1. 働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト
  2. 役に立つものはどう有効なのか..
2024-10-20 1:00:50

役に立つものはどう有効なのか?【1074】

あるがままで支えていることに気づく。
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サマリー

働くメンタルを取り戻すための3ヶ月チャレンジについて、参加者に対するカスタマイズされたアプローチやその効果が考察されています。精神分析の方法とカウンセリングの違い、健常な心の動きについても触れられています。このエピソードでは、デフォルトの心の機能と精神分析を通じた心の回復について考察されています。また、効果測定や倫理に関する議論を通じて、実践的なアプローチが紹介されています。役に立つものの有効性について考察が行われ、具体的な体験と抽象の関係が掘り下げられています。タスクシュートの機能やその活用法が紹介され、ルーチン管理の重要性が特に強調されています。このエピソードでは、母親の役割をコンテイナーとして深く分析し、エディプスコンプレックスについても考察されています。心の傷や自己理解の重要性も取り上げられ、タスクシュートを通じた自己マネジメントと人間関係の調整についても言及されています。役に立つものの有効性についての議論では、当事者の関係や支え合いの重要性が議論され、タスクシュートやカウンセリングの役割が触れられ、助け合いの概念が具体的な行動とどのように結びつくのか考察されています。

3ヶ月チャレンジの紹介
おはようございます。働くメンタルを取り戻す精神分析的ポッドキャスト1074回。本日は日曜日ですけれども、特別編というか番外編としてお送りいたします。
いつもと別に変わらないのですけれども、10月の20日日曜日、朝7時46分です。
早く目が覚めちゃったとかいう、そういう早朝覚醒的なわけでは全然なくて、わけあって今日は早起きしておりまして、日曜なのに。
でも今週はどこかで落とす可能性がとても高いので、先に収録普通にしておこうと。だから番外編とかいうのは日曜だってだけで、
いつもよりもさらに砕けた調子でやりたいなと思ったんですけども、あれ以上リラックスするのが難しいぐらい緊張感ゼロでやって、ゼロじゃないんだろうけど、ほとんどゼロでやっておりますので、
まあまあ、今日も収録決まってないだけにグダグダしていくだろうなと思っております。
はじめに今回はお知らせというよりはPRですね。3ヶ月チャレンジ第8期間もなく開始となります。
で、まだ残席があります。どのくらいあるのかは私にもわかりませんが、少なくともあります。
なので直接PTXからお申し込みいただければ話が一番早いですが、
ちょっとこう、わけわからんということもいろいろあると思いますので、私の特にTwitterのDMをいただければ即座に反応します。結局Twitter結構見てますからね。
Xいっぱい見てますから、DMをください。わからんということで興味がある方はDMをいただければ、もちろんFacebookのメッセンジャーとかでもいいんですけども、
これ聞いてる方には多分ですね、私のことをアクセスしている方は大概Xなんじゃないかと最近思いますんで、
あとノートやればいいのかもなんですけど、ノートにコメントとかってしないじゃないですか、あんまり。僕もあんまり、あんまりというか1回もしたことないような気がするんで、
コメントとかをいただくのは大変私は喜ぶ方なんですよ。対応をすぐにレスするとかしないから多分誰もくれなくなってくるんですけれども、
それはもうあれですね、単に怠惰なんです、本当に。単に怠惰なんです。私はみんなにも勧めていることは自分でもやろうと思うんですよね。
みんなには別にやらなくていいんですよとか言って自分ではしこしこやってるって良くないと思うんですよ、こういう商売の場合。
もう人に極力頑張らないようにしましょうみたいなことを言った場合、頑張らないってわけじゃないんだけど、無理しないようにしましょうって言ったら、
自分も無理しないに限ると思うんですね。だから毎日できないですよねって言ってるのに自分は毎日やるとかっていうのはあんまり良いと思ってないので、
毎日やらなくてもいいんですよという以上はですね、僕も毎日はやらないとかね、即レスしなくていいと思ってたら僕も即レスはしません。
もうそんな感じです。人に勧めている通りに自分も生きていこうみたいに思っているので、
でもXで3チャレンジに関するお問い合わせ頂ければ即レスします。まあそういうもんですよ人間ってのはね。
で、この仕事はあれなんですよ。今収益のことを最優先で考えるならば、やっぱりJ松崎さんとの活動に一本に絞るべきなんじゃないかと思うほど、
時間あたりの収益率みたいなのを考え出すとですね、
3ヶ月チャレンジというのはそんなに割が良いっていうわけでは、悪くはないんですよ。私のやることにしちゃいいんだけど、
そんなにすごい良いとは言い難い。なぜならば、スケールしないやり方ですからね。
精神分析とカウンセリングの違い
これはマッサージと同じなんで、1時間お一人なんで、1時間お一人から頂く分が全てってところがあるわけですね。
これはしょうがないんです。私の考え方として、やっぱりこのみんなに広めるものは限度があって、
だから最終的にこの形式に行き着いたのであって、やっぱり一人一人にカスタマイズする必要が僕が考えるにあるんですね。
そのうち1対2とかはやってもいいかなと思ってるんですが、でもグループセッションもありますし、昨日もグループセッションしたばっかりですしね。
3ヶ月チャレンジにもグループセッションあるし、これは少人数だし、いわゆるワンオンセッションしている方だけが参加。この形がやっぱりいいなと思っているんですよね。
1対他でやることではないんですよ。 だから収益率は必然的に上がらないわけですよね。
それは収益率だけ考えれば100人の方から1500円ずつ頂く方がお互いウインウインなんじゃないですか。
でもそうはいかないんですよね、この仕事をやってて思うのは。先送りなどというのもですね、やっぱり言ってることは変わらないんだけども、言ってることが変わらなくても多数に向けてやるということと、その人に向けて言うことはいろんなところが大きく変わってしまうので、
だから当事者グループみたいなものの効果ってのは実は、そこに当事者しかいないということにあるんじゃないだろうかと話があちこちに散乱しておりますが、要は3ヶ月チャレンジというのは、私はすごいやりがいは感じているんだけど、これはやりがいで多分やってるところがある仕事なんだなと思うんですよ。
で、どうして効果があるのかと言われると、これがタスクシュートとちょっと似てるんですけどね、私の活動は全部似てる、あるいはそもそもあらゆる事柄はそうなのかもなと思うんですが、なんで効果があるんだかはうまく説明できないんですよ、これがまた。
