2021-06-09 28:31

【GMV 394】恥ずかしいと悔しい

過去へのリベンジは幻想を肥大化させる
00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
忘れてしまいましたけど、すぐ忘れるんですけど、
これって300回、もう間もなく400回になるんですよ。
グッドモーニングバイブス。
たぶん途中、数え間違いとかも入ってるから、数字は正確じゃないと思うんですが、
どうでもいいことなんですが、
400とか、数えるじゃないですか。
時々思うんですけど、今日はこれがテーマなんですけど、
僕らって、過去はないとたぶん知っていると思うんですよね。
あるという、それこそ最近の流行っているエビデンスを持っている人は、いないと思うんです。
記憶というものがあるんだけど、記憶って全ての人の中身は多少違うんで、
そこに記録があったところで、記録というのは全記録が残っているはずはないので、
やっぱり食い違っている部分があって、
これ究極的には、映像で撮ろうと音声で撮ろうとダメだと思うんですけども、
完璧に何かを残し切るということは不可能なんで、
そもそもそれが映像になっている瞬間、落ちているものはいっぱいあるわけですからね。
ダメだと思うんですが、
なんでこれを無きものにした方がいいかというと、
先日話をしていて、ここまで強烈なケースがあるんだというのを知ったんですよ。
その人が言うには、北朝鮮のミサイル実験を見ているとワクワクするって言うんですね。
非常に面白いなと思って聞いたんだけど、
Jアラートとかって騒ぎになったことがあったじゃないですか。
あれ落ちてこないかなと期待しちゃうんだと言うんですよ。
えー、そうなんだと思って。
なぜかというと、チャラにできるっていうんですね。
つまり、自分だけが死んだりするとバッシングされるかもしれないと。
自殺なんかしやがってみたいな感じでバッシングされるかもしれないと。
そもそもうまく死ねればいいかもしれないが、死に損ねることもあるわけじゃないですか。
なかなかすごい話になったなと思ったんですよ、聞いてて。
そうか、なるほど。
そうすると人は攻めるだろうと。
しかし、それがテンポドンであれば、みんな死んじゃうから、攻める人もいない。
しかもそれは自分がしたことじゃないから、攻められる理由もないっていうお話をして。
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これはすごいなと思った。
いくつか思ったんですけど、まず、この攻められることについて。
攻められないためならば、これほどのことが起きる方がいいというこのイリュージョンがすさまじい。
ひとつには。
まあ、そんなに人に攻められることを気にやんでいるような感じもしない方なんですけど。
もうひとつが僕は驚いたんですけど、その罪悪感を手に入れて、
もうひとつが僕は驚いたんですけど、その罪悪感をチャラにできるという言い方を。
これはもうグッドバイブスとは関係なしにですね。
生きているだけでも罪悪感があると。
それをチャラにしたいと。
これはもうそういうことではないだろうと思いつつも聞いたわけですよ。
どういう罪悪を感じたのかと。
それほどの罪悪というのは想像がつかないんですけれども、
犯罪じゃないと思うんですよね。
それが重大な罪悪であると言いつつも、別に警察に恐れているという感じではないので。
そうすると、例えば罪悪としては、
期日までに仕事が間に合わなかったとか、まだ間に合っていないとか。
もっと言うと、大学時代の論文がちゃんとしたものを書けていないとか、
様々あるでしょう。
僕も様々ありますけどね、そんなものは。
夏休みの宿題していなかったとかそういうやつですよね。
それをチャラにするためにテポドンが落ちてくる必要って全然ないじゃないですか。
このアンバランスさは一体何なんだろうと思ったんですね。
イリュージョンってグッドワイブスならば説明するところですけれども、
それにしてもじゃないですか、あんまりと言えば何なのか分からないんですけれども、
第一それは別にどうでもいいことだとも思えるんですけど、
やっぱり本人の中ではこれが積み重なっているという感じがあると思うんですね。
積み重なっているというイリュージョンがあり、しかも一つ一つも過剰に過大評価されてきていると。
それが縄然されているみたいな、そういう世界なんだろうなと思いました。
話を終わって、これはきつい。
だから私はやっぱり過去がないというのは実にいいことだと思ったんですよ、それを聞いた時も。
私、こういう方と比較すればですね、過去はないも同然だなというふうに思ったんです。
もう一切がっさり私は今忘れるように極力していて、
写真とかは流石にあれですけれども、原則としてはエヴァノートとかを封印し始めているんですね。
僕の場合捨てるというのはやっぱりちょっと難しい性格なんで、
