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おはようございます。働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト、第1075回をお送りします、だと思った。
10月21日月曜日、15時47分。だいぶよくわからない時間になっておりますが、いろいろと今日もあったわけですね。
めっきり寒くなりまして、つい先日までは寒くて暑くてここでやってられなかったんだけど、もはやちょっと寒くてここではやりにくくなっているという。
別にそんなものは全然結構ですので、気を取り直してやっていきますけれども。
3ヶ月チャレンジ。第8期の3ヶ月チャレンジを10月、もう来週からスタートします。厳密には3ヶ月なので、11、12、1なんですけど、それに前後1週間ずつ追加して第8期。
第8期は多分特殊で、この絵をやるのは第8期だけだと思いますけど、第8期やります。
今日はもう第3ヶ月チャレンジとは何かっていう話だけをさせていただこうと、その中に本題が山ほど入ってくるに違いないからそれでいいやということですね。
これは何をするのか。働くメンタルを取り戻す、働く心を取り戻すんですが、働く心というものは私たちが赤ちゃんの時からですね、どこかで欲打つポジションという、言ってみれば大人の心、相当ざっくり言うと大人の心を手に入れる。
それ手に入れるのは大体、知らんけど、2、3歳児、遅くても4、5歳児だと思うんですね。
そこ以降働く心は手に入ったと。私は欲打つポジションとはすなわち働く心だと思っておりますんでね。
だから4、5歳児でも働けるってことですよ。
6、7歳児と。金は稼げないかもしれないし、働かないかもしれないけど、心は働けると私は思っております。
そういう心をなぜか見失うということが実際に生きていると起こるので、そしたらその時の心を取り戻せばまた働けるようにはなります。
働かなくても別にいいんだけど、働けるようにはなっといたらいいんじゃないだろうかというのが、このPodcastの趣旨でもあるし、3ヶ月チャレンジの大目標なわけです。
大目標というのは、実際には何を目指すかはその人その人次第だし、3ヶ月後にどうなっていたいかはましてその人次第なので、
僕が一応掲げるのはここから逸脱しなければあとは何でもいいだろうっていうような含みがあるわけですね。
ここから逸脱しないというのは、つまり働くメンタルを取り戻すという趣旨と逆行するとかね、それを無視するとか忘れ去るってことさえ起こらなければ、
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OKでしょうというふうに考えております。
例えばですね、私はそれをやってませんが、夫婦カウンセラーみたいな言葉ってあるじゃないですか、それはいいんですよ。
つまりどういうことかというと、夫婦の関係が良くなるというのが働くメンタルが取り戻される方向と合致していれば、
3ヶ月後の目標は家庭内不安を何とかしたいでもいいわけですよっていう話ですね。
3ヶ月後の目標が不登校のお子さんを何とかしたいというのも、これもありなんですよ。
働くメンタルを取り戻す方向と合致していれば。
僕の中ではその大目標、すなわち結局それは翼打つポジションの中でも、
特に働くメンタルと関係がある部分が戻ってきているという感じが抱かれる方向に向かっていけばいいのであって、
そのために傾聴とかするんですけれども、それはですね、ラポールを確立するとかそういうことではないので、
これは心理医者をやっているわけではないので、およそですね、私はどこに望まないという基本姿勢があります。
つまり病気であるとは考えません。第一見当として。
お話を伺う人が何かの病理であるなどとは考えない。
もちろんそれが病理と被る可能性はあるし、私が〇〇症、〇〇神経症かなあみたいに思うことはあるでしょう。
それはありますよ。別にだってそれ、参加者にじゃなくてもあります。自分自身についてだってあります。
でもそう思うということとそれをアセスメントするということは全く別で、
私は別にICDとかDSMに減らし合わせて〇〇、〇〇とか、
たとえそれが対象関係論的に見て、精神分析的に見てですね、
境界性人格障害っぽいとか考えることがあったとしても、そのようにアセスメントすることはないです。
これは医療目的でも心理カウンセリングをするわけでもないので、だから私はあれなんですよ。
世の中にノラカウンセラーって言葉がありますが、という意味では私はノラカウンセラー未満。
未満って、要するにお前は何者なんだって言われると、ノラの人ですみたいな、そんな感じになっちゃいますけどね。
何者でもない。そこはもう、すっぱり諦めてるっていうか、当面諦めておりますんで、別に何々でも構わないですよ。
話がちょっとずれ、こういう方向によくずれるから、このノラカウンセラー論っていうのはしたくなるんですけどね。
なんかこう定食してくる、いくみたいな、そういうところはあるんですよね、間違いなく。
でも定食するということと定義するってことは当然違いますから、定義してみるとそうじゃないなと。
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どう考えてもアセスメントしないよね、カウンセリングもしないし、心理臨床をやりませんということですね。
やるのは働くメンタルを取り戻す。
そのために精神分析の特に対象関係論のお勉強会みたいなことを主催しておりますということですね。
さっき夫婦カウンセラーっていう言葉を使ったんですけれども、つい最近あった出来事で、つまりですね、
働くメンタルっていうものを考えた際、私はその人はコンテナーになれるってことを意識してるんですね。
このコンテナーって言葉は精神分析のクライン派、対象関係論、特にビヨンって人が確立した理屈で、
最近で言うと遠畑海人さんの雨の日の心理学に出てきたから、しゃべっても全然オッケーでしょうということで、
