこに行って
イエスと言わなければって
思っている男性女性
いっぱいいらっしゃるんじゃないですかね。
だけどなぜそれがその時のイエスが全部なのか。
12:00
その直後の喧嘩とかその直前のなんとかとか
本当にいろんなものすごい数の出来事が
全部分岐点なんじゃないでしょうか。
って言いたくなるんですよね。
それがもし分岐点だと分岐し得るとでも言うのならば
分岐し得ないんですけどね。
つまり切り離せないものを
切り離しているんですよね。記憶というのは。
なんだっけな。
これかの話で
こっちの方が記憶に近いみたいな。
記憶はアニメのコマ送りではない。
火縄。火の先っぽにですね。
縄の先っぽに火をつけて夜に
それって点じゃないですか。
それをぐるぐる回すと円に見えてしまいますよね。
人間の目に。記憶というものは
あれに似てるっていう時間感覚かな。
そういう感じだっていう風に
仏教とかなんかが言ってるんだけど
多分そういうことなんだと思います。
切り離すともはや
別物になってしまうというか
切り離せると思っているのは私たちの
視覚的な勝手な効果であって
多分それは切り離すことのできないものだと思うんですよ。
これをこの分岐点という漢字
三部慶さんのコミックみたいに
あの時に僕はしていなければみたいな
それを考え始めることが
つまり後悔というものを生むんだろうな
という気がすごくします。
私は思考実験的にですね
ここで娘が死んだら
どういう後悔をするだろうということを
頻繁にやるんですよね。
そうすると分岐点というものを
考えるのは絶対後悔だとしか思えない。
どんな瞬間でも何かは起こり得るからですね。
ここで通り間に殺されるとか
ここで上から看板が落ちてくるとか
何が起きても後悔するじゃないですか。
多分それが非常に悲惨な出来事であるならば。
そうするとその時
例えばですよ
道路の反対側を歩いていて
自分が死んだらばよかったとか言うじゃないですか。
人は。でもじゃあ逆の方を歩いていて
暴走者がやってきて娘だけ死んじゃったら
逆を歩かさなければよかったって
必ず言いますよね。つまりこれが
分岐点というものの正体だと思うんですね。
要するに出来事が
起きてない時には
存在しない考え方の中で起きてしまった時から
そこに分岐して
その出来事が起こらなかったもう一つの現実
っていうものを思い描き
それはそれまでの自分の人生を
脚色した
15:00
幸せな光景みたいなものなんだけど
それも嘘なんですよね。もしかすると
家庭ではお喧嘩をしていて
ただそれよりもひどい出来事が起きると
その怒涼は全部無視されて
とても幸せだってことになって
それと対比するものだからものすごい悲惨なことが起きて
そこで道の反対側を歩かさなければ
とか言い始めるわけですよね。
全く意味がない
想定なんだけれども
私たちはそれをできる能力を持ってる
これがやっぱり大きいんだと思うんですよね。
三部さんのコミック見ていて
つくづく思います。
三部さんはそういうのがすごく
書くのが上手だし
引き込ませるのも上手いんで
そんな感じがしちゃうんだけれども
コミックって元々
一コマ一コマ区切られているし
あるシーンしか存在していないので
分岐点というものを作り出すには
非常にうってつけのメディアですよね。
分岐点だらけですよね。ある意味。
だからあの時ロミオとジュリエットは
あの時ロコを飲んでなければ的な話に
だんだんなっていくんで
それを創作の台座にするというのは
大変上手いやり方だとは思うんですけど
僕らがそれを可能にするのは
記憶というものはつまり
現実とは無関係に作られるもの
完全に無関係じゃないですけれども
構造が違っているので現実とは
だからこれができるわけですよね。
これによって
要するに世界人生のか
ヒストリーのターニングポイントというものを
勝手に捏造しては
ここでAに行った場合とBに行った場合
みたいに
アドベンチャーブックかな、そういうものに近い
ここに後悔の種
というものが発生するんだろうなという
気がします。
今日はグッドバイブスってあまり言わずに
ここまで来ましたけど
グッドバイブス的なところがあるはずそうですね。
こういう話をしたのもやっぱり
グッドバイブスが最初ってわけではないですけれども
仏教にも全く同じような説法があるんだけれども
パラレルワールドを