これはですね、音楽を聴いていると、音楽って聴きたくなる人はすごい聴きたがるじゃないですか、ずっと音楽聴いてる人もいるじゃないですか、でもなんで音楽が聴きたいのかって、私はわからないことだと思っているんですよね、ある人がモーツァルトはリズムで聴いてるって言うんだけど、別にリズムだけだったらですね、なんかブラジル音楽とかのリズムが好きな人はブラジル音楽とか聴いてるわけじゃないですか、
でも私は音楽はリズムだけで聴くはずがないと思うんですね、やっぱりね、だってリズムだけで聴くんだったら、やっぱりこうリズムだけでいいわけじゃないですか、そこに音程というものがあるってことはリズムだけじゃないってことを案に語ってると思うんですよね、だからどう聴くかに正解はないんだけれども、聴く人は聴きたくて聴いてるわけであって、それが円歌であろうとですね、尺八であろうと、
すべてわけがあるんだけどそのわけは多分解説できないんじゃないかと思うんですよね、そういうものとちょっと似ている気がします、だから私はそういうことできませんが、その人しか来ないところでその人のためだけに演奏する音楽みたいなのがあったらいいだろうなーって、いいっていうのは何がどういいのかわかんないだろう、いやわかんないんですけど、結構すごいことができる可能性があるんじゃないかなと思うんですよね、
音楽療法ってそういうところありますけどね、なんかそういう感じなんですよね、これはね、だからあのなんでなのかをこれから漠然と説明していきますが、なんでなのかは本当のところはよく私にはわからないという感じが今はします、で、やってることは何かというと精神分析、自主勉強会です、はっきり言って、
それをその人の、だからそれをやってしまうとカウンセリングとどう違うんだってことになるんですけど、カウンセリングではむしろこれをしないってことなんです、で、そのわけなら私にも説明はできます、で、これを説明するってことはカウンセリングではしないはずです、つまり例えば精神分析というところにおいてフロイトの話を抗議的にレクチャーするってことは多分精神分析化はしないはずです、
している分析化がゼロかって言われると、私は知りません、わかんないです、しないことになっているように見えるというだけです、だからクラインがこういうふうに言ってこれはこういう意味で、で、それはあなたの現状にはこういう意味を持っていると思いますみたいなことを僕は言う、それは僕はそれが自主勉強会の一環だと信じているんですけれども、普通精神分析ではカウンセリングではこれはやらないはずです、
やらない理由も僕は一応知ってます、それを今ここでくどくど説明する気は全くしないんですけど、なぜならその人たちがやらない理由を私が説明する理由は全くないと思うんで、えーと、それはしないけれども、やらない理由は僕なりには理解しているつもりです、でも私はそれをする、で、したがってこれはカウンセリングではないっていうこういう考え方なんですよ、今私が採用しているのは。
実際、えーと、なんていうのかな、介入にせよ、アドバイスにせよ、解釈にせよ、行動療法にせよ、CBTにせよ、どれもこれとは違うと思うんですね、似てないとは言いませんよ、似てる部分があるところはありますが、えーと、私がやりたいというか、効果が一番出ると思っているのはぼっぱらこれです、もちろん、えーと、ここがやっぱりカスタマイズなんですけど、その人その人のニードと言うかニーズ。
みたいなものが、全然そういう精神分析の方面向いてないとかいうケースではしないです、しないように最近は特にしています、だからもうもっぱら人生相談っぽくなるケースはありますね、もっぱら仕事術相談みたいになるケースはほぼないですが、もっぱら人生相談っぽくなるケースはあります。
ただ私はその場合に、でも、私自身の意識としては、これは精神分析で言ってるところのああいう理屈とこういう理屈っぽいなみたいなことは、一時意識はしませんけど、あの、頭がよぎる程度にはなってます。つまりそれぐらい、なんていうのかな、何もしていないときはひたすら分析の方に読んでるんで、でもこれはよく言う、カウンセラーが自己検査が必要とかそういう話とは違うんですよ、私は自己検査なんかできないですから。
働く心の回復
だって私はカウンセラーじゃないんでね、私は趣味で本読んでるんですよ。で、これが何かの役に立つかどうかは、役にすごい立つなって思うから読んでるときと、ほぼ興味本位で読んでるときと両方ともあるんですよ。こういうことを行っているところが三ヶ月チャレンジなんですね。
で、それがこのフォトキャストのタイトルでもある、働くメンタルを取り戻すということとどう絡むのかというと、働くメンタルでも働く意欲でも働く心でもよくて、一番厳密に言うと働く心だと思わなくもないんですけど、要は、いわゆる神経症水準よりなお健常な人たちは働くメンタルは持ってるって思うんですよね。
それはあるはずだと。働くというのは金を稼ぐって意味ではないし、いわゆる働くって意味ではなくて、人が自分か他人の役に立つ動きをする、人間に動くで働くですから。これ日本語にしかない感じなんで。
中国では労働の労はただの動くなんで。要するに動くことが求められているときに動けるというのは、人の心が健常である限りは概ねデフォルトで備わっていると言いたいんですよ、私は単純に。
子供が親子関係が普通に良ければ、3、4歳の子にちょっとお皿取ってきてくれると言うとパッと取ってきてくれるんですよ。あれは疲れていれば別かもしれない、ぐったりしていれば別ですが、ぐったりしているときそんなこと親は普通頼みませんからね。
で、頼んでパッと持ってくる。あんなにパッと持ってくる必要は別にないんだけど、心の働きとしてあれが普通だと思うんですね。で、あれがもともとあったと思うんですよ。多くの健常な人の場合には。みんながってわけじゃなくても概ねデフォルトとしてってのはそういうことです。普通に機能している場合にはあったと思うんですね。取りに行くかどうかはまた別の問題ですよ。心としてはそうだってことです。
心としては普通に取りに行ける心になっていると。なってないとすると、私の考えではやっぱりどこかでそれはデフォルトではない障壁が他の人の心の中にある。これが取り除かれれば、心は取り戻される。働く心ね、という私は考えを持っていて。
で、そのデフォルトの心とはどういうふうに働くはずで、でもそれが差し障りが出るとき、つまりいわゆる精神病理ってやつですが、になってくると、どういう心の働きが、働きというか、特殊な障害が発生するのかというのを説明しているのが精神分析で、それの修正の仕方を説明しているのも精神分析で、精神分析以外でもしているという、
言われればしてるんですが、一番ここを徹底的に頑張ろうとしているのが精神分析で、それを知っていくことで、その人の心の正常なというのかな、デフォルトの機能は取り戻されていくであろうっていうのが僕の仮定なんですね。
仮説と言えばいいのかな。とりあえずそういう仮定を持っているということですね。