本格的に一生懸命わつきさんの本とかビヨンの本とか無理やり読んで、読めなくても読んで、分かんなくても読んで、
読んでるうちに分かっていることをここで口走りながら、この口走る相当大事だと思うんで、
口走んなければいけない。間違っててもいいから口走れっていう。
だいたいこれは今時受けが悪いと思うんですけどね。間違っててもいいから口走りましょう。非常に大事だと僕は思いますけどね。
まあいいや。だからそういうわけでしゃべってるわけです。
これをなくできるようになれば働くメンタルは絶対に戻ってくるはずだと私は思っているんですけど、
働くメンタルは働くメンタルを言わなくてもコンテナーとして機能する。
これがつまり翼打つポジションとしての心の機能の私は第一義的に大事なポイントだと思うんですね。
コンテナー、すなわちコンテインドを包める。
包むだけではなく機能させることができる。
オスメス記号で書きます。別にセクシャルなことを考えなくてもいいんですよ。
USBでもオスメスって言うじゃないですか。
刺す側と刺される側というか、包む側と包まれる側というか、
2つで1つ。物理なんでね。2つで1つになったらオスメスしか原則ないんじゃないかぐらいに平常的に。
そういう話になる。これを心に対応。機能させてるんですね。
精神分析は精神のインターコースであるって言ったのはビオンかな。
要するにノンセクシャルなセックスみたいな感じなんですよ。
よくわかんないですけどね。はっきり言ってね。
よくわかんないだろうなとは思いますが、でも私はよく知ってることなんですよ。
やっぱり寺ってある程度機能してるとすると、寺はメスなんですよ。
そこに信者さんが入ってくる。
そうして宗教というものが成り立っていく。何かが生み出される。
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何故か知らないけど何かが上手くいったり、何故か知らないけど病気が治ったり。
全てそういう事柄っていうのは僕は見てきた人間なんで。
ちっちゃい頃から。あれ全部嘘ですって言われても、でも見ちゃいましたからねみたいな感じなんですよ。
それは結構目の当たりにしていて、科学とかを知る前にもう見ちゃったんですよ。
しょうがないんですよ。もうね。
富士山見ちゃいましたと。だって見ちゃったんだから。しょうがないじゃないですか。
そんな綺麗な絵は本当はないんですよとか言われても困るわけですね。
そういうことは起こる。コンテインドはコンテナ。コンテナがコンティングすると何かが発生する。
ってことは起きちゃうんですよ。それも10や20じゃないですかね。
もう1000、2000の世界で見ちゃってるんでしょうがないですよね。こういうものは。見ちゃった以上は。
見たわけじゃないですよ。僕幽霊なんて見たことないです。
が、こういうことは起こるんだなっていうのは、何にも僕の前ではものすごい不思議なことだみたいには思わなかったんですよ。
そんなものすごい不思議だっていうぐらいだったら、自分生まれたのは相当不思議じゃないですか。
そんなことを言うんだったらね。だからそんなに別にものすごい不思議なことじゃないんですよ。
でも僕の病気は治んない。こういうことが起こるんだなまた。非常に不思議です。
僕の平和は不思議だ。不思議だし不愉快ですよね。
俺の病気を治せみたいな気がしますよね。そこに住んでる人間としてはね。
なんで信者さんの病気が治るに子供の病気が治んないのかと。
寺の人間としてはね。つくづく思いますね。思いました。
でもまあそういうことはあり得るんですね。
で、3ヶ月チャレンジでやることなんですけど、何にチャレンジってことでもないんですけどね。
さっきのだから夫婦の会話みたいにしてみましょうか。
してみましょうかというか、今それしか思い浮かばないからそれ話するんですけど。
私はですね。
うまくいかないものがうまくいかないのにそれでうまくいくべきだ理論っていうのは好き。
やっぱりどうしても好きじゃないんですよ。
これ好きな人ってわからないっていう面もあるんだけど。
えっと、なぜそれでうまくいくのかわからないけどうまくいく論の方が好きなんですよ。
なぜかならうまくいってる気がするからですね。
どっちにでもいいんですけれども、やっぱりですね。
コンテイニングというのは公平だっていう論は現代社会ではつきものなんですね。
先日こういうことがあったんですよ。
うちの奥さんのアプローチで電源が入らなくなったり急に再起動が連発したり、バグですわね。
で、改札通れなくなったと。
そういうラインが来てどうしてくれるんだお前と私に投げられるわけですね。
これがコンテインドなんですよ。
女性だからコンテインドになれないとかはないんです。
これがコンテインドなんです。
これを僕もそう思ってたんですけど長らく理不尽だって考えがあるんですよね。
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でもこれを理不尽だと思っても解決できないじゃないですか。
いやそんなこと言われても困るよって言って喧嘩しても喧嘩をすることぐらいしかできないわけですよね。
で、私はその理論が好きじゃないですよ。
理にかなっている公平である理不尽な目に合わない。
だから喧嘩して別れてもいい理論ってのは、私は別に喧嘩もしたくなければ別れたくもないんで、
これを何とかする理論の方が好きなんですよ。
じゃあないじゃないですか、だって。
もうそういうことになっちゃったんだから。
で、私がコンテナーをやれば自体は実にうまく収集するんですよね。
要するに、いいですかこれ。
不愉快にならないとか我慢しないとかそういう話とは全く違うんですよ。
これをそういうことばかりやってるとストレスになって体に悪いとかいう論もいっぱいあるんだけど、
もう全然他の違いだなと。
第一ですね、その場合のストレスとはどこにあるんだってことですよね。
うちの奥さんのストレスなのか、それとも理不尽なことを言われるとみんなストレスで病気になるのか。
全然違うと僕は思うんですよ、それは。