作り出せる能力
だと思うんですよ。
ただ最近、農家学の本で
まだちょっと読みかけなんですけど
未来の使い方みたいな本があって
大変興奮しているところなんですけど
18:01
要はですね
未来に期待するためにもともと
人間に限りませんが
脳の機能とかってだいたいそうで
最初はそのために作られたものじゃないものを
違う目的で使い始めるんですよね
人というのは。
たぶん
一番最初に果たして会場という会場って
記憶の工場って言われてますけれども
ところもですね
記憶というものを作り出すために
会場ができたのかどうかというと
大変疑わしい気がするんですね。
たぶんそれは全然違う目的で
最初目的なのか分かりませんけど
不意に記憶に使えるということになって
記憶に使われるようになったんじゃないかなという気がします。
だから
人間なんだから
パラレルワールドや
作っちゃったり後悔してしまうのはしょうがないんだ
っていうのは私は嘘だと思うんですね。
必ずしも会場を
記憶の生産工場にしなくてもよかったように
たぶんドーパミンがあるから
ドーパミンが走るから
未来に期待してしまうのはしょうがないということはなくて
変動体が存在するから
変動体モードになって
恐れと不安を抱くのは本能のようなものだ
というものではないんじゃないかと。
そういうことが
つまりですね、ドーパミンにせよ
私たちに選択の余地が一切ないと言うならば
仏教というものにそもそも存在してなかったと
思いますし
そういうとことん運命論的に行かなくても
いいだろうということなんですね。
どんな人にだって
ほとんどの人に変動体はありますし
つまりほとんどの人はですね
赤ちゃんが
雲まみれになっていたら悲鳴を上げるんですよ。
でも大事なことは
赤ちゃん自身はおそらく
ただ雲まみれになっているだけでは
悲鳴は上げないはずなんですよ。
これは私はすごく大事なことだと思うんですよ。
私たちは本能という言葉を平気で使うんですよね。
一歩間違えたパラレルワールドを作ることとか
後悔することすら本能だと思うじゃないですか。
でも本能ではないんですよ。
本能であるんだったらば
背中に雲がついていたというだけで
赤ちゃんは悲鳴を上げるはずですよ。
絶対そうはならないの。
僕は目の当たりにしましたからね。
21:00
赤ちゃんは多分肩に鉢が止まっても
それだけでは悲鳴は上げないです。
悲鳴を上げるのは母親の方です。
決してそれは本能ではないんですよね。
このようにして学習が進むということを
科学的に証明したのが
あまり評判の良くない
ワトソンですね。
アルバート・ボーイヤーというやつですね。
あれは全く良い実験ではないと思うんですけど
ワトソンというのは野心家だったし
行動科学のBFスキナーと並んで
行動科学の師匠みたいな人なんですけど
要するにパブロフンの犬のあれを受けてですね
アルバート・ボーイヤーというのに
白いものを怖がらせるようにしつけたんですよ。
まるで人間はそれをやられると
白いものを恐れるのが本能であるかのように
見えちゃうんですね。
白いものを見せては
何でもいいんですよ、白を見せては
赤ちゃんの耳元でガーッて立てる
これを繰り返すと赤ちゃんは
白いものを見た途端に怯えるようになります。
病院に行くじゃないですか。白衣の人ばっかりですよね。
赤ちゃんはもう狂乱気味になるわけですよ。
白いウサギ見ても
泣き喚くようになります。
ビデオで僕見ましたからね。
非常に問題のある実験だと思うんですけれども
このようにして私たちは本能だと思うじゃないですか。
だってそんな小さい頃に
そういうものを植え付けられて
大きくなって白いものを見るために
自分はものすごく怖くなるみたいな
本能だと思っちゃいますよね。
でも本能ではないんですよ、これは。
学習した記憶ですよね。
これも大きな問題なんですけど
消去することも可能だと言ったんですね。
彼は非常に人間というものを機械的に考えていたので
白いものを見せて今度は
泣く赤ちゃんに
ご褒美あげるんですね。おもちゃあげたり
甘いものあげたりすると白いものは怖くないという風に
考えるようになり
消去されると。
単純に白いものを見ても音とか立てないようにしたり
するだけでも多分消去効果は上がってくると思うんですけど
実際それは消去されたということになっていて