これに基づいて、当事者とデフォルトの心というのはどういうもので、今デフォルトになっていない要因としてはどういうことが考えられるのかを一生懸命考えていけば、取り戻されていくはずだと思っているってことなんですね、私は一応。
これが一応の説明です。でも本当にそう思ってやってるのかどうかというよりは、より感覚的に、よりやりたくてただ単にやってるっていうものに、ただそって動いてるに過ぎない気もするんですよ。
あとのことは、参加している人に聞いてくださいみたいなところがあって、参加している人は、私の1時間あたりの収益率はまた別に、お支払いいただいている方にとってそんなにかくやすってわけじゃないお値段だと思うんですね。
これを払い続けるということの中に、私が誘導とか洗脳とかを極力控えればですね、それは倫理ってことになってくるのかもしれないんですけど、私は倫理というよりも効果測定みたいな面もあると思うんですね。
そんなにお安くないお値段をお支払いいただくにあたってですね、何にも意味がなかったら難しくなると思うんですよ。
だから、その人がどのように定義するかというよりも、その人の行動としてどう現れるかに、こういう活動はある程度評価されるべきなのかなと。
だから極力やりたくないわけです。その誘導とか勧誘とか。これはですね、だから倫理的な理由も当然なきゃいけないんだけど、もう1つはやっぱり僕自身が効果測定を信じたいからなんですよ。
コンテナーとコンテインドの概念
ここで頑張って、一番極端な場合は、そういうことは僕にはできないけど、そういう知識がないから、洗脳っていう方向に頑張れば、よくこれは話題になりますよね、カウンセリングでも。
ある意味、権力勾配みたいなものがあるから、その気になればいくらでもできるんだって、私はあれは信じてないんですけど、そうかと思うんですよね。
私はそれよりは本家本元に近い、家が宗教の側にいたんで、宗教はもっとバリバリやりますからね、その気になればやりますからね、そんなに簡単に信者さん増やせませんよ。
それにすぐ来なくなりますよ、お寺なんかにはね。簡単じゃないんですよ、その洗脳っていうのは、論理的で言われているほど。
ある意味、坊主っていうのはそれの職業集団ですからね。たとえ心理学の知識が、心理学の知識も意外とあったりするんだけど、心理学の知識なんかなくたって、どうすればそういうことができるのかを知らないわけじゃないんですよ。
でも、それも倫理、それこそ倫理ですね、宗教だから。しないようにしてますって話もありますけど、でも結構普通の意味ではしてるんだけれども、
普通の意味で結構してても、結構人は振り向いてもくれないものなんですよ。だから、そんなにこれ言うほど簡単かなとは思うんだけど、それはわかりません。
わかりませんが、僕は効果測定的な意味で、実は何にも言わないっていうのが、でも何にも言わないっていうのは今時あり得ないから、一生懸命こうやって言ってるわけですけどね。
で、本題もあんま変わらないんですよ、いつも通り。この当事者グループとか当事者研究っていうのは、今私はあちらこちらの本をつまみ読みしているわけですけど、その中には当然AAもあるわけですが、
あと、いわゆる辞書グループ的なのもあるわけですが、そういうのを読んでいてもやっぱ思うんですけど、
言いっぱなし聞きっぱなしみたいなキーワードも昨日出たんですけどね、言いっぱなし聞きっぱなしってのは本当にまさに精神分析でやってる通りのような気もしなくはないわけですよ。
精神分析だって介入も解釈もするから言いっぱなし聞きっぱなしじゃないんですけど、でももう人によってはほとんど何にも言ってこないね、この人はっていうぐらいのところに、
クライアントはガーッとではなくてトツトツと喋る。トツトツと喋ることしかできないという場合にはトツトツと喋る。結構自由连想で好きなこと喋ってくださいって言われると何にも出てこなかったりします。
私の経験では。私のそれはパーソナリティの問題なのかもしれないけど、ボンボンボンボン出てくるっていうのもあれはあれだし、やっぱり難しい、難しくはないけど難しさはあるなってか、何言っているのかわかりませんが、
グループでやって、事情グループみたいなところで体験談をしゃべると。これもですね、別に私はそういうところに参加しなくたって家がそうだったわけですよ。本当に体験発表の嵐ですよ。体験発表しかしてないですね。寺なんてある意味では活動的な場合には。
本当にずっと体験発表聞いてる。そしてその体験発表を活字にして、体験発表を広報で配り、そしてまた新しく呼んできた人の体験を発表させると。これですよね。宗教活動とはこれだって感じ。
うちの親父は坊主ですから、そういうところで解釈介入なんてとんでもなくていなかったりすらしますからね。せめていろよって感じなんだけど、いるときもそれはあるんだけど、いたって聞いてるだけですし、本当にそうですよ。だから言いっぱなし聞きっぱなしなんですよ。拍手ぐらいはしますけど。まあそんなもんなんですよ。
なんでこれが効果あるんだろうっていうのと、どうして私は精神分析の勉強会みたいなことをして効果があると思ってるんだろうっていうのと、でも私は気がつくと、今や調子が悪くなるならないに関わらず、悪くなったときは言うまでもなく、気がつくと松木さんの本なりミニコットの本なりを読んでるんですよ。
要はこの効果をより確実にその人に発揮してもらうっていうのを実現するというのが三チャレなんですよ。以前はもっと不調だったときには、わからさまに調子が悪かった。つまりコロナの始まる後か前か、その辺ですよね、その頃。つまり僕がグッドヴァイブスに出会った頃ですよ、倉野慶三さんが。
今思ったらグッドヴァイブスってそもそもそれとよく似てたんですけれども、グッドヴァイブスも同じなんですよね。
一時は確かに倉野さんから直接集中的にお話聞くっていうのが、私が話するっていうのでもいいんだけど、あったんですよ、そういうフェーズが。でもこのフェーズっていうのは、後から振り返ってみるとそういうフェーズがいるよねっていうことなんですよね。
ある意味だからセッションとはそういうフェーズなのかもしれない。単純にそういうことなのかもしれません。それにしては精神分析って長いけど結局同じことかなっていう感じはするんですよ。なんか卒業っていう言い方をする人もいるかもしれないけど、卒業とか独り立ちっていうのはですね、話が形式的な話でしかやっぱりないような感じもするんですよね。
コンテナーというのは、やっぱりビオンが一番最終形式な近いところに持ってったと思うんですけど、ビオンはコンテナーとコンテインドをオスメスの記号で示すんですよ。コンテインドは男、コンテナーは女。ただし記号なんですよ。
あのあれですよ。丸に矢印みたいなのつけるじゃないですか。あの矢印はなんかある先生が教えてくれたところによると、槍とか森とか刺すやつ。だからあれに紐つけてなんか刺すやつあるじゃないですか。海でビューンってやって、あんなので刺さるとはとても多くには信じられないんだけど、狩人とかできるんでしょうね。だからそれは男の仕事だったっていう記号みたいなんですよ。