そんなことを言っていたら、赤ちゃんが泣いてます、ストレス病気になりますって、
みんな、親はみんな病気にならなきゃなんだ、あれ結構すごいですからね。
でも、ならない人はならないじゃないですか。
それはストレス耐性が強いとか言い出しても、何の意味もないと僕は思うんですよ。
それはただ、結果に対してある人はストレス耐性がなく、ある人はストレス耐性が強いって言ってるだけで、
それのどこが理論だと思うんですよね。
コンテイニングってのは、やっぱり赤ちゃんの声を包む、少なくとも耐えてるだけじゃないじゃないですか。
親は耐えてもいるかもしれないけど、我慢もしてるかもしれないけど、不愉快なのは不愉快ですけども、
不愉快じゃないと困ると思うんで。
これ先日少しお話しましたよね。不愉快じゃないと気づきませんから。
だって寝てるので、赤ちゃんの声がなんかもう、わぁ、赤ちゃんの声、なんかこう和むは子守唄だわと思ってたら起きないでしょ、親は。
あれは起こすためにやってるんだから、不愉快になるだけは困るんですよ。
だから不愉快にはなるんです。
だけど不愉快になるからストレスで病気になるなんていうのは、話が向こうに行っちゃってる感じがするんですよ。
あのあれと似てる東北震災の直後、ジャリンジャリン、ジャリンジャリン、今でも鳴りますわね。
あれは死のシャープと何とかだって、うちの娘が教えてくれたんですけど、
それはいいんだけど、なんでそんなに死のシャープは嫌な音がするんだろうっていうのは、その後ずっと考えてしまったんですけど、よくわからなかったんですね。
で、その死のシャープだか何のシャープだか知りませんけど、その辺の音がですね、不快じゃないと。
あれが、なんかこう、ウグイスジョンみたいに、チバロッテマリンズの有名な女性の呼び出しの人、今はもう辞めちゃいましたけども、
震度7でございますみたいに聞こえて、すごいみんなうっとりしてたらダメじゃないですか。
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不快にならなきゃダメなわけじゃないですか。
不快になるというのはアラートなんてあって、不快にならないとダメなわけですよ。
で、僕らは、例えばさっきのコンテインドを投げられると不快になるんですね。
で、僕はそれを共感的傾聴っていうのはどうかなって思うんですよね。
共感なんかしてないんで不快になるんですから、共感するんではなく、傾聴はするんですよ。
コンテイニングっていうのは、なんかね、世の中ではなぜそういう無茶なことばかり言い出すんだと思うんですよね。
共感とはそもそもどういう気持ちなのか。
同じ気持ちになったら気分がいいのか悪いのか。
僕はね、それがピンとこないんですよ。
投影と言われるほうがよっぽどピンとくる。
相手は不快になってます。
投影されました。投げられました。だから私も不快になりました。
分かりやすいじゃないですか。
なんでこれは分かりにくいとされるんですかね。
共感しましょうみたいな、共感できないよって感じがしますよね。
共感は後でするもんだと僕は思うんですよね。
不快になりましたと。どうしてくれるんだと。
アップルウォッチがつかないんだよと。
だから私はとりあえず言ったんですよ。
駅員さんに聞いたらいいと。
まあでもこれ無駄だろうなと思ったんですよね。
うちの奥様はですね、そういうのが苦手なんですよ。
共感できないですね、私にはそれは。
いやいいだろうと私は思うんですけれども、聞きたくないわけですよね。
聞きたくないとも言いたくないわけですよ。
だからあんた待つと。俺を待つのかと。
共感できんけどね。
これで向こうのイライラが伝わってくるんですよ。
僕がイライラしたから。これが投影の5日なんですよ。
この方が僕は絶対分かりやすいと思っちゃうんですけど違いますかね。
僕がここにイライラするということは、私がイライラを投げつけられたからである。
投げつけた人はもちろんイライラしている。
ここに同じ気持ちになる。だから投影されたものに同一化するから投影の5日。
僕はこれの方が分かりやすい。
ここで傾聴しましょう、共感しましょう、頑張りましょうみたいな。
それはしかし我慢ではありません。それが我慢だとストレスになって病気になります。
全く受け入れられない。共感できないし。
だからといってストレスで病気になる気はないしね。
なんでそんな話が世の中で普通に出回ってるのか。
あるいはその奥さんはなってないから正しましょう。正せないもん。正せた試しがない。
なんでそんなことができないっていうのはどうしてくれるのかっていうことなんですよね。
正すというのはそもそもどういう意味なのか。私が正しいって意味なのか。
この正しさはどこに侵吸っていうのかな。
訴え出れば認めてくれるのかと。
男女逆ならある種のジェンダー論を持っていけば正しさを訴えることはできるかもしれないけど、
逆に私は男なんで、たぶんこの正しさをどこかに訴えても
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本当に最近困るよねみたいなことを言ってくれる人がいるぐらいで、
それはちょっと物足りないなって僕なら思いますね。
なんでさっきからこの話を言ってるのか。もうちょっと先に行きますね。
コンテーニングしますと。
じゃあ私を待つわけだ。
私を待たないほうがいいと思うんだが、私を待つと何が起きるかというと、
私が駅員さんに聞くわけですね。
これがコンテーニングなんですよ。
この頃にはもはやイライラというものはうまくいけば収まってる。
とにかく言われるんですよ。
ここでまず第一に、
理不尽だと世の中で言われてるやつはですね、
ここでApple Watchが壊れた責任は私にはないだろうという話なんだけど、
責任はないかもしれないけれども、
レスポンシビリティ、応答する必要はあるんですよ、私の考えでは。
夫婦だから。
で、なんで夫婦なんとか夫婦での関係不和とかいう話になった時に、
この理不尽って言葉が出てくるのかが僕にはよくわかんないですよね。
理不尽ってのはありますよ、もちろん夫婦間だとしても。