だからこの実験には何も倫理的問題は
なかったというのがワトソン側の主張なんですけど
今もざっくり
話しましたがこういうことって多分にあります。
実験そのものには問題は
あったと思うんですけど
マーティン・セグリマン
ラッカン主義のやつの犬を無気力にするのも
同じですよね。
ゲージから逃げようとすると電気ショックを与えると
24:01
そのうちゲージから逃げようとも犬はしなくなるので
本能でもなんでもないですよね。
僕らは
多分扁桃体があるからといって
そして大脳神秘室があるからといって
特定の場面
あそこで送りバントを失敗したから
この試合を負けたみたいな
そういう発想をするんですけど
決してこれは本能じゃないと思うんですよ。
これは結局学習した成果であって
そのようなものの考え方をする癖が染み付いたんですよね。
だから同じ場面が来たら今度は
送りバントをするのではなく
エンドランをかけようみたいにする
ここにもパラレルワールドがあるわけですよね。
全く同じ場面がやってくると。
でも全く同じ場面がそんなに都合よくやってくるのは
野球という極めて人為的に作り出された
人工的な世界だからであって
私たちはかなりの程度
人工的な世界に生きているから
人生でもそれが可能だと思う癖がついているんですし
私たちの思考の癖として
そういう全く同じ状態が再現されると
再現という言い方ですよね。
されると思うからまた後悔というものが生まれるんでしょうし
分岐点という考え方にも繋がるんだと思うんですけど
全部ですね
それは人為的に作り出された
しかも人の記憶にとって大変こう
セットしやすい考え方
なんだと思うんですね。
今はそのような事実はそこにはないんだけど
それを脳内で作り出して
まさにそういう選択
前にしなかった選択を今回はするという
分岐点的選択が可能だという
そういう幻想の中に
多分あるんだと思います。
しかもそれは人だという
人である以上すら避けられないという
考え方になっているんだと思います。
そんなことは多分ないので
現に自分が
今だんだんそうなりつつあるんですけど
分岐点という考え方を排除するとですね
未来というのは結局
要はないんですけれども
要はないんですけれども
何て言うんですかね
180度以上自分に開かれている感じというもの
直面できる気がします。
このグッドバイブス以前の
私の感覚はやっぱり
時間の数直線があまりにも自分の
イリュージョンとして強かったために
そこの直線の上を
27:00
歩いている感じというのがですね
何て言うんですかね
あまりにもはっきりしすぎていて
偉く逃れがたい感じがあったんですよ。
三部さんは漫画書かれているから
リバイバルだろうと
再現だろうと
PDCAだろうと思いのままですけど
私はやっぱり一生懸命それを
現実には数直線上の世界観を抱いていても
前へ向かっていくことは絶対できないじゃないですか
前へ向かっていく以外はできないんですよね。
それを時間軸上に前へ進んでしまうと
PDCAするしかないんだけど
そんなにうまくいくもんじゃないんですよ。
あれが本当にそんなにうまくいくんだったら
PDCAやりまくっていれば
そのチーム絶対優勝できるじゃないですか。
野球でも。そうは決していかないのは
野球詳しい人ほど知ってると思うんですよね。
同じ状態に入った時に
確率論だけで
確率論というのは
何回かやった上でのことだから
その1回目がどんなに確率が高い方面のことであっても
それを確実に再現することって
できませんよね。
ライフはより一層できないんですよ。
相当これを精度を上げるつもりになっていたとしても
全く同じ状態で
再現しないし
確率が高いといったってタグが知れてるわけですよね。
そして一番いけないことは
一番いけないというか、一番面白くないことは
野球はそれをやって再現性が高い方を選択して
うまくいくということが続けばですけど
チームは勝利できるし
優勝もできる可能性が高くなるからいいんだけど
人生の場合
これをいくらやっても
そのほうが結果が良くなるということにならないんですよね。
これが一番気に入らなかったんですよ。
PDCAの中では。
良い結果が良いと思えたその結果が
ライフを良くするとは限らないということが
あんまりにも多すぎて
しかも実際には分岐点という考え方を使ったところで