でも記号なんですよ。記号ってことはどういうことかというと、男を必ずしも意味していませんよね。記号なんで。記号なんてどっちでもいいわけじゃないですか。コンテインドは男記号、コンテイナーは女記号なんだけど、記号にしてるってところがまさにビオンなんですよね。ビオンはやっぱりそこのところは明快にしてるなって思うんですよ。
物理的だったり具体的な話じゃないよってことですよね。抱っこしてるお母さんじゃないよってことですよね。抱っこしてるお母さんはコンテイナーだけど、抱っこしてるお母さんって具体的なものじゃないですか。記号ってのは抽象的なものじゃないですか。この世に存在しませんよね。コンテイナーってのはそういう機能なんですね。
機能だけを言ってるんですよ。抱っこをするとか、女性であるとか、抱えるという具体的な行為を意味してないんですよ、究極的には。心の中でその機能が発揮されればいいわけですよ。機能ってそういうもんですよね。例えば私たちは、そうだな、心地いいですって言うけど、心地いいっていうのは具体的じゃないですよね。どんなに具体的に心地いい空間に至って心地悪いときはありますよね。
心地いいってすごく心身感を伴っての言葉ではありますが、気温25度、湿度50%、そこにいる人たちはみんなご機嫌。もちろん屋根もあり、食べたければ食べ物もあり、リゾートホテルみたいなのを思い浮かべればいい。
そこで最悪の気分になることはありますよね。夫婦喧嘩とかして。全然心地よくないですよね。心地いいというのは何か具体的な環境設定を意味しませんよね、究極的には。もちろん具体的に極めて悪い状態であるよりは、具体的に極めていい状態であったほうが心地いいはずですけれども、でもそんなことはわからないですよね。
私時々、大西洋で漂流70何日とか読むんだけれども、ああいう人にしてみれば、ついに陸地に上がったらその陸地の環境設定がどうであろうともう幸せいっぱいだったと思うんですよ。ついに陸地だ、みたいな。死なずに済んだって感じがすると思うんですよね。心地いいところではないと思うんですよ。
でもそれは環境が素晴らしいって言うわけでも、自分の体調が最高だってわけでもないですよね。自分の体調は死にかけてるような状態ですよね。でもハッピーじゃないですか。確実に。そのハッピーさは、タンタンと書いている本でも確実に伝わってくるハッピーさですよね。
雪山で遭難して1名取り留めたみたいなもんですよ。体痛症かもしれないし、環境最悪かもしれないけど、絶対そういうことには関係なく心は最高だと思うんですよね。コンテナに包まれているとは、そういう意味なんですよ。赤ちゃんが柔らかい布にくるまれているっていう意味ではないってことですよ。
だから環境なんですけれども、ある程度は。少なくとも環境は関係があるんだけれども、でもやっぱりそれは抽象的なものなんですよ、究極的には。記号で説明されるべきレベルにあるわけですよね。
で、ビオンは図としては、おっぱいを口に含んでいる。この口がコンテナーで、おっぱいはコンテインドなんです。でも赤ちゃんはコンテインドで、お母さんがコンテナーになっている。相互の立場が同時にあって、同時に交換可能で、同時に機能する。その時にコンテナーはメス記号、コンテインドはオス記号。だからおっぱいはオス記号なわけですよ。
だからこういうところに性別が必須ではないってことなんですよ。やっぱり記号なんですよ。記号なんですね。具体水準で働いているけれども、そのコンテインドなんて言葉ですからね。やっぱりそれ自体は抽象的なもの。抽象的だから言葉が通じるわけです。
体験と抽象の関係
抽象的じゃない体験は交換不可能なんですよ。どこまで行ってもですね。親に虐待されましたっていうのは、やっぱり交換可能な表現ですよ。この場合の虐待と言われている具体的な行動は、おそらく語り合っている人たち同士で、もし当事者だったとしても異なる体験のはずなんですね。異なる体験なんだけど、情報として交換ができるというのは、その中で抽象性がある部分だけをお互いがやり取りをする。
お互いがどんな目に遭ってきたのかの具体的な体験というものをお互いが想像することができるっていう話ですよ。でも決して同じ体験をしてきたっていう意味ではない。完全に体験だけの話をしていると交換できなくなる。交換できなくなるというのは、その水準が具体水準にあるという。
つまり物理的で一回性のもので、個別的なもので、その人ならではのもので、その人だけが体験してきたもので、ということですよね。これと抽象がべったりくっついちゃダメなんてことを、精神分析ではしょっちゅうしょっちゅうしょっちゅう言ってるわけですよ。
これは具体と象徴を混ぜないというか、それを分けられるようにしましょうと。それがつまり心というものですってことですよね。これができるようになることを目指せば働くことぐらいはできるだろうっていうのが、私が勝手に立てている仮説ですね。私が勝手に立てている仮説です。
このメールは悪魔が書いたようだみたいなのは、悪魔でもそれがアレゴリーに属している間はOKなんですよ。悪魔が書いたものであろうとなかろうと、その指示に従って返信することもできるわけです。本当に悪魔が書いたものだったら、そのメールの指示に従うってめちゃくちゃやばいことじゃないですか。まず絶対無理だと思うんですよね、正気では。そうしたら働けなくなりますよ。
既にそれは働くという行為ではないですよね。悪魔の手先になって何かをしでかすみたいなことになっちゃいますよね。だから自分が真っ当な人間だと思っている人が悪魔からのメールをもらったら、その指示には従えないんですよ。それが自分の直属の上司であり、従わないと路頭に迷うとしても従えないんですよ。こういうことが起こるから、働くというのが難しくなるんですよね。
中小水準で動かないと私たちは動けなくなるシーンがいっぱいあるはずなんですね。具体水準で動くと。具体水準で動くというのは不可能なんですよ、ほとんど。赤ちゃんは具体水準だけの時代があるけど、その時体が自分の自由にはならないようになっているというのは、何かとっても示唆的なものを感じますね。
ハイハイすらできないじゃないですか。完全に具体水準。つまり言葉を全く理解できない赤ちゃんの状態の時はハイハイすらできない。これが馬とかだと全然話違ってくるんで。生まれてすぐ立ってすぐ走り出すってことができるらしいんで。だけど馬は言葉を代わりに回する必要がないわけですよ、一切。
ひたすら具体水準で動くことができるという。だから馬は人が勝手にそれを働きとみますけど、基本的には労働っていうのは馬にはできないはずなんですよね。させてますけどね、人間は。本来的じゃないですよね、あれはね。
で、当事者グループといったものがどうして役に立つんだろうというのと合わせて、サンチャレがもし役に立つならどうして役に立つんだろうっていうことをここを発揮だから、