でも、これが他人だったら間違いなく理不尽なんだけど、
夫婦なんだから、例えばこれが親子ならば間違いなく子供に対して応答するんですよ。
割と自然にね。
で、それが赤ちゃんだった場合もやっぱり応答するんですよ。
ここでコンテナーというのはですね、コンテイニングというのは、
なんていうのかな、その前にまず何が起きているかというと、
置いておけないですよ。
その引き引きと言うにはちょっと大げさか、
でもApple Watchが動きません。
機にも引きたくありません。要するに出られなくなっちゃうわけじゃないですか。
ここである種の恐怖が、強い不快感があるわけ。
で、これを自分で何ともできないということにあまりにも直面してしまうと、
それは彼女にとっては欲打不安になるわけですよ。
私は自分では何もできないんだ、そんなこと思いたくないじゃないですか。
この欲打不安は、おそらく性育歴とかなり関係があると思うかもしれない。
実際にはできますよ、彼女。
でも、できないんだという気持ちに直面するくらいなら、
私を待っている方がマシなんですよ。
この感覚を説明するのは、飛ばしますけれども、
子供はこういう気持ちになりやすいですね。
本気でやれば何とかなるのかもしれない。
駅員さんに泣きつくとかね。
でも、そこまでやらなくても親が来てくれるなら、親頼りますよね。
自分の欲打不安に直面するというのは、非常に厳しい特技があるんですよ。
特にそれが得意分野でないなと思った時ですね。
自分の欲打不安をコンテイン自分でして、
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それに対して説明ね、ノーイングしていく。
知りつつある状態。
今何が起きているのか完全に分からないけれども、
完全には分からないけれども、分かりつつある状態。
Appleが起動しなくなったのはバグで、
これに電源なり差し込んでもらって、
駅員にこの状況を説明していけば、ここは切り抜けられるというのがノーイングなんですよ。
でも、もう怯えているから、Hになっちゃうわけです。
LとHの発動。
Iと憎しみの発動になるわけです。
Iは私に発せられるんだけど、私に対して発せられるんだけど、
愛しているあいつがちゃんとしたアプローチを渡してくれなかったって、
ヘイトに切り替わっていくわけですね。
その時に、私、お前のせいで、
お前がくれたアップルウォッチがこういうことになったんでどうしてくれるんだよっていう、
これはもはや赤ちゃんがグワーって鳴いているのとほとんど変わらないんですよ。
それよりは持ちこたえているけど、ほぼ変わらない。
これを音だからコンテーニングするんですよ。
この説明のどこがそんなにおかしいのかが分からないんですよね。
甘えすぎているとか、
なんかね、古色想然とした昭和のストイックみたいなものが急に出てくるんですよね。
こういう時にね。
いやそれいらないだろうっていうか、それを言っても解決しないじゃん。
特にうちの場合は。
その解決しないという問題は、
皆さんはどういうふうにお考えになるんだろうなっていうのが、
僕が一番不思議に思うところなんですよね。
解決しなくてもいいから正義を通したいっていうのも、
分からないではないんですけど、
例えばそんな目に合わせられるのは、
そんなことを言われるのには耐えられない。
これはもう一つの持ちこたえられなさだと思うんですよね。
お前のせいだと。
お前のせいで。
私のせいじゃないんだけど、
お前のせいだと言われるその理不尽さをコンテインできないというのは、
つまり投げ出してしまいたくなっているわけですよね。
そんなふうに言われる自分でありたくないってことで、
それはもう一つの欲物。
さっき妻が電源が入らないのに、
その状態に何とか対応できない自分に持ちこたえられないっていうのと同じで、
私はそのようにそういう妻を持って、
そういう妻からの理不尽な言いがかりを受け止める夫ではありたくないみたいな感じじゃないですか。
変わらないじゃないですか。
できることなのにしたくないってことじゃないですか。
できることなのにしたくないというのは欲物不安なんですよ。
できなかったらどうしようとか、
そういう自分であるのは惨めすぎるとか、
そういうのは甘やかしすぎているとか、
そういう何かしらの欲物的なものが、
このままいってはまずいことになるっていう感じなんですよ。
例えば親としてこのまま子供を甘やかしてずっとゲームさせていると、
将来まずいことになるかもしれないっていう不安が高まってくると、
もはや何も考えたくないから、
ゲームやめて勉強しろって怒鳴りたくなるじゃないですか。
これは赤ちゃんがうわーって泣き出すのと同じだと、
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僕はどうしてそれが違うってことになって、
そこでは教育とかいう言葉を必要とするのかが、
教育は教育でいりますよ。
でも僕が言いたいのは、
この耐えられなくなって、
味切れてしまうというこの心理現象は、
赤ちゃんが泣くときの心理現象そっくりだという説明が、
私には非常に説得力が高いものに感じられるわけですよ。
で、私はそこで泣いてもしょうがないというのと同時に、
別に泣いてもいいじゃんって思うんですよ。
どうしてそこで泣くのはダメだろうみたいなものが出てくるのかが、
やっぱりわかんないですよね。
赤ちゃん泣くじゃないですか。
しょうがないじゃないですか。
泣くしかないんだから。
泣かないで頑張れるかもしれませんけれども、
今は頑張れないときは泣くんですよ。
それでいいと思うんですよね。
そこで泣くべきではないとか、
心を強くしろとか、
そういうことを言うときに、
自分も赤ちゃんに近い状態になっちゃってるというのは、
ますますどうかと思うんですよね。
だからそこで頑張れるなら頑張るといいし、
頑張れないなら泣けばいいし、
どこかで誰かがコンテインすればそれでいいと思うんですよ。
と考えることができるようになったところで、