過去に戻れない。
数直線の前に進むしかできない。
これだけでも相当PDCAって実は
意味が半減してる気がするんですよ。
後ろに戻れてこそ意味が多分に出てきますよね。
後ろに戻れもしないのに
その考え方をとっても
同じ事態が要するにやってくるのを待つしかないわけですよね。
ある意味では。
もうちょっといけないのは
しかも前に進むことしかできない上に
同じ事態を招き寄せるというのも
30:02
決して良いことではないわけですよね。
大体嫌なことについて改善するわけじゃないですか。
嫌なことをもう一回招き寄せたいとは思わないですよね。
私たちは別に。
だからあの考え方をとる限り
有効じゃない分岐点という考え方を使って
しかも必ずしもそれにより
一見良い選択はできるかもしれないんですけど
できないですけどね。
できるかもしれないけれども
それによって最終的な着地点がベタになるとは限らないという
これはものすごく欠陥が多いんですよ。
しかもそれは
事実にも反しているという
そのような時間軸上の数直線ってないので
そうするとこれって
端的に言えばですね
手放したもん勝ちだなって感じが
今本当にします。
これをやめるようになると
自分はどちらかというと空間的な世界に生きられるので
もうはなはな自由になるんですよ。
最初手放すときに多分
私が感じたことをみなさんも感じる
つまり恐怖感があると思うんですけど
この恐怖感こそでだらめです。
なぜならば少なくとも私については
この恐怖感は完全にでだらめでした。
理由は簡単で
それまで保っていた時間軸によって
私はいい目にもあっていなかったし
防御もできていなかったし
つまりしがみつく価値がなかったということですね。
やむを得ずそれにしがみついていたようなものであって
しかも事実それはしがみついていたつもりになっていたけど
しがみついていたはずの縄は
本当はないんですよね。
この縄はなかったというのが大事で
そうするとその後どうすりゃいいんだってことになっちゃうんですけど
別にどうもする必要もないんですよ。
多分これが信じられないとか
それは疑わしいとか
それは不安だというのは
どんな人にとっても誤解だろうなという気がします。
今ではですね。
少なくとも自分にとっては完全に誤解なんですよね。
手放すっていうと
具体的に人に何を手放しているのかを
目で見せるということができるものではないので
その点で
説得力が多分半分以下になるんだと思うんですけど
手放すというのは結局
先のことについて
これを選択しておけば有利だという
その考え方を捨て去るということですね。
なぜならば
有利ではないのが大事。
有利だと思うのは分岐点という
ないものとの比較によって成立する有利性で
33:00
たまたまそれによって
有利な結果を得られたとしても
ライフをそれがベターにしないんですよ。
それは意味ないじゃないですか。
野球だったらまだ有利に運ぶということに
意味は間違いなくありますよ。
人為的な得点がそこにありますからね。
だけれどもライフの場合はないんですよね。
有利っていうのがお金であったりするけれども
本当にそれは不思議なんですよ私にも。
それは絶対アドバンテージ上有利だろうと思うんですけど
そんなことは実はないんですよね。
有利かもしれないんですよ。
でも有利が良い結果につながる
というのとは限らないというのが
すごい不思議なんですよ。
多分いやいやって言われると思います。
いやいやっていう人の顔はいくらも僕も思い浮かびます。
でもですね
僕がバカなのかもしれないとは思いますよ。
それは良いんですよ。
その可能性はないわけじゃない。
もっと賢い人ならその有利性を
人生全体の良さに直結させることも
できるのかもしれないです。
ただ僕には
それはコストパフォーマンス
コストパフォーマンスに合わないという方は
この場合おかしいんですけれどもね厳密には。
でもコストパフォーマンスに合ってないんですよ。
それほどの苦労をしてしがみついていたものが
実体がないわけですから
コストパフォーマンスどころではないんですよね。
とにかくこれを手放して
そうですね
つまんない言い方ですけどね
豊かになりますね。
34:56

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