8324、2年後、私はずっと考えているようなことになるわけですが、それを考えようといたしますと、タスクシュートのことが思い出されるわけですね。私はタスクシュートがどうして役に立つのかもなかなか究極的には説明しきれない。
だからさっきも言いましたが、究極的にはなかなか説明できないことが、そもそも世の中の物事はみんなそうなのかもしれないとは思いますね。で、タスクシュートやっていて、最近はタスクシュートクラウド2でいきなりタスクシュートの話かよって思われるかもしれませんが、いきなりこうなるのがこのポッドキャストなんで。
2で私はノート機能をずっと使っていて、今ほとんどタスクシュートクラウド2はノートアプリと化したんですね、私にとっては。つまりエバーノートは、エバーノートの解約はまだしてないんだけど、エバーノートはほとんどウェブクリッパーと化したんですよ。
それはなんかね、最初言ったときそれに有料はどうかと思ったんだけど、私は今それに有料は全然問題ないなって思うようになったんですよね。これほど優れたウェブクリッパーはねえと思うようになったんで。ただ、タスクシュートクラウド2はウェブクリッパーにはならないし、する気もないんで、ノートアプリなんですよ。
これをノートアプリとして使っているうちに、一体私はタスクシュートやってんだろうかというと、紛れもなくめちゃくちゃやっているわけですよ。前よりも多分固めにはやってみえると思うんですね。何やってんだろうなってのは、この番組では時々言いますけれどもね、本当に私は何やってんだかわかんないです。
今や見積もり時間のシミュレーションを正確にするなどというのを全く私にとってはやってはいますよ、形式的に。でも、やってもやらなくてもどっちでも全く変わらないと思うんですね。
あとはなんだろうな、ルーチンといわゆるプラン、ログ、ルーチンってやつね。プランもあるにはありますね。ログはもろんあります。ルーチンもいっぱいある。ルーチンしかないに等しいぐらいルーチンばっかりだと。
このルーチンノートというのを作れるってところが素晴らしいんですけれども、具体的な話をするとタスクシュートと関係ない話になっちゃうんですよね。一つだけ具体的な話しますね。ルーチンノートっていうのは、例えば100日チャレンジって次回10機なんですよ。
めでたくというのかな。新しく10機なんでリニューアル今一生懸命してるんですけど、10機ってのはプロジェクトにするとめんどくさいんですよ。100日チャレンジ1機ってプロジェクト作っちゃうと10機って作って、20機になるとプロジェクトが20個になって、しかも使ってるのは20機のやつだけとか、せいぜいかぶってるのがあっても19と20だけとか、今までの1から18のプロジェクトは全部積み重なってきて目障りなだけか、それとも消すかしなきゃならない。
ということが起こるわけですね。そういうことが起こるわけですよ。プロジェクトって単に作っちゃうと。だからルーチンっていうのが良くて、100日チャレンジ10機っていうルーチンタスクを1個作って、しかもそのルーチンノートってものを使うと、説明ややこしいな。
ここのタスクのノートというものではなく、ルーチンノートに追記していくことができるわけ。これはプロジェクトノートにしても同じことができるし、実はタグノートっていうのも作れて、タグに追記していくこともできるんですよ。
だから3ヶ月チャレンジの特定の人の人名をタグにしておいて、そのタグのノートっていうものに追記していくと、その人に関する病院でいうところのカルテみたいなものを作ろうと思えば作れるんですね。私はカルテは作んないぞっていう意識を持ってるから作りませんけれども、作ろうと思えば作れるんですよ。
これは各タスクにノートを入れるのとは違うし、それだったらエヴァノートに人名入れてカルテにすればいいじゃんっていう人もいらっしゃると思うんですけど、マメな人ならそれできるでしょうね。でも私はマメじゃないんで、その人に会うたびにその人のノートをエヴァノートから呼び出してくるなどというマメなことはできないんですよ、私はめんどくさがりなんで。
ああいうのを看護師さんにやってもらってる先生はいいですよね。私は自分でやらなきゃならないとなるととてもじゃないけどそんなことをやる気はしない。そこまで役に立たないんで。いわゆる医療現場とはこれは違うんで、そこまで役には立たないんで。
でもですね、タスクシュートでその人と話したりミーティングするときには必ずその人の人名タグを入れておくってことをやると、このノートを一発で呼び出せるんで非常に楽なんですよ。
これはタスクシュートと何か関係あるかというと関係あるんだけど、どういう関係があるんだろうっていうか、これで何やってるんだろう自分はって思うとよくわからなくなってくるんですよ。
よくわからなくなってくるんだけれども、さっきのいわゆる精神分析の勉強をしているときと基本的には同じで、つまり私が自分のアクションなり仕事なりタイムを時間をマネジメントしているという状態を維持するってことが、
カスタマイズの重要性
維持するってことはですね、私のある事故部分、俗に良い事故とか言うんですけど、良いおっぱいと良い事故が、これも学説によって割れるんだけど、今の精神分析的に説明してるんですね。
良いおっぱいと良い事故をセットであるみたいな、結びついている、少なくとも。赤ちゃんは良いおっぱいを満たしているとニコニコしてるじゃないですか。機嫌がいいって意味なんですよ、ある程度。良いってのは善悪の良いではないんだよね。良いおっぱいと良い事故が結びついているという言い方をする。
仕事がうまくいっている時の状況と、仕事をうまくいっている良い自分とは結びついているわけですよ。これを繰り返し呼び出せるようになる。これだけでも相当意味があるんだけど、もっと意味があるのはですね、仕事がうまくいかないんではないかと思いかけた時、これはいわゆる欲図不安なんですけど、タスクシュートで良い事故とのリンクを思い出すだけで、この欲図不安を黙らせることができるんだと思うんですよね。
私が朝起きて、歯を磨いた後にタスクシュートを見るってことが最近多いんですけど、これを見ると何が起きるんだろうってよく思うんですけど、一発で不安が吹っ飛ぶ感じがあるんですよ。本当に一発で吹っ飛ぶって感じがあるんですよ。これをパッと無算しちゃうんですよね。
無算するというのは当たり前で、やりようによってはなんだけど、不安というのは実態があるわけじゃないんで、無算するんですよ。物だったら砕け散るのが生成で無算はできないじゃないですか。
でも感情というのは結局のところは神経の働きでしかないから、非常に微弱な電流なんで無算させられるんですよ。ある状態を取れば。それが精神分析では視座とかって言うんですけど、ビューポイントですよね。視点が変わるっていう。
これだけのことをやればとりあえず今日はなんとかなるみたいな、ミニマムでもそれだけのことをタスクシュートって表現できるんだけど、ミニマムでこれだけのことをやっておけば大丈夫だっていうようなね、本当はもっとあるんですけどね。