コンテイニングがスタートする。
これがスタートすれば別に対処できなくてもいいですよ。
どうせ改札から出られるに決まってるじゃないですか。
お金払ったりなんかすればね。
ここまでいければ喧嘩にはならずに済みますから、
ここまでいければ何もしなくたって別にいいんですよ。
スマートな対策が打てなくたって別にいいんですよ。
なんなら駅員さんに泣きついて、
なんとか出してもらえばそれでいいんですよ。
どうしてそれじゃいけないのかがわからないんですよね。
共感とかはこの場合はいらないと僕は思う。
共感は後から出てくるものですよ。
平帳とコンテイニングだけを取り合えず
努めていればいいんじゃないかと思うんですけどね。
これはもう本当に、
現代社会ってやつはここにストレスを貯めて
病気になるのを持ってくるんですよね。
そういうことばっかり言って奥さんの言うことばっかり聞いてると
ストレス貯めて心臓痛めるみたいな。
なんでそういう怖い話を。
怖い話じゃないですかそれって。
得体が知れないし。
ストレスがどのくらいになると心臓がどのくらい痛むのかって
分かりもしないのにそんな話をどんどんどんどんされていたら
ものすごく気持ちが深刻になってきちゃうと思うんですよね。
だったら離婚した方がいいかなとかって
そういう話になってくるじゃないですか。
たかだかアプローチがつかなかったってだけなのに。
これがそんなことごときにコンテイニング言うのも
学術的すぎてめんどくさいかもしれませんけど
私はこれが一番シンプルで
シンプルというか分かりやすいと思ってるんですよね結局ね。
だから東映ドイツ課が起きました。
同じく不愉快になります。
だから私が目が覚めます。
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それしてできる対応は全部やる。
コンテイニングなんでね。
赤ちゃんをあやすために泣いてる赤ちゃんをあやしきるまでは全部やる。
これが応答ですよね。
責任というかもしれないけどとにかく応答ですよ。
対応する。対応しきるまで対応する。
そこで頑張れるってことが働くマインドだってことなんですよ。
こういうふうになってくる。
働く心っていうのはそうやって戻ってくる。
ここでこらえられないで自分も投げ出したくなる。
投げ出されてきた理不尽な言いがかりを相手に押し返す。
押し返すといわゆるPSポジション同士の喧嘩になると。
そういうことが起きると。
この状態ではずっと仕事してるのはきついだろうなってこと。
なので大目標としてはこれを掲げつつ、
3ヶ月チャレンジではこういう話を山ほどしますと。
全部基本的にはこういう理論を話していく。
それによってそれに沿っている臨床例ってことになるのかな。
いわゆる実例ですね。
現実の話を持ってきて、
これがどれほど世の中で適用しやすいかってことを知っていくことが、
私たちがコンテーニング、そして経営、
知っていくってことですね。
知りつつあるっていう状態を心の中で維持できるようになる。
あとはもうその心に任せておけば何とかなると思うんですね。
解説を出てしまえば、悪かったねとかって言われるんですよ。
これがPSポジションですね。
ここで共感できる気が僕はするんですよね。
だから共感というのは、
傾聴と同時には起きないと私は思います。
傾聴しているときは不快だし、
それを自分のコンテイナーを使って何とかこう、
何とかこう、出来事を言葉に、
出来事を象徴に、
出来事を物語に。
だから話としてはつかなくなった。
つかなくなったのは私のせいかもしらんけれども、
私のアプローチのせいかもしらんけれども、
そもそもそういうのは言いがかりなような気もするけど、
それに応答するのは私たちが結婚生活、
結婚関係にあるからで、
っていうことを全部知ってるよねってことですよね。
忘れてしまったら赤の他人に言われてるようなもんだから、
到底耐えられなくなりますよね。
だけれども忘れてないから、
KだからLとHに引きずり回されそうになるんだけれども、
いやこれほんと勘弁してよみたいな、
それHですね、ヘイトですね。
LとHが前面に出つつも、やっぱりKで頑張る。
それをノーKとか、
いやいやもうお前のこと知らんからみたいな、
あんた誰みたいな感じに、これがノーKですね。
もう知らんという、私は何も分かりません。
とにかく腹が立ちました。
Hで行きますみたいな、
私だけ解説から出て帰りますみたいな、
それをやると結構後々すごいことになりますよね。
LとHが吹き荒れるんで。
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あとマイナスKという考え方も、
ここではあんまり持ち出しても分かりやすくならないから、
マイナスKはまた後日にしましょう。
サンチュアルに入っていただいたら、
こういう話は山のようにいたしますんで、
もうしたくてしたくてしょうがないようなところが
僕の中にはきっとあるんでね。
別にこれがしたくてやるんじゃないんですけれども。
これを精神分析の人たちは、
僕はみんな詳しく知ってるってちょっとどっか思い込んでるんですね。
だからこれを語る義務があるとまでは言いませんけれども、
義務はないけど、やっぱ語ったらいいのにって思うんですよ。
LとHの話が多すぎると思うんですよね。
そしてLじゃなかったらもうやってられないんですよ、
みたいな話になっちゃってるという。
行為があるからやるんでしょうみたいな感じで。
しかもお互いが理不尽なことを言わないから
頑張れるんだっていう話になっちゃってるんだけど、
そんなはずはないと思うんですよね、やっぱり。
赤ちゃんだから我慢できるっていう論って
僕には全くよくわからないんですよ。
いつ赤ちゃんに対して我慢しなくなるのは
何歳からなのだろうっていうのもあるし、
関係というのはですね、
自分が溢れ出してしまうことってあるじゃないですか。
不機嫌論みたいなのもそうなんだけど、
不機嫌を巻き散らしてる人には距離を取りましょうみたいな。
自分不機嫌を巻き散らしてる時はどうすんだよって思うんですよ。