アカウントを変えてとにかく過去ログを見返さないと。
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できれば残す量を激減させると。
とにかく実務的な事務的な話だけに限ると。
思いとか感情とか絶対残さないようにしているんですよ。
それっていうのは結局、もともとテポートンのような意見に比べれば
私そんなに罪悪感とか羞恥心とかに本気で悩んだことなんてないんだなと
むしろ痛感させられたんですけど、
とにかくこれをやるようになるというのはやっぱり僕の感覚では決して望ましいことじゃない。
だから未来は僕はもうないっていうのはすごい絶対的に簡単に考えられるんですけど、
過去がないというのはこういう方にとってやっぱり難しいなっていうのは感じたんです。
私別にその時カウンセリングとかセッションとかやってるわけじゃないから話聞いてただけで
グッドバイウスではとかいう話をしたわけでは決してないんですけど、
ただやっぱり過去ないって話はもう頻繁に出てくるんですね。
ないからこそ多分私は欲打つ症という症状が存在するんだろうなと
取り返しのつかせようがないですからね。
そんなことを言ってもどうにもならないっていうのと同時に
そんなことを言ってもどうにもならないのは当人が一番よくわかっているという話なのであって、
土井武夫さんは悔やむという言葉でこれをつまり欲打つという言葉をやめにして
悔やむでいきましょう的なところが彼はやっぱり和語、
日本語でなるべく説明しましょうっていうのを提唱されてましたから、
本の中でもですね。
悔やむというのは悔しいという気持ちを悔しいと思うことだっていう
そのメタ的な話だって話なんですよね。
一段深くなっちゃっていると悔しいという思いをするべきでなかったのにしてしまったと。
これが一番強く出るのがやっぱり大事な人を亡くした時だという。
悔やんでも悔やむきれないって言いますよね、日本人は。
そしてこの状態は非常に対象創出的でもあるし、
欲打つ的でもあるっていう方だということだと思うんですけれども、
結構ですね、私ペットロスみたいな話でも昔私が知っている大学の友達の女の子が
そういうのをすごい盛んに言っている人がいたんですよ。
絶対なるのになぜか飼ってしまうけど、これがあんまりにもきついから
飼うべきじゃないのはわかっているんだけど、飼っちゃうというわけですよね。
人より長生きする生き物ってそう多くないですからね。
鶴とカメとかそういう世界になっちゃうんで、
まあまあカメは長生きするんですけど、
だから私は全く意味がないだろうなと思いつつ
カメを勧めてみたことがあるんですけど、
検討はしておくっていう話をされたことがあります。
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ただカメもよっぽど上手に飼わないと多分200年とか生きないと思うんで、
確かに最長で結構長生きするんですよ。
でもやっぱり50年とかで死んじゃうケースはありますし、
もっと早く死んじゃうケースもありますからね。
強いとかいうわけじゃないんで、寿命が長いっていう話ですよね。
犬とかに比べれば犬とかは間違っても100年とかは無理なんで、
そういう意味ではあれだと思うんですけれども。
で、悔やむですよね。
つまり2つだと思うんです。
過去というもののイリュージョンに囚われた時、
攻める対象が2個あって、1つが悔しいなんですよね。
これは外に向かっているんだと思うんですよ。
過去の罪悪ですね。
これを抜粋することができなかった。
で、悔しいと。
これここまでなんだと思うんですよね、私が思う。
これについて、こうするべきだった、そうするべきだった、
こういう風にすれば今からでも間に合うかもしれないとか、
そういう意味で、
こういう風にすれば今からでも間に合うかもしれないとか、
そういう論理は成り立たないと思うんですよ。
これはあくまでも過去の何かについて、
もう落ち着かないという感情を表明しているのであって、
最大ここまでだと思うんですよ、悔しいまで。
悔しいというのは悔しいと言っている段階で取り返したいという気持ちなんだけれども、
取り返せないという表明でも同時にあるわけですよね。
だから悔しいんですよ。
取り返せるなら多分この人は悔しいという表現ではない、
違うことを言い出すんだと思うんですね。
今からでも遅くはない系だと思うんです。
悔しいと言っている時には、これが本心であればですね、
もう取り返すことはできないから悔しいということなんだと。
取り返すことができるのに、
そして取り返す気満々なのに悔しいという感情には多分ならないんだと思うんですね。
いっぱいありますよね、悔しいだって。
一方間違うとですね、野球とかで、
これ完全におかしいじゃないですか。
昨日あそこで逆転することができたのに悔しいって、
お前その試合出てないからみたいな話じゃないですか。