とりあえずでもそれを見るとパッと無算する。ただですね、これを聞くとそんなに素晴らしいんだと思ってタスクシュートやって全然不安飛ばないんだけどっていうことになるじゃないですか。人によってはきっとなると思うんですね。
僕が言いたいのは個別にカスタマイズされることの重要性というのは、これもまた精神分析的に僕しゃべっちゃってるんですけども、カスタマイズというのはパーソナルなものにするって意味なんですよ。
ここでいきなり精神分析に戻るんですよ。あのですね、虚勢不安ってあるじゃないですか。おちんちん切られる不安ってやつね。この不安は何なのかと。
私はこれが非常にダメなんですよね。すぐおちんちん切られる不安になっちゃうわけですよ。
今このように言うような身体的な恐怖感を持ったことは記憶している限りありません。一回もないです。
でも私がいかに強い虚勢不安を持っているかはよく知ってます。野球部とかに入るとわかるんですよね。
なんかこうね、怖そうな性格のちょっと陰謙そうなというかきつそうな先輩っているわけですよ。
そんなところになんでモサッと座ってるんだみたいなよくわかんないことを言い出すわけです。
これがエディフスです。虚勢ですよ。勢いをそがれるわけ。黙って座っててもいいじゃんって言えないわけですよ。
エディプスコンプレックスの分析
口応えできないみたいな。口は口心ですけどね。口に唇。私たちが原初的に一番最初に使ったものの器官の一つ、それが口ですよ。
赤ちゃんって出てきてすぐ泣くじゃないですか。誰に教わることもなく泣く。みんな泣く。泣くことはできる。
口すら使えない。口応えすらできないという状態は、いかにそれがエディフス的に何かを封じ込められているか。
そこに強い権力勾配が働いていると。これが後進的なサディズムってやつですよね。
なんとかして口だけは自分の自由にしたいと。それを封じ込められるという辛さがそこにあるわけですよ。
先輩には口応えすらできないわけ。私はこういうふうに男性の上下関係をものすごくネガティブなものに捉えやすいんですね。
私は多分父親コンプレックスがあったんでしょう。大した父親だと思わないんだけど、あるんでしょうね、やっぱりね。
そういうところに入ってないんですよ、私は。非常にそういうところが嫌いなんですね。苦手なんですね。
もう今はどういうことが起きているかが十分自分でこうやって説明できるんで。
たとえ少々苦手意識があろうとですね、あんまり気にならないんですけれども、はいはい言うこともできるし、頭から無視することもできるし、
たぶん殴られても凹まないなって感じがするんですけど、そうなるのに40年以上かかってるんですよ。
だからこういう問題で一番悩むのは10代じゃないですか、はっきり言って男の子的にはね。
だからその頃にはまだ全然何が起きてるのかさっぱり分かってなかったんで、
そもそも先輩と父親をかぶせてるっていうことすら気づいてなかったんで、
もう本当に先輩嫌だわーみたいに思ってる、ただそれだけだったんですよ。
だから私はそういう意味でこの男性社会のヒエラルキーのきついところにはまあ入っていかないわけですよね。
会社には入らないし、ちょっと先輩ずらされるとその人と縁を切ってしまうわけです。
だから私が男性で人間関係で縁切らなかった人っていうのは非常に私にとっては特殊ケースなんですね。
女性だったら頭もなしに言われても全然気にならない。
これがものすごくジェンダー的にいろんな問題を僕が抱えていると思うんですけれども、
あのー、なんていうのかな、やっぱエディプスコンプレックスっていうのが一番正しいと思うんですね。
で、これが肉体水準で働くのが巨政府。
だからおちんちん切られますみたいな。
本当に肉体水準で働いちゃうとそういうことが起きますと。
めちゃくちゃこれを記号化して言うともうビオンみたいになるわけですよ。
オス記号でことを済ませるみたいなね。
あのもうなんとかマイナスKとかなんとかそういうことをHとLとマイナスKみたいなことをやって、
全部記号でこれを表現してしまうわけですね。
そういうことはどこにでもあるよね。そこら中で起きてるよね。
男女関係ないよね。
星も関係ないよね。
本当は家族じゃなくても起きるよね。
一気にこれを話を広げられるわけ。
それも記号で交換できてしまうわけですよ。
そしてこれを記号で説明できるようになればですね、
まあそりゃあちょっとね、フットサルに行っておっさんにエバられたとか、全然気にならなくなりますよね。
自分で自分で、自分で中小水準をどんどん高めて、
この時心ではこういう力度が働いてて、こういうことが起きていて、
この人は悪いお父さんのこの部分と似ているから、
こういうふうに私は思ってって考えられている段階で、
もはやその恐怖感というものは、
多分私が最初に少年野球で感じた感覚の恐怖感に比べると、
1万分の1にも満たないと思うんですね。
これが中小化することの意味だし、
皆さんがよく言語化と言っているやつの正体だと思うんですよね。
逆に働くとベータ要素に向かっていく。
これもビオンの作り出した記号ですよね。
コンテイナーが引きしきれないっていう言い方になると思うんですよ。
コンテイナーっていうのは母親機能。
こういう状況、どういうことが起きているのかを説明してくれて、
大丈夫だと受け合ってくれて、
っていうのが機能しているかしていないかっていうこと。
一番最初にそれを教えてくれたのが、実の母親だったケースは多いってことです。
おっぱい欲しいんだねって言っておっぱいをくれる。
受け合ってくれてる、大丈夫だということを言ってくれている。
私に何が起きているのかの説明もしてくれている。
世界の構造がどうであるかということを身をもって教えてくれているっていう、
そういう機能なんですよ。
ここをやってくれない、つまりその時叩いたとか虐待したとか、
暴言言ったっていうのは重要なようで重要ですが重要でない部分もあるわけです。
大事なのは果たしてないってことなんですよ。
この場合何もしないっていうのも同じぐらい心の傷になってしまうのは、
それが果たされないと赤ちゃんは自分の中でコンテナーという機能を持ってるんだけど、
起動させることができないので、
それが一番問題だというように分析の世界では考えているわけですね。
タスクシュートの話からここに来たんですよ。
私はさっきの記憶をたどってみると。
タスクシュートでやってるっていうのは、
つまり私にとってこのタイムマネジメント、アクションマネジメント、いろんなマネジメント、
箱屋が原初においてしてくれたんですよ。
今は昼だからあなたはお腹が空いている。
今は夜だからあなたはねんねしなければいけない。
タイムマネジメントであり、アクションのマネジメントであり、
そして状況の説明であり、具体的な水準を中小水準に上げている言葉を使ってますからね。
そして世界というものを自分の体を使って体現して、
私という存在がどういう状態にあり、何を必要としていて、
何がなされればいいおっぱいといい自分自身、いいしょうごくんの関係になるかということを実演されているわけですね。