これは自分は絶対不機嫌を巻き散らしませんから
っていう自信があるのかもわかんないけど、私はないですね。
だから不機嫌を巻き散らすじゃん、自分だって。
その時には人にコンテインしてもらうしかないわけじゃないですか。
と僕は思うんですよ。
自分がコンテインドになってしまうってことは、
今後永久にあり続けると僕は思うんですよね。
歳を取る、認知症になるってこともあるし、
いろんなことがありますよね。
自分で自分のことはできなくなる。
というか自分で自分のことなんか今だって全部はできませんけれども、
つまりコンテインドには自分はなるんですよ。
なんかこの論を聞いていると、
自分はコンテインドにはならない。
ずっとコンテーナーになり続けている。
とても理不尽だって。
それはずっと本当にそうならばそうかもしれないけど、
生まれた時は少なくとも親にコンテインしてもらったはずですし、
生まれた時からすっくと立ち上がりましたっていうのは僕は信じませんから。
当然誰かが何かをやってくれたはずだと思うんですよ。
自立してからやってもらってないっていう意見なのかもわかんないですけど、
それはなんかこうおかしな話だと思うんですよね。
やっぱり突然自分が空中にボンと生まれたのではないんですから、
なんかやっぱりこうコンテインされるっていうことなくして、
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生まれてくることもできなければ生きてくることもできないし、
多分生きていくこともできないんだと思うんですよ。
だからそれは誰がコンテナーになってもコンテナーになる人は理不尽なんですよ。
そういう言い方をするならばですね。
本当はそうではないんですけれども、
コンテインドはコンテインドされた瞬間に何かをコンテインしているんで、
赤ちゃんがお母さんのおっぱいを吸った瞬間にお母さんのおっぱいはそれによって活かされるんで、
私のこのホットキャストは皆さんが聞いてくれた瞬間に活かされるんで、
つまり喋ってる私はコンテインドなんですよ。
でもこれがあると助かるんだっていう人にとってはこれはコンテイナーなんですよ。
こういう関係にない関係は世の中に一個もないんですよ。
だからやっぱりいつも同じことを喋ってますが、
これが働くということにおいては、
働くとはそもそもこういうことだと思うんですよね。
コンテインすることなんですよ、働くってこと。
コンテインしない働きは働きではないと僕は思いますね。
コンテインしないのにお金くれないんですよね。
お金もらうということはしかもコンテインされるってことでもありますよね。
お金によって助けられるわけですからね。
これがギブアンドテイクだって説明になるのかもわからないんですけれども、
そしてギブアンドテイクでもあるんですけれどもね。
でも僕って取るものじゃないじゃないですか。
なんかやっぱりもらうものですよね。
おっぱいももらうものですよね。
で、視聴者に聞いてもらうんですよね。
なんか聞くのを取れないじゃないですか。
聞けみたいな。
このポッドキャストを聞かないと何かもう二度と話すことはしませんみたいな。
そんなこと言ってもしょうがないと思う。
これがつまりやっぱりヘイということと、
コンテインするということが物理的なやりとりでないならば、
子育てをするとか抱っこするとかそういうことでないならば、
仕事であるならば、ある状況について説明するというコンテインは
ものすごく頻繁に使われていると思うんです。
現に心理カウンセリングだというのは思いっきりそれですよね。
あなたにはこういう個々こういう状況にあるんですと説明されるかどうかわかりませんが、
要はそういう説明を求めていくと思うんですよ。
ご夫婦カウンセラーなんていうのも思いっきりそうで、まんまそうですね。
ご夫婦は個々こういう状態にあって、今難しくなっていますっていう説明をされる。
これがコンテインするってことですよ。カウンセラーがコンテインする。
それを聞いて夫婦はお互いがどうやってコンテインし合うかっていうことについて知っていくってことが、
自体を打開していくんだと思うんですよね。
私はその先に働く意欲が戻ってくるってことがあると思ってるんで、
夫婦カウンセリングをするわけでは全然ないんだけど、それに準ずることをする可能性はありますよね。
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で、それによって働けるようになる。
正直言うと夫が奥さんのために何か動くっていうのはコンテインするっていうのは働くってことなんで、僕の中では。
その場合多分収益は1円も発生しませんが、それでいいんですが、でも働くんですよ。
それが働きですね。
生理中で子供の面倒が見れないから、いつも奥さんが作ってるお弁当を下手でも何でも夫が作るって、これがコンテインですよね。
非常に見えやすいところで言うと。
で、そうすると当然奥さんはコンテインされるけど、お子さんもコンテインされる。
この状態が壊れると家庭っていうのはかなり厳しくなると思うんですよ。
非常に単純に、いや俺はもう弁当とか作れないから、弁当作るくらいなら家出るからみたいなことになると大変なんですよ。
でもそれは2つの意味がまた同時にあると思うんですね。
そのようにして夫はコンテインできるはずのところを放棄した。
瞬間にこのご主人は実はコンテインされていないっていうことを悲鳴を上げてるって感じがするんですね。
だからここで何が理不尽でどっちがいいっていう話をするのは無謀な感じしかしない。
それによって分かれるってことはやむを得ずあるのかもしれないんですけれども。
ここでやっぱり、夫はなんでそういうことを言い出すんだろうってへい、迫っていくべきだと思うんですよ。
知りつつある状態。分かんないですよ。
結局のところご主人が何考えてるのか究極的には分かんないんだけど、本当のことは分からないんですけれども、
でもこれを言い出すって相当だよねって感じはしますよね。不快になりますよね。