だから人はこういう時に投影というものも同時にやっていくんだと思うんですけど、
VR的ですよね。
自分をそこに登場させてみて、
ここで一発打てば逆転できたと。
でもできなかったから悔しいわけですよね。
で、そういう自分が本当は解剤できてもいないものに入っちゃってる悔しさは、
多分絶対その人を病気にはしないと思うんですけど、
例えばこう、お友達に四字打ち打てるのにすっぽかされた悔しいみたいな。
これよく、これも私の大学時代の友達の女の子がよくやられていて、
非常に悔しがっておりましたけど、そういうことですよね。
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あの男に何とか罰してやりたいっていうわけなんですけど、罰せないんですよね。
これは過去の問題というよりは強さの問題で罰せないと。
そういう問題もあるんだと思うんですけど、
いずれにしてもこれは攻撃を外に向けて、しかも過去に向けているときの感情なんだと思うんです。
これが自分に向かった場合が罪悪感だと思うんですよ。
あの、悔しいというのではないと思うんですよね、これは。
多分、一つには恥ずかしいが当然ありますよね。
自分に向かった場合はこれが恥ずかしいになる。
だからルース・ベネリクトさんという方が聞くと刀で、
罪の意識と恥の意識、あれ面白いですけど、
罪の意識と恥の意識を別に日本人が分けているわけじゃないと思うんですよ。
この恥ずかしいには多分に罪の意識が含まれているケースが多いような、
100%ただ外分が悪いというケースもあると思うんですけど、
多分そうではないと思うんですよね。
それもやっぱり同じで、あの時こういうふうに振る舞っておけば
あんなひどい失敗をしでかさずに済んだのに恥ずかしいというわけですよね。
恥ずかしいと悔しいは、ただ内に向かっているか外に向かっているかの違いであって、
本質的には過去の何かを攻撃しているので同じことなんで、
これをやるとですね、身体に悪い話をコルチゾール系で散々したんですけど、
それよりも膨らんでいくんだなということが、
最近私が気にしていることの方ですね。
本来、爬虫類脳って私が時々言いますが、
変動体って爬虫類脳なので、魚類とかにもあるんで、
メダカとか見てていつも思うんですけど、
ビクッとしてどっかにサッと行くんですけど、
即普通に泳ぎ出す、あの感じを見ていると、
何のイメージも持ってないな、こいつらはと思うんですね。
つまり変動体というのはそのレベルでしか機能しないものであって、
恥ずかしいだろう、悔しいだろう、そのイメージと感情と情緒を伴うのは
絶対大脳がやっていることなんですよね。
そうすると起点は変動体なのに、あるいはこの時エネルギーを発揮したのは変動体なのに、
後のことは全部大きい方が頑張ってイメージを膨らませていくんだと思うんです。
このイメージを膨らましていくときに、つまりそれは過去のことだから、
これが現在のことと全然違うんですよね。
現在だったらドンとやられてビクッとして終わっているわけですよね。
現在ってそういうものだから。
でも過去のことだと、過去は現在という現実の条件に左右されないじゃないですか。
だから何でもできるじゃないですか。
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この何でもありなのが問題なんだろうなと思うんですよ。
何でもありということはそのイメージをどこまででも膨らみうるわけじゃないですか。
再現がなくなる。
いろんな制約もないから、現実の制約もないので、いくらでも広がっていくわけですよね。
それでテポドンなんだなと。
テポドンが落ちた方がいいのにって思うのって、とてつもない広がり方をしているわけで、
多分僕が思うに、すっぽかされて悔しいとかも間違いなく肥大化しているんだと思うんですよ。
ものすごい肥大化ぶりだなと思うんです。
過去に悔しいから攻撃をしたいというのはリベンジなので、
自分が恥ずかしい思いをした場合でも自分にリベンジをしたいわけなので、
これが多分原動力となって、自分に対するストイシズムを編み出すんだと思うんです。
他人に復讐する時ってすごいじゃないですか。
僕昔子供の時に創価兄弟という子供用の復讐物語を読んだんだけど、
すごいなと思ったんですよ。
とにかく復讐に向かうエネルギーが尋常ならざるもので、
実にあれは計画的だったんですよ。
あれは鎌倉時代の話なんだと思うんですけど、
もしかすると元平合戦頃の話だと思うんですけど、
あんな話がまだ受け継がれているというのは、
本当にただただ復讐物語なんで、
親父を殺されたからその親父を殺したやつを子供の時から兄弟で復讐して殺すことを誓い、
原に殺すとやったっていうそういう話なんですよね。
これがあれほど多くの人の心に響いたということは、
これはよっぽど甘美なものなんだなと思うんですよ。
この甘美さを手放せないんだと思うんですね。