これとタスクシュートは実は同じことをやっていると。
だから私は、いわゆる原始的であれ、女性不安であれ、飛ぶわけですよ。
無産させることができてしまう。こういうことかなと。
このようなことがですね、2019年ぐらいに多分、倉園圭三さんと私の間でも起きたわけですよ。
私はその自分自身では欲打つ不安を無産させることがタスクシュートを使ってもできなくなったわけです。
今起きていることが学校の準備だったり娘のね、送っていくってことだったらわかるんだけれども、
例えば妻との間に起きていることはもう全然わからなくなりかけていたわけ。
LとHが圧倒的に優勢で、主に愛と憎しみの世界になっていて、Kが機能してくれない。
何が起きているのかの説明、Kはノーイングで知りつつあるってことですが、知りつつあれないわけですよ。
そこにすぐマイナスK、僕の場合はノーKですね。
頭を働かせても無駄な感じがするっていう、ただただ怒られているとか、ただただみじめな感じがするとか、すごく原始的になってしまっているわけです。
だから何でもやってくれたお母さんが不意にいなくなり、僕がまとわりついてもうるさい、邪魔だ、向こう行けみたいな感じになってしまって、
つまりシンデレラの世界ですよ。お母さんはいなくなり、ママ母がやってきましたみたいな。
実望のままのはずなんだけどね。でも育児に疲れてたりするっていうことが起こるわけじゃないですか。
そしてここにひたすら憎しみとか屈辱感みたいなものが優勢になって、Kが全然働かなくなってしまう。
そこに一生懸命タスクシュートでK働かせてるんだと、そこに書いてあるのは私のタイムマネジメントであり、
私のアクションコントロールであって、妻との関係とか職業上の関係とか、関係についてそこに述べられてはいなかったわけです。
私の当時のタスクシュートにおいては。今私は関係のことだけをタスクに書くようにしていて、
自分のタイムマネジメントとか自分のアクションコントロールについては一切書いてないんですね、あそこに。
タスクシュートと自己マネジメント
あそこに書いてあるのはもっぱらこの人と私の関係、妻と私の関係、娘と私の関係、
でもこれ書いてあるか書いていないかは大して重要なことじゃないんですよ。
ここら辺で倉園さんのGood Vibesみたいなものが非常に集中的に浴びることの意味があったわけですね。
ひたすら一つ意識だと。一つなんだ、もともと一つだったじゃんと。
そこに意識をものすごく振り分けるようにすると、もともと関係は一つだったんだから、
関係がこじれて悩むっていう理由はないはずなんだっていうような話ですよね。
これは今こうやって聞いても納得されることがおそらくないように、
やっぱりこれは集中効果みたいなもの、シャワーみたいなもの、そういう実感を持ってやってもらうしかないんですね。
たまちゃんが最初そうだったようにですね、いくらコンテナに包まれてるなんて言われても、
現実に包まれた体験が全くない場合、すごく難しいですよ。
すごく難しくてもできるっていう考え方を持ってカウンセリングはやってるわけですよね。
あそこに行けば、どんな自分を投げ出しても基本的には解釈はしてくれる。
包んでくれる。相手が真っ当な人であれば解釈はしてくれる。
必要とあれば介入までしてくれる。世話はしてくれないかもしれないけど。
で、それをやっていればあなたは自分で自分のコンテナを起動させることができるはずだと。
当事者の会ってのはそういうことですよね。言いっぱなし聞きっぱなしかもしれないけど、
何らかの形でそこに参加してる人は当事者たちを支えてる。
だって当事者の会なんで、当事者が2人以上いなければ会が成り立たないじゃないですか。
グッドワイブスの意義
だから、ただ当事者であるというだけ、アルコール依存から抜けられないというだけであったとしても支えることができるっていう、
そういうところが実はいかにもグッドワイブス的なんですよ。
グッドワイブスっていうあるがままのあなたで、全ての役割を果たしきっているんだって言い切る。
あれはですね、面白いことに昔カモメのジョナサンっていうのを書いたリチャードバックが、
イリュージョンという本。これはイリュージョンというタイトルなんですけど、
フラゾンさんが最初の頃よくおっしゃってたイリュージョンね。
書いてるんですよ。
イリュージョンという本の中に、既に役割は果たしましたと言えっていう言葉があるんですよね。
ちょっと救世主の言葉みたいになってるんで、キリストがイメージされてますけど、アメリカの本なんで。
既に役割は全て果たしました。全て自分の義務は全て果たしましたと、
いつでもあなたはすぐに言えっていう、そういう格言がある。
格言なのかな。非常に格言的なんですけどね。
これは非常に私はですね、言ってることが近いなんてよく思ったもんなんですけれども、
本当にこの感覚、これをですね、なんていうのかな。
本を読むことの難しさっていうのは、本にクラソノさんはこの通りのことを書いてるんですけれども、
私はクラソノさんと相対してそれを言った時、やっぱり彼がですね、
計画ではなかったかもしれませんけど、
佐々木さんがここに来て話を聞くということによって、
当事者の関係と支え合い
それが悩みの相談であれ、困っていることをただ喋っているだけであっても、
そういう人がいなければ、自分がここでGood Vibesの話なりなんなりするってことに、
意味は発生一切しないだろうってそういうような、
これも一種の例え話なんですけど、
この話っていうのは完全にコンテナとコンテインドの話でもありますよね。
当事者の関係の話でもありますよね。
あなたはただ病気であればいいんだ。
そうすればもう自分を支えてくれているっていう意味になるはずだっていう。
で、そうでないような活動はこの世にないはずだっていう話なんですよ。
ただこれは話を聞くより、話を聞くってことと同時に、
その体験をその時にしているってことが大事なんですよね。
だから多分オンラインより対面であるってことに意味が出てくるんだと思う。
そこを精神分析の人は結構強調しますけど、
おそらくそういうことなんだと。
赤ちゃんはおっぱいを吸うことでコンテナになれる。
そういう意味ですよね、完全に。
吸ってるだけじゃんという、助けられてるだけじゃんっていうかもしれないけど、
助けたいという気持ちが果たされませんよね。
赤ちゃんのお腹を満たしたいとお母さんは思うわけじゃないですか。
おっぱいを出しただけで吸わなければ、その果たしたいという気持ちが果たされないですよね。
コンテナというものは無力であるとか有力であるということと実は関係ないんだと。
お母さんの方に力があり、お母さんが受入しているんだっていうだけでは十分じゃないですよね。
受入する能力があるだけでは受入ってできないですよね。
吸う人がいない。空腹でそれを求める人っていうのが、
しかもどっちかというと無力の人がいないと有力な人の意味ってなさないですよね。
だからリオンが記号化したんですよ。