そこをコンテインしようとすればですね、不快になるんですよ。
この不快は投げられた不快であり、すなわち東映ドイツ化が起きるんですね。
そんなことを言って捨て台詞を吐いていなくなるんだったら、もうそんな家庭はこっちから壊してやるってなって、
まったく同じ心理状態がそこに出現する。
夫が捨てたという事実が、自分が捨てるという事実を生み出すんですよね。
そうして崩壊する。
でも崩壊を食い止めたいと思うならば、hをヘイトで行くんではなくて、やっぱりここはkでノーイングしていく。
一体全体、そのようにいきなりかどうかは知りませんが、
言い出して、弁当作るくらいなら家出てやるって言い出す。
これはもう悲鳴に近いんで、こういう赤ん坊の悲鳴のような声を聞いたという事は、
何かを非常に強く求めているという意味のはずなんです。
これを理解しようとするっていう話。
理解の妨げに一番なりやすいのはこういう時にマイナスkってやつで、
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いや、あの夫は元々サイコパスだった。
こういうふうに、どこかで聞いたことがあるような知識を。
これ結論じゃないですか。
マイナスkとkの最大の違いは、kは結論が出ないって事なんですよ。
マイナスkは結論なんです。
答え。
夫は元々サイコパスだった。
これはもう分かってるって事になってしまうんですね。
本当の事は分からないとさっき、
プラスのkの差のグッドファイブスからの言葉を引用してるんだけど、
本当の事は分かってるんだ。
夫はああいう人間なんだ。
毒でもないんだって事で、切れるんですよ。
マイナスkというのは、kの妨げになる。
そしてlとhのどっちかを正当化する。
そのために使うんですね。
自分で自分を騙すんです。
真実だろって言われても、真実はないんで。
我々に真実は分からないようにできているんで。
知りつつある事ならできる。
頑張って頑張って探っていくと、
実は夫という人間は、
サイコパスとされている人間の特徴を備えているのかもしれないって所までは行ける。
でもそれは事実というのとは違うんですね。
マイナスkなんです。
そもそも我々は完全な素人なんで、その辺の事については。
アセスメントは完璧な形では出来ないんですよ。
出来るって言うならその人は専門家のはずで、
私はサイコパスって言葉は使わないと思うんですよ。
だからやっぱりマイナスkなんですよ。
そういうものっていうのは。
こういう話はよく聞くんですけれどもね。
そしてその最初の不快感に耐えられない。
つまり自分のコンテイナーの中に入れる事が出来ないっていう段階で、
実はそれは欲打つ不安。
これが私はキーワードだろうと思っています。
どんな不安なのか分からない。
本当の事は分からないですからね。
ただ夫に捨てられるかもしれない。
捨てるようなサイコパスっぽさを持っている夫に、
しがみついていくこの未来が不安だっていう欲打つ不安なんですよ。
欲打つ不安は常に未来の不安です。
極めて強い未来の不安。
未来へに何かすごい強い喪失が生み出され、
それによって自分の人生が台無しになってしまうというような不安。
あるいは転落するとか身動き取れなくなるとか、
当てにならない自分が何かダメダメなものに、
例えばお酒とかそういったものにすっかり浸ってしまって、
もう一歩も外に出なくなるとか、
そういう事が頭を揺切り自分を不安にさせていく。
それに耐えられそうにないって時に人はそれを手放すんです。
簡単に手放すんですよ。
こっちがつかないとかそんな事すら手放すんですよ。
手放せる状況にあればですけどね。
手放したところで誰かがそれを拾うと。
その人はそれを拾った分だけ自分がこう、
違和感、欲打つ不安ですから人の。
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違和感とともに不快になるんです。
そこで誰が頑張るかって話なんです。
と僕は思うんですよ。
仕事というのは職場でやる事は全てそうだと思うんです。
拾えれば拾えただけ、
自分の人生とその職場なりその組織なりが
ベターになっていくということを信じられなくなったら
休むしかないと思うんですよね。
辞めるっていうのはその次に来る手段なんだけど、
とりあえず一旦休むと。
自分がコンテインできなくなったら
コンテインの限界にたどり着いたら休むと。
私は仕事をする時はいつもそういう風にします。
自分がコンテインの限界にたどり着いたら休むと。
しかし、たどり着くまではひたすら拾い続けていく。
それしか仕事するってことに意味が認められない気がするんで。
これをやってる限り仕事はしていると自分では思えるんで。
コンテインしているってことですね。
別にそれが自分がすごい苦手だとか、
自分がすごい苦しいとか、
やるのがどうしても耐えられないってことは
別にやらなくてもいいような気がするんですけれども、私は。
ただ、なんか不思議にと極力拾うようにし、
極力無理そうなものを頑張って経営を追求していくと、
コンテナーってのは機能するようになっていくんですね。
これはダイナミズムがここにある感じはします。
夫婦ってのは夫婦カウンセリングっていうのが
今世の中に多くあるのはよくわかるんですよ。
個人主義であり、
威風人とか搾取って言葉を、
つまりそれは全て抑鬱不安から来る言葉だけれども、
そういうものがこれほど言われるようになれば、
夫婦関係って難しくなるだろうと思います。
だからそこをカウンセリングし相談に乗りますって人が
いっぱい出るのはいいことだと思うんですよ。
野良だろうと正規だろうと。
そこの話を聞くってのはすでにコンテーニングが始まるってことなんで、
問題、例えば野良でも正規でも他も同じだと思うんですけど、
コンテーニングする気ないっていう人が
これを標榜するってことさえなければ、
例えば夫婦カウンセラーの話聞きますって言っておきながら、
Zoomかなんかでやっていて、
その間ずっとなんかエッチなサイト見てますみたいなのは