物語というのはまさにイリュージョンじゃないですか。
そういうイリュージョンをみんなで共有していって、
復讐というものがすごく人の心を満足させるところがあるというのがテポドンなんだなと思うんですね。
非常にノープランじゃないんですよ。
ノープランで復讐って絶対できないと思うんですね。
相手だって復讐されたくないわけですからね。
だからすごくこの形を構造上作り出すというのかな、
復讐したい対象があり、過去にですね。
それをイリュージョンで強烈に膨らましていって、
未来の計画を作り、自分を鞭打ってその復讐を達成するというプランですよね。
これが悔しさ、方言動力とした一つの計画達成モードってやつなんだと思うんですけど、
18:04
これから逃れられたらいいなって本当に思ったんです。
ここ数日で。
だってこれ本当にそれはさぞ満足をするのかもしれないけど、
全然なんて言えばいいんですかね。
ここで生産的という言葉を使うのもグッドバイブス的ではないですけど、
何点かな、あんまりにも何もない感じがしたんですよ。
結局これは親を殺されたから殺すっていう話で、
鬼滅の刃ですねっていう感じなんですけども、
ある意味しかも昔、祖学四大読んだ時に感じたんですけど、
壮大であればあるほどいいみたいな、
ちなみに僕も読んだのは多分6歳とかの時なんで感動はしましたよ。
なぜこれを思い出したのかというと、
多分自分が今そういうことについて一生懸命考えてるから、
自分の思い出に関しては、
これはエリプスだなって思うんですよ。
エリプスコンプレックスだなと。
父殺しなんだなっていう。
父殺しっていうのは本当に象徴的で、いろんな意味があるんだけれども、
やっぱりこう、甘々な世界から男は脱さなきゃいけないっていうのが、
ある程度強いられているし、また期待もされているんでしょうね。
そういう意味で、
エリプスコンプレックスだなって思うんですよ。
脱さなきゃいけないっていうのは、ある程度強いられているし、
また期待もされているんでしょうね。
じゃなきゃ親はあれ買ってこないと思うんですよね。
話知ってるわけだから。
しかもそんな幼い頃の私に読ませるというか、
やっぱりそんなに何をどう教育したいとかいうのはなくて、
すげえ適当な気持ちの中で、
ああいうものを読ませたり見させたりするんだと思うんですけど、
でもやっぱりそういうのって絶対入ってくるんですよね。
指導精神みたいなやつ。
かっこいいみたいに思うように。
だってそう書いてあるわけですからね。
本当はこういうことしちゃいけませんよっていうことをわざわざ教えるためなら、
そもそもあんな本読ませなきゃいいわけじゃないですか。
絶対にあるわけですよ。
あったと思うんですね。
うちの母なんかにありそうなタイプだって。
だから自立して男が生きていくというのはこういうことだと。
全然こういうことじゃないですけどね。
鎌倉時代ですからね。
1000年前じゃねえかっていう感じなんですけれども、
そういうことなわけですよね。
結局そういうリベンジみたいなもの、
リベンジをてこにした、
うんと遠い未来に左右するための
壮大な復讐計画みたいなものって、
実に受けがいいと僕は思うような気がします。
やめられなくなるみたいなところがあるんでしょうね。
過去の自分に復讐したい、
昨日ちょっとお話しした何者かになりたいというのは、
21:00
つまりはそういう部分を含むのかなという気がします。
だからこれをやめるときにどうしてもネックになってくるのは、
あの時俺をいびったあいつをのさわらせておいていいのかと。
結局これ何者かになってものさわらせ続けることになると思うんだけれども、
とはいえ何か見返せた気がするじゃないですか。
やっぱりしょうもなくいじめられる子だったけど、
実はすごい人間だったということになって、
相手には絶対伝わらないと思うんですけど、
心の中の相手にこれ見たことがと言いたいんじゃないかなというところがある。
これはよくわかるような気がするんです。
僕も小中学校、特に中学校時代はしょうもない存在って感じがあったんで、
ただこれもやっぱり思うんですけれども、
思い出そうという努力をしなければ薄れているんですよね。
だからこの意外にリベンジだの、
それこそ武士道みたいなやつとか、
計画精神みたいなのって古臭いじゃないですか。
この古臭いのをどちらかというと意外に20代中盤から後半の人が持ちやすいというのは、
そういうこともあるのかなという気が少しします。
つまり彼らの方が記憶力がしっかりしているし、思い出しやすいですよね。
私も50近くなってきているので、そもそも過去の人たちが
鮮明に思い出そうという気が虚しい感じがしちゃうんですよ。
なんかそれ大昔のことのような気がしてきたなと。
一方が違うと、特に最近金やりで写真とか見るんですけど、
小学校時代の写真とか見ると以前の印象とだいぶ違って、
自分じゃないような気がだんだんしてきているんですね。