そこは交換可能ですっていう意味で、どんな時でもいつでも交換可能ですっていう意味で記号化したんですよ。
すべてが具体的なものであり、赤ちゃんはいつまでも永遠に赤ちゃんで、
お母さんは永遠にお母さんだっていうことであったとしたらですね、交換が不可能になってしまうじゃないですか。
で、赤ちゃんはいずれお母さんにもなると。うちには娘がいますからね。
こういうことがそこら中で常々ほとんど同時多発的に、この言葉あんまりいい言葉じゃないけど、
同時多発的に起きるんですよ。
当事者がありさえすればいいわけです。
私アトピーノっていうのを一回言ったことがあるんですけど、あそこにアトピーじゃない人がいても意味なさないじゃないですか。
アトピーじゃないと当事者の会にはならないわけで、つまり当事者の支える一端を担うってことはできないわけで、
それは無力であったり病気であったりするからできることなんですよっていう話なんだと思う。
タスクシュートの意義
これを敷衍してるんだと思うんですね。
タスクシュートも結局同じです。
少なくとも何かで困ってなかったらああいうものはやらないと思うんですね。
全く少しも全然仕事をする必要も本当はなくて、仕事はやろうと思えばいつでもバリバリやれて困ることは全然なくて、
先送りも一つもせずにっていう人がタスクシュートを使う理由って何もないじゃないですか。
だから使うってことはそういうことなんですよね、やっぱりね。
使うってことは支えられるって意味であり、
ユーザーがいないとタスクシュートって意味が全くないじゃないですか。
ユーザーゼロだったらこの世に存在してないのと同じことですよ。
この助けられる側と助ける側が交換可能である、いつでも交換可能であるっていう観点が提示されるっていうことがおそらく大事なんじゃないかなと。
当事者の回っていうのはまさにそれを提示し続ける回ですし、
カウンセリングというのは最もそれが提示しにくいように見えて、実はすっごいそれが提示され続けるものだと思うんですね。
あれって患者さんは好き放題やってるように見えますよね。
行って何の話をしてもいい。何ならカウンセラーを罵倒しまくってもいいわけですよ。
殴るとかダメですけどね。でも殴るっていう話まで出てきちゃうわけですよ。
実際には殴られたみたいな話も本に書かれてたりするわけですよ。
とにかく何してもいいように見える。でもお金は行かなくたって払わなきゃならないですよ。
で、時間は1秒もずらすなみたいなノリが、少なくとも1分もずれちゃダメってことになってるんですよ。
で、変えることもできない。場所も変えられない。つまり全部、全部ですよね。精神分析科が決めるんですよ。
ただ一旦その場に入ってしまえば、ひたすらひたすら何をしても基本的には支えてもらえる。
これがコンテナーとコンテイントの違いなんですよ。
あからさまにですよね。あからさまに、ものすごく不自然な形で精神分析科がクライアントを支えまくって、
でも精神分析というその全体はクライアントが支えてるんですよ。
言ってみれば、分析科はわがまま言いたい放題ですよ。金額折れして、時間折れして、場所折れして、少しの事情も許さない。
あらゆる事情はクライアントが責任を持たなきゃならないっていう場じゃないですか、あれは。
あれすごい話ですよね。あの設定そのものは契約にって支えられるってことになるんだけど、
基本的にはクライアントが一方的に支えているわけです。
だからそこには自作自演感がありますよね。
したがって一時ナルシズム感がありますよね。
つまりそれは赤ちゃんと母親の関係に非常に酷似している。
でもおっぱい飲ませるわけじゃ当たり前ですけどないし、そもそもハグさえしてくんない。
そこは水準が完全に具体水準ではないっていうわけですよね。
思うに今思えばですけど、クラウド経造さんのGood Vibesも具体水準。
話してるんだから具体水準なんだけど、でも非常に抽象的なものだったと思うんですよ。
フレールってことはありえないわけですね。
タスクシュートなんて思いっきりしそうじゃないですか。
基本的に記号と文字だけの世界ですよね。
そしてウェブブラウザーで動く。
めちゃくちゃデジタライズな世界。全然具体的じゃないですよ。
行動は全部具体的ですけれども、何ら具体的な行動を起こさなくたってあれを使うってことはできるわけ。
この何点ですかね。
私たちは交換可能でパーソナルなものであるにもかかわらず、情報交換ができる。
つまり抽象度の高い、記号化されたものを操れるようにならないとならないような気がします。
本当におちんちん切られるとか、本当にお父さんのように頭こなしに怒られて口応えも一切許されないみたいな、
全然パーソナルじゃない世界ってやっぱり機能しないじゃないですか。
部活ってしばしばそうなっちゃいますけれども、お父さん的長時間はめちゃくちゃ一方的に怒ったり怒鳴ったりして、
なんかケツをバットで叩いたりする。
これは非常にファルスを連想させますけれども、つまりペニスで殴ってるわけですけれども、
そういう全然パーソナルなものにできない世界っていうのは非常に扱いにくいものになっていくと思うんですよ。
私個人のものではない、その先輩個人のものではない。
完全にもう超自我に、圧倒的に超自我的で、人に多分習ったまんまをやるわけですよね。
ケツ出せ!みたいなね。それは人に習ったまんまでしょ。
全然その人らしさとかその人の個性ってものが現れない世界なんですよ。
すっごいある種の人はそういうものを恐れたり嫌悪したり、まあ嫌悪するのは当然かもしれませんけど、嫌悪したりしますけど、
それは実は本当は非常に恐ろしいっていうようなものとはちょっと違うと今なら思えるんですよ。
あまりにもそれは抽象的なものを具体的に扱いすぎていて、
実は全然扱えていない時にこそ起きる現象なんですよ。
昔、豊臣秀吉さんが自分のペニスというかファルスの象徴だという古典ラジオさんがそういうことを言ってたんですよね。
大阪城みたいなものを建てるわけですよ。建てるって言うじゃないですか。
ビルとかも同じですよね。
そういうハードなものをガーンと建てるっていうことによって自分を示すっていうのはものすごく象徴的なものが具体化されていて、
全然パーソナルなものがそこに出てこないですよね。
だから一見したところそれはすごい達成なような気もするんだけど、全然個性的なわけじゃないじゃないですか。
世界中にそういうものは大昔のバベルの塔から始まって隣立してますよね。
それこそ隣立って言うけどね。
全然そこにその人らしさとか特別なその個性的工夫とかはなくても別にいいような感じになっちゃうんですよ。
天に向かって立てていくみたいな感じになっちゃうわけですよ。
誰でもすぐに考えつく。もしかしたら五載寺とかでも考えつく。
藤山直樹さんが書いてたんですけどね。
そういう五載寺がすごくエバったようなのは見ているだけでも微笑ましくてすごくいい感じがするなと。
五載寺ならそうなんですよね。
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