ダメだと思うんですよ、ある意味、非常に。
昔、アンナフロイトさんはカウンセリングをしながら
編み物してたって言うんですけど、
僕はそれ知りませんけどね。
でも編み物はいいような気がするんですよ。
どこが違うのかって言われるとちょっと困るんだけど、
なんていうのかな、
没頭しなくてできることならいいんじゃないかって思うんですね。
何にもしないほうがいいんじゃないかと僕は思いますけど、
アンナフロイトが編み物してんなら、
自分は編み物とか絶対しませんけど、
編み物はいいのかなーみたいに思うんですよね。
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でも、エッチなサイトはダメです。
こっちに集中しちゃうと思うんで、
やっぱり傾聴はいるんですよ。
聞きたくないことを傾聴する、
その時の気持ち、つまり不快感、
多くの場合は、が大事なんですよ。
話がちょっと違う方向行ってますけれども、
なんで、
なんていうのかな、
正規のカウンセラーさんなら、
この時、要するに嫌異が起きるってことがすぐ分かるはずなんですけどね。
なんで、例えばファン座ならファン座でもいいんだけど、
人の話聞いてる時にファン座見たくなるのかっていうのを、
自分の心が探れないっていうのはないなって思うんですよね。
それって、嫌異って言葉を知らなくったって、
なんか考えるべきところはあるじゃないですか。
なぜ、こう、今これを見たくなるんだと。
話聞きたくないからだ以外の答えが出てこない気がするんですよ。
これで、話聞きたくないようでは、
カウンセラーではないじゃないんですよ。
話聞きたくない中で、
カウンセリングをするからカウンセリングなんですよ。
だから僕は共感って言葉が、
こういう時にもふさわしくないんじゃないかと思うんですよ。
いや、ほんとよく分かりますよっていうのは、おかしいと思うんですね。
だって、夫婦でカウンセリングを受けるって時、
1対1か1対2かは知りませんけれども、
両方の言い分に完璧に共感したらおかしいじゃないですか。
目の前の人は喧嘩してるのに。
夫婦喧嘩犬も食わないって言いますが、
聞いてて聞き苦しいなって思うから、
ファン座とかに行きたくなっちゃうわけじゃないですか。
その気持ちは非常に大事だと思うんですよね。
転移ですけど、ある種の転移だと思うんですけども、
この気持ちがあってこそ、
それをどうするかって、
その気持ちになるってことは、
その関係が悪いってことじゃないですか。
つまりそれは東映ドイツ化が起きつつあるってことですよね。
その夫婦の間に何が起きてるのかを、
知るための、
情緒面から知るための絶好の機会じゃないですか。
それを、
その眼前のコンフリクト、対立ですね。
から目を背けてしまったら、
この瞬間に最も重要な手がかりを見失うことになると思うんですよ。
僕もそうよく思ってたんですけど、
戸畑カイトさんが、
カウンセリングはミステリーっていうようなことを、
どっかで書いてるか言ってるかされてるんですけど、
それなんですよ。
せっかくシャールク・ホームズが目の前にヒントがあるときに、
シャールク・ホームズがエッチな雑誌見たりしないじゃないですか。
絶対に。
そういうことだと思うんですよね。
編み物ならわかる。
なんとなく女探偵が編み物しながら、
犯人の言葉を聞きつけるみたいなのはわかる。
なんかやっぱりそこで音楽聞き始めるとか、
それはダメだと思うんですよね。
話が違うだろうって感じがするんですよ。
むしろ音楽が聞きたくなったらどうしてかっていう風に考えられるっていうのは、
偶然だと思うんですよね。
定員なんてことも知らなくったって、
およそ人の話を聞くこと、聞いて何かアドバイスをするってことがなりわいであるならば、
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そこに一番のチャンスが眠ってるって感じが、
する方がやっぱ自然じゃないかなって感じが。
もちろんやり方や流派はいろいろあるんで。
でもやっぱり占いをする人だとそうじゃないですかね。
目の前の人の表情とか雰囲気っていうのを、
特に第一段階の第一印象をつかみ取ろうとするんではないかなと思うんですよね。
初回インテークで全て語られるわけでは、
あるっていう人とないっていう人といらっしゃるんですけれども、
でもそういうことだと思うんですよ。
だから話はちょっといろいろあちこちに結局散乱してるんですけれども、
極端に言うと夫婦カウンセラーを受けるってことがですね、
夫婦カウンセラーの話になっちゃってますけど、
別にこれはたまたまなりゆきで、
一昨日起きたApple Watchのせいでこういう話になってるだけなんで、
あんまり気にしないで、何でもいいんですよ。
親子関係でも不登校でも何でもいいんです。
夫婦カウンセリングを受けるということが、
既に働くメンタルを取り戻しつつあるってことだと僕は思うんです。
だってそれは自体を収集しようとしてますから。
そしてさっき言ったように、コンテインドになった途端にコンテイナーになりますから。
例えばお金払ってますから。
お金を払うためにはお金を稼ぐ必要が出てくるじゃないですか。
本当にカウンセリングが役に立つんなら、
そのお金は稼ごうという気持ちって必ず戻ってきますから。
私の言葉で言うなら戻ってきますから。
それはつまり、働く心が戻って取り戻すってことにつながるし、
自分のコンテイナーというものが再起動されてくるんですよ。
まず奥様なり夫なり、つまりパートナーのコンテインドをコンテイニングするっていう意欲が出てきているし、
またカウンセラーのアドバイスなり、それはコンテインドになりますね。
それを聞く、それを聞いて生かすという。
生かされればカウンセラーは生きますね。
それによって夫婦関係も生きますよね。
こういうふうにできているはずだと思うんですよ。
これを3ヶ月かけて取り戻していきましょうというのが3ヶ月のチャレンジ。
その大発揮が間もなく来週からスタートするので、興味持ってくださいということでした。