別人なんじゃないのかという感じがあって、
本当にただの事実になっていく記憶というのはそういうものではないんですけど、
ただの本当にこういうこともありました、以上みたいな、
そういう人の記録であってもあまり変わらないんじゃないかみたいなところがあります。
これは多分自分がそれほど不幸じゃなかったから、
こういうことが平気で感じられるんでしょう。
だから、でもむしろましてだと思うんですよ。
忘れられないとか、悔しいから何としてもリベンジしなければならんというなら、
そこはグッドライブス的にはあれですけど、しょうがないという部分も多々あるじゃないですか。
でも、そうじゃないならば忘れるに限ると思うんですよね。
思い出さえそうという努力をしなければ思い出せないようなものであるならば。
最近もう一つ、これはもう別テーマになっちゃうんで深入りしませんけど、
思うんですよね。前をテーマにしていても同じところに行き着くんですけど、
24:01
なぜ私の方が妥協しなきゃならないのか、情報しなきゃならないのかって、
グッドライブスでは昔ぶっちゃけ相談にいただいたことがあるんですよ。
右の方を差し出し、2人で相談して、
左の方を差し出しなきゃいけないのかみたいな聖書みたいな話なんですけど、
犠牲的精神っていうのって全然全く甘えになってないわけですね。
甘えの世界というのは、ベースは、原点は母子一体なわけで、
母が子供を甘えながら、子供を甘えながら、
母子一体なわけで、母が子供を甘えさせるときに、
私が犠牲になっていると感じるということは、
すでに全く甘えではないということなんです。
本当は物理的なところに持っていくと、あんまり意味がなくなるんですが、
一番簡単にわかるのは本当に一体だったときなんですよ。
自分のお腹の中にいるんだから、
その子のためにいいことは自分のためにいいことですし、
その子にとっていいことは母親にとっていいことですよね。
ここはもう間違いないと思うんです。
一体であればここに疑問の余地はないと思うんですよ。
つまりこれどういうことかというと、
切り分けてしまったら、そのようなものが成立する理由がどこにもなくなるんですね。
意識の上の問題で言っても、
例えば右手をいっぱい使って左手は得しているって思ったら、
どうにもならないじゃないですか。
どっちか危機なんだから。
そういうふうに人はわざわざ考えないんですけれども、
分けて考えるのはそういうことですよね。
だえてやると。
いつも左は休んでていいよなっていう、
いつも足使ってボール投げないけど字書いてるのも俺だぞみたいに、
なぜ左のほうを優先して甘やかしている必要があるんだって、
そういうふうに言うんであれば、
この不公平は是正のされようがないんですよね。
一体って、そのような観点自体が成立しないところに一体がある。
現に大抵の人はそういうことについて一時期考えたことはないと思うんですよ。
もっと左右を公平に扱ってやらねばならんとかって思わないと思うんですよ。
思うとすれば分けたってことですよね。
自分自身であるのにも関わらず分けたってことですよね。
母子もそうじゃないですか。
一体なんだったんだけれども、
一体だけではやっていけないからここで分けると考えると。
甘えってのは一体に戻すっていう話がここに必ず含まれるので、
どっちかにとって有利だ不利だってのはないわけですよ。
左手にとって有利だ不利だとかってのはないと思うんですよ。
それがあるってことは分けてるってことだから、
分けてるってことは甘えじゃないっていうことなんですよ。
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私たちの世界は甘えだけでは成り立たないので、
必ず甘えじゃないっていうところが頻繁に発生するんですけど、
その時に甘えというものを成立させても大丈夫なシーンは
全部成立させとければいいでしょうと。
左右の手を分けて考えることはありますよね。
左投手とか右投手とかっていうケースはありますよね。
だけで考えなければ成立しないケースっていうのはあるわけで、
その時は一体じゃないっていうことをわざわざ意識するんだけど、
こっちのほうが例外なんだと思うというか、
こっちのほうが例外だっていうのが一つ意識っていうことなんだと思うし、
母子一体っていうことでもあるわけで、
一体の時になったら私のほうがこれで損をしているという観点は消滅するんですよね。
どっちの観点が常に固定化されていなければいけないという、
それこそ法則みたいなものはないわけですから、
この話がリベンジを忘れるのに本当は役に立つと思うんだけど、
多分この程度のことではそれこそ甘いので、
もうちょっとことがテポドンを望むレベルになってしまったら必要なんだろうなというふうには思います。
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